『光でもなく』

第一章2

少女は今日も夢を見ていた。
安らかな気持ちで目を閉じたときも何度も寝返りをうってやっと眠りについたときも必ず決まって同じ夢を見る。
いつも同じ光景。いつも同じ内容。そしていつもそれに怯え泣き叫ぶ自分。
毎日のように見る悪夢に今日もまたさいなまれる。
痛いくらいに手をのばしても誰もいない。声がかれるくらいに泣き叫んでも誰もいない。
自分以外には何もいない。
音もなく空間を蝕んでいるそれでさえ、自分以外にはありえない。
少女は目を閉じた。
目を閉じても解放が訪れないことなどわかっていたのだけれど。
そうすれば、心の中でだけ唱える救いの呪文がよく響くような気がしたから。
ただ一人の名前を―――何度も唱える。
声には決してしない、唇だけで紡ぐその名前。
唱えながら涙を流し、少女はそっと…瞼をあげた。

目の前に広がる光景はいつも―――黒。

「ソルティア!起きろ!」

ヴァンはうなされているソルティアの頬を音がするくらいに叩いた。
幾重ものカーテンで隔てられたベッドの周りに他に人はなく、ヴァンの行動を咎める者はいない。叩かれてもうなされ続けるソルティアに二発目を与えようと腕を振り上げる。
そのときようやくソルティアの瞳が瞬いた。
黒髪の奥の黒い瞳に目覚めてもなお黒が映る。
ソルティアは涙で濡れた頬をこわばらせ、反射的にヴァンを押しのけた。
「いやぁぁっ!」
夢の中と同じように声を張り上げて叫ぶ。だが夢と違い目の前の恐怖は即身を離した。
「うなされていたから起こしただけだ。いつものことだろ。」
舌打ちするヴァンにソルティアは頭からシーツをかぶった状態で震えながらつぶやいた。
「ご…め、んなさ…い……。」
「……別に。」
毎日のように繰り返すやりとりをまた繰り返す。
ヴァンは知っている。
何度繰り返してもソルティアが自分の姿を見て怯えるのは変わらない。
何度繰り返しても彼女は自分に謝罪の言葉をつぶやき続けるのだろう。
ヴァンは荒く息を吐き出して自分の頭に手をやり、すぐに離した。
「今日はこの後あの雪害地に行くことになっている。あいつの言ったとおりヴォルト王子が自ら視察に来るらしい。」
短く報告するとすぐに身を翻し、重いカーテンを鬱陶しそうにかきわけてその場を去る。
ソルティアはシーツにくるまったままヴァンが完全に立ち去るのを待った。
いつからかヴァンは任務に赴く前に必ずソルティアのところにやってきて今のように報告をしていくようになっていた。報告すべき人間は他にいるというのにそちらへは行こうともせず、ソルティアには寝ているところを起こしてでも告げていく。うなされているのを起こしてくれているのだとは思いつつもソルティアはヴァンが苦手だった。外見のこともあったが、何よりその律儀な行動が自分を責めているように思えて。
ソルティアはシーツから這い出ようとして体を起こし、すぐにまたシーツにくるまった。
白い布のひだに自分の黒い髪が流れているのが見えたのだ。
寝ころんだままシーツを体に巻き付けソルティアは眉を寄せた。
目を閉じればまたあの夢を見るが、起きあがって自分の姿を見るのはもっと嫌だった。何かをして気を紛らわそうにも自分は許可なしにこの部屋を出ることができない。出られたとしてもそれは決まって―――
「フローリオ……」
ソルティアは誰にも聞こえないくらいの小さな声でつぶやき、乾ききっていない頬に一筋の涙を流した。

