『光でもなく』

第一章15

見覚えのある高い壁を遠目に見ながら、カオスは拳を握りしめた。
ここまで来て「このままバルドンに行ってもいいのだろうか」と迷いがよぎる。
あれからソルティアは、ヴァンはどうなったのか。無理にでも連れ出すべきだったのではないか。
これからフローリオはどのように動く?バルドンは?アデレド王は、ヴォルトはどうする?
この姿でできることなど何もない。
本当に?
バルドンに行けば自身の謎を解くことができるという保証などどこにもない。そもそもバルドンについて何も知らない。向こうに着いた途端捕らえられて殺されるかのたれ死ぬかするのではなかろうか。
それよりはエイフィールドでするべきことがあるのではないだろうか。
そしてまたソルティアの顔がまぶたに浮かぶ。
カオスはますます拳に力を込めた。
物心着いた頃にはすでに魔力を使いこなしていたカオスだったが、移動魔法だけは使うことができなかった。何故か喜んでいるヴォルトを見て複雑だったが、やはり王族とそうでない者にはそれなりの違いがあるのかもしれないと納得したものだ。
しかしソルティアは自らの安全を捨てて移動魔法を使い、ここまで連れてきてくれた。
この手にもっと力があれば。
せめて移動魔法を使うことができたならソルティアとヴァンを連れてくることも可能だったのに。
無理に連れてきたとてどうなるものでもないとはわかっているが、それでも二人をあそこに置いておきたくはなかった。
今考えても仕方のないことだ。
ソルティアに報いるためにも一刻も早くバルドンに渡り、そして帰ってこなければ。
だが考えずにはいられない。
「……未熟な。私という人間は、本当に………」
剣を大地に突き刺し、両手で握りしめて額を寄せる。
凍えて体が震えるのに唇を噛みしめ、ぐっと目を瞑った。
こんなとき今までならヒューバートが傍で支えていてくれた。目ざといヴォルトがすぐに気がついて声をかけてくれた。ハミル、タブロー、そこにいてくれるだけで安心できる人々に囲まれていた。
今は降りしきる雪だけがこの体を包み込む。
「『白銀の剣』よ。どうして、何故私を選んだ。……何故私などが『銀騎士』なのだ。過ぎたる名誉など重いだけだ。歴代の銀騎士でも名に振り回されている者など私だけではないのか。私ではおまえを使えない。邪魔なのだ。おまえも、『銀騎士』も…。」
名前と装飾だけがきらびやかで、この手で何ができるわけでもない。
ただただその重さに己の無力を思い知るのみ。
指が震えた。雪が冷たいからだけではないのは知っていた。
だがもう少しだけ言い訳をしていたかった。
しかし最後の逃げ場に身を寄せることも許されないのか、カオスの手元がほんのり暖かくなっていく。
『白銀の剣』が呼びかけに応えるかのように振動する。
この反応は知っている。
「…結界が揺らいでいる。大勢の人間がエイフィールドに入り込んでくる。」
カオスはすぐさま立ち上がって剣を手に取り、地面を蹴った。
今ごろヴォルトの持つ『黄金の剣』も同じ反応を示しているだろう。
しかし城から騎士団がやってくるには少々時間がかかる。
結界が味方することで砦の兵でも持ちこたえられるだろうが、剣の振動が激しい。数が多い。
カオスは黒髪を振り乱し、白い風の中をまっすぐに砦に向かって走った。
目を細めれば、流れの中に固まりが見える。
純白の毛並み。戦場ではいつも共にいた。
「シルフィード!」
何故ここにいるのか。そんなことはどうでもいい。
素早くその背に跨り、風に混じった。


