『天地神明』

第五章 現実


 警察が来る。

 布団の中で膝を抱える。全身が力無くわなないて唇も結べない。時計の針が心臓をたたく。固く固く目を閉じるのに、いつまでたっても眠れない。

 これは夢だ。

 今日の放課後から。一昨日の帰り道から。ずっと夢を見続けている。
 人を殺したかもしれないなんて。警察に捕まるかもしれないなんて。絶対嘘に決まっている。やわらかな肉を裂いた音。噴き出してきた温かな水。全部、全部作り事だ!
 生ぬるい生活はどこへ消えた? 何故自分がこんな目に遭うのだ。何もしていない。ただ助けようとしただけだったのに!
 そうだ。自分は何も悪くない。正当防衛だったのだ。命が危なかった。他に手段は――あった。
 景子は震える手をポケットの中にねじ込み、中の物を取り出した。血を吸ったティッシュのかたまり。凶器であるカッターナイフ。それから、防犯ベル。
 もしも優希がゲームの中の敵キャラだったら、自分の取った行動は間違いではなかった。だがここはパソコンの中ではない。紛れもない――現実世界なのだ。
 なんてことをしてしまったのだろう。
 戦慄が上から殴りつける。景子はベッドに沈み込み、自分の体をきつく抱いた。
「……自首……しないと。……松本さん、死んじゃった……?」
 確かめるのは恐ろしかった。布団の中から顔を出すことさえ恐ろしくてならない。殺そうとしたわけじゃなかった。ただひたすら自分の身を守りたかっただけ。人を刺すだなんて、本来そんな恐ろしいことをできる人間じゃないのだ。警察に行かなければ。しかるべきところへ……。
 思い浮かぶのは牢獄のビジョン。警察は自分のことをちゃんとわかってくれるのだろうか? 本当に話を聞いて、しっかりと理解してくれるのか?
 誰かに「大丈夫だよ」と言ってほしかった。「君は悪くないよ」と。「仕方がなかった」と、「怖かったね」と。嘘でもいいから。優しさだけは偽らず。
「だ……いち。……大地。大地。……あ、あぁ……うっ」
 粗雑で無愛想だけれど、本当は優しい幼なじみ。彼ならきっとわかってくれる。会いたかった。抱きしめてほしかった。

 だが、知られたくない。

 もしも、もしも軽蔑されたなら。いとわしげな目で見られてしまったら。考えるだけで全身の血が凍って割れる。
 そうだ。こんなことになってしまって、明日から自分の周りはどうなってしまうのだろう。
 学校には行けなくなる。英美も、誰も話しかけてくれなくなる。クラスのみんなはどう思う? 先生は? 両親は? 誰一人自分と同じ選択を強いられたことがないくせに、何故そんな目に遭わなければならないのだ。
 何故自分だけが。……こんなことで!

 ――隠し通さなければ。

 明日も大地と話したい。明後日も、明々後日も、ずっと。普通に。生ぬるくてかまわないから。
 ティッシュは気づかれないよう燃やせばいい。カッターはどこかに埋めればいい。もしも優希が生きていたらどうすればいいだろう? それはそのとき考えるしかない。
 渇ききった喉の唾を飲み下す。景子は布団の中から這い出て髪をとく。乱れた髪が一筋、また一筋と整っていく。くしを置き、色つきのリップを唇に引く。制服はしわくちゃだったが、首から上はきっちりと整った。

 部屋の扉に手をかけようとすると、コンコンと控えめなノックが響いた。
「……景子? 調子は大丈夫?」
 母親の声に心配以外の響きは入っていない。
「……大丈夫」
 景子が慎重に答えると、小さな音を立てて扉が開く。
「手紙が来てたから」
 母親は一通の封筒を差し出した。
「……何か食べたくなったら降りてきなさい。おにぎりを置いておくから」
 景子は軽くうなずいて、受け取った封筒をまじまじと見た。真っ白な封筒に差出人の名前はない。
 扉を閉めてベッドの上に座る。少し迷ったが、カッターで封筒を開けていく。
 中には一枚の紙と一枚の写真。景子は今まで何度もこういった手紙を受け取ったことがあった。

