『光でもなく』

第二章1

獣は震えていた。
硬い爪と鋭い牙は獲物を切り裂くためでなく己が身を守るために。
彼方まで見渡す目とわずかな音も聞き逃さない耳、ひどく敏感な鼻は、敵を察知するために。
巨大な体を闇に隠し、己以外のすべてを警戒しながら、自身が何であるかさえ知らず。
ただ異端であることだけを知る。
獣は怯えていた。
己以外のすべてと、己自身に。


そこにはいつも嘆きがあった。


黒い枝々が白い霧の中で影のように揺らめいていた。
風はないが、ひんやりとした空気が皮膚をなぞる。
ライラはぬかるんだ土に足跡をつけながら前へ前へと進んでいた。
錆びた剣を振り回し、枝を払えば、わずかに開けた視界をすぐにまた霧が埋め尽くす。
その一瞬の間に鈍い光を見た。
足場を確かめながら近づいていくと、血塗られた鎧をまとった兵士が泥に葬られていた。
ライラは目を細くした。
先刻空が揺れたことから、戦があったことはわかっている。新しい死体を探しに来たのだから、死体が落ちているのは当然だ。
しかし……
亡骸のそばに跪き、胸当ての部分に人差し指を滑らせる。
細い線が白く輝く。
「……エイフィールド兵が結界を越えようとするなんて珍しい……。それとも深追いしすぎたのか……」
まさか、エイフィールドからバルドンに攻め込んだというわけではあるまい。
眉と眉を引き寄せ、しばらく考えてから、ふっと冷めた目になった。
自分には関係ないことだ。
気を取り直して剣を探す。
そろそろ新しいものがほしいと思っていたところだった。
しかし兵士は丸腰で、辺りを見回しても何も落ちていない。
剣は他をあたることにして、とりあえず鎧を頂戴することにした。
まず、兜をずらす。
ライラはまぶたに拳をこすりつけた。
白い兜にぱっくりと入った切り込みからは黒い髪がのぞいている。
「……白い鎧を奪うだなんて……肝の座ったバルドン人もいたもんだね……」
驚きと関心を吐き出しながら顔を拝んだ。
流れ落ちる黒い髪。白い肌。赤い唇。人形のようなまつげに、細筆で描いたような眉。
ライラはとうとう声をなくした。
重い鎧を引きはがし、死体の胸に手のひらを置く。
確かなふくらみ。
――その向こうの、かすかな鼓動。
ライラはうさぎのように跳ねて両手に剣を握りしめた。そろそろと近づき、切っ先を左の胸に押し当てる。
何も反応がない。
わずかにめりこませてみても、うめき声さえ上がらない。
彫刻のような静寂が横たわっている。
ライラは目を眇めた。
血と泥にまみれ、死のすぐそばにいるくせに、輝くような美しさを放つ女。
左の一つしか残っていない眼球にその光はひどくまぶしかった。
眼帯の上から右目を押さえる。
醜い火傷の痕は額の左側から右の頬骨にかけて今も鮮やかな烙印を残している。
ただれた皮膚に立てそうになった爪を、そっと握りこんだ。
ふとよぎった寒気に背筋が震えた。
霧が深くなってきている。
ライラは剣を収め、目の前の奇妙な死にぞこないを一瞥した。
この美しい女は生き延びるのか、殺されるのか。それとも、死ぬのか。
見届けられないことが少し残念だった。


