『天地神明』

第四章 選択


 松本優希は目立たない少女だった。
 ドライヤーもあてないぼさぼさの髪を腰まで伸ばし、学校指定の色を守ったゴムで一つにしている。制服のスカート丈が膝から上にあったことは一度もない。授業中に化粧直しをする女子生徒も多い中、眉を整えることさえしていない。手入れの届いていない肌や光沢がなく色も悪い爪。
 クラスの女子はしきりに彼女を嘲ったが、積極的に関わろうとすることは特になかった。
 彼女自身も人と接するのを避けており、友人らしき相手は一人もいない。休み時間の間も席に座り、指を黒くしてずっと何かを書いていた。
 そのまま誰と話すこともなければ、彼女の望む冷たい平穏は保たれていたのかもしれない。しかし『学校』はそれを許してくれるような場所ではなかった。
 きっかけは些細なことだったといえる。
 ある放課後の掃除の時間、教室掃除に割り当てられていた彼女はいつものように黒板消しを手にし、チョークの粉を払っていた。
 彼女は教室を掃除する際必ず黒板にあたることにしていた。黒板磨きは一人でたりる。始まってすぐに取りかかれば誰と話すこともない。周囲も話しかけるのが嫌なのか、文句を言うような人間は一人もいなかった。

 その日までは。

「ねぇ、あなたいつも黒板やってない? 机運んだことある? なんで勝手に自分の仕事決めてるの?」

 高田亜美。気がつけばいつもクラスの真ん中にいる少女。傲慢と言ってもいいほど思ったことをはっきりと言い、感情の赴くまま行動する彼女を、優希は意図的に避けてきていた。
 そして人を避けるということは、優希にとっては貝のように口を閉ざすことだったのである。

「……いつまで黙っているつもり? 私と話す気がないってこと? 自分で自分の態度が悪いと思わない?」

 次第に眉をつり上げていく亜美に対し、優希はただただ嵐が通り過ぎるのを待った。

「……そう。……ねぇ、私、前からあなたのこと気になってたのよ。あなた友達いないでしょ? ……私がなってあげる。そういう態度がいかに人をいらだたせるかってこと、教えてあげる」

 次の日から優希が一人でいることはなくなった。彼女のそばには常に亜美がいて、クスクス喉を鳴らして笑っていた。
 見えない場所に増えるあざ。爪には時に血がにじみ、授業で指された時さえろくに言葉を言えなくなった。

「なぁに? どうして泣くの? 優希。私はあなたを可愛がってるじゃない。本当に可愛い。馬鹿な子。私が色々教えてあげなきゃ何もできないんだから……」

 クスクス……クスクス……

 亜美が笑う。亜美の周りのみんなが笑う。さざめきがなでるように首を絞める。
 学校に来なければ家にやってきてしまう。両親には言えない。先生は気づかない。

 悪魔よ去れ。

 ――神よ。お助けください。私が何をしたというのですか。信心深く毎日祈りを捧げて参りました。あなたを疑う気持ちなど微塵もないというのに。
 ――神よ。お教えください。人を憎んではならぬとあなたは言われた。私は人としての尊厳を傷つけられてなお、耐えがたきを耐え続けなければならないのですか。……どこまですればあなたのお心にかなうのか――。神よ――。

 私の祈りは届かない。

 それでも優希は神に祈る。


 景子は朝から何度も優希と話そうとして、未だ果たせずにいた。
 優希が一人になった――と思ったら亜美が来て、亜美がいなくなった――と思っても亜美のお取り巻きが囲んでいる。そんなものを恐れていてはいつまでたっても何もできない。そう思ってもいざとなると踏み出せない。
 景子は人壁の向こうの優希をじっと見つめた。その横には亜美がいて、またも薄ら笑いを浮かべている。
 景子は昨日の少女の言葉を思い返した。
 他人の痛みを感じ、幸せを願う力。それに従い行動すること。

 ……迷いたくない。

 ポケットの中のカッターナイフをスカートごしに握りしめる。身を守るためのお守りは強くなるためのお守りへと変わっていた。
 「景子? どうしたの? 今日変だよ」
 英美が心配そうに見つめてくる。景子は曖昧な笑みで答えた。
 クラスの女子に横行するいじめを英美はどう思っているのか、聞いたことがない。自分が意図的にその話題を避けていたこともある。しかし英美の方も少しも触れようとしなかったので、やはり『見て見ぬふりが一番いい』と思っているのだろう。
 止められたくはなかった。

