第三章

帝国宇宙開発センターのセンター員は、いつもにも増して多忙だった。
原因不明の爆発でコンピューターも、センター自体さえも無くなってしまったが、一日たりとて仕事を休むわけにはいかなかった。なぜなら、先日の皇帝視察日に皇帝代理の前で宇宙開発センターの失態ばかりを見せてしまい、センター員である自分たちの明日が危ないからである。
彼等は他部門のセンターの施設を借り、自分たちの名誉挽回のために死力をつくしていた。

「そのデータこっちよこせっ!さっさとしろっ!おまえがやるよりおれがやった方が早いだろうが。」

シンは荒れていた。そこらかしこの人に文句をつけ、あたりちらしている。
レンはいかにも機嫌の悪そうなシンを見て、頭をかいた。
ヨルがいなくなってからというもの、しばらく食事もしないほどに落ちこんだかと思えば突然この荒れ模様である。
しかし、今回のシンの落ちこみ具合にはレンも驚いた。
シンは今まで落ちこむということがめったになかった。自分の正義に絶対の自信を持っていたし、不可能を可能にする実力もあった。後悔は必要なかった。
だがやはり人間関係は思うようにいかなかったようだ。
シンにとってヨルが自分からシンのもとを離れるなど想像もできないことだった。
ヨルがその意志でシンのもとを離れたことによって、シンの絶対の自信がゆらぎ始めた。
今までやってきたことのすべてがまちがったことのように思えたのだ。
そしてそれ以上に、シンの中でヨルの存在は誰よりも大きくなっていた。
シン自身もヨルを失ってみて初めて気がついたことだ。
自覚してみると、その場にヨルがいないという事実は心がしめつけられるような思いだった。
シンが食事もせずに過ごした間、レンはずっとシンにつきそっていた。
長い間親友をやっているレンには、シンの心理を手に取るように理解することができた。
だが、繊細なレンに比べ、シンはどんなときでも立ち直りが早い。
フッとふっきれてフッと思いたって今のありさまである。

荒れ狂うシンに、レンは一体どうしたのかと聞いてみた。
「ヨルはおれのことが好きだと言ったんだ。きっとヨルにとっては初めて言った言葉だ。だったらおれがまちがってたわけじゃなく、ヨルの方に理由があったんだと思わねぇか?」
シンが頭をかかえて考えた末に出てきた結論である。
「一週間だ。一週間でトップクラスまで出世してやる。それでもあのいけすかねぇ皇帝代理に直接会うのは無理だろうが、なんとしてでも絶対にヨルを取り戻してやるっ!」
シンの気持ちが痛いほどわかるので、レンは多くの人にきつくあたるシンを見ても、何も言えなかった。
「シンが仕事にやる気を出すなんて、よっぽどヨルのことが大切なんだな。」
レンが言った。
以前は地球、地球とうるさかったシンが、今ではそのすべての関心をヨルに奪われているかのようだ。
「でも21歳で父性に目覚めるなんて、シンの奴このままじいさんになるんじゃないかなぁ。」
レンは明るい笑いをもらしながら、シンが少しでも早くヨルを迎えに行けるよう仕事に精を出した。


「ヨル様、この者はキバといいます。ヨル様を訓練し、殺人の時には手伝ってくれます。」
宮殿の地下1階にある広い密室の中で、ヨルはユノから一人の男を紹介された。
キバという名を持つその男は、全身から異様な気配がただよっていて、まるで人の血を充分に吸った抜き身の剣のようだった。
ボサボサにのばした黒髪は今まで見たどんな闇よりも黒い。これほどの艶やかな黒は他に誰も持ってはいなかった。腰までもあるその髪は無造作に後ろで束ねられている。
わりと整っている顔立ちを、切れ長の鋭い瞳がいっそうきわだたせ、その両目は血より鮮やかな真紅だった。
ヨルは今までこんな色彩を持った人間を見たことがなかった。
ヨルは男の気配におびえながら全身で警戒した。
野生のカンが、相手が危険なものであることを告げている。
ヨルは目に見えて敵意を表した。相手を無条件で敵と見なしたのだ。
キバはヨルの様子を見てニヤッと笑った。
「こいつ、殺していいか?」
ユノにうかがいをたてる。
「殺す気でやれということだ。なるべく生かしておけ。死ぬようならその程度だったのだろう。」
ユノはヨルに聞こえないように小声でキバに告げた。
「生かしておけと言われても殺すがな。」
キバはユノの肩を軽く二回たたくと、ヨルに向かってものすごい早さで突進した。
ヨルはビクッとからだをふるわせる。
お互い武器になるようなものは持っていない。
からだ一つで戦うことになるが、キバの体格から見てヨルを殺すのは赤子の手をひねるようなもので、ごく簡単なことだった。
対するヨルは多少肉がついてきたとはいってもまだやせっぽちの少女である。力もそれほど強くはない。なんとか対抗できるものといえば鋭いカンと生きのびようとする気力ぐらいのものだろう。
もう一つあった。
ガリガリのヨルは、たくましい肉体を持つキバよりもかなり身が軽かった。
ヨルはつかみかかろうとするキバの腕をかわし、後方へ退いた。
だが筋肉もあまりついていないため、キバを超えるスピードは出ない。
キバはすばやくその後を追い、ヨルの首をとらえて両手でしめあげた。
ヨルは苦しそうに顔をゆがませた。
キバは腕に力をこめながらヨルを自分の顔の近くに引き寄せ、低い声で言った。
「もっと、もっと苦しそうな顔を見せろ。血が見られないのは残念だが、おまえの苦しそうな顔がおれを満足させてくれる。」
ヨルはキバをにらみつけると、全力をふりしぼってキバののど元に犬歯をつきたてた。
「何っ!?」
ヨルのねらいは見事命中した。
ヨルの歯がつきささったキバの首元から、大量の血がふきだす。
動脈を食い破ったのだ。
「こっこのガキっ!」
キバはヨルを離し、血があふれ出す首を手で押さえた。
キバとヨルは互いににらみあった。
流れている血よりも見事な真紅の瞳と、鋭く光る野生の漆黒とが、ぶつかり合い、交差する。
長い長い沈黙が部屋を支配した。
ヨルもキバも、互いに一歩もゆずらなかった。
先に動いたのはキバの方だった。
キバはゆっくりとヨルに近づいていった。
ヨルは少し後ずさりしたが、すぐにキバが動きを止めたので顔を上げてキバを見た。
「まいった。気が遠くなってきた。自分の血を流したのは初めてだ。一応協力はしてやるが、いつかおれがおまえを殺してやる。そのとき楽しむためにみっちりきたえてやろう。」
キバは口だけで笑顔を作ってそのままその場に倒れ込んだ。

ふきだす血を前にして、ヨルは立ちすくんだ。
ピクリとも動かず、意識はすでにここにはない。
視線はキバの方へそそがれていたが、瞳は何も映してはいなかった。

しばらくしてようやく自分を取り戻したのか、ヨルはキバを食べようとした。
もちろんユノに止められる。
ヨルにとってシンをねらう人間以外の殺人は、自分の身を護るための手段か、獲物を得るための方法である。相手を気絶させて自分の身を護ったのだから、その相手を食べるのは当然だ、というのがヨルの理論だった。
ヨルはキバが食べられず不満な様子だったが、代わりにユノから豪勢な食事を与えられた。
どうやらユノはヨルを操つるツボを完全におさえたらしい。