しとしとしとしと。

優しくて温かい音がする。

しとしとしとしと。

包み込み、慰めるような音。

頬は冷たく、体は重かったが、心がじんわりと溶けていく。
このまま動かずにいれば、土にも混ざれるような。
穏やかな空気が全身をなでる。
しかし徐々に明確になる意識は逃れようのない記憶でもって安らぎを切り刻んだ。
熱い血しぶき。転がる肉塊。打ち消し合う断末魔。止むことのない剣の音。血と肉とを大地に塗り込めるかのような戦い。
そこから逃げ出してきた自分。
誰の顔も見なかったのに、思い浮かぶすべての人間が自分を責める。
「……こんなのは卑怯だ。私を責めているのは私……至らないのも私……すべて、私だ……」
カオスはうっすらと目を開いた。
眼球が熱い。
熱を押し込めるようにまぶたを閉じ、また開く。
霧の中で木々が揺れる。
黒い土はぬかるんでいて、沼のように体を捕らえた。
覚えのない景色に、ようやく結界のひずみに飛び込んだことを思い出す。
鎧と兜が消えていることにも気がついて、片肘をついて上半身を起こした。
視線を横にずらせば、前方に小さな黒い固まりがある。
兜ではない。一回り小さい……
人間の頭蓋骨だ。
とうに肉は落ちていて、代わりに泥を被っている。
カオスはとっさに腰に手をやった。
五本の指は、宙をつかんだ。
白銀の剣がない。
どこへ消えたのか。懸命に記憶をたどろうとするが、気力が続かない。
考えてみれば何ら不思議なことではないのだ。
白銀の剣は必ずしも銀騎士の持ち物ではないが、剣に選ばれた者の多くが銀騎士であったこともまた事実。
主を銀騎士たる資格なしと判断し、剣がその意志でもって姿を消したのだろう。
「見放された……か」
――あの場で黒髪を暴かれるわけにはいかなかった。
むざむざと混乱を招くわけにはいかなかった。
仕方がなかった……と、そう言えるのか。あの状況下での最善を尽くせたと言えるか。
『銀騎士』の名から逃げなかったと、立ち向かったと、心底からそう言うことができるのか。
できるはずもない。
何も貫けなかった。
英雄を呼ぶ声に応えなかった。
ジェスとの戦いを放棄した。
見捨てないと言ったヒューバートを見捨てた。
ソルティアに感じた悔恨さえ最後には放り出した。
「……見放されて当然だ。……こんな私に、『銀騎士』の称号など、……」
頭を垂れれば肩から黒髪が滑り落ちる。
残ったのはそれだけかと言えば、そうでもなかった。
剣もなく、鎧もなく、兜もなく、……呼ぶ声もない。
それでも『銀騎士』の名は胸に重くのしかかっていた。
ふがいなくて。
ここがどこなのかもわからない。
少しでも早く現状把握に努めるべきだとわかっているのに、このまま泥に埋もれてしまいたい。
自分がふがいなくて。
「私は私だと……ヴォルト、これでもか。これでもおまえは私を愛するのか」
カオスは大地に拳を叩きつけた。
「私は……嫌いだ。そんなおまえは。こんな自分も」
柔らかな大地は衝撃を飲み下し、痛みも汚辱も返すことなく、カオスはうめいて全身を投げ出した。

