『光でもなく』

第一章13

黒い森を吹きすさぶ白い風の中、ヒューバートはわずかに目を細めた。
飛び込んでくる雪に数回瞬きをしてマントのフードを深く被り直す。
「……あれがそうか?」
仰ぎ見た屋敷は窓も屋根も外壁も黒く塗り潰されていて、まるで光を拒んでいるかのようだった。高い門の前には大きな盛り土がいくつもあり、木と木を打ち付けただけの墓標のようなものがそれぞれに突き刺さっている。辺りを取り囲む木々のどこからか絶え間なく聞こえてくる羽音と鳴き声は鎮魂ではなく歓喜を唱っているのだろう。数羽が盛り土を掘り返し、出てきた指をついばんでいた。
「は、はい。そうです。あそこにバファダムが住んでます。……あの、もう行っても…?」
シルフィードの鼻に押されるようにして歩いていた男が怯えた顔で振り向いたが、ヒューバートはただ首を横に振り、剣先を見せつけるように突き出した。
「さっきの言葉が嘘でなければ、あの中にはバルドン人しか入れないということだったな?」
「はいぃ。オ、オレらは入ったことがないです。いつも門の前で奴隷を引き渡すだけです。でも正確には入れるのはバルドン人だけってわけではなくて材料だけと言いますか…」
男は自分の頭をなでさすって空気の塊を飲み込んだような声を出し、鐙に置かれたヒューバートの足にすがりついた。
「も、もういいでしょう?血がどくどく出てるんです。手当てしないと死んじまうよぉ…っ」
そう言った瞬間頬に押しつけられた冷たい刀身に小さな悲鳴をあげ、おそるおそる馬上を仰ぐ。
「その程度で死にはしない。今『材料』と言ったな?その話は聞いてない。どういう意味だ?」
額を伝うぬるりとしたものが血なのか汗なのか確かめる余裕もない。
「知りません。知らないんです。ただいつも金を払う奴が『材料』って言ってたんです。バファダムは…あの変態野郎…オレらが売った奴隷で何かを作ろうとしてるみたいで…そんくらいです知ってるのは。」
「作る…?」
「何を作ろうとしてるのかなんて知りませんよぉっ!イカレてるんです!オレらの商売相手の中でも一番にイカレた野郎ですよ!直接会ったこたぁないけど次は若いのが欲しいだの年いったのが欲しいだのうるさいんで一度暴れたんですよ!そしたらあいつの家来が他種類の材料がどーのって…!もう勘弁してください。このままだと生きたまま鳥に食われちまうぅ。」
シルフィードがヒューバートにたてがみを梳かれて気持ちよさそうに首を伸ばす。
男は気が気ではなかった。
たてがみに指を通すその様子はまるで年頃の娘が髪を編む仕草のようにも見えるほど穏やかでたおやかなのに、先ほど豪剣を振るう仲間たちをあっという間にうち倒したばかりなのだ。
最初いい獲物だと思っていたこの優男はとんでもない怪物だった。自分ではとてもかないはしない。仲間の中でも一番に腕の立つトフルズならあるいは倒せたかもしれないが、あいにく今は聖都に出てしまっている。
倒せないのなら、なんとしてでも逃げのびる。
「最後に一つ。銀髪の女騎士をこの辺りで見なかったか?」
男は首を横に振り、これでやっと逃げられると息を吐いた。
「じゃ、じゃあオレはこれで…」
「………おまえ以外の盗賊たちには一切手加減しなかった。全員こと切れただろう。あの中に首領らしき人物はいなかった。まだ残党がいるということだ。それもそちらが主力なのは間違いない。おまえを生かしておけばそれらがやって来る可能性がある。」
男は踏み出そうとしていた足を止めた。
「…こ、こ、こっ……殺すんですか?仲間の復讐なんてないですよ!オレらはこの森の中にしか行き場が無くて仕方なしに固まっただけで。ただ利益について行ってるだけです。あんた襲うなんて損なだけだっ。オレは二度と会いたくない!」
「ならこうだな。おまえを仲間のところへ帰せば回復したあと次は違う人間を襲うだろう。それに私を襲った他の人間は絶命したのに同じことをしたおまえだけ生きのびるのは公平ではない。」
「ひぃぃぃぃぃぃ…っ!ど、どのみち殺す気だったのかぁっ!」
ヒューバートの手はずっとシルフィードのたてがみをなでているだけだ。剣先も今は地面を向いている。
しかし男にとってはそれが逆に恐ろしかった。
「森を出てまっとうな仕事をして暮らすこと。それができないのならば、……ここで殺す。」
男は生ぬるい血が鼻の頭を伝うのを感じながら、ヒューバートの真意を突き止めようと目を凝らした。
逃げても立ち向かっても容易く殺されるであろうということは考えなくても感じる。
しかし本気で言っているのだろうか。言葉が真実であれば、この場を切り抜けるのは簡単だ。
一言ですむちゃちな嘘をつけばいい。
問題は、そんな甘い男には決して見えないということだ。
「………わかった。わかりました。こんなオレでも命は惜しいですから。おっしゃる通りにいたしますよ。」
男はあえてヒューバートの目を見つめて言った。全身の力を目に集中させるかのように、指一本動かさず。
見つめ返されることを予期して表情を固めていたのに、ヒューバートはたてがみをなでる手を止め、シルフィードの腹を軽く蹴った。
「…………」
男がようやく体を動かせたのはヒューバートの背中が雪にかき消された頃だった。
騙し通した。
とは、とても思えなかった。ならば何故自分は生かされたのか。考えたくもないのに考えてしまい顔を曇らせる。
とにもかくにも、助かったのだ。男はこれからも生きていくために深く考えるのはやめておこうと思った。


