『光でもなく』

第一章9

少し眠っただけでも随分と違うものだとカオスは思った。
まだ体力は戻っていない。だが人の気配で目が覚めるほどには快復したようだった。
ヴァンは自分の部屋だから大丈夫だと言ったが、向かってくる足音はヴァンのものではない。
戦うか、逃げるか。
相手の技量が推し量れない状況で一つを選ぶのは厳しい選択だった。
ヴァンの部屋は狭い。あるのはベッドとテーブル一つ、後は布のかけてある水桶くらいだ。
第三の選択肢を選ぶなら、場所は一つ。
カオスはベッドの下に潜んだ。
間一髪のところで扉が開く。
「ヴァン、聞こえているかい?僕は体力派じゃないし医者でもないんだよね。こういうとき黒髪というのは下手な医者に診せることができなくて面倒だ。僕は君を結構気に入っているんだよ。スプーンより重いものを持ったことのないこの僕がここまで運んできてあげたんだからね、君の自然治癒力に期待しているよ。」
聞き覚えのある声だった。過去に二、三回だけ会ったことがある。
聖教会の最高司祭、名をフローリオと言った。
眼鏡の奥の瞳にいつも微笑みを称えたまだ年若い青年。
カオスは銀の剣を握る手に力をこめた。
他に選ぶ場所がなかったためベッドの下を選んだが、ここほど見つかれば終わりな場所はない。
しかしカオスの心配をよそに、ベッドに重みが乗ったかと思うと扉はあっけなく閉められた。
足音が去るのを待ってからベッドの下を抜け出せば、上にはヴァンが苦しげに横たわっていた。
「……ひどいな……腕と…肋が数本いっている。肩も強く打っている。いや、全身か。私のことを気取られて責められたのか?」
訓練でも戦場でも戦う者に怪我はつきものだ。応急処置くらいのことならできる。
素早く手を動かしながらカオスはヴァンがうめくたびに顔を歪めた。
汗が玉になっている前髪を払って額に手を置くと、やはり熱が出始めている。
カオスは水に濡らした布をそっと押し当てた。
まつげが小さく震え、熱に潤んだ瞳がのぞく。
「ソルティア……」
うわごとをつぶやいたかと思えば髪をつかまれた。
「バルドンでは、黒、は……優しい…夜を象徴する、色だ。あの灼熱の地で…オレたちは夜だけ安らぐことができる。…艶やかな、黒は………何よりも、綺麗だって言われるんだ。ここは真っ白だ。雪…ばかりだ。それでもおまえの、髪と瞳は……き、きれ…いだと、思う。」
カオスは苦笑もできずにヴァンの好きにさせていた。
ソルティアとは女の子の名前なのだろう。黒髪、黒目の。エイフィールドにおいては異端と呼ばれるしかない少女に、ヴァンは精一杯の心を送っているのだ。
自分が聞いてよい言葉ではないと思いつつ、何も言うことができなかった。
だが、ヴァンの瞳が怪訝に揺れた。
「違う……目が…。」
カオスの瞳は黒ではない、青灰色だ。
ヴァンは痛みが急に襲ってきたかのように悶えた。
「すまない……。」
思わず謝ってしまったカオスを激しく燃える双眸がにらむ。
失言を後悔しても遅い。カオスは神経の使い道がわからない自分を叱咤した。
「……異端、じゃない。」
ヴァンが痛みに身をよじった。わずかな動きにさえ歯を食いしばる。
「…オレは違うんだ。……あいつと同じじゃ…ない。」
荒い息の合間に低い声を吐き出して、カオスの髪を引っ張った。
「同じなら、…救いになるか?少しでも……変わるのかよっ!」
眦からあふれそうになる涙が熱のせいなのか痛みのせいなのかわからなかった。どうでもよかった。
今すがっているのは敵ならば殺すと言ったばかりの正体の知れない人間だ。
それでも、自分ではだめなのだ。
自分がソルティアのためにしてやれることは、何一つない。
もしかしたら敵かもしれない風変わりな異端者。バルドン人ではなく、黒髪を持つ異端者。
その髪を手に握りながら、ヴァンは心から祈った。
この人間が敵ではなく他のどれでもない、可能性であることを。
「ソルティアに…会え。ソルティアを助けてくれ。オレはあんな馬鹿なやつ…見ていたくないんだ……。」