「ほほう、これは面白いことをおっしゃりますねゾマダーフ殿。」
色とりどりの財宝をあちらこちらにちりばめた黄金張りの柱を背にフローリオは泰然とたたずんでいた。上品な布を身にまとい柔らかな物腰で優しげに笑うその姿からは自然と高貴な雰囲気が醸し出ている。聖なる宮殿とは名ばかりの俗っぽい建物の中にいながらフローリオがまとう空気は清しく、それはまるで聖意の証のように思われた。
ゾマダーフはいささか緊張した面持ちでしかし興奮を抑えきれずに言った。
「ええ!あのカオスが実は黒髪だったのです。どうです?フローリオ様。あの『銀騎士』カオスが!」
「そうですね。確かにとても面白い。ですが偽りでないという根拠はどこにあります?」
フローリオは人好きのする笑顔を浮かべてやんわりと言う。整った顔立ちを隠すかのようにかけられた眼鏡の奥で淡い緑の瞳が優しげに揺れた。
「そ、れは…しかしこれを言い出したのはカオスが可愛がっていた者でして…」
興奮のあまり確たる証拠もなしに訪れてしまったことに気付きゾマダーフが言葉を濁らせると、後ろに控えていたタルズが一歩進み出た。
「フローリオ様もお人が悪い。大切なのは真実かどうかなどではございますまい。」
ゾマダーフがほっと息をつきながらも内心面白くなさそうに口を歪める。
フローリオはくすりと微笑んで顎をさすった。
「タルズ殿にはかないませんね。ゾマダーフ殿もよい部下をお持ちだ。お二人が率いる騎兵隊にはまったく感謝せずにはいられませんよ。」
笑みがいっそう深くなる。
「いいでしょう。真実であろうとなかろうとそれだけで王室は揺らぐ。我々聖教会にとってはそれで十分意味がありますから。」
ゾマダーフは顔を明るくしてフローリオに一礼した。
フローリオがゾマダーフの頭にそっと手をかざす。
「あなたに祝福を―――」
突然祝福を与えられ、そんなつもりではなかったゾマダーフは感極まったかのようにその場にひざまずいた。
「フローリオ様に祝福をいただけるとはありがたき幸せにございます。」
にこにこと微笑み続けるフローリオに頭を低くして、ゾマダーフは横目でタルズの方を見た。角度の関係で表情は見えない。だがフローリオはその後タルズには祝福を与えなかった。ゾマダーフはそれだけでなにやら誇らしげな気分になり、フローリオに再度一礼して立ち去った。

フローリオは二人の後ろ姿を見送った後、羽織っている布をばさばさと翻した。
「立ち聞きするなんて悪い子だね。出ておいで、ヴァン。」
笑いを含んだ声に柱の影で舌を鳴らす。
「ふざけんな。こんなとこで話をしていやがるからだ。」
「おやおや、元々ここは内緒話をするための場所だよ?君が僕の目を盗んでこっそり抜け出そうとするからいけないんじゃない?」
ヴァンは顔をしかめた。
「ソルティアの様子はどうだった?出かける前はいつもソルティアの様子を見ていくだろう?君たちは年が近いから時には楽しく話をしたりもするんだろうね。」
どんどん不機嫌な顔になっていくヴァンを笑いながらフローリオは次から次へと言葉を紡いでいく。だが放っておけば際限なく出て来るであろうフローリオの刃を全て受け止めていられるほどヴァンは忍耐強くはなかった。
「てめぇを殺してやりたいぜっ!」
それでも精一杯の自制心で声だけに抑える。
固く握りしめた拳がぬるりと滑った。
手のひらで生ぬるい血を混ぜる不快感にさらに舌を鳴らす。
「あれ?いいのかな。僕が死んだらソルティアも死ぬよ?」
フローリオは至極当然といったように言い放った。
「知るかよ!」
張り上げる声とは逆にヴァンの拳は決して開かない。
「やれやれ悲しいね。もうちょっと懐いてくれてもいいと思うんだけどな。黒髪の君をソルティアの遊び相手にと拾ってきてあげたのはこの僕なのに、ね?」
相変わらずにこにこと笑うフローリオに向かって握っていた血をたたきつけ、ヴァンは「死ね!」と一言言って走り去った。
フローリオの数歩手前には小さな赤い点が一つ二つできていた。
「いけないね、またやってしまったよ。いじめがいがあって困るね。それにしても掃除くらいしていってくれないかなぁ。」
フローリオはくすくすと笑いながら眼鏡をかけ直し、何事もなかったかのように歩き出した。


