『天地神明』

第三章 世界


 「占いのために瞑想するとおっしゃってください。難しい占いなので集中が必要だと。人払いをお命じになって。そうでもせねば姉は静香様のおそばを離れますまい。姉の目さえごまかせたなら、後はこの私がどのようにでもして差し上げられますゆえ」
 静香は草太の着物の袖をぎゅっと握った。
 出ることを考えて自分の環境を見つめ直せば、それは不可能と言っても過言ではないことに気づかされた。
 超高層ビルの最上階。四六時中鏡子に見張られ、宮から出るのにさえミコトの許可が必要となる。ましてや階からの、ビルからの脱出などと。
 草太は鏡子の目さえごまかすことができればと言うが、何よりもそれが非常に困難なことだった。
 鏡子は自分のことをとても大切に思ってくれている、と、静香はことあるごとに実感させられてきた。限りなく優しく、時に厳しく。十年間、宮の中にいて静香が危険をこうむったことなど一度もないのに、日常の中のほんの小さなことに実に様々な気配りを見せてくれる。近頃は行動を見透かされているのではないかと思うこともしばしばあるくらいだ。
 今は入浴中のため草太に役目を預けているが、鏡子の入浴は烏の行水で、入ったと思ったら即あがってすぐに静香のそばに控えている。さすがに就寝時は静香から襖一枚を隔てるが、わずかな物音で簡単に目を覚ましてしまうのである。
 鏡子の不覚を狙うのは無理だ。ならば作るしかない。それはわかる。
 しかし静香は草太の策に乗るわけにはいかなかった。何故なら草太の策では鏡子はだませてもミコトは絶対にだませないからである。
 大切な人たちに嘘をつかなければならないというのも、どうしても踏ん切ることのできない理由の一つだった。
「……静香様、外を知るということは、そういうことなのです。ミコト様と姉の望みに反します」
 草太が静かに言い聞かせる。静香ははっとして目を見開いた。
「……ごめんなさい、草太さんが頑張って準備してくれたのに。肝心の私の覚悟があやふやで。……わかりました。鏡子さんには悪いけど、嘘をつきます」
 後でミコトにばれるにしても、こうでもしなければこのビルを出ることは不可能だ。たった一度きりだとしても――絶対に、外の世界を見ておきたかった。

 草太が口にした通りのことを鏡子に告げると、鏡子ははっきりと怪訝な面持ちになった。
「難しい占いと言われますと……どのようなものでございましょうか。今まで静香様が急にそのようなことをおっしゃったことなど一度もなかったと記憶しておりますが」
 静香は途端に言葉に詰まる。細かいことは何も考えていなかったのだ。
「あ、あのっ、難しいというのは、占い自体もそうなんだけど、他言しづらいというか、占ってみないとなんともいえない難しさなの。鏡子さんでも駄目。誰だって駄目なの。急なのは、どうしても、そのっ、占わなくちゃいけないって、ひらめき! そう、ひらめきが降りちゃって! ……だから……」
「……わたくしにもお話してくださらないと。……このようなことを口にしてよい身ではございませんが……わたくし、寂しゅうございます」
 とっさについた嘘に鏡子の瞳が揺れ動く。静香はいたたまれなくなり、必死に謝罪の言葉を口にした。
「ごめんなさいっ! ごめんなさいって、心から思ってます。……でも、お願いします!」
 それでも譲ることはできない。
 鏡子は白い額にしわを寄せ、沈思黙考してからゆっくりとまぶたを伏せた。
「……わたくしは静香様の御姿を確かめられない状態など一秒たりとて過ごしとうございません。なれど、静香様の花のような御尊顔に陰が宿るなど、ましてそれがわたくしの所為などと、思い浮かべただけであまりの罪深さに胸が張り裂けます。……静香様、他の者は誰一人近づけませぬ。しかしわたくしだけは障子の陰に控えさせていただきます。よろしいですね?」
 それが妥協の言葉だったので、静香は一も二もなくうなずいた。心の中では再び謝罪を唱えながら、感謝の意を力いっぱい言葉にし、鏡子の胸に飛びついて。
 鏡子は完全には心晴れない様子だったが、最後には「静香様のよろしいように」と微笑んでいた。

 しかしいざ部屋にこもると、静香は自分がとんでもない大失敗をしてしまったことに気がついた。いくら鏡子から逃れたとはいえ、唯一の出入り口である障子の向こうに控えているのだ。これで出て行けるわけがない。
 静香は草太に何と言って詫びればよいのかと悶えると同時に、自分のあまりの馬鹿さ加減に憤死してしまいたくなった。わがままを言ったのも妥協してもらえたのも初めてのことだったから、思考能力に麻酔がかかってしまったのだと思う。できれば麻酔がなくても同じだなんて思いたくない。
 静香はたった一人で部屋で過ごすことになってしまった長い長い時間を、さて一体何に使おうかと考えた。
 鏡子に聞こえないよう小さな小さなため息一つ。
 それに重なるように、膝の下でカタッと、文箱を開けるような音がした。
 静香は出しそうになった大声を両手で押さえ込み、必死の思いでやり過ごす。
 自分の腕で作れるくらいの大きさの、正方形の穴がぽっかりと。その奥では草太が人差し指を鼻に押し当てていた。
 静香が完全に口を閉ざしたのを見ると、指を離して手招きする。静香はそーっと、どんなに小さな音も立てないよう、ことさらゆっくりと穴に降りていった。

