『光でもなく』

第一章4

黒い。
夜よりも長く闇よりも深い森。
気を抜けば飲み込まれそうになるほどの底の知れぬ森。
すべてが淡色で彩られるエイフィールド内において唯一の例外であるその領域は呪われた場所として未だ多くの謎を抱えている。一体どれほどの面積があるのか、中にはどのようなものがあるのか、どのような動植物がいるのか、人は住んでいるのか、王でさえも把握してはおらず、もちろん騎士団も踏み入ったことはない。
道のない道を、カオスは慎重に進んでいた。
地面はまったく整備されておらず自然の状態そのもので、大小様々な大きさの石がごろごろしており草の葉の裏に尖った石や腐った枝が隠されていたりする。
カオスはシルフィードの蹄に細心の注意を配って一歩一歩確かめながらその足で歩いた。
半日歩いて結界にどれほど近づいたろうか。
まるで進んでいないような気がするのもあるいは気のせいではないかもしれない。
光のない空間にすっかり慣れてしまった目にシルフィードの白い毛並みがまぶしく映る。
カオスはその背をそっとなでてやった。
「すまんな。疲れただろう。街道を走った方が早いしおまえのためにもいいのだが…」
そう言ってカオスは小さく苦笑する。
シルフィードと違ってカオスの姿はすっかり辺りの色彩に溶け込んでいた。着慣れた白銀の鎧ではなくぼろぼろの皮鎧を着込み、その上からほこりの塊のような色をしたフード付きのマントをまとっている。そして、今はおろされているフードに長く艶やかな黒髪が流れていた。
シルフィードは主の変化に戸惑うこともなく普段と変わらぬ様子で体をすり寄せた。
カオスがくすぐったそうに笑うとふざけてますます体を寄せる。
「心配するな。大丈夫だ私は。まだ慣れていないだけだ。」
カオスはシルフィードのたてがみを何度もなでた。
実際、何が変わったというわけではなかった。髪の色が銀から黒に変わった。本当にただそれだけで、他の変化は、ましてや呪いにあたるようなそんなものは何一つなかった。
あるとすればそれは自分自身への小さな不安が生まれたことだけだった。
再びゆっくりと歩き出すとどこからかかすかに水の音が聞こえる。
カオスはシルフィードに水を飲ませてやろうと音をたどった。
木々の間を抜け岩場を越えて水辺にたどり着いたとき、カオスは思わず言葉を失った。
静かで清らかな水の流れに細い光の雨が降り注いでいる光景が、今まで闇の森を見つめ続けていた瞳に突然飛び込んだのだ。
葉と葉の間からわずかにこぼれた光は細くとも美しく闇を照らし、水の中まで煌めかせている。
闇の中で決して強くない柔らかな光。それをそっと包む優しげな闇。
この美しさはどちらかだけのものではない。
「……不思議だ。光だけでなく闇も美しい。」
呪いの森とも言われるこの場所でこんな光景が見られるとは思いもしなかったカオスは何も言わずに光と闇の交わりを見つめ続けた。
呪いの森だと言われていた。
こんな場所に。
そうして自分の中の意識にはっとした。
苦しみを抱えていた人々に黒は呪いの色ではないとあれだけ説いていた自分が奥深いところで実はその迷信を信じているのだ。カオスは心の中でそんな自分を叱咤した。
「ここに真実がある。これこそが光と闇の真のあり方ではないのか。」
答える者はいない。ほしいとも思わなかった。
カオスはシルフィードが水を飲んでいる横に膝をつき、澄んだ水面をのぞき込んだ。
さらさらという音をたてて黒髪が肩の線を流れていく。映る髪もやはり黒い。映っている自分を両手ですくい渇いた喉を潤すとなんだか生き返った気がした。腰にぶら下げていた水筒に水をくみ、もう二、三回だけ水をすすると、頬に髪が張り付いてきた。鬱陶しいので適当にかきあげる。そうしてふと、手を止めた。
