『天地神明』

第六章 虚構


 景子が殺された。

 大地は信じられない思いでその知らせを聞いた。
 些細なことですぐに摩擦が起こる子ども時代、大地と景子はいつも同じ派閥にいた。景子の家は自然を崇拝しており、『神社の息子』として育てられてきた大地とは考え方が近かったのだ。成長するにつれ『男子』と『女子』という垣根で分かたれていったが、大地にとって景子は今ももっとも気心の知れた異性だった。
 先週までは自分の近くにいたその顔が、今日はどこにも見あたらない。机の上には花が置かれる。まるで冗談のような光景だ。
 亜美、優希、そして景子。このクラスは呪われてしまったのか。
 大地は幼なじみの死をどうしても信じられずに、クラスの担任から景子が殺された現場を無理矢理聞き出した。
 そうしてそこでそれこそ信じがたい言葉を聞いた。
 白線の横で「可哀想に……」と十字を切る警官。もう一人の警官はこうつぶやく。

「……ああ。だがこれも神の思し召しだ。仕方ない」

 仕方がない? 仕方がないだと?
 人が一人死んでいて。それが刑事の言うことか! 犯人をとり逃した後にも『仕方がない』とほざくのか?

 神の思し召しなど糞くらえだ。

 大地は自分の無力を知っている。
 幼少の頃から武道に励み、喧嘩慣れもしているが、しょせんは素人。何を為したこともない。学校の成績もほめられたものではなく、誇れるものはたった一つ。手に負えないほど頑固な反発心。それだけだ。
 事態は冗談のようだが冗談でない。一介の高校生ができることなど何一つありはしない。けれど。
 あのときもっと気にかけていたならば。クラスメイト二人の死を避けられたかもしれないと、強く、強く、悔いるように。景子の死を前にして、刑事の言葉に灼熱の怒りを抱きながら、どうして何もせずにいられるのだ。
 人の手に負えないものなど無数にある。だが神などいない。いるはずがない。例え、いたとしても、数多の想いをチェスのようにもてあそぶ神など願い下げだ――。

 あがいてやる。

 人の死が神の意志などではないことを。人殺しの正体を。景子が何故殺されなければならなかったかを――。暴いてやる。


 四十階建てビルの最上階にある地の宮。その中庭にはプールのような十畳ほどの溝があり、真っ黒な土で埋められている。天井はその部分だけガラス張り。庭の脇には冷蔵庫のようなタンクがあって、出てくる水は常に清浄を保っている。
 静香は土いじりが好きだ。人の体温に通じるようなやわらかなぬくもりを感じる土。生命を育むところ。それはさながら胎盤である。
 十年間そこで採れたものだけを食してきた静香には、大地の赦しは疑いようもないものだった。
 ――『大地』。
 静香は学生服の少年を思い出す。何も知らなかった自分に様々なことを考えさせてくれた少年。そうして土をすくい上げる。
 この土は特別な土なのだろうか? 他のものでは命が芽吹かない? ならば循環は? 大地の赦しはどうなのだ。
 静香は首を振る。地球は生きていると信じよう。人が生を営んでいるのだから。ただ本来の姿を取り戻すのは――それまで自分が考えていたよりも、もっとずっと困難なことなのだ。
 静香は畑で採れた野菜を何度か護り役の二人に勧めてきた。だが決して受け取ってくれない。ともに育てたのだからともに味わうべきだと誘うのに、頑として首を縦に振らないのだ。代わりに塩漬けやら酢漬けやらジャムやらと、保存の方法を勧めてくる。不思議でならなかったが、普通に扱っていた土も水も種も、何もかもひどく高価なものなのかもしれない。
 自分を取り巻く環境は――何か歪んでいるのではないのかと――。
 静香はとみにそう思う。『何故』は積み重なっていくばかり。
 『大地』に会いたかった。
 もっともっと、色々なことを教えてほしかった。

