『天地神明』

第七章 救済


 学校に来る度に草太がその後の進展を聞いてくる。そこには好奇の色はまったくなく、ただただ心配してくれているのだと実感する。しかし――
 大地は「大丈夫だ」と返す代わりにため息で答えてしまいそうになる。
 ないのだ。何も。心配の深さに見合うようなことは。
 がむしゃらに走り回ればなんとかなるなどといったことはない。大地が始めたのは地味な聞き込み捜査だった。景子の両親、景子の友達、クラスの女子、現場を通る人々。それから念のため、亜美と優希の周辺も。そうしてかぎ回るうちに犯人の方から接触してくれないかとも思ったが、大地の身辺はまったく静かなものだった。これで聞き込みの方に重要な証言でもあればまだ気は収まったかもしれない。しかしこれまた……全然成果が上がらなかった。
 女の口は意外に固い、と大地は思う。背後で何かひそひそやっているのに、いざ尋ねてみるとはっきりとは口を開かない。一対一だと警戒される。向こうが多人数だと伝言ゲームのようにささやきを回して結局こちらに届かない。攪乱させるための連係プレーなのか? と疑ってしまうくらいだ。もしかしたら自分の態度が悪いからか? と無理矢理顔をひきつらせてみたが、余計に怖がられてしまった。
 英美だけは普通に会話をやりとりしてくれたが、彼女の証言はまったく役に立たなかった。
「……あのね、松本さんが亡くなって、景子、沈んでたでしょ? そっとしておこうと思って……しばらく話してなかったの。その間景子は大地君のところに行ってたから……私なんかより大地君の方がずっと……わかること、多いんじゃないかなぁ?」
 殺される前までの景子。大地はじっと回想する。幼なじみはいつもと変わらず自分に笑いかけていて、特に変わった様子はない。
「そうか……通り魔って可能性も……ある、のか?」
 大地は知らずつぶやいていた。亜美と優希のことがあるので犯人がクラスの人間だったとしてもおかしくない、という感覚があったのだが、景子は以前国家血盟神教の信者に襲われている。そっちの線で考えた方がよほど自然なのかもしれない。
「……大地君、自分のせいで大地君が危険な目に遭ったら景子、すごく悲しむと思う。……あまり首つっこまない方がいいと思うよ……?」
 英美の心配には曖昧な微笑で答えておいた。
 さて通り魔の線で考えるとなると、大地にできそうなことはますます何もなさそうだった。通りすがりの狂信者を引っ捕らえて景子を殺したかどうか聞き出す、なんてことをやるほど命知らずでもない。
 それでも何もせずにはいられない。例え見当はずれなことをしているかもしれなくとも。大地は毎日聞き込みを続ける。
 草太は注意を呼びかけるだけでなく、大地が調べた事柄の内容をしきりに聞きたがった。大地も集めた材料を自分一人で分析するのは心許なかったので、その点だけは草太の協力を仰ぐことにした。
「……どうしても腑に落ちないのはその日なんで景子が夜遅く外に出て、わざわざあんな場所を通ったか、ってことだ。それも、制服を着て。いぶかしむ母親に景子は何も言わずに出て行ったらしい。――誰かに呼び出しを受けたと考えるのが自然じゃねーか?」
 言外に同意を求める。この線で考えなければ通り魔説を浮上させるしかなくなってしまう。
「問題は呼び出しの伝達方法。母親の証言では家の電話に景子あてのものはなかったそうだ。景子の携帯は今警察。パソコンのメールも……あー、頼んで見させてもらったけど、それらしいものはなかった。今のところお手上げだ。……ところが。母親の証言に一つ引っかかるものがある」
 大地が人差し指を立てると、草太が眉を寄せて続きを促す。

