第二章

―――惑星パラディス
新主星、パラディス。宇宙の中心の星。
この星に独裁者が現れたのはつい最近のことである。

季候がよく暮らしやすいパラディスは、人がよく集まるため交通が発達し商業が盛んな自由都市であった。この星の100以上もの国はそれぞれ国交があり、ここ120年の間は一度も戦争をしたことがなかった。どこの戦争にも参戦しない中立星として他の星の戦争にも巻き込まれることはなく、銀河一平和な惑星パラディスの名は高く響いていた。
しかし、ある男の登場によってすべてに狂いが生じた。
スペルダン・アラヒム。偉大なる指導者にして強大な独裁者。
彼は持って生まれたカリスマ性と強運とで、一代で卑しい身分から皇帝にのしあがった男である。恐怖の独裁者。凶悪なる詐欺師。血の冷血王。いづれも恐怖の対象として、彼を表す言葉は少なくない。だが民衆が彼を求めたことも事実だった。平和ボケした連中にとって力強い指導者は頼もしく見えた。彼はその恐怖政治で他のすべての国をつぶし、パラディスを一つにまとめあげた。
スペルダン帝国の誕生である。
もちろん他の星々はスペルダンに制裁を加えようとした。
最新の攻撃艇をもってスペルダン帝国に戦いを挑んだ。
しかし結果は惨敗。帝国の圧勝であった。
他星の動きを予想していた帝国は、パラディスのまわりに無人要塞をつくっていたのだ。
要塞の半径1万キロメートル以内に入ったものは高性能レーザーによってことごとくうち砕かれた。それはまさに鉄壁の護り。
スペルダンは帝国の力を見せつけるのに成功した。
銀河における帝国の権威を不動のものとしたのである。

それから130年。時は流れて―――スペルダン3世の時代―――


―――帝国宇宙開発センター

スクールの研究室を優秀な成績で卒業したエリートたちのほとんどが就職するところ。
その名の通り軍事以外の宇宙問題をほとんど取り扱う。地球調査のデータ処理も例外ではない。
「どうしたの?騒がしいわね。今日は皇帝代理の方がお見えになるのよ。わかってるの!?」
女係長の声がとぶ。今日は半年に一回の皇帝見まわりの日なのだ。
現皇帝スペルダン3世は体が弱いので皇帝の側近が来ることになっている。
センターのこれからが決まる大切な日だというのにまわりはなぜか騒がしい。
女係長の血圧は限界に達していた。
「一体何なのこのさわぎは!誰か答えなさい!場合によっては上に申し立てますよ!」
係員が事情を説明する。
「申し訳ありません。先ほど地球調査に行っている者から通信が入りまして……」
「ああ、そういえば帰還は今日でしたね。!そんなことで騒いでいたの!?」
さっきから怒りで顔が赤くなっている係長は、ひときわまゆをつり上げた。
「いえ…それが…地球で人間を発見したらしくて、調査員の一人がその人間を育てるためにセンターにつれて帰るらしいのです。今宇宙船に一緒に乗っていると………。」
「バカな。地球に人間なんているはずがないでしょう。もし本当だとしても今は皇帝代理の方を接待する方が大切です。さあ、早く準備しなさい!」
係長は報告を鼻で笑って準備を進めた。
そのころ、センター入口ではすでに長官が皇帝代理を迎えている最中だった。

「ようこそおいで下さいました。ユノ様。」
普段は偉そうに威張っている長官が深々と頭を下げた。
相手はどう見ても十代の若造である。
だがただの若造ではない。
確かに男なのに思わずため息をつくほどの美貌の持ち主で、ぞっとするほど色が白かった。瞳の色は澄みきった青で、見つめられると心の中まで見透かされるのではないかと思われた。顔や腰の線の細さと物腰の優雅さは貴婦人のものより美しい。ひたいに華奢な作りのサークレットをつけ、その上から覆いかぶさる美しい白銀の髪を腰のあたりまでのばしている。まるで中世の姫さながらに、いかつい近衛兵をぞろぞろ引き連れていた。
「皇帝陛下の御気分が思わしくないので今日は私が参りました。」
声も鈴の鳴るような声で、まるっきり女の持ち物だ。
46歳中年も半ばにさしかかっている長官は、思わず見とれてしまっていた。
「なにか?」
天使のような、そのほほえみ。
長官がそれに完全に魅了されるかというとき……

ビービービー

突如、警報機が鳴った。
「なっ何事だ!?」
さっきまで皇帝代理に見とれていた長官があわてふためいて情報を集める。
「ユノ様!大変です!すぐお逃げ下さい!コンピュータールームが爆発したそうです。ああ、どうしてでしょう。すべての災害に備えて避難装置をちゃんと設置してあるのに…何一つ作動してないんです。」
真っ青な顔でそう告げた。
それに対しこちらの美青年は冷静そのものである。
「落ち着いて下さい、長官。何か手段があるはずです。私も及ばずながらできる限りのことをいたしますので、どうかしっかりなさって下さい。」
顔色は白いまま、汗ひとすじ流さず、表情はさきほどのほほえみとまったく変わらない。天使のほほえみで手をさしのべてくる。
長官はその手をしっかりと握り、涙を流して礼を言った。

燃えさかる炎があたりを明るく照らす。
奥の方から人の絶叫が聞こえてくる。
もはや一刻の猶予もなかった。



「やっと帰ってきた。」
ため息まじりにレンがつぶやいた。やれやれ、といった感じである。
モニターで見るパラディスの姿は、大昔の地球とよく似ている。
生命の息吹を感じさせる青い惑星。
レンは地球なんかより断然こっちの方がいいと思う。
どうしてシンがこのパラディスではなく地球にこだわっているのか全く理解できない。
美しいパラディス。親しい人たちの住む星。自分の故郷。
今回も無事帰ってこれてよかった…………。
レンは心から思う。

そもそもシンのパートナーになってからというもの、レンは少しも心休まるときがなかった。センター始まって以来の問題児にして隠れた天才、思いたったら一直線のシンの行動はまったく予想がつかない。暴走を事前にくい止めようにもくい止めようがなく、いつも何か大変なことをしでかした後で何もしていないレンがフォローしてまわるハメになる。パートナーの責任は自分の責任でもあるからだ。それに、シンがとる行動はすべてシンの正義にもとづいたものなので、シンが頭を下げることは絶対にない。レンが代わりに謝るほかなかった。
かけずりまわるレンを見て、シンは毎回すまなさそうに落ち込んだ顔をする。自分のやったことを悔やむ気はないが、そのせいでレンが苦労することについては別らしい。
いつもはめったに見せないシンのばつの悪そうな表情。
レンはその顔に弱い。
一度思いきり落ち込ませればいいものを、すぐにあっさりと許してしまう。
結局はまたすぐに騒動を起こすシンにむかってうらみごとを言うことになるのだが。
いつもいつも同じことのくり返し。
何度今度こそは…。と思っても、最後にはレンはシンに負けてしまう。
今回だってそうだった。

