『天地神明』

第二章 ゲーム


 武器は一本のカッターナイフ。防具はブレザーの制服と、学校指定、白のハイッソクスに革の靴。伝説の鎧も防弾チョッキさえもなく。鞄の中にはセロハンテープ。いざというとき相手の動きを封じるのに使えるかもしれないから。ただしまだ一度も試してみたことはない。
 絶対に必要なのは獲物の行動と監視カメラの位置を把握すること。人通りの多い場所には必ずカメラが仕掛けてある。警察に捕まったら一巻の終わり。獲物がカメラのない場所を通る時間帯をチェックしておかねばならない。
 あとは、返り討ちにあわないことが何より大事。
 そして期限は――一週間。


 殺しますか? 殺されますか?


 敵は『ワイルド・パラサイト』。地球に巣くう害虫ども。


 Kは自分の状態を正確に把握し終えると、前方から向かってくる獲物の顔を確かめた。司令書は指示通りに燃やしてしまったが、写真の顔ははっきりと覚えている。何せ間違えれば人間を殺してしまうことになるのだ。嫌でも覚えるというものだ。
 獲物はヒールの音を響かせて小さめの歩幅で向かってくる。スリットの浅いタイトスカートをはいているため、それ以上は足を開けないのだろう。動きを封じるのは簡単そうだ。
 問題は監視カメラだが、おそらくここにはないと思う。先日調べたときには上を見ても下を見てもそれらしきものはなかったし、小型カメラが設置されるほど人通りのある通りではない。現に今も歩いているのは自分と獲物だけである。
 虫が虫らしい格好をしていてくれれば楽なのに、とKは思う。奴らは人間に取って代わって地球を支配しようとしているだけあって、非常に知能が高く、変身能力も備えている。パッと見た分には人間そのものだ。つまり、Kに命じられた虫退治は、人間を守るための行動であるのに、一見殺人にしか見えないのである。

 まったくぼんくら警察どもが。

 一つ息をつき、Kは拳の中でカッターの刃を少しずつ伸ばしていった。キリ、キリ、という音は、上手いこと足音にかき消されてくれたようだった。
 しかし――Kはなんとなく、獲物がこちらを不審な目で見ているように思えた。気のせいかもしれない。気のせいだと思いたい。夜道ですれ違うのが自分と同じ女であっても、このご時世だ。絶対に安全だとは言い切れない。だからついつい不安を感じてしまうだけなのだろう。まさか明確な殺意を抱かれているなどと、気づいてないに違いない。
 いや、だが相手の手も拳を作っている。あの中に凶器が潜んでいるやもしれない。もしも同じ武器だとしても、体格は向こうの方が上だといえる。勝算は不意打ちにしかない。安全にいくなら後ろから。先手を取るには前からいく方が確率が高い。
 獲物とすれ違うまであと五歩程度。四歩、三歩、

 どうする?

 Kの手に汗がにじむ。何匹殺そうともこの瞬間の緊張が薄らぐことはない。自分は伝説の勇者などではないのだ。ぎりぎりの選択肢。生きるか死ぬかの――。
 まっすぐに前を見る。目を合わせたら終わりだ。『相手は殺意に気づいてない』。この命を賭けるしかない。
 二歩、一歩、今、すれ違う。先手を取れ。背後から口をふさげ。頸動脈をぶった切れ――。


