第一章

殺人。それは人類の三大タブーの一つ。
はるかな昔、平和な時代、神は言われた。
『汝、罪を犯すことなかれ。』
神はまた、こうも言われた。
『汝、みずから死を選ぶことなかれ。』
しかし人類は神に対して従順ではなかった。
人類は生きるために罪を犯すことを選び、様々な時代を生きぬいてきた。
乱世においては罪の意識など必要ないのだ。そんなモノを持っている人種はいつの時代においても同じで、平和な世界に生き心に余裕を持った人間だけである。
やらなければやられる。この考えに支配され、人は誰でも殺人者となった。
生きることに必死になればなるほど血にまみれていく。
罪の色の壮絶な美しさ。美しさゆえの哀しみ。
生きるために犯した罪といえども、心が傷まないわけではない。
同族殺しの罪、殺人。

それは人類が決して犯してはならない罪―――。


A.D.26XX年 太陽系惑星 登録bO000001  ――地球――

忘れ去られ、捨てられた惑星、地球。たまりにたまった汚染物質をそのまま何世紀もの間放っておかれ、すでに生命が住むべき星ではなくなっている。
そこにひとりの少女が存在する。
差別や金銭の問題によって他の惑星に移住できず、地球に置き去りになったごく少数の人々の子孫にあたる者。その最後のひとりである。
およそ生物が生存するとは考えられないぐらいに荒れ果てたこの大地の上で、親の死肉を喰らい、血をすすり、それでも少女は生きていた。
広い地球上で唯一の人間、唯一のイキモノ。
本当に、たったひとり――――。
果てしない孤独を友に、孤独という言葉も理解せず、
それでも、少女は生きていた。



「もうそろそろ地球に着くな。」
せまい宇宙船内にシンの声が響いた。
その声はどちらかというと明るい調子だったが、もうひとりの乗組員の顔はそれとは対照的に限りなく暗い。深い深いため息とともにうらめしそうな顔でシンを見上げてくる。
「まったく、どうして地球調査なんか引き受けたんだよ。シンならどんな仕事だってこなせてすぐに出世できるのに、わざわざこんななんの得にもならない仕事見つけだしたりして…。地球なんて、こんな星、もう何も残っちゃいないってのに。」
さっきから10分ごとに同じセリフを繰り返している。今、彼の頭の中はうらみごとしか思い浮かばないらしい。
シンのパートナーだというせいでいつも貧乏くじばかり引いている彼、レンは、長年の苦労によりすっかりうらみがましい性格になっていた。と、いうのも当たり前のことで本来ならレンも充分重役に出世できる実力の持ち主なのに、シンのせいでいつまでも一番下級の位置から抜け出せずにいるのだ。
こんなふたりは幼なじみで、十年来の親友である。
シンは長々と続くぐちをおとなしく聞いていたが、モニターに映しだされた映像を見た途端、レンを黙らせた。
「おこごとはそれくらいにしな、レン。後でいくらでも聞いてやるから。そろそろ黙らないと舌かむぜ。ほら、もう地球が見えてる。」
レンは不満そうに口を閉ざし、着陸準備をてぎわよく終わらせた。
宇宙船中にブザーが鳴り響く。着陸の合図である。
ふたりの目の前に広がるモニターがどんどん地球でうめつくされていく。


そうして、ふたりを乗せた小さな宇宙船はゆっくりと地球に降りていった。



今日も空腹で目が覚めた。
もう何日もまともなものを食べていない。
最後に食べたのはいつだったか覚えていないが、たしかビルとビルの間で見つけた小動物の死骸だった。
あれほどのごちそうにはもうめったにありつけないだろう。
少女はうつろな頭でそんなことを考えていた。
体がだるくてなかなか動けそうにない。
だが、このまま動かずじっとしていることは100%確実な死を表す。
体力を消耗しないようおとなしく助けを待っても、助けてくれる人間なんてものは存在しないのだ。
神に祈ったところでのたれ死ぬだけである。
少女はあてのない獲物を求めて立ち上がった。
――――――生きるために。
みずみずしく生きている惑星でぬくぬくと暮らしている人間がこんな状況を味わったとき、その人間はおそらく死を選ぶだろう。
しかし少女はそれをしなかった。
別に強い信念を持っていたわけでもなく、生きぬいてやるべき目標があったわけでもない。
少女は人間でありながら限りなく野生に近かった。
生きぬくということを本能で知っていた。
それはまるで自然の中で生きる動物のような、無心の行動だった。