それから短期間のうちに、ヨルはキバに教えられて一通りの実戦用殺人術を身につけた。
ヨルがキバやユノにかみつくたびに食事が用意されたので、ヨルは少し太ったようだった。
それでもまだ少しやせ気味だったが、以前に比べるとずっと健康的になった。
指示通り正格に動くために言葉や文字の練習もさせられた。
そのほかコンピューターの使い方など、ヨルが学んだのは殺人術だけではなかった。
ただ人を殺すと言っても、セキュリティーが発達している昨今、いろいろな知識と技術がないと成功することは難しい。
コンピューターの使い方なんてものは基本中の基本である。
が、ユノはヨルに厳しい訓練を課したのち、コンピューターの操作方法をヨルにたたきこむことだけはあきらめた。
他のことに関しては覚えも早く優秀だったのだが、ヨルは極度の機械オンチだったのだ。
ヨルにあてがわれた宮殿のコンピューターはことごとく異常をきたし、一つ残らず廃棄処分となった。ヨルは生まれてから15年間ずっと電気と縁の無い生活をしてきたので、こうなったのも無理もないことだったのかもしれない。しかし笑ってすませるにはあまりにも被害が大きすぎた。

皇帝の宮殿は、地上と地下とで大きく二つに分けることができる。
地上6階建て。その最上階に皇帝の部屋があり、地下80階建て、その最下層の中心部には、帝国全土、すなわち惑星パラディス全土のコンピューターを支配するマザーコンピューター『PATRIOT』が存在する。『PATRIOT』は帝国の頭脳集団が苦労の末作り出したスーパーコンピューターで、およそ不可能ということがない。万が一異常をきたしたときの自己修復機能もついているし、情報を盗み出そうとするハッカーや、コンピューターを狂わせるウイルスに対してのプロテクトも完璧である。帝国のすべてのコンピューターはこの『PATRIOT』につながっていて、帝国中の情報が宮殿に集まるようになっている。軍事機能もついているので、帝国の一つのコンピューターから送られてきた敵の情報を一瞬で読みとり帝国にあるすべての兵器で攻撃することだって可能なのである。
だが何にでも欠点はあるもので、『PATRIOT』を起動させるには膨大な電力が必要。
年中無休で動かしていられるような代物じゃない。
そこで、普段は『PATRIOT』の1/10ぐらいの能力を持つコンピューターターミナルを設置して『PATRIOT』の代わりにし、緊急時のみ『PATRIOT』が自動的に起動するように設定された。
1/10とはいっても、コンピューターターミナルの力は他のコンピューターとはまったく比べものにならない。めったなことがない限り問題は起こらないはずであった。
ところが、先日の宇宙開発センター爆破事件により大量のコンピューターが失われ、ターミナルにつながる回線が限界ギリギリまで混乱してしまった。さらに、ヨルがはんぱじゃない数のコンピューターを次々と再起不能にしてしまったので、とうとうターミナルの限界を超え、『PATRIOT』が起動してしまったのである。
ただごとではないさわぎになってしまったのだった。
先日この件に関して帝国議会が開かれたが、皇帝はいつも通り気分がすぐれないため欠席。
議員たちの中では皇帝の寵愛を一身に受けているユノが一番の権力者なので、責任問題を持ち出すような勇気ある者は誰一人としていなかった。
皆内心ではユノを権力者の座から引きずりおろそうとねらっていたが、なんといってもユノには皇帝がついているのだ。ユノが皇帝の幼い頃からの側近であり、皇帝が唯一友と呼んでいる人物であることは帝国中の誰もが知っていた。多少の失態ではユノを引きずりおろすことはできない。だが、この先何度もこういうことが続けば必ずしも安全だとは言えない。ユノはもう二度とコンピューターをヨルに使わせまいと誓った。

ヨルがコンピューター以外の訓練を受けている間、ユノは皇帝代理として忙しい日々を過ごしていた。
いろいろな場所を訪問し、各地の様子を見てまわらねばならなかった。
各地訪問がだいたい一通り終わると、今度は皇帝スペルダン三世からお呼びがかかった。
『PATRIOT』のことではなく、個人的な用だった。

皇帝は子供の頃から病に冒されていて、体中の皮膚が焼けたようにただれていた。
特に顔の様子はひどくて、かろうじて目と口があることだけはわかる。
皮膚がそんな状態なだけでからだ自体にはたいした故障はなかったが、一ヶ所だけ、右腕を思うとおりに動かすことができなかった。
思わず目をそむけてしまうような醜い容姿に、見事な金髪だけが唯一美しく輝く。
皇帝はそんな自分の姿を嫌悪し、絶対に決まった人物だけとしか面会しない。
外に出て行わなければならないことは「気分が悪い。」「病気をわずらっている。」などと理由をつけて、すべてユノにまかせていた。

今のところ皇帝に面会を許されているのはユノとその部下のカラとラウ将軍ともう一人、スペルダン二世の頃から帝国に仕えている高名なゴド博士。そして身近な親類だけである。

皇帝が横になっているベッドの横に立ち、ユノはうやうやしく一礼した。
「ユノか、我が友よ。よく来てくれた。」
皇帝はベッドから左手だけを出し、ユノがまとっている服の端を弱々しくつかんだ。
「どのような御用でございましょう。」
ユノが言った。
「用などない。ただ話をしたかっただけだ。一人でいると不安でたまらぬ。ユノ、そなたは私と同じ年頃の、たった一人の友。そなたとただ話していたい。」
皇帝の顔から年齢はうかがえないが、皇帝はユノと同じ歳である。
「光栄でございます。陛下は一体何に対して不安を感じておられるのですか。」
「私はもう長くない気がする。」
皇帝は静かに目を閉じた。
「何を言われます。陛下はまだまだ長生きなさいますよ。」
ユノは優しい口調で皇帝を力づけたが、皇帝は目を閉じたまま、首を横にふった。
「生きていてもこの体が治ることはない。死んでも別にかまいはしないが、死というものが途方もなく恐ろしいのだ。」
ユノは服をつまんでいた皇帝の左手を両手で軽く包み込み、皇帝の青い瞳を見つめた。
「どうかそのようなことをおっしゃらず、回復されることだけを考えて下さい。薬は飲んでおられますか?」
「ああ、そなたがくれる薬はとてもよくきく。痛みも苦しみも消えてなくなる。いつも感謝しているぞ。」
皇帝はユノに礼を述べると、今日の分の薬を飲みほした。
「私の調合した薬ですから、陛下の御病気には何よりもよくきくはずです。」
ユノの言葉に、皇帝は深くうなずいた。
「そなたは本当によくつくしてくれる。そなたの部下のカラもそうだ。いつも美しい花を摘んできてくれる。人の優しさとはうれしいものだ。」
皇帝は花瓶に生けてある淡い色の花束を見てほほえみ、また目を閉じた。
ユノは扉の前でふり返り、再び一礼して皇帝の部屋を後にした。
「カラめ、また余計なことを。」
そのつぶやきは誰にも聞こえていなかった。