 「景子! あんたって子はまた徹夜でゲームしてたね! 夜はちゃんと寝なさいって言ったでしょうっ!」


 景子ははぁとため息を吐いて右手を額に押し当てた。あと二秒早ければし損じるところだった。左手でキーボードをたたき、セーブ画面を開いてセーブする。
 今日も生き延びた。
 電気代どれだけかかると思ってるの、学校で倒れてもしらないわよ、授業中寝てるんじゃないでしょうね、どこまでも止まらない母親のお小言を聞きながら、「ああ、戻ってきたんだなぁ」と思う。
 『ワイルド・パラサイト』。景子がそのオンラインゲームのことを知ったのは、高校に入学した当初のことだ。友達がはまって景子に紹介し、景子もまんまとはまってこの一年間『虫退治』をしない夜はなかったと言っても過言ではない。
 敵が宇宙人というのはまったく非現実的だが、それ以外は現実世界と見まごうばかりのリアルなゲーム。手に入る武器も、防具も、所持金も。スキルなんて何もないし、裏技なんてのももちろんない。いつも見ているような街の中を、知恵と度胸で生き抜いていく。
 目的はたった一つ。『虫を狩る』、ただそれだけだ。
 プレイヤーには一週間に一枚の司令書が与えられる。一週間以内にターゲットを殺せなければ『仲間をかばった』と見なされ、自分が始末されてゲームオーバー。もちろん虫に殺されてもゲームオーバーだ。一度死んでしまえばロードはきかない。一応コンティニュー画面は出るけれど、Yesを押してもタイトル画面に戻るだけなのだ。

 殺しますか? 殺されますか?

 景子は今までに何度か殺されたことがある。『コンティニュー』の文字を見るたびに「そうか、これはゲームだったんだっけ」としらけた気分になったものだ。
 だから景子は懸命に虫を殺す。死なない限りはパソコンの中の世界で生きていられる。ぎりぎりの選択肢に囲まれて、生ぬるくない生を生きられる。

 「ああ、もうっ、こんな時間じゃないの。景子、何ぼーっとしてるの! 早くご飯食べなさい!」

 景子は緩慢な動作でパソコンの電源を落とした。せっかく今日も生き抜いたのに、こちらの世界は相も変わらず生ぬるい。しかしパソコンの中で暮らせない限りは、毎日ちゃんと高校に通わなければならなかった。


 『天皇陛下を崇拝する過激宗教団体、国家血盟神教による狂信的行為は警察の手が入った今も一部信者たちによってなおも続けられており、警察側は他の宗教団体に属する人々にくれぐれも警戒を怠らないよう再三注意を呼びかけて……』
 朝のニュースはここ一週間この話題ばかりやっている。
 景子は適当に顔を洗って食卓につくと、味噌汁に浮かぶ黄緑の物体を見てうんざりした。
「お母さんっ、あたしがこれ嫌いなの知ってるでしょっ? ワカメはちゃんと遺伝子組み換えのじゃないと嫌! 原子合成ワカメって色からして気持ち悪いんだからっ!」
「うるさいわね! 贅沢言ってられないでしょっ、最近は何でも値上がりしてるのよ! 好き嫌い言わずに、ちゃんとお祈りしなさいっ!」
「わかったわよ! ……海よ、山よ、川よ、今日も私たちを生かしてくださりありがとうございます。ワカメが美味しければ言うことないんですけどっ!」
「景子っ!」
 母親の怒声を右から左に受け流し、景子は味噌汁をすすって顔をしかめた。やっぱり遺伝子組み換えの方が断然美味しい。
 そんな景子を今度は父親が注意する。
「お祈りは心をこめてやるものだよ? 景子が生きていられるのはその『不味い』お恵みのおかげなんだから」
 穏やかな口調で言い聞かせるように言われてしまうと景子も反射的に噛みつくことができなくなる。ぼそぼそと不平を口にした。
「……ワカメは海じゃできないじゃん。山も関係ないし、川だって……」
 父親は景子の頭をぽんぽんとたたく。
「そうだね、その通りだ。じゃあ目の前に並ぶご飯たちにお祈りしなさい」
 景子は何も言えなくなって、しぶしぶと両手のひらをくっつけた。
「……えーっと、今日も食べるものがあって私は幸せ者です。食べられてくれてありがとうございますっ」
 父親は満足そうに微笑んだ。
 朝の食卓が再開する。テレビは血盟神教関係の報道を終え、次に天気予報を映し出した。
『……D地区の降水確率は40%。光線のレベルは2。ガスのレベルは4でしょう。外を歩くときはマスクの設定をお間違えのないように……』
「40%か……最近の雨はかなり強いらしいから注意しておいた方がいいかもしれないな。景子も気をつけなさい。皮膚に触れたらただれることも珍しくないそうだから」
 景子は素直にうなずいておく。雨用の防護服を持ち歩くのはかなり鬱陶しいが、背に腹は代えられない。光線のレベルが2の分まだましだと思うべきだろう。
 たまごの黄身より黄色いたくあんを頬ばっていると、テレビの中のキャスターが切羽詰まった様子でニュースを読んだ。
『今情報が入りました。……火星で開発中だった実験基地が爆発、炎上した模様です。原因は未だ不明ですが、今計画には最初から様々な問題点が持ち上がっており……』
 食卓がしんと静かになる。景子は一人ぼりぼりとたくあんを鳴らしながら、「またか」というつぶやきを呑み込んでいた。
 景子の記憶が確かならば、あの可哀想なニュースキャスターは今までに一度も宇宙開発に関する吉報を読ませてもらっていない。
 人類が宇宙に夢と希望を抱いていた時代ははるか遠く、今や難攻不落の関所に体一つでぶつかる以外策を持たないような感じである。それでも人は宇宙へ飛び出していく。地球はもはや、海も山も川も死んでいるから。
 景子は二枚目のたくあんに箸を伸ばす。両親はまだ回復していない様子である。二人が時々自分のことを痛ましげな目で見ていることは知っていた。大変な時代に生まれてしまった子どもの行く末が心配らしい。しかし景子自身は自分の行く末をまったく案じてはいなかった。

