『光でもなく』

第一章12

ヴォルトは腕を負傷したことを悟られないようにして帰城した。
不可能だとは承知だが、できることなら城の中にも外にも一人として知られたくはない。
大事になれば村人に処罰を下さなければならなくなる。
あれはどう見ても普通の状態ではなかった。集団の中で何者かが不穏な空気を煽っていた。
ヴォルトは包帯にくるまれた右腕を忌々しげに見やった。
傍らのアシュレイドとハミルが顔を曇らせる。
「…申し訳ございません。私が未熟なばっかりに……。」
ハミルはすでに何度も繰り返した言葉をまるで口癖のようにまた繰り返した。
ヴォルトの側に仕えたいと自分から申し立てておきながらまったく役に立てなかったのだ。己の首を切り落としてしまいたい。いや、本来ならばそうなっていてもおかしくはなかった。だがヴォルトは許さなかったし、ハミルにはまだ成し遂げたいことがある。ひたすら額を床につけるしかない。自己嫌悪を上塗りしているような感覚もあるがそれでもそうせずにはいられなかった。
「もうよい、と…言わなかったか?警護を薄くしたのは私だ。村人達を一手に引き受けたおまえが恥じることは何もない。」
ヴォルトが慣れた微笑みをやんわりと投げる。
ハミルは下唇を噛んだ。
ありがたすぎる言葉に、逆に己の非力が悔やまれる。
おそらくカオスやヒューバートならヴォルトにかすり傷一つつけることはなかった。その前に斬りかかられることさえなかったかもしれない。あの二人には十分な剣技があり、それ以上の何かがある。
ハミルは少しめくれた唇の皮を練り潰した。
「どうして…カオス様とヒューバート様はおいでにならないのですか?ヴォルト様が負傷されたのに…。」
「これしきの理由で任務を投げる二人など私はいらない。」
ヴォルトが二人をかばっているのか体面を守っているのかハミルには読みとれない。だが嘘をついているのは明らかだった。
ハミルは理由を知っている。
あの日まるで逃げるようなカオスの後ろ姿を見た。
何度も見間違いかと思った。今も思い返すたびに頭が嫌な霧をかける。
しかし、カオスの髪は確かに黒かった。

「二人は来ないがじきに畏れ多いお方がお見えになる。」
いつまでたってもうつむきがちなハミルを茶化すように言ったヴォルトを、アシュレイドが片眉だけで叱咤する。
そんなやりとりに気づかないハミルは一人状況から取り残されたが、それも数秒のことだった。
王妃付きの侍女が扉を開き、むせかえるような芳香がたちこめたのだ。
列を作った侍女達が王妃を中心に一斉に広がり、たおやかなお辞儀をしてみせる。
王妃は少しばかり急ぎ足で近づいて、なでるようにヴォルトの右腕を持ち上げた。
「たいしたことはございません。王妃様自らおいでくださりありがとうございました。」
白い指は聞かないふりで包帯にくるまれた太い腕を滑り続ける。
「医師にはすでに診せました。」
すげなく振り払われ、恨めしげにヴォルトを見つめた。
「思う存分心配させてくれてもいいのではなくて?気づいていたかしら?あなたは私の顔を見ると『王妃自ら』が口癖になるのよ。」
ヴォルトはただただ完璧な微笑みを返す。
「私ごときを気にかける必要はございません。」
「世継ぎのあなたが何を言っているのかしら。」
王妃は豊満な胸に抱きかかえるようにしてヴォルトの腕を取った。
「デリージア様が女性としての魅力あふれ、なおかつお優しいのは周知の事実。ですが恋をする人間は何にでも妬くものです。父上も人の子。孝行息子は無用な心配をかけるわけにはまいりません。」
まるで何かの魔法を使ったかのように、腕がするりと束縛を抜け出す。
王妃は赤い唇をゆっくりと曲げた。
「まぁ、大人気のない王様。」
ハミルは目を白黒させつつもそらせずにいた。
デリージア王妃は高貴な女性でありながら頻繁に城内を移動する。故に白騎士の身でも何度か姿を拝見したことがあるのだが、正直いって美しくはあるが王妃にはそぐわない方だと、バレたら打ち首を免れないような印象を抱いてしまっていた。何度か自分の頭を殴ってみたこともある。
だがこんなやりとりを見ているとやはり印象は正しかったのだと思ってしまう。
毒々しい女だ。
この女に王妃の座は似合わない。
ヴォルトがそこはかとなく拒絶を示していることに安心してさえいた。
しかし不幸は他人事ではなかった。
ヴォルトはハミルに王妃を部屋まで送るよう命じたのだ。
王妃の周りに衛兵は一人としていない。何人もの侍女が控えているだけだ。
確かに城内といえど用心にこしたことはなく、ましてやヴォルトが襲われたばかり。王妃を気遣わねばならないのもわかる。しかし何故自分が。王妃が普段から衛兵をつければいいだけではないのか。
と、思いつつ、口にはできない。
ハミルはげんなりとした様子を表に出さないよう尽力せねばならなかった。
アシュレイドはハミルの背に哀れみの眼差しを送った後ちらりとヴォルトを見た。
先ほどまで堂々とした微笑みを貼り付けていたヴォルトは、苦虫を噛みつぶして飲み下してしまったような顔をしていた。