食べ物がいそうな可能性があるところを一通り巡回していると、見慣れない光が向こうの空を通り過ぎたのを少女は見た。
今まで見たことのないような美しく強い光だった。
それは人の手によって作られたただの金属の固まりが落ちてきたのにすぎなかったが、汚れきった地球の茶色と灰色の世界で育った少女にとってその光は何か輝かしいものを運んでくる小動物のように見えた。

あそこまで行けばまたごちそうを食べれるかもしれない。

少女はしっかりした足取りで光に向かって歩いていった。



想像どおり、地球は死んでいた。
かっての文明はほとんど風化することなく大地のあちらこちらにその姿をのぞかせていたが、間をかけぬけていく人の影はどこを探しても見つからなかった。
もちろん電気が通っているはずがなく、自動扉はただの重い引き戸に、ロボットは子供のおもちゃに、都市全体はなんの意味もないオブジェに変わっていた。
どれだけ辺りを見まわしても動いているモノは何一つない。
何もかも止まったままのその空間は、人がいないというだけであとは特に変わっているところもなく、いつ人が戻ってきてもいいように準備していたような感じだった。
その様子が胸をひどく切ない気分にさせた。

宇宙服に身を包んだふたりの異邦人は自分たちの遠い祖先の故郷を眺めたまま、しばらくぼーっと立ちつくしていた。
目の前に広がる胸をうつような光景に目を奪われていたのだ。
ふたりの視界は黄色をおびた茶色でおおわれていて、その中を小さな黒い物体がなめらかに泳いでいる。
それはちょうど毒ガスが充満した部屋の空気によく似ていた。
地球の大気である。
科学の力でつくられた、本来地球上にはなかったはずの様々な汚染物質が地球のまわりをすっぽりとくるんでいるのだ。
ふたりは茶色い視界を通して目に映る静かな街を見ることによって、人間というモノの罪深さをたたきつけられた気がした。
この宇宙服を脱いだら最期、呼吸困難であっというまに死ぬのではないだろうか。

それほどまでに地球の大気は汚染されていた。

「やっぱり来るんじゃなかった…。」
レンがつぶやいた。
「そうか?おれは来てよかったと思ってるけどな。こんな光景は地球でしか見られない。これを見ておまえは何も感じないか?」
シンはそう言いながらレンの方を見なかった。
彼の視線はひたすら無人の街にそそがれている。
相棒がくそまじめな顔でそんなことを言うので、レンはただ黙ることしかできなくなった。その様子に気づいたシンが優しくほほえむ。
「今回はホントに悪かったと思ってるよ。へんぴな星だもんな…。」
「どうしてそんなに地球にこだわってるんだよ。シンの地球びいきは前から知ってたけど、まさか本当に来ちゃうまでとは思わなかった。この仕事を持ってきたときおれがどんなに驚いたか…。」
レンは少しだけ嘘をついた。
本当はシンのことだからいつかきっと地球に行くだろうとずっと前から思っていた。
だってシンはすでに子供のころから地球に対して異常な執着をみせていたし、出世云々の話をすると必ず、「おれは地球に行くんだからそんなもんしないほうがいいんだ。」と返ってきた。あげくに口癖さえ、「おれは地球に行く。」だった。
シンはふたりの通っていたスクールで校内きっての変わり者として広く知られていた。
だからシンが地球調査の仕事を持ってきたときのレンの驚きは、「なぜそんな仕事を!」ではなく「とうとうやったか!」という類のものであった。