結界と呼ばれるそれが何でできているのか、エイフィールドの兵にもバルドンの兵にも知る者はいない。
ただその性質はある程度知っている。
決して絶対的ではないこと。極めて薄い膜のような形状をしていること。侵入が困難だとはいっても、一度に十人程度しか通れない、時間によって人数が上下する、無理に通ろうとすれば四肢がちぎれ飛ぶ、など、その程度であって、やりようによってはどうとでもなること。それに比べて出るときはただ気を楽にして敵意を解けば容易に出られること。
エイフィールドの人間が結界を越えることはほぼないが、バルドンの兵士はしょっちゅう越えてやってくる。

「おお、久しぶりぃ、エイフィールドのくそったれ粉雪。真っ白けっけのおぞましい光景。気が狂ったみてぇなこの気温。そして今日でおさらばだ。」
ジェスはにやりと笑って剣を振り上げた。
「さぁ行くぞおまえら!エイフィールドを叩きつぶしてやれ!」
雄叫びが轟く。
白い大地が赤い穢れに染まるときが再びやってきたのだ。


最初は突撃の隊列で押していたエイフィールド勢だったが、次第に数を増すバルドンの軍勢に少しずつ切っ先が鈍り始めた。だがバルドン勢も慣れない光景と気温にそう簡単に押し返すことができない。雪に足を取られたところを切りかかられ、砦から矢を射掛けられ、確実に削られていく。
しかし時折白い固まりの中に爆音が響いてぽっかりと穴が空き、黒い固まりが雪崩れ込む光景は、数時間後の戦局を表しているようでもあった。
「あの中にカオスいたらまずいなぁ。ま、大人しくやられるタマじゃあないか。おい!『銀騎士』を探せ!必ずどこかにいる!もたもたすんな!増援くるぜ!」
ジェスの声は戦場に響き渡り、双方の兵士たちの心にどよめきを走らせた。
銀騎士は増援の騎士団と共に現れるのではないのか。今回は最初からここにいるというのか。
銀騎士はまだここにはいない。だがもしいてくださったなら、圧倒的な数の中にも希望が見える。

ヒューバートはひっきりなしに敵を打ち倒し道を切り開きながら懸命にカオスの姿を探していた。
必ずいる。結界の揺らぎは『白銀の剣』に伝わる。カオスが結界近くに来ているならば、戦場に飛び込まずにいるわけがない。絶対にジェスよりも先に見つけなければ。そうでなければ今ここにいる意味がないのだから。
向かってくる敵の姿と剣先の描く線ばかりが飛び込んでくる視界が雪で煙る。
血煙に取り込まれそうになる前に先へ進み、さらに空気を濁らせていく。
一瞬でも目的を忘れれば気が狂いそうな空間。
目の前に迫る白と黒のせめぎ合う境界線をなぞった瞳が、そこで止まった。
全身を覆う白い鎧。いつもの銀色に輝く姿ではない。
だがわかるのだ。
敵に向かうその姿が、剣を振るうその姿が、馬を駆るその姿が、戦場においてどのように見えるか、幾度となく経験して知っている。
ヒューバートは緩む口元をぐっと引き締めて方向を変えた。
見失っていた自分の居場所を取り戻したなら、いつまでも呆けているわけにはいかない。
カオスの後方へ。その背中を守る場所へ。
いざとなれば身代わりになる覚悟などとうの昔にしていた。相手が誰であろうと、絶対にその命を守って死ぬのだと。
ジェスより先にカオスを見つけた。なら次にすることは決まっていた。

戦場はうめきや叫びに満ち、誰もその名を呼ばなかった。
だが押されながらも瞳の奥に希望を失わない兵士たちの姿が高らかに叫んでいた。
自分たちと同じ白い鎧を身に纏い、疾風のようだと謳われた白馬に跨って、傍らの副官と共に戦場を駆け抜ける。
英雄『銀騎士』の名を持つ者は、確かにここにいる。
白く美しいエイフィールドが無残に汚される、どこを見ても地獄絵図のような光景の中、その姿は何よりも気高く、力強く、まるで戦女神のように見える。
この戦は勝てるのだと、例えこの身が切り捨てられようとも、『銀騎士』がここにいる限り、愛した故郷は、多く暮らす愛すべき人々は大丈夫なのだと、そう思うことができる。
エイフィールドの兵士たちは一歩、また一歩とバルドンの軍勢に踏み込んでいった。