 景子はとまどう英美をおいて、やおら優希の方へと歩き出した。昼休みの喧噪にかき消されていた声が届き出す。
「……隠さなくてもいいじゃない。優希ったら、草太君のことが好きだったのね? ……そうでしょ? 気がついたら見てるものねぇ。……ふぅん、よりによって、草太君?」
 人壁が笑声を響かせる。震えてうつむく優希の顔を、亜美が無理矢理上げさせる。
「優希は健気で可愛いわあ。叶わない想いを胸に抱き続けるなんて、ホント、可愛い。……見ているだけでいいとか、思ってるんでしょう……?」
 景子はその後の展開がすぐに予想できた。
「いいわ。私が一肌脱いであげようじゃない。大丈夫よ、優希。これで小さな期待に夢を見続ける残酷な日々が終わるんだから」
 亜美は優希の恋心をみんなの前で草太に暴露するつもりなのだ。
 「た、高田さんっ」
 渇いた喉の粘ついた唾液を振り切って。景子は壁の向こうへ声を投げた。
「……何? 何か用?」
 亜美は余裕の表情だ。まさか自分が注意されようとは思ってもいないのかもしれない。
 景子はゆっくり深呼吸したが、胸は浅くしか上下しなかった。
「……い、いいかげんに、松本さんをいじめるのはやめたら……っ」
 取り巻き連中の視線が集まる。針のように、痛い。
 亜美は顔の右側だけがひきつったような笑みを浮かべた。
「……いじめる? 私が? 優希を? 馬鹿なこと言わないでよ。私と優希は友達よ?」
 その目には景子のことなどものともしない光があって、景子は負けじと声を荒げた。
「そ、そんなの女子には通用しないわよっ! 昨日っ、トイレで何してたのっ! 松本さん泣いてたでしょっ?」
「ふぅん……。……ねぇ、あなた優希と話したこと一度だってある? この子のこと何も知らないでしょう? この子ねぇ、当然のことを知らないの。特に人への配慮ってものが全然なの。だから私が教えてあげなきゃいけないの。友達だもの。あなたは何の権利があって私たちのことに口を出すの?」
 景子はぐっと言葉に詰まる。
「そ、そんなの……っ」
 否定する気持ちはいくらでもあるのに綺麗に並んで出てくれない。突破口を求めて優希を見る。優希は下を向いていて、どんな顔をしているのかまったく読みとることができなかった。
「私たちの友情に首をつっこまないで? 今までのように大人しくしていればいいじゃない。……ねぇ? 私のことを悪く言うけど、自分の保身はちゃんと用意できてるの?」

 今まで黙って見ていたくせに。

 景子の唇がわななく。そんなこと言われなくたってわかってる。だが。
 景子が押し黙ったのを見ると、亜美は教室いっぱいに高い声を響かせた。

「草太くーん、ちょっと聞いてほしい話があるのー」

 「はい、なんでしょうか」と草太が近づく。景子の呆然とした瞳に優希の座る机がカタカタと揺れているのが映る。景子がはっとした瞬間、亜美はとびきりの猫なで声を出して言った。
「あのね草太君、……恥ずかしがり屋の優希の代わりに私が言ってあげるんだけど、……優希、草太君のことが好きなの。草太君は優希のことどう思ってる? 返事、聞かせてあげて?」
 教室のあちこちから「我妻モテモテー」、「すげぇな我妻、松本なんかもトリコにしたのかよ」などといった声がわき上がる。
 当の草太は至って真摯な表情で、深々と腰を折り曲げた。
「申し訳ありません。……私には……想うひとがおります。……ですが、このような私を想ってくださり、ありがとう、ございます……」
 冷やかしがピタリと止まる。亜美がぽつりと口にした。
「……草太君、好きな人、いたの……?」
 草太は眉をひそめた。
「……はい」
 まぶたを伏せ、そっと開いてためらいがちに言葉を紡ぐ。
「……絶対にかなうことのない想いです。ですが私は……生涯この想いにとらわれて生きていく。ですから、どなたのお気持ちにも応えることはできません。私のことは忘れていただきたい。きっと他に素晴らしい方が待っておりますから」
 声はわずかにかすれている。そこには恋の切なさよりも、苦痛に耐えるような響きがあった。
 亜美はさっと青くなり、「そう、優希は悲しいだろうけど仕方ないわね」とだけ言って大股に離れていった。