 暗くて狭いところを進んで数分後、やっと腰を伸ばせるところに出たと思うと、今度は地面が下がっていく。静香が息を呑み込むと、草太はかすれるような声で「失礼」とだけ言って静香の口を手で覆った。落下はどこまでも、滑るようなスピードで進んでいく。
 まともに声を出すことを許されたのは、パッと明かりがついて目の前に行き止まりが立ちはだかってからだった。
「……草太さん、これはどういうことなの? 今まで通ったところは一体何で、どうして私の部屋にあんな穴があいていたの? もしかしてあらかじめ草太さんがあけておいたの? あの落ちていったのは一体何?」
 静香は矢継ぎ早に質問を浴びせる。草太は困ったように微笑んで、「少々お待ちください。必ずお答えいたします」と告げながら、ガスマスクと紫外線遮断クリーム、ワンピースを差し出した。
 それらは静香にとってはまったく用途のわからないものだった。重ねて質問しようとする静香に、草太はゆるゆると首を振る。
「とにかくこの服をお召しになってください。静香様の御衣装は目立ちますゆえ。その後肌の露出している部分にこのクリームをまんべんなく塗り広げていただきます。外に出る際必ず必要になることです。最後にこのマスクをつけていただきますが、使い方は後ほど説明いたします。それでは、壁の向こうで控えておりますので、用意を終えたらお知らせください」
 静香がハテナマークを飛ばしている間に、草太はさっき確かに行き止まりだったはずの壁を開いてさっさと出て行ってしまった。静香は一人取り残されて、首を傾げながらも言う通りにする他なかった。
 はてこの洋服らしき布はどういうふうに着るものなのか。
 ハテナがずらりと行列を作る。
 試行錯誤の末思いきって適当に着てみたら、その着心地から理解できた。
 しかし一つ終わればまた次だ。クリーム。肌に塗るものらしい。おそらくこれは容器であり、このまま擦りつけても仕方がないものと推測される。とりあえず触りまくってふたが外れる。出てきた珍妙な液体を触り、におい、少し塗りつけてから舐めてみようかどうしようかしばし迷った。
 そんなふうにして、再び草太を見たときの静香は、ガスマスクの使い方を聞きたくて聞きたくてしょうがない顔をしていた。
 草太は苦笑しながら懇切丁寧に教えていく。そして先ほどの答も。静香の部屋には十年間ずっと非常用の出入り口が隠されていたこと。地面が下がっていったのはエレベーターという乗り物であることなどを説明した。
 静香はへえ、とか、わあ、とか言いながら、それはそれは楽しそうだった。
 だから草太は未だビルを脱出していないにもかかわらず、進言差し上げて良かったと、心からの安堵をもらしたのだ。
 だがそれはすぐに覆された。
 幾重もの扉。一枚、また一枚と開いていく外界への出口を抜けるうち、静香の体調は目に見えて悪くなっていった。
「……少し、息苦しいかもしれない。どうしてかしら、肌がピリピリするような……」
 マスクの設定に問題はない。天気予報では防護服が必要になるような日差しではなかったはずだ。
 草太は半ばパニックになりかけた頭を落ち着かせ、とにかくこのままではいけないと静香を置いて耐光線用の防護服を取りに行った。全身を覆う宇宙服のようなもので見映えは悪いが、マスクよりはよほど高度な空気清浄機能が備わっている。
 そんな予想外のアクシデントのせいで、静香がようやく外に出れたのは正午を回ってからのことだった。

 「静香様、私はこちらに残る必要があるかと思われます。姉は聡い。あのままおいて気づかれないとは思えません。ほころびを見つけられる前につくろっておかなければ。ですが静香様をお一人にするなどもってのほかでありますので、私の友人に静香様の護衛と外の案内を頼んでおきました。彼は信用のおける人物です。武術に関しても優れているかと。しかしくれぐれも静香様ご自身が危険を避け、御身をお大事になされますよう、この草太、心よりお願い申し上げます」
「はい。わかりました。ありがとう草太さん」
 静香がそううなずくと、草太は斜め後ろにいた学生服の男に体を向け、「大地、静香様にご挨拶をお願いする」と促した。
 わかったとは言ったものの、静香は内心不安と緊張でいっぱいだった。鏡子と草太とミコト以外に『普通に』話した経験などまったくないのだ。六歳以前の記憶はひどくあやふや。初対面での『普通の』会話、『普通の』挨拶。何もかもわからない。
 静香が『普通に』接する初めての外の人間は、
「……朝倉大地。……こいつと同じ年。よろしく」
非常に面倒そうにそう言った。
 はっきり言って印象はよくない。しかしこれが普通なのかもしれない。
 静香は努めて笑顔を作った。
「大地様。素晴らしいお名前ですね。我らが母の祝福を、目に見える形に表された。とても素敵なお名前だと思います」
 表情は努力した結果だが、言葉は心をそのまま音にしたものだ。
 が。
「おい、マジでコレをつれて歩けっていうのか? こんな世間知らずの、がちがちの宗教系を。まともに話できるのかどうかさえ怪しいじゃねーか」
 期待に支えられていた小さな好印象は地獄の底の底まで落ちてえぐれた。
「あのっ、あなた様の態度は今この場にふさわしいものなのですか? わたくしにはとてもそうは思えません。わたくしが世間知らずだとおっしゃるなら、あなた様は礼儀知らずだと思います」
 静香は思わずそう言っていた。
 朝倉大地と名乗った男は目つきが非常に悪かった。真っ黒い二つの瞳がぎらぎらと光を発し。むっつりと押し黙るうちに曲がってしまったのではないかと思われる緩やかなへの字に結ばれた口は、親しみのかけらさえも抱かせない。
 しかし静香の鋭い視線に、
「俺は礼儀知らずじゃない。正直者なんだ」
まるで悪戯好きの子どものような笑顔を浮かべてみせた。
 あまりに鮮やかな変化だったので、静香は目をぱちくりさせてしまった。
 草太が困り果てたように首を揺らす。
「……大地、女性をわざと怒らせるような真似は感心しないと何度言えば……」
「……楽しんでいるのは確かだが、わざとしているわけじゃない。女の方が勝手に怒り出すんだ」
 大地はまったく悪びれない。
「……静香様はお優しい御方だ。ただ幼少の頃から人と接することを制限されたため、すべてのことに慣れていらっしゃらない。あまり失礼な言動はしないでほしい」
「言ったろ。意識してやってるわけじゃない。それに、正直なのが俺の美点なんだ」
 草太は二人をこのまま送り出してよいものかと非常に心配になった。大地のことは信頼しているが、この点に関してはまったく信用ならなかった。
 大地は顎をしゃくって口元をにやつかせる。
「俺はこの女を見ておまえの形成過程が理解できた気がしたぞ。こんなのとあんなやりとりを毎日のようにしてたんだな」
「静香様を『この女』などと……っ」
 すぐに噛みついた草太に、鷹揚にうなずいて指を指す。
「そう、ソレ、そーゆうの。あの女をうちの学校に放り込んでみろ。確実に浮く。浮くどころじゃすまねーぞ。だから俺みたいなんが相手になるのがちょうどいいのかもな。なんたって俺はおまえのオトモダチなんだし」
「……これは無理だろうかと思っていたが、少しはやる気になってくれたのか? しかし静香様を『あの女』呼ばわりするなど、許せることではないのだ。私にとっては……」
 うつむきがちになる草太の肩を軽くたたき、大地は静香に向かって歩き出した。
「ところでなんで防護服?」
 静香は何を言われているのかよくわからない。
「あ、ああ……静香様のお体が外気に耐えきれなかったのではないかと思う。マスクとクリームだけでは不十分だった。考えれば無理もないことだ、静香様は十年間外に出られたことがない」
 代わりに草太が説明したが、それに対して大地が「……はぁあ?」と呆れたような声を出したので、静香はむっとしないまでもあまりいい気はしなかった。
「それで、今日は静香様をドーム都市に連れて行ってもらいたい。慣れない防護服を着用し続けるのは相当な負担となるだろう」
「あー……わかったよ」
 またもや面倒くさげな口調で締めくくられる。静香は草太に不安を訴えずにはいられない。
「静香様……その、少々お気に障る点もあるかと存じますが、……大地は私が唯一友と呼べる男ですから。静香様にもきっと理解していただけると……そう思います」
 草太を疑うつもりはないが、どうしても不安を拭いきれないのだった。