自分の部屋で休もうと足を急がせていると、向こうの廊下に見覚えのある姿があった。
「ゴド博士、お久しぶりです。」
ゴド博士は90歳を越える高齢なため、歩くのが遅い。ユノはすぐに追いついた。
どうやらゴド博士も皇帝に呼ばれたようだった。
ゴド博士はユノから皇帝の様子を聞くと、ゆっくりとうつむいた。
「おいたわしや、陛下。」
ゴド博士は皇帝が赤ん坊の頃からそばについている。
何とも言えない気持ちなのだろう。
目が涙に濡れている。
「ユノ殿、あなたの目から見て陛下の容態はどうなのですか。まさか本当に亡くなられるなんてことは……。」
「わかりません。しかし、陛下には御子供も御妃も御兄弟もいらっしゃらない。もしお亡くなりになってしまったら定例に従ってミム様が御世継ぎになられるわけですが、ミム様と陛下は犬猿の仲。このままでは陛下があまりにも……。」
ユノは声をおさえて言った。
ゴド博士は手で頭をおさえ、首を横にふった。
「あなたがそんなふうにおっしゃるということは、陛下はやはりもう長くないのですね。ああ、なんということだ。」
涙を止めることのできないゴド博士をささえて、ユノは丁寧に説明する。
「そういうわけではありません。ただ、陛下自身があの状態ではどのようになるかわからない、ということです。昔から病は気からと申します。患者がもう長くないと思いこめば、その通りになってしまうこともあるでしょう。」
だがゴド博士は哀しみから抜け出せなかった。
「陛下は希望が見つけられないのです。幼い頃から幸せに恵まれない方でした。天は一体何を見ているのでしょう。」
「あなたのような方が陛下の希望になるのですよ、ゴド博士。」
ユノはゴド博士の肩をトントンと軽くたたいた。
ゴド博士は涙をぬぐい、ユノに礼を述べて皇帝の寝所へと歩いていった。

ユノが部屋に戻ると、そこにはカラとキバがいた。
「一人め暗殺成功だ。」
キバが声を低くして報告した。
「ヨルは役に立ったか。」
ユノが聞く。
訓練の成果が試される実戦でヨルがどのような働きをしたのか知りたかった。
「あのガキ、おれと同類だ。人を殺すために生まれたような奴だ。おかげでおれの楽しみが半分に減った。」
同類を見つけて喜んでいるのか、人を殺す喜びを半減させられていまわしく思っているのか、そのどちらとも思えるような表情でキバが答えた。
ユノはいたく満足そうだった。
キバの前にターゲットの写真がはってある書類を置き、平然と次の暗殺の指示を出す。
キバは不気味な笑いを浮かべた。
根っから殺人を楽しんでいるのだ。
「いいぜ。何人でも殺してやる。殺すことが快楽。殺すことが存在理由。おれの生きる意味。おれのすべてだからな。」
キバとユノの低い笑い声が響いた。
きっと、種類は違えどユノもキバの同類なのだろう。
陰謀の渦巻く部屋の中で、仲間外れのカラだけが半分青ざめた疲れたような顔をしていた。
「そのヨル様はどうなさったのですか?」
カラが聞くと、キバが答えた。
「今ごろ地下の部屋でまるまっているだろう。初めて人を殺したときは誰だって衝撃を受けるものだ。その衝撃を快感ととるか苦痛ととるかは人次第だが、あのガキなら大丈夫だろう。」
キバは指についていた返り血をなめとり、ユノの部屋を後にした。
「あのガキの様子を見てこよう。」


だだっ広い地下室のすみっこで、ヨルは体をまるめてうずくまっていた。
今日殺した人間の心臓からふきだした、大量の赤い水。
すぐにふき取ったはずなのに、ヨルの目にはまだ映っていた。
キバが逃げる力を奪い、とどめはヨルが刺した。
ヨルの顔から腹の辺りにかけてが真っ赤に染まった。
そのときからずっと、ヨルの視界をさえぎる赤い色が頭から離れない。
悪夢のようにヨルを追いつめる。
11年ぶりだった。
あの色にまみれて動かなくなる人間を見たのは。
ヒトのそれはただの動物のそれとは違う。
まるでその人間の憎悪や嫉妬、欲望などを吸い取ったかのようにかすかに黒ずんでいる。
それでいて目を奪うはっきりとした赤。
まず目を侵し、神経を侵して脳までも侵食していく。
すべて染められてしまったら、もう離れられない。
その色を見ずには生きていけなくなる。
狂気の赤。
なつかしい……色。
両手にその赤が見える。
胸にもついている。
確かにふき取ったはずなのに。
心臓が痛い。
ヨルはとまどっていた。
おかしい。
シンを殺そうとした人間なら殺して当然。
なんの罪悪感も感じない。
なのにどうして、目の前に広がる血という名の赤い液体にこんなにも意識を奪われているのだろう。
血に飲み込まれそうだ。
ヨルは思った。

「ふるえているのか。」

入り口の方からキバの声がした。
ヨルはハッとふりむく。
「どうした。」
キバが聞いた。
「血がとれない。」
ヨルが言う。
キバはすみでうずくまるヨルのそばにより、ヨルのほおを力いっぱいぶったたいた。
地下室に大音響が響きわたる。ヨルは少し中心にふきとんだ。
「血なら逃げるときに全部とっただろう。それは幻覚だ。目が覚めたか。」
倒れたヨルの前に立ち、キバは吐く様に言い捨てた。
ヨルはすばやく立ち上がり、教えられたやり方でキバの顔に蹴りをいれる。
が、軽くかわされた。
「おれはおまえのそういうところが好きだ。立ち向かうもの、自分に危害を加えるものはみんな敵だ。殺してしまえ。そのうちなんの理由もなく血が見たくなる。そしたら周りの人間を皆殺しにすればいい。」
ヨルの攻撃を涼しい顔でかわしながらキバが言う。
ヨルは攻撃を止めた。
無防備に立ったまま首をふる。

「違う。ヨルは生きるだけ。」

それ以上言いようはなかったが、少なくともキバの言うものとは違う。
どのように違うのかと聞かれても答えることはできない。だが、ヨルは強くそう思った。
ヨルの言葉で、キバも動くのをやめた。
「生きるだけ……?」
キバにはその意味がよくわからなかった。
表情を読みとろうとして、キバはヨルの顔を見た。
まっすぐな瞳だった。
黒い瞳の奥に輝きが見える。
どこかで知っている光だとキバは思った。
遠い記憶。なつかしい光。
忘れていた思いを呼び起こすような。
はっきりとした、野生の輝きだ。
キバはヨルの瞳に心奪われていた。
とりたてて美しいというわけではないのに、なぜか目が離せない。
ヨルの瞳には人を引き込む何かがあった。
キバはヨルの瞳の中にさっきの答を見た気がした。
ただ生きるだけ。
そうなのだ。
他に何もない。
人を殺したいとか、そんな目的や理由はまったくない。
野生の本能に従って、ただ生きているだけだ。

純粋に生きているだけ。

キバにはヨルのような人間の存在は信じられなかった。
純粋なものなんて絶対に存在しないと思っていた。
だが、キバの目から見てヨルの生き方は純粋そのものだった。
キバはヨルの瞳を見つめたまま動けなかった。
キバは言った。
「おまえはおれと同類なんかじゃない。しかしある意味すごく近く、すごく遠い。おまえはきっと生きるためだけに人を殺すのだろうが、そのためならどんなことをしても平気だろう。」
ヨルはキバの瞳を見つめ返し、とまどった顔をして小さく首をふった。
「大切以外の相手なら平気。でも、血が見える。」
ヨルの瞳が、見えない影におびえるかのようにして少しふるえた。
キバは思わず右手をさしだした。
何も考えていなかった。
つい手が出てしまったのだ。
キバの右手はヨルの瞳の横にそえられた。
右手はキバの利き腕。武器を持つ方の手である。
キバは一応両方の腕で武器を使うことができるが、やはり右手の方が左手よりよく動く。
一度一本取られたヨルの前に立つにはあまりにも無防備だった。
今攻撃を受ければキバはすぐに攻撃にうつることができないのだから。
キバは自分の行動が信じられなかった。
なのに、キバの右手はヨルの顔から離れない。
キバの理性は警告を発したが、心は離すことができなかった。
そこまでヨルの瞳に強く魅せられていた。