ヒューバートは館の周囲を一周し、高い塀を見上げて目を閉じた。
「カオス様はすでに潜入されたのだろうか。日数を見ればそう考えるのが無難だが…だとしたらどのようにして乗り込まれたのか…。」
門は一つ。大きな錠に鎖が巻き付いている。周りを囲む塀の高さはヒューバートの背丈の倍はあり、上れそうな凹凸はない。館に入るには門をくぐるより他ない。
ヒューバートは肩に積もっていた雪が落ちるのを感じながら、聞き出した情報を反芻した。
「奴隷が一斉に逃げるような騒ぎはなかったと言っていた……」
一つの不安が宿る。カオスならば捕虜の解放を最優先に考えるだろう。それがまだ成されていないということはまだ潜入していないか中で策を練っているのかあるいは…
眉間にしわが寄る。
カオスは目立つ。あちらこちらに盗賊が潜んでいる森の中では格好の獲物だと見なされるに違いない。しかし侮ってかかった愚か者たちの屍の山が見あたらなかったからには、館の外で長居していたとは考えにくい。
だとしたらやはりカオスは中にいると考えるべきなのだろう。
そしておそらく出られないのだ。
ヒューバートはシルフィードから降り、再び屋敷を仰いだ。
入るだけなら容易い。材料になってやればいい。問題はその後である。
「バファダムという男に関する情報が足りない…。」
つぶやいて、すぐに口を閉じた。
人が来る。
ヒューバートは雪に紛れるようシルフィードの影に隠れた。
気配はなかなか距離を縮めなかったが、かわりに怒声がひっきりなしに響き渡った。先日の戦で捕らえられたばかりのまだ雪に慣れていない捕虜たちなのだろう。体にかかる様にさえ怯んでいるに違いない。
視線を門の方に移すと、全身をマントでくるんだ男とも女ともわからない人物が鍵を外していた。
大きな屋敷だ、使用人と考えるのが普通なのだろうが、日光を受け入れない不気味な館の主に仕える者は果たしてどのような人となりで何人いるのか。
ヒューバートは視界を雪に遮られまいと目を細める。
「……数が少ないようですが…やはり免罪符の影響ですか?」
マントの人物は捕虜を引きずるようにしてきた盗賊に話しかけた。
透き通るような女性の声。だがどこか冷たい、感情の読みとれない声だ。
「へ、へへ…そうなんですよ。商人や貴族どもに高く売れるもんでねぇ。異端者でもバルドン人でも同じだっつーんで手当たり次第に聖都に持っていってますよ。オレたちにとっちゃあ商売繁盛で嬉しい限りで。金を積む方に売るってバファダムさんに言っといてくださいよ。」
「承知しました。では今回はこれで。」
女はあくまで事務的に盗賊たちをあしらい、十人以上の捕虜たちを繋ぐ縄を手に掴んだ。
途端、捕虜たちがいっせいに襲いかかる。
素手で女の首をへし折ることなど小枝を二つに叩き折るようなものだといった感じの屈強な男ばかりだ。
しかし女は身動ぎもせず、周りの盗賊たちは皆面白そうにニヤニヤと唇を歪めている。
ヒューバートが不可解に思うと同時に悲鳴があがった。
野太い悲鳴。両眼をつぶされた男があげたもの。
一体いつどのようにして男の両眼がつぶれたのか、ヒューバートは瞬間を捕らえることができなかった。
だが男は両目を押さえてのたうち回り、他の捕虜たちは目の前で起こった奇怪な出来事に今やっと声をあげ始めている。
「…私の説明をしておいてください。」
「してますよぉ、ちゃんと。オレたちの言うことを信じないそいつらが悪いんですよ。」
盗賊たちはゲラゲラ笑いながら来た道を引き返していった。
ヒューバートは盗賊が去ったのを確かめ、静かに剣に手をかけた。
捕虜たちを屋敷の中に連れて行った女が何故か戻ってきたのだ。
門の中から確かにこちらを見つめている。
ヒューバートの目に映るものはだいたいが吹きつける白い粉だったが、黒々とした屋敷は見失いようもない。
逆に考えると純白の毛並みを持つシルフィードの後ろに隠れている自分はかなり見つかりにくいはずである。
だが女は門の錠を外し、ヒューバートのいる方向に体を向けて優雅なお辞儀をした。
「主の客人とお見受けします。これから吹雪になりましょう。どうぞお入り下さい。」
逡巡せざるをえない状況だったが、ヒューバートはすぐに姿を露わにした。
「ご招待を受けたわけではありません。突然訪ねてきた粗忽者ですがよろしいのでしょうか。」
「主の客人はみなそういう方ばかりです。」
女は抑揚のない声で迎え入れ、静かに門を閉めた。


