『天地神明』

 西暦二XXX年。
 人類が地球に仕掛けた数々の爆破装置はすでに秒読みを開始していた。
 鳥は落ち、魚は浮き、獣は果てた。大気も水も、厳めしい装置を通してでしか得ることはできない。
 まもなく地球は死の星と化す。
 人々はその瞳に終焉を映しながら、未だ地球を離れることができずにいた。
 繰り返される宇宙開発。次々と飛び立つ宇宙飛行士。何一つ実を結ばなかった。
 宇宙は来客をもてなしはしたが、決して受け入れようとはしなかった。
 情熱と欲望と懇願と……あたら若い命を、ただ呑み込んでいく。
 やがて自らが眠りにつく墓土の上、はるか遠いそらを見つめたまま――人々は。

 今こそ神を呼び始めた。


第一章 斎姫


 少女がいた。
 ぬばたまの闇の中、白皙の美貌と純白の千早が蒼く浮かび上がる。天空の輝きをすべて吸い寄せ輝く月の下、その両腕がわずかに持ち上げられた。

 「どうか――お願いです」

 声は凛とした響きを持ちながら、かすかに語尾を震わせた。
「……忘れないでください。あなた方は、すでに赦されているということを。人はみな、――いいえ、生きとし生けるもの、すべての命が、等しく慈しまれているのです。……例えどれほどに重い罪を負っていようとも」
 音一つない夜。人々は懸命に耳を澄ませる。少女のまとう高貴でいて優しさに満ちた輝きを、一心に求めて首を伸ばす。
 「忘れないでください。あなた方はみな母の胎から生まれた。母の御胸にて育まれ――、やがては御元へと還るのです。我らが母、この大地は――すべてを包み、癒し、浄めてくださいます。あなた方は、わたくしたちは赦されている。愛されている。どうか――どうか、……忘れないでください」
 言霊。祈るように、憂うように、すべてを賭けて紡がれた言葉。
 目も耳も離すことができない。心の襞という襞をそっとなでられていく。
 少女が胸の前で指を組み合わせ、瞳を閉じて天を仰ぐ。
 人々は虚をつかれたようにびくりと肩を揺らした。

 「未来をさしあげます」

 少女のまぶたが持ち上がり、腕がまっすぐにおろされる。貫いていく重々しい沈黙を、淡い吐息が押さえ込む。
「この度の宇宙開発計画は、……またも、成功しないでしょう」
 人々はぶるぶると震えながら、半ば呆然と鋭利な月を仰いでいた。
「人の手によってつくられた大地が人の分を越えることなどあり得ません。大地は、――母は、この地球……ただ一つ。宇宙は人を育まない。いかな命も、一人では生きていけないのです。人だけが空へ飛び立ったとしても、人にのみ都合の良い命だけを連れ立っても。生の営みはそのように単純なものではありません。……これは予言であり、真理」
 ああ、――美しい。なんて美しいのだろう。黒々としたスモッグからのぞくあの月光。照らされる巫女。
 「どうか――思い出してください。自らの深淵に眠る遠い記憶を。あなた方ははるか昔、緑に囲まれ、多くの生物と共に暮らし、そこに安らぎを得る人々でした……」
 紡ぎ出される一つ一つの言葉は、神の御意志に他ならない。
「土を、愛してください。あなた方を生み育てたこの大地を忘れないで。逃げないで。立ち向かうことは、できるはずです。すべては移りゆく。過ちは赦される。地球はまだ死んではいない。あなた方を――赦しているのだから」
 夜が沈みゆく。少女の纏う緋袴が闇に黒ずむ。上体だけが白くまぶしく、輝いて。
 静まりかえった人々の中、たった一つ、かすれた声が響き渡る。

