『光でもなく』

第一章1

最初にあったものはただ、無。


光も闇もなく、やがてそれが生まれるであろう空間さえもなく、兆しをもたらす時さえもなく、ただ、無であった。
しかし理は無を無で終わらせはしなかった。いつからか時間が生まれ、無は無ではなくなり、混沌が生まれた。久遠の時を経て混沌は輝かしい光を生んだ。だが光は同時に闇を産み落とし、その瞬間世界は二つに分かたれた。
光の世界エイフィールド、闇の世界をバルドン。
バルドンの闇が生んだ民たちは聖なる光を忌み嫌いエイフィールドを攻め滅ぼそうとした。エイフィールドの王はバルドンの侵攻を阻止するために時の砂から二振りの剣を創造し、バルドンの民を追いやった。やがて王は二本の剣をもってエイフィールドとバルドンに結界を張った。


長い長い愚行の、これがはじまり……。

ヴォルトは一点を見つめておし黙っていた。沈思黙考といえば聞こえはいいが、とりとめのないことばかりが頭に押し寄せてきてまるでまともな思考が働かない。机の上にはそんなヴォルトを責めたてるかのように書類が壁を作っている。いつもなら内心ため息をつきながらも一枚一枚に目を通していくのだが、今日はとてもそんな気になれなかった。やらなければならないことが心の整理を待ってくれないことはわかっている。それでも、心は行きたい場所を知っている。
目の前に置かれたまままるで手がつけられていない書類の上に、アシュレイドは乱暴にコップを置いた。
「だーっ!何しやがる!この書類は重要な…っ!!」
ヴォルトは慌てて飛び上がった。インクが滲んでしまったりしたら大事だ。一目散にコップを押しのけ書類を端から端までくまなく見る。が、水滴の一粒たりとも散ってはいない。よく見るとコップには何も入ってはいなかった。
「僕がそんな馬鹿なマネをすると思います?」
アシュレイドは冷ややかに言った。その瞳はヴォルトを静かに非難している。
「あは……あはははは……アッシュ君怒ってます?ごめんね?すぐやるからっ。」
ヴォルトはひきつった笑顔を浮かべながら自分の半分の背丈しかない少年の前で縮こまった。背丈も半分なら年も半分。自分から見ればまるっきり子供であるはずのこの小姓に、とにかく頭が上がらない。
「怒ってなんかいませんよ、ただ呆れているだけです。」
絶対零度の微笑み。長い長い冬の訪れである。
「確かめておきたいんですが、僕は現国王にエイフィールドのほとんどを任され名君と名高いヴォルト様にお仕えしているはずですよね?」
「は、はい。その通りでございますアシュレイド様。」
ヴォルトは脂汗をかいた額を床につけ、身を守る亀のように丸くなった。
「では目の前にいらっしゃる女に現を抜かして重い責任を放り出そうとしている図体のでかい馬鹿殿様はどちら様で?」
「天下の二枚目スーパースターです。」
言い終わるより早く後頭部にかかと落としを喰らう。
「ひどぉい!痛いじゃないアシュレイドちゃんったらぁ。なんてことするの!」
涙目で訴えてくるヴォルトを見てアシュレイドは深いため息をついた。
「いいかげんにしてください、あなたがそうやってふざけるのは本当にふざけているか何か言いにくいことを抱えているかのどちらかなんですよ?まぁたいていはカオス様のことが多いですけどね。」
「まったく仕方ない人なんですから……。」と言いながらその右手はヴォルトの頭上で水差しを構えている。ヴォルトはわかったわかったと必死に発水をくい止めて頭をかいた。
「創世記を思い返してたんだ。どれだけ何者かの意図を埋め込まれてどれだけねじ曲げられたのかわからない……でもうっすらと真実がのぞいているはずの悪趣味な歴史書だ。余計思ったなぁ。あいつを騎士団なんかに入れるんじゃなかった……。」
アシュレイドはカオスが黒髪になりバルドンへと旅立った話を昨晩のうちに聞いていた。しかしそれはほんのあらすじ程度のことであったため今のヴォルトのつぶやきの意味はよく理解できない。何かを明らかにしないままのつぶやきはなおも続いた。
「予感はあった。あいつを拾ったときに。『白銀の剣』があいつを選んだときそれはさらに強まった。止めていても運命は変わらなかった、だが止めていれば……少なくとも…」
この腕の中から飛び去ってしまうことはなかったかもしれないと、つぶやくことをヴォルトは己に禁じる。
その理由をアシュレイドが代弁した。
「ヴォルト様が愛しておられるのは『ともに育った乳兄妹』ではない、『カオス様』なのでしょう?ならば仕方がないと思います。」
「ああ、わかってるさアッシュ。わかってる。感情の赴くままの馬鹿みたいな独占欲だ。男の勝手な願望だ。わかっちゃいるが思わずにはいられない。ったく情けないな、『ヴォルト様』ともあろうもんが。」
ヴォルトは腰を上げてイスに座り直した。イスには豪華な細工が施してあったがところどころすり減り黒ずんでいてみすぼらしく、とても王子の座るイスとは思えない。書類が山積みの机も同様で、肘を置くとギシギシと音を立てた。握り慣れたペンにはボロボロの布が巻いてあり、変色して指の形がついている。
アシュレイドは茶を入れたコップを机の端に静かに置いた。
「僕はヴォルト様に完全無欠になってもらおうとは微塵も思っていませんよ。どんなに有能そうに振る舞っていてもあなたは情けないダメ男です。はっきり言ってゴミです。クズです!本質は変えられません。王もよくあなたに内政任そうなんて思われたもんです。」
あまりな言われようにヴォルトはイスの上でよろめいた。さすがの天下の二枚目スーパースターも少し傷ついたらしく、拳を握って力説するアシュレイドにおいおいと手を振る。
「ヴォルト様は神様ではなく人間のしかもダメな部類なんですから、できないことをしようとしたって無理なんです。感情を抑えられないくせに抑えようとするから一枚の書類と何時間も見つめ合ったまま違う世界へ誘われたりするんですよ。持て余した心はこぼせばいい。言いたくないことを聞き出すつもりはありません。言いたいことだけを話してくれたらいいじゃないですか、今みたいに。仕方ないので僕はちゃんと聞いてあげますから。」
要するにアシュレイドは事実報告だけをして葛藤をうち明けないヴォルトに腹を立てていたのだった。ヴォルトは先ほどまでの情けない顔とはうって変わって満面の笑みでアシュレイドを抱きしめた。
「ん〜、アッシュ君愛してるぜ!!!」
太い腕の中でわめきながらもがくアシュレイドに構わずぎゅっと力を込めて、ヴォルトはそっと言った。
「ありがと、な。」
アシュレイドは容赦のない力に顔をしかめながら、もうくせになってしまったため息をついた。
少年もまた、この情けない大男に弱いのだった。