キバの手が顔に触れても、ヨルは動かなかった。
キバにはいつ命を奪われてもおかしくなかったのに、いつものように攻撃する気分にはなれなかった。ヨルにはまだ赤い血の色が見えていたし、自分自身のことがよくわからなくなっていたせいもある。
ヨルは今まで自分のことなど考えたこともなかった。
地球では食べ物のことぐらいしか考える余裕がなかったのだ。
自分は一体どういう人間なのか、ヨルは初めて考えようとしている。
自分はなぜ人を殺すのか。
食べるため。シンを護るため。生きるため。
自分はなぜ人を殺して平気なのか。
わからない。
ヨルは考える。
シン以外のものにまったく関心がなかったヨルの心に、異変が起きようとしていた。

キバはヨルに触れている右手に軽く力をこめた。
ヨルの瞳はまだふるえている。
やせ気味で頼りなげな少女が持つ強く美しい光。
その光がおびえるようにゆらめき、キバの胸をしめつける。
ひどく切ない気分になって、キバは感情に身をまかせた。
右手を顔から肩に移動させてヨルを自分の方に引き寄せ、左手をヨルの腰にまわしてキバがヨルを抱きしめるという形になった。
あまりにも自分に不似合いな感情、あまりにも自分に不似合いな行動にとまどいを感じながら、キバはヨルをきつく抱きしめて離さなかった。

ヨルもまたとまどっていた。
シン以外の人間に抱きしめられたのは初めてだった。
腕から伝わるぬくもりは優しく心地よい。
敵意は感じなかったが、ヨルは聞かずにはおれなかった。
「何?」
キバは答えなかった。
何と言われても、キバにさえよくわからないのだ。
答えようがない。
抑えがたい衝動がわきあがって体が勝手に動いてしまった。
それだけだ。
それがどういうことなのか、もうキバもうすうす感づいていた。
感づいてはいたがいまいち納得できなかった。
この感情にぴったりな言葉はまさしく『恋』だった。
「おれが恋?こんなガキ相手に。このおれが。」
キバは信じられないというように笑いながらつぶやいたが、どうしても納得せざるをえない。
いくらキバが否定しようとしてもキバの両腕はヨルを離そうとしなかったのだから。
キバはヨルの瞳を見つめて、自分の思いを自覚した。
「この光に捕まったか。」
キバが深いため息をつく。
ヨルはキバの思いに気づかず、きょとんとして首をひねるだけだった。


そのころ仮設された宇宙開発センターでは、シンが異例の出世をとげていた。
レンに宣言したとおり、一週間でセンター員のトップの座に躍り出たのである。
長官に次ぐ地位につき、シンは心から喜びを感じた。
はずであった。
「なにーっ!皇帝代理に会えないだと。ふざけんなよ。おれはあいつに会うために今までしたくもない出世をしてきたんだぞ。」
センターの長官の部屋に響いたのは、喜びの声ではなくすさまじい怒声だった。
怒りをあらわにするシンに対し、長官があわてて説明する。
「落ち着け。確かにおまえは一年に一度くらいなら面会できるくらいの地位にいる。しかしここだけの話だが、実はユノ様に頼まれているんだ。おまえと面会させるなとな。」
センターが無くなってクビ寸前だったところをユノに救われた長官が、ユノの頼みを断れるはずがない。
シンは激怒した。
「おれはヨルの保護者だ。そのおれがヨルを帰してもらうためにあいつに会いたいって言ってるんだぞ。」
「シン、ユノ様は検査を邪魔されたくないだけだそうだ。検査が終わればあえるだろう。」
長官がシンをなだめるように言う。
シンは顔を真っ赤にして奥歯をかみしめた。
「本当に検査してるんだろうな。長官にまで言って面会させないっていうことは……。嫌な予感がするぜ、ちくしょーっ!やっぱ出世なんかしてる前に殴り込んでりゃよかったんだ。」
「シ…シン、ユノ様はすばらしい方だぞ。おまえがカン違いしているだけだ。くれぐれも早まったマネはするな。」
長官の声はシンには届いていなかった。

「やっぱりだめだったのか。」
レンがシンの顔を見て言った。
シンのものすごい形相ですべてを察っしたのだ。
シンは不機嫌も不愉快も通り越して爆発したような顔をしていた。
「シン、怒ってるだろうからあんまり言いたくないんだけど……さっき長官からすごい量の書類が届いたから、どうせしばらくヨルは迎えにいけないと思う。」
レンはそっと言ったが、シンはまたさらに爆発した。
「あのクソじじい。おれを止めるために先手うちやがった。」
ユノがとった行動の真の理由がわからないので、シンは思い切ったことはできない。
ヨルが無事に戻ってくる可能性を考えると、今はじっとしているしかないのである。
シンはぶつけることのできない怒りを仕事にぶつけることにした。
「書類整理はごめんだ。レン、なんか外に出る仕事ないか?」
「あるよ。オーウェン氏の邸宅に行ってゼダ星あたりの小惑星群の研究結果を受け取ってくるってのが。日にちは来月になってるけど。」
レンは多くの書類の中から一枚をシンにさしだした。
シンはその書類を受け取り、じっくりと見る。
「このオーウェンっていうおっさん、宮殿に出入りしてるな。結構いい地位についててやり手みたいだし、こいつに頼めば宮殿入れてくれるかもな。」
シンはそう言って書類を置くと、ため息をつきながら目の前の書類の山を片付け始めた。
日にちは来月。来月のその日まで後十何日。
それまでは全然打つ手がない。
来月まで怒りをこらえながら書類整理をするのかと思うといい加減うんざりもするが、とりあえずは仕事をこなすことしかできることがない。
本当なら仕事を全部ほったらかして今すぐにでも迎えに行きたいのだ。
だが、それはできない。
黙々と仕事をこなしながら、あせる気持ちを必死に抑えこむ。
シンはもう限界に近づいていた。


そして今日、シンがオーウェン氏の邸宅を訪問する日がやってきた。


シンはいつもより2時間も早起きをしてレンをたたき起こし、待ちきれないとばかりにオーウェン氏の邸宅へおしかけた。
きちんとしつけられた使用人が丁寧な言葉をしゃべり、優雅なしぐさで案内をする。
「ご主人様なら、先ほどから上の部屋であなた方のお越しを待っておられます。」
そのゆっくりとした口調としぐさがシンをいらだたせる。
シンは使用人をおしのけ、レンが止めるのも聞かずに2階の部屋に走っていった。

コン コン

シンとしては、扉なんか蹴破って一刻も早くオーウェン氏に話すことを話してしまいたかったのだが、さすがにそれはやめておいた。乱暴な態度でオーウェン氏を脅すのは、要求が聞き入れられなかったときの最終手段でいいのだ。
「失礼します。宇宙開発センターの者ですが。」
2回のノックの後、シンは静かに扉を開けた。
これから話の進みようによっては脅されるかもしれないのだということを、相手にみじんも感じさせてはならない。
「オーウェン氏?」
オーウェン氏と見られる人物は、豪華なイスに腰掛けて、扉と反対にある窓の方を眺めていた。
シンはもう一度呼びかけた。
「オーウェン氏ですね、私は研究結果を受け取りに来た者です。」
返事はない。
再度呼びかけようとしたとき、オーウェン氏の座っていたイスがくるりと回転してこちらを向いた。
「オーウェン氏!!」
シンが今までよりも大きな声で叫んだが、やはり返事はなかった。
「シン?」
扉の外にいたレンが声をかける。
シンの顔は蒼白だった。

「…………死んでる。」

オーウェン氏ののど、額、それと心臓に、まるでバースディーケーキにろうそくを立てるかのようにナイフが突き刺さっていた。
オーウェン氏は殺されたのだ。狂器がナイフというところを見ると、おそらく犯人は腕ききの殺し屋か何かだろう。
そんなことを思いながら、シンは部屋の扉を閉めた。

――――待て!
オーウェン氏はいつ殺された?ぱっと見ただけじゃそんなことわからない。
もしついさっき殺されたんだったら?あのイスはなぜ回転した―――!?
あの部屋にまだ犯人が残っていて、逃げようとしたときにおれが来たんだとしたら?