「差出人名のない手紙」

 大地はわずかに声をひそめた。
「……その日景子は学校から帰ってすぐ部屋に閉じこもり、夕飯も食べなかったらしい。母親は心配した。そんなとき娘あてに一通の手紙が届いていた。真っ白な封筒に差出人の名前はなく、あまりいい感じはしなかったが、それを持って娘の部屋にむかったそうだ。……出てきた景子は憔悴しきっていた。どう見ても泣いた後という感じだったらしい。その手紙を受け取って、朝まで出てこなかった――」
 今のところ他に手がかりはない。このことを突き詰めてみるしかない。
「……これまた部屋を探させてもらったけど、どこを探しても手紙はなかった。気になるだろ? その手紙を受け取った週のうちに景子は死んだんだ」
 ふうと一呼吸おいて草太を見ると、草太ははっきりと青ざめていた。
「草太……?」
 大地は怪訝にのぞき込む。草太は苦悶の表情だ。
「……大地、どうあっても警察に任せる気にはなれないのか?」
 大地は心の中で謝罪する。これほどに心配してくれる友人の意に添えないことを。
「……警察はあきらめがよすぎるからな」
 草太は固くまぶたを閉じた。
「……大地、私は卑怯な人間だ。守りたいものが多すぎる。どれか一つを選ばなければ何もかもなくしてしまうと知っていて――それでも、どれ一つ選び取ることができない。一つを守り抜くのに命を賭けることができないのだ……」
 憤りをこらえるように握られた拳は今にも血がにじみそうで。
「……命賭けるっておまえ、そーゆうこと言うなよ。『全力を尽くす』くらいにしとけ」
 草太が何のことを話しているのかよくわからなかったが、大地はその点だけは訂正せずにいられなかった。
 草太は反応を返さず、幽鬼のように立っている。大地はためらいながらも問いかけた。
「……もしかして何か知ってるのか?」
 草太の首は縦にも横にも動かなかった。

 情報の量は日に日に増えていく。取捨選択する気にもなれないほどどうでもよさげなものばかり。だがその中の何かが突然化けるかもしれないと、大地は懸命にかき集める。

 そして手がかりへとたどり着く。

 『ワイルド・パラサイト』――。
 事件の前後だけではなく被害者の人となりから洗い直すことにした大地は、何度かその名前を耳にした。主に景子と優希の両親からだ。
 最近はやりのオンラインゲームらしい。最初はただそれだけの認識だった。だがゲームの内容を知るやいなや、気にせずにはいられない名前となっていった。
 そうして景子のパソコンを起動して、頭の中で積み重なった予感が確信へとすり替わる。
 差出人の名前がない真っ白な封筒。プレイヤーであるKは、常に制服を身にまとっている。
 ――冗談のような話だ。これはただの偶然の一致だ。極めて奇妙ではあるが。
 しかし大地はうめかずにはいられない。

 松本優希は高田亜美を殺害した前日、真っ白な封筒を受け取っている。

「……考えたくねーが、その日景子は誰かを殺しに外に出たってことか? ……そして逆に殺された?」

 一体誰に。

 問題の封筒はどこを探しても見つからない。今は景子が燃やしたのだと知っている。それさえあればすべてがわかるというのに!
 犯人までの距離は一気に縮んだはずだったが、大地はすべてがふりだしにもどったような気がした。

 パソコンのキーボードをカチャカチャと鳴らす。
 こんな、たかがゲームで三人の死者が出た。知らないところで他にも人が殺されているかもしれない。
 幼なじみの命を奪った相手が憎い。こんなゲームに踊らされた二人に憤りを感じる。だが何よりも許せないのは封筒の送り主だ。
 その正体は誰なのか。景子と優希が『ワイルド・パラサイト』のプレイヤーだと知る人物。
 大地はぴたりと思考を止める。今何かとんでもない考えが頭をよぎったのだ。

 ――正体は同じクラスの人間の、しかも女か――

 だが生前の松本優希と親しかった者はいない。元々無口でほとんどしゃべらなかったと聞いている。ゲームの話をする相手などいないだろう。

 ――そうでなければ――、

 このゲーム自体、だ。

 回線を調べて身元を割り出し、ゲームの中とまったく同じな指令書を送りつける。やろうと思えば簡単なことだ。だが、目的は? とるにたらない女子高生を三人殺してメリットが生まれるなんて思えない。一体何が目的でこんなことを?