「どうしてこだわってるかなんて知るか。それはおれが知りたい。…なぜか強くひかれる。それだけだ。わからないからよけいひかれるのかもな。たぶんこの星がおれ専用のフェロモンかなんかを持ってるんだろう。」
さっきのレンの問に、シンはこんなふうに答えた。
シンは気がついていないようだが、下手をすれば熟女に恋い焦がれている青年のセリフである。
シンの地球への思いは激しい恋のようなものなのかもしれない。
レンはそんなふうに考えた。
「シン、恋人に見とれるのもいいけど仕事をしに来てるんだってことを忘れるなよ。おれはさっさと仕事終わらせて帰るからな。」
彼は恋人に骨抜きにされている相棒を放って、ひとりで宇宙船につんである調査器具を持ち出す作業を始めた。

シンが取ってきたこの仕事の内容はあくまで地球の調査である。
地質調査、水質調査はもちろんのこと、空気の濃度から生命の有無、紫外線の影響、地熱、プレートおよび火山の活動まで。本当にありとあらゆることをひたすら調べまくり、データにまとめて母星に持ち返らなければならない。
今現在この銀河系には人の住んでいる星が十数個ほど存在するが、星十個分の面積と人間の数を比べてみると、やはり人間の繁殖力の方が強いのであった。
人間は十数個の星を食いつぶしてなお増え続けていた。
住居を持っていない人たちの中には宇宙船で暮らしている人もいるが、人間とは本来土と共に生きる動物であるからどちらかというと地面があった方が具合がいい。土地の需要はどんどん上がり、いっこうに下がる様子を見せなかった。
しかし新しい星はそう簡単に見つかるものではない。
そして、各星を動かすお偉いさんたちは地球に目をつけた。
大宇宙のどこかに隠れている未知の星と違って地球の場合は確かにそこにあることがすでにわかっているのだ。これをわざわざ見逃す手はなかった。地球を再び人間が住めるような星に戻すことができたなら、これからさらに増え続けるであろう人類の居場所をほんの少しでも切り開ける。この案はすぐに採用され、各星々はさっそく地球の調査を開始した。
だがことはそれほど簡単ではなかった。
地球の状態は思ったよりもひどく、どんなに最先端の科学を導入してもなおすことはできなかった。とうとう関係者一同はさじを投げ、人類地球移住プランはほとんど停止。
今や定期調査だけが細々と続いている。
報酬はほとんどなく、手柄の立てようもない。なんの娯楽もない無人星にわざわざ来て、やることといったら調査だけ。もちろん一番人気がなく一番希望者が少ない。
シンが取ってきたのはそういう仕事だった。
前に述べたようにとにかく調べなければならないことがたくさんあるので、最初はただつっ立っていただけだったシンもすぐにレンを手伝いにいった。
ふたりはまず地質調査からすることにした。
自然な状態の地面が残っているところを探し出し、最新の方法で調べていく。
ふたりが乗った宇宙船が着陸したところはちょうど街の真ん中にある広場のようなところだったので、むきだしの地面はすぐに見つけることができた。
うすい水色に光る特殊金属でできた広場にきれいな対称をえがいて残されている奇妙な色をしたその土は本来は花を植えるための花壇だったのだろう。まわりをれんがで囲まれている。けっこうしっかりとした作りになっているが、はるか昔にそこで花を咲かせていたはずの植物は今はもうなかった。この星に植物が生えるのはもはや不可能だということは、花壇の土の奇妙な色から充分知ることができた。
ふたりは宇宙服の手袋をつけたままの手で土をすくってみた。
「もう土とはいえないな。動物のエサみたいになっていやがる。」
シンが言った。
「こんなところに昔は人が住んでいたなんて考えられないな。」
レンがつぶやいた。
ふたりはそろってため息をつき、地面に専用の調査器具を近づけた。
そのときである。
ふたりの目の前を小さな影が横切ったのは。
ふたりはこの地球ではじめて自分たち以外のイキモノを見た。

「レン!捕まえるぞ!急げ!」
シンが大声で叫んだが、レンは動かなかった。
レンは自分の見たものが信じられず、硬直してしまっていた。
こんなに空気の悪い、植物さえ生息できない星に、なんと動物がいたのだ。
もちろんそれにもビックリしたが、そのことで硬直しているのではない。
さっき目のはしにちらりと映ったもの、それは確かに………。