レンは床の方に目をやった。
冷たい宇宙船の床に、ヨルが猫のようにまるくなってうたた寝している。
ヨル―――地球で見つけた少女。
最初に見たときは骨に皮がはりついて立っている感じだったが、よく栄養計算されてある宇宙食のおかげで今では少し肉もつき、ちゃんと生きている人間に見えるようになった。
地球で生まれ、地球で育った少女。
彼女は今パラディスにむかっている宇宙船の中にいる。
レンがヨルをつれて帰ることに反対したので、シンが密かに密航させたのだ。
離陸した宇宙船からヨルが見つかったとき、レンは本気で腹を立てた。
引き返そうにもすでに宇宙船は大気圏外。無理にでも引き返せば燃料の方に不安があった。
真空の宇宙に放り出すわけにもいかず、レンは仕方なくヨルの乗船を許可した。
しかし、21歳の下級センター員が一体どうやって子供を育てるというのか。
センター員は超多忙で一日中仕事に追われる。寝る時間さえほとんどない。
ましてや位が下級では、牛馬のようにこき使われてほとんどただ働きのようなもの。
子供を養うだけの時間もなければ金もないのだ。
レンは真剣に考えた。
このままパラディスにつれて帰っても、朝昼晩一日中慣れない環境にたった一人でいることになる。わざわざそんな思いをさせるためにつれて帰るなんてかわいそうだ。
ところがシンはこう言った。
「だから出世すればいいんだろ。お偉いさんがたの方がゆっくりしてるからな。10日ばかりヨルを一人にさせるかもしれないが後は大丈夫だろ。」
ようするにシンはわずか10日間で自由に休みを取れるくらいの身分にまで出世できると断言したのである。
レンは確かにシンが本気を出せばそのくらいやってのけるかもしれないと内心思ったが、だとしたら今まで自分が過ごしてきた苦労の日々はいったい何だったのか。
ムクムクとこみあげる怒りに口をまかせた。
「自分勝手で自信過剰なんて最低だ。」
それはレンが常々思っていたことだった。
今まであえて口に出さなかったが、ついに堪忍袋の緒が切れたのだ。
「いったん拾ってやっぱり無理だからって放り出せっていうのか!?おれはそんな軽い気持ちで育てるって言ったんじゃないぞ!」
シンが力いっぱい反論する。
レンが言いたかったのはヨルのことではなくシンの性格のことだったが、シンの言葉によって話の軌道をそらされた。それでもレンの気持ちはおさまるところを知らない。
「どうだか!シンのせいでふりまわされるまわりの身にもなってみろよ!ヨルだってふりまわされてる側なんだからな!」
普通なら言わないようなこともするすると出てくる。
「!じゃあ地球において帰って餓死させればよかったっていうのか!」
「そんなことは言ってない!でもシンの周りを考えない行動のせいでどれだけ迷惑する人がいると思ってるんだ!少しは考えろよ!」
すさまじい応酬が続き、ふたりはそれから一週間ぐらいずっとけんかして過ごした。
そして一週間後。仲直りの展開はいつもどおりだった。
まずはシンが謝った。
「レン、やっぱおれが悪かった。でも今回だけは誰に迷惑かけてもわがままをつらぬきたいんだ。おまえにはいつも悪いと思ってる。でももう一回だけ頼む。ヨルを育てたい。」
レンはあきらめたような顔をして目を閉じた。
「仕方ないな。」
おきまりのセリフですべてを許したレンの心は、たくさんの不安でいっぱいだった。
だがもう本当に仕方がない。
レンはパラディスに通信を送った。

「地球デ人間ノ少女発見。調査員ノ一人ガツレテ帰ッテ育テルタメ現在宇宙船ニ同乗…」



「ヨル、起きろコラ。勉強の時間だぞ。」
ゆりかごをゆらすような優しい手つきでシンがヨルをゆり起こす。
ヨルはまだ寝たりなそうな目で声の主を確認すると、ゆっくりと体を起こした。
パラディスにつれていくのならそれなりの知識を持っていないと生活できない。
シンは10日で重役昇進という超無謀とも言える計画を立てているため、宇宙船にいるうちにヨルにできる限りの教育を施さねばならなかった。

「ヨル、おまえ頭悪いだろ。だからそうじゃなくてこうだ。」
レンが深い感慨にふけっている横で、シンはヨルと一緒に遊んでいる。
シンとヨルの勉強会の様子は、不安に頭を悩ませているレンの目にはどう見ても遊んでいるようにしか見えなかった。教えているのがシンなのだから当然だろう。
悩みなど全くないといった感じのふたりが座っているイスの横には、カーテンがかかった鳥かごが置かれている。
中身は知っての通りである。
レンがこの世で一番嫌いな動物であるそれは、今や3人の中に完璧に入り込み、名前までもらっていた。
ヨルがつけた名前で、その名も――シン。
シンはやめてくれと頼んだが、ヨルはゆずらなかった。
この動物、………ネズミの名前はシンである。

仲良く遊ぶ男女の下にある鳥かご。
そのカーテンの中には名前のついたネズミが………
その様子を見て、レンはめまいを覚えた。

「シン、ヨルのことセンターに報告しといたから。」
ふたりに向かってレンが言った。
突然のその言葉にさっきまで遊んでいたシンがさっと立ち上がる。
「報告したのか!?」
「当たり前だよ。外部からの訪問者は必ず内部の者がセンターに連絡しなけりゃならない。」動揺するシンに驚いたようにレンが言った。
シンは考えこむようにして腕をくみ、低い声でつぶやく。
「嫌なんだよ。地球にいたとか言えばヨルは必ずセンターの奴等に見せモノにされちまう。普通に育ててやりたいんだ。」
シンはそう言ってヨルの頭をなでた。
なでられることにもだいぶ慣れたヨルは状況に気づいていないのか、気持ちよさそうにしてシンにすりよってくる。
獲物を求めてシンに襲いかかった少女だとはとても思えない。
ヨルはこの短期間の間にずいぶんとうちとけ、時には笑顔も見せてくれるようになっていた。人が人として生きることのできない星で育ち、想像を絶するような思いを味わっただろうに、その笑顔はゆがんでいなかった。
このうえなく愛らしい笑顔だった。
ネズミの世話もすすんでやった。言葉もかなりしゃべるようになった。
一番よく使う言葉はもちろん『シン』。
そんなヨルを見て、シンが愛しく思わないはずがない。
レンも、ヨルが変わっていく姿を見るのは正直言ってうれしかった。
シンの名を大切そうに呼ぶヨルを見るたびにほほえましい気分になった。
レンだってヨルを愛しく思っているのだ。
だからこそ。
「シン、規則なんだ。それに無人要塞はごまかせても検問はごまかせないよ。検査員が宇宙船をひっくり返して調べるんだ、そのとき報告がいってなかったらヨルは絶対に殺される。」
言い聞かすようにレンが言った。
まったくもってその通りなので、シンは黙り込むことしかできなかった。

検問とはパラディスの住民が他星のスパイの手引きをしないよう宇宙に設置されたもので、パラディス本土に着陸する前に住民票と報告書を照らし合わせて身元を調べ、宇宙船もすみずみまで、ありとあらゆるところを検査する。そこで見つかった不審人物はスパイであろうとなかろうとその場で首を切られてしまうという恐ろしいシステムなのである。

このままいくとヨルはモルモットにされても命は助かる。
レンが報告を送らなかったらヨルは殺されていた。
頭ではわかっていても、感情では納得できなかった。
シンは眉をひそめ、うまいこと思い通りにいかない世の中に怒りを感じていた。
レンも気まずそうに口を閉ざした。