 まるで人と人との殺し合いを楽しむかのような。

 血が逆流する。そんな馬鹿なことがあるものか。そんな、人としての心の欠けた、そんな馬鹿なことがあってたまるものか!
 だが実際に人は死んでいる。
 事態は冗談のようで――冗談では、なかった。
「人間の所行の方が神の所行よりもよほど残酷で、よっぽどふざけてるのかもな……」

 大地は早速警察署に乗り込んだ。しかし取り合ってはもらえなかった。ならば、と新聞社に電話をかける。しかしまったく反応は同じだった。「ゲームが現実になって人を殺している」などと言い出す男子高校生を、哀れんだ眼差しで、あるいは馬鹿にしきった目で、はたまた怒りに満ちた瞳で見ておしまい。「もう来ないでね」、だ。
 だが大地は相手が態度を変えるのも時間の問題だと考えた。自分の推理が正しければ、ゲームを模した惨劇は全国各地で行われているはずだからだ。けれどこのままでは世間がそれに気づくまでの間にどれだけの人間が死ぬことか。その間、自分にできるようなことは。
 大地は首を横に振る。
 自分がただの高校生であることを忘れてはならない。正義の味方なんかじゃないのだ。身の程を知らなければ。それに、心配してくれる人もいる。
 とっさに静香の顔が思い浮かんだ。力があれば嘘をつくこともなく――人々を救えるのにと、泣いていた顔。
 そんなものはいらないのに。
 例えば心のこもった言葉。例えば素直な思いを映す瞳。それらすべてが自分の身を案じていたならば、それ以上のものなど他にない。真摯な想いというものは、これほどに人の心を溶かすものなのだ。
 他人の痛みを感じ、幸せを願う力。例え、助けることができなくても。神のおわさぬ社に救いを求める人々を、救えたらいいのにと願うこの心に、いつだってその光はあったに違いない。

 ――どうする?

 動くのか。見過ごすのか。
 猫はもう、拾ってしまった。

 「……『ワイルド・パラサイト』をしようと思う。そのうち封筒が届くかもしれない。それか、俺を殺しに他のプレイヤーが来るかもしれない。その間のことをずっと記録していく。……そうすればそれがきっと、後で警察のためになる。封筒が届けば話が早いが、狙われる側になった場合、相手を生け捕りにしなきゃならねー。あんまり自信がねーんだよな。……もしかしたら死ぬかもしれない」
 大地が言う。草太は言葉をなくす。
「あいつには絶対言うなよ」
 大地が片目を眇める。草太は表情も作れない。
「……馬鹿な。……何故大地がそこまでする必要がある。……命を捨てるようなものだ。まったく正気とは思えない。考えなしの愚行だ。犬死にする気なのかっ」
 段々と激しさを増していく口調に、大地は呆れて肩をすくめた。
「人が死ぬのを前提で話すなよ」
「死ぬに決まっている!」
 草太が大地をねめつける。
「何故だ。何故こんなことに……。いや、すべては時間の問題だ。だが――、どうあっても、選べというのか」
 こみ上げる感情を抑えられないというようにつぶやき続ける。大地はその肩にそっと触れた。
「草太? おまえこの前からおかしいぞ。何を知ってるってんだ?」
 草太はゆっくりと大地を見た。
「……大地、目的は……ゲームの正体を明るみに出すことだな?」
 大地は静かにうなずきを返す。今となっては景子の仇は『ワイルド・パラサイト』それ自体だ。
「……ならば待つことだ。遅かれ早かれいずれは終わる。そういうものだからだ」
 草太の双眸はまっすぐに大地へと向かっているが、どこかうつろな色を浮かべている。大地は口の端をつり上げる。
「その間に大勢が死ぬってわかってて何もするなって? すでに景子が死んでいるのに?」
 自分の心配をしてくれるのは嬉しい。だが見て見ぬふりをしろと言われるのは納得できない。今まで何度そうして悔いてきたか。
 草太の眉間にしわが寄る。
「これはゲームだ。遊びの一つにすぎない。ただ掛け金が命なのだ。……大地、どうあってもやめる気がないというのなら、絶対に襲ってきた他のプレイヤーを捕獲することだ。運が悪ければ早々に出会うだろう。そして決して一年以上続けてはならない」
 そのまま背中を向けて立ち去ろうとする肩を大地がつかむ。
「……全部話せよ。……もしかしておまえが……」
 草太は静かにまぶたを伏せた。
「……私の手が人を殺したことはない」


