『光でもなく』

第一章7

少年は追おうとしなかった。
特に悔しがりもせず残された幌馬車に足を向ける。
「何故……?」
問いかけにも答えず、慣れた手つきでカオスの縄をほどき、後ろの馬車へと移る。
カオスはぎこちない動きしかできない体を無理矢理引きずって外に出た。少年の手助けをする気でいたのだが、一挙一動のたび針の衣を纏って重い液体の中を進んでいるような錯覚を覚え、ほんの数歩の間に何度もよろめきながらとりあえずそこへとたどり着いた。
血で雪が溶けてむきだしになった地面に白銀の剣が突き刺さっている。
側に転がっている鞘を拾って剣を収めると、戻ってきた少年がそれを奪って剣を抜いた。少年は柄頭の部分から握り、鍔、刀身と、各部をくまなく目と手で確かめ、釈然としない様子で首をひねった。
カオスは苦笑して言う。
「その剣は持ち主を選ぶ。私以外の物には扱えない。」
鞘に刻まれているエイフィールドの紋章は今は完全に布で覆われているが、その剣は紛れもなく創世記に出てくる四本の剣のうちの一本、『白銀の剣』である。邪な者には触れることさえ能わず選ばれた者にしか使うことができない。すなわち使用者は『銀騎士』であるカオスただ一人なのだ。
「?…わかんねぇ。いい、とにかく生きてるんだ。こんなもんオレはいらないから返す。」
少年はカオスに剣を渡すと振り返りもせずに歩き出した。
その前方では美しい聖都が雪に煙っている。
カオスは少年の後ろ姿に問いかけた。
「聖教徒が何故異端者を逃がす?」
「オレは聖教徒じゃない。」
少年は前を向いたまま足を止めない。
カオスは震える膝を精一杯締めて前に踏み出す。
「ではどのようにしてこの馬車を見分けた?何度かこの馬車から捕虜達が出てくるのを見たからではないのか?見せ物用の馬車ならわかるがこれは幌馬車だ。街中では民衆に中を悟られないように注意しているはずだろう。中を見せるのは聖教会に到着してから、馬車を見分けられるのは教会の内部に通っている者だけだ。」
少年はぴたりと足を止めて振り向いた。
「うるさい!助かったんだからさっさと逃げればいいだろ!」
カオスは瞠目した。
気を抜いたせいで膝が落ちる。雪の冷たさに痛みが広がったがそれどころではなく、慌てて姿勢を正して王に謁見するときのように恭しく頭を下げた。
「助けてくれてありがとう。すまない、恩人に礼を忘れていたどころか不快な思いをさせてしまうとは恥ずかしい限りだ。ありがとう。心から感謝する。」
少年はぽかんとして立ちつくし、本気で頭を下げているカオスを凝視した。
人に頭を下げられたのは初めてだった。ましてや、感謝の意を向けられたことなど。
解放された異端者はその瞬間に走って逃げ出すのが普通で、喜びや驚きの表情さえもなく、幸せな夢を可能な限り味わい続けようとするかのように走り去っていく。少なくとも今までの者たちはみなそうだった。少年もそれに対し何を思うこともなかった。
「……別に。礼なんかいらない。」
感謝されるようなことは何一つしていないのだから。
だからこんなふうに礼を言われるとどうしてよいのかわからない。
少年は自然と温かくなっていく頬をフードにこすりつけるようにして俯いた。
カオスは顔を上げて少年と瞳を合わせようとしたものの、フードの影に隠された顔は見れず、もちろんその熱にも気づかなかった。
「私は聖教徒を異端者に対して一片の可能性も持たない者だと思っていた。だからどうしても理由を尋ねてみたかったのだ。」
「オレは……聖教徒じゃない。」
少年はさらに俯いてカオスの視線から逃げた。
カオスはそれ以上追究しようとしなかった。
今の姿では疫病神になりこそすれできる礼など元よりないが、この少年への一番の報いはそれのような気がした。
情けない話ではあったが、もう何も言えなかったのだ。
体を起こそうとして地面に手をつくと縛られていたところが今も締めつけられているかのように痛んだ。そこに雪が吹き付けて思わず顔をしかめる。カオスは近くに倒れていた盗賊の手袋を拝借することにした。膝立ちの状態で手袋をはめ、再度立ち上がろうとして手をつく。