ヴォルトの右手はようやく動き出した。普段より幾分か遅いペースではあったが少しずつ書類の山が低くなっていく。アシュレイドが二度目の茶をコップに注いだとき、静かな執務室に激しい足音がやってきた。
「何事ですか。ヴォルト様の執務室に断りもなく立ち入るなど失礼でしょう。」
アシュレイドが形ばかりの台詞を淡々と述べる。
来客があることは昨日のうちにわかっていたのだ。
来客―――ヒューバートは、普段の彼らしからぬ狼狽ぶりでヴォルトに詰め寄った。
「カオス様がどこにもおられません。シルフィードと共に姿を消されました。」
予想していた怒鳴り声などではない静かな声が、心なしか震えていた。そのわずかな振動がヴォルトの心に何よりも大きく響いた。
思わず、微笑む。
「何を笑っているんですか?カオス様がどこへ行かれたか、やはりヴォルト様は知っておられるのですね?」
途端ヒューバートの言葉に勢いがつく。
ヴォルトはそれには答えず、ゆるんだ口元を引き締めて問うた。
「おまえがそれほどまでに狼狽えているのは忠誠のためだけか?」
ヒューバートは瞠目して眉をひそめた。静かすぎる静寂が乱れた息を心臓にまで伝わらせる。ヒューバートは混乱していた。
何を言っているのか、この男は。
「忠誠です。意味のない家柄やくだらない組織に植え付けられたものではなく、私のすべてがあの方に忠誠を誓っている。私は見つけた。傍らを離れる気などありません。」
ヴォルトは苦笑した。
ヒューバートがカオスに執着しているのは前々から明らかだった。その執着が一体どういうものなのか、常にカオスの横にいる姿に胸の奥がチリチリすることも少なからずあったものだ。だが今は反対にそれが自分と同じものであってほしいと思っている。黒髪のカオスを追いかける理由が『忠誠』では、あまりにも心許ない。
「見つけた。・・・か。何を探していたんだ?」
ヴォルトはもう一度試した。
ヒューバートはいつまでも真相を述べず外れた質問を繰り出してくるヴォルトに苛立ちを感じ始めた。寄った眉毛が眉間にしわを刻む。ヴォルトの真意がわからない。
「すべてを懸けられるものです。この命を惜しみなく注ぎ後悔のない……。」
言葉に表せるはずもない心を短く紡ぐ。それ以上を語るのは不可能であったし、他人に語る気もなかった。
「私にこのような問いを投げかけるのは何故です?カオス様に何があったのですか?」
「会えばわかる。が、正直言って簡単には会わせてやりたくないんだなコレが。だからお前のカオスへの執着を見極めたい。」
ヒューバートがわずかに首を傾ける。泡立つ心を抑え、ヴォルトのどんな感情も見逃すまいとその一挙手一投足に目を凝らした。ヴォルトの表情は政にあたるときのように真剣そのものだ。この若きエイフィールドの王子は民の前に立つ立場からかカオスやアシュレイドの前以外では滅多に感情を顕わにすることはない。民衆に微笑んだりすることはあってもそれは王子としてのどこか意図的な笑顔であり、心の動きを読みとれるようなものではなかった。ヒューバートから見て、ヴォルトはいつも鉄面皮だった。無論カオスと一緒にいた時をのぞいて、だ。だが今日はその表情に心なしか苦悶の色が浮かんでいるように見える。気のせいだと言われればそう思うしかないわずかな異変だったが、ヴォルトにとってもっとも隠すべき『苦』がにじみ出ているのだと考えればヒューバートはあふれ出る疑問をぐっと飲み込み耐えるしかなかった。無礼を承知でじっと見つめ続ける。
「『忠誠』では足りない……。」
頬杖をついた手の奥からつぶやきがもれたのをヒューバートは聞き逃さなかった。
意味の読みとれない重く掠れた声にますます焦燥する。
ヴォルトは最後の問いを与えた。
「カオスでなければダメか?オレとおまえ、抱く想いは違っても同じ強さで、『カオス』でなければダメか?」
王子と臣下の間に置かれた距離を一気に詰めて、正面から探るように顔をのぞき込んでくる。ヒューバートはそこで初めてカオスとアシュレイド以外に向けられたヴォルトの感情を目にした。そして先ほどの不可解な微笑みの意味もやっと理解した。
それは彼の人への想いから成る願いのような祈りのような…そして同時に、苦痛。
それでもこの青年はその痛みに耐えるのだろう。すべてはあの白銀の風の精のために。
ヒューバートは間を置かず答えた。
ヴォルトは先ほどと同じ微笑みをまたもや思わず、もらした。
「あいつはバルドンに向かっている。針葉樹林の中をできるだけ最短ルートで進んでいるはずだ。その辺まで送ってやるから……オレの分もあいつを守りぬけ。」
ヒューバートは無言でうなずいた。
本当は自分こそがすぐにでも追いかけたいのだと、常に共にあり片時も側から離したくなかったと、すべてが伝わってきたから。言葉はいらなかった。


