第九章 言霊
ミコトが最初に静香を見たのはバラックの建ち並ぶ公園の隅。まともな家を持てない人間が、様々なゴミをかき集めてなんとか身を守っている。彼らの後にはゾンビのような崩れた肉のかたまりしかない。貧しいというだけで人間の境界に立たされた人々の、最後の砦。そんな場所だった。
当時まだ六歳だった静香はそこに住む男たちのおもちゃと言っていい存在だった。ある男は殴るためだけに静香を呼び、ある男はこき使うために静香を呼び、どの男たちもみな彼女を美しく保つよう努力していた。
女は美しい方がより楽しめるものだから。
男たちは静香の他に娯楽らしい娯楽を持たなかったので、それはそれは丹念に美しさを育てていた。白く輝くような肌を味わうのが何よりの楽しみだったのだ。しかし自分たちよりも人らしさを保っている姿に、時折ひどく腹を立てた。
ゴミの山から甲高い悲鳴がする。
ミコトはベンチに座ったままその声を聞いていた。公園に来たのは人間を観察するためだ。はたして自分が家業を継いでまで守る価値のある存在なのかどうか、はなはだ疑問でならなかった。
吹き溜まりのような場所。ここで暮らす人間は薬を買う金など持っていない。日々の糧にも困る状況だ。稼げない人間に生きる価値などないというのもうなずける話ではある。しかし裕福な人間は、稼いだ金を愚かしい遊びに費やすのだ。どちらが選ばれるべきなのだろう。ミコトは思索にふけり続ける。
長らく鼓膜を破っていた悲鳴がふいに止まった。しばらくして、小さな布のかたまりが這い出してきた。
浮浪者はみなぼろぼろの布を包帯のように巻き付けて肌を守っている。他に手段を持たないのだ。薄汚れたかたまりはげほげほと咳をすると、血を吐くように口元を手で覆う。ガスマスクも壊れかけのに違いない。
哀れな姿だ。だが弱者は死ぬ。それが理だ。
ミコトは足を組み替えて、最期を看取るようにじっと見つめる。
ぼろ布は蛇口までたどり着くと、命を補充するかのごとく水を飲んだ。そしてそのままゴミの山へと戻ろうとする。
ミコトには理解できなかった。それが生きるための選択であったとしても、ここで暮らしていく限りやがては死んでしまうだろう。土台子どもが育っていくのは不可能と言っていい場所なのだ。何故男たちの手を逃れない。生き抜くためにあがかない。
興味がわいた。
ミコトは少女を捕まえて、
「大丈夫ですか? ひどいことをされましたね。ここから逃げないのですか?」
と尋ねた。
少女は不思議そうな顔をしていたが、こくりとうなずくとこう言った。
「おじちゃんたち、寂しいから私をつれてきたんだって。私がいると楽しいって、私がいなくなったら何の楽しみもないって言うの。ここにいるの、つらい。おうちに帰ってパパとママに会いたい。……でもおじちゃんたちが、逃げたらひどいことするぞって。それって、いなくなっちゃ嫌ってことでしょ……?」
実に不可解な少女だった。泣きながら自分を誘拐した相手のことを案じている。
「君は彼らのことを憎まないのですか?」
ミコトは問わずにいられない。少女はまぶたを擦りながら言う。
「憎む……? わかんない。おじちゃんたち、怖い。嫌い。でも……悲しい」
馬鹿な子どもだ。これほど弱い存在は見たことがない。人を憎むことさえできずにそのまま息絶えていくのだろう。それは、理だ。
しかしミコトは、嫌だと思った。
この奇妙な存在がここで失われるのは嫌だ。
そのときふと、一つの考えが頭をよぎる。
むさぼられていくだけのこの子どもを、野生の頂点に立つ者へと変えてやろう。生きるために命を屠り、生き抜くために情を捨て、それこそが正しいと信じる者に変えてやろう。
『生きる』、それ以外、何も見えないように。
人は元々命を殺して生きている。動物は他の命を奪わずには生きられない。ならばそれこそが、人間の本来あるべき姿なのではないか――?