「逃がすかっ!」
バンッ
壊しかねない勢いで、シンはドアを開けた。
中にはもう誰もいなかったが、おそらく突然のことであわてたのだろう。
シルクのじゅうたんの上にオーウェン氏のものと思われる赤い血が点々と、犯人の逃げ道を示していた。
「レン!後の始末たのむぞっ」
シンは一人で犯人の後を追っていった。
逃げ道は巧みに作られていた。
血の跡さえなければ誰が見てもわからない。
その上頭を使わないと通れないところもあって、相手がただ者でないことが感じられた。
しばらく後をたどっていくと、人気がなく閑散とした場所に出た。
今まで目印にしてきた血の跡が地面から消えている。
シンは地面をもっとよく見るためにかがもうとした。

のど元に突きつけられたナイフさえなければ。

「なんで突き刺さないんだ?」
シンの額に汗が光る。
「おまえの恐怖を楽しむためだ。」
シンの頭の後ろから笑いを含んだ声が聞こえた。
獲物を前にした狼のような殺気がシンに伝わる。
シンは冷や汗こそ流していたが、ふるえてはいなかった。
この危機からどうやって逃れようか考えていたのである。
だがどう考えても無理だった。ナイフはすぐそこにある。相手にスキはない。

「シンは殺させない。」

聞き覚えのある声がした。
しばらく聞いていなかった、愛しい声だ。
聞きまちがいかと思ったがそうではなかった。
後ろにいた殺人犯に飛びかかり、一緒に倒れてナイフを押さえつけている腕の先に、誰よりも会いたかった顔があった。
シンはつぶやいた。その少女の名を。

「……ヨル?」

「何をする!おまえのヘマの始末をしていたんだ。邪魔をするな!」
ヨルは強い力で横に張り飛ばされた。
「ヨルに何しやがるっ!」
シンはヨルのところへ走り寄り、殺人犯に向かって怒気をはらんだ声でどなった。
殺人犯の顔をはっきりと見て、シンは驚いた。
黒い髪に真紅の瞳。
明らかにこの星のものではない、異質な色合いだ。
「おまえ……ゼダ星人か。」
「それがどうした。」
男は平然としている。
「オーウェン氏のゼダ星に関する研究が気にくわなかったのか?」
シンがたずねると、男は大声で笑い出した。
おかしくてたまらないといった感じだ。
「言っておくが、あいつを殺したのはおれじゃない。確かに頭とのどのナイフはおれだが、とどめをさしたのはおれじゃない。」
「じゃあ、誰だっていうんだ。」
シンは顔をしかめた。
男がニヤニヤとした嫌な笑いを浮かべている。

シンは考えて、考えて、考えて―――、
思考を、止めた。

「まさか……」
「他にいるか?」


シンは視線を下に落とした。
シンの腕の中には、ケガもないのに血まみれのヨルがいた。


「わかったか?そいつはおまえの知り合いらしいが、今はおれと同類の殺人者だ。―――そしておまえは、ただの死体になる。」
闇よりも深い黒髪の奥に、狂気に満ちた紅の瞳が不気味に光る。
手に握られているナイフよりも鋭く。
ショックにふるえるシンの反応は遅かった。
動くまもなくナイフに心臓を貫かれた。
と、思ったが、シンの心臓にとどく前に、ヨルの手で止められていた。
素手でナイフを握ったヨルの手は当然ながら真っ赤だった。
「ヨル!!」

ふたりの男の声が重なる。
ふたりは同時にヨルの手からナイフを離させ、ヨルのからだを抱き上げようとした。
もちろんヨルのからだは一つしかないのだから、ふたり同時に抱き上げられるはずがない。
「聞き忘れたが、おまえ、こいつのなんだ?」
「おれはヨルの保護者だっ!おまえこそなんなんだ!」
「おれはこいつの仲間だ。」
「ヨルはおまえなんかの仲間じゃねぇよっ!」
「仲間だ。殺人者同士だからな。」
同じ少女の身を案じるふたりの口論はいっこうに終わる様子がない。
ふたりはまたまた同時に大声を張り上げた。

「ヨル!こいつはなんだ!」

ヨルはどちらにも答えなかった。というより、答えられなかった。
ヨルの意識は激しい痛みによってはるか遠くへととばされていた。
そしてまた同時に、
「こんなことをしてる場合じゃない。」

このときふたりが同時に「嫌な奴だ。」と思っていたのは、言うまでもない。

結局ヨルは、キバの腕でシンの住居につれて行かれた。


ヨルを医者に診せた後、怒りに燃えていたシンと事情を聞いたレンはキバにつめよった。
「一体あのクソ皇帝代理ヤロウはヨルに何をしやがった!」
シンの問に、キバは意外にもあっさりと答えた。
「殺人訓練だ。」
シンとレンは拍子抜けした。
こんなに簡単に口を割るとは思わなかったのだ。
通常プロの殺し屋というものはもっと口が堅いものではなかったか。
「本当に?」
思わずレンが確かめた。
「おれは殺せれば何でもいいんだ。ターゲットだろうが、追っ手だろうが、依頼主だろうが、誰でもいい。」
キバは不気味にほほえむ。
「嘘だな。誰でも何でもどーにでもって奴がなんでヨルを助けるんだよ。」
シンがキバをにらんだ。
どうやらヨルを運ぶ役を取られたことがかなり気に入らなかったらしい。
「嘘だと思っても勝手だがな。」
キバがシンをにらみ返した。
どうやらヨルを運ぶ場所がシンの住居になったことがかなり気に入らなかったらしい。
「訓練受けたからってなんでヨルが人殺さなきゃならねぇんだよっ!理由がないだろうがっ。おまえの言うことなんて嘘に決まってる!」
「理由だと……!?」
キバの目に殺気が光った。
「シンだよ。それしかない。」
シンとキバがとっくみあいになる直前に、見事に推理してみせたのはレンだった。
「シンの名前を出せばヨルはきっと何でもする。そんなことはヨルを見てたらすぐわかるだろ。それに何かするときのヨルの理由なんて、食べるためか生きるためか、シンのためじゃないか。」
「おれのため!?」
シンはキバに目で問いかけた。
「……そうだ。こいつが人殺しをしなければならなかった理由はあんただ。全部あんたのせいだ。」
「どんな手を使った?」
シンの手が、キバの胸ぐらをつかんだ。
その手をすぐにふりほどいて、キバが言う。
「赤ん坊でもだまされないような嘘だ。おまえの命をねらってるヤツがいるってな。」

バンッ

シンが近くの壁を殴って言った。
「誰に似たんだ、バカヤロウめ。」
「………。」
「レン、悪い。ちょっとヨルの様子見てくるから。」
シンはヨルが寝ている部屋へと向かった。
ヨルを静かに眠らせるために、今まで別の部屋で話していたのだ。
ということは、部屋にはレンとキバのふたりだけになる。
レンがそのことに気づいたときには、シンはすでに見えなくなっていた。
「えっちょっと、ちょっと待てよシン。おれも行くよ。行くってば。」

バンッ

キバが近くの壁を殴って言った。
「誰のためだって?チクショウめ。」
「………。」
「ごめんなさーい。」
レンが、泣きそうなところを無理に笑って言った。心底おびえている。
そうしている間に、キバが壁に2発目をおくりこむ。