軽鎧を着込み、馬に鞍を乗せる。慣れているはずの動作がひどくもどかしい。わずかな時間しかかからないのにずいぶんと長い時間を無駄にしている気がした。自分の馬の隣にカオスの馬の姿がない。それだけで焦心させられる。ヒューバートは苦笑しながら馬を引いた。ヴォルトが待っている中庭までできるだけ人目につかないようにしようと足早に進んだが、前方から歩いてくる見知った姿を見て思わず奥歯を噛む。
「これはヒューバート殿、出撃命令もないのにどちらへ行かれるおつもりで?」
騎兵隊副官のタルズはヒューバートの全身を無遠慮に見回して首を傾げた。
「申し訳ないがお答えできません。私たちはこれから特殊任務に赴かねばならないのです。」
ヒューバートはそれだけ言うとタルズの隣をすり抜けようと頭を下げた。特殊任務というのは先ほどヴォルトと話し合って決めたカオス失踪の名目である。王子の勅令ならばたいていの輩はごまかせるだろうとつきだしたその言葉に、タルズは妙な反応を見せた。
「特殊任務ですか、あなたとカオス様が別々に行動するとはどのような任務なのでしょうね。今から発ってカオス様に追いつくのですか?針葉樹林の中は我々騎士団にとっても未だ未知の領域だというのに。」
歪んだ口元は明らかにヒューバートの動揺を狙っている。
「タルズ殿、詮索趣味と多弁な口はお命を縮めますぞ。」
ヒューバートは冷や汗の一筋たりとも見せまいと、ただそれだけを言ってタルズに背を向けた。
「ご忠告いたみいります。」
嘲笑を含んだ声がべとつくように耳に届いたが、ヒューバートは決して振り返らなかった。