この髪を自分のものでないなどと言う気は毛頭なかった。
だが違和感を拭うことができないのだ。
これから出会う人々は黒髪の自分しか知らないのだと思うと昨日までの自分が死んでしまった気がして。
妙な考えだと思い、カオスは自分自身を鼻で笑った。
「まったく…らしくないことだ…。」
カオスはぱっと髪を振り払いシルフィードの手綱を引いた。
「行こう。結界までまだまだだ。」
しかしシルフィードは大人しくついてこようとしない。逆にカオスの方を引っ張った。
カオスはどうしたのかとシルフィードの顔を見つめたが、すぐに気がついた。
「…二本の足で走っている音だ。…人だな。二人。その後ろに少し離れて…五、六人か。」
カオスはフードを目深にかぶり、前方を睨みながら腰の剣に手をかける。
「下がっていろシルフィード。…何者だ……?」
足音が次第に近づいてくる。確実にこちらに向かってきている。
カオスは眉をひそめた。
民の間では呪われた森で通っている場所だ。こんなところを走っている者は明らかに普通の人間ではない。もし自分が黒髪になったことが露見し、追っ手がかかっているとすれば聖教徒が一番確率が高いが、信仰心の厚い彼らが『呪いの森』に入るとは考えにくい。もし入ったとしても少々時間が早すぎる。では、追っ手ではないとしたら何者なのか。

やがて荒く息をする音と共に現れたのは禿頭の男二人組だった。
二人組はカオスの姿を見た途端表情を変え、叫びながら飛びかかった。カオスはそれだけで二人組が何者なのかを理解した。言葉にならない声を発して襲いかかってくる二人をひらりひらりとかわしながら素早く鳩尾を打つ。こういう場合に言葉が通じないことは経験を通じて知っていた。二人組はうめき声を発しながら地面にうずくまった。
「申し訳ないがしばらくそうしていていただく。さて、来たか。」
カオスの視線の先には見ただけで盗賊とわかる風体の男達が六人、息を切らせて立っている。
「てめぇ…何もんだ?女……?逃亡奴隷にしちゃそのカッコはおかしいしな…」
男達は突然現れたカオスに動揺を隠せない。
「…まぁいいじゃねぇか。この森にいるんだ。訳ありだろうぜ。さて、その二人こっちによこしな。言うとおりにした方が身のためだぜ。」
男は舌なめずりをしながらカオスの体をじろじろと見回している。その視線が意味するものはカンを働かせずとも明らかだった。
「断る。おまえたち盗賊のやり口は知っている。私が大人しく従おうが従うまいがこの二人を捕らえ、私のことは犯しでもする気だろうが。」
カオスは欲望にまみれた目で見つめられる不快感に眉を寄せ、意図的に蔑むような目で盗賊達を見た。この手の輩は短気で単純な者が多い。相手が女と思って見くびり、挑発すればすぐにのってくる。
「察しがいいなぁっ!」
狙い通り、男達は計算も何もなしにただ特攻してきた。
カオスは六人の一斉攻撃を一動作でよけ、剣を抜いた。
闇の森に白銀の剣の刀身が白く輝く。
鞘に刻まれたエイフィールド王家の紋章を隠すためボロボロの布で巻いていたが抜き身の美しさはごまかしようがない。盗賊達の目にも白銀の剣の見事さははっきりとわかった。だが彼らにとってそれは獲物が増えたことを意味し、カオスへの警戒に繋がることはない。
そしてカオスが盗賊に、しかも自分を見くびっている相手にやられるはずもない。
再び剣が交わる音を響かせることもなく、カオスの圧倒的な剣技の前に盗賊達はものの見事にうち倒された。
カオスが剣を鞘に収めるとシルフィードは禿頭の二人組の背に鼻をこすりつけて揺り動かした。二人組は短くうめいてゆっくりと体を起こし、さっきまで自分たちを追いかけていた盗賊達が周りに転がっていることに気づいてカオスを振り仰いだ。カオスに助けられたことだけはわかったが、それにしてもまったく状況が飲み込めない。
