『THE ETERNAL RUNAWAY』 第4話

 「マリア。」
誇示するように、その名を呼ぶ。
尊称なしで彼女の名を呼ぶことが許されているのは組織の中では彼だけなのだ。
普段から彼女の側にいることを許されているのも彼だけで、彼は他の連中に比べて明らかに別格だった。
「マリア。」
そうやって彼女を抱きしめることができるのも、彼だけの特権。
彼女の名を呼びその体を抱きしめるたびに、彼は言いしれぬ幸福感に包まれた。
腕の中のかすかなぬくもりにこの世の幸せのすべてが凝縮されているような気がした。
あまりに幸せなので、あまりに彼女の存在が特別すぎるので、彼はいつも泣きたくなる。
彼女を腕に抱いたまま、抱きつぶしてしまいたくなる。
だから彼は力を入れずそっと彼女を抱きしめるのだ。
いつもいつも、あふれ出しそうになる感情を彼女にぶつけてしまわないように、優しくそっと。

 「ユダ……どうした?何かあったのか…?」
マリアは眉をひそめた。
抱きしめられるのはしょっちゅうだったが、腕に込められた力がいつもと違う。
いつもは触れるか触れないかくらいなのに今日はしっかりと抱かれている。
それでもマリアがほんの少し身動きすれば簡単にふりほどけるような力だったが、こんなことはユダにしてはとても珍しい。
「……あの刑事のことを気にしているのか。」
答えないユダにマリアが言った。
ユダは口を開かず、ただうなずいた。
マリアが自分から『マリア』の名を明かすほど他人を気に入るなど今までなかったことだ。
しかも相手は刑事。
ユダは少なからず動揺していた。
「気にするな。からかいがいのありそうな奴だと思っただけだ。今回の仕事はまさに『遊び』だ。おまえが思い悩む必要はない。」
マリアはユダの胸に顔をうずめ、背中に腕をまわした。
「……。」
マリアがこんなことをするのは自分にだけだとユダは知っている。
けれど、ユダはマリアを迎えに行ったときマリアがあの刑事に向けていた笑顔を思い出した。
あの笑顔を見ることができるのも、自分だけのはずだったのだ――。
 昼下がりのとある会議室。
誰とは言わないが水戸黄門にあこがれる27歳の青年が、誰とは言わないが体術を得意とする美女と、病気のように話し好きな上司からたびたび逃げ場に使っているこの場所に、今ものすごい熱気と緊張感が漂っていた。
「では当日の流れを説明させていただきます。異例ではありますが英国側の申し出により歓迎パレードは到着された翌日となります。前日の夜にはパーティーが行われますが招待制のためやはり警備の重点を置くならパレードの時だと思われます。…謎の文面を書いたと思われるアジル・ジェイルの行方は未だ不明。ただのいたずらととることもできますが英国の皇太子殿が相手である以上放っておく訳にもいかないでしょう。」
要点よく報告する角をその場にいた全員がにらみつけた。その視線は一様に「バカ野郎っ!もっと話せ!時間が余って部長にまわったらどうしてくれるっ!」と叫んでいる。無論その中にリーファンと助、そして栄一郎のものも含まれていた。
栄一郎は机の上に並べられた書類を見るふりをして恐る恐る部長の様子をうかがった。
部長は背中をまるめ深くうつむいている。
栄一郎の方からは光を受けていっそう光沢の出た頭頂部しか見えない。
栄一郎は思わず目を細め、今朝そり忘れたあごひげを人差し指でなぞった。
会議が始まってすでに20分以上。その間部長は一言も話していない。
普通なら始まった途端に部長のプライベートトークが炸裂しているはずである。
そして本題に入るまでに軽く一日は費やされ、部下たちは泣く泣く泊まり込むことになるのである。
ここまでスムーズに進行したことなど、今まで一度もなかった。
それに栄一郎は知っているのだ。
部長が毎朝毛髪活性の育毛トニックを3本使っていることを!
その部長がこうも無防備にそこをさらけ出しているということは……
……何かある。
栄一郎の隣に座っていた助も部長の様子がおかしいのに気付いたようで、書類の余白に「部長どう思うよ?」と書いてよこした。
……気になる。
「ああぁっ!シャーペンがぁっ!ちょっと失礼。」
栄一郎は素早い動きで机の下に潜った。