しとしとしとしと。
しとしとしとしと。

意識が白濁していたときは心地良く感じられた音が、今となっては鬱陶しい。
雨も降っていないのにどこから聞こえてくるのか。
無視したとて音は止まない。
露の降りる音だろうか。小川のできる音だろうか。
そんなところだろうと思ったが、カオスは立ち上がった。
背中も髪も泥にまみれて気持ちが悪い。服はすっかり水を含んでいて、体は悪い鉛のようだ。
それでも立ち上がってしまえば歩かずにはいられない。
自分はなんて弱い生き物だろうとカオスは思う。
足だけが先を目指して進んでいく。気がつけば音は遠くなっていたが、振り返りも、立ち止まりもしなかった。
ぼうっと映る視界には雪などひとかけらもない。
ここはエイフィールドではない。しかし、バルドンでもない。
霧は辺り一面を覆っている。
カオスはひたすらに前へと進みながら、歩けば歩くほど落ち着かなくなっていった。
腰に当然あるべき重みがない。
四六時中携えていたわけではない。奪われたこともあった。剣を持たない場合の戦い方も心得ている。
だが今回は、二度と戻ってはこないのだ。
見放されたというのはそういうことだ。
錨を失った船のように、ただ、進む。
しばらくするとバルドンの兵士に遭遇した。
といっても、すでに息絶え、肉塊として泥に沈んでいる。傷だらけの様子から察するに、瀕死の状態で結界をくぐり、ここまできて事切れたのだろう。
カオスはそばに落ちていた剣を拾って土に突き立てた。抉っても、抉っても、泥は勝手に隙間を埋めていく。数回繰り返したところで素手で掻き出し始めた。
墓には向かない土だったが、どこもかしこも似たようなものだった。
ようやく頭が埋まる程度の穴を空けると、底に溜まった泥水の奥で、奇妙な感触に出くわした。
硬いが、尖ってはいない。よく研磨された石のような……。
手のひらで包んで思い当たる。
人の骨だ。
「墓……ではないだろうな。……徐々に沈んでいったか……」
つぶやいて逡巡する。しかし結局穴を広げていった。
ようやく掘り終えた穴は、かろうじて大人一人分の大きさはあるものの、埋めた遺体の鼻が突き出てしまうほど浅いものだった。
カオスは懸命に土を運んだ。
「このような場所で眠りたくなどないかもしれないが……すまない」
盛り土に剣を刺し、黙祷を捧げる。
息をついた拍子に、疲労がどっと押し寄せた。
カオスは地面に片手をついて、すぐさま立ち上がった。
おびただしい足音。
獣の気配がする。
「……重ね重ねすまないが、……貸していただく」
一礼してから剣を引き抜く。
見えはしないが、感覚が告げる。
すでに取り囲まれている。
来るときはいっせいに来る。
剣を持ちかえ、右手のひらを左手の甲でぬぐいながら相手の数を推測しようとしたが、無駄のようだった。
今の体調では倒しきれずに死ぬ確率が高い数。
そこから先は数えてもあまり意味がない。
穴を掘ったばかりの手はどちらも濡れていて、右手の汗は結局乾かなかった。
膠着状態は訪れなかった。
獣は絶好の獲物に次々と飛びかかる。
腹ばかりが丸く膨れた野犬の群れだ。
カオスは一匹、二匹と切り開き、幾分太めの木を背にして立ち向かった。
だが、数が多い。
一匹捌けばその間に足、肩、腕、脇腹めがけて飛びかかってくる。
大きくなぎ払った瞬間、右の肩に鋭い牙が突き刺さった。
肉をちぎられる前に木に叩きつけて防いだが、噴き出す血を止めることはできない。
霞がかかる視界で、爛々と輝く獣たちの目だけが鮮やかだった。
体が重い。足をとられる。抉れた傷の熱さが邪魔で、思うように剣を扱えない。
一振りごとに意識が遠くなっていく。
そういえば、以前にもこんなことがあった。
カオスはぼやけた記憶をたぐり寄せた。
聖都に連れて行かれる前、トフルズ率いる盗賊たちと戦ったとき。
あのときも、敵は多く、追いつめられて、それから……。

どくん。

心臓が鳴った。
あのとき、気がついたときには縛られて馬車で運ばれていた。トフルズの口から魔力を暴走させてしまったことを聞き……、だがその前に。
覚えている。
確かに聞いた。
引き金を引くような音だ。
胸の奥、深いところで。

――どくん。

心臓が、鳴る。
わけもわからないうちに、カオスは全身全霊で制止を呼びかけていた。
その先に待つものが生でも、死であったとしても。もうこれ以上、自分への誓いを破りたくない。
例え、鼓動が止まったとしても。
最後の一振りに限界を見ながら、カオスは剣を手放さず、――引き金の音は、聞かなかった。
獣たちはいっせいに動きを止め、自分たちの中心で崩れ落ちた獲物を感覚のすべてで確かめようとしていた。
やがて、段々と遠巻きになっていく。
彼らの中の誰一人確かめることはできなかったが、誰もみな自分たちが命拾いしたことだけは悟ったのだった。