 「どうされました? もしや気分がお悪いのでは――」

 静止し続ける静香を鏡子が心配する。静香は慌てて首を振った。
「ううん、大丈夫。ごめんなさい。土が気持ちよくて……」
 あの日部屋にこもったまま昼も夜も食事を取らなかった静香を、鏡子はひどく気にかけていた。「これまで一度もそのようなことはされませんでしたのに、御体を壊されてしまったのですか?」と。何度も「大丈夫」だと告げたのに、未だに不安げな表情を浮かべたままだ。申し訳なさをかき立てられる。『大地』に会いたい気持ちは毎日募っていくけれど、きっと二度と会えなかった。
 鏡子は土にまみれた静香の指を両手ですくい、二本の親指でそっとなでる。
「……この土は、静香様にこのように愛でられて……。きっと瑞々しい作物を実らせることができるのも、静香様の清らかな御心が染み入っているからなのでしょう……」
 静香はそっと眉をひそませる。鏡子の言葉をお世辞や欺瞞だと思ったことはない。ただ、誤解していると強く思う。
 鏡子は自分のことをちゃんと見てくれているのだろうか? この心がそれほど清らかだなんてとても思えない。自分は普通の、ごくごく普通の人間だ。六歳以前のことは覚えていないが、生まれがわからなくたって、この心でそうわかる。
 静香は鏡子、草太、ミコトのことを、家族のように、友のように愛している。
 誤解が解けたらどうなるのか。
 解けるのも、解けないままでいるのも恐ろしいのだった。
 鏡子はしばらく静香の指を見つめていたが、ふいに視線を外すと立ち上がって草太の方へと歩いていった。
「――草太、何を手を止めている。静香様がお召しになる作物をお育てするのになまなかな心構えでかかろうというのか」
 草太ははっとして顔を上げる。
「いえ、けしてそのような……申し訳ありません、姉上」
「相手を間違えておろう」
「はっ。静香様、申し訳ございません」
 地に膝をつき深く頭を垂れる草太に、静香はとんでもないと首と手を振る。
「そんな、草太さんが謝るようなこと……大丈夫?」
 静香には草太の方こそ体調が悪いように見えた。
「はい。静香様にご心配をおかけするなど、……不覚でございました」
「心配くらい普通にさせてください! 草太さんのことを心配するの、当たり前でしょう? お願いだから無理はしないで」
「……もったいない。恐縮にございます」
 草太は力無く微笑む。

 四六時中控えている鏡子に比べ、草太が静香のそばにいる時間は限られる。会話を交わす機会はもっと少ない。護り役として草太は「控え」であり、たいていのことは鏡子の口から伝えられる。鏡子と静香が同じ女性であることもあって、ちょっとした会話の中にも草太の参加が求められることはめったになかった。仕えるべき巫女と従うべき姉の手前、草太が自ら口を出すこともない。草太と静香が二人でいる時間は鏡子の入浴中などに限られた。
 姉の目から離れたことを確認し、両手両膝ついて頭を下げる。草太の指は畳にしがみつくような格好になる。
「……静香様、お願いしたき儀がございます」
 静香はびっくりして目を瞠った。とにかく頭を上げるようにと促すが、草太はますます低頭した。
「私は静香様にお仕えする身。このようなことを申してよい立場ではないとようく存じ上げております。ですが……、どうか、どうかお耳に入れるだけでも……っ」
「――わかりました。私にできることならなんでもします。他ならぬ草太さんの初めてのお願いだもの」
 静香は固く深くうなずく。自分にできることがあるとはとうてい思えなかったが、必死な気持ちに少しでも応えてやりたくて。
 草太は頭を低くしたまま語り出す。
「――『大地』のことでございます」
 静香の鼓動が拍を変える。
「……先日彼の友人が亡くなられました。何者かに殺害されたのです。大地はひどく激怒して、……自ら犯人を捕まえようというのです。……彼の気持ちはわかります。ですが、私は心配でたまらない。懸命に止めたのですが――それで止まる男でないことは知っております」
 草太が息を吐く。何かを決意したように。
「静香様、お願いでございます。どうか、占いを――大地のために、占いをしてはいただけませんでしょうか」
 静香は真っ青になった。
「静香様のお力は決して私事に使ってよいものではないと承知いたしております! ですがっ、……お願いです。一度だけでよいのです! 大地の身を守るために、一度だけそのお力をお貸しください! どうすれば危険を避けることができるのかを……っ」
 草太は額を床に擦りつけて頼み込む。我が身を捨てて大地のためを思っている。
 静香は――