 D、A、I、C、H、I。『ワイルド・パラサイト』の世界にDAICHIが出現してから数日。DAICHIはひたすら虫を殺し続けた。それが黒幕を引きずり出すことにつながると信じて。
 一匹殺すごとに大地の胸が悪くなる。このゲームはまったく最悪だ。まるで現実と見まごわんばかりのリアリティー。はなから現実で凶行に及ぶことを想定して作ってある世界観。吐き気を抑えながら『虫』という名の人間をかっさばく。
 しかし封筒は未だ届かない。
 夜深くなると大地は必ず外を一人で出歩いた。いつ他のプレイヤーが襲ってきてもいいよう人気のないところを中心にぶらぶらと散歩する。
 もしかしたらすべては自分の考えすぎで、ゲームはただのゲームなのだろうかと思うときもある。そんなときは必ず草太のことを考えた。
 ヤツは何かを知っている。核心に迫る重要な何かを。
 そして静香のことを考える。静香はきっと何も知らない。彼女には『何も知らない』という言葉がよく似合う。信号を知らない、ハンバーガーを知らない、『外』のことを何も知らない。きっと『中』のことも何も知らない。
 知っているのは『救い』と『赦し』。
 最初は『知らない』から『知っている』のだと思った。だが現実を突きつけても彼女は揺らがなかった。数多の『知らない』を乗り越えていける『知っている』なのだ。
 ずっと知らないままでいてほしいとも、知っていて乗り越えて変わらずにいてほしいとも思う。できることなら自分が教えてやりたい、とも思う。

「……今日も心配、してんのかな」

 大地は蒼い月を仰ぐ。

 ある夜だった。
 街灯の下で見慣れた姿を発見し、大地は思わず眉をひそめた。
 英美だ。
 英美は少しうつむいて、所在なげに立っている。通り道という様子でもない。
 大地はとんとんと靴を鳴らし、暫時逡巡したが結局声をかけることにした。
「……襲われたいのか」
 英美は特に驚いた様子もなくぎこちない笑みを返してきた。大地はため息をついて言い直す。
「何してんだ?」
「……ちょっと、考え事かな」
 こんなところでするものじゃない。もう少し安全な場所を選べないのか。そう怒鳴りたくなったが、なんとか抑えてやり過ごす。
「死にたくなければさっさと帰れ」
 景子が死んだ場所がここから近い。
「じゃあ、大地君、悩み事聞いて?」
 英美はまるで小さな子どもが駄々をこねるような眼差しを向けてきた。大地はじろりとにらんだが、ちっとも怯む様子がない。ため息をつきながらうなずいた。
 英美はにこりと微笑んだかと思うと、ゆっくりとうつむいてか細い声を出す。
「……人間が、神様の言うことを聞かなきゃいけないのって、なんでなのかな?」
 大地は片目を眇める。はっきり言って聞かれても困る内容だ。しかしここで英美を怒らせるとどんな危険な場所へと入っていくかわかったものではない。大地は面倒そうに息を吐いた。
「……別に聞かなくてもいいのに勝手に聞いてんだろ」
 英美はうつむいたまま首を振る。
「嘘。だって、神様の教えには従わなきゃ。それが人の正しいあり方、だから……だと、思ってたんだけど」
「正しいねー……? 面倒なんだろ。考えんのが。だから天のカミサマの言う通りーってするんだろ?」
 英美は目を細めて唇をたゆませた。
「……大地君って面白いこと言うよね。じゃあ神様の言う通りにしたのに後悔するのって、自分が未熟だからじゃなくて……本当は、間違えたからなのかな? 最近ずっと思っちゃうの。私は神様の教えをお守りしたのにどうしてこんな気持ちにならなきゃいけないのーって」
 冗談めかして言う英美に、大地はなんとなく皮肉な気分になる。
「……可哀想なカミサマだな」
「え?」
「選ぶのを任せておいて、間違ったら責めるって、責任全部かつがせてねーか?」
 大地は元々『カミサマ』とやらが嫌いなのだ。そして神の言葉を盲目的に信じる人間の姿勢はもっと嫌いだ。神の存在を支えとし、日々の苦しみを耐えて生き抜く、というのならわかる。だがひれ伏して従属してべったりもたれて頼りきる、というのはまったくもって理解できない。
「だって神様が間違えるなんて――」
 英美が呆然とつぶやく。大地は面倒そうに首を傾ける。
「間違えないから、自分で考えるのをやめるのか?」
 それが正しいあり方だというのなら、脳味噌の代わりに豆腐を詰め込んだって一緒だろう。
「……そう、だね。じゃあ……全部全部私のせい、私の罪、なんだ。私が迷わずに『神様の言う通り』を選んだから……」
 英美の声に抑揚はない。大地はこれで話が終わったのだと思った。英美はしばらくうつむいて何も言わなかったが、やがて
「一番最初に大地君に相談してればよかった。……でもね、決めたよ?」
とつぶやくと、にっこりと笑って肩に提げていた鞄の中に手を入れた。
「はい、これ持ってね」
 取り出したアーミーナイフを大地の右手に握らせる。
「おい……っ?」
 大地は何がなんだかわからない。英美はますます微笑を深めた。
「私の命、大地君にあげる。大地君を殺したくないし、正体もわからない人に殺されたくないし、どうせ死ぬんだったら好きな人に殺されたいもんね♪ 大丈夫、絶対恨んだりしないから」
 そうして大地の右手を両手で覆い、ナイフを自らの胸へと導いた。
「よせ……っ」
 大地はすんでのところで手を払いのける。ナイフがかつんと地面に落ちる。混乱して呼吸の整わない大地の前で、英美がすっとそれを拾い上げた。
「ごめん。そうだよね、無抵抗の人間を殺すのって嫌だよね。わかった。じゃあ大地君、絶対死なないで早く私を殺してね?」
「な……っ」