「……嘘だ。地球が俺たちを愛しているなんて、俺たちが愛されているなんて嘘っぱちだ! だったらどうして……っ、どうしてこんなに苦しまなきゃならないんだ……っ!」

 消えそうなほど小さなつぶやきのはずだったが、張りつめた空気は声の主をはっきりと浮かび上がらせた。
 人々は息を呑む。
 少女が祭壇を降りてくる。護衛が止めるのを制し、しずしずと。ゆっくりと、ゆっくりと、一人の男の前に立ち、人々と同じように膝を折った。
「わたくしどもにあなた様の苦しみを除くことはできません。我らが母にもそれはできないのです。……神を人の枠にはめるなど栓のないこと。大地のもたらす愛は……土を耕し、作物を授かり、それが血となり肉となりてこの身を作る。死して後、躯は土へと還り、命を育み、回帰していく。生かし、生かされている事実の中で、ただ理として感じ取るもの。この循環から外れることはありえない、それこそが赦されているという証なのです。あなた様の苦しみはあなた様の御力で越えていくしかありません。わたくしどもは神の赦しが伝わりますようできうる限りのことを為すだけ――。あなた様が救われることを心よりお祈りしております」
 少女が床に手をついて一礼する。床ばかりを見つめていた男は慌てたように顔を上げ、すぐに背けて、苦々しく言葉を吐いた。
「俺たちが食べているものなんて成長促進処理されたクローン動物や原子合成の植物ばかりじゃないか。……もう空気だってそのままのものは吸えないっていうのに! 一体どこにそんなことが感じられるっていうんだっ? これで循環から外れてないなんて――」
 少女は華やかに微笑んだ。
「わたくし、宮の中庭で十年前から菜園をいたしております。あまり量は採れないのですが、とても美味しいものができます。一度他の方にも召し上がっていただきたいと思っておりました。是非お持ち帰りください。……大地は冒され、本来の姿を忘れつつあります。ですが、まだまだわたくしたちとの繋がりは断たれておりません。互いに、……生きているのですから」
 男はもはや、声もなかった。