「……お兄様を呼んで」

 草太が顔を上げる。
「ミコトお兄様を呼んで! 会いたいの! 今すぐお兄様に会いたいのっ! お願い……っ! お兄様に会わせてっ! 会わせて……っ、おねがい……」
 静香は顔を両手で覆い、あられもなく泣きわめいた。

 ミコトが現れたのはそれから二時ほど後のこと。すでに深夜に入っていたが、静香は己の体を抱きしめたままじっとミコトの訪れを待っていた。顔を見た瞬間その胸にすがりつく。
 ミコトは幼子にするようにして頭をなでると、控えていた鏡子と草太を一瞥した。
 草太が一礼して席を外す。鏡子はミコトをまっすぐに見る。ミコトが再び目を合わせると、すっと目礼して部屋を出た。
「静香、落ち着いて。静香。一体どうしたというのです? 二人には宮から出るよう言いました。ここには私と君だけです。……落ち着いて。ゆっくりと話してごらん?」
 ミコトが静香の髪をなでる。鏡子がくしで梳いたときのような心地よさが伝わってくる。だがそれを受け止めるわけにはいかないと、静香は必死に頭を振った。
「お兄様……助けて」
 ぬれた瞳で取りすがる。ミコトは穏やかに微笑んで、静香の体を抱きしめた。
「何があったの? おまえのためならなんでもしよう。……何も心配しなくていい。……さあ、大丈夫だから言ってごらん?」
 全身を包み込む揺るぎない安心感。ミコトの胸に顔を埋めたまま、静香はぽつり、ぽつりと口にする。
「友達の友達が殺されて亡くなったの。それで……友達が……大地様が、犯人を見つけてやるって、危険を顧みずに怒ってるの。私、大地様を助けたいの。大地様が殺されてしまうなんて嫌。彼は私に色んなことを教えてくれたの。恩返しをしなきゃ。どうすればいい……? お兄様、私、どうすればいいの……? わからないの!」
 震える舌に負けないよう、助けを求めて言葉を尽くす。ミコトが静かな声で言う。

「……外に出ましたね?」

 仰ぎ見たミコトの顔は、いつものごとく優しげな微笑を浮かべている。
「……先日君が『占いのため』にかなりの時間を一人で過ごしたことは聞いています。……部屋を抜け出て、外で過ごしていましたね?」
 ミコトは静香の頬を両手で捕らえ、吐息が触れ合うほど顔を近づける。眼鏡の向こうの瞳に落胆も憤慨も見えはしない。
「――かまいませんよ? 外に出ること自体はさほど重要ではない。君が無事で本当によかった。それで、お友達の名前は……大地君、ですか」
 何も変わらない。普段通りの義従兄なのに、静香は何故か寒気を感じる。ミコトは静香に口付けた。
「結論から言いましょう。二度と会わなければいいんです。……そうしたら、大丈夫でしょう?」