 偉い人がなんとかしてくれるでしょ。

 もしもなんともならなかったとしても、みんなで死ぬだけの話ではないか。それまでの間、せいぜい楽しく生きられればそれでいいのだ。

 制服に着替えて鞄の中身を確認し、ガスマスクをつける。今日の光線レベルは2だが、一応手足にクリームも塗っておく。防護服は雨用のだけでいいだろう。ハンカチとティッシュをポケットに入れ、携帯用の防犯ベルも放り込んでおく。今まで一度も役に立ったことはないが、持ち歩かないと両親ともうるさくてかなわない。
「いってきまぁーすぅー」
 出る頃になって襲ってきた眠気を振り払い、玄関の扉を勢いよく開けた。

 学校に着けばもうマスクは必要ない。景子は幾重ものドアをくぐりながらマスクを取り、水を払う犬のように首を振る。
 少子化著しい昨今、学校の空調設備はかなりの上物だ。思わず深呼吸する景子の背中を、背後からばしっとたたく手があった。
「おはよっ!」
「痛いよ、英美……おはよ……」
 景子はのっそりと返事した。
「景子ってば、すっごく眠そうだよ? 昨日も徹夜で『虫退治』したの?」
「うん。ちゃんと生きてるよ。Aは?」
「私もちゃんと生きてるよ。でも三時には寝てる」
「……三時でも充分寝不足になると思うけど……」
「……まあね」
 ほんの少し小声になった英美を呆れた目で見てから、景子は我が身を振り返って反省する。
 『虫退治』をしているといつのまにか時間が過ぎてしまう。パソコンの中でKとして過ごす時間は緊張に満ち満ちているのに、冷や汗をかけばかくほど危険な快感を感じてしまう。
 しかし元はといえば、景子を眠れぬ夜に引きずり込んだのは英美の仕業なのである。
 英美は自分の名前を漢読みにして、Aとしてあの世界で生きている。景子はAの経験談が元でゲームに興味を持ち、翌朝AとKの話をしあうことでさらにどっぷりとはまっていったのだ。
 なのに今は英美より自分の方がはまっているかもしれないなんて、景子はなんとなく面白くない。自然と口がとがってしまう。