カオスは途切れ途切れの説明を聞いて部屋を飛び出した。
頭からマントを被っただけの、見つかればどうしようもない姿だったが、ヴァンの必死な様子に応えたかった。
苦しげな吐息にかき消されながらの説明はところどころ要領を得なかった。
だが言葉にされずともわかることがある。
ヴァンはソルティアを守りたいのだ。自分が助けてやりたいと思っていたに違いない。
捧げられた告白にかっての己を思い返した。
あの日、銀の髪が黒に変わった日、馬鹿馬鹿しいと笑っていた呪いを身に受け、恐ろしさに叫んで泣いた自分をヴォルトが抱きしめた。
怯むことなく黒髪に触れ、おまえがおまえである限り変わらず美しいと言った。
どれだけ救われたか。
あの腕の中、どんな想いで涙したか。
己の非力を苦しむヴァンに、それまで嘲っていた呪いに心底怯えた愚かな女をあのときおまえが救ったのだと、言いたかった。
だがカオスがヴォルトとヴァンを重ねても、ヴァンが救いたいのはソルティアだ。
自分に何ができるのかはわからなかったが、考える間もなく足が動いていたのだからどうしようもなかった。

小さな泣き声を鬱陶しいほどのカーテンが覆い隠していた。
カオスはわざとコツンと踵を鳴らした。
すぐに鈴の鳴るような声が返ってくる。
「フローリオ?」
「残念ながら私はそのような名前ではない。」
喉の奥に悲鳴を押し込めたような音を聞きながら、カオスはカーテンの中を進んだ。
「安心していい。危害は加えない。私はヴァンに救われてここに来た者だ。怪しい者ではない。」
くぐりぬけると、大きなベッドの上に小さな少女が青ざめた顔で座っていた。
黒髪が肩を滑って白いシーツに流れている。立ち上がれば太股のあたりまであるのではないだろうか。
白い部屋の中で少女の周りだけが黒く染まっているようにも見えた。
視線が合うと少女は大きくはねてすぐにシーツを頭からかぶった。
「ヴァ、ン………?でも…ここは…ヴァンとフローリオしか……………」
「ソルティアという名だと聞いている。重ねて言う。怪しい者ではない。だが『フローリオ』には会いたくない。詳しくは言えないが私は嫌われている。だから声は抑えてほしい。」
ソルティアは頷いたが、その様子はどう見ても脅されている状態と同じだった。
カオスはマントをとろうとしていた手を止め、素早く近づいてシーツごとソルティアを抱いた。
腕の中で華奢な体が強ばる。まるで呼吸の仕方を忘れたかのような音が喉元から繰り返し聞こえてきたが、カオスはソルティアが落ち着くのをじっと待った。
「私は危害を加えない。理解してもらえただろうか?」
ソルティアはシーツの奥から目で探った後、こくりと頷いた。
自分の姿を見ても抱き寄せてきた両腕。温かく優しい腕。少なくとも自分の敵ではないのだろう。
だがフローリオに会いたくないという言葉だけが理解できなかった。フローリオの敵ならば自分にとっても敵となる。
カオスはシーツ越しにソルティアがまだ緊張を解いていないことを悟っていたが、無言で頷きを返した。
「ではこれからマントをとる。」
ソルティアは自分を見据える青灰色の瞳に眉をひそめる。
カオスは構わず黒髪を晒した。

ソルティアは声を出せなかった。
目の前のものはなんなのだ。
両目を彩るその色は正しい。この世界にある色だ。
だがその髪は、自分と同じ。この世界にあるべきでない色だ。
これは自分なのだろうか?それとも違うのだろうか?
ただ、許されない。
許されない色を持つものだと思った。

無意識のうちに攻撃が始まっていた。
攻撃はいつも涙のように勝手にあふれる。
制止しようとしたときには終わってしまっているのだ。いつもそうだった。
しかし、勝手に飛んでいったはずの攻撃は、目標の前で消えた。