 ――生きていようが死んでいようが。

 静香はミコトを凝視する。ミコトはくすりと首を傾ける。
「……冗談ですよ。大地君はきっと動かずにはおれない心境なんでしょう。そんなときに外からつついても逆効果ですから。落ち着くのを待つのが一番です。大丈夫、その間に警察が犯人を逮捕してくれますよ」
 静香は身じろぎさえできずに、肩が震え出すのを必死にこらえていた。
 スーツの懐から耳障りな電子音が鳴る。
「失礼、電話がきたようだ」
 ミコトは携帯電話を耳に当て、静香に背を向けてから話し出す。
「こんな時間にどうしました? ……ああ、そうですね。もう先はないでしょう。……え? 何故私が。知りませんよ。私などを頼らずともあなた方にはあなた方の神がいらっしゃるじゃありませんか。腐ってもこの国の象徴だ。おすがりしてはいかがです?」
 電話は唐突に切れたようだ。ミコトは静香に向き直り、「すまないね」と片方の眉を垂れてみせる。
 何の電話だったのだろう。そういえばミコトは何をして暮らしているのだ?
 静香はそれまで気にもとめなかったことが急速に気になりだした。
 静香がこの義理の従兄について知っていることは、その人となり以外に何もない。ただ――義理とはいえ静香にとっては彼だけが唯一の身内である。ひきとった本人であるはずのミコトの叔父でさえも、一度も顔を見たことがなかった。
 十年間、静香はいつだってミコトに会いたくて。その力になりたくて。何もかもを言われるままにして育ってきた。ガイア教の斎女として――。六歳の少女の運命をまだ学生だった少年が決めたのだ。
「お兄様は……何をしてらっしゃるの?」
 声が震えた。
 ミコトはわずかに目を丸くし、眉と眉を引き寄せる。
「私の仕事ですか? 君がそんなことを聞くのは初めてですね。……急に興味を持ったのは、今の電話を聞いたから? それとも、外に出たからなんですか?」
 小さく息をつき、静香の前髪をそっと分けた。
「色々としてますよ。そうですね、私は薬屋の息子です。それが本業、ということになりますか。ですから言うんですが――静香、外に出るのはもうやめてください。君は弱い。今は無事でも次はどうなるかわからない。心配なんです、とても」
 静香はうなずかなければと思い、頭を下げてそのままうつむく。大地を心配する思いが胸で渦巻いている。ミコトには大地を助けるつもりがないのだ。自分が外に出ても何もできない。だが、二度と会えなければそれこそ何もできないのだ。
「……君を外につれだしたのは草太でしょう? いけませんね。ちょっとおしおきしちゃいましょう」
 静香ははっとしてミコトのスーツを握りしめた。
「やめてお兄様! お願いっ! 私が悪いの! 草太さんは何も悪くないの! 怒るなら私にして!」
 ミコトは困ったような顔で笑う。
「そんなに必死にならなくても。大丈夫、ちょっとだけですから。それに、私は君を怒ったりしませんよ。……ねぇ、ちゃんと覚えてくれていますか? 君は私の妻になる人なんですよ?」
 静香はミコトを見つめたまま何も言えなかった。
 あの日のプロポーズは静香にとって夢の中の出来事だ。自分の価値がわからないままの今、水の奥深くに沈めた宝箱のようなものだ。

「忘れないで。私は君を愛しています。二度と外には出ないでください」

 静香は逡巡する。だがそこに選択肢などないと知っている。
 ミコトにYes、Noを求められれば、答はもはやYes以外何もないのだ。

 ミコトが去ってほどなくして、鏡子と草太が戻ってきた。
 静香は草太が無事でいることに安堵する。ミコトがひどいことをするはずもないのに、何故だか胸をなで下ろさずにはいられなかった。
 ほっとした後すぐに罪悪感がわいてくる。草太の視線は気づかいに満ち満ちている。今の静香にそれほど痛いものはない。視線をそらした先には鏡子がいた。
「……鏡子さん、私ね、『どうして私なんだろう』って考える。鏡子さんや草太さんが大事にしてくれるのはどうして私なんかなの? ミコトお兄様も、どうして私のことを大切にしてくれるの? わからない……」
 鏡子は静香の手を取って、ふるふると首を横に振る。
「静香様、わたくしが静香様にお仕えする理由などただ一つでございます。静香様は素晴らしい御方でございますれば。わたくしは、いついつまでも――その御姿を見つめ続けていたいのです」
「……そう、やっぱり……そうなのね」
 静香は深くうつむいた。
「……鏡子さん、私、草太さんと少しお話ししたい。……呼ぶまで宮から出てくれる……?」
「……草太と? 宮から、でございますか?」
「……うん。障子の向こうじゃなくて、宮の外にいてほしいの」
 鏡子の美しい顔がさっと歪む。
「静香様、わたくし、どのような失礼を……」
「違うのっ! 悪いのは私。全部、全部、悪いのは私なのっ! ……お願い。お願いだから。もう、何も言わないで。……お願い。……ごめん。ごめんなさい……」
 静香はうつむいたまま喉を引き絞る。先刻泣きわめいたときよりも、さらに悲愴な面持ちで。鏡子は胸をかき乱される思いがしたが、ぐっと奥歯を噛みしめた。
「……承知いたしました。……草太、後を頼む。私の代わりに静香様をお慰めするように」
 草太は神妙にうなずく。鏡子が宮を出るまでの時間を待って、静香はゆっくりと顔を上げた。
「……草太さんがお兄様に叱責を受けることを承知でお願いします。大地様を、ここにお連れしてください」
 草太の目が見開かれる。
「……どうしても直接お話ししなければならないことが――。いいえ、これはただの私のわがままです。どうしても大地様に聞いていただきたいことがあるんです。草太さんのお願いをかなえるためでもありません」
 静香はこくりと唾を呑む。
「……お兄様に見放されるのが怖くて外にも出られないこの私が、草太さんの苦労も何も考えずに頼むんです。……断るのに遠慮はいりません」
「いいえ、この命に代えましても静香様のお望みをかなえさせていただきます」
 決意のこもった草太の言葉に、静香は自嘲の笑みをもらさずにはいられなかった。


