『天地神明』

第八章 真実


 対峙する姉と弟。
 静香の愛でる畑の脇で足を止め、草太は美貌の姉をじっと見据えた。
「……姉上、静香様を無知の檻に閉じこめるのはおやめください」
 鏡子は小太刀に手をかけたまま、いつでも抜刀できる姿勢でいる。草太はやんわりと首を振った。
「姉上が心酔される静香様の素晴らしさは、この宮の中で、私たち以外との接触を断たれて培われたもの。はたしてそれは、静香様にとって本来の御姿と言えますのでしょうか?」
 鏡子の眉がぴくりと動く。
「……静香様は強い御方です。世の中を知っても変わらずにいればよいのだろうとおっしゃった。……私たちがなすべきことは、静香様をゆっくりと世に触れさせていく、その中でその御心をお護りする。そうしたことなのではないでしょうか」
 いつになく強い光をたたえる草太の眼差しに、鏡子はいらだちを抑えるように目を細めた。
「……『純粋』というものが、どれほどに壊れやすいか知っておろう」
 草太は明言する。
「『無知』は『純粋』とは言いません」
「……愚弄する気か?」
「そうではありません。姉上が手段を誤っていると申しておるのです」
 草太が微塵の揺らぎもなくそう言うと、鏡子は白い額をすっと狭め、しばらく考えてから、厳かにまぶたを閉じていった。
「……私は人を殺さずにはいられない性。臓物を見たくてならぬ」
 神に告白するように口に出す。
 一週間に一度。静香が寝静まった後、鏡子は草太に後を任せ、小太刀を持って外に出る。そうして狩ることを許された獲物を手にかける。それは与えられた拝命だったが、鏡子自身の歓楽でもあった。
 赤黒い内臓を見ると心がわく。熱い血を浴びると官能がざわめく。愛憎も使命も何もなく。命の火を消し愉悦に笑う。発作のようにわき起こる衝動を、止めることなどできはしない。
 自分はそういった本能が根付いた生き物なのだ。
 鏡子は信じて疑わない。
「……私にとって静香様は人ならぬ方。あの御方に対してだけは、そのような気持ちになれぬのだ。外見も中身も、御心もお美しくて、……私はあの方をそのままに保つためならどのようなことでもするだろう。万に一つの可能性も、――許さぬ」
「ならば何故大地を二度も見逃したのです。姉上は静香様の御為とおっしゃった。静香様のお美しさを保つ以上に、何よりその御幸せを願っているからではないのですか!」
 草太は声を荒げた。本来鏡子は忠告などする気性ではないのだ。一度抜いた刀を命令もなく鞘に収めるようなことはない。しかし静香がそばにいる場合、静香が嘆く場合だけ、その切っ先は非常に慎重なものとなる。
「……姉上、私たちの主はミコト様です。ですが私がお仕えしたい方は静香様です。姉上は? どちらをお選びになるのです」
「決まっておろう」
 鏡子の答に迷いはない。草太は矢のように忠言を浴びせる。
「ならば何故ミコト様に従われるっ? ミコト様のおそばで静香様の純粋が守られるとでもっ?」
 鏡子の顔がさっと歪む。
「黙れっ! おまえなどに言われるまでもない。やがてはミコトを殺すつもりよ。だが――静香様の御命は、この宮でしか保たれぬ!」
 静香以上に大事なものなど何もない。
 鏡子と草太は静香とともに育ってきた。斎姫を護る者として。静香と同じように、ミコトに逆らうことを許されぬ者として育てられた。しかし二人は『外』との接触を許されていたし、ミコトが何を考えているかも知っている。
「姉上、それは違う。姉上はいつまでもこのままでいたいのです。ここにいる限り静香様はあらゆるものから遮断される。ここが姉上のどこよりも安心していられる空間だからです。しかし、時は進みます。静香様はやがて穢される……」
「黙れっ!」
