『光でもなく』

プロローグ3

その日は吹雪だった。
ちょうどカオスがヴォルトに拾われたその日のように激しい吹雪だった。高く積もった雪で世界が埋まり、風さえも白く染まって前も見えない。そんな日。
カオスは17歳の誕生日を迎えた。

最初に目にしたのは、黒。

カオスは自分の家が街の外れで本当に良かったと思った。自分がさっきもらした大きな悲鳴は吹雪に遮られてきっと誰にも聞こえなかっただろうから。カオスは両手で自分の顔を確かめるように触って、何か言おうと口を動かした。だが声が出なかった。口を開けば寒くもないのに歯が音を立てるばかりで、のどの奥から声を出そうとしても自分でも聞こえないくらいの声が短くこぼれるだけだった。体を支える腕が大きく震え、カオスはベッドに突っ伏した。もう一度眠りに落ちようと何度も顔を埋めてその度に首を振る。声の代わりに涙がにじんだ。ベッドの中でもがき続け、しばらくしてようやく決心がついたかのようにつばを飲み込むと、カオスはそっと鏡を見た。
まず最初に沈黙。カオスは鏡の中で歪んでいく自分の顔を最後まで見ることが出来なかった。そして嗚咽。のどに手をねじ込んで心臓を握りつぶしてしまいたいくらいの苦しみ。やっと慟哭。いくら叫んでも楽にはなれない嘔吐。
カオスは鏡に爪を立て、恐ろしさに泣いた。
そのときだった。
扉を叩く音と、何があったのかと尋ねる心配そうな声。
荒れ狂う吹雪の中を自分の誕生日を祝うためにやってきた男の声だ。
「帰れ!ヴォルト!帰れ!頼むから帰ってくれ!」
カオスは玄関の扉をしっかりと押さえて大声で叫んだ。だがその声はひどく震えている。ヴォルトはますますそのまま帰るわけにはいかなかった。
「何があったカオス!おまえがそんなに泣くなんてっ!カオス!オレにも言えないのか!?この扉を開けろっ!」
カオスは泣きながら首を振る。
「頼むからっ。ヴォルト、頼むからっ。……帰ってくれ。」
声帯を絞ったようなその声が言葉とは裏腹に助けてくれと言っているような気がして……ヴォルトはカオスの顔を見なければと、見てやらなければと思った。
「カオス!どけっ!扉を蹴破る!」
「やめろ!ヴォルト!見られたくない!おまえにはっ……!」
カオスは扉の前から動かなかったがヴォルトが加減して扉を蹴った衝撃を受けて床に倒れた。その上を壊された扉の破片が飛んでいく。ヴォルトはカオスの側に跪き、その姿を見て言葉を失った。

昨日まで銀色に輝いていたカオスの髪は艶やかな光沢を持った黒髪になっていた。

「おまえ……髪が…く…ろい…?」
「この……阿呆が。見るなと、言ったのに……。」
カオスは床に倒れたままうずくまり、ヴォルトの方を見ずに言った。黒髪の間から涙が光っている。カオスはそれ以上何も話そうとせずヴォルトが出ていくのを待つかのようにじっと固まった。そうしている間にも壊れた玄関から雪が吹き込みカオスを隠そうとする。黒い髪を粉雪が白くしていく。それを振り払おうと、ヴォルトは腕を伸ばした。
「触れるな!」
カオスは急に起きあがり怯えた瞳でヴォルトの手から逃れた。
「何をしている!触れたら呪われるぞ!さっさと帰れ!二度と来るな!」
つっぱねるその声はやはり涙混じりで。カオスの姿は信じられないほど弱々しかった。
ヴォルトは震えるカオスの体をその黒髪ごと無理やり抱きしめた。
「離せ!頼むから!離せヴォルト!おまえを殺す!殺してしまう!呪いが…っ!」
そう言う度にきつく抱きしめた。叫ぶように泣く声が痛々しく、どれだけ抱きしめても震えの止まない体に己の無力を痛感して、それでもこの手を離してはいけないと、ヴォルトはカオスを抱きしめ続けた……。
「綺麗だぞ。」
ヴォルトはその手に黒髪をすくった。
「銀色だったときと変わらない。おまえの髪は綺麗だ。銀でも、黒でも、色が問題なんじゃない。おまえが持ち主だから、この髪は変わらず綺麗なんだ。」
そして、ヴォルトはカオスの目の前でその髪に口付ける。カオスは恐怖に瞳を瞬かせて涙をこぼした。
「や、め…ろ。私の呪いでおまえが死ぬのは嫌だ……。」
ヴォルトは眉を寄せた。
「目を覚ませ銀騎士カオス!黒は呪いの色ではない!呪いなどない!黒に触れても呪われたりはしない!おまえの言葉だ!」
ヴォルトは腰の剣を抜き、カオスの髪にあてて見せた。
「見ろ!おまえの『白銀の剣』と対を為すこの『黄金の剣』がおまえの黒髪に触れても何も起こらない!黒が呪いの色だったとしたら光の力を司るこの剣が触れたときに何かが起こるはずだろう!『白銀の剣』が認めたおまえだ!呪われた存在であるわけがない!」
カオスは初めて顔をあげてヴォルトと目を合わせ、ヴォルトの首に腕を巻き付かせて自分から抱きついた。言葉はなかった。赤ん坊が母親にすがるように、それは至極当然の行為だった。
「頼むから、おまえらしくいてくれよカオス……。」
ヴォルトは目を閉じてカオスの頭を優しくなでた。
呪いなど、ないのだ。
「オレおまえに怒られるの好きなんだよ。いつもだったら抱きついただけでおまえ怒るだろ?それでいい。オレが馬鹿やって、おまえは怒ってくれればいい。それだけでいい。」
呪いなどあるはずがない。あったとしてもこの愛しい存在からの呪いであれば自分は喜んで受けるだろう。あったとしても、それは決まってもう意味のない魅了の呪いなのだ。

