『光でもなく』

第一章14

「冷たいの。ちゃんと名乗ったろう?オレこそはバルドンのジェス王子様ですよ。」

「…どういうことです…」
いかな魔力を持った者であろうと結界を越えて術を行使することはかなりの制約を受ける。例えば移動魔法であれば移動元と移動先がよほど隣接していなければ使えないし、脱出は可能でも侵入は不可能だ。ここはまだ結界から遠い。ではバルドンの王子は今エイフィールドにいるというのか。バファダムとの関係は。
しかしそれらを突き止めるには目の前の人物は癖がありすぎる。
「ねぇちょっと、オレの忠告無視ぃ?登場の衝撃大きすぎちゃった?」
バファダムはこれからますます騒々しさを増すであろう現状に頭が痛くなった。
ヒューバートの眼差しは険しくこちらを探り、ジェスは水瓶の中から大きな笑い声を響かせている。
「…静かにしろ。オレを怒らせるな。」
バファダムは人差し指と中指とを眉間に当てて片目を眇めた。
「だってこいつカオスの副官よ?でもって銀髪の女騎士様探してんのよ?オレが笑うのも無理ないって。」
「……ふん、これが、な。」
不機嫌な表情は崩れずに、口元だけがわずかに歪む。
おそらく笑っているのであろうそれを見て、ヒューバートは片眉をつり上げた。
「……いかにも。私はカオス様の副官ヒューバート。…先日姿を隠されたカオス様を捜しています。」
「なぁなぁ、オレがいじめていい?」
「黙れ。」
バファダムが顎髭をさすりながらじろじろと見回してくる。
まるで材料の質を確かめているような動作だ。
ヒューバートは身動ぎせず、内心の動揺を極力表に出さないよう努めた。
すっと伸びてきた手が顎にかかる。ぐいっと持ち上げられ、上まぶたと下まぶたを大きく開かされた。
「…世界は精霊で満ちている。万物には精霊が宿っている。通常は意志を持たない。この世界を作る要素のようなものだ。」
強引に横を向かされて、今度は耳を引っ張られる。
「ごく稀に生まれつき世界の理を解し利用することに長けた人間がいる。ただそれだけのこと。そしてたいていの人間はそこで終わるのだ。」
ヒューバートは眉をひそめつつ体を任せていた。
少しでも抵抗を見せればあっけなく興味を失われ、塵のごとくうち捨てられるような気がした。
バファダムは一瞬口元を大きくつり上げ、すぐにまた元に戻した。
「聞け、正義の味方。オレにはオレの目的がある。」
ようやく手が離れていく。
ヒューバートは大きく息を吸い込み、異臭を感じて鼻を擦った。
「そんなことは知っています。」
腐った肉や血の臭いだけではない。筆舌に尽くしがたい悪臭が床を這いずっている。
深く息を吐いた。
「たいていの人間には理由や目的がある。とうてい私に抱えきれるものではありません。だから私は可能性を開くことしかする気がない。」
「ならば見て見ぬふりをし続けるがいい。」
「だが、カオス様は違う。あの方は悩み苦しみ考え続ける方だ。…教えていただきたい。あなた方は一体カオス様に関して何を知っておられる…?」
「ふん、おまえはオレの目的のために生かしておいてやろう、と、ただそう言うつもりだったのだがな。」
バファダムは少しだけ愉快になった。
目の前の男は相変わらず気にくわなかったが、実験材料としてはなかなかに興味をそそる。
盲目的にカオスを信仰し、自らは可能性を開くだけだと言う男。
これから先どのように影響を及ぼし及ぼされるのか。
資料は多ければ多いほどいい。
「ジェス、教えてやれ。」
水が大きく波打った。
「可哀想ーに。まぁオレとしては楽しいから構わないけど?…カオスはこっちに来ようとするだろう。となりゃもちろん結界だ。途中でドジこいてなけりゃそろそろ着いてんじゃないか?だがしかーし、あいつは決して結界を越えられない。」
ジェスは笑いを噛み殺して揺れる声を区切り、一呼吸置いてにやにやと言った。
「競争だな、おまえがあいつを捕まえるが早いか、オレが壊すが早いか。…実はもうすぐ出陣なんだわ。」
「何?……貴様、そこはどこだ。いくら王族でも結界を越えて術を使うことは……っ」
「くっくっくっ、確かにオレにはできない…が。」
水瓶から水があふれる。
黒い甲に覆われた腕が騒がしい音を立てて水面を突き破った。
一つの灯火がしぶきに消され、バファダムは露骨に顔を顰めた。
ヒューバートは声もなく目を見開くことしかできない。
「おっさんにより常時繋がれたこの空間ではなんら障壁がない。来いよ副官、オレの娯楽に彩りを添えろ。」
濡れた人差し指が手招きする。
ヒューバートは剣の柄を握りしめ僅かに刀身をのぞかせたが、すぐに封じ、ゆっくりと手を離した。
何もかもわけがわからない。どうするべきなのか判断もつかない。大きな罠に誘い込まれているのかもしれない。
が、どうにも動かなければならない理由というものはいつだって必ず一つだけ存在している。
バファダムに向き直って一礼する。
「…先ほど、私にこうおっしゃいましたね。稚拙な策を巡らす輩か、頭に浮かんだことを考えもなしに並べる輩かと。あなたのおっしゃる通り、私はどちらでもある。正直、あなたという方が計りきれない。どのような策を巡らせても無駄であるなら、本当のことを述べるしかないではありませんか。」
バファダムは顎髭を軽くなぞってどうでもよさげに椅子に腰掛けた。
ガラス器具を手に取り、中の液体をくるくると回しながら言う。
「ただの愚か者か。」
「ええ、あなたを見たときしまったと思いました。どう見ても一人で容易く扱えそうな相手ではない。捕虜を解放するなどとてもできそうにない。私の方があっけなく殺されてしまう。」
小さく鼻を鳴らし、紫色に遊ばれて回転する眼球を見つめる。
せっかく見逃してやると言ったのにこの愚か者はこのうえ何をするつもりなのか。
どこまでも痛い目を見たいのであれば眼球の一つや二つくりぬいてやってもいい。
どこをどう伝わったのか、黒髪の女の生首を飾るのが好きだの浅黒い肌を剥ぐのが好きだの、捕虜たちの間で様々に噂されていることは知っているが、別にバルドン人や異端者にこだわっているわけではない。単にそれらがもめごとを起こさず手に入れることのできる材料だっただけで、むしろ実験に偏りが出るのを常々危惧していた。
めったに扱えないエイフィールド人からいかほど調達しようかと視線を送れば、ヒューバートは口元だけで微笑し、瞳に鋭い輝きを走らせた。
「…ですが、やがてあなたがカオス様に仇なすならば、私はこの命に代えてもあなたを討つでしょう。」
ヒューバートは再度礼をしてジェスの手をとった。
「あーはっはっはっは!気に入ったぁヒューバート!責任持って送り届けてやるよ!せいぜい頑張ってみせろ。」
ジェスは高らかに笑いながらじき戦いの始まる場所へと空間をねじ曲げた。