ふたりの様子をさっきから見ていたヨルは、重い空気の中、まだかたことの言葉で精一杯気持ちを伝えようとした。
「シン、帰る?そのほうがシンにいいなら帰る。一緒なら帰ても別にいい。一緒嫌なら一人帰ってもいい。どうして欲し?」
シンのことを一番に考えるヨルは、帰ったほうがシンのためなら帰ってもいいとけなげな発言をしている。
シンとレンがヨルを見て、同じような顔で笑った。
シンが左手で自分の頭をかきながらクセのある口調で言う。
「どこに帰るつもりだおまえ。子供が帰る場所は親の元だと決まってるんだ。覚えとけ。」「シン、そういうときはおまえを手放したくないんだってすなおに言いなよ……。」
不自然な態度はてれかくしのつもりだったらしい。
思わずレンが吹き出した。
「ヨル、おれたちはヨルに帰って欲しくないから悩んでるんだよ。だからおれたちと一緒にいてくれないと困るんだ。」
レンは笑いを抑えながらシンの言葉を通訳したが、思わぬ反撃が待っていた。
「でもレンはヨル宇宙船乗るの反対した。」
このヨルの言葉にレンは動揺を隠せなかった。
ヨルは大きな両目でレンの顔を正面から見つめている。
真意を確かめようとしているらしい。
「い、いやあのときは立場上許可するわけにはいかなかったというか……確かに反対はしてたけどでも別に……えーっと常識的に考えても賛成するわけには……あっでも今はそんなふうには思って……」
レンの必死の言い訳を聞いて、今度はシンが吹き出した。
大声で腹を抱えて転げ回りながら大爆笑している。さっきまでの気まずさのかけらもない。
3人はいつも通りの雰囲気で無事検問を通過した。
パラディス着陸まで後20分弱。
3人の新たな生活が始まろうとしていた。



「まだか!まだ火は消えないのか!後何人くらい中にいる!?災害対策本部は何をしているんだ!」
普段はゆったりとソファーに座り、センター員を見下すような態度をとっていたセンターの長官は、極度のパニック状態にあった。
今日は皇帝代理を迎えてセンターの良いところを最大限アピールしなければならない日だったはずなのに、なぜこんなことが起こるのか。
よりによってコンピュータールームが爆発し、火災発生。非常装置は何一つ作動せず、爆発が始まって40分がたとうとしているのにまだ爆発が続いている。
皇帝代理の前でなんたる失態。
長官は自分の出世街道が奈落の底へと消えていくのを感じていた。
ちらっと爆発の方へ目をやると、涼しい顔をした美貌の青年が数人の近衛兵とともに熱く燃えさかる炎を見つめている。
こんな時だというのに、その美しさは人々の目を残らずくぎづけにしていた。がっしりとした体型の近衛兵とならんでいると線の細さがますますきわだって見え、聖域で咲く一輪の白百合のようだった。腰まである白銀の髪が熱風にあおられあらわになった眉目秀麗な顔は、この世の何ものをも魅了してしまうだろうと思われた。
美しい顔はいつも笑顔をえがき、おだやかな調子の声はいつも人を励ましていた。
さすが皇帝代理などという大役をこなす人はどんな時でも冷静なものだな、と長官はつくづく感心した。
「ユノ様……私は一体どうすればいいのか……何か策はないのでしょうか。」
顔色の悪い長官の問に、彼は答える。
「どうにかして中にいる人たちを助けなければなりませんね。もはやコンピュータールームにいた人たちは手遅れでしょうが、他のところにいた人ならあるいは……。とにかくこのままではセンターが全壊してしまいます。その前にできる限りの手を討ちましょう。」
まさしく正論な答を彼は言った。
あくまで冷静に。静かに。人を安心させる笑顔で。
長官はこの短期間で、目の前にいるすばらしく魅力的な皇帝代理にとことん心酔していた。
「あの、もうコンピュータールームはあきらめるしかないんでしょうか。あそこには古くからかなり貴重なデータが寄せられていたんですが。」
まるっきり信頼しきった感じで聞く。
「ほう、例えばどのようなものなのですか?」
ユノは初めて表情を動かした。
「いえ、見たことはありません。なにせものすごい量ですから。たぶん誰も見ようだなんて思わなかったでしょう。しかし失うにはもったいないような……あっいえ、そういえばいました。よくデータをのぞいていた奴が。」
「どなたですか?」
長官はユノに興味を持ってもらったことがうれしく、そのセンター員のことを近所話でもするような軽いノリで話し始めた。もはや長官には周りの状況が見えていない。
すぐ隣で炎がゆれているというのに、長官に見えるのはユノの麗しい姿だけである。
「確かシンとかいう奴です。今は地球調査に行っていますが。下級センター員のくせにどこからかコンピュータールームのカードキーを手に入れて勝手にデータを見てました。他にもさんざん問題を起こしてましてこの前も研究用のゼダ星人を逃がしてしまったり…。下級のセンター員で私直々に処分を下さなければならない奴など奴ぐらいのものです。」
この発言は一人の下級センター員にふりまわされているセンターの実状を伝えただけだということに、長官はまだ気づいていない。
「なぜ退職させないのです。」
ユノが聞いた。
「それは……おしい人材なんですよ一応。奴はスクールの卒業試験とセンターの就職試験をトップ満点でクリアしたんです。満点ですよ全科目!本来なら一ヶ月で重役会議に出てもおかしくない奴なんです。」
ユノはこの話にいたく興味をいだいたようだった。
長官がますます調子に乗って話していると、急に上空から激しい突風が吹き下ろし、耳が痛くなるような轟音が響いてきた。風も音もどんどんひどくなっていく。
その風にあおられて、センターに燃えさかる炎がいっそう激しくなる。
「なんだ!今度は何事だ!」
ユノとの楽しい会話を邪魔された長官が、声を大きくはりあげた。
「長官!宇宙船です!地球調査に出発した宇宙船が調査を終えて無事帰還しました!」
瞬時にセンター員の報告が届く。まだ通信機関はやられてないらしい。
「ユノ様!今話していた馬鹿者が到着したようです。」
「………。」
「こんな時に帰ってきおって馬鹿者め!炎が強くなっただろうが!」
癇癪を起こす長官の視線の先には、宇宙船用エア・ポートのライトでつくられた3人分のシルエットがあった。
一番背の高い影が言った。
「何事だこりゃ。しばらく見ないうちにずいぶん明るくなったもんだな。」
それより少し低い影が言った。
「そんなこと言ってる場合か!センターが燃えてるんだぞ!一体何が起こったのかさっぱりわかんないけどとにかくなんとかしないと!」
ここまでは長官にも誰が言っているのか容易に想像できた。
3人目、いるはずのない影が言った。
「火、いっぱい。初めて。熱い。」
長官は首をかしげた。
一番背の高い影は長官の姿に気づいたらしく、のんきにこっちに向かって手を振っている。
「お久しぶりです長官。シンです。ただいま帰還しました。何があったんです?」
今さらのように敬語を使ってきた。
長官は苦虫をかみつぶしたような顔をしながらしぶしぶ状況を説明した。
ブラックリスト常連のシンの力を借りるのは甚だ不本意、といったところだろうか。
長官から事故の話を聞いて、シンは頭を抱えこんだ。
めったに使わない脳みそにはクモの巣がはっていたが、回転の速さは衰えていなかった。
「原因不明の爆発?しかもセンターにとって一番重要なコンピュータールーム。その後発生する火災によって逃げ場を失うセンター員。長官、これは何者かによる計画犯罪ですね。」シンの思いがけない発言に長官は言葉を失いかけた。
「……それは確かか!?」
シンが重々しくうなずく。
「これだけ完璧だとあやしすぎる。コンピュータールームは毎日メンテナンスされているし、万に一つでも事故が起こるはずはない。起こしたんですよ誰かが。そうでないとおかしくなる。」
「それより中にいる人の救出はどうします?いるかいないかわからない犯人のことより、助けを待っている人の方を考えるべきではありませんか?」
聞いてて耳に心地よい声が、シンの推理を妨げた。
「長官、この方はどなたで?」
見たことのない顔を前にして、シンは少しとまどう。
「この方は皇帝陛下の代理の方だ。ユノ様と申される。」
長官がうやうやしく紹介すると、ユノはいつもの顔でほほえんだ。
「初めまして。さあ、どのようにして救出なされますか?」
まるで試すような口調だった。
先ほど長官と話していたときとまったく変わらない笑顔なのに、何か違和感が感じられた。シンとユノは一瞬見つめあい、そしてすぐに目をそらした。
「長官、見事救出したら重役昇進ってのはどうですか?」
何事もなかったかのようにして、シンは長官相手に悪魔の笑顔で交渉を始めた。
長官は聞き返す。
「何があった?あれだけ出世に興味がなかったおまえがえらい変わりようだな。」
「目的ができたんですよ。その目的を達成する手段として出世したいだけです。」
シンがそう答えると、長官は短いため息をついてうつむき、しばらく沈黙した。
そしてまたため息をつき、うつむいたまま言った。
「この件が終わってもまだ私が長官をやっていられたらな……。」