騎士隊長とは非常に多忙な役職である。
エイフィールドの内政を任されているヴォルトほどではないにしろ、朝から晩まで訓練や書類整理や会議などに追われる日々。文武両道で人々の信頼も厚くなければ務まらないその地位にいるタブローはなかなかに優れた人物であった。彼が隊長に就任してから収まった問題も多く、騎士達も大臣達も全幅の信頼を寄せている。
が、騎士隊長タブローは朝からその頭を悩ませていた。
騎士隊長の執務室は問題が起きたときにすぐ駆けつけることができるよう訓練場のすぐ側にある。毎日窓の下から響く騎士達のかけ声を聞きながら書類に目を通すわけだが、今日はその声がほとんど聞こえてこない。
滅多にない静けさの中、タブローは沈痛な面持ちで息を吐き出した。
「お話はわかりましたがヴォルト様……」
わかってなどいない。だが、そう答えねば仕方がない。
「ここに来られる途中回廊からご覧になったでしょう。彼らは私にされたように『カオスでなければ果たせない任務があったから。』などという説明では絶対に納得しませんよ。私にどうしろとおっしゃるのですか?」
無礼を承知でため息をつきながら横目でヴォルトを見やる。そんな態度でも示さなければやりきれなかった。いくらお手上げな状況だとはいってもタブローがこのような態度をとることは珍しい。ヴォルトは内心苦笑しつつ努めて平坦な口調で尋ねた。
「隊長自ら注意しても聞かぬのか。」
「ええ、恥ずかしながらすでに何度も注意いたしましたが聞こうとしないのです。彼らを納得させるものはカオス本人のみではないでしょうか。突然の失踪に乗じて妙な噂が流れておりまして…それがまた拍車をかけているようです。」
タブローが濁らせた言葉をヴォルトがはっきりと言い放つ。
「カオスが黒髪になったなどというくだらん噂か。根も葉もないことを…。」
タブローは瞠目して一瞬固まった。
「…すでにヴォルト様のところまで届いておりましたか。」
「今朝一人の白騎士が真偽を問いに来てな。だが…大きな流れが働いていることは間違いないだろう。」
ヴォルトは声を低くした。カオスを失墜させようとする者は多い。ある者は個人的怨恨で。ある者は何かの目的を持って。その『何か』の幅は限りなく広い。『銀騎士』の称号を持ち人々に慕われなおかつヴォルトの乳兄妹であるカオスはそれだけ利用しやすい位置にあった。影で色々と目論んでいる連中から見れば今回のことは行動を起こす絶好の機会だろう。
タブローにもそのことはよくわかっていた。
最近のカオスの行動で若い騎士達と騎兵隊との間に度々いざこざが起きていた。
「私は私の良心に従っているだけです。」
先日カオスはそう言ったが、カオスには自分の立場を理解しきれていないところがある。
『銀騎士カオス』。それだけで、周囲に多大な影響を与えるということを。
例えば、カオスが騎兵隊の仕事を妨害しているという噂を聞いただけで騎兵隊の行動に疑問を持つ者が現れる。疑問を持たなくとも騎兵隊につっかかっていく者も現れる。タブロー自身いくらエイフィールドに闇の力を持ち込む異端者を見つけだすためとはいえ騎兵隊のやり方には異論を唱えたいときもあるが、騎士隊長の立場としてはそうそう波風を立てるわけにもいかない。力ある地位にいる者はそれだけ責任も大きいのだ。本人に見えていないところにも影響を及ぼす可能性が多大にあるのだということを、カオスにも理解してもらいたかった。
とは言っても今回のことは騎士隊長である自分を通さずにカオスに任務を命じたヴォルトの責任であるが。
タブローは急に立ち上がった。
「さて、こうしてもおられません。再度彼らを説得して参ります。では失礼を。」
カオスとヒューバート失踪の理由を告げに来たヴォルトが述べたことは本当に『カオスでなければ果たせない任務があったから。』、ただそれだけであり、説得材料にはなりはしない。言葉の端々でそこはかとなくヴォルトを責めていたタブローであったが、これは騎士団内の問題なのだ。隊長たる自分が収めなければならない。
責任の重さに険しい顔をしながらもしっかりとそれを受け止めるタブローに自然ヴォルトの顔がゆるんだ。
「待たれよ。今回のことはこのヴォルトの責任。私が行こう。」
タブローが立ち止まってヴォルトを凝視する。
ヴォルトは本気だった。
「しかし…王子自らが騎士の説得など…」
「王子の言葉ならばいかにカオスの部下といえど必ず耳を貸す。このようなときでしか役立たん地位だ。遠慮されるでない。足りぬ説明の詫びだと思われよ。」
「しかし…」
王子にそのようなことをさせるわけにはいかないと、タブローが目で訴える。
「遠慮は無礼ぞ。」
ヴォルトは穏やかに微笑んでみせた。
タブローはため息をついて窓の下を見た。
窓の下には騎士達の訓練という見慣れた光景はない。いつもなら絶え間なく聞こえてくるはずの猛々しいかけ声も、剣がぶつかり合う音もない。かといって誰もいないわけではない。訓練場には大勢の騎士達がずらりと並び、静かに座り込んでいる。
先頭の騎士が天に突き刺すかのように掲げている旗には『銀騎士』の印。
カオス率いる一個師団の面々が中心となって座り込みを行っているのであった。
求めているものはただ一つ。
自分たちの隊長と副官の失踪の理由。
誰一人、勝手な理由で飛び出したのだと言う者はいなかった。
「まったく……騎士たるもの上官の命には従うものだというのにカオスにかかればあの通りです。それほどの存在であることを知っておられるでしょうに。」
「申し訳ない。」
ヴォルトが謝罪するとタブローは困ったように微笑んだ。
「責任をとってくださるならいいのです。ヴォルト様、よろしくお願いいたします。」
深々と頭を下げ、ヴォルトが執務室から立ち去るのを待つ。扉の前に控えていた小姓が去ってからようやく頭を上げて、タブローは一言つぶやいた。
「エイフィールドにあの方がおられることに心よりの感謝を。」
きっとカオスの任務にも何か致し方ない事情があったのだろう。
そう信じることができる人物が己の主君なのだということに喜びを感じずにはいられない。
タブローはゆっくりと歩き出し、ヴォルトの後を追って訓練場へと向かった。
続く。
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