「……何者だ?」
疑いの眼差しを向けて尋ねてきた彼らにカオスは無言で頭にかぶっていたフードをおろした。
二人組は大きく目を見開く。
「君もバルドン人か!助けてくれてありがとう。しかしその姿は?君は捕虜にならなかったのか?」
途端に親しみを込めた表情で語りかけられては苦笑するしかない。
「私は密偵だ。」
カオスは適当に語った。彼らを助けた事実と黒髪があれば青灰色の瞳は伏し目がちにしていればごまかせるだろうと判断した。
思った通り、思いがけない味方との出会いに興奮している彼らはカオスの嘘を簡単に信じ込んだ。何よりも長い黒髪の効果が大きかったようだ。漆黒の髪をなびかせた美しい女騎士を前にして思わず自分たちの手を躊躇いがちに禿頭へ置いたりなどしている。
エイフィールドで使役されているバルドン人達はみな頭髪を剃られている。バルドン人の髪は濃色でしかも黒が多いので呪いを恐れたエイフィールドの民が無理矢理そうするのだ。
カオスは二人の様子からこの森へ逃げ込んだ逃亡奴隷なのだろうと思った。
だがそうなのか?と尋ねてみると、二人組は目に見えて顔色を悪くした。
「い、いや…そうじゃない……あそこのことはもう思い出したくないんだが……」
カチカチと小さく歯を鳴らす。それ以上言えなくなった相棒をそっとなだめながら、もう一人の男が言った。
「この人はバルドンの密偵だぞ。オレたちなんかの情報でも役に立つかもしれない…なら是非とも協力 したいじゃないか。…話そう、あそこのことを。」
その彼も顔色は蒼白だ。
二人組は恐ろしさで不十分になってしまう言葉をぽつりぽつりと一生懸命語り始めた。
「この森の奥深くには……でかい屋敷がある。……狂った奴が住んでやがる。」
「オレたちはそいつに売られるところだったんだ。……捕虜達の間では噂になってた。奴は……骨とか…臓腑とか…そういうものが好きで…」
「オレたちの仲間の肌をはいで壁に飾ったり目をくりぬいてアルコールに漬けたりしてやがるんだ!中には……っ…生首を剥製にされた黒髪の女もいるって話だ……っ」
「バルドン人の色をおもしろがってるんだ…奴は特に黒いものが好きで……捕虜の中で美しい黒髪の女がいると買い取っていく…最初から首をかっさばいて奴に売りに行く商人もいる……オレたちは…労働所に連れて行かれるところを盗賊にさらわれたんだ…」
「奴の屋敷まで連れて行かれて引き渡される寸前でなんとか逃げ出したのさ……っ」
カオスは終始無言だった。
男達は反応を示さないカオスが戦慄しているのだと思った。
「…女性の君にする話じゃなかったな……」
気遣って頭を下げた男は俯きがちのカオスの顔をそっとのぞいた。
「その屋敷には多くの捕虜が生け捕られているのか?」
「………あ、ああ……女達が捕らえられているという話を聞いた。髪が奴の好みの長さになるまで生け捕りにされているらしい……」
男は思わず狼狽えた。あの場所のことを思い出せばいてもたってもいられない恐ろしさと憤怒が心を押しつぶしたが、それらはすべてカオスに吸収されてしまったかのように薄らいでしまった。
カオスは激怒していた。
「その人物の名と、屋敷の位置を教えていただきたい。」
体中の血が沸騰し、狭い血管を出口を求めて激流のように流れている感覚。
もはや結界を越えることは二の次だ。
許せなかった。
男達は一人では無茶だと止めることもできずにカオスの気迫に押されて口を動かした。
「確か…名前はバ、バファダム……とかいった。屋敷の場所は覚えてないっ。がむしゃらに逃げてきたんだ……っ。」