「レン!ネズミだぞ!」
そう、ネズミであった。

レンは地面に倒れ込んだ。
彼はスクールの研究室にいたとき、有害な薬品を飲まされたモルモットが血を吐いて死んだのを見てから、ネズミのような小動物を見ると失神するようになってしまったのだ。
悪いのはネズミではなく人間だったが、それからネズミはレンの一番嫌いな動物になった。

シンは手にしっかりとネズミを捕まえたままレンの顔をのぞき込んだ。
「わりぃ、忘れてた………。」
言葉はもちろん返ってこない。

シンは万が一生物がいたときのための捕獲用に用意した鳥かごにネズミを入れておいた。
レンはいくら呼んでも別世界に行ったままこちらには戻らなかったので、シンは鳥かごを横に置いて黙々と作業を続けた。時々ネズミに話しかけながら次々と調査を終わらせていく。ごくたまにレンに聞こえないように小さな声で、レンの失敗談などを暴露したりもした。………ネズミ相手に。
地質の調査があらかた終わったので、今度はデータをまとめなければならなかった。
シンは鳥かごを片手に持って立ち上がった。

ガッシャアァァァァン

確かにシンの手に握られていたはずの鳥かごが、音をたてて地面にたたきつけられた。
明らかに何者かに加えられた力によって。
シンはすばやく力の先を見た。

「!!」
シンは思わず目を見はり、つばをのみこんだ。

そこにいたのは骨と皮の少女だった。
見るも無惨なほどやせ細っている。
ざんばら髪からのぞく頬骨が浮き出た顔には大きな黒い目だけが鋭く光っていて、その目でじっとこっちをにらんできた。
ギラギラとした光。
その目は野生の狼を連想させた。
シンはあまりの驚きに言葉が出なかった。
ネズミがいたことでさえすごいことなのに今度は人間が見つかったのだ。
何度もまばたきするが、少女はちゃんとそこに存在している。

驚いたのは少女も同じだった。
光の方に歩いてきてみたらごちそうを持った仲間がいたではないか。
少女は自分の親以外の人間を生まれて初めて見た。
しかもふたりもいるのだ。こんなにたくさんの人間を見るのも初めてだった。
その人間は今まで見た何よりもふとってておいしそうだったが、そのぶん自分より強そうだった。
しかしこのままでは飢えて死んでしまう。
人間を食べるのは無理でも、あの獲物さえ奪うことができたら何とか生きながらえる。
少女はそう考え、相手のスキを探った。

シンと少女は長いこと見つめ合っていた。
実際にはほんの短い間だったが、ふたりの間には違う時間が流れていた。

そして、先に沈黙を破ったのは少女の方だった。

すばやい動きでシンの横をすり抜け、完全にスキをついた。
先手を取った少女は地面に転がっている鳥かごに向かって一直線に飛びかかった。
一歩遅れてシンが体を動かした。
「待て!」
シンには少女が一体何をする気なのかまったくわからなかった。
その間にすでに獲物を手中にした少女は、鳥かごの中に入っているネズミをつかむと一気に口の方に持っていった。
シンはこの時初めて少女が何をする気なのかがわかった。
「待て!食べ物なら他にもいっぱい持ってる!わけてやるからそれは食べるな!」
シンは力いっぱい声をはりあげた。
少女の動きが止まった。
大きな目を見開いてシンを見つめている。
手にはしっかりとネズミが握られたままである。
シンは少女の目を見てていねいに話し始めた。
「よく見ろ。おれは変わった服を着ているだろう?おれは違う星から来たんだ。だから食べるものもちゃんと持ってる。おまえにもわけてやれる。」
だがこの説得は失敗した。
少女は宇宙を知らなかった。
そういうものをちゃんと知っている人間はもうかなり昔に死んでしまっていたのだ。
宇宙を知らず、地球という概念さえも持たない少女にとって、シンの説得は獲物を渡さないための嘘にしか聞こえなかった。
少女は獲物を食べるために口を開けた。
「だから待てって言ってるのがわかんねぇのか!!」
シンは少女にむかって鳥かごを投げた。そして、少女がそっちに気を取られているうちに後ろにまわりこみ、すばやい動作で細い体を押さえつけた。