「あーー気持ち悪ぃーあの化粧お化けー。」
「後でハミル殿を心から労るんですね。」
「ハミルっちねー、なんだかなー。いいヤツだとは思うんだが…何か隠してるからなー。どーも気を許せないのよ。困ったわーん。」
そもそも自分の側につきたいという理由からして謎なのだ。信用したいとは思うが信用しきれない。王子をやりながら身にしみついた悪癖は今まで確実に己の命を救ってきた。うんざりしつつも改善はできない。与えられた役割をこなすのが精一杯のヴォルトにはそこまでの勇気と慈愛は持てなかった。
ヴォルトは額に指先をあて、隙間からアシュレイドを見やった。
「……で、あの暴動の件だが、組織ぐるみだと思うか?」
アシュレイドは静かな頷きを返す。
雪害地で民衆を煽動していた人物は複数いた。リーダー格はマントを目深に被った少年。いつの間にかかき消えるようにいなくなっていたが、おそらく間違いないだろう。しかし主犯ではない。おそらくあの少年も手足の一つ。そしてそれを納得させるだけの力を持った組織というと、まず考えつくものは。
「おそらくは聖教会。」
ヴォルトは目を細めた。
どうしてもカオスのことを考えてしまう。
カオスを捕らえるか、免罪符を発行するか、どちらかを許せと言ってきた聖教会。教会は王室の支配下ではない。いわば共存関係だが、王室の方が少々分が悪い。多くを譲らねばならない。カオスを捕らえる理由が根も葉もない噂であっても、カオスを一次帰還させられない限り、もう一方の要求を呑まねばならなかった。
銀騎士と異端者と。
国にとっては、比べるまでもない。
王が決定したこととはいえそれ以外の手を閃くことができなかった自分。
カオスのことを考えてはひどく落ち込む。
アシュレイドと同じ答に辿り着いてはいたが、改めてその名を聞いて蘇った苦い思いに顔をしかめずにはいられない。
「暴走ではあるまいな。いつもの小競り合いか…それとも。」
小競り合いは日常茶飯事。聖教会との関係はいっそ敵同士といってしまっても間違いではない。だが完全に敵対するのであれば。
エイフィールドの危機。
ヴォルトは教会が反旗を翻すとしてその動機を考えた。
教会といえど王家と戦うのは容易ではなく、利益よりも損害の方が大きいはずだ。長年危うい均衡を保ちながらも上手くやってきた相手。ここはやはりいつもの小競り合いと考えるのが妥当だろうか。しかし何かが危険信号を打ち鳴らす。
ヴォルトはますます顔をしかめた。
利益よりも損害の方が大きいのはまともにぶつかった場合である。
ではまともではない場合とは?
アシュレイドはヴォルトの横顔を苦しそうに見つめていた。

王妃は歩きながらハミルに話しかけ、微笑みかけして、ハミルは苦笑を隠すのに精一杯だった。
すでにげんなりとした様は悟られているかもしれないと思ったが、それならただではすまないに違いない。
懸命に苦笑いを愛想笑いに変換し続けた。
ふと、カオスとヒューバートならばどのように切り抜けていたのだろうかと思う。二人には自分の立場を気にとめないような一面があった。銀騎士とその副官でありながら白騎士の自分を気にかけてくれていたのもそういった面があったからだろう。しばしば困りものだったが、そういうところも好きだった。あの二人なら王妃といえど適当に受け流してしまいそうな気がする。いや、実際はどうだろうか。カオスは存外直情型だ。状況を見る必要性を知ってはいても譲らないところは頑として譲らない人間だった。
微かに微笑んで、二人のことばかり考えていることに気づき自嘲する。
ハミルは二人が好きだった。とても好きだったのだ。