 なんだ、これは一体なんなのだ。

 英美が腕を振り上げる。曇りのない刃が街の光を反射する。そしてそのまま、降り注ぐ――。
「やめろっ」
 大地は大声を張り上げたが、英美の意識に届かない。細い腕をさっとかわして向き合って、ふいをついてナイフの光る手首を捕らえる。英美は頭を突き出してきた。自分で喉笛をやぶる気だ。大地がすぐさま手を離すと、残念そうにこちらを見た。
 大地はただ、信じられない。英美の思考がまるで読めない。何度も会話を交わしたクラスメイトなのに。
 焦りが胸をかき乱す。再び英美が向かってくる。大地は足を踏み換えてそれをかわし、とっさに手刀をたたき落とした。
 やわらかな重みが腕に沈む。からんとナイフが地に落ちる。
 頭の中を何かが駆けめぐっている。これから一体どうすればいい。英美は何故、こんなことを。
 ひらめきのように降りてくるのは『ワイルド・パラサイト』の名前一つだ。しかし普段よく知るクラスメイトが、まさか自分にこんな――。亜美と優希のような理由もなく。
 だが景子もまた、『虫退治』をするため外に出たのだ。
 すっとよぎった考えを、力の限り否定する。まさかまさかまさかまさか――そんなことはない。
 大地は英美の体を地面に横たわらせると、そばに転がっていたナイフを拾い上げた。
 警察に行かなくてはならない。信じたくはないが、英美は指令書を受け取って、自分を殺す……いや、殺されるつもりだった。彼女の証言から『ワイルド・パラサイト』の正体を明らかにすることができるだろう。だが気分は晴れなかった。
 大地は手の中のアーミーナイフをぼんやりと見る。
 そのとき、背中を何かが打ち付けた。
 大地は瞬時に振り返る。そこには黒子のような男がいた。男の手には刃が光る。渾身の一撃が通らなかったことに動揺を隠せずにいるようだ。
 大地の制服には鉄の板が仕込んである。一つの社の名を背負い、様々な危険に出会ってきたゆえの対処が、今ほど役に立ったことはない。
 大地はポケットに手を突っ込み、防犯ベルのピンを抜き取った。耳をつんざく音が鳴り渡る。
 普段ならばこのまま一目散に逃げるのだが、今は気絶したままの英美がいる。それに目の前の男から少しでも意識をそらせばやられてしまいそうだった。
 男は目にもとまらぬ速さで突っ込んでくる。しかし心臓を破れないことを確かめた後だ、狙ってくるのは首だと簡単に予想がつく。大地はぎりぎりのところで攻撃を避けた。かまいたちのような音が耳をかすめる。
 早く。早く早く早く早く。
 聞きたいのはそんな音じゃない。パトカーだ。職務怠慢め!
 大地は自分の体が脱ぎ捨てられて意識だけが駆けめぐっているような感覚に陥る。雷のような一撃をどうやって避けているのか、自分でもわからない。きらりとした光に反射的に体が動く。息つく間もなく次が来る。
 ふいに男が動きを止めた。刃の柄を握り直し、音もなく体を進ませる――。
 大地は攻撃に備えて身構えた。しかし、男は大地をすり抜ける。その行く手には意識がないままの英美がいる。