バンッ

「殺してやる、あのヤロウ。」

部屋にはヨルの静かな寝息だけが聞こえていた。
少し肉がついて健康的になったヨルは、寝顔も前より愛らしかった。
腕や足についている無数の小さな傷跡は、キバが言った訓練のせいなのかもしれない。
右手に巻かれた包帯が痛々しい。
シンはヨルの頭を、起きないようにそっとなでた。
「迷子にならずに帰ってきたことだけはほめてやるよ。」
そう言って、シンは深いため息をついた。
ヨルが起きる気配はない。
「子供ってのはな、親が守るモンなんだよ。おまえが守ってどーすんだこのバカ。」
シンは頭に手をやった。
頭をかかえたシンの目は、おそらくぬれていただろう。
ヨルが何かに起こされたかのように目を覚まし、そのほおには水滴がついていた。
「起きたのか。」
シンはまたヨルの頭をなでた。
だが、ヨルはシンの方を向かなかった。
シンの存在に気がついていないかのように自分の両手を見つめている。
右手には包帯が巻かれているが、どうもそれを見ているわけではないらしい。
「ヨル?」
シンが呼んでも、何も反応がない。
ただじーっと自分の両手を見ているだけだ。
不安な気持ちに襲われたシンは、ヨルの両肩をつかんで大きくゆさぶった。
「シン……?」
ようやくヨルが自分に気づき、シンはほっと息をついた。
ヨルはシンに気づくやいなや力いっぱい飛びついたので、シンも優しく抱きしめ返してやった。
シンはヨルに言いたいことが山ほどあったが、何をどのように言うか、そもそも言うべきなのかどうか迷っていた。
いろいろ考えているうちに、ふと気づいた。
ヨルは泣いていた。
「どうしたんだ?」
シンはヨルに抱きつかれたままベッドに腰掛けた。
「みんな赤い。あの色は、嫌い。」
「あの色?」
「血。」
シンのからだがビクッとふるえた。
ヨルはシンに顔を見せない。
「ヨルはシンのそばにいれない。もう大事な人殺すの嫌。」
ヨルが言った。
シンがヨルの顔を上に向けようとする。
だが、やはりヨルはシンに顔を見せない。
「でも遠くからシンを護る。」
ヨルはシンに顔を見せない。
シンはヨルの顔を見ることをあきらめて、両腕をヨルのからだにまわした。
ヨルの骨が折れそうになるくらい力いっぱい抱きしめる。
これで最後だと、ヨルは思った。
もうシンに抱きしめられることはない。
なでてもらうことはない。
これで最後なのだと。

「遠くに、行けるもんなら行ってみろよ。」

―――え?

「この腕ふりほどいて行けるもんなら行ってみろっ。」

だから、シンの言葉は信じられなかった。
なぜ自分を手放さないのだろう。
そばにいると危険だということもわかっているだろうに。
なぜ―――?

「だいたいなあ、このままじゃおれの立場がないだろうが。普通はおれがおまえを守るんだよっ。そこをおまえに守ってもらってどうする。親としての資格がないって言われたようなモンだっ!」
シンはヨルの頭をコンコンとたたいた。
ヨルは動かない。
「おれはおまえを幸せに育ててみせるって決めたんだ。ネズミをごちそうだと思うようなひもじい生活なんかさせたくない。幸せにしてやるんだってな。」
「………。」
「人を殺すと、幸せになれんのか?」
「………。」
ヨルは少し考えてから首をふった。
「考えんなよ。」
「でも嫌じゃない。シン殺されるから。」
「あの妖怪銀髪ババアの言ったことは全部嘘だ。」
「シン殺されるの嫌。」
「もし本当だったとしてもヨルはおれのために人を殺したりしなくていいんだ。」
「どうして?」
「おれが不幸になるからだ。」
「どうして?」
「どうしてってあのなあっ!」
―――――――――
―――――――――
「あ?じゃあヨルが殺されそうなときはどうするかって?―――――おれが相手を殺してやる。」
「どうして?」
「おれが不幸になるからだ。」
「どうして?」
「どうしてってあのなあっ!」
―――――――――
―――――――――
「まあとにかく自分の命が危ないとき以外は絶対に人殺すんじゃないぞ。」
「………。」
「なんで返事しねぇんだ?」
「シン死ぬとヨルが不幸になる。」
―――――――――
―――――――――
「……わかった。おれが本当にヤバイときは助けにこい。」
―――――――――
―――――――――
「あ?腹が減ったときはどうするって?バカおまえそんなんで人間殺すなっ!」
「動物は?」
「動物なら――ってそう聞かれると答えづらいな。……………。」
―――――――――
―――――――――
「教育って難しい………。」
―――――――――
―――――――――
「ヨル、そろそろ顔見せろよ。」
「………。」
「まだどっかに行くつもりがあるか?」
「……ここにいる。」
「よーっし、いいこだ。」
「ヨルは大事な人殺したことある。でもシンは殺さない。シン殺す前にヨル殺す。」
「……おいっちょっと……!」
「それでいい。」
「よくねーだろっ!なんでそうなるんだコラッ!」
「ヨルがここにいたいから。」
「いや、それはいいことだが………だからなんでっ。」
―――――――――
―――――――――
「おはよう。」
レンがさわやかな笑顔を見せる。
「………はよ、レン。」
それに対してシンは体調最悪といった感じだ。
まあ、ずっとヨルと話していたのだから当然のことだろう。
ヨルが途中で眠ってしまっても、シンはその後ずっと起きていた。
何をしていたのかというと、ささやかな幸せを楽しんでいたのだ。
ささやかな幸せというのはヨルの寝顔を見つめることである。
かわいくなったなあとか、もうちょっと肉がついた方がいいとか思いながら、父としての愛情をはぐくむ。
―――シンはかなり激しい親バカだった。
きわどいところで変態から免れているが、仲間入りを果たすのもそう遠いことではないと思われる。
「そういえばあいつはどうなった?」
シンはキバの様子が気になっていたのだが、言ってからしまったと思った。
「どうなった?だって?そういえば?昨日おれをイケニエにつきだしときながらよく言えるなっ!あの後もう死ぬかと思ったんだぞっ。おれがどれだけシンを恨んだかっ!」
レンはものすごい剣幕でシンに文句をぶつける。
きっとさっきの笑顔は怒りをこめた笑顔だったのだろう。
シンは腰を低くしてひたすら謝った。
「あいつはおれのベッドで寝てるよっ!おかげで昨日は床で寝たんだっ。おんなじ部屋にいるだけでも怖かったのにっ!」
レンは怒りながらもちゃんと教えてくれた。
シンは走ってレンの部屋に行こうとしたが、レンに肩をつかまれた。
「えーっと、まだ何かあるのか?」
「ある。」
レンの真剣な表情にシンはため息をついた。が、どうやら恨みごとではないらしい。
レンの周りを緊張感がとりまいている。
「どうした?」
レンはシンに聞かれてもすぐには答えず、目をふせたりして間をつくる。

「これは確信だからな。あいつ絶対ヨルに惚れてる。」

「は?」
思わず自分の耳を疑う。
シンはパニックに陥った。
「シン、昨日あいつ嫉妬に狂ってたから、今日必ず命ねらってくると思う。」
レンはこういう嘘は怒っているときでも言わない。
予想にすぎなければ最初にそう言う。
それはシンが一番よく知っているはずだったが、どうも信じられない事実だった。
ヨルはまだ、15歳くらいだぞ?
「バカヤローっ!あんな目つきの悪いヤバそうなヤツにかわいい娘をやれるかーっ!」
絶叫だった。