カオスは後方で鳴る剣の音を聞きながら、泣きたいような気持ちを必死にこらえていた。
当然のようにそこにいる存在に当然のように寄りかかるようになったのはいつからだったろう。
空気が変わる。ふさがっていた気管にそよ風が舞い込んだように。
体が軽くなる。まるで二人で一つの体を動かしているかのように。
その心地よさに、自分がどれだけ脆い人間であるかを思い知る。
すぐ近くで兵士が馬から落ち、一言言い残して旅立った。
「……カオス様、後をよろしく頼みます…。」
それが合図だったのか、至るところから声が上がり始めた。
大丈夫だ、カオス様がいらっしゃる。
カオス様、どうか私たちをお導き下さい。
カオス様、増援が来るまで持ちこたえることができるでしょうか。
カオス様、敵はどのように…。
カオス様、
カオス様、
カオス様、

手に握る剣が雪と共に肉を切り裂き、鮮やかな赤をまき散らす。
カオスはどの呼びかけにも答えずに、ひたすら大地を汚し続けた。

「見つけた。」

風の中に影が現れた。
「ああ、ヒューバート、おまえの方が見つけるの早かったか。だが勝負はこれからだぜ?」
「黒騎士……」
カオスは押し寄せる敵をなぎ払いながら眉間にしわを寄せた。
「なんでおまえらってそうなんだ?王族自らの名乗りを邪険にするなよ。」
「バルドンの王子、ジェスと言ったか…。」
「そうそう、久しぶりだな、『銀騎士』カオス。今日は観察じゃない。おまえを壊しに来てやった。」
カオスは渾身の力を込めて剣を打ち込んだが、なんなく流される。
「…私は『銀騎士』ではない。」
ジェスは小さく吹き出して、手近なエイフィールド兵の首をはねた。
「ああ、そうだなぁ。見せてやったらどうだ、こいつらに。その兜の下にあるものを。」
心臓が止まった。
すぐに鼓動を再開したが、カオスは言葉もなく動きを止めてしまった。
すかさず斬りかかってくる兵士たちをヒューバートが振り払う。
「カオス様、しっかりなさってください!無駄口を叩くと痛い目にあうとおっしゃったのはあなたです!黒騎士が何を言おうと、ここは戦場!考える暇などないはず!」
「追いつめるって、どうすりゃいいのかねぇ。なぁ、どうすればおまえは壊れる?その副官、殺してやろうか。」
くり出す攻撃をことごとくかわされ、にやにやと笑う唇から出てくる言葉に揺るがされる。
カオスは兜の中で汗をかきながらこのままではいけないと思った。
『銀騎士』の名はどこにでもついてくる。
白い鎧を纏おうと、呼びかけに応えまいと。
ならばこの身は動揺を表に出したり、黒騎士に敗北するわけにはいかないのだ。
特に今、この場所において。
「……ジェス、私を壊しに来たと言ったな。ならばその剣で向かってきてはどうだ。バルドンの王子が立つのは口先だけか?」