その姿勢のまま数十秒。
見えないところで繰り広げられた苦闘をうち切って、カオスは剣を地面に突き立てた。
反動でなんとか膝が浮いだがそれだけで、すぐにまた座り込む。
少年はその様子をじっと見守っていた。
何故かこの異端者が無事に逃げのびるところを見届けたいと思っている自分に小さな苛立ちを感じながらも、なんとなく背中を向ける気になれない。
何度目かの土の音。
剣を握る両手に込められた渾身の力はカオスの膝と地面との間に拳一個分の空間を作っていた。しかしそれで精一杯なのか、それ以上はただ震えるばかりで開かない。
少年はいっそ忌々しく思いながらカオスを肩で支えた。
カオスは驚いて少年を見たが、やはりフードの中の表情を見ることはできなかった。
「ありがとう…」
「うるさい!いちいち礼なんて言わなくていい!」
少年はカオスの言葉をうち消して怒鳴る。
だがしっかりとカオスの体を支え、カオスはようやく立ち上がることができた。
「すまない…奴らに捕らえられてから少なくとも六日…その間ずっと眠らされていたらしく体に力が入らない。」
少なくとも六日、言ってからカオスはため息をつきたい気分になった。
盗賊達と遭遇したあの時点で即馬車を走らせた場合の計算だからだ。街道沿いには多くの街があり、いくつの街にどれだけ滞在したかを考え始めると実際には何日経っているのかまったく推定できない。しかも聖都の位置は目指していた方向の真逆にあたる。結界は王都を越えた遙か遠く。目的自体に時間制限はないが焦燥感を感じずにはいられなかった。逃げてきたバルドン人の二人組から聞いた館の話を思い返しさらに焦りが募る。今こうしている間にも罪もない人々が次々と醜悪な愚行の犠牲になっているのだ。考えれば考えるほど気持ちははやる。動かない体がふがいなくてたまらなかった。
「街道を通る人々の目につかない…あの木の陰まで連れて行ってくれないだろうか。」
少年は黙って従ったが木の陰まで来てもカオスの体を下ろそうとはしなかった。
「で、どうするんだ。」
その声は明らかに苛立ちを含んでいる。
「まず体力を回復してから…」
カオスは最後まで言えなかった。
少年が聖都の方向に足を向けたのだ。
「あんた馬鹿だろ。こんな道の端でどうやって体力回復するんだ。」
至極もっともな言葉だったがカオスにとってはとにかく身を隠すことが先決なのである。
抗おうとすると押さえつけられる。今のカオスにはその力を振り払えない。剣を地面に立ててみたがたいした抵抗にはならずずるずると引きずられていく。
「じっとしてろ。暴れられると重い。」
カオスの足と剣で描かれた三本の線が聖都を目指して長くなる。
「だが私は聖都に行くわけには…」
いかないのだ。
『銀騎士』カオスは、例え囚われようとも殺されようとも黒髪の姿をさらしてはならないのだから。カオスはどれだけその事実を嫌悪してもヴォルトやタブロー、そして多くの民衆を裏切ることができない。
聖都に行くわけにはいかない。
なのにカオスはまたもや続きを言わせてはもらえなかった。
「うるさい!これをかぶればいいだろ!」
カオスの体が急に下ろされ、上から布をかぶせられる。
力任せにかぶせられたためもがいて顔を出すと、くすんだ金色の髪が目に映った。
少年は長めの前髪を頭を振って払いすぐに俯いた。
だがカオスは見逃さなかった。
つり目がちな両眼の、その色が自分の髪と同じだったのを。
「ありがたいがこれはいただけない。これ以上恩を仇で返したくはない。」
少年は顔をあげてカオスを睨めつけた。
「オレは慣れてんだよ!そんなもんなくてもちゃんと教会に戻れる!」
少年は大声を張り上げた後にはっとした表情になり、側の木を思いきり蹴った。
少年とカオスの上に大量の雪が落ちてくる。
「くそ…っ」
真っ白な視界の中で聞こえてきた声は何よりも悔しさだった。
少年は異端者に同じく異端である自分と聖教会との繋がりを知られることを恐れてはいない?むしろそこから先を恐れている?