「おまえのような父親のそばにいるよりいいだろう。」

とっくに起きて部屋を抜け出していたキバが、背後からシンを襲う。
その手にはまたもやナイフが握られていた。
キバは殺しのプロが持つすばやい動きと手つきでシンの心臓をねらったが、シンも負けてはいなかった。
各種のセンター員は、何が起こるかわからない現場で勤務することもあるため、一人前の必須条件として護身術をたしなんでおかなければならないのだ。
シンは元々運動神経や動体視力がいいので、訓練生の中でもずばぬけた成績を持っていた。
だからキバに攻撃をしかけることはさすがにできなくとも、よける、かわす、防御することなどはできる。
とにかくシンはキバの一撃をかわした。
「バーカ。殺したい奴に声かけてどーするよ。」
勝てる見込みもないくせにキバにケンカを売る。
感情に流されてキバの動きが甘くなるかと思ったが、さすがはプロ。
怒りの感情はその動きをいっそう鋭くした。
「地獄でお迎えが待っているぞ。」
「おれが逝くなら天国だろ。」
シンがキバのナイフを紙一重でかわす。
キバがその動きを読んでシンをまちぶせした。
―――ところに、思いがけないことが待っていた。

ガコッ バキッ ベコッ

レンがいつのまに、一体どこから待ってきたのかさっぱりわからない謎のフライパンで、シンの頭を3回殴ったのだ。
3回ともすべてねらいすましたように後頭部にヒットしていた。
キバが思わず目をまるくする。
「意識不明の奴は殺さないと思ってね。」
真実は誰も知る由もないが、はたして理由は本当にそれだけなのだろうか。
レンはからだを大きくふるわせながら精一杯の強がりでキバをにらんだ。
レンはシンと違って運動神経がなかった。攻撃されれば終わりである。
ふるえる両手でフライパンをしっかりと握りながらにらみつけてくるレンの姿は、いかにもまぬけで弱っちそうだったが、キバはおとなしくナイフをふところにしまった。
「確かにおれは意識不明の奴は殺さない。恐怖を表さない奴を殺してもまったくおもしろくない。気にくわん奴ならなおさらだ。だが、おまえは今度邪魔したら意識不明でも殺す。」
キバは地面にへたりこんだレンを後にして、ヨルが寝ている部屋へと向かった。

「シン?」
急に部屋に入ってきた人影を見て、ヨルはシンの名前を呼んだ。
キバは不愉快そうに顔をしかめながらヨルが座っているベッドのはしに腰掛けた。
「あいつはおまえの何だ。」
いかにも機嫌が悪そうだ。
そこにヨルが追い打ちをかける。
「シンは大切。たった一人。大切な人。」
ここでキバは一つのことに気がついた。
ヨルは、訓練中も仕事中もキバの名前を呼んだことがなかった。
もちろんユノの名前も、だ。
キバが見た限りでは、シン以外の人間の名前は一度も口に出したことがない。
シンの名前しか呼ばないヨル。
実際には心許した人の名前しか呼ばないのであって、レンもヨルに名前を呼ばれたことが何度かはあるのだが、やはりめったに口にしなかった。
シンだけが、シン一人だけがヨルに名前を呼ばれていた。

「おれの名を呼んでみろ。」

嫉妬の炎が燃えさかる。
キバはヨルの顔を両手でとらえてキバだけを見つめさせた。
ヨルは訳がわからずとまどいの表情を浮かべた。
なぜこの男は自分に名前を呼ばせようとするのだろう。
そんなことをしても何も食べられないだろうに。
キバの真剣な瞳を見つめても、ヨルにはその心が読めなかった。
「どうして?」
とりあえず聞いてみた。
ヨルにそう聞かれてキバは言葉を失った。
自分が思った以上にヨルに心を奪われているという事実がショックだった。
他人を想わず、求めず、非情の道をみずから選んできたキバは、恋というものを理解できてはいなかった。今まで人を殺す快感以外には何事にも無関心だったのに、突然、心の半分以上のスペースをヨルに占領されて、キバはまだとまどっていた。
うっとおしいような、もどかしいような、狂おしいような、この気持ち。
そんな感情を味わうような経験などなかった。
「こんなガキに狂わされるのか。」
キバはため息まじりに少しほほえんだ。
そしてヨルに言った。
「覚悟するんだな。おれはおまえのそばを離れない。いつかおまえを殺すために。おれが執着を持った者を、他の人間に殺させたりはしない。」
「なーにが覚悟しろ、だ。大ボケヤロウ。」
フライパン三連撃から意識を取り戻したシンが部屋の入り口からキバに声をかけた。
あたりに険悪なムードがたちこめる。
そこにヨルがシンに走り寄って抱きついたりするものだから、キバの機嫌は最悪最低、斜めどころか急降下だ。
「おまえもいつか殺す。意識を失わない程度にいたぶりながらじわじわと恐怖を味わわせてやる。」
「てめーに執着持たれてもうれしかねーよっ!」
この先何度も気が遠くなるほどくり返されるであろうこのふたりのいさかいが、今、本格的に幕開けした。
レンの日記史上よくでてくる苦労話、ランキング一位に輝くこの出来事の始まりとなった、「てめーなんかにヨルは渡すか。」「おまえに渡されなくても奪い取る。」宣言である。

「シン!大変だっ!皇帝代理のユノ様がいらっしゃった!きっとヨルのことだ!」

火花をちらすふたりの間にレンが割り込んだ。
ユノがいつものように近衛兵をぞろぞろ引き連れて来ているらしい。
目的はもちろんヨルに関することだ。
「むこうからおれに面会しに来たのか。ヨルに殺人なんかさせやがって!あの白い全身を赤く染めてやるっ!」
シンは指の関節をならした。
「待て。ここは逃げろ。あいつは手段を選ばない。バカ正直に出ていったら皆殺しだ。」
キバはシンにしがみついていたヨルを引きはがし、肩にかついだ。
乱暴に部屋の窓を開け、出ていこうとする。
しかし、外を見た途端くるっと向き直って窓を閉めた。
「包囲されているぞ。」
部屋に緊張が走った。
「あんまり待たせてたら不審に思われる。踏み込まれるかもしれない。」
レンの表情はこわばっている。
「あの近衛兵は強行突破できない。」
キバの表情は変わらないが、出てきた言葉は暗い。
「ヨルがここにいる証拠があるわけじゃないだろ。だったら堂々と会えばいい。」
シンは他のふたりとは正反対な意見を述べた。
「あいつはきっと最初からおれたちを殺すつもりだぜ。いつ小型ミサイルが飛んでくるかわかったもんじゃねぇ。たぶん体面のために強行手段に出られねーんだろうが、だったら今のうちに会って文句ぶちまけちまった方が気分いいだろ。」
レンは目が点になった。
やばいことに気も遠くなってきている。
とんでもないときにとんでもないことを言い出すシンの習性はよくわかっていたはずだが、レンは神経がか細いのだ。立ちくらみをおこして倒れかけた。
「シン、バカなこと考えるなよ。死ぬかもしれないんだぞ。」
レンがいくら言っても、シンはもう決めてしまったらしい。顔がかすかに笑っている。
自分の好きなように行動することを決めたときに見せる、シン独特の笑み。
おもに上司や常識に逆らうようなときにはいつもこの笑みを浮かべる。
レンいわく、過去幾度となく大騒動を引き起こしてきた悪魔のほほえみだ。
「死んだらどうするんだよ。」
レンは力無く言った。
すると今までおとなしかったヨルが、死という言葉に反応して声をあげた。