「中からの脱出は不可能。外からしか打つ手がないな。センターの設計からするとこの状態で避難できるのはここと、ここと、ここくらいか。でもここにこれがあるからこうなって、だとすると……。」
交渉がまとまってから、シンは長く使っていなかった自分の頭をフル回転させていた。
その様子を後ろからヨルが見つめている。
ヨルの目の前では、シンたちの低めの声がセンターの地図を中心に激しく飛びかっていた。

「長官!1230型スーツがそこらへんに備えられているはずですね!?」
「いや、だめだ。あれはこの前の訓練のとき使って、古くなっていたのがわかったので今新しいのを製造中だ。1140型スーツならそこにあるはずだ。」
「1140じゃだめです。計算では第三通路に一酸化炭素が充満している可能性が高い。マスク付きのスーツでないと。」
「なら第五通路から行けばいいだろう。」
「あそこには特殊ガスが吹き出しています。向かいの研究室も爆発していますから保管されていたチタニウム物質とアヤン剤の気体がいり混じっているはずです。」
「何でそんなことを知っている!おまえ研究室のカードキーも勝手に手に入れてたのか!」「チタニウム物質とアヤン剤の混合物は……………………!これは、いやしかし…」

ヨルにはまったく訳の分からないことがめまぐるしく展開していた。
真剣な顔をしたシンが知らない人間とどなりあっている。
シンとレンのけんかより緊迫した空気があたりを包む。
ヨルは状況を飲み込もうと必死だった。
シンが困っている。
自分にもきっとシンの役に立つことができるはずだ。
ヨルはそう考え、シンのもとに走り寄った。
「ヨル何かする。きっとできる。」
ヨルは真剣な面もちで言う。
少しでもシンの役に立ちたいのだ。
シンは驚いた顔でヨルを見ると、つらそうな笑みを浮かべた。
「まいったなおまえ、テレパシーかなんかあるんじゃねーの?こんな時に来るなよ。決心がにぶるだろうが。」
シンはいつもそうしているように、大きな手で優しくヨルの頭をなでる。
ひどくつらそうな顔で。
「どした?」
ヨルは聞かずにはいられなかった。
一体何がそんなにつらいというのか。
何がシンを苦しめているのか。
シンはしばらく黙っていたがヨルの顔を見るといっそうつらそうな顔をして、まるで自分に言って聞かせるように小さく言った。
「おまえしかいないんだ。中にいる奴等を助けられる奴が。第五通路に充満している気体は地球の大気とよく似ている。地球で生まれ育ったおまえならぬけられるだろう。だが中は炎に包まれた地獄だ。たとえ耐熱スーツを着ているとしても命の保証はないんだ。」
シンはヨルを両腕で強く強く抱きしめた。
「せっかく幸せにしてやるためにここまでつれて帰ってきたのに、着いた早々死ぬようなことさせられるか!」
シンは本当に苦しんでいた。

  しあわせ
ヨルは考えた。
シンと出会ってから自分はどれだけの初めてを体験したのだろう。
しかもしあわせな初めてばかりだった。
シンは大切な人。
シンはかけがえのない人。
今自分は大切な人の役に立てる初めてを体験しようとしている。

  しあわせ

ヨルの中に死ぬかもしれないという思いはなかった。
「シン、行って来る。ヨル役に立つ。」
そう言ったヨルの顔は、極上の笑顔だった。
まぶしいような笑顔の中、ヨルの黒い両目がひときわ美しく輝いたのをシンは見た。
シンが心から美しいと感じるふたつの光。野生の動物が持つあの光。
「………なんでも野生の動物ってやつは自分の生命の危機を感じ取るらしい。絶命の時期ってのもわかるそうだ。おれはおまえの野生を信じたい。………生きて戻れよ。おれはまだおまえを幸せにしてない。子供が帰る場所は親の元だと決まってるんだからな。」

シンの心配をよそに、ヨルはまっすぐ炎熱地獄へと走っていった。


「あの子供は誰ですか?」
ヨルを飲み込んだ炎の方を見つめたまま、ユノがたずねた。
「そうだ!私も聞こうと思っていた。誰だあの子は。」
ユノの言葉を聞いて、長官も思いだしたように言った。
「………レンに聞け。」
シンは悠長に質問に答える気になどならなかった。
こうしている間にもヨルは炎の中にいるのだ。
いつ天井が落ちてくるか、いつ一酸化炭素中毒になるか、いつ通路をふさがれるかわからない地獄の中に。
シンはそこらにちらばっていたセンター員を集合させ、ひたすらバケツリレーをくり返していた。他にできることはなかった。
レンもリレーの列の中にいたが、こちらはふたりの質問にしっかりと答えてやった。
いつもこんな役まわりだ。
「ヨルは地球に残っていた人たちの生き残りです。」
衝撃の真実に、長官とユノは驚きを隠せない様子だった。
無理もない。とレンは思った。
「あの少女一人だけ、ですか。」
ユノが聞いた。
「ええ、そうです。」
「地球に一人だけ。……それでも種族はたった一人ではないのでしょうね。現在のパラディスの住民も、もとは地球人の子孫ですし。」
顔にかかる白銀の長髪をはらい、ユノがぼそっとつぶやいた。
誰にも聞かせる気はない、おそらくひとりごとだったのだろう。
レンにはユノが一体何を言いたいのかまったく理解できなかった。
「あ、失礼しました。よくわからないことを言ってしまいましたね。」
不可解な顔をしたのを見られたのか、ユノはレンの思ったことを察知していた。
ユノはレンに頭を下げながら、近くに待機している近衛兵の方に寄ると、またつぶやいた。