 景子はなんとなく草太を見つめる。
 馬鹿丁寧な口調を扱う浮世離れした雰囲気の主。甘くて計算のない態度はどんな女性だってお望み次第。といった感じなのに、どれだけつらい恋をしているというのか。
 草太はまるで雨に打たれたかのように頭を垂れている。
 大地がそれをむんずとつかみ、ドリブルのごとく振り下ろした。
「……今時聖職者だからって結婚できないってことはないんじゃねーか?」
「……? 何の話だ?」
 草太は不快そうに首を傾げる。大地は呆れてため息をつく。
「『静香』の話」
「……静香様の? ああ、昨日の礼はどれだけしてもたりない。いくらでも言おう。本当にありがとう、大地」
「……そうじゃねー」
「昨夜の静香様は非常なお喜びようで、何度も同じ話をせずにおられないご様子だった。大地のことも手放しの礼賛ぶりだ。うっかりと姉にまで語りかねない状態だったが……、……私はとても嬉しかった。ありがとう」
「……だからそうじゃ……」
 聞こえてくる会話。景子は教室の床が糸で編まれているような感覚に陥る。
 『静香』とはおそらくあの少女のことだ。あの子も随分と浮世離れしていたけれど――大地にとっては、『静香』なのだ。
 それだけで心臓をつかまれた気分になるなんてどうかしている。大地はただの幼なじみなのに。

 昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る。亜美も自分の席へと戻っていく。優希は相変わらずうつむいていたが、失恋のショックは計り知れないに違いなかった。
 景子は心の中で深く詫び、次こそは守ってあげたいと思っていた。

 大地は席に戻る途中、机や椅子がうるさく騒ぐ中で、聞こえるか聞こえないかくらいの声を出した。
「――松本」
「……松本さんが何か?」
 草太が耳ざとく聞き返す。
「……いや、普通代理の告白を昼休みの教室なんかでやるか? 見せもんだぞ? あいつ――いじめにあってんじゃねーのか?」
 大地は努めて声を落とす。名誉に関わることだ。軽くしていい話じゃない。
「……高田さんが加害者だと? ……しかし彼女は明るい方だ。私のような者にも親しみをもって名前で呼んでくださる。……それに女性がそのような……」
「『女は怖い』って聞かないか? まぁ……少し気になっただけだ」
 昨日の景子がした『関わり合いになりたくない』話が思い出されて。
 大地は優希を一瞥し、考え過ぎか? と首を振った。

 授業が終わってさっさと帰ろうとする大地を、景子は何故か呼び止めていた。
「あっ、えっ、あのっ、ね、猫っ! 猫どうなったっ? 気になってたんだよね!」
 とっさに引き出した話題は言いたかったこととは少しずれているような気もしたが、本当は何を言いたかったのかなんてわかるはずもなかった。
 大地は面倒そうに片目を眇める。
「……今のところ生きてる」
「そっか! よかったね。……それにしても珍しいよね。捨て猫なんてさ」
 動物を買うなんてよほどのお金持ちじゃないとできない。野良なんて見たことがない。
「……どっかの大金持ち没落。周囲にペット飼うなんつー道楽やるアホがいなかった。夕飯のおかずになるところを子どもが必死の思いで逃がした? 俺の想像力じゃ他に思いつかねー。ドームの中に捨てりゃあ夜には撤去される。……苦渋の選択だったのかもな」
 大地の推論に景子も想像力を働かせてみたが、どっこいどっこいのレベルだった。
「そうだね。それにしても『外』に捨てられてよく生きてたよね」
 人間がガスマスクなしに外を歩けば一分もしないうちに死んでしまうというのに。
 その点については大地も不思議に思っていた。
 おぼろげな記憶によると、猫は一匹では生まれない。しかし箱の中には一匹しかいなかった。一匹だけ捨てられたとしても、『外』に出てからそれなりの時間がたっていたはずだ。
 昨夜も今朝もちゃんとミルクを飲んでいた。帰ったら死んでいるなんてこともないだろう。最初は家に着くまでもたないだろうと思っていたのだが。

「人間なんかよりクローン動物の方がよっぽど強いのかもね」

 景子のつぶやきにはっとした。
 静香のことが脳裏によぎる。
 普通の装備で外に出られない。普通のものを食べることができない。彼女は異質だ。だがはるかな昔、彼女こそが『普通』だったのかもしれない。
 鳥は落ち、魚は浮き、獣は果て――今地球に生きる動物は食用のために作り出された人工物だ。様々に手を加えられ、きっと本来のものとは異なっている。
 ならば――普通の装備で外出し、普通のものを食べることのできる自分たちは――? 本当に『普通』と言えるのか? もしや、知らぬ間に――『人ならぬもの』になっているのではないのか――?