「まぁ、タルズ。あなたもヴォルトのお見舞い?」
王妃の声にはっとして前を見れば、タルズが穏やかな微笑みを浮かべて向かってきていた。
「王妃様…」
ヴォルト様の負傷はご内密に…
と言いかけたが、王妃はクスリと笑って制した。
「騎兵隊長の副官様にも知られてはならないことかしら?」
言外に白騎士の身分を嘲笑われているようで拳を握る。
「…ヴォルト様が直々にお話になった方々以外には……」
王妃は微笑んでから小さく頷いた。
「……お見舞いとは?ヴォルト様に何か?」
タルズの問いにも「今多忙な様子を見舞ってきたところなのよ。」と軽く返す。
わかっていて自分をからかったのではないかとハミルは思った。
内心でため息をついたのも束の間、タルズがわずかな疑問を含めて見つめているのに気づき、どうにも落ち着くことができなくなる。
「その、私は、ヴォルト様に王妃様をお部屋まで警護せよと…」
言い終わる前に頷かれてすぐにタルズから目をそらした。
黒髪のカオスを見て混乱していたとき、タルズに何があったのかと問いかけられて思わずすべてを話してしまった。
タルズは真摯な態度で聞いてくれたが、あれからどうしても顔を合わせたくなかったのだ。
『カオスが黒髪になった』という噂はすぐに広がった。騎士達の大多数が笑い飛ばす中ハミルは一気に蒼白になった。他に目撃した人間がいた可能性だってある。だがどうしてもタルズを疑ってしまう。確たる証拠など何一つないのに。
理由はそれだけではなかった。
何が何やらわからなくなっていたハミルにタルズは言った。

「カオス殿が本当に黒髪だったのなら、私たちを騙していたということではないのか。彼女はバルドン人か?異端者か?どちらにせよ呪われた存在だ。ヴォルト様が知らなかったはずもなかろう。となればヴォルト様も私たちを騙していたということだ。すべては推測にすぎない。だが他にどう考えればいい?ヴォルト様はエイフィールドを、私たちを裏切っておられるのだろうか。私たちはただ気づかぬふりをするしかないのだろうか。」

そう、言ったのだ。
とんでもない言葉だった。だが何かが揺らいだ。
気がつけばヴォルトの側近く仕えることを願っていた。

うつむいて動かなくなってしまったハミルを見てタルズが苦笑し、警護を代わろうと告げてきた。
願ってもない申し出だったが、ヴォルトの命令を放り出すわけにはいかない。そう言うと、タルズは心配そうに「少し顔色が悪い。」と言ってハミルの顔をのぞき込んできた。体の調子は悪くなかったが、心は確かに不安定だ。こんな状態の自分がついていてもいざというときにはまた役に立てないかもしれない。
ハミルは躊躇いながらもタルズに警護役を譲った。

「残念だわ。せっかく可愛らしい子が部屋まで送ってくれるはずだったのに。ゾマダーフが今頃あなたを探しているのではなくて?騎兵隊は暇ではないでしょう?」
ハミルの姿が見えなくなると、王妃はクスクスと声を立てて笑い出した。
その横でタルズが浮かべていた微笑をかき消す。
「私ではご不満ですか?」
「あら?その作り笑い、もうやめてしまうの?端正な顔が微笑む様はどんな笑い方であっても見ていてそれなりに楽しいものよ?」
タルズは口の端をつり上げ、頬の肉を歪めてみせた。
「あなたには本物の私を見てほしいのですよ。」
王妃は口元に手をあててまたクスクスと笑った。

部屋に入るとたくさんの侍女達が無言で立ち去りあっという間に二人きりになる。
王妃は豪勢な椅子に座り頬杖をついて、
「気が利かなくて困ると言えばいいのか、気が利きすぎて困ると言えばいいのか、…わからないわね。」
と笑いながら薄布をはねのけて足を組んだ。
「……ヴォルトが右腕に怪我をして帰ってきたわ。一ヶ月ほどはまともに剣を振るえないのではないかしら。視察に赴いた雪害地で民に斬りかかられたそうだけど……あなた、何かしたの?」
タルズはゆうるりと首を振り、意図して口の端をつり上げる。
「私は何もいたしませんよ。『かの御方』を傷つけるようなことは。」
頬が鳴った。
振り切られた平手をつかみ、存分に嘲りを投げる。
「可愛らしい王妃様、私だけがあなたに彼を差し上げられる。この仕打ちはあんまりでは?」
王妃はタルズの手を振り払って忌々しげに言った。
「…やっぱりさっきの笑い方の方が素敵だと思うわ。」
タルズは喉を鳴らしながら王妃の頬に手を添えて親指でなぞり、唇を寄せた。
「そうおっしゃらずに。あの白騎士は使えると思いませんか?あれは黒髪のカオスを目撃し、その翌日にヴォルト王子の近衛となった者。」
王妃は淫靡な微笑みを浮かべて広い背中に白い腕を絡める。
「……手段はいくらでもあなたの好きにしたらいいけれど…ヴォルトを傷つけたら許さないわ。」
離れていく唇を追って口付けその頭を引き寄せた。
閉じたまぶたの裏には別の顔が映っていた。