 「あ。大地君と我妻君だ」

 英美の視線の先には幼なじみとその友達。景子は自分の眠気を覚ますために、廊下中に響き渡る声で名前を呼んだ。

「だーいーちー。おーはーよー」

「ちょっ、ちょっと景子っ」
 英美が恥ずかしそうに景子の袖をつかむ。廊下を歩いていた生徒たちがいっせいに振り返る。しかし返事は返らなかった。その代わりに幼なじみの隣を歩いていたその友達が、「……呼んでいるみたいだが」と遠慮がちに景子を見た。しかし無反応。
 景子は小走りに近づいて、幼なじみの頭をぐーでごつんとやってやった。
「返事もできんのかおのれは」
「迷惑な知り合いには無視で通すのが常識だ」
 未だ振り返らない背中にふつふつと怒りがわき上がる。もう一発殴ってやろうかと思ったところにすかさずフォローが入ってきた。
「大地、……気心が知れているのはわかるが、女性をわざと怒らせるのは感心しない」
 景子は思わず赤くなってしまった。
 粗雑で無愛想な幼なじみと何故友達をやっているのか未だによくわからないこの男、我妻草太は、よくこういった鳥肌物の言動をするのだが、何故か、何故かそれがおかしくない。逆にときめいてしまいそうになるほどなのだ。
「……おまえ、そういうこと普通に言うから浮いてんだよ」
 大地の言葉に景子は力いっぱい首を縦に振る。
 草太はわずかに眉を寄せ、「私は何か間違えているのでしょうか?」と景子に聞いた。
 その言葉づかいがすでにおかしい。
 思っていても景子には何も言えない。
「我妻君はねー、なんかそこにいるだけで浮世離れしちゃってるんだよねー。大地君にはそれなりにくだけてるのに、他の人……女の子には特に丁寧なしゃべり方するでしょ? 私たち普段そういう接し方されたことないからとまどっちゃうんだよ」
 代わりに答えた英美の言葉に、草太はますます眉を寄せた。
「……大地を名前で呼ぶなら私のことも草太と呼んでくださって結構ですが……もしやそれも私が『浮いている』という証なのでしょうか? 努力はしているつもりなのですが……やはり女性にぞんざいな口をきくというのは……できないのです。どうしても」
 次第に深刻な様子になり、苦しそうに口に手を当てる。景子と英美は何故そこまで重く受け止める必要があるのかさっぱりわからなかった。
「まぁいいんじゃねーの?」
 どうでもよさげに大地が言う。
「しかし……」
「できないんだろ? どうしても」
「……すまない」
 草太が何故謝るのか意味不明だったが、この二人が友達である理由がわかったような気がしないでもない景子だった。
「うん、今さらだし。あ、でもね、私が我妻君のこと『我妻君』なのは、雰囲気のせいもあるけど、我妻君のことを好きな女の子たちが怖いのもあるんだからね。あまり気にしないで」
 英美が笑顔のフォローでまとめようとする。が、落ち着きかけていた草太は今度は困惑の面持ちで考え込んでしまった。『自分を好きな女の子』『たち』『怖い』というキーワードにとまどっているらしい。
 そうか、この人やっぱり素だったんだ。真面目すぎて大変だなぁと景子は思った。


 男子が技術の授業で棚だのラジオだのを作っている時間、女子は家庭科をやることになっている。
 四時間目。本日の家庭科、調理実習。
 景子はこの時間が極めて嫌いだった。料理自体は得意ではないが好きなのだ。嫌いなのは女子だけで班分けをしなければならないことである。
 六人グループ。聞くだけでうんざりする。
 景子は今のクラスに英美と大地しか友達がいない。他の子とも話はするが、友達としてつるむようなことはない。草太は『友達』と呼んでいいのか判断に困る特殊人物だ。ようするに大地と草太のいない今、景子の仲間は英美だけである。
 6-2=4。
 これで四人グループが見つかればいいのだが、このクラスの女子は景子と英美を除くとまっぷたつ、二大勢力に分かれていたりする。景子は英美と二人で勢力内の話し合いが終わるのを待たなければならなかった。
 たかが一時間の間だけなのだ。さっさと割り切ってくれればいいものを、長々とじゃんけんをした後も「えー」とか「やだー」とか言っている。で、やっと決まったかと思ったら、あぶれた形になる彼女らは景子と英美を嫌そうにねめつけるのだ。
 勘弁してほしい。
 だがここで正直になってしまうとクラスの中で生きていけない。景子は念仏代わりに心の中で「沈黙は金」と唱え出す。しかし彼女たちとのとげとげしい気まずさは一向に和らぐ様子がない。料理が得意な英美は重宝され受け入れられたが、『得意じゃないけど好き』なだけの景子は邪魔者扱いだ。
 景子が「早く終われー早く終われー」に念仏を切り替えたとき、隣の調理台からクスクスという笑い声が聞こえてきた。
 台の脇にはクラスの女王様、高田亜美が立っており、見るからに性格悪そうな笑みを浮かべている。その視線の先に誰がいるのか、見なくてもわかってしまう。
 ……またやってるんだ。
 景子はじゃがいもをむく手を止めた。はらりと落ちる皮をじっと見つめる。
 『女の子』『たち』ってやつは、別に誰を『好き』じゃなくても、まったくもって『怖い』ものだ。
 理由もよくわからないいじめ。クラスの女子でそのことを知らない人間はいない。男子と先生の目を上手くかいくぐって。高田亜美のことを好きな人間などいないのに、どうしてかクラスの中心にいる彼女に、誰も逆らえない。彼女の取り巻きは隠れたところでみんな陰口をたたいている。しかし、いざ松本優希をいじめる段になると、亜美の端末なのではないかというくらい結託する。「本当はやりたくないのに亜美に言われて仕方なく」と言われても信じられないだろう。
 そして他の人間はひたすら――「沈黙は金」、だ。
 決して向こうを見てはいけない。やっかいごとだ。目を合わせちゃ駄目。見て見ぬふりする分には『関係ないこと』として通り過ぎてくれるんだから。