「やめろ――っ!」

 大地は男の首に手刀を落とした。

 つもり、だったのだ。

 見たこともないような赤い色。真っ赤に。どこまでも、呪われた、ように。びちゃびちゃと音を立ててあふれ出す。
 男は無骨な指を押し当てたが、その勢いは止まることなく。やがて、ゆっくりと崩れ落ちた。
 大地はその光景を呆然と見つめていた。一面の赤。倒れてもう、動かない男。ゆっくりと首を横にずらす。英美は無事でいる。少しずつ視線を下ろしていく。
 自分の右手にはアーミーナイフが握られていた。
 あまりにも軽い音を立てて手からこぼれ落ちたそれは、はっきりと、血にぬれていて。指先からがたがたと震え出す。脳細胞がひんやりと一つずつ死んでいく。防犯ベルの音に心臓を引きちぎられてしまいそうで、振り切るように逃げ出した。


 夜が明ける。
 東の空から次第に世界が塗り替えられていくその様は、こんな時代にあっても変わらぬ神聖さを感じさせる。神はどこかにいるのやもしれない。自分たちを見守っているのやもしれない。そんな錯覚を起こさせる。
 海も山も川もとうに死に果てた。雑草一つ自然には芽吹かない。神の社の御前でさえ。大いなる自然の素晴らしき神秘は、矮小な人間の欲望で根こそぎ冒された。なのに人は何故、生きている。何故自らの手で殺めた神の名を呼ぶのか。

 何故――。


 草太は朝早く、学校へ行くためにビルを出て、すぐに物陰へと引きずり込まれた。
「何者……っ、……大地――?」
 背後から自分の首に腕を回す暴漢を仰ぎ見れば、それは他でもない、友人、大地だった。
 大地は憔悴しきった面持ちで、熱のかたまりを吐き出すようにして言った。
「……草太、俺、人を殺した」
 本当なのだと、微塵の疑いさえ抱けなかった。
「罪は認める。すぐに自首する。……でもその前に、あいつに会っていきたいんだ。会って何を言いたいのかはわからない。――けど、会いたくて、ここまで来た」
「大地……」
 草太は名を呼ぶ以外何も言えない。大地は力無く微笑んで、
「大丈夫。おまえの女に何もしねーよ」
おどけるようにそう言った。そこには目を背けたくなるような痛々しさだけが漂っている。
「……その言い方は誤解を招く。静香様は私のお仕えすべき御方であって、恋情を抱いたことは一度もない」
 事の次第を聞くこともできず、そんな言葉を返すしかない。
「……そう、か」
 大地の顔に表情が浮かばない。先ほどの微笑のように、無理矢理作らなければ筋肉を動かすことができないのだ。
 これは自分の罪だ――。草太は思う。一歩動けば一つ失うと知っていた。時が来ればすべて失うと知っていた。見えない猶予を永遠だと信じていたくて、何もしようとしなかった。
「……大地、おまえは私の唯一の友だ。……この命に賭けて、おまえを静香様の元へとつれていく」
「……ああ、『全力を尽くして』くれ」
 草太は自分の心が静まりかえっていくのを感じる。
「――いや、決めたのだ。今こそ選ぶと」
 すべてを守るのに命を賭けると、決めたのだ。例え、何もかなわずとも。
 草太は大地を伴い、正面から堂々と地の宮へと入っていった。