……。

無言で机の下からはい出した後、栄一郎は助が書いた字の下に少し付け加え、それからすぐに手を挙げて発言した。
栄一郎の発言を聞いた全員(助を除く)は信じられないと言うように目をまるくした。
「部長のご意見をお聞きしたいのですが。」
そう言ったのである。
恐怖、絶望、悲嘆。それぞれが様々な表情を浮かべる中、栄一郎と助だけがニヤリと笑っていた。
「うおっ!」
部長はまるで授業中に居眠りしていた生徒が急に当てられて飛び起きたときのように体をすくませた。
その反動で、部長の親指がボタンを押す。

『GAME OVER』

「うあぁぁっ!わしのピカチュウがぁぁっっっ!」
会議室にふさわしくないその悲鳴は広く大きく響き渡った。
部長の手にしっかりと握られていたゲームボーイ(ポケモンソフト付き)はその場で没収され、会議はそのままお開きとなった……。

 泣き崩れる部長の横で腹を抱えて笑い転げる栄一郎と助を見て、リーファンはため息をついた。
「ああしてるといつものエイイチローですのに……」
リーファンはマリアに会いに行った栄一郎の姿を思い返していた。
あんな栄一郎は、初めて見た。
栄一郎はどんなときでも冷静だった。
事件に夢中になって周りが見えなくなっているときも、ふざけてばかりいるときも、何が起こっても対処できるようどこかで気持ちを構えていた。
女には弱かったが色香に惑うということはなく、自分がどれだけせまってもうまくはぐらかされた。
いつも口では軽いことを言うくせに、心はちっとも見せてくれない。
でも、そのうちきっと振り向いてくれる……。
何の根拠もなくそう思っていた。
なのに。
リーファンは苦笑し、額に手を当ててうなだれた。
壁にもたれようとして半歩下がると、壁とは違う感触が背中にぶつかった。
助が立っている。
さっきまで床に拳を打ち付けていたのにいつのまに移動したのか。
リーファンは少し驚いた。
「お嬢さん……。傷ついたんならおれのこの腕で休んでいかねぇか?コバヤシなんざやめちまえやめちまえ。オレならおまえのために……千人の『美女』(ここがポイント)をナンパできる!」
リーファンは歯を光らせてそう言う助を銀河系の果てまで蹴り飛ばしてやりたい衝動に駆られたが、バカバカしくなったのでやめておいた。
「フッ…。甘いな。千人では数のうちに入らない。それに『美女』などと区別するのは全世界の女性に失礼というものだ。」
横から角も話に入ってくる。
彼らの『傷ついた女性レーダー』の性能は並ではなかった。
リーファンは眉間にしわを寄せ、大きく息を吐き出した。
「おあいにくですわ。千人や万人の美女でつりあいがとれるような安い女じゃありませんの。あなた達の女好きは知っていますけど相手をよく選ぶべきですわね。それから、今度からエイイチローの悪口を言うとその歯が折れても知りませんわよ。」
切り捨てるように言って、栄一郎に駆け寄る。
「いや〜、わしも若い頃はよくナンパしたものだ。女性はチョコレートとか甘い物が好きで『チョコレートしない?』と聞くとたいていは成功したものだが何故かいつも後から『うちの子に何をするんですか!』と……うぉうっ。」
途中の障害物を突き飛ばし踏み倒し、先ほどのため息のかけらも気付かれないよう軽い感じで声をかけた。
「エイイチロー!この後この前捕まえた『マリア』の部下に会いに行くのでしょう?私も連れて行って下さらない?」
栄一郎はドキッとした。
その通りだった。
あの盗品の美術品を売買していた男に『マリア』のことをもっとよく聞き出し、事件解決の糸口にしようと考えていたのだ。
誰にも言った覚えがないのに何故リーファンが知っているのか。
栄一郎が不思議そうに見ていると、リーファンが笑って言った。
「女のカンですわ。」