カオスの頭にそんな考えがよぎる。
「私は君と聖教会の関係自体には興味がない。同じく聖教会自体にも興味はない。私が知りたいのはどうすれば真に理解しうるのかということだけだ。すべての人は、同じ人間だということを。」
少年は何も言わない。
カオスはしばらく口を閉じて反応を見ようと考えた。
が、遠くの方からかすかに馬の蹄の音が聞こえてくる。
「誰かが通る。」
カオスが言うと同時に少年がすぐ近くの木を蹴る。
少年も雪の中に身を隠しただろうことを知ると、カオスは神経を耳に集中させた。
蹄の音はどんどん近づいてくる。
かなり早いスピードで走らせているようだ。
嘶きをあげて急停止した馬の息はずいぶんと乱れていた。
「何があったんだ?盗賊にでも襲われたのか…?わからない、後で報告しておこう。とにかく今は急がねば……」
男は馬から下りもせずすぐにかけ声をあげて馬を走らせる。
馬を歩かせていた時間はほんの数秒ほどだ。
よほど急いでいるようだった。
カオスは蹄の音が完全に聞こえなくなってから雪をかきわけた。
少年も同じように雪から這い出している。
「時間がなくなった。オレはあの幌馬車の幌を適当に裂いて被るからあんたはそれを被っとけ。少し見つかる可能性が大きいが…馬を使う。」
「いや、私は聖都には…」
「オレが連れてくっていったら連れてくんだ!心配しなくても引き渡そうなんて思ってないから安心しろよ!」
カオスは戸惑っていた。
この少年が聖教会とつながりがあるのなら聖都の中にも見つからずにすむ場所があるのかもしれない。
少年に悪意がないこともわかる。
しかし万が一見つかったときのことを考えると他人の世話になるべきではない。
「この姿だけではなく、私は聖都に行くわけにはいかない理由があるのだ。」
そう言うと、少年の動きがぴたりと止まった。
「……なんでだ。」
「それは言えない。」
途端に少年を包む空気が変わる。
盗賊達と対峙していたときのそれへ。
「あんた、教会の敵か?」
少年は短剣と言うには少し長い、中途半端な長さの剣をカオスに突きつけた。
「考えてみれば妙だ。あれだけの数の盗賊がいたのに捕虜はあんただけだった。あんたは教会の敵の…重要人物かなんかか?」
その声はもしそうならば殺すと告げている。
「私は異端者を虐待することが許せない、教会はそう主張する私を目の敵にしている。そういう関係だ。」
カオスはいたって真剣に答えた。
しかし少年はぽかんとした顔をして、すぐに怒ったような表情になった。
「異端者と呼ばれている奴はみんなそうだ。ふざけたことを言うな。さっさと馬に乗れ。」
そうしてカオスは無理矢理馬に乗せられ、聖都に入ることになった。
「もし…あんたが教会の敵だったらすぐに殺すからな。」
「……」
私の敵は聖教会それ自体ではないが…あちらにとってはどうだか…な。
カオスは馬の背中で少年の声を聞きながら、頷くこともできずマントを深く被りなおした。


行く手を阻む立派な大木が恨めしい。
初めて踏み入った黒の森の感想だ。
滅多な者は入らないので当然なのだが、ろくに整備されていない。
それでも人が進んだ跡がそこらかしこに見られるからには誰か住んでいる者がいるのだろう。一般人の入らない、こんなところに住む人間はよほどの変わり者か後ろ暗いところがある人間以外の何者でもない。
ヒューバートはひたすらカオスの無事を願っていた。
そこいらの人間にやられるようなカオスではないが、ヒューバートはカオスの身に何が起こったのかをまだ知らないのだ。
漠然とした不安が胸の奥から消えない。
馬の蹄を気遣い注意深く歩を進めながら、ヒューバートは懸命に手がかりを探した。
ヴォルトに魔法で送り出されてから五日。
馬を下りて慣れない森の中を進んでいるとはいえ、もう大分結界に近づいたはずだった。
もしカオスがすでに結界を越えてしまったのならば見つけるのはいっそう困難になる。
様々なことを考えながらもヒューバートができることはとにかく前へ進むことだった。
ふと、手綱が重くなったのを感じる。
ヒューバートは歩を止めて振り返り、馬のたてがみをなでてやった。
「一度街道へ出て休むか?」
馬は気持ちよさそうにしてすり寄ってくる。
ヒューバートはしばらく休んだ後方向を変えて歩き出した。
そもそもヒューバートはカオスが何故森の中を進んでいるのかを知らされていない。
もしかしたらカオスも体を休めに一度街道に出たかもしれないと考えたのだ。
あてもなくカオスを探すことに比べれば街道へ出ることは造作もないことで、あっという間に道が見えてきた。
後少しで森を抜ける。
そこでヒューバートはぴたりと足を止めた。