「………………魔力、だと?」
とっさに力を使って相殺できたものの、カオスは激しく動揺していた。
魔力を持つのは王族のみ。
エイフィールドに限らずバルドンにおいてもそれは常識だ。だがまれに何故か王族以外にも魔力を持つ者がいると聞く。随分と稀少だという話だった。今までそれなりの数の異端者を見てきたが、魔力を持つ者にはお目にかかったことがない。しかし自身がそうなのだ。その存在を否定する気など毛頭ない。
目の前の少女はおそらく王家に連なる者ではなく、突然変異。異端の力を持つ異端の少女だ。
カオスにとって力は珍しいものではなかった。
ヴォルトがいたからだ。
記憶の始まりにはすでにヴォルトがいて、当然のように力も共にあった。
自分の力に驚いたのは後から知識を与えられたときだった。
だがソルティアはどうだろう?
答は見る見る背中を曲げていくシーツでわかった。

「怖がるな。私は怖がらない。だから怖がる必要はない。」
再びカオスに抱きしめられてソルティアは叫び声をあげた。
「いやぁぁっ!触らないでっ!怖い…っ…フローリオ!」

力が弾けようとするがその度に何かに抑えつけられる。
未だ味わったことのない恐怖に涙と声をぶちまける。
怖かった。
初めて自分以外のものを心底恐ろしいと思った。

「ソルティア。怖がるな。私は危害を加えない。私が抑えている限りおまえの力が暴発することもない。落ち着け。私はおまえの力になりたい。」
半狂乱になって長い髪を振り回すソルティアを、カオスはじっと抱きしめていた。
いやいやと揺れる頭を抱き寄せ、その黒髪に口づける。
ヴォルトが自分にしたことを思い返しながら「大丈夫だ、ソルティア。」とそればかりを繰り返した。
ソルティアはますます混乱した。
呪われた自分を抱きしめたのはフローリオだけだった。自分に口づけたのもフローリオだけだった。
このぬくもりはフローリオではないのに、どうしてこれほど優しいのだろう。
瞳の色が違う。これは自分ではない。
しかし得体の知れない力は自分と同じものだ。これほど自分に近い存在と出会ったことはなかった。
それでもこれは自分ではない。
「あ、なた…は…何なの……?あなたは私じゃない。だって…怖いの。私は怖いのっ!」
カオスはソルティアの頬を両手で包んで涙に濡れる瞳を開かせた。

「私は私だ。」

ソルティアはまつげを震わせる。
「あなたも……化け物なの…?」
「私もおまえも化け物ではない。化け物になることもできるが、ならないこともできる。結局は自分でしかない。ソルティア、力は制御するものだ。使いこなせないから恐れる。魔力での攻撃を反射的にしてはいけない。」
カオスは自嘲した。
ソルティアへの言葉は自分への戒めでもあった。
ソルティアの頬を伝う涙に手の甲ですっと触れて、少し微笑む。
「私は呪われてはいない。おまえも。バルドンでは黒は安らぎをもたらす優しい夜の色だそうだ。おまえの髪も、瞳も、美しいと思う人間がいる。その魔力もおまえの一部にすぎない。自分に怯えるな。受け止められないのなら…戦えばいい。」
ソルティアは目の前の微笑みを綺麗だと思った。
肌の白さを際だたせるその黒髪でさえ美しいと思った。
戦うと言ったときの力強い眼差しが羨ましかった。
優しいぬくもりは確かに安らぎをもたらしていて、ソルティアは自分から求めるように抱きついた。
これは自分ではない。自分であるはずがない。
けれど、自分もこうなれるだろうか。戦えるだろうか。
「おまえは私ではないが、私たちは似ている。ソルティア、自身に呪いをかけるものはいつだって自分自身だ。自分で呪いを解け。」
かけられた言葉がとても嬉しかった。