 アスファルトで覆われた固い地面、超高層ビルの建ち並ぶ谷の底を、言葉もなくただ歩いていく。見るものすべてが珍しく興味深いのに、静香は目の前の背中から目を離すことができない。
 大地は一度も振り返らず、立ち止まりもせず。まるで静香の存在を忘れ去ったとでもいうように、速い歩調で進んでいく。静香は小走りにならなければならなかった。それでも間隔は開いてしまって、幅跳びして一気に距離を詰める。
「きゃあっ」
 静香は固い背中に頭をぶつけた。
「ど、どうされたのですか? 急に立ち止まるなんて……」
 ゆっくりと振り向いた大地はなんともいえない顔をしている。
「……信号くらいは、知ってるよな……?」
「え、……しんごう……あ、はい。六歳の頃までは外で暮らしておりましたから。あの……赤く光るときは止まる、のですか?」
 おずおずと見つめる静香に、大地は深いため息を吐く。
「……そうだ。それから防護服で頭突きすんな」
「申し訳ございません。ですが……走らないと、追いつけないのです」
 大地はえ、と口を開いて、眉間に指を当ててうつむいた。
「……そうか」
「……そうです」
 信号が青に変わった途端に歩き出す。静香は慌てたが、大地の歩みは一転して小さく、ゆっくりとしたものに変わっていた。

 黒い背中のすぐ斜め後ろをぴったりくっついてついていく。もう置いて行かれる心配はない。それでも静香は大地を見つめ続ける。
「あの……」
 呼びかけても止まってくれない後ろ姿。けれど、このゆっくりとした歩調は確実に自分のためのものだ。静香は意を決して大地の背中の布を引っ張った。
「大地様、先ほどは礼儀知らずなどと口にして、わたくしの方こそたいへん失礼なことをいたしました。反省しております。ですから……お話し、してください。お願いです」
 大地が足を止める。しかし振り向かない。静香は不安に突き動かされるままそーっと顔をのぞき込む。
 大地はまた、なんともいいがたい表情をしていた。驚愕しているような、困惑しているような、妙なにおいを吸い込んで息を止めたような顔だ。
「……大地」
「え?」
「サマはいらない。ただの大地」
「えぇっ、いえ、ですが……あのっ」
 静香は声を裏返して汗をかく。今まで誰かを呼び捨てにしたことなど一度もない。
「無理なら『サン』」
 ほっと息をついた。
「あ、はい……大地、さん」
 鏡子と草太以外の人間を『さん』付けで呼ぶなんておかしな気分だ。どぎまぎする静香に、大地は片眉をひょいと上げる。
「おまえ、もしかして俺が怒ってると思ってんの?」
「違う……のですか?」
 静香は上目づかいでおそるおそる表情をうかがった。大地は口のへの字を少しだけ急にして、ぶっきらぼうにつぶやいた。
「別に。『礼儀知らず』くらいで」
「ですが、あれからずっとお話ししてくださりません……」
 静香にはやっぱり怒っているように見えてしまう。
「初対面の女に……」
 大地は言いかけて口をつぐむと、なんでもないと手を振った。
「……俺と話すとたいていの女は怒る。俺はそれが面白いんだけど、おまえは草太の女だから。必要以上に怒らせちゃ悪いだろ」
「……? あの、わたくしは大地様……いえ、大地さんの物の言い様に驚いてしまったのですが、大地様……さん、にとっては、あれが普通のことなのですね?」
 何度か舌を噛みながら言い直す静香に、大地は片目を眇めて首を振る。
「……もういい。好きなように呼べよ」
「あ、はい。お言葉に甘えさせていただきます。あの、大地様にとっての普通があれでしたら、わたくしは是非そうしていただきたいのですがっ」
 静香はつかんでいる背中をぎゅっと握りしめた。まるで初めて過ごすような外の世界。それ以上に、そこで暮らす朝倉大地という人間のことがひどく気になってしょうがない。草太が自ら同行せず彼に役目を預けたのは、外の人間と接する機会を与えるためでもあるのではないかと静香は思う。外の世界を知るということは、外の人間を知るということなのだ、きっと。
「……いいけど」
 大地は一つ間をおいてから言った。
「ではっ、お話しして……くださりますか?」
「あー……わかった」
 やはり面倒そうにしていたが、それが朝倉大地という人間であると思えば、静香はもう不快にはならなかった。