「いいえ、黙りません。姉上がそのようなことでどうされるのです。ミコト様が静香様を殺められるようなことはないでしょう。なれど静香様は永遠にここを出られない。ならば、姉上と私がお護りせずに、一体どうやって静香様の御心が護られるというのですか!」
 鏡子は草太の口をふさぐと同時に小太刀を抜き、飛びかかって地面に押し倒した。草太の首の薄皮に、研ぎすまされた刃が入り込む。
 鮮やかな赤がしたたり落ちる。そのままわずかに刃を押せば、いともたやすく命が散るだろう。
 草太は静かな瞳で見つめている。鏡子の肘から上ががくがくと震え出す。しかし刀は動かない。
 鏡子は己の血のざわめきを聞く。殺せ、と、何かが告げる。その悦楽を知っている。狂気を呼び起こす赤い色。舌をなめずるほど甘い血潮。普段抑えている衝動が、一気に脳を侵していく。
 鏡子は唇をにいと歪めた。腹の底から笑いがこみ上げる。
「く……くく、見ろ! 私は穢れている! 私は穢れているっ! 今までおまえを生かしておいたは、他に護り役を務める者がおらぬから。それだけよっ! ……弟よ、私と違い、呪われた性を持たぬ弟よ! おまえでさえも、私は殺めることをいとわぬのだ! ……その私から静香様という救いを奪うというか! ……許さぬ」
 鏡子はなぶるように刀をゆらめかす。なまめかしい微笑の広がるその顔を、草太はまっすぐ見つめている。
「……私が穢れていないと仰せになるか。姉上、あなたは知らぬ」
 低くかすれた、一音ごとに声帯を引きちぎるような声。
「……心より、お慕いいたしております」
 鏡子は目を見開いて弟を見る。
「幼少の頃、姉上はどこまでもお優しかった。よく私にかまってくだされて。二人、仲良く遊んだりもしましたね。それが……あのときから……少しずつ、変わっていかれて……人を手にかけるが至上の享楽とあなたはおっしゃる。同時にそのことを激しく嫌悪しておられる。その危うさを、見ていられずに――」
 草太はぐっと目を瞑り、涙をにじませてじわじわと開く。
「私は実の姉を。あなたを――、恋い慕って、おるのです。その私が穢れていないなどとっ、そのようなことがあるはずがない……っ!」
 恋に泣く。罪にあえぐ。愛しい人のために淡く微笑む。
「……この首を差し上げます。どうか、何があなたにとって真に大切なものなのか、ようくお考えください。……そして我らが主を護られますよう――」
 草太はまぶたを閉じた。最期の瞬間まで鏡子を見つめていたかったが、死に際の瞳を覚えさせたくはない。鏡子はああ言ったけれど、首に付けられた刀が今止まっているのは、自分が弟だからなのだ。狂気を制する情はその胸にちゃんと根付いている。心残りはそのことをしっかりと気づかせてやれなかったこと。だが、自分の死がきっかけになってくれれば――それでいい。
 かなわぬ想いはここに散る。願わくば、幸せでいてくれますように。
 穏やかに死を迎えようとする草太の胸に、鏡子のつぶやきが落とされた。
「……臓物はみな醜いが、おまえのものはただれていよう。わざわざ開くこともない」
 草太は驚いてまぶたを開く。鏡子はゆっくりと体を起こし、流れるような動作で小太刀を収めた。その顔に表情は浮かんでいない。草太は呆然としながら起きあがる。
「我ら姉弟、呪われておるな。……おまえは私の弟だ。もしも静香様を失うようなことがあり、……この身が地獄に堕ちるとき――おまえもともに来るがよい」
 背を向けて歩き出す鏡子の言葉に、草太は息ができなくなる。胸にこみ上げる想いをぐっと拳で押し殺し、固くうなずいて。すぐには顔を上げることができなかった。
 ようやく呼吸を取り戻し、姉の背を追うべく動き出した頃。建物の中から銃声がした。