「これは驚きだな。我が教会にようこそ。何をしにおいでになったのです?銀騎士カオス殿。」

ソルティアの肩が大きく揺れた。
カオスは背後にいる人物が誰か承知でソルティアを抱きしめ、顔だけそちらに向けた。
堪えきれないといった様子の笑い声が響く。
「くくくくく…っ…はっはっはっはっは!見事な黒髪ですねカオス殿。よくお似合いですよ。」
フローリオは眼鏡の位置を直して口元を手で覆った。
「なるほど。あなたが失踪したという情報を受けてここぞとばかりにデマ話を使ってみましたが…デマはデマではなかったというわけですね。どうしてここにおられるのか、だいたいの想像はつきますが詳しく教えていただきたいところです。」
カオスは不快をあらわに顔を歪めた。
「…私の方こそ教えていただきたいところだ。この少女は一体何故このようなところに隠されているのか?聖教徒にとって異端者は狩るべき存在であるにも関わらず、何故この少女だけ大切に隠してあるのか、とな。」
フローリオが面白そうに目を細める。
「カオス殿、あなたはヴォルト王子の乳兄妹でしたね。」
カオスは何を今さらと怪訝な顔をしたが、腕の中でソルティアが体を強ばらせた。
「ヴォルト王子は雪害に遭った土地の視察に赴いた際、村人に斬りかかられて腕を負傷したそうですよ。」
ソルティアの歯がかちかちと音を立てる。
カオスは動揺を気取らせまいと軽く笑った。
「だからどうした?」
「例年に比べて雪の被害が多いとは思いませんか?村人達は言ったのですよ。バルドンのせいだ。バルドンが何かしている。バルドンを攻めよう、とね。ほら、この時期バルドンからの攻撃はないはずなのに何故か先日攻めてきたでしょう。住民達も不安に襲われたのでしょうね。けれどヴォルト王子はバルドンを攻めるのをよしとしなかったようです。」
それだけでヴォルトに刃を向けたというのだろうか。
ヴォルトが外交を任されていないことは民も知るところだ。例えヴォルトが頑とした態度で退けたとしても、ヴォルトは愚かではない。民への配慮も十分にするはずだ。民の強い信頼を得ているヴォルトが傷つけられるなど通常の状態では考えられない。雪害とバルドンからの侵攻で不安になっていたとしても、それだけではないはずなのだ。
カオスの心は一つの答に辿り着いていた。もうしばらく他の答を探していたかったが、唇が勝手に賽を投げる。
「…教会と王室は持ちつ持たれつの関係ではないのか。」
「随分と昔からそんな関係でしたからね。飽きたのですよ。」
眼鏡の奥の瞳が嘲るように細められていた。
カオスの眉間に自然としわが寄る。
やはり。
聖教徒が煽動したのだ。
不安定になっていた村人を巧みに操ったのだ。
おそらくは各地で民の心がヴォルトから離れつつあるに違いない。
長年騙し合いを続けながらも共存してきた聖教会が今になって牙をむいたのだ。
確信したと同時にカオスはもう一つの事実に気づいていた。
「貴様…この少女を使ったな。」
「ああ、ソルティア、カオス殿に力をお見せしたんだね?これは話が早い。いや、カオス殿の察しがいいこともあるでしょうね。その通りですよ。ソルティアは奇跡と災いを操る…教会の、私の宝です。」
ソルティアはカオスの腕の中で奇声をあげた。
苦痛にうめくような声は許しを請うているようにも聞こえた。
カオスはぎゅっと腕に力をこめると、フローリオに剣を向けた。
ソルティアの声が胸に刺さる。ソルティアはどれほど苦しんでもフローリオの死を望みはしないだろう。
だがこうせずにはいられないのだ。ヴァンの苦しみはいかほどだったろう。
カオスはフローリオをにらむ。
「私は非力なんですよ?銀騎士カオスに敵うはずもないでしょう。」
フローリオはおどけるように両手をあげ、唇を少しつり上げて囁いた。
「ソルティア…、僕のためにこの怖い騎士殿を少々痛めつけてあげてくれないかな…?」
「や………、許して…っ……フローリオ……」
ソルティアの青ざめた様子さえ楽しむように、フローリオは唇で弧を描いたまま首を振ってみせる。
「どうしたんだい?いうことを聞いてくれないのかな?」
カオスはフローリオを黙らせるために斬りかかった。
フローリオへの怒りに集中力を向けた途端、ソルティアの悲鳴のような力が襲った。

「ソルティア!呪いは自分で解け!」

爆発に押し上げられるような感覚の中、カオスはソルティアの身を心から案じた。
続く。
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