その後どうにか人目を避けて中庭にたどり着くと、端の木陰でヴォルトが一人の白騎士にひざまずかれていた。ヒューバートはとっさに近くの木の影に隠れて様子をうかがった。白騎士はひどく真剣な様子でヴォルトに何かを訴えている。騎士見習いである白騎士が一人で王子に声をかけるなど相当な勇気がいっただろう。ヴォルトの脇に控えていたアシュレイドが促すとすぐに立ち去ったが、白騎士は何度も後ろを振り返りながら繰り返し頭を下げていた。
「何事ですか?」
ヒューバートは白騎士の姿が完全に見えなくなるのを見計らい、木陰から姿を現した。
「どうやらカオスの失踪はすでに騎士団の中にもれているらしいな。」
ヴォルトは低い声で言う。
「そうですね。先ほどもタルズ殿が……」
言いかけたヒューバートをヴォルトが遮った。
「タルズ?すでに騎兵隊にまで広まっているのか。だとしたら聖教会にももれている可能性は高いな。」
そのまま思案にふけってしまいそうなヴォルトの脇腹をアシュレイドがこづく。
「ヴォルト様、今考えてもおそらく答は出ません。早くヒューバート様を飛ばしてさしあげてください。結界までそう簡単にはたどりつけないとはいえカオス様が心配でしょう?」
「ああ、そうだな。ヒューバート、移動魔法は多少座標が狂う。それに計算で割り出したカオスの現在位置はあくまで予想だ。どの程度ずれるかはわからんがなんとしてもカオスを見つけてくれ。それと……少しでもおまえの心が揺らげば即あいつから離れてくれ。」
「……わかりました。」
ヒューバートは一礼して馬にまたがる。
「タブロー隊長によろしくお伝えください。隊長は確か奥方様がじき臨月でして、出産後にはカオス様とお祝いに伺おうと話していたんです。」
長い旅になるのでしょうから……と、この気持ちは決して揺らぐことはないと暗に伝えて馬上で微笑むヒューバートに、ヴォルトは手を差し出した。
言葉はない。
ヒューバートもまたとまどうことなく無言でその手を握る。
固く握りあい、どちらからでもなくそっと離した。
「道中無事でな。」
「ヴォルト様こそ、城は物騒なところですから。」

そして、次の瞬間ヒューバートは中庭からその姿を消した。

ヴォルトは目の前の虚空をしばし見つめて、やがてゆっくりと背を向けた。
アシュレイドはヴォルトが涙を堪えているのではないかと思った。しかし仰ぎ見たヴォルトの目は涙をこぼすどころか強い決意に彩られていた。それは決して虚勢などではないとアシュレイドにはわかっている。
この人は逃げられないのではなく逃げない人なのだ。
アシュレイドは自分の主が誇らしく、同時に悲しかった。だが悲しいと思うのは間違っている。アシュレイドはきっと顔を引き締め、ヴォルトの背中を強く叩いた。
「今日は午後から先日の雪害地の視察が入っています。今からタブロー様のところに迎われますと今日の分の書類が片づきません。」
「ううっ。今日は出だし不調だったからなぁ。でもタブローに今のうちにカオスたちのことを言っとかないと騎士団内に混乱が……うがああああっ!うぇ〜んアッシュくぅ〜ん。」
途端に涙声のヴォルトにアシュレイドはにこやかな笑顔で答えた。

「大丈夫です。ヴォルト様がいつもの倍近いスピードで書類を片付けてくださればいいだけですから。」
続く。
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