 そう、あたしなんか正義感振り回すような資格ないしさ。
 松本さんと話したこと一度もないしさ。もしかしたら高田さんにいじめられても仕方ないくらいヤな人なのかもしれないし。
 ……いじめられても仕方ない人なんて、いるのかな……。

 「景子、手ぇ止まってるよ? どしたの?」
 英美が顔をのぞき込む。
「えっ? なんでもない、なんでもないよっ?」
 景子ははっとして首を振る。
「ならいいけど……それが終わらないと次進めないんだからー」
「ごめんごめん、大丈夫、すぐ終わる。すぐ……ぎゃーっ!」
 景子の親指からは赤い血がしたたり落ちていた。驚いた拍子にじゃがいもがすっぽ抜け、床をころころと転がっていく。
「ちょっ、景子大丈夫っ?」
 英美が心配する声と重なって、
「食べ物を粗末にしないっ!」
家庭科の先生の怒号が轟いた。
「そのじゃがいも一つにどれだけの人間が関わってどれだけのお金がかけられたと思っているのですか! 研究施設、栽培施設を維持するだけでもかなりの税金が使われているのですよ! 今日のために手をつくして保存してきた食材だというのに……それから、不注意で体に傷をつけるなどもってのほかです! そもそも食べ物はあなた方の命を育むためのものなのですからね! ほら、いらっしゃい、手当てしましょう!」
「……はい」
 さんざんにまくし立てられ、自分でも不注意だったとわかっている景子は返す言葉もない。英美以外の班の子の視線が痛かったが、大人しく引きずられていく。
 戻ってきたときには『あとは煮込むだけ』の状態で、景子は非常に気まずかった。

 放課後、委員会で残るという英美に別れを告げ、景子は教室の遮光カーテンにそっと隙間を作る。
 雨は降っていないようだ。ほっとしながらも何のためにかさばる防護服を持ち歩いたのかと少し悔しくなる。
 景子はため息をついて鞄を持ち上げた。ガスマスクを見ると、学校がドーム都市の中にあればよかったのに、と思っても仕方のないことを考えてしまう。
 生きるためにはなんて色々なものが必要になるんだろう。面倒くさいったらありゃしない。

 帰る前にトイレに寄っておこう。そう思って女子トイレの扉を開ける。
 その瞬間に後悔した。
 狭いトイレにブレザーの壁。その向こうに高田亜美の茶色い頭。きっとその奥には松本優希がいるのだろう。
 顔を見られる前に扉を閉めたかったが、取り巻き連中はすでにじろじろと景子を見ていた。
「……あ、いや、トイレにね……行きたかったんだけど……もういいかな……みたいな……」
 景子は自分の口からエクトプラズムが出てきたような錯覚に陥った。
「あら、入ってくればいいじゃない。ここで何があろうと、あなたには関係ないことでしょ?」
 亜美はクスクスと笑っている。

 止める勇気なんてないんでしょ?