 ゲームの中で。

 それは必ず一枚の紙と一枚の写真によって構成されている。写真は明らかに隠し撮り。紙にはプロフィールがずらりと並ぶ。まるでパソコンの中からこぼれ落ちたかのような。それ、そのままの。――『虫退治』の、司令書。
 ――誰がこんな悪戯を。そう思いつつ指が震え出す。

 写真に写っていたのは英美だった。

 もしや誰か、自分が優希を刺した現場を見ていたのだろうか?
 景子の喉がきゅっと締まる。間の悪い悪戯か? それとも、脅迫、なのだろうか?
 『虫退治』の期限は一週間。一週間たっても放っておいたら何がある? ゲームオーバーのその先に、『コンティニュー』の文字が浮かぶ。例えパソコンから抜け出ても?

 これは悪い――夢だ。

 だが景子の右手はすでに人を裂く感触を知っている。


 火曜日の時間割。鞄の中にそろう教科書を見つめながら、景子は『火曜』ということを強く意識した。手紙を受け取ったのは月曜の夜。もしもあれが脅迫ならば日曜が期限ということになる。時は刻一刻と過ぎていく。
 優希は死んではいなかった。だが生死の境をさまよっている。彼女が目覚めれば自分のしたことが明るみに出る。目覚めなければこの脅迫に対し、どう立ち向かえばいいのだろう。
 景子は大地を見つめる。その周りでは草太と英美が楽しそうに会話していた。ごくありふれた日常の情景。昨日までは自分もあの中にいたのに、たった一晩でどこまで遠くなってしまったのか。未だに夢を見ているのではないかと思ってしまう。
 英美は今朝のホームルームで亜美の死と優希の重体を知ると、景子に一言「……大変だったね」と言った。廊下で会ったときからずっと沈んでいた景子の状態を、『巻き込まれた』からだと思っているらしい。好奇心を抑え、口を閉ざして、ただそっとしておいてくれる。景子にはそれが非常にありがたかった。
 英美は高校からの友達だ。一年生の最初の日、出席番号が近かったことで話し出し、意気投合して今に至る。二年でも同じクラスになったときには二人して飛び上がって喜んだものだ。朝から『虫退治』のことで盛り上がり、休み時間には先生の悪口を言い、放課後には好きなドラマやアーティストの話をしながら一緒に帰る。トイレだって一緒に行くし、授業でグループ分けがあれば必ず二人、離れずにいた。
 大切な友達。クラスの女子の中ではたった一人の自分の仲間。景子は何度も英美を見ては無理だ、と思う。英美でなくても無理だが、英美ならば余計に無理だ。
 しかし常のごとく平和の中にいる英美に、自分に与えられた指令を突きつけてやったら一体どんな顔をするだろう? そのときの反応を想像すると嗜虐的な心がざわめきだす。景子は打ち消すように首を振った。
 大地と何でもいいから何か話したかったが、日常に触れて己の非日常が浮き上がるのが怖かった。
 まともな授業は行われず、景子にとっての火曜日はあっという間に過ぎていった。

 水曜日。一晩越すごとに右手の感触が薄れるような気がしていた景子の心を、早朝の電話が切り裂いた。クラスの担任からのもので、景子が優希と一緒に歩いているのを見た人がいる、何か知らないだろうか? 是非話を聞かせてほしい、といった内容だ。
 まだ誰もいない廊下を進みながら、景子は黄泉平坂を歩いているような気分になる。しかしそれにはやがて終わりがあり、地獄の門が待っている。
 教師の周りには数人の警官がいた。穏やかさのない固い声で事の次第を問うてくる。
「……松本さんは高田さんにいじめられていました。……クラスの女子ならみんな知ってると思います。……みんな見て見ぬふりしてました。……でも私はその日の昼休みに、高田さんのことを止めようとしたんです。けど止められなくて、友達に『もうそんなことしない方がいい』と言われて、だから、放課後松本さんに呼ばれてついていったけど、途中で思い直して引き返しました。そしたら朝先生が……高田さんが亡くなったって……」
 事実をねじ曲げた嘘はすらすらと口をついて出た。景子は二度と戻れないと感じながら、不思議と罪悪感のようなものはなかった。ただ追いつめられた思いだけがある。
「……そうか。松本は高田に……それで二人がもみ合って……」
 教師の言葉に「はい」と言おうとして、声は音にならなかった。
 教師は景子の顔色を心配して早々に切り上げてくれた。そろそろ授業が始まるというのもある。警官は終始表情を変えずにこちらを見つめていたが、特に何かを言うようなことはなかった。
 息の詰まる空間を出た途端どっと汗がわき上がる。乗り切った、とは、とても思えない。
 一つの嘘を守るにはもう一つ嘘が必要になる。そうしてどんどん増えていって、やがて嘘に押し殺されてしまうんですよ。
 そう言ったのは幼稚園の先生だったか。だが景子が守りたいものは嘘ではない。日常だ。かけがえのない、この毎日。どうしてこんなことに、と、何度も数え切れないくらい考えたことをまた思う。景子は深い息を吐いた。