 考えてはいけない。

 自分は人間だ。他の何だというのか。飛躍しすぎだ。
 大地は目眩に耐え続けた。

 「大地?」
 景子は急に固まってしまった大地を怪訝に見やった。
「あー……?」
 大地はなんだか重たそうに頭を傾ける。景子は心配になって、明るい声音で明るい質問を投げかけた。
「猫の名前、何にしたの?」
 途端、大地が思いきり顔をしかめる。景子は思わぬ反応にびっくりした。
 大地ははあと息をつくと、仕方がないという素振りで言った。
「……『ポチ』」
「……嘘でしょ?」
 景子は白い目を向ける。
「何? 言えないような名前? すっごい気になる!」
 らんらんと目を輝かせて腕をつかむと、大地はうめくような声を出した。
「……一応抵抗はした。けどあいつが……」
 『あいつが……』
 『静香』だ。『静香』のことだ。
 景子は自分の顔が張りつめていくのがわかった。

 大地はただの幼なじみだ。

 まるで言い聞かせるようにそう思う。しかし景子は聞きたくてたまらない。

『その子のこと、好きなの――?』

 自分よりも大地の近くにいるの――?

 聞いたら教えてくれる? そのくらいは心を許してくれてる? でも聞きたくなんかない。どんな言葉が返ってきたって、大地の口から他の子のことなんか聞きたくない。

 ――好きなんだ。

 景子は今はっきりと自覚した。

 好きになっちゃったんだ、大地のこと。

 意識すると顔を見ていられなくなった。
「も、もういい。大地が言いたくないなら、別に」
 紅潮する頬を悟られないよう深くうつむく。大地は眉間に指を置くと、小さくうなずいて景子を見た。
「ああ。……じゃあな」
 あっさりと告げられた別れの言葉に心臓の血が滞る。今までは平気だったのに。これから毎日こういった思いをするのだ。――なんてつらいんだろうと景子は思った。

 左手で右肩の布をつかみ、腕で胸を押さえるようにして机の上の鞄に向き直る。背後から声をかけられた。
「……帰ろっか」
 英美が浮かない顔で立っている。いつもはやっと解放されたとばかりに嬉しそうな顔で帰るのに、一体何があったのだろうと景子は聞かずにいられない。
 英美は言いにくそうに眉を寄せたが、おずおずと目を合わせて口にした。
「……あのね、……景子、松本さんと何かあったの?」
「え……何も、ないけど」
 景子の胸が見えない何かで圧迫される。
「じゃあ……どうして昼休み、あんなことしたの? これからは景子も亜美ににらまれるよ? いじめにあわなくたって、班分けのときとか……どうするの?」
 英美は視線をそらさない。
「……景子がにらまれたら私だってにらまれちゃうよ」
 景子は喉の奥に粘土を詰め込まれたような気がした。
 悲しみ? 憤り? 罪悪感? ……後悔?
 胸のざわめきがせり上がってくるのに出口がない。英美の眼差しが自分を責めているようで、息をするのもおぼつかない。

 「あの……」

 金縛りを破ったのは意外な人物の声だった。英美も目を丸くしてそちらを見る。
 松本優希が、景子に話しかけようとしていた。
「……話したいことが、あって。……ついてきて……くれる?」
 そんなはずはないのだが、初めて彼女の声を聞いたように思える。うつむいた顔に心持ち上目づかいな瞳。腹の前で重ねられた手。声は空気にも溶けそうだ。何もかも、ためらいがちな。
 行かなければと景子は思う。同時に、英美の前にいたくなかった。
 何も言わなくても景子がついていこうとするのがわかったのか、英美は「じゃあ私先に帰るね」と、あっさりと教室を出て行った。
 景子はどこかほっとした自分を複雑に感じながら、鞄を持って優希の後をついていった。

 廊下を通る間、優希は一言も発さない。元々無口な人なのだ、仕方がないと思いつつ、景子は居心地が悪くてたまらない。
 話はおそらくいじめについての相談だろう。いくらでも聞いてやろうと思っている。自分の他に言える相手はいないだろうから。――昨日までの彼女を思うと胸が痛んだ。
 下校する生徒の流れが少しずつとぎれていく。交わし合う別れの挨拶が遠くなる。机を運ぶ音、ぞうきんを絞る音、ほうきを掃く音の中を通り抜ける。
 景子は妙な違和感を感じた。何かがおかしいような。それが何かはわからないが。
 女子トイレの前を通ったとき、その違和感は倍増した。
 次第に人気のないところへと進んでいく優希。それはいいのだ。いじめに関する相談事など人のいるところではできやしない。それよりも。
 何故今優希は――一人なのだ?