 景子にはそう聞こえた。
 そしてそれは、事実だ。
 頭にかっと血が上る。人を小馬鹿にする笑い声。それにかき消されているすすり泣きを聞かなかったことにしたくて、景子は思いきり乱暴な音を立てて扉を閉めた。
 そのまましばらく動かずにいたが、やがて重い足取りで歩き出す。
 親指の絆創膏がねちゃねちゃした。気持ち悪くて引きはがすと、傷はもう目立たなくなっている。何故だかひどく腹立たしくて、鞄を握る力をぐっと強めた。

 開くたびに空気が濁っていく幾重もの扉。鼻や口を通さずとも肌で感じてわかってしまう。
 ようやく開けた空は、雨こそ降っていないものの灰色の雲が立ちこめている。
 早く帰ろう。黒い雨が降るかもしれない。
 そう思いながら、このまま家に帰って暗澹とした気持ちを抱えて過ごすのかと思うとさらに足取りが重くなる。『虫退治』で気が晴れるだろうか? とも考えるが、このもやもやはKではなく景子が晴らさなければならないもののような気がした。
 心なしか今はマスクも重い気がする。顎を押し上げるようにして位置を整え、景子はふと、ドーム都市に行こうと思いついた。
 街の中でもマスクを外していられるドーム都市を、景子はいたく気に入っている。
 ウィンドウショッピングでもして、公園でぶらぶらしたりして……

 あの子は今トイレで泣いているのに。

 ぶんぶんと首を振る。
 関係ない、関係ないのだ。だいたい自分に何ができる。一緒にいじめられるのがオチだ。話したこともない相手のために、どうしてそんな危険を犯さなければならない。今までだってさんざん見て見ぬふりをしてきたではないか。
 景子は猫背になり、深いため息をついた。
 やはりドーム都市に行こう。素敵な出会いでもあれば……とまで贅沢は言わないが、気分も幾分良くなるに違いない。そうと決まれば早速実行あるのみ。
 しかし天候は徐々に悪くなってきている。ドームにたどり着く前に降られては大変と、景子は少々近道することにした。トイレも気になってきたところだ。普段通らない細い路地を駆け抜ける。

 カツンと鳴った靴音が、強烈な既視感を呼び起こした。

 この路地は片手で数えるくらいなら通ったことがある。そうではなくて。それとは違い。前にもこんな場所で……
 景子は立ち止まる。足下を見て、上を向く。
 ない。
 弾かれるように後ろを見た。
 誰もいない。
 近づいてくる足音も。カッターの刃を伸ばす音だって聞こえない。
 当然だ。あれはしょせんゲーム。死んだ後だって『コンティニュー』の文字が出るゲームなのだから。
 景子は脱力して頬をゆるめた。馬鹿みたいに緊張した自分がおかしかった。
 今日はとことん駄目な日な気がする。ドーム都市に行くのもやっぱりやめようか。
 そう思ったときだった。
 前方の電柱から影のようなものが飛び出してきたのは。
 あっという間もなく背中に衝撃を感じる。荒々しい力がのしかかる。息を呑む前に鋭い刃を突きつけられた。

 「貴様の信じる神の名は?」

 景子の喉仏がひくつく。
 問いつめてくる男はマスクの上に真っ白な布を被っている。朝のニュースで何度も見た。国家血盟神教の信者だ。
 こういった場合の対処の仕方も、ニュースで何度も聞かされていた。
「あ、現人神。万世一系の尊い血筋であらせられる、我らが天皇へい……」
「然り」
 ぐっとナイフが近づいてくる。
「ならば問う。国民でありながら邪宗教に惑わされる愚民ども、如何にすべきや」
 そんなことはニュースで言っていなかった。
 殺してしまえとでも言えばいいのだろうか。改宗させろとでも? 前者の方が確率は高い。だが。間違えたら、死ぬ。頸動脈を切られずともマスクに穴があいてしまえばもう終わりだ。
 心臓はどくどくいっているのに、全身がひんやりとしたものに覆われていく。景子はもう、声が出なかった。
「返答や如何!」
 ぎらぎらとした刃。自分はここで死ぬのだ。目を、閉じることができない。まぶたが動かない。息、が。