腕は水瓶の縁を乱暴に叩き、こらえきれないといった様子で笑い続けている。
「黙れ。」
バファダムがどれだけ声を低くしてもまったく効果がない。
「腕をもいでほしいか。」
「おっさんそんなに怒るなって。悔しいのはわかるけど。」
「ふん、どうということはない。脅しにもならん。」
「またまた、脅しとかじゃないだろ?言い逃げされたのが悔しいくせに。」
ジェスは手を軽く握って勢いよく開き、バファダムに向けて水滴を飛ばした。
ほこり色の床が濡れる。
返された沈黙の中にどうしようもない怒りを見て、取り返しがつかなくなる前に本題に入ることにした。
「で、どうすればヒューバートに勝てる?」
「……簡単なこと。追いつめてやればいい。」
ジェスは「ふーん」とだけつぶやいた。
「おっさん、早くこっち来いよ?太陽が嫌いとか言ってる場合じゃないだろ。」
茶化して言えば、バファダムは椅子に背中をもたれさせて疲れたような息を吐いた。
「まぁ心配するのもアホらしいけど死ぬなよ、じゃあな。」
これ以上の長居は無用。
軽く振って水の中へ戻ろうとする手を、透き通る声が止めた。
「……先ほどのお客様の馬はいかがいたしましょうか。」
扉の前に控えていたピーリエがバファダムの指示を待っている。
「馬などいらん。ジェス、責任を持って送り届けるんだな。」
ジェスは水瓶の縁にぐったりと腕をかけ、「はいはい…ちょっと座標がずれるかもしれないけど運が良けりゃなんとかなるだろ。」と言って苦笑した。