 たどり着いた先はほとんど使われていない倉庫だった。扉に近づこうとする優希に、景子はためらいながらも問いかけた。
「あのさ……高田さんとか、みんなは? 今日は大丈夫なの?」
 優希はくるりと振り返り、顔中の筋肉を弛緩させた。
「……亜美は我妻君のことが好きだったの。今日……私を通して亜美も失恋したから。それをみんなには知られたくなかったの」
 初耳だ。しかし質問の答にはなっていない。景子が怪訝な顔をすると、優希は長い髪を払いのけてゆらりと景子に笑顔を向ける。
「……今日はどうして、止めようとしてくれたの……?」
 景子はなんだか恥ずかしくなった。
「うん……でも止められなかった。ごめんね。……いつも、助けてあげたいとは思ってたんだ。だけど勇気がなくて……あたしも高田さんのこと、怖かったから。ごめん。でもこれからは、あたし絶対力になる! 約束するからっ!」
 青春ドラマみたいな台詞。だが嘘偽りのない気持ちである。
 初めて見た優希の笑顔ははかなげで、庇護欲というやつをかき立てられる。そういう意味では亜美の『可愛い』発言にも納得できた。きっと友達になれるだろう。
 優希はうつむいて倉庫の外壁に手をついた。
「……亜美が私に何をしてきたか、知ってる……?」
 景子には答えられなかった。見たくないと願ってきたから、具体的に優希が何をされてきたかは知らないのだ。
 優希はぽつり、ぽつりと話し出す。
「……朝来たら上靴が水浸しで……授業中には後ろの席の子が首にシャーペンの芯を突き刺すの。……休み時間には『綺麗にしてあげる』とか言って、蛍光マーカーで顔に落書きされる。……トイレに行ったら上から物を投げ込まれる。戻ってきたら教科書もノートも筆箱も、鞄も全部なくなってる。昼休みにはお弁当を捨てられて、『これを食べろ』ってぞうきんに顔を押しつけられたこともある。……放課後は勝手に帰ることができないの。掃除が終わるまでずっと待ってて……女子トイレの掃除で亜美と一緒になったときはまるで地獄のようだった」
 景子は声をなくす。もっと早く助けてやればよかった。助けなければいけなかった。
「……掃除が終わるといつもこの倉庫につれてこられた。殴られたり蹴られたり、ハサミやカッターでいたぶられたり。……亜美はずっと笑ってる。『友達だから可愛がってる』、『色んなことを教えてる』、……『優希の友達になろうとする人なんて私くらいよ』、『優希はみんなに嫌われてるの』。『先生だって、気づいていないんじゃない、気づかないふりをしているだけよ』……亜美はずっと、笑ってるの」
「そんな……っ、そんなの嘘! あたしが友達になるよっ! これからはあたしがいるからっ!」
 景子はそう言わずにはいられなかった。聞いているだけでもつらいのに、優希は涙を流さない。もはや枯れ果ててしまったかのように。
「……中に閉じこめられたこともある。やっと帰れると思ったらガスマスクが切り刻まれてて……保健室で借りさせてもらって、理由を聞かれても答えられなくて……。いじめられてるって、親にも言えなくて……。神に祈りを捧げる度、私は救いに値しない人間なのかもしれないと……何度も疑心を抱いてしまいそうになって、ますますそう思わずにいられなくて……」
「もういい! もういいよっ! つらかったねっ……苦しかったねっ」
 景子は優希を抱きしめた。優希はうつむいたまま、景子の腕を強くつかんだ。
「……つらかった。……苦しかった。……ねぇ、……本当にわかってる……?」
 見た目からは考えられないほどの力が景子の腕を締めつける。
「……私がどんな日々を過ごしてきたか。わかってそう、言ってるの……?」
 血が止まる。腕がちぎれそうだ。うめきをもらせば力はますます強くなる。
 優希はなで上げるような笑声をもらした。
「……私は何度も助けを求めたのに。……がむしゃらに泣きわめいて訴えたのに。どうして今になって? ……気づかないふりをするのに飽きたの……? それとも今度は気まぐれな救いで優越感を楽しむつもりなの……?」
「違うっ! あたしはっ、友達に……っ」
 景子は優希の指を振りほどこうともがくが、まるで枷のように外れない。耳に届く言葉は茨となり、鋭い棘で突き破る。
「『友達』に……?」
 やっと解放された。
「……そう。友達に、なりたいの」
 しっかりと心を伝えようと、優希の瞳をまっすぐ見据える。優希は緩やかな笑みを浮かべた。
「……聞いて。私は救いに値しない人間ではなかった。……昨日やっと、神は救いを差し伸べてくださった。……悪魔を倒す許しを……くださったの。ねぇ……見て」
 倉庫の引き戸が開け放たれる。
 その中は、赤く、染まっていた。
 床に走るいくつもの線。中心でじわじわと領域を広げる呪われた沼。そこに沈む壊れたマリオネットのその顔は――亜美。