日の光は命を感じさせる。
草も木も獣も人も太陽がなくては生きていられない。
特に年中雪に覆われたエイフィールドにおいて、日光は何より素晴らしい恵みなのだ。
人々は朝日に荘厳な生命の讃歌を聞く。
その至極当然のような素晴らしさを実感できる状況がエイフィールドには嫌気がさすほどあふれている。
決して太陽を憎んでいるわけではない。
己とて人の子ならば、日の光を浴びてくつろいだ気分になることもある。
だがどうしても好きにはなれないだろうと思っている。
それ自身も、それにまつわるおおよそのものにも、最も忌み嫌うイメージがつきまとう。

「………騒がしい。」

バファダムは手にしていた瓶を置くと水で湿らせた布で両手をぬぐった。
うっすらと赤かった布は鮮やかな赤に染まり、無造作に机の上に置かれる。
「騒がしいというのが聞こえんのか。もう少し静かにしろ。」
部屋の四隅に置かれたランプが闇を照らし出すが、動いているものはバファダムと炎のみ。
「そんなにひっきりなしに呼ばなくても聞こえている。黙って待て。このまま放っておくと材料が腐る。」
刻み慣れた眉間のしわを深くして、並べてあった肉塊を薄紫の液体に浸けていく。
「騒ぐな。オレが呼びかけに答える義務はない。」
そう言いながらもバファダムは作業を終え、部屋の奥にある大きな水瓶に顔を映した。
水面を照らすランプの火がうねるように揺れている。
「そう言って呼ぶのをやめたらすんなり忘れて研究に没頭するくせに。それを知ってて黙る馬鹿はいないだろ。」
映っていた気難しい顔がゆらゆらと揺らめいて面白がるようなにやついた顔へと変わっていく。
バファダムがこれ以上は不可能だというところまで深くしわを刻んだとき、水瓶に映る顔は完全に別人の物に変化した。
「性質の悪い小僧だな。オレを呼ぶ輩の中でもおまえほど騒がしい奴はおらんぞ。」
「誉め言葉と受け取らせていただきましょ。」
「ダークスは静かな男だがな。」
「親父は静かなんじゃなくてほとんど全部どうでもいいって言うんじゃねぇのぉ?」
「……ふん、どのみち騒がしくなくていい。さっさと用件を……」
言葉を切って部屋の扉を見る。
「お客さん?」
バファダムは水瓶からの声と扉が開く音を同時に聞いて目を細めた。
「お客様をお連れしました。」
「ピーリエ、何度言えばわかる。客はすべて材料と同じ檻に入れておけ。」
目の前で吐き出された暴言に驚きもせず、ヒューバートは深々と頭を下げた。
「突然の訪問をお許し下さい。私はヒューバートと申す者。」
バファダムは一瞥してうんざりと眉間を押さえた。
「その馬鹿丁寧な口調はやめろ。突然の訪問をお許し下さい?そういった言葉を使う輩ほどそうは思っていないものだ。むしろこう言えば嫌な顔せず受け入れられると考えている。当たり障りのない態度で本音を覆い隠して益を得ようというわけだな。小賢しさが小うるさい。小うるさいというのはうるさいよりも性質が悪い。耳につく。不快でたまらない。そういうわけだ。おまえが本当にオレのことを気遣うのならば口を閉じてその剣で胸を突け。」
言い飽きた言葉を言い飽きた口調で言い飽きた輩に投げる。
本当は面倒で口も利きたくないところだが、一応の礼儀であり最後の選択肢を与えるという唯一の情けだ。
しかしそれは無駄になることが多く、今までやってきた招かれざる客たちはたいていが顔を赤くして騒々しく声を荒げるか白々しく取り繕って醜さを際だたせるかのどちらかだった。
そうなれば結果は一つ。
力ずくで薄紫の液体に浸けるだけ。
さてこの若い騎士はどちらなのかと、バファダムは微塵も考えてはいない。
とにかく騒々しいことは早く終われとばかりに白けた目をやると、ヒューバートはにっこりと微笑していた。
「それは助かります。取り繕うことは疲れますからね。私がここを訪れたのはあなたに取り入ることが目的ではありませんので余計な力を使うのは面倒だと感じていたところです。」
それも策だということはすぐに知れた。
小賢しいのは形式張った態度ではない。いいように進めようとする思惑が小賢しいのだ。