 やっとお話しできると、花のほころぶような笑顔を浮かべた一秒後。ぐうう、と、象のいびきのような音が鳴る。静香は顔を真っ赤にしてうつむいた。
 大地はその頭上でにやにやと口の端を歪め、静香が何も言えなくなったのを知ると、交差点の向こうを見て軽くうなずく。
「ハンバーガーでも食うか」
 静香は一言も発さずついていった。

 例えファーストフードであっても飲食店であるからにはきっちりと空調が整えられている。対光線防護服の頭部を外し、静香は心おきなく息を吸う。
 ふと視線を感じて周囲を見ると、なんとなく、気のせいかもしれないが、誰もが自分の方を見ているような気がした。
「……あの、わたくし、どこかおかしいのでしょうか?」
 尋ねても答えてくれない大地。
「……わたくしがここにあることは、奇妙なことなのですか?」
 静香は思わず泣きそうになる。
 大地はしばらく口をまっすぐに閉じていたが、やがてやれやれとでもいうようにまぶたを伏せた。
「……普通はこんな日に防護服は着ない」
 嘘だ。確かに最初はそれで目立っていた。だがたった今衆目を集めているのは静香がただ、美しいからだった。しかしそんなことを大真面目に口にするなんて冗談じゃない。恥辱の極みと言ってもいい。
「……そうでしたか」
 大人しく納得してくれた静香に内心で安堵の息をつきながら、大地は「草太、おまえ面食いだったんだな」としみじみ考えていた。静香は静香で、人と違う格好をしなければ外にも出られない自分はやはり、『ここにあるのが奇妙な存在』なのではなかろうかと考えた。
 沈黙のテーブルにセットが二つ運ばれてくる。静香はきょろきょろと周りを見た。ハンバーガー。聞くのも見るのも初めてだ。両手で抱えてにおいをかぐ。
 興味津々な様子がありありと伝わってくるので、大地はふっと笑みをこぼした。
「ところでおまえ、名前なんての? あーいや、静香ってのはわかるけど、名字は?」
 静香は目を見開いたまま時を止めた。
「……わたくしに名字などございません。大地様は……ご存じないのですか?」
「……はぁ?」
「お兄様が……、わたくしはただ一人の特別な存在であり、誰一人としてそのことを知らぬ者はおらぬから、わたくしに名字は必要ないのだと仰せになりました」
 こぼれ落ちそうなほど大きな瞳の前に、大地は思いっきり顔をしかめた。
「……草太からは『お仕えすべき大事な御方』とだけ聞いてる。おまえ、もしかしてどっかの教祖だったりする?」
「いえ、わたくしはただの斎女でございます」

 ……どのみち関わり合いになりたくねー。

 大地は今まで一度も頼み事をしてこなかった友人のたっての願いを深く考えようとせず安易に引き受けてしまったことを後悔した。
「……まぁいい。あいつが説明しなかったってことはなるべく普通の女として扱ってほしいってこったろ。……食えよ、さっさと」
「はいっ」
 静香は力いっぱいうなずいた。爪がパンに食い込みハンバーグがずり落ちそうになるのを慌てて止める。大きく口を開けて噛みついて、すぐに右手で口を押さえた。

「……大地様、これは……食べ物なのですか?」

 驚いたのは大地だ。静香は『好き嫌い』を通り越して青い顔をしている。
「おまえ……ちょっと貸せっ」
 ハンバーガーを奪って確かめ、一口含んでみるが異常はない。そうしてすぐに思い当たる。
 普通の対応では外気に耐えられなかった静香。普通の食物も受け付けないのではないのかと。
「嘘だろ……何食ってんだ普段」
 大地は呆然とつぶやく。しかし今はそれどころではない。慌てて静香の肩を揺する。
「おい、すぐに吐けっ」
「いえ、いかな食物といえど尊い命、我らが母の恵みなのです。ましてや一度口に入れたもの」
「自分の顔色見てほざけっ!」
 大地は静香の口に無理矢理手をねじ込んだ。

 痛いほどの注目を避けて店を出ると、大地は静香の食生活を問いたださずにはいられなかった。静香は乱れた息の合間に答えていく。
「……いつもは、中庭の畑で採れたものを、食しております。種々の野菜を育てておりますし、調理も特に変わったことは……。このようなことは、今まで一度も……」
「中庭の『畑』?」
「はい……。わたくしはお兄様の叔父様にひきとられてからというもの、ビルの最上階で暮らす毎日で……、常にそこで採れたものだけを食して参りました。自らの手で耕し、水をまき、育ててきたのですが、水も、土も、どのようになっておるのかは存じません。まさか他のものを口にできないなどと……そのようなことは、考えたこともございませんでしたが……」
「……畑で、野菜を……」
 大地は静香という存在がとても信じられなかったが、静香の方が信じられないという顔をしている。これ以上は追究するのも酷なような、どこまでも追究せねば納得できないような。しかし静香を質問攻めにあわせたとてたいしたことは引き出せそうにない。限られた短い時間、そんなことをするよりもっと他にしてやらねばならないことがあるだろう。大地は静香を少し哀れに思っていた。