 唇がゆっくりと離れていく。頬を鼻がかすめていって、肩に重みがのしかかる。
 それは穴のあいた頭の重み。
 静香は大地の体を抱いたまま、甘い口付けを待っている。

 大地はもう、息をしない。

「だい、ち……?」
 呼びかけた声に返ってきたのは聞き慣れた優しい声。
「ああ、彼がお友達の大地君でしたか」
 おずおずと見上げた先にはミコトの姿。
 ミコトは銃を懐に収め、大地の頭をぐいっと引きはがして言った。
「ごらん静香。かって彼だったモノですよ」
 大地のまぶたは閉じていて、こめかみからは血が流れている。静香はその流れにそっと触れた。
「大地……?」

 返事はない。

 指が震える。腕に、肩に、胸に伝わる。静香は声にならないうめきをもらし、もう一度名を呼ぼうとして――悲鳴を上げた。
 すぐに鏡子と草太が駆けつけてくる。鏡子は狂乱する静香をきつく抱きしめ、草太は信じられない思いで大地を見た。
「ミコト様……何故……」
 ミコトは穏やかに微笑んでいる。
「静香は以前部屋の非常口を使って外に出たのでしょう? あれは勝手に動かせば鏡子の元に信号が送られるようになってるんです。静香に害なすものを排除する者として、鏡子以上に信用できる者はいませんでしたから。しかし鏡子はそのことを私に報告しませんでした。ですから、今後護り役の二人が不審な行動を起こした場合、ただちに報告するよう他の者たちに言っておいたんです」
 草太は姉に視線を向ける。鏡子は不覚を取られた表情だ。姉はすべて知ったうえで泳がせてくれていた。そして自分はまんまとミコトの罠にひっかかり、大地が――。
「草太、このゴミを早くかたしてください」
 ミコトはにっこりと笑って大地の体を放り投げた。草太の腹で炎が燃え上がる。
「――草太」
 背後から姉に名前を呼ばれ、奥歯の軋む音を聞いた。
「……かしこまり、ました」
 かろうじてそうつぶやいたが、憎悪に染まる瞳はとても隠せそうになかった。
 たった一人の友人が殺されたのだ。外の世界に溶け込めず『浮いていた』自分と普通に話してくれた初めての人。こんな男にこんなところで殺されていい人間ではなかったのに。
「あ、ああ……あ。いやっ、嫌! やめてっ! ……大地っ!」
 静香は鏡子の腕を振り払って畳の上を四つ這いで進む。すがりついた大地はすでに冷たくなっていて、さらに大きな悲鳴を張り上げた。
 ミコトは深々と息を吐く。
「……静香、それはもう壊れちゃったんですよ。ほら、離しなさい。泣きたいなら私の胸を貸してあげますから」
 静香は差し伸ばされたミコトの腕を見ようともしない。ただただ大地に呼びかける。ミコトは肩をすくめて静香の体を抱き上げた。
「やっ! 嫌ぁっ! 離してっ! 大地が……っ! 大地がっ! 大地!」
 静香は手足を振り上げて必死にもがく。右手の甲がミコトの頬にぶつかって、眼鏡が無理に弾かれた。
「――もう二、三発撃ち込んでおきましょうか? それなら君にも彼が二度と動かないことがわかるでしょう」
 静香は眦が切れそうなほど目を見開く。ミコトは変わらず微笑を浮かべている。

 ――この人が大地を殺したのだ。

 静香は今頃その事実に思い当たる。
「……ひと、ごろ、し……」
 ミコトはおやおや、とでも言いたげに、両の眉を持ち上げた。
「どうして……どうしてこんな……」
 震えて途切れて問う声に、躊躇のかけらもなくこう答える。
「ちょっと腹が立ったものですから」