 朝のホームルームで、担任は早速遺憾の意を表明した。クラスの中にあったいじめについて、裁かないまでも遠回しに責めたのだ。「本当に残念だ」、「まさかそんなことがあったなんて」、「もうそんなことはないようみんな仲良く」。沈痛な面持ちで同じ言葉を繰り返す。
 男子はあっけにとられたような顔をしていた。女子は何も聞かずとも、誰が秘密をもらしたのかみんなわかっていたようだった。

 一時間目が終わった後の休み時間。景子はただ「あれ?」と思った。英美が自分のそばに来ないのだ。教室の中を見渡すと、少し離れたところで数人の女子に囲まれている。
 景子はかっての優希の姿を思い出し、いてもたってもいられず近づいた。
 しかし、
「うん。そうだね。他にいないよね。だってあのとき……」
いやらしい笑い声もすすり泣きも何もなく、英美はいたって普通に話していた。
 景子はほっとして、輪の中に入ろうと身を乗り出す。「何話してるの?」と問いかけると、集団はいっせいに景子を見た――かと思うと顔を背けた。そうして再び普通に話し出す。
 景子は首を傾げた。英美も自分の方を向いたのに、何も言おうとしてくれない。苦虫を舌の上に乗せたままチャイムの音を耳にした。

 二時間目が終わっても、三時間目が終わっても、英美は一向に自分のそばに来る気配がない。あまり話したこともない女の子たちとぺちゃくちゃ言葉を交わしている。
 明らかに避けられている。
 景子は昼休みこそ英美を捕まえて話をしようと思った。
 知らず唇を噛んでいると、目の前にぬっと黒いかたまりが現れる。大地だった。
 景子は目を丸くして思わずのけぞる。大地はいつものように「あー……」と言い淀みながら、そこには面倒そうな響きは微塵も含まれていなかった。何かを言おうとして景子の前までやって来て、やっぱり言うまいかと考え込んでいるような様子だ。
 眉間に寄ったしわを指で押し広げてからゆっくりと目を合わせてくる。
 景子の鼓動がうるさくはねた。
「……『沈黙は金』、は、松本のことだったのか?」
 その口からその名前が出たことに戦慄した。
 大地は返事を待っている。
 景子は言葉もなくただうなずく。
「……そうか」
 景子がうつむいたまま視線だけを持ち上げると、大地はひどく苦い顔をしていた。
 景子の中に何かがすとんと落ちてきた。
「……もっと早く、最初に気づいたときに止めていれば、……こんなことにはならなかったのかもしれない……」
 うわごとのようにつぶやく。優希は亜美を『悪魔』だと言った。その所行を止めずに見ていた自分たちも、優希にとっては充分『悪魔』だったのかもしれない。もっと早く――そうすれば、優希は自分の言葉を信じてくれたのかもしれない。亜美だって死ぬことはなかったに違いない。

 ――今となっては、何もかもが遅すぎる。

 大地は景子の頭をつかんで軽く押した。景子は泣きたいほどの切なさを押さえ込む。息を呑んだ拍子にすべてを打ち明けてしまいそうで。しまいたくて。でもできなくて。ずっと下を向いていた。
 それを見ていた女子の集団がひそひそとざわめいていたことに、景子はまったく気づかなかった。

 昼休みになり、景子は他の子と教室を出ようとする英美を慌てて捕まえた。
「私、友達と約束してるから」
 英美はすげなく背中を向ける。景子は英美の制服を引っ張って、
「待ってよ! 急にこんなの納得できないよ! あたし、何かしたっ?」
ところかまわず大声を張り上げた。
 英美がくるりと振り返る。
「亜美と松本さんのこと、先生に言ったの景子でしょ? みんなすごく怒ってる」
 景子には理解できない。それと英美の態度の急変とに一体何の関係があるのか。
 英美はわずかに声を落とす。
「景子のことは好きだけど、景子と一緒にいると私が無視されるんだもん」
 それがすべての答だとでもいうように、踵を返して立ち去ってしまった。
 景子は呆然と立ちつくした。

 そんな理由で?