 ――拘置所にて。
男は口を開こうとはしなかった。
どんなに穏やかな口調で尋ねても絶え間なく怒鳴りちらしても何も言わない。「口を割ると事件の捜査に協力したことになり、裁判が有利になる。」と告げても、決して口を開こうとはしなかった。
「おまえがそこまでして口を閉ざすのは『マリア』のためか?『ユダ』のせいか?」
なかばあきらめた感じで栄一郎が尋ねた。
リーファンが栄一郎の横顔をじっと見つめる。
男は少し苦笑した。
「両方だ。だがおそらくユダがいなくても私は口を割らない。帰れ。私は情報をもらしたりしない。あの方を裏切ったりなどしない。」
男の目は嘘を言っていない。
自分のことなど顧みず、本気で『マリア』を守り通すつもりなのだ。
「おまえにとって『マリア』は何なんだ……?」
栄一郎はつぶやいた。
それはそのまま心の声だった。
犯罪者の集まりなんてもろいものだ。
与えてくれる利益に群がっただけの連中の結束など、濡れたティッシュよりももろい。
だがこの男はどうだ。
男の目にあふれているものは、ひたむきなまでの忠誠だけだ。
「救い……だ。」
男は目を閉じた。
「私は悪事を働いたときに感じる喜びだけを求めてきた。理由はない。それが一番楽しかったからしてきただけのことだ。そんな私を見て『哀れだな。』とあの方は言った。それだけだったが、あの方はその一言で私を変えた。あの方のためなら、私は何でもする。」
男はまぶたの裏に『マリア』を見ているに違いなかった。
栄一郎は眉をひそめた。
男は『マリア』に何を見たというのだろう。
話を聞く限りでは、『マリア』は男に何もしていない。
『哀れだな。』
何が――?
理由もなく悪事を繰り返すことか?
それを一番の喜びとすることか?
そんなこと、同じ犯罪者が言えることだろうか――?
あるいはもっと違うことなのか。
考えても何もわからない。理解不能だった。
どんな意味であれ、良心の呵責を感じない犯罪者にそんな言葉を投げれば逆上させるだけだと思うのだが……
それどころか、『マリア』は男を救ったのだ。
何から救ったのか?
それさえも栄一郎にはわからない。
考えれば考えるほどまるで罠にはまったように答から遠ざかっているような気がした。
それでも心の深いところには、
「あの女ならそんなことをやってのけても不思議じゃない。」
そんな思いがあった。
それっきり黙ってしまった栄一郎を、リーファンはまばたき一つしないで見つめていた。

 拘置所から出ると辺りは真っ暗だった。
空には月が輝いている。
「結局、ムダ足だったな……。」
栄一郎は小石を蹴飛ばした。
リーファンは黙って足元を見つめている。
耳には公園の木々のざわめきがうるさく、それに車の走る音が重なって聞こえてくる。
世界中のものが鳴いているような感じだった。
リーファンだけが、何も言わない。
栄一郎は不安になってリーファンの名を呼んだ。
「リーファン?」
地面にしずくがポタリと落ちた。
リーファンは泣いていた。
「事件のせいじゃないんですのね。エイイチローが『マリア』に夢中なのは。」
栄一郎はその言葉ではなく、リーファンの涙にうろたえた。
「いつか振り向いてくれるって、思ってましたの。バカみたいですわ。エイイチローが誰かに心奪われるなんて考えても……見なかった。」
リーファンはうつむいたまま、顔をあげようとしない。
「仲間以上に思ってくれなくても、あなたにとって私は特別な女なんだって思ってましたわ。それだけで十分でしたのに……」
栄一郎が顔をあげさせようとすると、リーファンは首を振って拒んだ。
「見せたくありませんの。……お願いですわ。」
リーファンの声は震えていた。
栄一郎は何を言うこともできなかった。
何を言ってもリーファンの涙を止めることはできないと知っていた。
だが、自分に涙を見せまい、声を聞かせまいと静かに泣くリーファンをただ見ていることなどできなかった。
栄一郎はリーファンの頭をそろそろとなでた。
「変な言い方だけど、おれはリーファンに殴られると安心するんだ。」
リーファンはポカンとして思わず顔をあげた。
「いっつもいっつもリーファンに殴られるポジションにいるのはおれだ。おれの居場所だ。おまえがおれを殴らずにおれ以外の奴を殴るようになったらおれはすごく寂しいと思う。」
栄一郎はつらそうに笑った。
『マリア』に対する自分の気持ちが何なのかはわからない。
恋愛感情だと言われてもそうなような気も違うような気もした。
しかし、リーファンに対する自分の感情が何かはハッキリとわかっている。
そしてそれはきっと……、この先も変わることはないだろう。
「おれにとって、リーファンは特別な女だ。」
リーファンは驚いたように栄一郎を見上げた。
「おれのパートナーは、おまえだけだ。」
栄一郎はニッと歯を見せて笑った。
それは仲間に向けたものだ。恋人へ向けるものではない。
残酷……なのかもしれなかった。
でも。
でも……と、リーファンは思う。
彼の周りにいる女たちの中で、いや、地球上にいる人間の中で、彼がパートナーと呼ぶのは……自分だけだ。
すべてのものの中で、自分だけなのだ。
リーファンは微笑んだ。
涙を拭うのも忘れて栄一郎に抱きついた。
栄一郎は顔を真っ赤にした。
「今日だけだからな。こんなくそ恥ずかしーこと言うのもすんのも。」
「それを言うなら私もですわ。明日からはエイイチローに満足してもらえるよう一生懸命拳を鍛えますわね。」
「げっ。そ、それはやめとけっ!ただでさえ歩く凶器だってのに。」
バキッ
「……。」
「それから、私あきらめませんわ。『マリア』と戦うことに決めましたの。誰にも負けないくらいエイイチローが好きですわ。覚悟なさって。」
すっかり元の調子に戻ったリーファンを見て、栄一郎は苦笑しつつ、安堵のため息をもらした。