「それはこっちの台詞だろう。『銀騎士』様は以前よりも腕が落ちたようにお見受けしますが?殺すのは簡単だ。オレはおまえを壊しに来たんだよ。」
向かい合う二人の間に風が切り込んだ。
「カオス様!私が引き受けます。あなたは隊列の崩れているところへ!」
ヒューバートの剣がジェスの剣と交差してせめぎ合う。
「舐めてるのかヒューバート。おまえはカオスより下だ。」
「だから私が引き受けるんですよ。」
カオスは下唇を噛みしめた。
ヒューバートはこちらを見ようともしない。本気でジェスをひきつけて自分を逃がすつもりだ。
背中が逃げろと告げている。
このまま、またしても一人で逃げ出すのか。
どうすることもできず、後悔することを知っていて、それでも強い決意を無駄にすることもできずに?
カオスはジェスの横手から体ごと突っ込んだ。
「カオス様!」
非難の声が飛ぶ。
「黙れ!私は『銀騎士』ではない!そんなものであるはずがない!私は私だ!何と言われようとおまえを見捨てたりするものかっ!」
ヒューバートはため息をつき、聞こえないようにつぶやいた。
「馬鹿な。…あなただから『銀騎士』に選ばれた。あなただから……この命を懸けるのではありませんか。」
三人の打ち合いは続き、二対一でありながらジェスよりもカオスの方の疲労が著しかった。
カオスは荒い息を吐きながら繰り返し斬りかかり受け止めしたが、とうとう一撃を食らった。
「兜をかすっただけだ!こっちを向くな!」
傷を負ってはいない。だが兜に大きな切り込みが入ってしまっている。
この調子で攻撃を受けていたらいずれは黒髪が暴かれる。
はっとしてジェスを見れば、怖気の立つような嘲笑を浮かべていた。
殺しに来たのではない、壊しに来たと言った。この男の狙いは兵士達の前でこの姿を暴くことだというのか。
「そんなことをすれば…」
士気は目に見えて落ちるだろう。『銀騎士』の影響力は嫌というほど知っている。多くの人々が死に、噂だけは残って、必ずヴォルトの妨げになる。そしてまた数多の人間が死ぬ。
それだけは。
「ヒュー!私は……っ…わ、たしは……」
思わず口を開いたものの、何を言おうとしたのかわからなかった。
打ち明ける?言い逃れをする?何も。何も言えることなどない。
「『銀騎士』カオスは死んだと思え。忘れろ。その女は二度とエイフィールドの地を踏むことはない。」
カオスはシルフィードの背から降りて走り出した。
兵たちの間を駆け抜け剣と剣の下をくぐり、ひたすらに結界のひずみへと。
ヒューバートは慌ててシルフィードの背に乗り移り、後を追おうとしたが、押し寄せる軍勢になかなか身動きが取れなかった。
「馬鹿がっ!カオス!おまえは結界を越えることはできない!どれだけ望もうと時の砂は決して許しはしない…っ!」
ジェスが流れを遡る。
黒の中の小さな白は着実に前へ前へと進んでいた。