 「――地球は憎しみなど抱いてはおりません。人の犯した罪も、あやまちも、すべてを受け止め、赦しているのです。なぜならば人もまた――大地の恵みなのですから。……命は連なりゆくもの。どこまでも果てしなく、続くもの。あなた方は誰もみな、けして一人ではございません。土はすべてを愛しています。赦しています。あなた方は赦されているのです。どうか――この愛を思い出してください。生命はみな、この地で育まれ、この地へと還ってゆくのだと」
 静香は今日も祭壇の上に立ち、繰り返し学んできた教えを人々の前で説く。こうして語りかけることが静香に与えられた斎女としてのたった一つの仕事だった。

「未来をさしあげます」

 集会の終わりには必ず予言を言い残す。それはほとんどが宇宙に関する未来で、暗い内容ばかりだった。人々は大地の愛に救いを求めながら、宇宙への道を断つ予言に、毎回落胆して帰っていく――。
 静香はその様子を見る度に自分の言葉が伝わっていないと実感する。
 人は何を求めて話を聞きに来るのだろう。
 救いを――?
 困っている人がいれば助けてあげたい。手を差し伸べることを迷わない。だからミコトに斎女として立つことを求められたときにも、「私でいいのだろうか?」と思いはしたが、人々に教えを説くこと自体には何の躊躇もなかった。
 しかし、自分が与えているものと人々が求めているものは違うのではなかろうか?
 預言、予言、占い、巫女としての力――。人々が求めているのはただそれだけなのではなかろうか。
 土はこれほどに尊い愛情を抱いているのに。……届かない。

 集会を終えると静香は必ず鏡子に髪を梳いてもらう。それだけで何もかもが癒されていく感じがするのだ。
 しかし今日、静香はどんなに丁寧に髪を扱われてもうっとりと感じ入ることができなかった。
 そわそわと時を待つ。障子の向こうに影が現れる瞬間を。そして――

「静香様、どうぞお果たしくださいませ」

 草太の声が聞こえたと同時に立ち上がる。

「――人払いを命じます。わたくしが呼ぶまで何人もこの階に立ち入ることは許しません」

 鏡子を見下ろして道破した。
 鏡子は静香をまんじりと見つめて動かなかったが、やがてゆっくりと両手をついて頭を下げる。
「――かしこまりました」

 しんと静まりかえってしばらくたった宮の中、物音がずかずかと近づいてくる。
 ああ――『外』から来た音だ。自分の周りにこんな音を立てる人間はいなかった。
 この音がたどり着くのが審判のとき。さっきまでは恐れていたような気もするのに、今は不思議と落ち着いている。
 静香はまぶたを閉ざして足音を聞く。そして障子は開けられた。