 さっきのは本当に本物の英美だったのか? とてもじゃないが信じられない。だが今自分はたった一人で、鞄の中の昼食を一緒に食べる相手はいない。
 景子にはどこか英美さえいれば自分は一人ではないという思いがあった。だから気の合わない相手と積極的に話をすることはなかった。しかし英美の方は一番仲がいいのは景子だったが、それなりにまんべんなくクラスの女子とうち解けていた。景子がいなくても英美が一人になることはない。
 教室の床を編む糸が、一本ずつばらけていく。景子はふらふらする体を必死に支えながら、鞄を開いて弁当を見る。教室中の視線が自分に集まっているような気がした。
 大地と草太はまだ学食から戻っていない。他に親しい相手はいない。景子は弁当箱を胸に抱え込み、逃げるようにして教室を出た。
 左右に伸びる廊下を前に立ちつくす。行き交う人々は景子になど目もくれず、それぞれの仲間とそれぞれの場所へとむかっていく。
 景子は教室を振り返って時計を確かめ、腹に鉛を埋め込まれた気分になった。

 五時間目、六時間目と、景子は英美の姿をじっと見つめる。早く嘘だと言ってほしくて。自分がいずとも平気な笑顔に耐え続ける。しかし英美は何も言わず、こちらを見ようともせず、景子の希望を次々と押しつぶしていく。
 放課後、教室には誰もいない。景子は一人立ちつくす。英美が来ないことは知っている。それでもその場から動けない。
 何がどうしてこうなったのか。そればかりを考えていた。

 木曜の朝。景子は教室の重い扉を押しのけ、聞こえてきた声にどきりと胸を高鳴らせた。大地と草太が楽しそうに話している。低い声が耳に心地よい。
 景子が聞き惚れていると、草太がとびきりの宝物を差し出すようにして微笑んだ。
「静香様から伝言をお預かりしている。……『大地』は元気? と」
 大地がしかめっ面になる。
「……草太、おまえ知ってんのか?」
「それほど嫌ならばお断りすればよかったろうに」
 草太は微笑をときほぐし、大地はますます顔をしかめる。
「……家では『ネコ』って呼んでる」
「それは、……静香様がさぞお嘆きになられるだろう」
「……それはねー……と、思う。だいたいその名前になったのはあいつが……」
 大地が机に突っ伏してため息混じりにつぶやくと、草太は小さく吹き出した。
「可愛らしいお考えではないか」
「……だから折れてやったじゃねーか」
 大地はうめくようにしている。
「ありがとう、大地。どちらの『大地』も元気でしたと伝えよう」
 そして何も言わなくなった。
 景子は息ができなくなる。『静香』。その名前を聞く度に胸が痛む。あんなに綺麗な少女が大地を選ぶはずはない。自分以外に大地の良さなどわからない。そう思っても、大地自身は一体どちらを選ぶのか。とても勝ち目があるとは思えない。
 大地のそばにいるのが自分だけだったらいいのにと、馬鹿みたいなことを真剣に考え込んでしまう。
 自分が今ここにいるのは――その一番大きな理由は――大地のことを見ていたいから。なのに。
 大地は机に突っ伏したまま、きっとあの子のことを見ている。