「地球で生まれ育った人間……。」
上を向いたその目は空を通り越し、はるか遠い宇宙を見つめていた。


あたりは一面炎の海。道といえる道はない。
熱くはないが、視界がはっきりしない。第五通路とやらはもうすぎたのだろうか。
今まで見たこともない大量の炎がヨルを赤く照らし出す。
それは血の色に比べるとはるかに淡い、薄い色だった。
きれい。
ヨルは思った。
一面の炎がヨルを現実から遠ざけ夢見心地にさせていた。
幻覚か、それともヨルの一部となった部分が本体を離れたのか。
赤い色の向こうにヨルは今は亡き両親の姿を見たような気がした。
だが何か違っていた。
幼いときの思い出ではあるが、はっきりと覚えている。
あのとき両親を照らしていた色はこんな色ではなかった。
もっと濃い、深みを持った色だった。
その色の正体に気づき、ヨルはつばを飲み込んだ。
あれは……血の色。
父が殺した母の色。私が殺した……父の色。
あのとき、何が起きたのかわからなかった。
必死だった。死にたくはなかった。気がついたら体が動いていた。
なんと言い訳しようと、父を殺したのは自分だった。
ふと、ヨルは考えた。
私はシンさえも殺してしまえるのだろうか。
大切な人、かけがえのない人を、殺すのだろうかこの手で。
この手で殺した父を喰らい、自分の生を共に生きても、犯した罪が消えることはない。
いつか殺してしまうのかもしれない。罪人は死んでも罪人だから。
いつか殺してしまうのかもしれない。他の誰でもなくこの私が。
いつか殺してしまうのかもしれない。
シンは私が犯した罪を知らない。父親を殺したことを知らない。
知ればどうなるだろう。どうなってもいい。
私はきっとシンのそばにいない方がいい。
たった一人。
もうこの世にたった一人。
『特別』な人がいる。
死んで欲しくない。
殺したくない。
しあわせになって欲しい。
おいしいものをたくさん食べていて欲しい。
誰にも渡したくない。
『特別』な人がいる。
もうこの世にたった一人。
たった一人。
そういう人がいる自分はしあわせなのだ。
しあわせをくれたのはシンなのだ。
しあわせな罪人は許されない。

―――有罪。

心の中で幾度となく、もう聞きあきた言葉―――。
骨の髄まで血色に染まった、救われようのない罪人―――。


「た……すけ…たすけて…たす…」
下の方からかすかに声が聞こえてくる。
とぎれとぎれで今にも途絶えそうな声だが、確かに聞こえてくる。
床に何か取っ手のようなものがあったので引いてみると、地下に部屋があった。
部屋にあまり人数はいなかった。奥の方を見ると、天井がくずれているのがわかる。
おそらく大勢が下敷きになったのだろう。何人かの人が身を寄せ合ってふるえていた。
出口をふさがれた地下室の中にいるみんなは、ヨルの姿を見て一斉に目を輝かせた。
息苦しそうにせきこみながら、それでもひとすじの希望に期待をいだいている。
ヨルはシンに言われたとおりケースからカプセルのようなものを取り出すと、地下室に向かって思いきり投げ込んだ。
カプセルから飛び出した薄い膜のようなものが、全員の体をおおう。
それは最初全身を包み込むようにして球体になり、そこからどんどん体に密着していった。
やがて完全に密着すると、熱くもなく、息苦しさもなくなっていた。
「シン、言った。これで大丈夫。」
ヨルはそう言うと、来た道を指さして早く行くようにうながした。

カプセルに入っていた薄い膜は帝国兵器開発センターの自信作で 、毒ガスの充満する戦場やエネルギー資源の運搬途中の火災事故、水中での土木工事など、ありとあらゆる状況に対応できるようつくられたオールマイティーなバリアである。ただしまだ開発途中のため、時間制限があるという欠点があった。宇宙開発の分野にもおおいに役立ちそうだったので、長官がほんの数個だけ仕入れていたのだ。ヨルも脱出の時にはこれを使った。

こうしてヨルは次々と救出作業を終わらせていった。
センターが全壊したときヨルはすでにすべての人々を助け出し、無事シンの元に戻っていた。
多少のやけどはあったが他にたいしたケガもなく、五体満足の状態だった。

火もおさまり爆発もおさまったので、長官は安堵のため息をもらした。
センターはあとかたもなくなっていたが、長官はこれからのことを考えるのをあえてさけていた。これからどうなるか、すべては美しい皇帝代理の判断しだいである。
ユノはヨルに向かってこのうえなく優雅なしぐさで右手をさしのべた。
「ごくろうさまでした。あなたのおかげで本当に多くの命が助かりました。私からもお礼を申します。」
ヨルは手を取らなかった。
なぜ自分に手がさしだされているのか、なぜこの人間が礼を言うのか理解できなかった。それどころか、見たことのない人間が親しくしてくるのでヨルは全身で警戒し、威嚇した。
それは誰の目から見ても明らかだった。
「ヨル、この人は別に怖くないよ。お礼を言ってもらってるんだからそれは失礼だろ?」あわててレンがフォローした。
長年の苦労のおかげで、すっかりフォローぐせがついてしまっているらしい。
が、レンの必死のフォローむなしく、ヨルはユノにかみつきかけた。
――場が凍りついたのがわかった。
その空気をさっしておとなしくしておけばいいものを、本家本元のトラブルメーカーのシンがついに口を開いた。
「ヨル、後でおれがいいモン食わせてやるからそれはやめとけ。そういうのは絶対まずいぞ。白くてうまそうなのは皮だけだからな。腹こわして泣くのはおまえだぞ。」
――場が闇の中へのまれていくのがわかった。
「申し訳ありません。こいつに悪気はないんです。ただ言葉というものを知らないだけで。」再びレンの苦しいフォローが入ったが、長官も、ユノも、反応はなかった。
「レン、おれが上の人種きらいなの知ってるだろ。あいつらいつだって腹の中は真っ黒なんだぜ。そいつだって全部人にやらせて自分は何もしてなかっただろうが。バケツリレーさえもな。」
レンの苦労をよそに、シンはまたもレンの神経がすり切れるような言葉をはいた。
――バカ!この方は皇帝代理なんだぞ!おまえ出世するんじゃなかったのか!
レンは心の中で叫んだが、ちゃんとわかっていた。
何を言っても、言わなくても、結局シンは自分の思ったとおりにするだろう。
そしてふりまわされるのはいつも自分なのだ、と。
最悪な処分を頭に思い浮かべ、目を閉じて覚悟を決めたそのとき。

笑い声が、した。

「おもしろいですねあなた方は。失礼、思わず笑ってしまいました。確かにそうですね。私も何か行動するべきでした。自分のいたらなさが恥ずかしい限りです。」
ユノはにこやかに笑った。
長官はただただ唖然とし、レンは体中の力が抜けていくのを感じた。
「あなたも本当に一生懸命救出に動いて下さりましたね。あなた方のような方たちがこの星におられることを誇りに思います。」
あれだけ失礼なことを言われたにもかかわらず、ユノは堂々とした態度で丁寧に礼を述べている。
長官はどもりながら聞いた。
「じゃ、じゃああなたはこいつらを許すというのですか!?」
「ええ、何を罰することがあるというのです。みなさんを讃えたい気分ですよ。」
返事はさらっと返された。
いまだかってこれほど見事な方がおられただろうか。
レンは胸にわき起こる感動を抑えられなかった。
それは長官も同じで、ユノの前で涙を流し、男泣きした。
さらにユノは言った。
「あ、それから、シン様と申されましたね。センターが無くなった今、そちらのヨルという少女を検査できるところはありません。できればこちらであずかりたいのですが。」

「なんだと?」

「その少女を、宮殿にあずけていただけませんか?」
ユノの言葉はシンにとって思いがけないものだった。
シンは抑えがたい怒りを感じた。
「なぜだ?」
理由を問うその声は怒りにふるえていた。
ユノはまゆ一つ動かさない。
「その少女は地球からおいでになったそうですが、地球を調査されたあなた方ならおわかりでしょう。地球は汚染物質の宝庫なのです。今こうしている間にも何かウイルスに感染しているかもしれません。検査は必要です。」
「ウイルス検査なら宇宙船ですませてある!それに宇宙船にいる間おれたちはマスクなしで一緒にいて平気だったぞ!」
間をあけずにシンが叫んだ。
それに対してユノは冷静そのもの。
ゆっくりとした口調で理にかなったことをついてくる。
「しかし宇宙船の機械では本格的な検査はできません。あなた方も速やかにドクターの診断を受けて下さい。」
シンはわなわなとふるえる拳を握りしめた。
「こいつはおれが幸せに育ててやるって決めてるんだ。おれから奪い取ってモルモットにするっていうのをおとなしく見てられるかっ!」
シンはすばやく拳で殴りかかった。
レンと長官が急いで止めにかかるが、シンの動きの方が早かった。
もうだめだ、と、レンはまた目を閉じた。
皇帝代理に殴りかかってしまったらどんなフォローだってきかない。
「……くっ。」
「ヨル様はあずからせていただきますよ。」
ユノの白い手がシンの腕をつかんでいる。
シンの拳はすんでの所で止められていた。
シンは全身全霊の力をこめて腕を動かすが、ユノは微動だにしない。
「人は見かけによらない、か。」
シンはくやしそうに目を細めた。