ぞくぞくとした震えが背中を駆け抜ける。あどけない瞳がきょとんと見つめている。ミコトは穏やかな笑みを差し向ける。
「……では私のところに来てください。私もとても寂しいんです。ここの人たちと違って怖くはないですよ? 君を大事にしてあげます。君に好かれるよう最大限努力しますから――。さあ、おいで」
変化は一瞬が鮮やかで美しい。
大事に大事にしてあげる。いつか壊す日のため、大切に大切にしてあげる。綺麗なものだけ差し与えて、一つの傷もつかないように。そして粉々にしてあげよう。
そのときこそ君が目覚めるとき。
ミコトは浮浪者たちから静香を無理矢理奪い去り、家を継ぐと決めると同時に建設中だったビルの設計に口を出した。
最上階には今や寺社仏閣でしか残っていない日本古来の建築物。
宗教の力を借りて人心を操ることは前々から考えの内にはあった。煽動者として立たせるにふさわしい人物が思い当たらなかったために断念していたのだが、この少女こそふさわしいに違いない。
そして中庭には畑を作らせた。
世界有数の製薬会社は、苗を、土を、水を、できうる限り自然に近づけることはできやしないかと、莫大な資金を費やして研究を進めていた。
誰もみな、それらの本来の有り様を知らなかった。数世紀前、かろうじて命を育んでいた土の様子はどうだった? 数字では計り知れないその神秘。水は? 大気は。最も難航したのは種の研究だ。植物の改良を巻き戻してもうまくいかない。土に合わない。水に合わない。そして偶然が奇跡となる。
大気と土と水と植物と。すべては相互に影響し合っていて、どれ一つ欠けても自然の姿は損なわれた。それらを大量に作り出す資金はどこからも生まれやしない。そして――おそらく、人はもはや、とうの昔から許されざる存在だった。
ミコトが静香たちをつれてきたのは同じビルの三十九階。地の宮の真下だった。白衣を着た職員たちを人払いし、巨大なガラスケースの前に立ってにこりと微笑む。ガラスケースにはブラインドが降りていて、中の様子はうかがえない。
ミコトはブラインドごしにガラスをこつんとたたいた。
「みんなあまり見ていたくないようで。普段から降ろしてあるんです」
困ったように首をすくめる。一つ一つの仕草がまるでもったいぶるようで、静香は思わず眉を寄せた。
もうこれ以上何があっても驚いたりできやしないだろう。
そう思い、背筋にぞくりと悪寒が走る。撃ち抜かれた大地の映像が脳裏をかすめる。固く拳を握りしめた。
その光景以上に自分を揺るがすものなど、ありえない。
右隣にいた鏡子が静香の手をすくい上げる。
「……静香様、どうか、何をご覧になっても、……どうか」
静香の震えを恐怖ゆえと思っている様子だったが、鏡子の指こそ震えていた。顔色が悪い。左隣を見れば草太も不安げな瞳で見つめている。
「……静香様、先ほど予言も占術もできぬとおっしゃいましたが」
静香はうなずく。
「……きっと、私たちはそのことを――存じておりました。いえ、おそらくわかっていて……考えようとせずにいたのだと、思います。……静香様の御言葉には常に御心がこもっていて。私たちは、ただ、信じていたかったのです……」
草太は唇を無理に歪ませると、ガラスケースの方をそっと見つめ、つらそうに視線を降ろしていく。
一体何があるというのだろう。静香の胸に不安がわき起こる。
「鏡子、草太、それ以上の楽しみは私のものですからね?」
ミコトはショーを始めるかのごとく両手を打った。
「静香、このケースの真上には何があると思います?」
楽しげな声音で問いかける。
静香は天井とガラスケースの境を目でなぞった。
ここは地の宮のすぐ真下。ケースは階を突き抜けて上に続いているように見える。この部屋の中には様々な機械が置いてある。何かのデータを取っているようだ。思いつくのは一つだけ。
「……中庭の、畑?」
ミコトが満足そうにうなずく。
「ご名答。このガラスケースは畑の中の様子を見るためのもの。では、何のために地中を観察するのでしょう?」
「……根菜のできばえを探る、とか……」
静香のつぶやきに、ミコトはおかしくてたまらないといった笑いをもらす。
「まったく、君は可愛らしい。……違いますよ。この畑の土は地球上で最も自然に近いと思われる土。……私はこの土でどうしても調べてみたいことがありました。そのために、中が見える作りにしたんです。はい、最後の問題ですよ? 私が調べたこととはなんでしょうか?」