そばを飛ぶ蠅は手で払うが耳元に寄る蠅は叩きつぶしたくなる。
警告はした。
自業自得というものだ。
「では何をしに来た?」
「主を捜しに。どうやら森に迷い込まれたようなのです。仕方がなしに入ってみれば頭の足りない盗賊ばかりで話もできない。なんとか情報を聞き出すとあなたなら何か知っているかもしれないということでしたので。」
ヒューバートは薄暗い部屋の中を一通り見回して笑みを濃くした。
「やってきたはいいものの、計りかねているところです。あなたを盗賊とは比べ者にならない識者と見るべきか血の臭う部屋で常人には理解できない研究に熱中する狂人と見るべきか。」
「どちらだと思うんだ。」
「どちらも正解…といったところでしょうか。さて、私は主を捜しているというのともう一つ目的があるのです。材料にされる人々を解放していただきたい。」
ヒューバートは笑みを崩さない。
バファダムは眉間のしわを一つ増やして鼻を鳴らした。
「ヒューバート…だったか?オレも今計りかねている。おまえを稚拙な策を巡らす小賢しい輩と見るべきか頭に浮かんだことを考えもなしに述べる暑苦しい輩と見るべきか。」
「どちらだと思うんです?」
「どちらも正解…といったところか。」
「どっちも嫌いだもんなぁ。」
どこからか声が聞こえる。
ヒューバートは眉をひそめてもう一度部屋をゆっくりと見回した。
「他にも人が?」
「さてな。ところでオレには嫌いなものが多い。いや、世間にオレの嫌いなものに属する輩が多すぎる。騒がしいものが不快でな、小賢しいものは騒がしい。暑苦しいものも騒がしい。特にだ、正義の味方になろうとする連中のあの騒がしさといったらどうだ。不快にもほどがある。おまえは材料を解放してどうする気だ?バルドン人ばかりだぞ。バルドンとはまるで違うこのエイフィールドに放り出されて生きて帰れると思うのか?おまえがバルドンまで誘導してやるのか?全員をか?考えて物を言え。まったく正義というやつはその愚かさが騒がしい。」
バファダムは今度こそ見飽きた反応を想像した。
小賢しい相手にはその小賢しさが愚かさなのだと教えてやるのが一番の恥辱になる。後の騒がしさは考えたくもないが、息の根を止めたときの静けさを余計に愛しく思えるだろう。
しかしヒューバートはなおも微笑を消さなかった。
「私が考えるのは可能性を開くこと。そこまでです。それから先は知りません。」
「……ずいぶん無責任な正義の味方もいたものだな。」
「私はただの人間ですから。できることには限りがあります。」
元々が不機嫌極まりないといった顔をしているのでヒューバートは気づかなかったが、バファダムはますます不愉快になった。
ヒューバートは言葉を選んでいない。それは何も隠していないように思え、すべて本音に聞こえる。
だが必ず裏がある。
「なるほど稀に見る小賢しさの持ち主だ。オレはこう考える。おまえは意味もなく講釈をたれているのではない。要求を通すためにあえてすべてをさらけ出してオレに取り入ろうとしている。もしくは話しながらオレを殺す隙を探している。」
「それを声に出して言うことのできるあなたはどのようなことがあってもそうされない自信があるということですね。」
「無論。おまえと話しているのも飽きてきた。主の特徴を言ってみろ。材料にしたかしていないかくらいなら答えられるかもしれんぞ。」
ヒューバートは表情を動かさずに口を開いた。
「腰のあたりまである銀髪の…女騎士。」
途端、バファダムの背後から高らかな笑い声が響いた。
「あーはははははっ!限界だ。面白い!おまえ面白いぞぉヒューバート。くっくっくっ。カオスはおまえを切り捨てたか!慈悲で言ってやりましょお。見捨ててやれよ、今のうちに。」
そこには大きな水瓶しかない。
ヒューバートは自分をせかしながらおぼろげな記憶をたどった。
この声は、戦場で聞いた。

「黒騎士…っ!」
続く。
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