鈍い音がした。
飢えで骨と皮だけになった少女を押さえつけるのに、健康な成人男子の力は少し強すぎる。
「しまった。折れちまった。……大丈夫…なわけないな。」
シンの腕の中で少女の右腕が折れてしまっていた。
さぞかし痛いだろうに、少女は声一つあげない。
かわりに血が出るほど歯を食いしばっている。
それでも折れた右腕はネズミをつかんだまま、決してはなそうとはしない。
シンは腕の中の少女をのぞきこんだ。
どう見ても14,15の女の子。
シンの星ではちょうど上のスクールに進学するか就職するかを選択する年齢だ。人生のあり方を考えるくらいの年齢なのである。
それがこの少女はどうだろう。
こんなにもしっかりと食べ物をつかんではなさない。
進学や就職の悩みなど持たない。
食べることがすべてなのだ。
それはそのまま生命の維持の問題につながった。
「………おまえ、生きたいか?」
シンが聞くと、少女は体をこわばらせた。
今までそんなことを聞いたことも聞かれたこともなかったのである。
言葉というものを聞くことでさえめったになかった。
両親はもうすでに死んでしまっていて、この星には少女しかいなかったのだから。
シンは返事を待っていた。
もしかしたらしゃべれないのかもしれないと思ったが、この少女の生きる意志はどれくらいのものなのか聞いてみたかった。
少女は答えた。
それはかたことのほとんど聞こえないような声だったが、シンにははっきりと聞き取ることができた。

「生き……た…い。」と。

次の瞬間、少女はシンの腕にかみついていた。
それを見てシンは思わず吹き出し、少女にむかってこう言った。
「了解。お姫様。この歯形の責任は必ずとってもらうぜ。」
もちろんシンは宇宙服を着たままで、歯形がついているはずがなかった。
シンは自分のセリフに大笑いしながら少女を宇宙船へとかつぎこんだ。
このとき彼は何かを忘れていることに気がつかなかった。

宇宙船に入った途端、少女は宇宙服を脱いだシンの胸元にしがみついたまま離れなかった。シンの胸の中で少女はぶるぶるふるえている。
今まで少女が暮らしていたのは比較的安全なビルの中だった。
ビルにはもちろん自動ドアやエレベーターなどの機械がたくさんあったがそれらはすべて電気が通っておらず動かなかったので、いきなり宇宙船のコンピューターの前に立たされた少女はひどくおびえてしまっていた。
しかし恐怖も食欲には勝てなかったらしい。
シンが食事の準備をしてやるとさっきまでのふるえが嘘のように止まり、らんらんと目を輝かせ始めた。
シンは笑いながら少女を食卓へ座らせた。
少女はイスに座ったと同時に、シンが用意してやったスプーンやフォークなどをかなぐり捨て、皿にへばりついて犬食いの状態で食べ物を処理しはじめた。
折れた右腕は応急処置をしただけなのでまだ痛むはずだが、そんなことは気にせず両手でおかまいなしに食べている。
まず最初はスープから。シンは余分に持ってきた食料をほとんど皿に盛ってやった。
それはかなりの量だったが、ものすごい勢いで豪快に、すばやく、少女の中に消えていった。

初めて味わう満腹感のおかげで、少女はおだやかな眠りにつくことができた。
このうえなく無防備で幸せそうな顔。
おそらくは生まれて初めての。
シンはその顔を見て笑顔をこぼした。
さっきまでのおもしろがるような笑顔ではない。
父親が赤ん坊の寝顔を見たときのようなやわらかなほほえみだった。

「シ〜ン〜」
聞き覚えのある声によってほほえましい光景にひびが入った。
そこに立っているのは忘れ去られていたレンの姿だ。
「レ、レン………」
シンはとっさにいいわけを考えるが、シンの思考回路はすでにレンに読まれていた。
「いいわけをしたってむだだからな!おれのこと忘れてたろ!気がついたときすごくびびったんだぞ!地面に倒れたまま、まわりには誰もいないし……」
シンは返す言葉もなかった。
困ったような顔をして、寝ている少女の方を見る。
レンはシンの視線の先に少女を見つけると、今度は地球をゆるがすくらいの大声で悲鳴をあげた。
うわあああぁぁぁぁぁっ!!
「うわっ!バカ!さっき寝たところなんだぞ!せっかく寝てたのに…ほらっおまえがあんな声出すから!」
シンが言ったとおり、少女は目を覚ました。
少女のふところには鳥かごに入れられたネズミがいる。
「まあいいか、言いたいことがあったし。」
シンは少女とレンの方を交互に見つめて静かに口を開いた。