 これは一体誰だろう。

 静香はミコトの顔を凝視する。幼い頃からあこがれてきた義理の従兄はいつも優しくて。穏やかで。常に微笑を浮かべていて。自分を怒るようなことは絶対になく。
 今目の前にいる人物と、姿形はまったく同じ――。だが、違う。こんな人は知らない。知らない。知らない。
「……お兄様はどこ?」
 静香は言う。
「ここにいますよ」
 ミコトが笑う。
「離して! 触らないで! お兄様はどこっ? お兄様はどこにいるのよっ!」
 静香はなりふり構わずがむしゃらにもがく。やっとの思いでミコトの腕から抜け出すと、大地の方に飛びついた。そして燃やし尽くすような瞳でミコトを見た。
「ああ……、もう――。なんということでしょうね。私は着々と準備を進めていたというのに。こんなゴキブリ一匹が持ち込んだアクシデントのせいで、まさかこんなことになってしまうなんて……」
 ミコトは息を吐き出しながら首を振る。
「人殺し! 大地を返してっ! 返してよ!」
 静香の激昂に、あくまで笑顔を崩さない。
「……いいかげんにしないと……次は草太の番ですよ?」
 静香はびくりと体をすくめた。
「……ねぇ、君は私の妻になる人だと言っておいたでしょう。君に関する楽しみは、すべて私のものなんです。それが……こんな理由で、そんな目で私を見るようになってしまって。残念です。……ですが仕方ありません、楽しみが早まったのだと思いましょう」
 ミコトがゆっくりと近づいてくる。静香は背中がひくつくのがわかったが、後ずさるようなことはしたくなかった。今にも音を立てそうな歯を固く噛みしめ、身の内を焦がす怒りをもっと、もっとと視線に込める。
 ミコトが静香の唇を奪う。静香はすぐさま噛みついた。
「……私、あなたを愛してないっ! お兄様のことは父のように、兄のように、師であるように思ってた! でもあなたは許せない! 大地を殺した……っ! 絶対に許さないっ!」
 ミコトは指で血を拭い、くすりとした笑みをもらす。
「もしかして、今頃気づいたんですか?」
 静香は怪訝に眉を寄せた。
「静香は昔から人の気持ちに鈍いところがありましたね。大丈夫です。私は君の愛など求めていませんから」
 ミコトは静香の首に手を這わせ、すっとその髪を指でとく。
「……可愛い静香。何も知らない。……やっと君に、すべてを告げることができる」
「やめろ……っ!」
 鏡子が声を張り上げる。
「鏡子、君は知っていたでしょう。私がこのときをどれほどに楽しみにしていたか」
 ミコトはさらに笑みを深めた。鏡子は小太刀の柄に指をかけたが、草太の視線が制止を呼びかけていることに気づく。
 静香は大地を失った。ここで真実を隠してのけたとしても、静香の心はすでに岐路に立たされている。
 鏡子は眉根を寄せて静香を見る。静香の顔には憎しみ以外浮かんでいない。
「少々予定は早まってしまいましたが。今私はとても興奮しています。……静香。何も知らないおまえに、全部、全部、教えてあげる……」
 ミコトは鷹揚に腰を折り曲げて眼鏡を拾い上げると、慣れた仕草でそれを掛けた。静香に向き直り、軽く手をたたいてから話し出す。
「人類が宇宙に拒まれているというのは教えておきましたよね。人は地球を破壊して、それでも数を増やしている。もはや宇宙にしか逃げ場はないのに、宇宙は決して受け入れてはくれない」
 静香はわずかに眉を上げる。
「話は変わりますが、私は薬屋の息子です。よく効く薬を作ってすべての人を助けなければならないんですよ。でもね、段々馬鹿馬鹿しくなってきたんです。人が多ければ多いほど破滅が迫るというのに、どうして薬を使ってまで人を生かさなければならないんです?」
 ミコトは口の端をつり上げて首を傾ける。
「宇宙に逃げ場はありません。人が生きていくためには、人の数を減らさなければならないはずなんです。それで私は色々なことに手を出しました。毒薬をばらまこうかとも思いましたが、それでは無差別大量殺人になってしまうでしょう?」
 一つ間をおいて、考えるように顎を触る。伏し目がちな瞳を横にずらした。
「……人類には外敵がいません。一部のウィルスが猛威をふるってはいますがどれもみなじきに駆除されています。私はね、人は人によって淘汰されるべきだと思うんですよ。生物らしく、生きることに貪欲な。自らの生のためならば同じ人間を屠ることすらいとわない――。そういった人々こそが、生き残るにふさわしいとは思いませんか?」
 ミコトの完璧な微笑みが、みるみる嘲りに歪んでいく。
「ねぇ、地球はすでに死んでいるのに。宇宙に救いなどありはしないのに。人は未だに生活の中に快楽を求め、様々な娯楽にいそしんでいる――。大部分の人間は今日が楽しければ明日などどうでもいいと思っているんです。私はそんな人たちに極限の選択を突きつけてやりたい。そうして勝ち残った人間だけが地球上に残ればいい。……そのための計画はゆっくりと進行しています」
 『ワイルド・パラサイト』もその実験の一つにすぎない。大地が乗り出すまでもなく、やがては破綻し、切り捨てられる予定だった。
「……その完成形が、十二月二十五日には、できあがりそうだったんですけどね――。キリスト教では神の子が生まれた日だ。そんな日に、君を妻に迎え、すべての真実を突きつけて。君に選択を迫りたかった……」
 ミコトは再び穏やかな表情を取り戻し、静香の頬に両手を這わせた。
「人を救うためには人を殺す他にない。私という人間が、実はこういった人間で。鏡子も草太も知っていて君に黙っていました。そして鏡子は快楽殺人者です」
 静香は顔をこわばらせて鏡子を見る。鏡子は痛みに耐える面持ちでそっとうなずく。
 まさか。優しくて上品で、いつも自分の側にいてくれた、実の姉のような存在が。
「彼女は夜な夜な外を出歩いては人を殺していましたよ? 仕方ないんです。彼女にとっては食事のようなものですから。……それから、静香。君は斎姫としての言葉を伝えていただけだから知りませんよね? あの集会の前後で信者たちが様々な実験に使われていたことを。薬を投与したり、マインドコントロールを施したり――ね」
 静香は次に草太を見る。嘘だ。だって大地は集会に紛れ込んで来たではないか。
 草太は痛ましげに首を振った。
「……大地は私の手引きで招き入れましたので……」
 静香にはとても信じられない。ならば鏡子も草太もそんな非人道的な行いを黙って見ていたということなのか。
「……大地君、ね」
 ミコトはふうと息をつく。静香がにらむと、そっと笑った。
「君は私を許さないでしょう?」
 許さない。許せない。
 大地の躯は畳の上に倒れたまま、二度と動くことはない。
「しかし君は十年間ここで生きてきました。もはや他では生きられない。さあ、どうします? 静香。私に君の答を聞かせてください」
 ミコトは心からの微笑を浮かべる。
 ずっとこのときを待っていた。真っ白な静香を穢すとき。幼児に性行為を見せるように。何も知らない静香の心にあらゆる真をつきつけて。絶望にたたき落とす瞬間を。
 純白の千早に緋の袴。その姿を見るたび欲情した。その昔、自然界においては白子は弱者と決まっていた。ならばその弱き者が、自身を守るために牙をむき、狩られる側から狩る側へと変貌する。真っ白なものが赤く染まりゆく姿が見たい――。