「おまえが好きだ。」

カオスはヴォルトの腕の中でその告白を聞いた。しっかりと、聞こえた。意味もわかっていた。答も出た。だが今だけは、今だけはこの腕の中で眠ることが許されるだろうかと、そう考えているうちに深い眠りの淵に引きずり込まれた。自分の腕の中で泣き疲れて眠るカオスを見て、ヴォルトは苦しげに微笑んだ。


「親父、見てきたぜ。噂の『銀騎士』様。」
ジェスは謁見の間であぐらをかいて告げた。玉座に座る王に興味を示した様子はない。相変わらず無表情なバルドン王ダークスを見てジェスは面白くなさそうに唾を吐いた。
「親父さぁ、興味あるならあるって言えばぁ?ったくよー。人がせっかく見てきてやったのに。」
「興味などない。あれは今日封印が解けた。17年前からそう決まっているのだからな。わかりきっていることに興味など持つものか。貴様が勝手に余計なことをしただけのこと。」
ダークスは面倒くさいと言った様子を隠しもせずに手でジェスを追い払った。
「あーあ。感じ悪。親父ー!言っとくけどオレあいつ気に入らないから。壊しちゃうかも知れねぇけど勘弁な。」
「勝手にするがいい。私には関係のないことだ。」
ダークスの言葉を背に受けてジェスは鼻歌を歌いながら歩いて行った。
ダークスは瞑目し、いつものように何も語らない。まぶたの裏で何を考えているのか、それは誰にもわからなかった。

封印は解けたのだ。銀の子供は黒く染まった。まるで暗示のように。
それは17年前から決まっていたこと―――。


カオスは優しいぬくもりの中で目を覚ました。それが人の胸であるということに気付くのに時間はかからなかった。カオスが上を見上げるとヴォルトの顔がすぐそこにあった。
「起きたか。落ち着いたか?」
「……ああ。すまなかった。ありがとう。」
カオスはそう言うとすぐにヴォルトの体から離れた。
「おやおや〜?もう終わり?せっかくカオスのやーらかい体が気持ちよかったのに〜っ!」
途端に鼻の下が伸びたヴォルトの顔に即座にカオスの平手が飛ぶ。ヴォルトは至福の表情でその痛みを受け止めた。
「貴様はっ!そんな顔で殴られるな変態がっ!」
「だってオレおまえに殴られるの大好きの変態ちゃんだも〜ん。」
カオスの背筋に寒気が走る。それは耐えられない感覚だったが、カオスにはわかっている。これはヴォルトの優しさなのだ。だからこそ、カオスはちゃんと答えねばならなかった。
「おまえは私にとってとても大切な存在だ。だがそんな風には決して思えない。おまえはかけがえのない私の兄だ。少なくとも私にとってはそれ以外の何者でもない。」
ヴォルトはカオスの頭をぐしゃぐしゃとなでた。
「ああ。わかってた。言わせちゃったな。」
カオスは歯を噛みしめる。
「おまえが甘やかしすぎるんだ。恥ずかしい奴め。」
ヴォルトは大きな手でカオスの前髪を分け、その額に口付けた。
「でもオレはおまえを愛するよ。家族として、女として。おまえのためじゃない、オレのために。そのくらいのわがままは許してくれ。」
カオスは答えなかった。顔を歪ませるだけで、何も言えなかった。本当は馬鹿野郎と罵ってやりたかったのだが、出来なかった。
「私はエイフィールドを出る。」
ヴォルトが目を見開いた。
「結界を抜けてバルドンに行ってみようと思う。」
「無茶だ!途中で騎兵か聖教会に捕まるぞ!」
ヴォルトはカオスの肩をつかんでその場に止めようとする。だが変わることのない青灰色の瞳は変わることのない意志の強さを讃えて変わらずヴォルトの胸に響く。
反対できるわけがなかった。反対しても、ムダなのだ。
「一人で行くのか……?」
疲れた顔をしてヴォルトが尋ねた。
「ああ。ヒューバートは連れていけない。この姿をあいつに見せたくないしな。」
「……そうか。」
吹雪の音より大きな、沈黙が、聞こえる。
カオスとヴォルトはお互いを見つめたまま黙りこくった。お互い身じろぎもしないのに時間だけは急速に過ぎていく。外を見れば吹雪のせいで日の動きもまるでない。それでも時間は過ぎている。意味があるわけでもなく何も言わない時間。なのに一番濃いように思えた。
ふいに、カオスは立ち上がり、剣を手にした。
創世記に出てくる『白銀の剣』。剣に選ばれし者だけがその手に出来る伝説の剣。今までと変わらず自分の手にしっくりなじむ。カオスはしっかりと剣を握って、一度、構えた。一凪すれば風の切れる音がする。美しい名刀。
カオスはゆっくりと剣を鞘に収めた。
「行くのか?」
ヴォルトが聞いた。
「ああ。」
カオスの返事はそれだけだった。
「約束してくれ。これが最後じゃないと。必ずまたオレと会うと。そして、どこへ行こうと何があろうとおまえはおまえだと。」
「ああ。約束する。」
「どこへ行こうと何があろうとおまえはオレの妹で、オレはおまえを愛している。」
「ああ。忘れない。」

そしてカオスは吹雪の中に消えた。
ヴォルトは白い雪の中で揺れる長い黒髪をいつまでも見送っていた。
別れの言葉はなかった。必要なかった。

その瞳に誓って必ずまた会うと約束したのだから―――。

続く。
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