 今日も英美は他の女の子たちと一緒になって景子のことを無視している。景子は休み時間になると極力自然を装って大地のそばに行くようにした。
 無視されていることは話せなかった。自分が悪いとは思わないが、情けなさは拭えなくて。大地はきっと軽蔑しない。きっと守ろうとしてくれるだろう。だが景子は立ち回ってもらいたいのではなく、ただ普通に、『いつも』と変わらぬ態度でそばにいてほしかった。
 昼休みになると大地は草太と連れ立って学食に行ってしまう。予鈴が鳴るくらいになるまで帰ってこない。
 景子はため息をつき、弁当箱を抱えて隣のクラスをそっとのぞいた。
 二年になりクラスに英美以外の友達がいなくなってから、二人の友情が深まる分他のクラスの友達とは疎遠になっていった。こうして昼食に混ぜてもらいにいくのはとても気まずい。
 教室の中の友達はみんなでまぁるい円を作ってすでに食べ始めていた。絶え間ない笑顔と笑い声。
 景子は友達には正直に話して理解してもらうつもりでいた。しかし楽しそうなその様子を見ていると、話してはいけないことのような気さえしてきた。頭の中でぐるぐる言い訳を考えて、立ちつくして、どんどん気力が萎えていく。景子は教室を通り過ぎた。
 今日も食べずにいようかと思うが、これから毎日こんな日々が続くのだ。肺をたたいて歩き出す。
 誰もいない美術室に潜り込み、扉を気にしながら昼食をとる。
 宗教での差別を防ぐため、校内では宗教的行動を控えることが求められるが、誰もいないのだからかまわないだろうと祈りを捧げた。
「海よ、山よ、川よ……今日も私を生かしてくださり、ありがとう……ございます。……どうか、くじけない強さを……」
 配列野菜、合成食品。いつも食べ慣れているはずのそれらは、ちっとも美味しいと思えなかった。

 女の子は陰口をたたく際あまり声をひそめない。もしかしたらひそめているつもりなのかもしれないが、本人のすぐそばでしているのだからそもそもあまり隠すというつもりがないのだろう。いや、近くにいるときも遠くにいるときもいつもひそひそやっているという可能性も捨てきれない。
 景子はそんなことを考える。言われる側になるまでは本当にどうでもよかったことだ。今だってどうでもいい。いいのだが、自然と耳が向いてしまう。抑えられた笑声というのはなんて耳障りなのだろう。
 「えー、うそぉー」、「ふぅーん、やっぱりー」。どうでもいい連中のどうでもいい言葉の中で、英美の声を探している。
「うん、毎日ネトゲーやってるんだよ? それで徹夜して寝不足になってるの」
「毎日徹夜? 一年間? 普通そこまではまるぅ? オタクっぽーい」
 景子は握った拳に親指の爪を食い込ませた。

 自分だってずっとはまってるくせに。

 たわいのない陰口だ。悪意のない世間話でも通用しそうなレベルのものだ。それでも、その口が、そんな口調で、そんな連中と!
 手首から先がぶるぶる震える。
 英美は仕方なく話に乗っているに違いない。きっとそうでもしなければグループから外されてしまうのだ。だから……自分を裏切ったのも、仕方のないことなのだ。

 ホントに?

 景子は思考を無理矢理遮断した。それ以上は考えてはいけないと思った。予鈴はとっくに鳴っているのに、本鈴は一体いつ鳴るのだろう。笑声が耳に届くたび、力いっぱいまぶたを閉じた。

 やっと五時間目が始まると思ったら担任が来て、クラスの全員が亜美の葬式に行くことになった。
 生前の亜美が友達と呼んだ人間は誰一人として涙を流さない。静かな表情で手と手を合わせて目を閉じている。景子には悲しみをこらえているようには見えなかった。
 一人の人間がいなくなり、もう一人は生死の境をさまよっているというのに、教室の中身は少しも変わらない。あいた穴を埋める代わりをすぐに見つける。そしてはかなくもしぶとい日常へと還っていくのだ。
 優希の穴を、自分が埋めた。亜美の代わりを務めているのは誰なのだろう。自分は英美を――まだ、『友達』と呼ぶことができるのか。
 景子は英美を一瞥する。英美はまぶたを閉じている。あれから英美と目があったことは一度もない。

 家に帰ると、景子はすぐにパソコンの電源を入れた。英美はああ言ったが、ここ数日は『虫退治』をしていなかった。する気にもなれなかったというのが正しい。
 パソコンの脇にはあの日届いた指令書が置いてある。見たくもないものだが、うかつに捨てるわけにもいかずそのままにしているのだ。
 ゲームの中では読んですぐに燃やさなければならないことになっている。警察は敵だから。下手な証拠を残すことはない。
 景子は短い息を吐き、隠すようにしてパソコンの下に滑り込ませた。
 今はただ、気晴らしがしたい。外を出歩く気にもなれないから、結局『虫退治』をする他にない。花の女子高生ともあろうものが。昼間の陰口の言う通り、オタクっぽいのかもしれなかった。
 ゲームをロードしてステータス画面を確認する。景子はキーボードをたたく手を止めた。装備の欄には『カッターナイフ』の文字がある。
 右手がぞくりと泡だった。
 日常は自分の前だけ食い破られて、毒虫の群れがさんざめく。