たくましい腕に巻かれた包帯が痛々しかった。
王子といえど剣の腕は一流、行動力もあるヴォルトだ。これまで致命傷を受けたことはなかったが、傷を負うことも少なくなかった。その度に見舞いに顔を出し、毎回改めて自分の心に気づかされる。
幼い王子を一人しか持たないアデレド王の後妻の座を狙う女は多く、自分もその中の一人だった。
魅力のすべてを駆使して取り入った。
その後、王はもはや新しい妻を迎える気はなかったが、争いを退けるためにわざわざ選んだのだと耳に挟み、少なからず自尊心を傷つけられたが、王の関心が自分にないことは今となっては都合がよかった。
いずれは王位を継ぐはずの、ただ一人の王子。
風に梳かれた黄金の髪は太陽が落とした宝物のようだった。引き締まった肉体が美しかった。文武両道に秀で、冷静でありながら瞳の奥で情熱を燃やす力強い若者。
三日で飽きた退屈な城が一瞬にして色を変えた。
疑念を秘めた瞳で見つめられるたびどんな思いをしているか気づいていないに違いない。
自分でも未だに信じられないが、本気で恋をしている。
それとなく迫ってもむげにされ、どれだけ唇を噛みしめたかわからない。
だがいずれは必ず手に入れてみせる。
この体で落とせないのならエイフィールドを手に入れて絡め取る。権力と愛しい男とをどのようにして手に入れようかと胸が躍る。毎日を楽しいと感じるたびに恋心も募る。

王妃は唾液を絡ませながら白い腕に力をこめた。
「不興を買ってしまったかと思いましたが。」
「……野心あふれる男は嫌いじゃないのよ。」
赤い唇が濡れていた。


ハミルは少々の罪悪感を感じながらヴォルトの部屋に向かっていた。
視界の端に中庭の泉をとらえたので、どのくらい顔色が悪いのか確かめようと近づいてのぞき込んだ。
しかし次から次へと舞い降りて溶けていく雪が波紋を生み、ハミルの姿はぼんやりとしか映らない。
自分がひどく馬鹿になった気がした。
だが今に始まったことではないかもしれない。
無理やりヴォルトの側に仕え、一体何がしたいのだろうか。ヴォルトを、カオスを、ヒューバートを、本気で疑っているのか。
ハミルは慌てて首を振った。
どれだけ記憶を探っても疑うべき人々ではない。
そう思うのに、どうしても、どう考えても黒髪姿のカオスの説明がつかないのだ。
もしかしたらと、そんな気持ちが消せない。
とげのように小さく、はっきりと胸を刺す。
そしてもしもそうだったなら、自分はすべてを許せなくなるだろうと思う。
泣きたいのか怒りたいのかわからない気持ちを持て余して冷たい泉に顔をつける。
ますます馬鹿なことをしてしまったようにも思ったが、少しだけすっきりした。
人目を気にしながら通路に戻れば、運悪く見慣れた人影が近づいてくる。
どう言い訳しようかと考えて、すぐに首を傾げた。
前からやってくるのはタブロー。騎士隊長である。
今頃の時間こんな場所を歩いているのはおかしい。何か大事があったのかもしれない。
ハミルは慌てて駆け寄った。
「隊長、何かあったんですかっ?」
「……いや、家の者から…妻が倒れたという知らせが来ただけだ。」
タブローの顔は色を無くしている。
ハミルは言葉が一気に押し寄せて一瞬口を開けたまま呆けてしまった。
「大変じゃないですか!何やってるんです!すぐに走ってください、隊長!」
タブローの妻はじき臨月だったはずだ。元々あまり体の丈夫な女性ではないと聞く。悪くすれば母子共々危険なのではないか。
「だが、まだ務めが残っている……。」
「そんなことをおっしゃるならどうして今ここを歩いてるんです!一日くらい休まれてもなんとかなります!しますから!」
ハミルはこれ以上出せないというくらい大きな声で怒鳴った。
タブローははっとして頷き、すぐに走り出した。
「……すまない、皆に後を頼むと伝えておいてほしい。」
言い残して厩舎に突き進む後ろ姿をしっかりと見届けてから、ハミルは思わず深いため息をこぼした。
続く。
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