「ヨルが行けばいい。」

シンは優しくヨルの頭をこづいた。
「おまえはしっかりしすぎだ。子育ては甘え上手の子供の方が楽しいんだぜ。おれの頼りがいがあるところ見せてやっから、おまえはおとなしく待ってな。」
シンが言ってもヨルは納得しない。
「約束したろ?おれが死にそうになったら助けにこい。」
大きくうなずいて、ヨルはシンの顔を見つめた。
シンはヨルに向かってほほえみかけ、キバの方を向くと、不機嫌極まりないといった感じで目を鋭くした。
「……しばらくヨルをたのむ。この建物のどこか、すぐに脱出できて、絶対に見つからないところに隠れててくれ。」
しばらくのところに力をこめながら、キバの方にヨルを向かせる。
なぜかキバも不機嫌な様子だった。
「え、じゃあおれはどーすんだよっ!?」
青ざめたレンが自分を指さして尋ねる。
「レンはネズミの世話たのむ。」
「!!」


ユノの見事な白銀の長髪が、肩から胸にかけてをゆるやかに流れていく。
女神のような笑顔が惜しみなく向けられる。
細く白い優美な指が、何人ものいかつい近衛兵たちにひとばらいの指示を出した。
近衛兵の中からカラだけが残り、部屋にはユノとカラとシンの3人だけとなった。
「なんの用だってんだ?面会謝絶にしといてわざわざ自分から会いにきたのか?さっさとヨル帰しやがれっ!」
シンはユノをだまし通す作戦に出た。
ユノの方もまたタヌキで、持ち前の美貌と丁寧な言葉を使って対抗する。
「私が参りました理由は、……まことに申し訳ないのですが、ヨル様が宮殿を抜け出されまして、……もしやここに来ているのでは、と…。」
「なんだとっ!」
シンは役者顔負けの演技力で驚いてみせた。
シンの性格からして驚いただけでは怪しまれるので、怒りのこもった言葉でユノをののしる。
ストレス解消にも役立って一石二鳥である。
その言葉があんまりひどすぎたのか、シンはカラに注意された。
だがシンも負けはしない。しっかりと念をおす。
「おれはおれでヨルを探すぜ!邪魔はさせねえからなっ!」
「わかりました。仕方がありませんね。今回のことはすべて私の責任ですし、シン様もヨル様のことが心配でしょう。」
ユノは半分困ったようにほほえんで、近衛兵たちをつれて帰っていった。


ヨルとキバは空気清浄機の中に隠れていた。
機械だとヘタに壊すわけにもいかないので、一番手近で安全なよくできた隠れ場所だった。
だがふたりで隠れるには少しせまく、キバはほとんどヨルの下敷きになっていた。
ヨルは軽いので、それほど苦痛でもない。
「おまえはただ生きているだけじゃなかったのか?」
キバがヨルの耳元でささやいた。
「あいつのためなら死んでもかまわないのか?」
もう一度ささやいた。
ヨルは考えていた。
どうなのだろう?
「生きるのは、当たり前。シン好きだから、死ぬの嫌なのも、当たり前。」
ヨルは本能で生きている。
生きる理由や価値は考えなくていい。
存在理由などというものは、苦悩に満ちた哲学者が作り出したものであって、元々そんなものはないのだ。
生きているのは、生きようとするのは、至極当然のことなのだから。
だからこそ、ヨルの瞳は野生のきらめきを宿しているのだろう。
ヨルにとってシンはかけがえのない存在で、絶対に失いたくはないものである。
この二つを比べることができるはずがない。
「おまえの『好き』は、愛なのか?」
キバはヨルにまたもや難題をふっかけた。
「アイ……?」
愛の意味を、ヨルは知らない。
答えろと言うのも無理な話だ。
「おれのは、愛なのかもしれない。」
キバもまた、愛の意味をよくは知らなかった。
おそらくは、愛という言葉の真の意味など誰も知りはしないのだろう。
誰もがみな手探りで真実を求めていく。
ようやく見つけだした真実がはたして本当に真実なのかどうか確かめるすべはないように、ヨルやキバの持つ感情もまた、愛なのだと言いきることはできない。
だがそれはそれぞれにとってまぎれもなく特別な感情なのだ。

「おいっ!早く出てこい!この建物から出るんだ!」

深い考えをめぐらせていたふたりの邪魔をしたのは、シンの声だった。
シンはレンを放り投げ、キバを蹴り飛ばすと、ヨルをかかえて脱出した。

数分後、建物中に紫色のガスが充満した。


4人は人目につかないようにして仮設の宇宙開発センターに逃げ込んだ。
長官は本来もめごとに関わるのが嫌なタイプだが、シンとキバが熱心にたのんだところ、快く部屋を提供してくれた。
ただ不思議なことに、説得された長官の首筋からうっすらと血が流れていた。

「ったく、皇帝代理のヤツ。毒ガスたぁおそれいったぜ。エグい手使いやがる。」
「シン、これからどうする?」
皇帝代理に命をねらわれては、どこへ行っても同じ。
ましてやユノに心酔している長官のもとでは、心もとないことこの上ない。
そこでまたトラブルメーカーのシンが、とんでもないことを言い出した。

「帝国を脱出する。」

―――すなわち惑星パラディスを脱出するということ。
シンは宇宙に出ていこうと言い出したのである。

「無理だ。今のおれたちをすんなり帝国から逃がしてくれるわけがない。宇宙に出る前に捕らえられるぞ。」
キバが言った。
帝国から抜け出すには、厳しい出国審査と検問を通り抜けなければならないのだ。
一般人でも帝国から出ることは難しいのに、皇帝代理にねらわれているヨルたちが宇宙に出るのは、まるっきり不可能と言ってもよかった。
「シン、本当に帝国を出るつもりなのか?ここを離れてどこへ行くんだよ。」
レンは青ざめていた。
レンはパラディスに愛情を感じていた。
宇宙のつらい任務から帰還したとき、いつも優しく迎えてくれる母星の姿がどれほど心の支えになったことか。
それだけではない。
レンの心に映る大切な人たちは全員この星にいる。
生きている人は生を営み、死んで心に残る人は大地に眠り。
この母なる星から離れるなんて、レンには考えられない。
「レン、おまえに無理強いするつもりはないぜ。好きなように選べよ。」
シンもレンのパラディスに対する思いを知っていた。
レンは答を決めかねていた。
「帝国を出る自信があるのか?」
もうすっかり帝国を脱出するつもりでいるシンに、キバがまゆをひそめて言った。
「策がないってわけじゃない。」
「そうか、ならばいいことを教えてやろう。今なら簡単に『PATRIOT』を引きずり出せるぞ。」
「『PATRIOT』を!?」
思いがけない名前を聞いて驚くシンに、キバはヨルがしでかした大事件を話してやった。
今ならそこら辺のコンピューターを大量破壊するだけで、帝国の切り札であるマザーコンピューター、『PATRIOT』を起動させることができる。
『PATRIOT』が起動したからといって出国審査や検問がなくなるわけではないが、帝国の中枢が混乱に陥ることは確実である。ようはユノさえ足止めできればいいのだ。
「大宇宙が味方してるぜ。」
シンは勝利を確信した。
「ところで、まさかとは思うがおまえ………」
さっきからおとなしく話を聞いているヨルの方を気にしながら、シンはキバに視線を送った。
「もちろん連れていってもらう。あいつと一緒にな。」

この後、シンとキバの殺し合いが長々と続くことになる。


とにかく一行はほぼ帝国を脱出する決意を固めた。
それは逃亡ではなく旅立ちであった。
これから一体どうなるのかまだ何一つ定かではないが、大宇宙を味方につけた彼等なら何が起きても恐れるに足りないであろう。

彼等は今、新たな道を歩き始めたのだ。
第三章―END―
続く。
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