 さあ、白うさぎよ。その後ろ足で狼の鼻を蹴るがいい。

 静香はぎらぎらとした双眸を向けたまま、ゆっくりと口を開いていく。
「……私は、斎女として、いつも話をするだけだった……。でも、その内容は誰が考えたの? お兄様、じゃないの?」
 ミコトは眉を寄せる。
「確かに私ですが……それが何か?」
 静香は胸の前で両手の指を組み合わせる。厳かにまぶたを下ろし、繰り返し説いてきた教えを唱える。
「……土を、愛してください。あなた方を生み育てたこの大地を忘れないで。逃げないで。立ち向かうことは、できるはずです。すべては移りゆく。過ちは赦される。地球はまだ死んではいない。あなた方を――赦しているのだから。……私が斎女として立てたのは、この教えを信じているから。……お兄様は、本当は、もっと優しい方法で人々と地球を救いたかった。だから私を大勢の人々の前に立たせた。……でしょう?」
 ミコトは顔をしかめずにいられない。そんなことはどうだっていいことだ。
「……静香、早く答を。君は私が憎いのでしょう……っ?」
「憎いわよ! 絶対に許さない!」
 静香は髪を振り乱してミコトに詰め寄ると、その胸元にたたきつけるように拳を置く。肩が震える。口が引きつる。わき上がる怒りに際限はない。

 ――なのに。

「……どうすればいいの。鏡子さんも草太さんも、今さら嫌いになんかなれないように、今までのお兄様が、全部嘘だなんて思えない! ……だってっ! 十年間私にはみんなしかいなかったんだから……っ!」
「な……っ」
 ミコトが絶句する。静香はミコトをにらみつける。
 悔しい。悔しくてたまらない。大地はもういないのに。死んでしまったのに。

 殺されたのに!