「おれ、こいつを星につれて帰って育てる。」

―――宇宙船を沈黙が支配した。

少女はふるえる手でシンの手をつかんだ。
細い指からありったけの力が伝わってくる。
野生の光がきらめいている黒い大きな目は、シンの目をとらえて離さない。
少女の目に映っていたのは驚きでもなければ喜びでもない、一番近いのは不安。
そう、不安のような感情だった。
小刻みに動く体。
飼い主に捨てられた子犬がする、すがりつくような目。
シンは少女の目を見て聞いてみた。

「嫌か?」

少女は大きく首をふった。
「じゃあそんな目をするな。おまえは捨てられるんじゃない。拾われたんだ。おまえはちゃんとおれが育ててやる。何も心配することなんかない。」
シンがそう言って優しく抱きしめてやると、少女はしっかりとしがみついたまま動かなかった。

少女は胸の内にわきあがる思いを感じていた。
大きな手が少女の頭をくり返し優しくなでる。
愛情がこもっていることがはっきりと感じられる。
少女はもう、一人ではなかった。
自分に与えられている愛情をしっかりと感じていた。
頭をなでられたのも、抱きしめられたのも初めての経験だった。

少女の両親は少女を愛していなかったわけではないが、一度も抱きしめてはくれなかった。両親にとって少女は無力な子供であり一番身近にいる食料だった。
両親は理性を保つために少女を抱くことをしなかったのだ。
抱けば我が子を喰らってしまう。
両親にはわかっていた。
それはやがてその通りになった。
母親は自分を犠牲にしてまで少女を育てていたが、ある日突然食欲に負けて少女に襲いかかり、父親に殺された。
そのあと父親は母親の屍を食べ始めた。
我を忘れた醜い顔で少女の母を、自分の妻をひたすら喰らう父を見て、少女は思った。
―――――母は誰にも渡さない。と。
少女は父親と一緒になって一心不乱に死体を食べた。
母親の死体は栄養があっておいしかった。
たぶん父親も同じことを思ったのだろう。
母親を骨まで残らず喰らいつくすと、父親は少女に襲いかかった。
理性をなくした人間の醜い姿。
我が子を喰うために襲いかかるその姿は、もう人間とは呼べなかった。
いや、これこそが本当の姿なのか………。
弱肉強食の掟に勝ったのは少女だった。少女は自分の身を守るために父親を殺したのだ。
正当防衛だった。殺さなければ殺されていた。
だが少女には自分の罪深さがよくわかっていた。
抱きしめてもらったことはない。
けれど確かに自分を愛してくれていた。
血のにおいが少女を支配し、鮮やかな赤が少女を彩る。
涙は出なかった。
そのあと少女は父の死体も喰らった。
罪深き子羊。
血に染められた、4歳の時の記憶――――――。

少女の頭をなでる手は、少女には優しすぎた。
優しすぎて、少女は罪を忘れそうになった。
つらいことを一時でも忘れさせてくれる癒しの手。
こんなにもあたたかい。
少女は孤独という感情を理解していなかったが、心の奥では誰よりもよく知っていた。
少女の体全体からわき上がってくる胸をしめつけるような想いが、少女がどれだけ孤独だったかを表していた。
広い死の惑星にたった一人、極限の飢餓状態の中泣くこともできず、いつ自分に襲いかかってくるかわからない死の恐怖と戦うことは……もう、ないのだ。
何かあったとき助けてくれる人は、ここにいる。
感情をぶつける相手は、ここにいる。
空腹以外の感情を与えてくれる人は、ここにいる。
そばにいる。
優しく抱きしめてくれる。
頭をなでてくれる。