 静香は肺の力を抜き、まどろむようにして座椅子にもたれた。はっと気がついて姿勢を正す。
 部屋には自分と護り役の鏡子しかいない。人目を気にする必要はないのだが、この身は巫女なのだ。斎女なのだ。人々はこの口から出た言葉を神の教えとして受け止める。普段からきっちり自覚して自身を制しておかねば。誰も見ていないからといってだらしのない所作をするわけにはいかないのだ。
 とは思うのだが、どうにも気持ちがよくてついつい力が抜けてしまう。
 鏡子に髪を梳いてもらう、ただそれだけの時間を、静香はこよなく愛していた。
 背後から丁寧に、丹念にくしけずられていく髪の一筋一筋が、大切に扱われた分だけそれに応えるように、さわさわと心地よさを伝えていく。自分のすべてを預けるような快感。預けられる相手がそばにいてくれるという幸福感。穏やかな喜びに浸かりながら、うっとりと目を閉じる。
 しかし、ふと先刻のことが脳裏に浮かぶ。静香はわずかに眉を寄せた。
 「……どこか引っ張ってしまいましたか?」
すぐさま気づいて反応を返す声に、慌てて両手をついて向き直る。
「そんなことないっ! ごめんなさい。違うの! そうじゃなくて……」
 鏡子は憂えた顔をしている。静香は見ているだけで苦しくなって、うつむいて袴をきゅっと握った。
「私、ちゃんとできていた? ……さっき、あの男の人に、巫女らしく、ちゃんと向かい合えていた?」
 鏡子は鷹揚にうなずいて、静香の肩にそっと触れた。
「もちろんでございますとも」
「……本当に?」
「わたくしが静香様に嘘を申すと?」
「違うっ! そんなこと絶対思ってない! ごめんなさいっ、私、さっきから浅慮な言動ばかり……」
 力の限り否定し後悔する様子に唇をたゆませ、静香を鏡台に向かい合わせる。鏡子は再びくしを進めた。
「いいえ。申し訳ございません。揶揄するような真似をいたしました。わたくしの方こそ、静香様がわたくしをお疑いになるなどとは、露ほども考えておりません。疑心ではなく不安であることはようく存じ上げております。……ですが、まったくの杞憂であることを知る身としては、少々歯がゆく感じてしまうのでございます」
「杞憂……?」
「ええ、まったくの」
 鏡子は流れる黒髪からくしを離し、代わりに指を差し入れた。滑らかな手触りがすんなりと押し流そうとする。指を曲げてなんとか手中に捕らえ、ほうっと息をつき、そっと唇を押し当てた。
「……月明かりに照らし出された静香様の御姿、息が止まるほど美しく、清らかで。御言葉の隅々にまで心を尽くされているのがはっきりと感じられ、わたくしなどは感動に打ち震えるばかりでございました。……静香様はまことに素晴らしい方。あのようなねじくれた男にも、もったいないほど優しい言葉をおかけになって……」
 その姿は静香の影に隠され、鏡には映らない。鏡の中の静香はますます顔を曇らせた。
「『ねじくれた』、なんて……あの人の気持ちはとてもよくわかるわ。……もう少しいい言葉があったんじゃないかしら? せめて、せめて言葉くらい、何よりも力になれるものを贈りたい。……人々に力を与える振る舞い方、話し方。どれだけちゃんとやっても、全然たりていない気がする。……鏡子さんは私のことを綺麗だって言ってくれる。でも私は鏡子さんの方が断然綺麗だと思う。私なんて頼りない小娘にしか見えないもの。もしも私が鏡子さんみたいに美人だったら……もうあとほんのわずかばかりでも、あの人の心を軽くすることができたのかな……?」
 口付けた黒髪に頬を寄せ、鏡子ははっきりと首を振った。
「静香様は未だに御自分を理解していらっしゃらない。そのように卑下されることなど何もないのです。人々は静香様の御姿や御言葉のみに感動するのではありません。何よりもその御心に心癒され、赦されるのです」
 静香はうつむいて唇を噛む。
 鏡の中の自分は両の眉をだらしなく垂れていて、威厳のかけらさえもない。丸みのある頬のラインが頼りなさを倍増させる。年相応と言えばその通りなのかもしれないが、静香には自分の薄弱な内面が表面化しているようにしか見えなかった。その点鏡子はシャープな美貌で、まるで戦国時代の姫御前のような迫力と清廉さを兼ね備えている。
 外見は内面を映すものだ。鏡子の言葉にはいつだって迷いがない。
「素晴らしい御方なんかじゃない。私はそんな……」
 静香はそれ以上何と言ったらいいのかわからなくなる。
 力なく落とされた肩から指を滑らせ、鏡子は静香の頭を抱きかかえた。
「そのように思い悩まれますな。静香様が悲しい面持ちでいらっしゃると、わたくし、あの男を憎んでも憎みたりなくなってしまいます……」
「私は……。鏡子さん、ごめんなさい。今だけ甘えさせてもらっていい? ……どうしたらいいのかな。鏡子さんは知らないんだよ。私……素晴らしい御方なんかじゃない、違う、違うの……」
 静香はまぶたを閉じてうつむき、鎖骨の上にある鏡子の腕にそっと指を置く。
 自分を抱きしめてくれる人はここには鏡子だけだ。もう一人、頼めば了承するだろう人物もいるにはいるが、やはり同姓相手の方が心が落ち着く。
 すべてを預かり、髪を整え、この身を抱きしめてくれる鏡子。けれど自分は――決してすべてを預けてはならない。そうまでしても『素晴らしい方』と思われねばならないのだ。
 胸が張り裂けそうな罪悪感を必死に押しつぶす。鏡子の腕に爪が食い込みそうになり、「もういい」と首を振ったが、鏡子は腕を解かなかった。
 それがとても嬉しくて。
 胸のしこりが和らぎ心が落ち着きを取り戻してきた頃、障子の向こうから声がかかった。