 空きっ腹をそのままに、まっすぐドーム都市へと向かう。その途中で、静香はぴたりと足を止めた。
 視線の先には段ボール。側面には一言「拾ってください」。そして中から小さな鳴き声が。生まれて間もない危うい命がタオルにくるまれ震えていた。
「大地様、これは何ですかっ?」
 タオルごと腕に抱え上げる。
「……捨て猫? 珍しいな」
 大地はいぶかしげに首を傾げる。
「そんなっ、捨てるだなんてっ。この子の親は何をされているんですかっ!」
「……猫? いや、その場合飼い主だろ」
 大地は静香から猫を取り上げ、段ボールの中にそっと戻した。
「何を……っ」
「あれはもう死ぬ。『外』に出されて、しかも生まれたてだ。……もつわけがない」
 静香は段ボールの前にひざまずく。
「死ぬとわかっていて放っておかれるのですか。先ほどわたくしを助けてくださった大地様のお言葉とは思えません」
「……あのな。どうやって助けるっていうんだ」
 大地ははっきりと呆れていた。猫と人間を一緒にされたって困るだろう。第一さっきの静香は手の施しようもなかったわけじゃない。捨てられた動物の運命なんて幼稚園の子どもにだってわかるものだ。
 しかし静香は毅然と首を横に振る。
「無力を理由に傍観するのは最も恥ずべきこと。お兄様はそうおっしゃった。助けます。絶対に」
 そうして防護服の頭部をがばっと開き、鳴き声の消えつつある子猫を胸に抱く。
「こっの、馬鹿っ!」
 大地は瞬時に静香の防護服を元に戻した。
「おい! ちゃんと息できるかっ? 肌はっ? 異常ないかっ? おいっ!」
「だい、じょぶ……です」
 けほけほと咳をする静香に、大地は無性に腹が立った。
「……来い」
 自ずと声が低くなる。
「……だ、いち、様……?」
「いいから来いっ!」
 とまどう静香を無理矢理引きずり、人通りのない路地のさらに奥まった場所へと入っていった。

 静香はその光景にごくりと唾を飲み込んだ。
 そこには全身をぼろぼろの布で覆った多くの人間が積み重なっていた。時折這うように動き出す。ところどころ露出した肌は黒くただれ、破れたガムテープのようなものをぞろびかせている。魂を残して肉体の生だけ奪われたかのような。人としての息吹を奪われ崩れた肉だけを残されたかのような。紛れもなく人間であるのに、それはもはや人とは呼べない姿だった。
 静香は懸命に目を開く。ひきつる頬に、熱い滴に邪魔されながら。膝が折れそうなほど震えていたが、決して目はそらさない。
「……今の時代、家を持てない人間はみんなああなるんだ。……助けられるか? 気まぐれに猫を拾ってちっぽけな正義感を満足させて一体何になるってんだ?」
 静香の胸元から小さな小さな声が聞こえる。大地は片目を眇めて頬を歪めた。
 静香はうわごとのようにつぶやいた。
「だって……命は尊い、ものなんです。救おうと思ったなら、それこそが人を救う資格なんです。他にはいらない。何もいらない。……なのに私は、彼らを、救えない……?」
 声が聞こえる。

 神よ、どうか私たちをお守りください。お助けください。どうか、どうか、お許しください――。

 まるで亡者の断末魔。彼らが一体何をした。今生で、前世で、どんな罪を犯したと。
 ――神はただ、『在る』だけのもの。人を裁くものではない。だが、ならば――彼らをここへ堕としたのは何者だ。この声を聞き届けるのは誰なのか。
「……救いは――人の心にこそ、あるのです。……あなた方はやがて息絶え、肉は朽ち果て、魂とともに母の御元へと還るでしょう。なれど、想いは大地に溶け、新しい命を芽吹かせ、生の輪の中で生きるでしょう。生きとし生けるもの、幾度も生まれ、幾度も果てる。あなた方は愛されている。土はすべてを赦しています――。どうか、忘れないで……」
 肉は腐ろうとも、心はどこへまでも飛翔していく。自分を救うのは自分自身。静香はただ神の愛を伝えるだけ――。受け止めてもらえることを、願って。
 指を組み合わせてひざまずき、熱心に祈りを捧げる静香の姿に、大地は舌を打ちたい気分になった。だがこの場にはそぐわない。そんな気がする。静香の言葉には穏やかな静寂こそがふさわしい。そう思うからこそ、あえてあらがう。
「……土は毒に冒されてる。純粋培養のおまえにはわかんねーんだ。この大地はとっくの昔に死んでいる」
 静香は大きく震えた。
「いいえ、いいえ。だって私は土に育まれた命を食べて生きてきたんだもの! 土を愛し、逃げずに立ち向かったなら。誰もが本来の姿を取り戻すことができるはず……っ」
「その土は、水は? 最初の種は。一体誰が用意したんだっ? どれだけの金を払って。おまえの力で手に入れたものが一つだってあんのかっ?」
 大地の激怒に声も出ない。静香はさっと青ざめ、アスファルトで覆われた地面に手をついた。
 消えかけた声がニャアと鳴く。
 大地は靴の先をとんとんと鳴らして、静香の体を乱暴に引っ張り上げた。
「猫、助けるんだろ……?」
「え……?」
 静香は何を言われたかわかっていない様子だ。
「清浄な空気を与えたくらいで助かると思ってんのか? 生まれたてだ、もっとちゃんとした処置がいる」
 つかんだ腕を突き飛ばすようにして離し、大地はさっさと歩き出した。後先考えない馬鹿みたいな正義感。脳みそもたりないのに口だけはやかましい女。静香の顔を見たくなかった。