「……亜美が悪魔でよかった。悪魔は打ち倒されるものだもの」

 これは夢だ。景子はまばたきもできない。早く目を覚ましたいのに。
 優希は声を立てずに笑う。
「……神よ、私にもう一度力を与えてください。この悪魔を地獄へ帰すための力を――。私はもう、けして疑いを抱かない」
 亜美の躯からナイフを抜き取り、ゆっくりと景子に向けてくる。
 正気じゃない。――何故。
 景子は声が出なかった。体に力が入らない。この浮遊感。絶対に夢だと思うのに!
 曇りのないナイフがぎらりとした光を放つ。一歩、また一歩と近づいてくる。景子はよろけた拍子に後ずさり、太股に固い感触を得て覚醒した。
「よ、寄らないで……っ!」
 キリ、キリ、と、刃を伸ばす。身を守るための、強くなるための武器。ただの文房具だが、Kはいつだってこれで立ち向かい、生き延びてきた。
 優希の頬がかすかに引きつる。
「ああ……やっぱり……あなたもそれで私を刺す。亜美の代わりに。『友達』として。でも今はもう……私には神の許しがある」
 し損じることはありえないとでもいうように、優希は一歩一歩踏みしめて近づいてくる。そのまま景子の胸へとたどり着くのが、理だといわんばかりに。
 そのとき景子は初めて防犯ベルのことを思い出した。ポケットに入れっぱなしだ。さっき手を入れたとき指に当たったと思う。しかし。景子はカッターを握る手にぐっと力を込めた。優希の瞳に迷いがないからだろうか? 大地のように身を守る技を持たないからだろうか? それこそが生き延びる術のように思えたのだ。
「それ以上近づかないで。あたし人間だから。やられるばっかじゃないんだからね」
 優希はきょとんとした顔をして、一気に景子の前へと踏み込んできた。
「いや……っ」
 景子の肩が打ち付けられる。押さえつけてくる力にあらがうと、鋭い刃が首をかすめた。

 本気で殺すつもりだ。そして亜美のようになるのだ。

 どうして自分が? 何もしていない。優希を助けようとしただけなのに。
 こんなことで。『悪魔』なんて呼ばれて。狂気にとりつかれた相手に殺されてたまるものか――っ!

 景子は渾身の力を込めて右手を引いた。

 ざくり、と。

 感触が音となって耳を打つ。生ぬるいものが降りかかる。優希が眦が切れそうなほど目を見開く。
 景子は優希の体を押しのけて、一目散に走り出した。

 人を傷つけた。
 自分の意志で。確かに刺した。殺してしまったかもしれない。
 だって、殺されたくなかった!

 手から凶器がこぼれ落ちる。景子は慌てて拾い上げ、床に付着した血をティッシュでごしごしと擦り取った。顔にかかった血も拭い取って。カッターも綺麗にしてキリキリと刃を収め、何もかもをポケットの中にしまい込む。中指の先に防犯ベルがカツンと触れた。

 どうしてこっちを選ばなかった? どうしてすぐに走って逃げなかった? ゲームとは違うのに。立ち向かったからって何が得られるわけじゃない。

 人を切った、感触。

 悪魔に肌をなぞられたような寒気が全身を襲う。息の根が止まりそうなほど震えながら、おくびにも出さないよう拳を握る。誰とも目を合わさぬように、何食わぬ顔でゆっくりと歩いていく。

 景子は自分で自分が信じられなかった。
続く。
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