「そうか…ならば場所はいい。情報感謝する。」
カオスは男達が逃げてきた方向に体を向け、シルフィードの手綱を握った。
「い、行くのか……?エイフィールド人は…こんな…に、残虐なんだぞ……?」
男は馬鹿なことを言っていると思った。この女騎士は密偵なのだ。六人の盗賊をあっという間に倒してしまうほど強いしおそらくはエイフィールド人のことも自分たちよりよく知っているに違いない。だが外見はどう見ても自分たちよりか弱い女性なのだ。その堂々たる態度と意志の強そうな表情が本質を表しているとわかってはいてもそう口にせずにはいられない。
しかしカオスは怒りに燃えたままの双眸で言った。
「当然だ。」
男は唖然とした。聞こえた言葉を理解するまでに数秒の時間を要した。理解してからも感覚が鈍ってしまったかのように動けなかった。
あるいは―――感動しているのかもしれなかった。
カオスは男達に背を向けてそのまま歩き出した。
が、二、三歩踏み出したところでその足を止めた。
射るように前を見る。
「……三十人近く。おそらく…さっきの盗賊の仲間か。」
二人組はカオスの声を聞いて震え上がり地面に尻をついた。
「三十人!?……ダメだ……もう終わった……」
カオスは即座に彼らを引っ張り起こし一方向を指さす。
「この方向をまっすぐ進めば結界にたどり着く。私が戦っている間に物陰に隠れながら進まれよ。結界の抜け方は……?」
「…し、知ってはいるが……、それより君、三十人と戦うつもりなのかっ?」
カオスは頷いて早く行けとばかりに男達の背中を押した。
「結界周辺には砦があることを忘れずに。幸運を祈る。」
敵がやってくる方向へと体を向けもう振り返ろうとしないカオスに男達は深々と頭を下げた。
「ありがとうっ。こんな場所で同胞に会えた幸運と何より君自身に感謝する!」
できるだけ追っ手がかかりにくいように木々の間を抜けて走っていく。ついさっきもうダメだと思ったばかりだというのに何故か死ぬ気がしなかった。ちらりと一瞬だけ振り向いたが木々に遮られて彼女の後ろ姿はまったく見えない。それでも思い返すだけで気力がわいてきて、この先何があろうとも先をあきらめて地面の土をつかむことはない気がした。
しかし、男は走りながらふと思った。
あの女騎士、目の色は何色だったか……
目の色だけがどうしても思い出せない。恩人の顔だ。なんとかして思い出そうとも思ったが、走っているうちにそんなことはどうでもいいような気になってきた。目の色が思い出せずとももしまた出会うことがあったなら絶対にわかるだろうと確信があったからだ。彼女の本質である何をも恐れない雰囲気と己の信ずるところを貫く強さはしっかりと心に焼きついていた。

「すまないな……」
二人組の足音が遠ざかるのを聞きながらカオスは小さくつぶやいた。
自分は密偵でも同胞でもない。エイフィールドの『銀騎士』カオスだ。たいして意味のあることではない。自分を表す言葉がどれほど彼らを裏切っていようが今ここにある心にはまったく関係がない。それでも謝罪せずにはいられなかった。
地面に散らばる小枝を踏み折る音が近い。
カオスはシルフィードを少し離れたところに下がらせてからフードをかぶり、白銀の剣に手をかける。
辺りに乱立する木々の間から盗賊達が虫の大群のように姿を現した。
「女、そいつらをやったのはてめぇか?」
先頭に立つ髭面の大男が地面に倒れている仲間達を指して凄んだ。
カオスは盗賊達の注意が逃げた二人組ではなくやられた仲間達にいったことに安堵した。
だがそれさえも悟らせまいと、平然とした口調で答える。

「そうだ。」
続く。
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