空から大地へ。
そこには大きな切れ目が存在している。

カオスは黒馬を奪い、バルドン勢を真っ二つに切り開いた。
白かった鎧は頭から血をかぶってどす黒い赤に染まりつつある。
鬼神のようだと、自分でも思った。
なぎ倒し、切り捌き、踏みしだいて前へと進む。
「私の前に立つな!阻まないでくれ!お願いだから…っ」
叫びながら駆け抜けた。
最後の障壁を切り裂いて、バルドンへ続く道へとそのまま飛び込めば、周り中の空気が押しつぶし、何かを激しく拒絶した。
ああ、そういえば。
結界を出るときには安らかに、決して気を荒げてはならないのだったか。
「……無理な話だ。」
カオスは自嘲して少し笑った。
そうして空間は大きく揺らぎ、震えて、薄汚れた銀騎士は戦場からその姿を消した。


城から増援がやって来た頃にはジェスはすでに兵を退却させており、残っていたのは屍と傷ついた捕虜ばかりだった。エイフィールドの兵たちはみな疲弊し、捕虜に罵声を浴びせることもせずぐったりと倒れ込んでいた。
ハミルはタブローに指示を仰ごうとしたが、タブローは一言も発さず、ただ血みどろの戦場を見つめていた。
ふと、その目が一点で止まる。
ハミルはその方向を追って、思わず声を上げた。
「ヒューバート様っ!」
走り寄れば、ヒューバートは最後に見たときと変わらない穏やかな笑顔を浮かべて軽く手を振った。
「ヒューバート様!砦の防衛に手を貸していたんですね!突然いなくなるから、城では色々と大騒ぎで…」
「…カオスは?」
背後からタブローが近づいてくる。
ヒューバートは目を閉じて軽く俯き、右手をまっすぐ差し出した。
ハミルとタブローはそろって怪訝な顔をした。
その手に握られているのは『白銀の剣』。ヒューバートの左手はシルフィードの手綱を握っている。
「預かっていただきたいのです。どうやら白銀の剣を握っていては結界を越えられないようですので。…シルフィードも、これだけ見事な色ではとても連れて行くことはできませんから。」
「どういうことです…?ヒューバート様っ、カオス様は一体…っ!」
「カオスは結界を越えたのか?」
ヒューバートは答えず、ハミルに剣と手綱を握らせて頭を下げた。
「私たちが戻ってくるまで預かっていてほしい。頼む。…隊長も、どうかよろしくお願いします。」
「ヒューバート、答えろ。カオスは結界を越えたのか?」
いつになく語気の荒いタブローにハミルの体が竦んだが、口は挟まなかった。
ハミルもカオスのことが知りたかった。
しかしヒューバートは口を開こうとはせず、否定も肯定もせずに一礼だけして歩き出してしまう。
だがハミルもタブローも、カオスは結界を越え、ヒューバートはその後を追うつもりなのだと知った。
ハミルはよっぽど追いすがって問い詰めようかと思ったが、何も言うことができなかった。
どうして。
自身に問いかけたとて答が得られるはずもないのに、心中で繰り返すばかりで声にならない。
こだまする問いかけの向こうから聞き返してくる言葉がある。

『カオス殿が本当に黒髪だったのなら、私たちを騙していたということではないのか。』

誰かに否定してもらいたくてタブローを仰ぎ見れば、タブローは鋭い眼差しのままヒューバートが歩いていった方向を見つめていた。
その剣呑な光はハミルの不安をますますかき立てた。
正規の近衛ではないハミルはヴォルトが元々警備に無頓着なこともあってあっさりと砦の防衛に駆り出されたが、今となってはそのことを感謝すればいいのか悔いればいいのかわからなかった。
ヒューバートに会えてすべての迷いが晴れたと思ったのに。心を覆う雲はいっそう黒々と、ありとあらゆる光を遮断していく。すべては疑念の固まりなのか、それとも真実なのか、何をどう信じればいいのか、どうしたいのか。
城に戻ってヴォルトの前に立つときが少しでも遠のけばいいと思った。