そのときだった。

栄一郎は殺気を感じた。
目だけで辺りを見回すが、人影はない。
「どうしましたの?」
リーファンがきょとんとして言った。
「いや、なんでも。それより早く帰れ。今日は車じゃないんだろ?」
「あら心配してくれますの?わかりましたわ。本当はこのままエイイチローのところにお邪魔したいのですけど今日のところは帰りますわね。」
リーファンは栄一郎に手を振り、道の向こうに消えていった。
栄一郎はリーファンが完全に見えなくなるのを確認すると、目の前の空間をじっとにらんだ。

 漆黒の闇の中、それは現れた。
静かだった。
木々のざわめきもわずらわしい騒音もそれの登場によって瞬殺された。
騒々しいネオンの光でさえ遠く感じる。
風はピタリとやんでいたが、空気は切れそうなほど鋭かった。
闇と静寂とをまとったそれの胸元で、光が十字にきらめいた。
「『マリア』は人を殺さないんじゃなかったのか?」
「……これは私の独断だ。」
「おまえが『ユダ』か。シンプソン神父。」
栄一郎は額に汗がにじむのを感じた。
刑事という職業を続けてきて今まで幾度も死線を越えてきたが、これほどの殺気を浴びたのは初めてだった。
少しでも動けば殺される。
今まだ生きていることさえ不思議なくらいだった。
栄一郎は通常の3倍くらいの速さで思考をめぐらせた。
「リーファンを逃がすのを黙って見てたということはターゲットはおれ一人ということか。なんでおれが狙われる?男の嫉妬なんか見苦しいだけだぞ。」
栄一郎は冗談めかして言った。
「黙れ。私のことはどうでもいい。マリアの益になるか害になるかだ。お前は刑事で、それも正義感のようだ。マリアの妨げにしかならない。」
ユダは少しも表情を動かすことなくそう言い、心の中で自嘲した。
栄一郎の言ったことは当たっていた。
マリアを抱きしめるたびに、そのまま抱きつぶしてしまいたい、ずっと腕の中に捕らえておきたいと思う。
いつでも誰より側にいるだけでは足りない。
自らの手で殺してしまいたいと思うときでさえある。
まっすぐ前を見つめて歩いていくマリアをいつまでも見ていたいと思っているのに、その瞳に映るのは自分だけでないと我慢できない。
その気持ちは自分でもどうしようもなかった。
だから、ユダはどんなときでもマリアの一番近くでマリアの幸せだけを願ってきた。
自分のせいで歩けなくなったマリアなど見たくないから、側にいるだけでいいと無理に言い聞かせてきた。
けれど。
マリアが自分以外のものに興味を持つ様子を黙って見ていられるほどユダの中の感情はおとなしいものではなかったのだ。
栄一郎にもそれは分かった。
「確かにそういうのもあるんだろうがそれだけじゃないだろ。ただ『マリア』のために。って言うには目が尋常じゃない。……惚れてるのか?」
ユダは唇の端でわずかに苦笑した。
「愛などと、そんななまやさしいものじゃない。ただの飢えだ。渇望だ。私の心は人として重要な何かが欠落している。その欠落をただ一人、マリアだけが埋められる。」
ユダは流れるようなしぐさでナイフを取り出した。
「……えらくオーソドックスだな。」
声を低くして栄一郎が言った。
「銃は人に気付かれる。」
言い終わらないうちに、ユダは影のように動いた。
栄一郎は目で動きを追ったが、端にさえ映らなかった。
「死ね。」
声は後ろからした。
身じろぎするヒマもなかった。
首に冷たい感触が触れる。