 静香の手から数冊の本がなだれ落ちた。鏡子は脇の小太刀に手をかけた。草太は静香に目礼すると、姉の前に歩み寄って膝をつく。
「姉上、退席願います。そしてこの私と話をしていただきたい。否、とおっしゃるなら、どうぞこの首斬り落とされますように。私はここから動きませぬ」
 鏡子は静香を一瞥する。そして大地をねめつける。
「――先日の忠告、覚えておろうな」
「……最後だ」
 大地はこぼすようにつぶやいた。
 鏡子はわずかに眉を寄せると、疎ましげな視線で草太を見た。
「応、と、申そう。静香様の御為。――しかしその首、覚悟はよかろうな?」
「……は。ありがとうございます」
 草太は深々と頭を下げる。
 静香は大地から目を離せずにいたが、端から聞こえる会話が極めて不穏だったため、思わず鏡子の袖をつかんだ。
「鏡子さん、姉弟喧嘩はやめて。大地様にお会いしたいのは私のわがままなんだから……っ」
 鏡子は悠然とした笑みを浮かべ、答えずに草太と出て行った。

 残された大地と静香は、しばらく見つめ合ったままでいた。互いに、何を言えばいいのかわからなくて。いざとなれば言葉は一つも出てこなくて。
 その空間を破ったのは大地だった。
「昨日、人一人、殺してきた」
 見開かれた目に口の端を歪め、両目を細めて微笑を作る。
「……案外簡単なもんだな。……人殺しって意外と面白いぞ。血がどばーっと噴き出すのが爽快で、凶器から伝わる感触が気持ちいい。簡単すぎて罪悪感なんて感じないしな。捕まる前にもう数人殺しておくのもいいかなと思うくらいだ」
 顎を震わせながら、肩を揺らしながら。ゆっくりとまぶたを伏せていく大地の顔を、静香の両手が包み込む。
「どうしてそんな嘘を言うの?」
 大地はかさついた唇をそっと開いた。
「……嘘じゃねぇ。本当に殺した」
 静香はこくりとうなずき、強く、しっかりと目を合わせる。
「……うん。それは、嘘じゃない。……でもその後のはみんな嘘」
 こんなに強い静香の顔は初めて見る――。
 大地は思った。何もかも見透かされるような目だ。先日泣いていたのと同じ少女だとは思えない。
「……嘘じゃ、ねぇ」
 居心地が悪くて目をそらす。手を振り払うこともできなくて。静香はまっすぐに見つめたまま、大地のいらえを待っている。大地はとても耐えきれずに、ぐっと瞑目してから静香をにらんだ。
 視線がぶつかり合う。どちらも目をそらさない。しかし大地の右目はぶるぶると震え、徐々にまぶたの間が狭まってくる。大地は無理に口の端をつり上げると、両手で静香の首を覆った。
 白くて細い首。少し力を入れたらあっという間に息の根が絶えそうな。
 大地はゆるゆると力を込めた。頬に触れている静香の指が震え出す。細い眉がきゅっと寄り、桜色の唇が小刻みにわなないた。
 それでも――変わらぬ瞳で、見つめている。
 大地は両手を離してぐっと握る。顔を背けて細い指から逃れ、眉間に拳を押し当てうつむいた。
「……悪かった。怒らせようと、思ったんだ」
 人を殺したというのがどういうことか。それを知っても、変わらずにいるかを試したのだ――。

「――赦します」

 静香ははっきりと言った。
「心から悔いている、責めている、あなたの心を赦します。あなたの罪が赦されずとも、あなたの心を赦します。――いいえ、私の心がすでに赦しています」
 真っ白だった首にはうっすらと赤いまだらができている。
「……本気で言ってんのか?」
 大地は聞かずにいられない。静香はうなずきもせず、そらさない瞳で肯定した。
 まるで二人の間に一本の道が通ったかのように。すんなりと心に心が流れ込む。
 大地はくしゃりと顔を歪め、ゆっくりと片手で目元を覆い隠す。たぶん自分は、泣きたいのだ。しかし口元は勝手にゆるんできてしまう。