クイズ番組の司会よろしく人差し指を立ててみせる。静香は当惑の面持ちを隠せない。
自然に近い土を選んで調べなければならないこと。ミコトが興味を抱くようなこと。
思いつかなかった。
静香の答が読めたのか、ミコトはにっこりと首を傾ける。
「はい、タイムオーバーです。実際に見せてあげましょう」
ミコトがリモコンのボタンを押す。ピッという電子音が鳴り、徐々にブラインドが上がっていく。
静香はひっと息を呑んだ。
真っ黒な土の中。
干からびたような人間が埋まっている。
「ご挨拶しなさい。君のお義父さんですよ?」
ミコトがうっすらとした笑みを浮かべる。静香は弾かれたようにミコトを見た。
「……といっても、成長するにつれ君が保護者という存在を気にしだしたものだから、ちょっとお名前を拝借させていただいただけですが。彼は十年前から行方不明ということになっています」
静香は目を鋭くする。ミコトは心外そうに眉を上げた。
「鏡子が殺したんですよ? 実の父親をね」
静香は目を見開いていく。鏡子は何も語らない。ただ重々しくまぶたを閉じていた。代わりにミコトが説明する。
「安心してください。事故のようなものでしたから。ですが母親は狂乱しまして、鏡子と草太は捨てられたんです。それを私が拾って君につけたんですね。……それよりも、私が注目してほしいところは『十年前』というキーワードなんですが」
静香ははっとした。十年前。自分がここに来たとき。畑はすでにそこにあり、いっぱいに土で埋められていた。一度も入れ替えられたことなどない。
「――そう、彼は十年間この中にいる」
ミコトの言葉を、しかし瞬時に否定する。
馬鹿な。そんなことがあるはずはない。十年前の死体が、腐らずに干からびているなどと――!
ミコトは笑う。
「保存料、って、知っていますか? 食品を長く保存するために使われる添加物です。化学の力は様々な保存料を作り出しました。特に食品が貴重なものになってからは、その開発は著しく盛んになったんです。今ちまたに出回っている加工食品で、保存料の入っていないものなど一つもないと言っても過言ではありません」
穏やかに、鮮やかに笑う。
「それに限らず、人は自然からかけ離れた食品を口にしている。バクテリアも避けて通る食べ物をね。……さあ、わかったでしょう? 静香。保存料は人間でさえ保存しました」
――笑う。嘲笑う。
「人はもう、土に還らない」
神が、裁くように。
馬鹿な。馬鹿な。そんな馬鹿な――。あり得ない。そんなことはあり得ない! 人が死して土に還らないなんて! 土はすべてを包み込み、癒し、浄めて。どれほど重い罪を負っていようとも、すべてを!
もはや人は赦されない。
「――っ!」
静香は声もなく絶叫する。
十年間斎女として育てられた。毎日神の教えを聞かされ、何度もそれを暗唱し。自らの心に染み入るまでそう時間はかからなかった。
いつだってどんなときだってそれを信じた。偽りの予言を述べていながら、教えを説くときだけは迷いが消えた。胸に痛い現実を、突きつけられたときだって。心のよりどころは神の愛。けして揺るぎはしなかった。
人は誰もみな赦されていて、救いは常にそこにあって。後はただ、気づくだけ――。
乾く。ひび割れる。崩れる。こぼれ落ちて、消え失せる。
ミコトは静香が壊れていく様子を悦びとともに見つめていた。
すべてを費やして磨き上げた至上の宝。完璧なまでに美しい最高の愛玩動物。最も自然に近い環境で育まれた、――『人間』。
「……君ならば、土に還ることができるかもしれませんね」
ミコトは満足げに微笑む。
「最も人らしく育った君よ。さあ、さらに本来の姿を目指すのです。絶望は終わりです。立ち向かいなさい。憎しみの牙を磨くのです。ともに人を殺しましょう。生き残る資格を勝ち得ましょう。神などいない。人が救われる方法は他にない。……さあ、血に、まみれましょう」
静香は反応を返さない。返せない。
鏡子は沈痛に冒される。草太の視界がにじんでいく。
静香は。
助けを呼ぶ。答える神はどこにもいない。今こそその手を得たいのに。気づくべき救いもどこにもない。
何にすがればいい? どうすればこの心を保っていられる?
一体何故こんな試練が与えられる。
逃げ出したい。何も考えたくない。心を丸裸にされて。薄皮一枚さえ引きはがされて。そんなに強くなんかない。耐えられない。壊れてしまう!