 景子はしきりに背後を気にし、時折ポケットの中の感触を確かめながら歩いていた。昨日が特別だったのだ。もうしばらくあんなことには出くわさない。出くわしてたまるものか! と思いつつ、背筋によぎるぞわぞわとしたものに逆らえない。
 早く大地に会いたかった。
 昨日はお礼もろくに言わず、今朝になって気がついて激しく後悔、反省した。なんたって命の恩人である。ありがとうと、何万回言ったって絶対にたりない。
 景子はドーム都市に入り、求めていた姿を見つけて声を……かけようとして口を閉じた。
 幼なじみの隣には自分の知らない女の子。
 立ち去ろうかと思う。だが自分はお礼を言いに来ただけなのだ。別にデートを邪魔するような用ではない。
 デート。やはり、デートなのだろうか。
 大地は目つきも態度も悪いが、黙って立っていればそれなりにカッコイイ……と、言えなくもないような容姿をしている。しかしひとたび口を開けば女の子はそろってそっぽを向いて去っていく。性格が悪い、とみんな言うけれど、景子はどちらかというと底意地が悪いのではないかと思っている。……同じことなのかもしれないが。
 そんな大地に恋人が? 見てはいけないものを見た。同時に、幼なじみたる自分に紹介してくれてもいいではないか、と思う。
 しばらくの間逡巡して、拳を握ってから声をかけた。

「大地! ちわっ。この子誰?」

 近くで見ると――すごく綺麗な子。アイドルみたいな『キレイ』じゃなくて。もっと浮き世から遠いところにいる、人ならぬもののような、そんな『綺麗』だ。一度見たら絶対に忘れない。なのにどこかで見たことがあるような気もした。
「……彼女?」
 ちろりと表情をうかがえば、大地はひどく嫌そうな顔をした。
「おまえ――こんなところで何してんだ?」
 心なしか声が低い。目つきの悪さも三割増し。もしかしなくても機嫌が悪い。景子はもしや自分がお礼を言わなかったからかと、さっと姿勢を正してみせた。
「大地にありがとうって言いに来たの。昨日は本当にありがとう。大地が来てくれなかったらあたし死んでたよ。なのになんにも言わずに帰しちゃってホントにごめん。感謝してもしきれないくらい感謝してる」
 深々とお辞儀をする。大地はこれみよがしな息を吐いた。
「馬鹿か。家で大人しくしてりゃーいいのに」
 景子はぴくりと眉を持ち上げる。せっかくわざわざお礼を言いに来たというのにその言いぐさはないのではなかろうか。顔を上げて噛みつこうとして、
「どうせなら菓子折くらい持ってこい」
何も言えなくなってしまった。
 確かにそうだ。お礼なんて手ぶらで言いに来るものじゃない。ただ、お礼を言わなくちゃと。無性に話がしたかったものだから。当然の気配りが頭からすっぽ抜けてしまったのだ。
 大地はうつむきがちになる景子の額を見てうっすらと口を開いた。
「……甘いもんは嫌いだ」
 景子はえ、と顔を上げる。
「……あー、礼は聞いたから、明るいうちにさっさと帰れ。今度は近道すんなよ」
「あっ、ありがとっ!」
 しゅんとした心が一気にふくらむ。底意地じゃなくて表面意地が悪いだけなのだ、と、景子は大地に対する認識を新たにした。
 さっさと帰れと言うけれど、もう少し話していたかった。
「ねね、どうして休みなのに制服なの?」
 ちょっぴり気になったことを聞いてみる。大地はかすかに眉をひそめ、
「……あー、色々仕込んであんだよ。宗教上の理由で危害を加えようとしてくるヤツは多くはないけど少なくない」
と面倒そうに言った。
 景子はびっくりして目を瞠る。まさか幼なじみがそんな目に遭っていようとは。
「あっ、あたしもっ、わかるよ! その気持ち! ……今日からカッターナイフなんて持ち歩いちゃったりして……」
「使うなよ」
 強い口調に気圧される。景子は振り子のようにうなずいた。
「もちろんっ、使えないと思うし、気休めだよ、こんなの。お守りっ」
 大地の目が鋭く自分を見据えている。
「え、えとっ、ところでこの子! そうこの子! 誰っ?」
 景子は下手すれば裏返りそうになる声を必死に抑えて尋ねた。大地は途端に渋面になる。
「……草太の女」
「えぇっ、ホントにっ?」
 思わずまじまじと見つめてしまう。これが学校の女の子たちに知れれば血を見る騒ぎとなることは必至だろう。しかし大地は意味不明な訂正をした。
「……あー、いやー、『ゴシュジンサマ』ってやつかも」
「はあぁ? ……いいけど、なんでそれが大地と一緒にいるの?」
 大地はうんざりとした顔になる。
「……おまえ、そんなにコレが気になんのかよ」
 景子は言葉に詰まったが、すぐにゆっくりとうなずいて視線をそらす。
「……なるよ。こんな、綺麗な子……」
 見れば見るほど綺麗な子だ。透き通るような肌。細筆で描いたような眉。唇は桜色。一糸乱れぬ黒髪はつやつやと輝き、人形だと言われた方がよほど信じられるような美しさだ。大きな瞳はとまどったようにこちらを見ている。
 景子は少女の全身を眺め、腕に不似合いなタオルが抱かれていることに気がついた。
「それ、何……?」
 のぞき込めば少し傾けて見せてくれる。目も開ききらないような、生まれたばかりの猫の赤ん坊だった。
「『外』に捨ててあったのをこいつが拾ったんだ」
 大地が言い捨てると、少女の肩がびくりと震えた。
「見捨てることなどできません! この子くらいは、……助けられます。助けられずとも、救いたいと感ずる心のまま動くことは……悪いことではないと……わたくしはそう思います。己の心をあざむいてまで命を見捨て、一体何が得られましょうか」
 発せられた口調はなるほど『草太の女』にふさわしい。しかし景子はそれよりもその中身に気を引かれた。
 少女は必死だ。たかが猫一匹救うために。『外』に捨てられてたならもはや先は見えていただろうに。見て見ぬふりをしたって誰も彼女を恨みはしない。情けをかけなければ猫だって下手な期待を抱かない。なのに何故心を痛める確率の高い方を選ぶのだ?
「沈黙は金……」
「……は?」
 景子がぽつりともらした言葉に大地と少女の視線が集まった。
「あ、いや、ううん。その……傍観は金って、思わない? 関わり合いになったことを後悔するって、あるでしょ?」
 慌てて弁解する景子に、少女ははっきりと首を振った。
「この子を見た瞬間救いたいと願いました。その気持ちに背けば後で悔いることとなります。傍観は罪深く、何よりも……心、痛むこと。わたくし、救いたいという気持ちは恥じることなどないと思っております。例え力及ばずとも、他人の痛みを感じ、幸せを願うこと。そのものが、生き物に備わった大切な力ではございませんでしょうか? それに従い行動すること、わたくしは……迷いとう、ございません」
「……ん。そう、なのかな。そっか、そうかも。そだね。……あは、やだなぁ……」
 景子はなんだか泣きたくなって、どうしてもここで涙を見せたくはなかった。
 ため息の音が聞こえる。
「『沈黙は金、雄弁は銀』ってな」
 大地が疲れたように首を横に曲げた。
「確か『雄弁よりも沈黙の方が説得力がある』みたいな意味じゃなかったか? その使い方あってんのか? 普通は『君子危うきに近寄らず』だろ」
「……え?」
「『関わり合いになりたくない』こと相手に露骨な侮蔑の視線でも投げてやればあってるのかもしれねーけどな」
 景子の頭は混乱した。
「とりあえずさっさと帰って国語辞典でも調べて月曜俺に教えてくれ」
 そのまま歩き出す大地の背中に、うなずきを返すことしかできなかった。