 殺した相手を、憎みきることもできないなんて!
「お兄様は間違えてる。きっと本当に、お兄様ほど人々を救いたいと思って、その通りに頑張ってる人っていなかったのに、……方法を、間違えたの。そして私は……お兄様を助けられたらと、今でもそう、思ってしまう……っ」
 躊躇もなく人を撃った。こんな男の良心を疑えないなんてどうかしている! 十年間の優しい記憶にだまされている! そう思っても、あらがえない。
 悔しい。悔しい。悔しい! 心が、張り裂けそうなほど。
「静香様……」
 鏡子が呼んだ。思わずもらしてしまったようなつぶやきだった。静香は鏡子に向き直る。
「私、鏡子さんが快楽殺人者だなんてとても思えない。でも、本当なんでしょう?」
 鏡子の眉間が張りつめる。
「……静香様にだけは、知られとう、ございませんでした……」
 鏡子は脇の刀に意識をやる。静香に蔑まれたときにはいつでも胸を突く覚悟ができていた。
「だけど、私に優しくしてくれた鏡子さんも、本当、でしょう……?」
 鏡子は目を瞠った。静香は泣きそうな顔で笑っている。
「私が無知なことを教えてくれた草太さんが……、色んなことを見て見ぬふりしてたなんて、信じられない……」
 草太ははっとして顔を歪め、重々しくうつむいた。
「……返す言葉もございません」
 ミコトのやり方に異を唱えるなら、はっきりと抵抗すればよかったのだ。それがこの心の有り様ならば。例え命を捨てることになろうとも。そう――、大地のように。そんなふうに、今なら思う。
「でも草太さんは、大地と……会わせてくれた。きっとこのままじゃ駄目だって、思ってたんでしょう……?」
 静香の眦から一筋の涙がこぼれ落ちる。
「そして私は……巫女としての力なんて何も持ってない。予言も占術もできないの」
 鏡子と草太がそろって大きく目を見開く。静香は片方の頬の肉を歪めた。
「それに自分からは何一つ知ろうとしなかった……」
 そう育てられたのだから仕方がないというのは言い訳だ。自分を取り巻く環境は何かが歪んでいると気づいていた。そしてそれは確かに不安にさいなまれる日々ではあったが、同時に安穏とした暮らしでもあったのだ。
「……どうしてこんなことになったんだろう。みんなどうして間違えてしまったんだろう。憎いの。あやまちは元に戻らない。今さらこんなことを言っても何にもならない。何もかも、悔しい。色んなことが、とても憎い……」
 静香の頬に次から次へと熱い流れができていく。歪む視界で今はもう動かない大地をじっと見る。思い出す、鮮やかな笑顔。二度と見れない。

「でも……ずっと、悲しい……」

 悲しい。

 二度と会えなくてもいいから。どこかで生きていてほしかった。
 人々も地球も何もかも、おとぎ話のように救えたらよかった。
 鏡子がどんなときにも優しい姿でいられれば。草太がありたいと願う心のままにあれればよかった。

 かなわなかった一つ一つが、とても、悲しい。

「君は私たちを許す気ですか?」
 ミコトがいらだちを抑えて言う。
「……そう、なのかな?」
 静香にはよくわからなかった。
これは許すということなのだろうか? 憎みきることは、できない。
「例えどれほど重い罪を負っていようとも、土はすべてを赦していて。包み、癒し、浄めてくださる。すべての人には救いが差し伸べられていて――人は、それに、気づくだけ……」
 十年間教えられてきた神の愛が、勝手に口をついて出る。忍び笑いが聞こえてきた。
「く、くくく……真っ白な静香。何も知らない静香。まだそんなもの信じているの? この世に神なんかいないんだよ? 神の愛などありはしない」
 ミコトは肩を震わせてこらえきれないといった様子で笑っている。鏡子と草太がいぶかしげな目で見やる。ミコトの笑いは止まらない。
「まったく。カルトな宗教集団でさえ金を出せば走狗に変わるというのに、どうして君はそうなんです。……どうしてそうも穢しがいがあるのでしょう。私のでっちあげた神の愛を、それほどに信じているのですか?」
 つり上がる口の端を手で隠す。
 『ワイルド・パラサイト』の世界を現実にする際、死刑執行人が鏡子一人では成り立たなかった。ミコトは様々なところから、『神』の名を出せば簡単に口車に乗り、かつ金で思想が湾曲しうる集団をかき集めた。その中の一つが国家血盟神教だ。神の名の下に他宗教を排除していながら、その思考の柔軟さは呆れてしまうほどで、ひどくたわいなかった。
「……おいで。おまえの救いを壊してあげよう」

 壊すものは強固でなければ、面白くない。
続く。
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