手を伸ばして。誰か助けて。教えて。どうすればいいのかを――。
神は何処に。
「……忘れないでほしい」
どこからか声が聞こえる。優しい声。二度とは、聞けない声。
「……おまえが、俺を、救ったこと」
「人の心が、ひどく弱くて。簡単に揺るがされて打ちのめされて」
「――心一つで、救われること」
「――忘れないでほしい」
何かが生まれる。
形などない。けれど、あたたかいもの。
言葉にならない。けれど、揺るぎないもの。
芽吹いた若葉がやがて大樹へと育つように。
ゆっくり、ゆっくりと、葉を広げ、枝を伸ばす。
網目のように広がりゆく根は血に混じり、天を目指して進む新芽は心を打つ。
葉擦れの音色はただひそかに、穏やかな風をひきつれて。
何もかも、慈しむように。
降りる影さえ、ただ温かく。
「救いは、人の心にこそ、あるのです」
天を仰ぎ、まぶたを閉じる。静香は両手の指を組み合わせる。
「……与う神、奪う神。育む神、滅す神。裁く神、……赦す神。――神は人の心におわします。それは人に都合の良い神ばかりではなく。時に人を惑わせて。傷つけて。けれど、救いの光も必ずある。……人はそれに気づかなくては。与えられるのを待つのではなく。己の内の輝きを、選び取る努力をせねばならない」
ゆっくりと腕を下ろし、目を開いて、まっすぐに前を見据える。
「私は人間です。誰もみな、人間です。不安定なこの心がある限り。それこそが人が人である証です。――私はあなたが言うような生き物にはならない」
静香の瞳は穏やかな光をたたえている。
「私は人に救われた。私も人を救いたい。……例え神がおわさずとも、この心がある限り、人はきっと、愛されている。そう思う心さえも、救いなのです。どんな理由でも、死ぬべき命など一つもない。……お兄様、私はあなたに敵対します」
ミコトは笑わずにはいられなかった。
心から、嬉しくて。
なんということだろう。この十年間のすべてが意図せぬ方向へ持って行かれた。なのに、少しの失望も感じない。落胆さえも寄りつかない。
静香は美しい。
思えば十年前のあの瞬間、何故自分はこの存在を失いたくないと感じたのか。その答がたった今わかった気がする。
愚かしいまでに美しい人の側面を、顕著に持ち得た少女だからだ。
その美しさがはかなく踏みにじられるのが許せなかった。しかし、今、静香は強かに美しい。刃こそ持たないものの、はっきりと牙をむいている。
天にも地にも神はおわさぬ。裁くも赦すも人なれば。絶対の正義などどこを探してもありはしない。
この十年のすべてをかけて。
私は自らの最高の敵を作り上げることに成功した――。
「……ねぇ、ここは小さな島国で、私はただの薬屋の息子で、君は私の囲われ者だ。……それでも君は、人々を、人類を、救おうというのですか?」
静香は答える。
「私の生涯をかけて」
「静香様は私たちがお助けいたします」
草太が一歩前に出る。
「力など持たずとも、静香様の気高い御心のある限り。わたくしたちの主は静香様の他にございません」
鏡子が静香にそっと寄り添う。
「……楽しい。とても、楽しいですね。君たちの綺麗事は、とても、面白い。私が戯れに口にした詭弁を信じ込んで。――救いが人の心にあるなどと」
この自分が。物心つくと同時にあっさりと切り捨てた選択肢に、こうも頑なにしがみつく。ひどく愚かな人間たち。
それもまた、一つの有り様なのだろう。
理想で物事は進まない。結果だけでは正義は語れない。どこまでもいってもただの現実しかない。人の心が様々に正誤を作るだけ。
「……いいでしょう。地の宮とガイア教を君たちに与えます。それで何ができるかやってごらんなさい」
ミコトは嬉しくてたまらない。
真っ白な獲物。美しい敵。
自らの手で磨き上げた至上の宝は素晴らしい輝きを放っている。
おまえはどこまでも私のものだ――。
「頑張って手応えのある敵に育ってくださいね?」
戦いが、始まる。
「大地、大地はどこに行ったか知らない? どこにもいないの!」
「いいえ、こちらでは見ておりません。静香様、そろそろお時間です。御支度されねば」
肩で息をする静香に、鏡子は淡く微笑みかける。
「……でも。もう少しだけ待って。もう少しだけ探してくる。すぐに戻るから!」
静香はぱたぱたと駆けていった。
鏡子はその間に静香のための用意を整えておく。