「申し上げます。ミコト様がお越しになりました」

「お兄様がっ?」
思わず声を上げてから慌てて両手で口を押さえる。それでも我慢しきれずに、鏡の中の鏡子に問いかけた。
「私、どこもおかしくないっ? 髪まとめるの、時間かかりそうっ?」
 もっと毅然と、いついかなるときも冷静な態度でいなければ巫女らしくない。ピンクに染まった頬よ鎮まれ、ゴムまりのように弾む声よ落ち着くがいい。
 自制心が頭の片隅で騒ぎ立てたが、あっという間にはるか彼方、見えない場所へと飛んでいってしまった。
 鏡子はやおら腕を解き、いささかの動揺もない微笑を見せる。
「静香様は常にお美しゅうございますから。髪も、このようにつややかでは時間などかかろうはずもございません。少々お待ちください。檀紙と水引を……はい、よろしゅうございますよ」
「ありがとう!」
 さっきまでの曇り顔はどこへやら、静香はまぶしいほどの笑顔を浮かべ、今にも障子を開け放って走り出したそうにしている。鏡子はさらに笑みを深めて、流れるような動作で障子を開けた。
「参りましょう」
 静香の手を取ろうとした鏡子を、障子の前で控えていた少年が制止した。
「姉上、ミコト様は護衛は必要ないと仰せです」
 微笑はすっと影を潜める。
「……草太、静香様は大切な御方。護り役は静香様を護るためのもの。控えであるおまえはともかく、この私が静香様のおそばにいるのは当然のこと」
「しかしミコト様は静香様と水入らずの時間をお過ごしになりたいと仰せで、……もしもこのビルに賊が忍び込んだとして、最上階にまでたどり着くのは容易ではありませんし……」
「可能性があるからこそ私がいるのだ。先ほどの信者の中に刺客がいないとも限らぬ。いや、私が刺客を送るなら必ず利用しよう。もしも監視の目を逃れ、今も潜んでいるとすれば?」
「しかし姉上」
「その口、繰り言を紡ぐしか能がないとみた。静香様のお役には立たぬ。即刻捨ててくるがいい」
 急速に温度を下げていく空気に、静香はたまらず割って入った。
「鏡子さん、草太さんもやめて! ミコトお兄様がおっしゃったのならそうします! 鏡子さん、ごめんなさい。……私もミコトお兄様と二人っきりでお話したいこともあるし……あの……あのね……」
 次第に言葉に困ってしまう。
 静香がいたたまれなくなる寸前、鏡子はにっこりとした微笑を取り戻し、恭しく頭を下げた。
「……静香様、申し訳ございません。静香様を煩わせるつもりなど毛頭ございません。どうかお許しください」
 静香も慌てて頭を下げる。
「いいの。私もごめんね鏡子さん。……本当に、ごめんなさい」
「いえ。どうかわたくしなどのためにそのように御心を悩ませないでくださいませ。……草太、おまえも静香様に謝罪を」
「はい。まことに申し訳ございません」
「ううん、草太さんもごめんなさい。私のせいで鏡子さんと……その、仲が悪くなっちゃったりしないでね」
 草太はわずかに眉を垂れた。


 静香の暮らす(つち)の宮は四十階建てビルの最上階にある。三十九階までは様々な人間が様々に働いているが、最上階は中央の集会場を除き、限られた人間がそれぞれに許された範囲でしか出入りできない。賄い役などの世話係たち、数え切れないほどの警護連中。その中でも地の宮に入ることのできる人員はほんの数人。必要に応じて用意される指南役などは一定期間が過ぎればすぐに入れ替えられたため、実質的にはただ三人のみということになる。
 我妻鏡子、我妻草太。――鳴神ミコト。
 ミコトの叔父に引き取られてからの十年間、静香は最上階から出たことがない。護り役の二人以外には話す相手を持たず、義理の両親に会うこともなく、定められた装束を纏い、定められた生活をして、定められた学を修めた。
 時には『神』であり、あるいは『母』であり、『大地』、『ガイア』、すなわち『地球』――と、名を持たぬ神の名を繰り返し唱えて過ごす日々。
 数年前から始められた『集会』は様々な人々の顔を見られて楽しくはあったが、それは『人と人との出会い』と呼べるような接触ではない。静香は巫女姫であり、預言者であり、人々は信者だった。神を、静香を信じる者。鏡子や草太との関係とは違う。ましてやミコトとは――比ぶべくもない。

 にんじん、タマネギ、じゃがいも、トマト、かぼちゃ、等々、少量ではあるが種々の野菜が育つ畑の脇にミコトはいた。いついかなるときもスーツと眼鏡着用の彼にはそぐわない場所だ。
 静香はなんとなくおかしくなって吐息で笑う。
 草太が控えめに低頭して下がっていく様子が視界の端に映ったが、一言「ありがとう」と声をかける時間さえも惜しかった。