「やめろ。ユダ。」

栄一郎の首にあてられたナイフが動きを止めた。
栄一郎はまるで幻でも見たかのように呆然としている。
マリアである。
木々のざわめきと月のささやきを背負って、マリアが立っていた。
「……ユダ。私のためを思うならおまえはもう手を汚すな。私のためにおまえが血にまみれることはない。」
マリアの表情は険しかったが、どこか悲しげでもあった。
「……いえ。これはきっと私自身のためです。」
ユダは栄一郎の首にナイフをあてたまま、ひどくつらそうな顔をした。
「おまえが思い悩むようなことは何もない。おまえがいなければ私は私でいられないだろう。」
マリアはゆっくりと近づき、そっとユダを抱きしめた。
ナイフが音を立てて落ちた。
ユダは息ができなくなるほど強くマリアを抱きしめた。
そうせずにはいられなかった。
腕の中の存在が大切で、特別で、今ここで思いきり抱きしめることができるなら他のことはどうでもよかった。
もちろんマリアが少しでも抗えばすぐやめるつもりだった。
しかしマリアは何も言わずただユダの激情を受け止めている。
ユダはいっそう力を込めた。
突然勝手な理由で殺されかけ、さらに目の前でこんなシーンを見せられた栄一郎はポカンと情けなく立ちつくしていた。
少々すねた目つきでふたりを見る。
まるで宗教画のようだと、栄一郎は思った。

―――ユダは救いを求めているのだ。
ただ一人自分の欠落を埋めてくれる人だと、ユダは言った。
ただ一人。
それは一種の信仰心、神への愛にも似ている。
栄一郎は拘置所で男が言ったことがわかったような気がした。
だが彼女は神ではなく、人だ。
愛なんかじゃない。ともユダは言ったが、栄一郎はこれを『愛』だと言わないのなら何というのか。と思った。
『好き』より上を表す言葉がこの世には少なすぎる。
栄一郎はそれぞれにとって至高とされる感情の表現を『愛』しか知らない。
だから、まぎれもなくこれは『愛』だった。
あるいはそれ以上のものかもしれなかったけれど―――。

 ふたりはいつまでも抱き合っていたので、栄一郎はいいかげん帰ることにした。くるりと背を向けると、マリアの声を背中に聞いた。
「次に会うのは、皇太子殿の前だ。」
栄一郎は振り返らずにその場を去った。
それでもふたりは抱き合ったまま動かなかった。
ユダは癒されていく自分を感じていた。
狂おしいまでの切なさは拭いきれなかったが、例えようのない幸福感が心を満たした。
傷の舐め合いだと言うなら、そうかもしれなかった。
けれど。
「私の心に幸せや苦しみを与えることができるのは、あなただけです。」
ユダはマリアの耳元で囁いた。
「あなたが私に与えてくれるすべてで私は生きている。」
マリアは何も言わなかった。
「それで……十分です。これ以上を望むときっと壊れてしまう。」
私が…あなたを……
……壊してしまう……

 栄一郎はまったくもっておもしろくなかった。
秘蔵の水戸黄門ビデオを見ても気分は晴れなかった。
ビデオを消してテレビにすると、
『ハーイ。ここで告白ターイム!勇気を出していってみよ〜!』
タイミングの悪すぎる番組が流れていた。
「るっせぇ〜!告白したけりゃふたりだけでこっそりしろっつーの。んなもんおれの前ですんなーっ!」
栄一郎は思わず叫んだ。

ピーンポーン ピーンポーン ピーンポーン
「ちょっと!やっと家賃払ったからって大声出さないでくれるかね。迷惑なんだよ。うちのアパートボロいんだからねっ。」

「っだぁ〜っ!おれはこのムカムカをどこへぶつけりゃいいんだ〜っ!」
栄一郎の絶叫はアパート中にこだました。
続く。
NEXT

  


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