あれから人は殺していない。発作を抑えるのは苦しかったが、次に人を斬るときには自身を斬ると決めている。草太はどうあっても止めてみせると言い張るが、呪われた性にあらがい抜いて死ぬのは悪くないと思っている。静香が自分の助けを必要としなくなったときには世に出て裁きを受けるつもりだ。償いきれるとは、とても思えないが。今はただ、人々のために尽力する。
中庭までやってきた静香は、作物の茂みにじっと目をこらした。大地の耳が見えないか。大地のしっぽが見えないか。するとガサガサという音がして、大地の方から駆け寄ってきた。
「もう。探したのよ。おまえがいないとすっごく困るんだから!」
静香は人差し指を立ててその鼻に当て、「めっ!」と軽く弾く。大地が顔をのけぞらせ、静香はふっと笑みをこぼした。
小さなぬくもりを腕に抱え込み、畑の様子を一望する。
あれから草太がこの中庭に関するすべての技術を世間に発表した。争いの種をまくだけだとミコトは言ったそうだが、可能性をばらまくことにもなるはずだと、そちらに賭けることにした。今のところ目立った結果は出ていないが――。
草太はあらゆる方面で精力的に動き回っている。ミコトが進める計画を崩すべく。それから、人々を救う現実的な手段を探るために。あまりに自身の健康を後回しにして、あまりに度々命を危険にさらしてくるので、最近では鏡子までもが心配に顔を曇らせている。なかなか宮に戻らなくなったが、それでも一週間に一度は必ず顔を出す。先週は『ワイルド・パラサイト』をやっとつぶせたと喜んでいた。父親の墓参りにも度々行っているようだ。
そして。
静香は大地を抱きしめる。そうするだけで温かな思いに満たされていく。
それは儀式。心のうちの救いを、もっともっと確かなものにする儀式。
ふいに悲しくてならなくなるときがある。どうすれば大地は死なずにすんだのか。きっといつまでも、そう考えずにいられない。出会ったことまで後悔してしまうときもある。自分を責めてどうにもならなくなるときもある。
そんなときは鏡子がこの身を抱きしめて、許しの言葉をかけてくれる。それが嘘で、ただの気休めだとしても、心は癒されるはずなのに。
赦されるのがつらいこともあるのだ。
初めて知った。
大地は本当に色々なことを教えてくれた。どれも大切なものばかり。
静香は大地を抱きしめて、一つ一つを噛みしめる。
ミコトは何の罪に問われることもなく日々を過ごしている。静香にはそれが許せない。ミコトの一部には悲しみだけを覚えるが、大部分は絶対に許したくない。法で裁くことのできる罪なのかは知らない。だが、罪は償われるべきだ。しかしミコトは多くの力に守られていて、今の静香たちには何もできない。
静香は少しずつ外の世界に慣れていくことにした。外気に触れることもままならない今のままでは、できることはあまりにも少なすぎる。大地の墓参りでさえ、心のままに飛び出しては行けないのだ。
食べ物も徐々に外のものを取り入れている。
義父の姿が頭をよぎるが、恐怖はなかった。生物は環境に適応するものだから。地球が元の姿を取り戻していったなら、人間だって元に戻るだろう。一人綺麗な身でいるのはやめて、人々ともに歩みたかった。
努力が報われる日は来ないかもしれない。
宇宙は未だ人類を拒んだまま。地球の息吹は聞こえない。人はこのまま死に絶えるのか。あるいはミコトの考えたように、選び抜かれたごく少数の者たちだけが生き残るのか。一人の生涯の内では、答はまだ出ないかもしれない。
それでも。
生きることは、あがくこと。毎日を迷いながら進むこと。
そして静香は祭壇に立つ。
「どうか――お願いです。……忘れないでください。あなた方が、人間であるということを。……人は弱いもの。そして強いもの。その心に、あらゆる可能性を秘めたもの。……神にすがってはなりません。悩んで、迷って、選んで、誤っても。……負けないで。逃げないで、ください。例えどれほどの絶望に呑み込まれようと、救いは常にそこにあります。気づいてください。あなたの心に。あなたを想う、人の心に。そしてすべての人々を、この地球を、心から愛してください。……理は、情を読んではくれません。人は打ちのめされます。けれどそれを越えていく力も、確かにそこにあるのだと。信じてください。そして、生きて。生き抜いて。……人らしく、どこまでも、人として」
――天地神明。
人々は今日も、生きている。
END.