「あー……久しぶり?」

 静香は思わず笑いたくなってしまった。
「お久しぶりです……大地様。今日は無理を言って来ていただいて……申し訳、ございません」
 深々とお辞儀をする。本当に無理を言った。特に草太には。草太は同じ手を二度使うわけにはいかないと、以前鏡子が言っていたことを実行し、大地を信者の中に紛れ込ませてここまで手引きしてくれたのだ。
 久しぶりに見る大地は相変わらず面倒そうな顔をしている。
「……猫なら元気だけど」
 さっさと切り上げるようなことを言いながら、静香の話を聞くために座ってくれる。
「それは、よかったです。今日は……」
 静香はどうしても伏し目がちになってしまう瞳を精いっぱい大地に向けた。
「……草太さんが、心配しています。草太さんは大地様の安全を守るための占いを、私に……頼んできました」
 大地はわずかに顔をしかめた。まさか静香にまで話が及んでいるとは思わなかったのだろう。静香はまぶたを震わせる。
「私は斎女として……、未来を予言したり、様々なことを占ったりできる……ということに、なっています」
 怪訝な眼差しに、静香はゆっくりと首肯する。
「……そう。本当はできないんです。さっきの集会での予言もあらかじめ用意されている原稿を読んだだけ。……何故か外れたことはないみたいですけど。……内緒ですよ? このことは草太さんも誰も……お兄様以外は、誰一人知りませんから」
 ミコトには決して誰にも言ってはならないと言われている。
 だがもはや――耐えられない。
「私は巫女としての力が使えると偽って人々にあがめられているんです。草太さんたちにかしずかれているんです。……本当は何もできない。何の力も持ってない。ただの女にすぎないのにっ! ……みんな私のことを『素晴らしい御方』って言うんです。私は……私は……ただの、嘘つきです。多くの人々を神の力をかたってあざむいているのに、お兄様に嫌われるのが怖い、ただそれだけで。……平気で嘘をつき通してしまえるんです。『素晴らしい方』なんかじゃない……っ」
 こんな人間に多くの人々が『救い』を求めてやってくる。知っていて偽りの予言を述べている。自分にできることはただ教えを説く、それだけなのに。他に何もできないのにそれさえも満足に果たせないのは――、きっと、この心が穢れているからだ。もっと清らかな心を持っていれば、言葉はちゃんと人々の耳へと届いたのではないだろうか。そう思わずにいられない。
「ごめんなさい。……大地様にはどうしても知っていてもらいたかったんです。どうしても……本当のことを。……ごめんなさい。私はあなたの行く手を占えない……」
 静香の頬を涙が伝う。例え軽蔑されようと、どうしても知ってほしかった。
 視界が歪む。耐えきれずに閉ざしたまぶたから、ぽろり、ぽろりと滴が落ちる。
「お話は、それだけです。聞いてくださってありがとうございます。……どうか、……ご無事で」
 静香は懸命に声を振り絞る。長い沈黙の後、大地が言った。
「……普通人間は予言も占いもできねーと思うけど?」
 静香はぱちくりと目を動かす。
「信じるヤツが……いや、んなこた言えねーか。……あー、……けどなんていうか」
 大地は眉間に指の間接を押し当ててぐりぐりとしわを混ぜる。息を吐きながら腕を止め、おもむろに静香の方を見た。
「さっきの集まり見る限りでは、……別に、予言とかいらないだろ」
 真っ黒な瞳はまっすぐに静香を映している。
「……おまえが言ったんだ。――救いは、人の心にこそ、あるんだろう?」
 静香は自分の呼吸が止まるのをどこか遠くで感じていた。
 大地は自分の頭をかき混ぜながら、ため息をつくように声を出す。
「救いたいと感じる心のまま動けば救える命だってある。『大地』はおまえが救ったんだ。ただ話を聞いてもらえるだけで……軽くなる、心もある。……俺に語らせたのは――あー、おまえだ。……で。今俺は……あー、なんで俺がこんなことしゃべってるか、わかるか?」
 静香は半ば無意識的に首を振る。大地は苦虫を噛み潰したような顔になり、うつむいて投げやりな口調でつぶやいた。
「……思ったからだ」
 静香にはよく聞き取れない。大地は怒ったように声を荒げた。
「おまえの心を軽くしてやりたいと思ったからだ! だから全部正直に言ってやってんだ! 俺がどうしておまえに家の話をしたと思ってんだ! ……おまえが……っ、俺の心を、動かしたからだ」
 一転、小さな声になる。
「……だから、そういうことだろう」

 ――救いは人の心にこそあるんだろう?