カオスが意識を取り戻したとき、目の前には大きな穴があった。
「起きたのかい」
隻眼の女が上からのぞきこむ。
女は肩にかかるかからないかくらいの長さの金髪で、目は泉のように澄んだ青をしている。しかしその色をたたえているのは左目だけで、右は黒いぼろ布に覆われていた。左の額から右の耳へと渡された布からはみ出すように、火傷の痕がのぞいている。服は物乞いが着るような粗末なものの上に、黒い鎧を身につけていた。
黒い、鎧。
カオスは飛び起きた。
目の前の穴が何を表すのかわかったからだ。
「貴様っ、墓を……荒らしたのかっ!」
「わかりやすい目印をありがとう」
女は土の山を蹴散らしながら悪びれもせず口角を上げる。
「何か言いたそうだけど……、死体には無用の長物だ。あたしたちには何だって必要なんだよ。それに、死者から物を奪うな、なんて、あんたが言えることじゃあないはずだ。あんたは生者から命を奪ってきたんだからね」
「だが……っ」
掘り返された死体は無造作に投げ出されている。
「申し訳程度に目についた死体の墓だけ作ってみても何にもなりゃしないさ。軍人の理屈は軍人相手に使いな。あたしらにはあたしらの理屈がある。ここはあたしらの世界だ。文句は言わせない」
女は血に濡れた剣を突きつけた。
それもまた死者のもので、カオスが借りていたものだ。
カオスは鼻の付け根にしわを寄せた。
「……それでも、言えた義理でなくとも、口先だけでしかあり得なくとも、『耐え難い』と、言えるときは、そう言っていたいのだ」
「……あんた、甘ちゃんだねぇ。そんなんでよく生き延びられたもんだ」
女は小さく吹き出して剣を引っ込めた。
代わりに手を差し出す。
「そろそろ気づいてもいいんじゃないかい? 肩の傷は止血した。現時点であたしはあんたの『とりあえず』の恩人で、『これから』の恩人でもある。あたしたちのところへおいでよ。ここで一人で生きていくのは無理ってもんだ。ましてやその傷ではね。あたしは死者から物を奪うが、生きた人間から命を奪ったりはしない。もっとも、あんたの意識が戻らなけりゃあたし一人じゃどうしようもない。放り出して帰ろうとは思ってたけど」
カオスは何と言っていいかわからなかった。
女の体を覆う鎧が差し出された手を取るのを迷わせた。
肩の血は止まっている。
悪人相手ならば、「何が目的だ?」と聞くところだ。
しかし、カオスには女を悪人であると言うことはできない。むしろ女の言うことの方が正しさに近いような気がしている。
動こうとしないカオスに、女は手を差し出したまま告げた。
「……傷は肩だけだろ? さっさとしなよ。あたしは鎧や兜で手一杯なんだから、あんたに動いてもらわないと、せっかくの食料を持って帰れないじゃないか」
食料というのはカオスが切り殺した野犬たちのことだろう。あちらこちらに散らばっている。
まるで『理由』を作ってもらったようで、カオスは途端に恥ずかしくなって頭を下げた。
「ありがとう。……それから、申し訳ない」
顔を上げると差し出された手がまだそこにある。
カオスは慌てて腕を伸ばした。
「す、すまない。ありがとう」
「……いいけど。……意外に面白いね、あんた。あたしの名前はライラだよ。あんたは?」
「私は……」
カオスは少し考えたが、やはりハミルの名を借りておくことにした。

ライラについて行く前に、掘り出された死体を埋めなおす。
ライラは「無駄なことを」とでも言いたげだったが、カオスはどうしてもそのままにしておきたくなかった。
目についたものだけでも。弔うことのできるものだけでも。
慰めたいものは死者の霊より自身の心なのかもしれない。
剣をとったその日から、命を奪う覚悟は固くしてきた。戦い続けるゆえに、これからも立ちふさがる者を殺めるだろう。
それでも、この墓は作っておきたい。
「まったく、ここには色んな人間が集まるけど、墓なんて作ったのはあんたくらいだ。ここは言わば世界そのものが墓だからね」
ライラが言った。
カオスはやっと尋ねることができた。
「……そう、ここはエイフィールドではない。だが、バルドンでもないはずだ。教えてもらいたい、ここは一体どこなのか」
「言ったろう。ここは墓場さ。もしくは掃溜めだ。エイフィールドでもなく、バルドンでもない。二つを隔てる結界にはじき出された世界。……ひずみに落ちた人間はここを『奈落』と呼ぶのさ」
ライラは眼帯の上から右目を押さえ、ただれた皮膚に爪を立てた。
続く。
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