やがて部屋は静寂を取り戻し、かすかな炎の音だけが耳をくすぐる。
バファダムは椅子にもたれたまま、こぼれた水に濡れている床を見て鼻で笑った。
「道化の多いことだ…。」
立ち上がり、一つだけ消されたランプに火を灯してから両手を洗う。
机の上に所狭しと並んだ瓶やかごや箱や書物に向かい、再び静けさの中へと身を沈めた。
ピーリエは主の姿をずっと瞳に映していた。


ヒューバートはきょろきょろと辺りを見回して傍の大木に手をついた。
立ち並ぶ木々の向こうに砦らしきものがある。見覚えのある柵と塀。
ジェスは言葉通りに結界へと連れてきてくれたようだ。
まだ襲われているような様子はない。ジェスはこういった嘘をつく男ではおそらくない。
ヒューバートはすぐさま走り出した。
エイフィールドとバルドンはそれぞれ結界に覆われている。
創世記の記述によれば初代エイフィールド国王が『白銀の剣』と『黄金の剣』を用いて互いの世界から光と闇が漏れ出さないよう作り出したものだという。かつては何人たりとも越えることは叶わなかったと多くの歴史書が語るが、力が弱まったのか何らかの力が加わったのか、現在では一個所に亀裂が走り、小さなひずみが生じている。
出ることは易い。入ることは難い。
守るのは容易だが攻めるのは難しい。
しかしここ数年積雪の少ない季節になると必ずバルドンの軍勢が攻め込んできた。多いときは年に五回ほど。まったく成果があがらないにも関わらず、まるで決まり事のような侵攻。
そして今年、終日雪の降り止まぬ季節に送り込まれた軍勢。

『観察以上のことをすると親父に怒られちゃうだろ。』

嫌な予感がした。
バルドンの王子の人となりは知らない。
だがあれはカオスにとってよくないものだ。
ならば負けるわけにはいかない。
ヒューバートはバファダムとジェスの会話を思い返しながら、一片の躊躇なくジェスの手をとった自分に苦笑した。
材料として捕らえられているバルドン人たちを放ってきてしまったことを知られたらどう思われるか。
シルフィードさえ置き去りにしてしまった。
だが今は一刻も早く砦へ行かなければ。
「そしてあの男よりも先にあなたを見つけ出す。」
柔らかな地面を蹴りつけ、突き刺す風に正面から突っ込んで前に進む。
白い風はバルドンの兵たちを怯ませるだろう。
しかしヒューバートは次から次へと叩き付けてくる雪が鬱陶しくてならなかった。
吹雪がカオスの姿を隠そうとしているような、そんな気がした。


頬に幾筋もの涙が流れた跡があった。
荒く息をしているはずなのに、一つ一つがとても儚く思えた。
いつも穏やかな響きの声がまるで獣のような呻きを発する。
タブローは妻の手を握りしめ、天に祈った。