「いいだろっ!こいつがあれば楽できるんだ!どうせ街に出て奪うつもりだったんだ!ちょうどいいだろうが!今さら白なんて怖くもないしな!これに乗ってればエイフィールドの奴らをだませるんだぞ!結界の外を徒歩で抜けるなんて冗談じゃない!」
「ダメだ!そんな恩を仇で返すような真似ができるか!それに絶対見つかるに決まってる!」
二人の男が言い争っている。
二人とも禿頭で、ぼろ布のような服を身に纏っていることからすぐに逃亡奴隷なのだとわかる。
そして二人の間にいる見事な白馬は…あれは紛れもなく…
「その馬をどこで手に入れた。」
今までヒューバートに気づいていなかった男達は、ひぃ、とか、ひぇ、といった声をあげて飛び上がった。
強盗にしては気の弱い…それに腕もなさそうだ。
ヒューバートは剣を収めず口調だけ改めた。
「その馬は私の主の馬。あなた方は私の主人が今どこにいるかをご存じですか?」
シルフィードがヒューバートに駆け寄る。
手綱をつかんでいた男はふいをつかれて地面に顔面を打ちつけた。
「あのっオレたちはっそのっ」
もう一人の男が必死に何かを言おうとしているがどうにも言葉にしきれないようだ。
ヒューバートはことさら丁寧に言った。
「あなた方が逃亡奴隷であることなど私にはどうでもよいことです。どうやら主の馬を奪おうとしていたようですがこの馬は主以外の者に扱えるものではありません。それよりも私は主の居場所を知りたいのです。それさえ教えていただければあなた方とは出会わなかったことにしましょう。主人の居場所を、ご存じでしょうか?」
「う、嘘だ!あんたはエイフィールド人じゃないか!オレたちを殺す気だろう!」
顔面を払いながら男が叫ぶ。
「ここは森の中とはいえ街道がすぐそこです。大声は出されない方がよろしいですよ。」
さらりと受け流すヒューバートの態度は、男達が今まであったどのエイフィールド人とも違っていた。
しかしエイフィールド人はエイフィールド人である。
要求が満たされれば突然手のひらを返したように自分たちを殺してもおかしくないのだ。
「あ…んたは、信用できない。あの人はオレたちの恩人だ。あんたに売り渡す気はない。」
男は決死の思いで言った。
恩人であり同胞である彼女を守れるのならば命も惜しくはないとさえ思った。
しかしもう一人の男はそうではなかった。
「教えたら…見逃してくれるのか?」
「おいっ!」
「死にたいんならおまえ一人で死ねよ!せっかくここまで逃げてきたんだぞ!オレはまだ死にたくないんだ!それにあの女がそう簡単にやられるもんか!」
男達はつかみ合いの喧嘩でも始めそうな雰囲気になった。
「おやめなさい。あの方の強さをご存じならばおわかりになるでしょう。今おっしゃった通り、私などに倒されることはありません。あなた方があの方の居場所を教えてくださりさえすれば二人とも生きてエイフィールドを出られるのですよ。」
ヒューバートの仲裁に男が動きを止める。
「おい、オレは教えるぞ。文句はないな?」
「…っ」
ヒューバートは情報を聞くと丁寧に礼を述べて頭を下げた。
この五日間まるで手がかりもなく森をさまよってようやく手に入れた情報なのである。
カオスとの距離が縮まった気がした。
「そう、一つ忠告をさせていただきますが、結界の手前に砦があることはご存じですね?馬で検問を通過するのは難しいですよ。力ずくで越える方法もあることはありますが失礼ながらあなた方の腕では不可能でしょう。まだ体一つの方がやりようがあると思います。それにこの馬は…エイフィールド中に名をはせた名馬ですから。」
ヒューバートは穏やかに笑った。
男達は納得のいかない顔をしたがとにかく早くこの場から離れたいと走り去った。
「頼むからあの人を殺さないでくれっ!絶対に!」
そんな言葉を残して。
何故彼らがそこまで自分を信用しなかったのか、ヒューバートはわずかに疑問を持った。
いくら自分がエイフィールド人であるとはいえ、彼らの恩人であるカオスもまたエイフィールドの民なのだ。
カリスマ性、ですませてしまうには少し無理がある。
だがヒューバートはそれよりも今得たばかりの手がかりに気をやった。
「バファダムという男の屋敷…そこにカオス様が……」
つぶやくヒューバートの肩にシルフィードが顔を寄せ、鼻息を荒くしてマントをぐいぐいと引っ張る。
まるで何かを伝えたがっているようだ。
「わかっている。カオス様に何かあったのだろう?あの方が理由もなしにおまえを手放すわけがない。」
シルフィードはマントを離して今度はヒューバートの前に乗り出してきた。
「乗せてくれるのか?」
頷くように首を振る。
「わかった、待ってくれ。この馬を預けてこよう。すぐだ。すぐにカオス様の元へ行く。」
ヒューバートは顔の表面だけで微笑んだ。
続く。
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