「お兄様!」
「久しぶり、静香」

 二人は同時に両腕を開き、静香はまるで重力に対して水平に落下したかのようにミコトの胸に飛びついた。
「お兄様、お会いしたかった! 今回は一体何分こちらにいてくださるの? 十分? 二十分? 三十分? 一分、一秒でもいい! お兄様に会えるなら!」
 ぎゅうぎゅうにしがみつかれ、ミコトは苦笑しながら静香の肩を抱く。
「どうしたんですか? 今日の静香はいつにもまして寂しがり屋ですね。もしかして先程のことを気にしている……?」
「……見てらしたの……?」
 静香はこわごわと顔を上げる。スーツの背中にすがる手が震えた。もしもミコトの目に落胆や憤慨の色があれば心臓が止まってしまうかもしれない。
 祈りながら確かめ、ミコトの顔に常と変わらず穏やかな表情が浮かんでいるのを認めると、全身の力がへなへなと抜け落ちていくのがわかった。
「ここに来るまでの間に中継をね。……そんなに私の反応をうかがう必要はありませんよ。静香の考えそうなことはだいたいわかりますが。……ああいった場合の対応は本当にあれでよかったのかと気に病んでいる。違いますか?」
「ううん、そう、なんだけど……」
 ミコトの顔に微笑が広がる。
「大丈夫。静香は充分よくやっています。いや、違うな。この上ないほど上手く、私の期待に応えてくれています」
 優しい笑顔。暖かい胸。気づかいに満ちた腕。心地よいぬくもり。
「……ありがとう、お兄様。……嬉しい」
 静香は同じような笑顔を返そうとして、どうしてもそうできなかった。
「鏡子さんもね、心配することないって、言ってくれました。それで、私のこと、『素晴らしい方』って、言うんです。……お兄様、私は本当に人々を救えているの? あんな言葉一つで。たったそれだけで。こんな私が誰かを救えるだなんて、救おうだなんて、あまりにおこがましいのに! ……いつか、きっと……きっと!」
 力いっぱいすがりつく。煩わしいと思われるのを恐れて胸に封じ込めていた不安が堰を切ってあふれ出す。頬を伝う涙も、立つことさえおぼつかなくなった両足も、静香にはもはやどうしようもないことだった。
「……静香、落ち着いて。神を人の枠にはめてはならないと教えましたね? 神はただ、『在る』だけのもの。かの愛はただ『在る』ことだけ。救いにはなるが救いではない。救いは人の心にこそあるのです。『救いたい』と願ったならば、それこそが資格。無力を言い訳に傍観することこそ最も罪深いことですよ。……君は何も悪くない。おこがましいというなら誰よりもおこがましいのはほら、この私ですから。大丈夫。……おまえは何も悪くない。罪も罰もすべては私の元へ。だから、笑ってくれませんか。大切なこの時間をおまえの涙を見て過ごすのはとても……切ない、のでね」
「お兄様……」
 触れ合った箇所のぬくもりがいっそう涙腺を緩くする。しかしその涙は安心からもたらされるものへと変わっていた。そのことを早く伝えなければと思いつつ、もうしばらく抱きしめて、頭をなでていてほしいと思う。静香は鼻の頭を固い胸に埋めたまま、ちろっとミコトを見上げた。
「あの……」
「静香?」
「あのね、……すごく、すごくすごくすごくすごく……大好き」
「……ありがとう」
 少々気恥ずかしかったがミコトがそう言って笑ってくれたので、静香はようやく満面の笑みを向けることができた。
「お兄様ほど人々を救いたいと思ってる人いない。そしてその通り頑張ってる人って、絶対いないっ! だからお兄様は何も悪くない。もしも罪に問われるようなことがあっても……私だけは、お兄様が間違ってないって、知ってるわ。だから私も罰を受ける。でね、絶対の絶対にお兄様を助けてみせるの!」
 ミコトは小さく吹き出して、息を弾ませて笑い出した。
「……静香は本当に可愛らしい。おまえに出会えたのは私の人生最大の幸運だよ」
 静香は目をぱちくりした。そんなにうけるとは思わなかったのだ。自分としてはかなり、いや、まったくの真剣だったのだけれど。
 笑声はすぐにやみ、静香の体が引きはがされる。ミコトは途端に真顔になって、ぼうっとする静香の頬をなぞった。
「……あれほど幼かったおまえも今年で十六になるね。……約束を覚えていますか?」
 静香の鼓動が飛び跳ねる。
 ミコトの意に添うように、期待に応えるために、様々な努力をしてきた静香だったが、それらはすべて求められたのではなく自発的にやっていたことだ。
 約束といえば、一つしかない。
「十六になったら……お兄様と……」
 しかしそれは幼い頃の自分とまだ学生だった義従兄が交わした、今となっては冗談のようなもの。『大人』には笑い飛ばされるようなもの。てっきりミコトもそのつもりで、もう忘れているのだろうと思っていた。
 静香はミコトの靴を見つめる。昔の恥を笑うような空気ではないと思うが、酸素が脳細胞まで届かない。
「……私と?」
 続きを促されても声が出ない。口を開いても息ができない。地面がぐにゃぐにゃとうねり出す。よろめいてすがりついた拍子にぽろりと出た。
「けっ……こん、するっ……って」
 静香は固く目を瞑った。頭上でミコトが息を吐く。
「……よかった。忘れているかと思いました」
「お兄様こそっ! 私のこと……義従妹としか思ってないんだと……そう、思って……」
 唯一会いに来てくれる義理の身内。整った顔立ち、丁寧な物腰、穏やかな気性の、優しい義従兄。自分にとってはただ一人、裏も表も、小さな秘密もない相手。さほどないはずの年の差を三倍にも四倍にも感じるたびに己の幼さを疎み、並んで遜色ない女性になることを夢見た。
 それが。自分はまだ嫌になるほど幼いまま。ちっとも理想を実現できていない。なのに。
「静香がこんなにも綺麗になってしまうものだから、兄らしくあろうとするのは大変でしたよ」
「そ、れは……うそ、です」
 嬉しいはずの言葉にも喜びより先にとまどいがくる。静香は顔を上げることができなかった。
「やれやれ、信用ありませんね」
 ミコトはわずかに口の端を歪めると、再び静香を腕に収めた。静香はふっと顔を上げる。
 瞬きもしない間に唇が重なった。
「昔から、私にはおまえしか考えられない。……結婚してください。君が十六になるその日に」
「……たん、じょ……び、に……?」
 静香は二、三度舌を噛みながらもなんとか口にしたが、一体何を言おうとして口がもごついたのかはまったくわかっていなかった。
 ミコトがすべてを見透かしたかのように微笑する。
「……そう。十二月二十五日。半年も待てるか自信はありませんが」
「あ……の……おに、お兄さ……」
「静香、そう男心をもてあそばないで。……返事は?」