ツンツン

人差し指が、ユノをにらみつけたまま動かないシンの背中をつつく。
「ヨルは行く。」
シンの背中からそれだけ言って、ユノの方にかけよった。
黒い瞳がぬれている。
シンは声が出なかった。
ぼうぜんと立ちつくして、死んだような目をしていた。
手はほんの少し前の方にさしだされていたが、石のように動かなかった。
なぜ、と問うことさえできなかった。
固い決心を表すぬれたまなざしが、シンの体を縛っていた。
絶対に手放さないと決めていた。思いは同じだと思っていた。
なんの根拠もなく。
なのに愛すべき自分の娘は、その意志で他の人間を選んだのだ。

「シン好き。たった一人。」

一言残して、少女は去った。
白銀の闇に連れ去られた。
ユノも近衛兵も少女もいなくなり、黒く焼けこげた地面にシンはうずくまった。
レンが走って声をかけたが、シンは動かなかった。
長くつきあってきたレンも、相棒のこんな姿を見るのは初めてだった。
今までシンがこれほどショックを受けたことなどなかった。
怒りをあらわにするわけでもなく泣き叫ぶわけでもなく、ただうずくまったまま身動き一つできない自分に、シン自身も驚いていた。
体中を激しくかけめぐるやり場のない感情にさいなまれ、深く感じ取る。
―――おれは、いつの間にか、こんなにも――――。

やがて日が暮れ、あたりは静かになった。
夜がふけるまでシンはその場を動かなかったが、いつまでたってもヨルが帰ってくることはなかった。
果てしない暗闇の中、ヨルを連れ去ったユノの姿が見えたような気がした――。



パラディスの中心。皇帝陛下のおわすところ。
スペルダン宮殿は宮殿という名を借りた要塞であった。
金属の色をした高い塔で、見かけは機械の固まり、中も機械の固まり。何もかもが機械でできていた。しかもそのほとんどが軍事目的の機械で、中の機械をすべて使いこなすことができたならたとえ100万の大軍に囲まれても2週間はもつであろうと言われている。

そんなスペルダン宮殿の一番南よりの部屋にユノはいた。
壁も床も金属の光沢に輝く部屋の中、彼の髪は何よりも美しい光を放っている。
ユノは豊富な銀糸をもてあそびながら、さっきから後ろにひかえていた男に話しかけた。
「この部屋にいるときはその服を脱げ。趣味が悪い。」
男は皇帝から与えられた近衛兵の制服を脱ぎ捨て、下に着ていたシャツの姿になった。
「ユノ様、あの少女をどうなさるおつもりですか?」
男が聞いた。
近衛兵の中でこの男だけは、ユノの行動について質問することが許されていた。
他の者ならすぐさま城を追放されただろう。
だが、ユノは質問した男を不愉快に思ったようだった。
「利用させてもらう。」
男の方を見ようともせずに、冷たく言い捨てた。
ユノは口の両端を軽くつり上げると、そばにあったワインのビンを逆さまに持った。
赤色のアルコールが男の金髪をたっぷりとぬらす。
男は何も言わず、落ちてくるワインが止まるのを待っていた。
「今、さしでがましいことを言おうとしただろう。あの少女をどう扱おうと、誰にも文句は言わさぬ。私は私の好きにやる。おまえに止める権利などないはずだ。口出しはするな。」
男は無言でうなずいた。ワインにまみれた金色の髪を洗おうともせずに。
「それよりコンピュータールームからあのデータは取り出せたのか?」
ユノの言葉を聞いて、男はふところから一枚の書類を取り出した。
「回線に無理矢理侵入した後すぐに爆発を起こさせましたから、痕跡はみじんも残っていないはずです。」
「完璧すぎる爆発があだになったようだがな。」
ユノは男の手から書類を奪い取り、手で人ばらいの意を示した。
男は指示に従い、深く一礼して退室する。
戸を閉めようとしたとき、声がした。

「おまえのせいで床がワインびたしになった。後で清掃係を呼んでおけ。」

男はそっと戸を閉めた。
思わずついてしまった小さなため息を気付かれないように。

清掃係、とユノは言ったが、宮殿に清掃係といった者は存在しない。召使いや世話係ならいるが、清掃だけと役目が決まった者はいないのだ。この場合、「後でおまえが掃除しにこい。」ということなのである。それに「後で」と言ったからには、「その間に何かしておけ。」という意味もひそかにふくまれている。
書類の内容はすでにわかっているし、ユノには生まれたときから仕えているようなものだ。
今さら隠されるようなこともない。わざわざ「後で」と言うのなら、何かわけがあるとみていい。今回はきっと、「少女の様子を見てこい。」と言うことなのだろう。
ユノのそばにいるためには、このように物事を深く考えなければならなかった。
それこそ裏の裏まで読みとらなくてはならない。
あっという間にひねくれた人間になることを保証する。
「カラ。」
後ろから急に呼び止められ、男はあわててふりかえった。
ユノが呼んだのかと思ったのだ。
よく聞くとまったく違う声なのだが、先ほど大きなため息をもらしてしまったので冷静な判断ができなかった。宮殿勤めは苦労が多い。
後ろにいたのは、皇帝の側近の中でも一二を争う実力派であるラウ将軍だった。
「おめぇさんも苦労してるよなぁ。ユノちゃんキツイから。大丈夫か?」
ラウ将軍は有能で、高い地位を得ていながらどんな身分の者にも分け隔てない態度で接するため、ユノとはる人気を持っていた。どろどろとした宮殿内で将軍の裏表ないあっさりした性格は多くの人間の救いになってるのだろう。もちろん皇帝がよせている信頼も高い。
ユノのライバルといったところである。本人にそのつもりはないようだが。
「ラウ様、どういう用件でしょうか。」
とにかく、ユノの側に身をおく身としてはなるべく関わりたくない人物だ。
「あ、悪い。そんなつもりじゃなかったんだが。目の前にいたんでつい声かけちまっただけだよ。邪魔したか?」
むしろいい人なだけにたちが悪い。なびいてしまいそうになる。
「いえ、そのような……。」
困って立ちつくしていると、赤い液体が一滴、鼻の頭に落ちてきた。
「カラ!おまえびしょぬれじゃねぇか。何したんだ一体。酒くせぇ頭しちまって。」
ラウ将軍が首をかしげてカラの顔をのぞき込む。
だが真実など言えるはずもない。
ユノの忠実な部下である自分が、ユノの不利になるような行動をするわけにはいかない。カラは適当にごまかしてその場から逃げた。
ほっと一息ついた瞬間。
「ユノちゃんにいじめられたら遠慮なく相談しにこいよーっ!」
カラの努力むなしく、ラウ将軍の声が廊下に響きわたった。