 そうだ――今日は木曜。一週間はその半ばを過ぎていたのだ。

 金曜の昼。美術室には人がいたので、景子は屋上へつながる階段で昼食をとることにした。屋上の扉は非常時にしか開かないのだが、その階段は校舎の少し奥まったところにあって、まるで屋根裏部屋のような雰囲気を醸し出している。逢い引きやサボタージュによく使われる場所だ。
 先客がいれば引き返せばいい。そう思って近づくと、狙い合わせたかのように英美たちの声がした。
「あの子絶対朝倉のこと好きだよねー。休み時間になったらいそいそ朝倉んとこ行くしさー。オトコに守ってもらおうと思ってんじゃないのぉ? なんかムカつくー」
 景子はすぐに踵を返そうと思う。わざわざ嫌な思いをすることはない。だが。

「ねぇ英美、朝倉のこと好きなんでしょ? 奪っちゃいなよ」

 視界の色が反転する。

「うーん、でも大地君と景子は幼なじみなんだよ」

 英美は否定しない。

「幼なじみなんて男と女にならないと思うけどぉ? どっちか好きだってくっつくことなんてめったにないって。英美があきらめることないじゃん。大丈夫、英美なら」
「そうかなぁ……?」
「そうそう。あたしたち協力するしー!」
「じゃあ、がんばろっかな」
「よぉーくぞ言った! それでこそ女! 奪っちゃえ! 奪っちゃえ!」

 景子は聞いていられなくなって、震える足で走り出した。
 英美が大地のことを好きだったなんて。一体いつから?
 英美とならどちらが選ばれても恨みっこなしだと言えただろうに。一緒に頑張ろうと心から励ますことができただろうに。それが……『奪う』? どうして? 周りの子に言われたから?
 そこまでして群れから外れたくないというのか。

 自分の身を守るためならば何をしてもかまわないと?

 一緒に弁当を食べるための、休み時間をともに過ごすための、『一人にならないため』だけの友達など、あたしはいらない。

 『ワイルド・パラサイト』。始末するのは人間ではなくただの虫。
 それはパソコンの中の話だけれど、ならば現実世界に現れたあの指令書が、ターゲットに選んだおまえは何だ?

 景子は立ち止まって右手を見つめる。
 ゲームの中に英美の顔をした敵キャラが出れば迷わず殺してしまえるだろう。
 裏切られた。友達じゃなかった。あんな子だとは思わなかった。体の中をマグマがどろりと落ちていく。
 現実で手を下さないのは良心のため? 保身のため? 友情のためではもはやない。

 あの指令書が脅迫であったなら。自分の身を守るためにその命を手にかけたなら――英美は一体、どんな顔をするのだろうか。

 授業の後、優希の死が伝えられた。
 その夜景子はパソコンの下に隠した封筒を燃やして捨てた。

 土曜日。景子は上を見ては下を見て、下を見ては上を見て歩いていた。
 カルトな集団は国家血盟神教だけではない。安全のため人通りの多い場所には必ず監視カメラが仕掛けてある。たいていは見てわかるものが設置され、警官が二十四時間態勢で映像を調べている。行き交う人の流れの特に多いところには、小型カメラも無数に隠れている。ようは何事かしでかすなら人のいないところですればよいのだ。ただし自分も他の危険に呑み込まれないよう注意する必要がある。
 街のポイントを確認し、頭の中で計画を練り上げながら、それでも景子は英美を殺すと決めたわけではなかった。
 あくまで念のためだ。もしもこれが自分の命に関わるものだった場合。警察は頼れない。ゲームの中では敵であるし、景子自身、名前を覚えられたくはない。――自分の身を守るためならば――例え英美であっても――。
 そう思う景子のポケットには、防犯ベルだけが入っている。
 ふとした瞬間鮮やかによみがえるあの感触。ざくりとした音。二度と味わいたくはない。
 景子はこれがたちの悪い悪戯であることをひたすらに願っていた。