―――――私はもう、一人ではない。

シンは今日一日で少女にとって何モノにもかえられぬ、かけがえのない人となった。

―――少女は心の中で決心した。

この人が死んだら、死体は誰にも渡さない。私以外の誰にも食べさせない。

少女は死体を食べることによってその人と同化し、共に生きていくのだと信じていた。
そういう思想があったからこそ彼女は母を食べ、父を喰らったのだ。
―――同化する。
それは肉体的にはそうかもしれないが、少女は孤独を感じていたのだから精神的にはかなり違っている。
だが両親は少女とともにある。少なくとも少女はそう信じている。
だから少女は大事な人の死体を誰にも渡さない。
シンは少女にとって自分よりも大切な、何よりも大切な人である。
ゆえに、少女はシンの死体だけはたとえどんなことをしてでも食べねばならないのだ。

少女はさらに思った。

この人が殺されたら、私はこの人を殺した奴を絶対に許さない。
地の果てまでも追いかけて必ず息の根を止める。
死体は食べてなどやらない。勝手にくちはてるといい。

少女の頭の中に大切なモノ以外のことを考える部分はない。
育った環境が環境なので、得ることよりも失わないことに対する思いが強いのだ。
大切な人を守るための殺人なら、罪だとは思わない。

―――――この人を殺そうとするものは殺してやる――――。

この決心が少女の心に深く刻みつけられたことを、シンは知らない。


さっきからとんでもないことを考えている少女を胸に抱いたまま、シンが口を開いた。
「そういえばお互い自己紹介もまだだったな。名前ぐらい聞いとかないとおまえ一応女の子だからな。名指しするときに『こいつ』はまずいだろ。おれはシンだ。おまえは?」
少女は不思議そうな顔をして答えなかった。
今まで名前など必要なかったのだ。
「名前ないのか?」
少女はうなずいた。
「そうか。じゃあおれがつけてやる。おれは今日からおまえの親になるんだからちょうどいいしな。言っとくがセンスなんてモノはないから変な名前になっても文句言うなよ。」
シンはしばらく真剣に頭をかかえて考え、悩みに悩んで一つの名前を持ってきた。

「ヨルだ。」

それは少女の漆黒の両目に光る、美しい輝きのこと。
ただ美しいだけじゃない。野生の鋭い光とかげりを持った黒。

「おっ!会心の作!ヨル、センスあるおれに感謝しろよ。」
シンがヨルに言った。


…………名前。私の名前。ヨル。


初めて聞く自分の名前をかみしめる。

少女はシンの胸に顔をうずめて表情を見せなかったが、シンは少女が今どんな顔をしているのかわかっていた。
―――シンの胸元はびっしょりとぬれていた。

シンはヨルを抱きしめているうちにどんどん父性に目覚めていった。
ヨルの体は固く、脂肪なんてものはまったくついていない。
きつく抱きしめたらろっ骨が折れてしまいそうだ。
ほおにあたる髪もザラザラとしてのばしほうだいだし、服もぼろぼろのただの布きれだった。
美しいと感じるのは目に映る野性の輝きだけだ。
シンは思った。
こいつに何でもしてやりたい。望むものは何でも与えてやりたい。おいしいものは何でも食べさせて、きれいな服をどれでも買ってやりたい。こいつに幸せを与えてやりたい。
―――だがそうするとおれが今、心から美しいと思うこの輝きはどうなるのだろう。
この光を失って欲しくはない。
シンの頭の中はヨルのことでいっぱいだった。
もしかしたらおれが地球にひかれていたのはこいつが呼んでいたのかもしれないな。
そんなことを考えていた。
これが出会い。
運命の出会い。
このときシン、レン、ともに21歳。ヨル15歳。

何年かのちに銀河すべてを巻き込む時代の渦が彼等を中心に、今、巻き上がろうとしていた。



ふたりが抱き合っている間中、宇宙船は静かだった。
床にはレンが倒れていたが、ずっと倒れたまま何も言わなかった。

彼が倒れた理由。
それはシンの爆弾発言のせいなのか、それともヨルのそばにいたネズミのせいなのか。
真の理由は定かではないが、どちらにせよ、抱き合っているふたりと一匹には関係のないことだった。
――――が、ただ一つこれだけは言える。
レンはこれから地球の映像を見て失神するまではいかなくとも、もう二度と来たくないと思うほど地球が嫌いになるに違いない―――――。
第一章 ―END―
続く。
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