返事は?

「……はい」

 まるで夢の中で溺れているようだ。
 静香は口をうっすら開いては閉じる動きを繰り返し、うつろだった瞳に光を取り戻すとすぐに両手で顔を覆った。


 「……私、ミコトお兄様にプロポーズされちゃった。あのお兄様に……こんな私が……」
 静香はミコトが去った後の畑に一人立ちつくしていた。
 ほどなく草太がやってくる。それまでの短い間、自分の心だけを見つめていたい。
 鏡子、草太、二人の護り役と顔の見えない世話係。『巫女』を求める無数の信者。自分を取り巻く環境は何かが歪んでいるのではないのかと、近頃たびたびそう思うようになった。
 何かひどい誤解を受けているような。
 鏡子はともかく、ミコトまでもが静香自身の目に映らない素晴らしい美点があるかのようにほめそやす。
 どう考えても自分はそれほどほめられた人間ではない。間違っても結婚など申し込まれるような人間ではないのに。
「どうして私なの? ……救おうとする意志はあるわ。お兄様のためを置いても。苦しむ人を見るのは痛いもの。でも素晴らしい人間なんかじゃない。誰が誤解してもお兄様だけはわかってるはずなのに! どうしてなの……? 怖い。誰か本当のことを見て。本当の私の、本当のことを教えて。……お願い」
 天窓からの月明かりが静香を照らす。うつむけば足下を緑が照らす。すべてを見つめるそらとこの手で育む命。どちらも答を知っているだろうにどちらも答をくれはしない。
 膝を抱えてうずくまる。袴の裾と袂が土に汚れる。
 十二月二十五日が、いつまでもこなければいい。
 ミコトのことを想うがゆえに、何度も強くそう願った。