「……きっと俺は――おまえにそう言ってほしくて会いに来た……」

 これほど不格好な微笑を浮かべたのは初めてだろうと大地は思った。

 途切れ途切れの言葉で事の次第を語るうち、一つ一つ何かが解き放たれていく感じがする。静香が口を挟まないのをいいことに、するすると言葉が紡がれる。
 大地はやわらかく微笑んだ。
「なぁ、きっと……神にすがるのは、神を恨むのは、こんなときなんだろう。運命の悪戯としか表現できない偶然に、ずったずたにもてあそばれて。脳味噌をゴミ箱に投げ捨てて豆腐を祭り上げたい気分になる。……逃げ出したくてたまらない。現に俺はここに逃げてきた」
 静香はじっと聞き入っている。
「自首はするつもりだったんだ。……ちゃんと償おうと思ってる。どんな偶然だろうと、確かに俺のしたことで。……俺の、罪だ。当然だ。ずっと背負っていくんだろう。けど……」
 朝を迎えるまで繰り返しそう考えていた。しかし、冷静を取り戻したと思っていた心が、実はひどく荒んでいたと。今ならわかる。
「おまえに赦されたことで――救われた、気がするんだ」
 今なら――ただ穏やかに。何もかもを受け止めていけるだろう。
「……忘れないでほしい。人の心がすごく弱くて、簡単に揺るがされて打ちのめされて。心一つで救われること。……おまえが、俺を、救ったこと。たぶん二度と会えねーけど、俺がおまえを忘れられないように、おまえも俺を、忘れないでほしい」
 それは、たった一つの願い。
 自分のいない世界でどれほどの時がたとうとも。何があろうと、どんな目に遭おうとも。
 それだけは。
「……忘れられ、ません。私だって、救われたから。『救い』を、強く強く信じられるようになったのは、……大地、の、おかげだから」
 静香の表情がふにゃりとゆるんだ。泣いていいのか笑っていいのかわからないといった様子だ。
 大地はこみ上げる衝動を、とてもこらえていられなかった。
「……静香」
 顎をとらえて口付ける。食むように、唇を愛でる。かすかな吐息も逃さぬように。すべてを分かち合うように。甘やかな熱が生まれていく。何度も息を交わし合って。何度も想いを送り込んで。
 名残惜しげに離れると、静香は焦点の合わない瞳をぱちぱちと瞬かせた。
「な、何を……っ」
 真っ赤な顔で。潤んだ瞳でにらみつける。口をはくはくと動かして、とても言葉が出てこないといった感じだ。
「……あー、草太の女じゃねーんならさっさと色々しとけばよかった」
 大地は天井を見上げて言った。静香の方を見つめ直すと、悪戯好きの子どものような笑みを浮かべる。
「……にしても、やっと怒ったな。一番最初のとき以来、おまえには俺の方が怒らされてばかりいたからな。……嫌だったなら、殴っていい」
 かと思ったら神妙な面持ちになり、静香の胸はいつまでたっても落ち着けない。
「あ、あれは……っ、大地様が私にだけ意地悪してると思ったからっ、緊張もしてたし……っ! 私だって怒るときは怒りますっ。……でも、あの後すぐに私が悪かったって思ったし、大地様は言葉が不器用なだけってわかったから……」
 静香は自分で自分が何を言っているのかわからなくなった。
 最初はずっとへの字口でほとんど表情も変わらないような。変わっても怒るとか呆れるとか面倒そうにするとか、そんな顔ばかりだったくせに。
 卑怯だ。
 こんなのは――こんなに鮮やかな姿を見せてくれるのは――卑怯だ。

 嫌なんかじゃ、絶対なかった。

 大地は再び静香の顎をとらえる。
「……『大地』」
 そう呼べと、いうのだろう。
 静香は唇をぎこちなく動かしたが、声は出てこなかった。大地の顔が近づいてくる。真っ黒な瞳には自分だけが映っている。目を離すことができない。吸い込まれてしまう。
「だ、い、ち……」
 唇が、重なった。
 この時間ははかなく短い。今度こそ、二度とは会えない人だから。少しでも多くのことを伝えるために。忘れないようにと。微笑んでいても泣きそうになる心を癒すように――。
 静香は大地の肩にすがりつく。大地は静香の髪に指を入れる。
 己の鼓動も聞こえない。互いの瞳以外何も見えない。

 二人は気づかない。部屋の障子が動いたことに。

「――間男め」

 そして一発の銃声が響く。
続く。
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