 そうして迎えた日曜の夜。
 景子は制服で白のハイソックスに革靴という、学校に登校するときのいでたちで外に出た。
 駅に立ち寄り公衆電話から英美の携帯に電話をかける。
「……どうしても話したいの。お願い。今から誰にも何も言わずに出てきて。学校じゃしゃべれないでしょ? 今しかないの。場所は……」
 英美はすんなりと了承した。
 景子は夜道を歩きながら、自分が二度と引き返せないところへ入ってしまったような、そんな気になった。
 以前にもそう感じたことがある。優希を刺して逃げた後。担任に事情を話しに行ったとき。今は――まだ、引き返せる。普通に腹を割って話して帰ればいいのだ。ポケットの中のカッターナイフをひた隠して。なのに何故、こんな気持ちになるのだろう。
 コツコツと靴の音が鳴る。他には鳴らないことに安堵する。心臓をたたかれるようで恐怖する。たどり着くのを恐れつつ、立ち止まれば動けない。
 突然何かが口を覆った。

「――今宵で七日が過ぎる。その身は狩る側から狩られる側へ転ずるのだ」

 喉元には鮮やかな刃物が光る。息を呑めばやられてしまう。
 景子は声を封じる指に噛みついた。
「待って! ……今から退治しに行くの! まだ今日は終わってないんだからっ!」
 暗殺者は凶器を持った腕をすっと下ろす。
「……よかろう。しばし待つ」
 そうして次の瞬間には闇に隠れていた。
 景子はたった今起こったことがとても信じられなかった。前も後ろも誰もいない。だが、確かにいたのだ。確かに今、殺されるところだったのだ。
 悪戯じゃなかった。きっと脅迫でもない。

 ――ゲームが現実になったのだ。

 景子の足がわななく。自分がどうやって前に進んでいるのかわからない。それでも決して足を止めてはならない。寒くてたまらない。なのに汗がどっと噴き出してくる。体を作るあらゆる組織が恐慌を来す。脳味噌の中が空になる。
 いつからか何かが狂ったのだ。どうして自分ばかりこんな目に遭わなければならないのだ。優希を刺したのが罪だというならいくらでも悔い改めるだろう。罪悪感などすでに何度も感じてきた。
 海も山も川も、感謝を捧げるもので救いをもたらすものではない。たった今生き延びるためなら何だってあがめ奉ろう。額を地につけてすがりつこう。だから――!

 助けてください、カミサマ。

 景子は英美の前に立つ。歩みはたたらとなり、言葉はうめきとなる。
 英美は景子の動向を見守っている。
 景子は英美の意識をそらさなければと考える。だが何を言って何が返っても殺意が鈍るだけのような気がした。
 いや、英美を前にして、景子は殺意など抱いてはいなかった。胸にあるのは見えない闇への恐怖だけ。……殺さなければ殺されてしまう。――仕方がないのだ。

 そう、これは仕方のないことなのだ。

 景子はポケットからカッターナイフを取り出し、ゆっくりと刃を伸ばす。
 それこそが何よりも英美の動揺を誘うだろう。
 そう思ってのことだったが、英美は微動だにしなかった。

「……景子は私を殺すのね」

 感情のない声。

「――生命を司る神の一、トウレンは言う。『私の与えたものを大事にしなさい。生をあきらめた者などただの土くれにすぎぬのだから』と。『さすれば血には血、肉には肉、魂には魂を。命の杯を割る者は、命でもってあがなわねばならぬ――』。人は本来、それ以上のものを持たぬのだから」

 英美は肩に提げていた鞄からアーミーナイフを取り出した。
「私は景子を殺すつもりなんかなかったのに。私の身を脅かさない限りは――誰も殺す気なんか、なかったのにね?」
 その顔はどこか寂しげにも見える。
「抵抗していいよ? 命ってそういうものだから。どっちが死んでも、恨みっこなし。ね?」

 何度も見た。スタート画面は一面の黒。段々と文字が浮かび上がる。

 殺しますか? 殺されますか?

 『コンティニュー』の文字はもう見えない。


 血溜まりに立つ英美に暗闇が言う。

「おめでとう。おまえは生きる権利を勝ち取った」
続く。
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