 「景子、動くなっ!」

 目の前の白がなぎ倒された。景子は瞬きもせずに息を詰めていた。
 目覚まし時計のようにけたたましい音が鳴る。
 突然やってきた見覚えのある制服は白い男にのしかかり、攻防しながら舌を打った。
「くそっ、早く来いっ」
 その声でやっと、景子は自分が救われたのだと知った。
「……だ、いち? 大地? ……大地っ!」
「う、る、せっ、……泣くなっ! 俺はこいつを取り押さえるのに忙しーんだよっ」
 何度も確かめるように名を呼ばずにはいられない景子に、ぶっきらぼうに返してくる言葉。普段は腹が立ってしょうがないのに、今はひどく安心できる。
 頬を伝う熱を拭えずにいる間に、どこからかパトカーの音が聞こえてきた。

 男が連行された後も、景子の涙は一向に止まる兆しを見せなかった。
「あ……りが……」
 お礼さえもちゃんとした音にできない。
 大地は靴の先をとんとんと鳴らすと、怒ったように言った。
「おまえ携帯用の防犯ベルくらいちゃんと持ち歩けよ。今時常識だろ?」
 景子はふるふると首を振る。
「……持っ、て……た」
「……そうか」
 震える体もこみ上げる涙もそのままに。ただただ奔流が通り過ぎるのを待つ。
 大地ももう何も言わずに、景子の目の前にずっと突っ立っていた。

 「落ち着いたか?」
 まぶたを擦ってうなずく。
「警官が送ってやるって、おまえのことをずっと待ってる。知り合いにもいてほしいなら、俺がついていてやってもいい」
 景子は大地の顔をそっと見上げ、本当に真摯な表情を見つけて声をなくした。
 甘いほど優しい言葉ではないが、『守られている』と、強く感じる。暴れん坊の『幼なじみ』はいつのまに『男の子』になっていたのだろう。
 小さくうなずけば、それだけでわかってくれたようだった。
 景子は大地の制服の裾を軽くつまんだ。
 いつもなら心底嫌そうに振りほどくだろうに、今は何も言わず好きにさせてくれている。
 心臓が、とくんと鳴った。
 頬が熱いのは泣いたからだ。そう思いたいのに、大地の顔を見れば三秒と目を開けてられなくて。自分で自分が信じられなかった。


 家についた景子は心配する両親への説明を警官にまかせてすぐにベッドへ倒れ込んだ。ポケットが脇腹の下敷きになり、固い感触に眉を寄せる。
 防犯ベルだ。あの瞬間、こんなものの存在は忘れてしまっていた。いざというとき頼りになるのは何よりも自分の強い意志なのだ。使えない道具に意味はない。
 Kならば使えたかもしれないと景子は思う。虫相手には必要ないが、あのとき狂信者に対峙したのが景子ではなくKであったなら。少なくともただやられるだけの展開は避けられたはずだ。
 景子はゆっくりと起きあがり、パソコンを起動しようと腕を伸ばした。が、しばし迷って机の上のペン立てからカッターナイフを抜き出す。
 生ぬるい生活。
 景子は食卓の脇で騒いでいるニュースを毎朝耳に入れながら、それが自分の身に降りかかってくるなどとは一度たりとも考えたことがなかった。誰が殺されようと自分には関係ないことで、どこで何が起ころうと自分にはまったく影響がないのだと漠然と信じていた。
 今日初めて。自分の命に関わるぎりぎりの選択に直面した。
 そして、選べなかった。
 生ぬるいのは周囲ではない。自分が生ぬるい生き方をしてきたのだ。
 しかしもしも次があったとしても、景子には決断を下す自信はない。
 ――だからこれはお守りのようなものだ。
 景子はカッターナイフを制服のポケットに忍ばせ、一つ息をつくと、おもむろに両手のひらを重ね合わせた。
「海よ、山よ、川よ、この命に感謝いたします。願わくば――ゲームの中のような知恵と度胸を。強く生きられるだけの強靱な意志を――この私に与えてくださりますように」
続く。
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