ヨルは宮殿で一番小さな部屋にいた。
部屋には大きな刃のついた箱や、とげのある棍棒などが置かれている。
きわめて原始的な拷問道具。肉体に苦痛をしみこませるのにはうってつけの。
逃げようにも部屋には鉄格子のついた小さな窓と、頑丈な扉しかない。
もちろん扉には最新式のロックがかかっている。
窓からさしこむわずかな光を見つめて、ヨルは体のふるえを必死に抑えようとする。
両腕で全身を抱え込み、部屋の片隅にうずくまる。額に汗が流れた。
体のふるえはどんどんひどくなる。
暗闇の中、ヨルはいつ襲ってくるかわからない恐怖におびえていた。

カチャッ
扉の開く音がして、大量の光がヨルを照らし出した。

将軍をまいてきたカラが顔を見せる。と同時に、ヨルは体当たりしてカラをはねとばした。
まったく予想していなかった突然の出来事だった。
ヨルに体当たりされたカラは、胸に強い痛みを感じて床を転がりながら激しくせきこんだ。
その間にヨルは全速力で走り抜ける。
自分からすすんで宮殿にやってきたが、死ぬ気は毛頭なかった。
カラはすばやく体制をもちなおしヨルが逃げた方向を目で追ったが、すでに影さえも見えなかった。
カラはユノの怒りを覚悟でユノの部屋へと急いだ。

ヨルは螺旋状にどこまでも続く廊下をひたすら逃げていた。
途中何度か近衛兵に捕まりそうになったがなんとか切り抜け、傷を負うこともなかった。だがそろそろ体力が限界に近づいていた。
息がきれ、のどが痛む。頭がぼうっとして倒れそうだ。速度も最初に比べるとかなり遅くなっている。
「シン…」
ヨルは意識が遠のいていくのを感じた。
ここで倒れたらまたあの部屋につれていかれてもう外には出られないだろう。
そう思いながらも、目を開けていることができない。
立つことさえ苦しくなった体はバランスをくずし、冷たい床に倒れこむ。
だが、金属の感触はなかった。
ヨルはもうろうとした意識の中で、誰かの腕に抱きとめられるのを感じた。
誰かはわからなかったが、シンでないことはわかっていた。
自分がシンをまちがえることはありえない。ヨルは絶対の自信を持っていた。
では誰なのか。
ヨルは底知れない不安に襲われ、ぐったりとした体を無理矢理ひきずって正体不明の腕から逃れようとした。
二本の腕はがっちりと力強く、整った筋肉がついている。
体力を使いはたしたうえ元々ガリガリにやせているヨルの力でふりほどけるはずがない。
それでもヨルはあきらめない。
腕が折れても足が折れても、連れ戻されてしまったら終わりなのだ。
少女のむちゃな行動を見て、腕の主はあわてて声をかけた。
「待て待てっ。大丈夫だからおとなしくしろ。おれがかくまってやるから。ったく、無謀なことする嬢ちゃんだな。」
ヨルは初対面だが、そこには先ほどのラウ将軍の姿があった。
ラウ将軍は人の良さそうな笑顔を見せてヨルをなだめたが、ヨルは止まらなかった。
面識のない人間を信用することなどヨルにはできないのだ。
容赦ない弱肉強食の世界、生きるためならどんなことでも平気でする世界に生まれ育ったのだから、当然のことだろう。
廊下の奥の方から、ヨルを追いかけてきた近衛兵たちの足音が響いてきた。
だいぶ近づいてきている。
ラウ将軍はチッと舌打ちすると、ヨルのみぞおちに軽く当て身をくらわせた。
不意をつかれて倒れたヨルをかかえて、将軍は自分の部屋へ走っていった。
「今ごろユノちゃんカンカンだろうな。カラに悪いことしたかな。」

その通り。カラが大急ぎでかけこんだユノの部屋では、ユノが怒りの形相で立っていた。「カラ!この始末どうつける気だ?このままあの少女が戻らなかったらどうなるか、覚悟はできているのだろうな。」
もちまえの威厳と涼やかな声にすごみが増して、何とも言えない迫力がある。
カラはひたすら頭を下げるしかなかった。
「申し訳ございません。このことは明らかに私の失態です。もちろん覚悟はできております。しかし、さしでがましいことを申し上げますが、あの少女にそれほど利用価値があるとも思えません。ユノ様は一体あの少女をどうするおつもりだったのですか?」
ユノは何も言わずカラを殴りつけた。
ユノの腕はか細いが、力も充分ありどこを殴れば痛いかよく知っている。
「大失敗をおかした立場で私に質問か。おまえでなくばこの場で切り捨ててやるところだ。」ユノをとりまく雰囲気が、それが嘘ではないことを告げていた。
あからさまに人を見下した態度で話を続けていく。
「おまえも見ていただろう。地球産のあの少女は有毒ガスをものともしなかった。ガスの成分が地球の大気に似ていたそうだが、我々とは明らかに体質が違うのだ。」
カラは宇宙開発センターでの出来事を思い返した。
確かに、センター員が無事救出されたとき、カラは信じられないものを見た思いだった。
状況から見て誰も助からないのが普通だった。
たくみに通路をふさいで決まった逃げ場所へ追いつめていく。
そういうふうに計算して爆発させたのだから。
なのに死ぬはずだった人たちを助けた人物がいた。
やせすぎるほどやせている小さな女の子。
地球で生まれ育ったこと以外はとりたてて言うこともない、ごく普通の少女だった。
「地球は非常に厳しい環境だと聞く。普通人には毒となる空気を吸って生きていることからもそのことがうかがえる。きっと他にも想像を絶することがあるだろう。その中で生きてきた少女だ。訓練次第ではすばらしい兵器になると思わないか。」
カラはたまっていたつばをまとめて全部飲み込んだ。
あの小さな少女を兵器として扱う。想像もできない。
ユノ様はなんてことを考えるのだろう。
「今回の計画ではコンピューターの完璧すぎる爆破があだになった。だが、人間を使えばいくらかの融通がきく。」
ユノは残酷な笑みを浮かべた。
「しかしあの子はまだ十代の少女です。子供ですよ。兵士でもない、ただの女の子です。そんな子を兵器として使うなんて………」
カラが最後まで言い終わる前に、ユノの平手がとんでいた。
「おまえはいつもそうだな。今回のセンター爆破の件についてもいろいろと不満をもらしていた。おとなしく私の手足となって動くことのできない部下などまったくの無価値だ。いいかげんにするんだな。」
「違います。不満があるわけではありません!ユノ様の身を案じているのです。何をしてもいつかは報いを受けるときがきます。そのときユノ様に……………」
バシッ バキッ バシッ
「これだけ殴られてもまだたりないのかっ!おまえごときがさしでがましいことを申すなっ!」
ユノの声とカラが殴られる音が、同時に響いた。