「どういうことだっ!あいつは結界を越えた!弾き飛ばされたのは剣だけだ!あいつはこっちに来れないはずだろっ?」
ジェスは玉座に座るダークスのすぐ前に立ち、殴りつける勢いで怒鳴った。
ダークスは面倒くさそうにゆっくりとまぶたを持ち上げ、ゆるゆると首を振った。
「そのようなことを言った覚えはないが……?」
「馬鹿言えっ!そうでなけりゃ意味がなくなるだろが!親父!説明しろよ!」
顔にかかるつばきに眉を寄せ、軽くため息をついてまぶたを下ろす。
「意味…。私にとってはバルドンもエイフィールドも意味など持たぬ。」
そしてもう何も言う気はないというように口を閉ざした。
ジェスはダークスの目の前で瞠目し、眉をつり上げ、奥歯を噛みしめて、顔を赤くするのに、ダークスは気づいているのかいないのか、ぴくりとも反応しない。
「親父……オレは…オレは…」
声が震える。
冷静さのかけらもない情けない声音に嫌気がさして、それ以上何も言えなかった。
くるりと踵を返し、無言のまま謁見の間を出て、ずかずかと歩いていく。
ごてごてした飾りのついた扉を開き、使い慣れた水瓶に足をかけた。
暫時考えて、普通に声をかける。
「…おっさん、答えろおっさん。」
水面は微かに揺れて静かな声を伝わらせる。
「何用だ。」
「……色々言いたいことがあるがどうでもいい。あいつを普通に殺したら影響があるのかないのか知りたい。」
声は珍しく愉快そうに弾んだ。
「さてな。それはオレも興味のあるところだ。だが通常殺される前に壊れるものだろうと思うが。」
「意識のないうちに殺せばいいということか。」
「それでもどうなるかはわからんがな。」
ジェスは眉根を寄せ、頬の肉を片方だけ持ち上げた。
「……そうなれば…それが、親父の望みなんだろ。」
水面は小さな波紋を作ったが、返事を聞く前に部屋を出た。
殺してやる。
あれはこの手で殺す。
17年も耐えてきたのだ。
何度も自分に言い聞かせ、衝動を必死に抑えて。
もう枷は何もない。
何にも邪魔はさせない。
ダークスが何と言おうとこの手で息の根を止めてみせる。
ジェスは両手を握りしめ、腹の底からこみあげる笑いに体を任せた。
「うわっびっくりしたー。何笑ってんですかジェス様ー。廊下で一人笑ってたら怖いですよー。」
「シャリエラ、城内に似顔絵の上手い奴はいるか?狩りをするぞ。」
「狩り?似顔絵?どこで繋がるんですかー?」
「楽しい楽しい銀騎士狩りをするんだよ。」


ヴォルトは自室の窓から空を見上げていた。
カオスの誕生日がひどい吹雪だったことを思い出す。
日に輝く雪を思わせる銀の髪が、月の光を吸い込む漆黒の闇に染まった日。
どちらもよく似合ってとても美しかったのに、痛々しいほど泣き叫んで震えていた。抱きしめればすっぽりと腕に収まって、ひどく細い体をしていたのだと実感した。それでも瞳はすぐにまっすぐな輝きを取り戻し、バルドンに行くのだと告げられて、反対しても無駄なのだと、何も言わなかった。
ヴォルトは黄金の剣を両手で掲げ、部屋の明かりにかざしてみた。
結界付近ではどれだけ凄まじい戦いが繰り広げられたのだろうか。
随分と激しい反応を示していたからには、相当な数が送り込まれたのだろう。
そしてその後しばらくして、何かに大きくはね返されたような衝撃が伝わった。
おそらくカオスはすでにこの地にはいないのだ。
一年を雪に覆われ白とそれに属する色たちに包まれたこのエイフィールドを出てまだ見ぬバルドンの地へと消えてしまった。
「……おまえは…いつもオレを置いていくんだな。」
どのような障害があろうと飛び越え、先の見えぬ距離も問題ともせず颯爽と駆け抜けていく風のような存在。
ヒューバートが羨ましいと思う。
この身を疎ましく思う。
「おまえが移動魔法を使えないことが嬉しかった。…だがオレは、そんな自分が嫌いだったよ。」
ヴォルトは苦笑して頭を掻くと、再び窓の外を見てつぶやいた。
「約束だ。どこへ行こうと、何があろうと、おまえはおまえで、…オレはおまえを愛している。」
どうかそれだけは忘れないでいてほしい。
この身がエイフィールドを離れることは叶わないけれど、覚えてさえいてくれればいつでも傍にいることができる。
おまえが悲しいとき、苦しいとき、膝をつき、もう立ち上がることさえできないと思ったときも、いつだって想っているから。
再び立ち上がるためのひとかけらの力になれればいい。
「忘れるな、カオス。必ずまた会うと…約束した。」
ヴォルトは目を閉じて、そっと開くと、大きく伸びをして肩を回した。
「さーてお仕事頑張りましょうかね。アッシュくーん、次の書類持ってきてぇー。」
窓の外はもう見なかった。
続く。
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