 「大地様は……ものをよく知っておられるのですね」
 静香はぽつりと口に出す。押し黙る背中にずっと話しかけられずにいたが、さっきの女性とのやりとりの途中から雰囲気が和らいだような気がするのだ。歩き方だってどことなく優しいものに戻っている。
 大地は相変わらず振り返らなかったが、返事はちゃんと返してくれた。
「神社の息子だからな。変なことに詳しいことはある」
「神社……?」
「ここが俺の家だ」
 大地は鳥居の前で足を止めた。
「本殿の奥の脇の方、参拝客の目にとまらないところに生活の場があって……まぁ、一通りのものはそろうだろ。ソレ、まだ生きてんな?」
「あ……はい、大丈夫です」
 静香はぎこちなくうなずく。
「あ、あの、失礼かとは存じますが、わたくし、大地様は神の存在を否定なさる方かと思っておりました」
「あー……まぁ確かに、信じてない……? かもな」
「え。ですがこのお社の……」
「話は後だ。今ならちょうど家の方には誰もいないから面倒な説明をしなくてすむ。とにかく来いよ」
 静香は出迎える狛犬や立ち並ぶ灯籠をきょろきょろ見ながら、落ち着かない足取りで参道を駆けていった。

 子猫の体を手でさすり、スポイトでミルクを飲ませ、毛布で暖めて。頼りない命だがなんとかとりとめたらしいことを確認すると、静香は思わず壁に倒れかかった。
 大地が聞く。
「で、こいつをどうする気だ? このドームの中に捨てんのか?」
「そのような……っ、わたくしの宮に連れ帰ります」
 静香は壁にもたれていた背中を勢いよく引きはがした。
「十年間監禁されて、お忍びで外に出るのも困難なところにか? さぞかし草太が困るだろうな」
 大地の言葉に声をなくす。頬が朱色に染められた。さっきといい今といい、大地と話していると静香は自分の考えがいかに浅いかということに気づかされる。――恥ずかしくてならない。顔を上げられずにいると、こもったような声が届いた。
「あー……、違う。……飼ってやってもいいって、言おうと思ったんだ」
 大地は口元を手で覆って言いにくそうにしている。しばらく押し黙ると、眉間にしわを寄せて話し出す。
「……俺は、ここが……嫌いなんだ。……この辺りがドーム区域になったのはこの神社があるからだ。ちっせーが由緒は正しい。歴史のある社だからな。……本来この家は建材を補強し、空調を整えられるほどの財はない。もしも神社でなければあっという間に朽ちて、俺たち一家は……さっき見たような、人ならぬ人の仲間入りだ」
 大地の双眸は自嘲にかげっている。
「……古代、神は聖なる場所に降り、その依代は石や樹木であったらしい。……この神社にそんなものはない。本殿の中にうさんくさげなご神体が眠っている、ただそれだけだ。……今となっては形ばかりの社だが、それでもそのおかげで俺はこうして生きていられる」
 引き伸ばされた口の端がひくりとつった。静香が痛々しくて見ていられなくなるような笑い方だった。
「そんな……」
 大地は静香の言葉を押しのけるようにして遮る。
「知ってるか? 昔、多くの神社を併合して一つにしろという法律があった。強欲な連中は余った社地の鎮守の森を伐採して売りさばき、一財産もうけたらしい。数々の御神木が倒された。当時の連中には神は必要なかったのかもしれねーな。……それがだ。今の時代、人々は神の手を切に求めている。こんなちっぽけな神社に馬鹿でかいドームをあてがうくらいだ。御神木も何もない、ただの掘っ立て小屋に!」
「大地様っ!」
「金をためて何度だって植樹した。でも駄目だ。種のせいか? 土のせいか? 何も芽吹かない。神なんかいると思うか? ……だから宗教に関するもんは嫌いなんだ。見たくない。知りたくない。関わりたくもない。……けど、御神木があれば……少しはこの神社にも御利益ってもんがあるのかもしれない、そう思うからには……ちっとは信じてるのかもしれねー」
 嘲りも影をひそめ、寂しそうに笑う。
「……俺に猫なんか拾えない」
 静香は力いっぱい首を振った。
「でも、大地様は……救いたいと、願っておられました! 猫も……、あの人たちも……っ!」
「……かもな。だから、飼ってやるよ」
 静香は泣いてはいけないと思いつつ、熱いものがこみあげるのを抑えられなかった。