「なぁるほどそういうことかい。カラもかわいそうになぁ。さんざん殴られちまって。」ラウ将軍は自分のベッドにヨルを寝かせて、あきれたようにつぶやいた。
彼は今、ユノの部屋の床下に取り付けてある超小型盗聴器からの音声を聞いていたところである。1o四方のごく小さなものなので、見つかることはまずないと言っていい。
気を失ったままのヨルをちらっと見て、口の端で笑った。
「ユノちゃんも考えたモンだ。こうしてみるとフツーの嬢ちゃんだが、地球で生まれたのなら確かにヘタなスーツ着た兵士よりかは役に立つだろうよ。」
ラウ将軍にもユノにも、実は地球がどんなところかなんて想像もついていない。
だが、とんでもなく苛烈な土地だというイメージが根づいているのだ。
そこで暮らす人間を無敵だと考えても、なんら不思議はない。
実際、地球はまともな人間が生存できる惑星ではない。
ヨルは普通の人に比べると体質的に強いのだろう。
「しかしおれとしてはまだまだ人間らしい心を捨てる気はないんだな。カラの言うとおり、こんな子供を兵器にするなんてユノちゃん人間的にどっか壊れてるぜ。」
ラウ将軍はベッドの横のソファーに腰掛け、腕組みをして考え込んだ。
「ユノちゃんか。あれだけのべっぴんさんだ。嫌いじゃないんだが、ちょっとおっかねぇなぁ。おれもそろそろ動くときか?」
おどけた感じのひとりごとを言いながら、頭では真剣に考える。
ラウは帝国の未来に漠然とした不安を感じていた。
ラウは下流貴族から実力で成り上がった切れ者で、上流貴族のように帝国にべったりとくっついているわけではない。ラウ一人なら帝国を出ても平気で生きていける。
皇帝には目をかけてもらった恩があるが、それほど忠誠を感じているわけでもない。
困っているのなら恩もあるし、力を貸してあげましょう。といった感じだ。
だが他の人間はどうだろう。
帝国の名の下に甘い蜜を吸い、離れられなくなっている者が山ほどいる。
そうでなくとも、帝国というしがらみによって危うい均衡を保っている人間が、星の数ほどいるのだ。
ユノはバランスをくずそうとしている。
その考えは確信となって長い間ラウの中にあった。
誰かがなんとかしなくてはならない。
いつか誰かがなんとかしてくれる。という他力本願な考えでは、いつまでたっても道は開けないのだ。白銀の害虫に世界を食いつくされた後で何を言っても後の祭りだ。
なんとかしてくれる誰かの中に自分という可能性が入っていることを、ラウは忘れていなかった。
「おれ、美人には弱いんだがなぁ。」
ラウは軽いため息をついて、おもむろに扉の方を見た。
すると、そこにはさっきまでベッドで寝ていたヨルが、部屋から出ようと扉に手をかけて立っていた。
ラウは驚く前にヨルを捕まえて間接技をかける。
ヨルは押さえつけてくるラウの腕に、お得意のかみつき攻撃で応戦した。
「だぁぁっ!おとなしくしろ!あのなぁ、こーんなにいい人そうなおれが悪人に見えるかっ!嬢ちゃんのためを思ってかくまってやってんのに、なんだよこの仕打ちはっ!」
ヨルからすれば、みぞおちを殴られて気絶させられたうえ、部屋に連れ込まれて逃げようとしたら間接技をかけられたのだから、おとなしくしろと言っても無理な話である。
あごに力を入れながら、必死にラウをにらみつけた。
「あぁあぁ、間接技をかけたのは悪かった。みぞおち殴ったのも悪かったよ。だがなぁ嬢ちゃん、もうちょっと立場ってモンを考えてみな?」
ラウはそう言って両手をヨルから離して頭と同じ位置にあげると、安心させるように笑って見せた。
ヨルはまだ警戒をゆるめなかったが、すぐに殺す気はないのだと思い、口を開いた。
「……食べない?………」
ヨルの中には食べるために殺すという法則があった。
だが、ラウは命令とあらば意味のない殺人も実行する世界にいる、そういう立場の人間である。
ラウは思わず腹を抱えて大爆笑していた。
「うれしいね。嬢ちゃんみたいなヤツがいると。こりゃなおさらユノちゃんに渡すわけにはいかねぇわ。」
ヨルは目の前の男がどうして突然笑い出したのかよく理解できなかったが、とりあえず質問を続けることにした。
「シン、どしてる?」
「シン?誰のことだ?」
ラウは首をかしげた。
そのときだった。
「ヨル様、どこにいらっしゃるのですか。早く出てきて下さい。宮殿の中は広いですから、迷ってしまったらもうシン様に会うことができませんよ。」
皇帝の寝所をぬかすほぼ全室に、ユノの優しい声が響きわたった。
放送機械で声を送っているのだ。
「シン――。」
ヨルは迷った感じの声でつぶやいた。
シンと一緒にいないためにここにきたので、シンに会わないのはむしろ好都合のはずだった。
ラウはスピーカーのある天井の方を見上げ、しぶい顔をしていた。
「今の意味がわかるか嬢ちゃん。あれはユノちゃん独特の警告だ。嬢ちゃんが出てこないとシンって奴を殺しちまうぞって意味だよ。ユノちゃんの素顔を知ってる奴にしかわかんねぇけどな。」
ヨルはスッと立ち上がった。毅然とした態度で扉に向かって歩き始めた。
「やめとけ。」
ラウの言葉に耳を貸そうともしない。
ラウが力づくで止めようと手をのばすと、ヨルはラウの方を見て言った。
「シン殺すと許さない。殺した奴ヨルが殺す。シンは殺させない。」
ラウは手を止めた。
「そうか。そんな大事な奴だったら行かなきゃ後悔するわな。だけど約束しろよ。絶対に死ぬな。嬢ちゃんみたいな人間は貴重なんだぜ。」
扉が閉められ、部屋にはラウ一人になった。


「ああ、よかった。ヨル様、今度からは勝手に部屋を出ないで下さいね。ヨル様がいなくなってしまうとシン様に会わせる顔がありませんから。でも本当に、見つかってよかったです。」
ユノはヨルの両手を握って頭を下げた。
ヨルは全身で威嚇したが、ユノの方は気にもとめない。
「さっそくあなたの検査を行いたいのですが、大変なことが起きました。シン様が命をねらわれているという情報が入ったのです。」
ユノは真摯な面もちだった。
ヨルは息を止めた。
「シン殺すとヨルが殺す。」
内側からわきあがる激しい感情に、小さな体がふるえていた。
ヨルの世界はすべて『シン』だ。シン以外のモノはその他でしかない。
絶対無二の存在なのだ。
ユノは深くうなずいた。
「そうです。人の命をねらう輩などは、シン様と違って死んだ方がましな人間ばかりです。本来ならその人間を今すぐにでも始末したいところなのですが、困ったことに部下がほとんど出払っているのです。」
なんの迷いもなくヨルが言った。
「ヨルがやる。」
ユノが待っていた言葉だった。
シンの名前を出せばヨルは動く。きっと何よりも威力があるはず。
ユノが考えていたとおりだった。
「では、訓練を受けていただきます。ヨル様が亡くなってしまってはいけませんから。」
ユノは優しげな微笑みを浮かべた。
カラはそばでひかえていたが、ユノの優しげな顔に隠された真実の顔を繊細に思い描くことができた。
シンという人間が命をねらわれているなんて真っ赤な嘘なのだ。
すべてはユノ様にとって邪魔な人間を抹殺するための策略なのだ。
殺人の仕事の時以外は少女をこの宮殿から出す気はないのだ。
まちがったことをしているとわかっていながらユノへの忠誠を裏切ることのできないカラは、ヨルに一つも真実を告げることができず、心から苦しんでいた。


シンを殺す奴は許さない。この手で息の根を止めてやる。


かくしてヨルは兵器としての訓練を受けることになる。

肉親を殺してしまった過去を苦しみ、再び大事な人を自分の手で殺してしまわないよう、シンのもとを離れたヨル。
大切な人の命ばかりに執着し、ヒトの命の尊さに気がつかないヨル。
彼女はシンを殺さないために他の多くの人々を殺す道を選んだ。
兵器としての訓練、それは同時に暗殺者としての訓練である。
罪という名の鮮やかな色彩、血の色は、ヨルにしみついてとれることはない。

殺人。同族殺しの罪。
それは人類の三大タブーの一つ。

人類が決して犯してはならない罪―――。
第二章 ―END―
続く。
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