 「……静香様」

「……草太さん」
「申し訳ございません。その……、静香様をお護りするのが自分の役目ですので、いかに宮の中庭とはいえ、いつまでもお一人にしておくわけにはいかないのです……」
 腰をかがめて言いにくそうにしている草太に苦笑を返す。思ったより長く考えに没頭できたのだ。草太が気をつかってくれたに違いない。
「わかってます。私こそごめんなさい」
 静香はすぐに立ち上がり、これ以上困らせまいと足を踏み出した。が、そっと右腕をつかまれる。
「いえ、違うのです。その……静香様の独白が聞こえてしまいましたので」
 静香の頬に朱が走る。草太は慌ててひざまずいた。
「静香様を辱めようというのではありません! 話を聞いていただきたいのです」
 草太はおずおずと顔を上げ、静香を落ち着かせようとするように、一つうなずいてから話し出した。
「……私は未だ学生の身でありますので、本来のお役目の多くを姉に任せ、外で勉学に励ませていただいております。しかし私も姉も最初は静香様と御同様に宮の中で学ぶ予定だったようなのです。それが正規の学校に通うこととなったのは……外の世界から静香様をお護りする我々が、『外』を知らないようでは話にならないからです。しかし静香様は外の世界をほとんどご存じない。そのように育てられた御方です。ですから……その、無礼を承知で申し上げますが……静香様の素晴らしさは、無垢なる点にある……のではないかと」
「……無垢?」
 静香は首を傾げた。聞き慣れない言葉だった。
「穢れないということです」
 草太の短い補足に、なんとなく意味を知る。草太が何を言いたいのかもわかってきた。
「……おそらくは、無知ゆえに?」
「……はっ、申し訳……」
「かまいません。むしろお礼を言うべきことだわ」
 外の世界。ミコトの叔父に引き取られる前の記憶は静香の中にほとんど残っていない。ただ――父親、のような人間が、毎日のように自分を殴っていた――ような、あやふやな断片がふわふわとさまよっている。今となっては夢の中のできごとのようだ。
 六歳のとき、この宮で暮らすようになってからの記憶には、穏やかなもの、嬉しいもの、楽しいもの、幸せなものばかりが思い浮かぶ。勉強がつらかったとか、ミコトがなかなか来てくれず悲しかったとかいう記憶もあるが、鏡子と草太とミコトの笑顔にみるみる覆い隠されていく。
 きっとあの頃も今も、たくさんのものに守られて生きているのだと静香は思う。
 その中の一つが『この階から出ないこと』に違いない。ここには自分を責める人は一人としていないから。
 今日の集会で初めて自分の言葉を「嘘だ」となじる人がいて、本当はどうすればいいのかまったくわからず内心パニックに陥っていた。口が頭を通さず勝手にしゃべり出したので、悲鳴を上げてしまいたいくらいだったのだ。
 外に出ればもっと色々な意見を持った様々な人々がいるに違いない。そうした中で揉まれたことのない自分は、さぞ物知らずであることだろう。
 考えればわかることなのに、思いつきもしなかった。そうした思考の幅さえも、他人様に比べて随分と狭いのかもしれない。
「……本当に、ありがとう。お兄様も鏡子さんも言ってくれなかったことを――草太さんが教えてくれたんだわ」
 急に目の前が開けたような感覚に、静香は目眩を感じずにはいられなかった。
 おそらくはミコトも鏡子も、『言わない』のではなく、『隠して』いたのだ。

 ――私がここから出たら困るから――。『無垢』でなければ、困るから――?

「静香様、しかしそれは稀有な素晴らしさなのです。姉が申しております通り、静香様はまことに素晴らしい方なのです。ただ私は……温室の中で見守られる花が極寒の僻地では一日ともたないような、危うい美しさではないかと感じてしまう。静香様がお望みなら草太はいかなることでもいたしましょう。ですから、どうか、思い詰めるようなことだけはなさらないでください。私も姉も、もちろんミコト様も、静香様を心より大切に思っておりますれば……」
「……変わらなければ、いいのね」
「は?」
 草太は思わずまじまじと見てしまった。立っている静香に対してひざまずいたままなので表情はうかがいづらい。それでも静香の受けた衝撃は小さくないのだと、充分すぎるほど伝わってくる。
 再び弁明しようと息を吸えば、静香もさっと膝を折り曲げ、まっすぐに目と目を合わせて口を開いた。
「『穢れない』ってどういうことかよくわからないけれど、お兄様や鏡子さんが私に無垢であることを求め、今の私にそれが備わっているというのなら。……何があろうと、どんな目に遭おうと、無垢であり続ければいい。……そうすればきっと、私は私を認めてあげられる。……そういうことでしょう?」
「静香様……」
 静香の眼差しは強い。彼女はもう決意したのだ。
「草太さん、やっかいなお願いごとをさせてください。どうか私に……嘘偽りない外の世界を見せてください。お願いします……」
 草太は深々と礼をして、一言「承知いたしました」とだけ告げた。胸中では不安が渦巻いていたが、もしかしたら本当に何があろうと、どんな目に遭おうと変わらずにいてくれるのではないかと、小さな期待を消すこともできないのだった。
続く。
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