 畳の上に沈黙が沈む。静香は未だ激流をこらえている。大地はため息を響かせると、「まぁ座れ」と言って先にしゃがんだ。静香もゆっくりと膝を曲げる。
「……話がそれたんだ。……俺はおまえにあんなことを言いたかった訳じゃなくて。いや、もっと軽く説明するつもりだったんだが……違う、そうじゃなくて」
 大地は膝と膝の間に埋めた自分の頭をぐりぐりと手でかき回した。
「あー……っと、つまり」
 面倒そうに見えるが真剣に言い淀んでいるのだと伝わってくる。静香は不思議そうに大地を見つめた。
「……悪かった」
 突然の結論である。目で問い返せば大地は激しく舌を打ち、ますます頭を埋めて息を吐く。
「つまり、……おまえの短い時間を、俺のやつあたりで台無しにしただろ? だから」

 悪かった。

 静香はついつい声もなく笑ってしまった。
「謝るようなことなんて一つもない。私、今日という日を大地様と過ごすことができて本当によかった。……色んなことを知って、色んなことを考えさせられて、きっと、大地様だからこそ教えてもらえたことばかりだと思うの。ありがとう。……大地様」
 そーっと頭を上げた大地は真っ赤になっていて、静香はずっとその様子を眺めていたいと心から思った。が、大地は視線から逃れるように顔を背けて時計を見る。
「あー……まだ時間あるな。案内してほしい場所とかないのか?」
「もう少しここにいたいです」
 静香はにっこりと微笑む。
「……そうか。……あー、……テレビでもつけるか?」
 その語尾は確かに上がっていたのに、大地は静香の返事を待たなかった。二人の間にテレビの音が介入する。

『未来をさしあげます。……この度の宇宙開発計画は、……またも、成功しないでしょう。人の手によってつくられた大地が人の分を越えることなどあり得ません……』

 画面の右上には『再放送』の文字が並ぶ。静香と大地はゆっくりと目を合わせた。

『大地は、――母は、この地球……ただ一つ。宇宙は人を育まない。いかな命も、一人では生きていけないのです。人だけが空へ飛び立ったとしても、人にのみ都合の良い命だけを連れ立っても。生の営みはそのように単純なものではありません』

「ガイア教の……斎姫、か……?」
 大地はまじまじと静香を見る。
 ガイア教といえば今ある新興宗教の中では一番か二番くらいに信者数の多いところだ。宣伝が活発でテレビの中継などもやっているので大地でさえそれなりの知識を持っている。
「……本来わたくしどもの教えに名はございません。『ガイア』とは仮の名でございます」
「おまえ、あっこの斎姫つったら教祖みたいなもんだろうがっ」
 斎姫は預言、予言、占いなどの力を持ち、その結果は百発百中、外れたことはないという。そして神の使いというよりは象徴のような扱いを受けている。ガイア教の信者はみな静香をあがめているのだ。
「いいえ、わたくしはただの斎女でございます。他の団体と比較したなら多少は重きを担っておるやもしれませんが」

『……これは予言であり、真理――』

 大地はぷちんとテレビの電源を落とした。静香は膝の上で重ねた指を見つめていた。
「『わたくし』って、舌噛まないか?」
 静香はまぶたを持ち上げる。大地は額に指を当てて息を吐く。
「普通は『あたし』だろ」
 静香には大地が何を言いたいのかよくわからなかった。
「斎女として世俗ずれした言葉を使うわけには参りません。わたくしは『在る』ことで人々に力を与えることのできる存在でなければならないのです」
「……煽動か。けどおまえ、今日何度か『私』って言ったよな。さっきはそのデスゴザイマス語も使ってなかった」
「それは……」
 いつだって心のままを口にしているが、『巫女として』の意識がそれると『静香』の口調が出てきてしまうのだ。
「あっちの方が素なんだろ。楽な方でしゃべりゃあいい。……ついでに俺は『大地サマ』じゃなくて『大地』。無理なら『サン』付け。よろしく」
 人々に力を与える振る舞い方、話し方。どれだけちゃんとやっても全然たりていないそれら。ここで怠けてしまったらもっとたりなくなってしまう。
 そうは思ったが、『巫女』ではなく『静香』として接したいという思いにあらがうことはできなかった。
 いや、今日はもうさんざん化けの皮をはがされたのだ。今さら、あとは言葉一つだけ。
「ありがとう大地様。……嬉しい」
 静香は満面の笑みを浮かべる。大地は眉をひそめた。
「……『大地』。『サマ』抜き」
「楽な方でいいって言いましたよね♪ ……でも私、大地様のお名前が好き。本当に素敵なお名前だと思うんです。だから、猫の名前は『大地』です」
「……はあぁ?」
 大地は思わず奇声を上げた。
「そしたら私にも大地様のお名前、呼び捨てできるじゃないですか」
 楽しそうに微笑む静香に、大地はぐったりと脱力した。
「……訳わかんねー理屈」
 そうして猫の名前は『大地』になった。
続く。
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