どうか妻と子の命をお守りください。
無事に生まれてさえくれたならそれ以上は何も望みません。

やがて大きな泣き声が、力強い生命の息吹が部屋中を駆け巡った。
タブローは涙を流して妻と微笑みあった。
よくやったと声をかけ、労るように口付けを送り、産婆を振り返る。
やつれてはいるが晴れ晴れとした表情の妻が赤ん坊の顔を見たいとせがむ。タブローも思いは一緒で、妻が苦しい思いをして生んだ子供の顔を早く目にしたかった。
しかし年老いた産婆は赤ん坊を白い布で包み込み緩慢な動作で頷くだけで、顔を見せようとしない。
「旦那様……」
そう呼ぶので近づけば、ようやく赤ん坊を見せた。
小さな命。小さくても精一杯生を叫んでいる命。
タブローの目はすでに濡れそぼっていたが、また目頭が熱くなった。
早く見せてやりたいと勢いよくベッドを振り返る。
妻は微笑んだまま眠ってしまっていた。
疲れ果てているのだろうと思ったが、やはり生まれた子供の顔を二人で見たくてそっと揺り起こす。予定より早く生まれたものだからまだ名前も決めていない。すぐにでも似合いの名を話し合いたい。どんなふうに育てるか、どんなふうに育ってほしいか、膨れた腹をなでながら何度も繰り返した話題を今また繰り返したい。
しかし妻は目覚めなかった。
体を揺さ振っても、頬をなでても、軽く叩いても。
優しい瞳が開かれることはなく、か細い吐息がもれることもなく、血の流れさえ目を覚ますことはなかった。
天はタブローの望みを半分しか叶えなかった。
タブローは妻の手を握ってうずくまり、声もなく叫んだ。

「……何故赤ん坊の顔を見せてやらなかった。せめて…見せてやりたかった…。」
産婆は啜り泣いて首を振った。
「…奥様には申し訳ないことをいたしました。けれど…これでよかったんです。」
幼い頃から側に仕えていた女性だったが、タブローは本気で怒りを抱いた。
産婆は赤ん坊をタブローに渡し、固く閉じられている目元にそっと手をやる。
一瞬だけ、はっきりと瞳の色が見えた。
幻だと思った。
幻だと思えば思うほど幻ではないと確信した。

そこにあるのは。
この世界にあってはならない、呪われた色。

どうすればいいのだ。
この愛しい命をどうすればいいのだ。
妻は微笑んでいる。急速にぬくもりを失いながら、しかし微笑んでいる。
どうすればいいと問いかけたかったが、口を開くことさえもできなかった。
どうにもできなければどうするというのか。
生の反対は死しかない。

タブローは産婆を一瞥し、腕の中の赤ん坊を軽くあやした。
「…おまえならばこの子をどうする?」
産婆は涙を拭いながら嗚咽混じりに告げる。
「…異端と蔑まれ石で追われるために生きるよりは今のうちに…その方が旦那様も…」
タブローは赤ん坊にキスを送り、そっと抱きしめた。
「そうか、では婆や、おまえを殺そう。今までよく仕えてくれた。」
今さら異端者が一人増えようとこのエイフィールドが滅びるものか。滅びるとしてもこの子を殺したりなどするものか。赤子を殺さなければ立ちゆかないような世の中ならさっさと滅びてしまうがいいのだ。終末が訪れるまで誰にも命を奪わせやしない。
呪いはすべて自分が受けよう。
どのような罪を犯そうとこの命を守りぬいてやる。
産婆は息を呑み、覚悟を決めたように頷くと、声をひそめて言った。
「…旦那様、ならカオス様にお願いなさいませ。カオス様は不思議な力を持っておられる。呪われた色を封じてくださる。…そういった話を耳にしたのです。黒髪の子を金髪にしていただいた者も多くいるとか。頼りない噂ではございますが、頼るほかございません。」
タブローは驚きに目を瞠りながら一つの噂を思い出していた。

『銀騎士が異端者を隠している。』

カオスに忠告をしたとき自分は一体どのような顔をしていたろう。
タブローは心から己を恥じた。
異端として生まれた者に罪などあるものか。
カオスが今どこにいるのかをつきとめなければ。この子を守るためならすべてを放り出そう。
今すぐにでも城に戻りヴォルトの部屋の扉を蹴破って問いつめたい衝動を、侍女の声が押しとどめた。

「申し訳ありません旦那様!城から火急の使者がおいでになっています!結界近くにバルドンの兵が集まっているとのこと!」

わかったと一言告げて産婆を見ると、示し合わせたように頷き合う。
「騎士隊長として最後の務めを果たす。その子を誰にも触れさせるな。戻ったときその子がいなければ、私はエイフィールド中の人間を皆殺しにするだろう。」
続く。
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