 大地の言葉は奔流となり、静香の胸に押し寄せた。
「うん。……なった、なったよ軽く……ありが、とう……っ」
 ここにすべてを知る人がいる。知っていてこんな言葉をくれるのだ。――なんて温かな許しだろう。なんて力強い救いだろう。
 熱い涙が次から次とあふれだす。大地が不機嫌な声音で「なんで余計泣くんだ」と言ったので、静香は泣きながらつい、笑ってしまった。
「……だいたい神懸かりな力なんざ人を堕落させるためにあるもんだ。頼るとろくなことがねー。占いなんか必要ない」
 静香ははっとして大地の袖にすがりついた。
「でも、心配なの! 草太さんも本当に心配しているの! ……お願い! 危ないことはしないで! 死んじゃうなんて嫌っ! ……ごめんなさいっ、私に力があれば……っ」
 大地はどこまでも続いていきそうなため息を吐く。
「……だから別に力なんてなくていいって。今納得したんじゃなかったのか。……あー、心配されたら、普通、気をつけるだろ? 占いなんかよりそっちの方がためになるしう……今のなしだ」
「え……?」
 静香はきょとんとして首を傾げる。見開いた目尻から滴が一つこぼれて落ちた。
「……だからっ! そっちの方が……うれしい」
 大地は深くうつむいていて、静香からはつむじしか映らない。静香は思わず吐息で笑う。
「じゃあ私が、毎日すごくすごくすごくすごく心配してるってこと、絶対に忘れないで」
 大地は頭の位置をさらに低くした。

 大地が地の宮を一歩出た途端、その目の前に鋭利な刃物が立ちはだかった。
「――客人。命が惜しくば静香様のことは忘れるがよい」
 凍り付くような眼差しに、大地は眉を寄せて片目を眇める。
「いい大人に見えるんスけど。交渉の手順間違えてますケド」
「……頭が弱いと見える」
 鏡子は大地の首に小太刀を押しつけ、赤い線をうっすらと引く。あまりの切れ味に痛みもない。大地は唇の端をつり上げた。
「――常識がないと見える。もしかしてここって治外法権? けど今俺が大声出したらたぶん飛んでくると思うんですケド」
 静香が。
 まだこの階には誰もいてはいけないはずだ。それが主の客に刃を突きつけているなどと、悟られては困るに違いない。ましてや主はあの静香だ。
 半分かまをかけるようなものだったが、どうやらビンゴだったらしい。
 首の前で小太刀が翻る。
「……宮の前で血を流すわけにはいかぬ。元より脅し。だが次はない。静香様を穢すものはけして許さぬ」
 威厳に満ちた響きのせいでまったくそれっぽく聞こえなかったが、たぶんこれは負け惜しみだろうと大地は思った。それにしても『穢す』とか言われるのは心外だ。
「――キスさえしてませんケド。……ていうか、オネエサンずっとこん中にいんの?」
「……それがどうした」
「……別に」
 刃物の扱いに慣れているように見えたから。もしや――と、思っただけだ。だが景子を殺すような理由がない。
「それってずっと一緒にいるってこったろ。もしその脅しが本気だったら、さぞかし心を痛めるだろうなぁと思っただけデスヨ」
 もちろん、静香が。
 見つけた弱点を存分にほじくってから、大地は鏡子の横をすり抜けた。「今のはまぁわざとだな。また草太がうるせーな」と思いながら。

 鏡子は大地が去ったのを見届けると、すぐに草太を捕まえた。
「――何度仕置きをすればよい?」
「姉上……っ、静香様は人形ではありません。成長されるのです。姉上のためにいらっしゃるのではない……っ」
 草太の訴えに鏡子は壮絶な笑みを浮かべる。
「――静香様をお守りする。それが私のすべて。奪うというのなら――後に何が残るのか、おまえは知っているだろう? 弟よ」
「……その危うさが……心配なのではありませんか」
 草太は姉から顔を背けた。
続く。
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