『銀河系、そのはるか彼方から。3』

 天輝の朝は、鼻孔をくすぐるコーヒーの香り、パンが焼けた音、そして、視界一面に広がる紫の物体で始まる。

「どぉわぁぁぁぁぁ!」

心地よいまどろみもどこかへ吹っ飛び、天輝は絶叫した。
「おまえなぁっ、人の顔のぞきこむなって言ってんだろ!」
この宇宙人は地球人が目を閉じて眠るのを珍しがって人が寝ていると必ず顔をのぞきこむのだ。
普通の人がやっても十分驚くこの行動を、紫の発光体にやられてはたまったものではない。
キルルが来てからというもの、毎朝の絶叫は天輝の日課になってしまっていた。

「じゃあ、おれ大学行って来るから。」
天輝は台所で食器を洗うキルルに背中を向けたまま手を振った。
キルルがおもしろがって何でもやりたがるので家事はすべてキルルの仕事である。
天輝は大学へ行き、キルルは家事にいそしむ。
これがふたりの毎日の日課……のはずだったのだが、
「大学ってどんなところなのかすごく興味あるな。」
キルルはそう言っていたずら好きの子供のように笑った。

「どうして天輝はいつも僕と一緒に歩くのを嫌がるんだろう。」
天輝に見つからないよう電信柱などに隠れながら後をつけていく。
通りを歩く人々が急に倒れたり叫んだりするのを不思議に思いつつ、初めてじっくり見る外の世界にキルルは興奮を隠せなかった。
見るものすべてに感動して歩いていると、やがて目的地である大学が見えた。
 大学はキルルが思っていた以上に大きくて立派な建物で、にぎやかな人たちが大勢集まっていた。
どの人もみんな見るからに楽しそうで、キルルはなんだかわくわくした気分になった。
周りではあいかわらず人が倒れたり叫んだりしていたが、キルルはそれが自分のせいだとはまるっきり気付かずに、堂々と正門から中に入っていった。

 天輝は上機嫌で廊下を歩いていた。
大学にいる間は紫に発光する宇宙人に悩まされることはない。
そう思うと自然に足取りが軽くなった。
が。
「……。」
天輝は思わず足を止めた。
(今…窓の外にチラリと見えたあれは……そんな…まさか……)
「……。」
(おれは何も見なかった。おれは何も……)
天輝が自己暗示をかけ始めたそのとき、
「さっきさー、紫のすっげーリアルな着ぐるみが歩いてたんだよねー。でもあれ何の着ぐるみなんだろ。」
すれ違った学生が何気なく話しているのを聞いた。
天輝は見る見る真っ青になった。
その足取りは重く、よろよろと今にも倒れそうだ。
しかしこんなところで倒れてはいられない。
こうしている間にも誰かがマスコミに連絡したりしているかもしれない。
場合によっては警官隊、いや、自衛隊の出動にさえなりかねないのだ。
(国家規模の大問題になる前におれの手で何とかせねば!)
崇高な意志とは裏腹に、天輝は少し涙目だった。

 そんなこととは知らず、キルルはうきうきと大学見物を楽しんでいた。
今キルルがいるところは何の変哲もないただの非常階段なのだが、そんなものでさえキルルにとっては感動の対象だった。
螺旋状になっている階段の隙間から下の景色が見えるのがおもしろくて、何度も昇り降りを繰り返している。
何回目かの最上階にたどり着いたとき、キルルは一階から昇ってくる人の気配に気がついた。
「誰だい?」
当然のように話しかけたキルルだったが、返事はない。
無言のまま去ろうとする様子だけが足音から伝わってくる。
キルルは慌てて叫んだ。
「待って!僕天輝以外の人と話すの初めてなんだ。行かないで僕と何か話そうよ!」
足音が止まった。
代わりにおずおずとした声が聞こえてくる。
「……あなたも私と同じなの?」
キルルは一瞬耳を疑った。
同じ?……同じということは……
「君も宇宙人なのかい?」
「宇宙人……?」
キルルには見えなかったが、声の主は思いっきり顔をしかめ、そして吹き出すように笑った。
「ずいぶんしゃれた表現をするのね。でも、ぴったりだわ。この世界でまともに生きていけない私達って……他の人から見たら宇宙人みたいなものかもしれない……。」
「……?とにかく仲間が見つかって嬉しいよ。」
「私もよ。私の名前は葉子。あなたは?」
「僕はキルル。ちょっと待って、ここからじゃ君の顔が見えないんだ。」
キルルは急いで階段を降りようとした。
「やめて!顔なんて見ない方がいいわ。その方が色々話せるじゃない。下手に親しくなると面倒くさくなって嫌なの!私の方からもあなたは見えないから、お願い、このままでいて!」
「君がいいならいいけど……。」
キルルは不思議そうに首を傾げた。
「僕は人と話すときはちゃんと顔を見なさいって教わったよ。そうしないと本当のその人がわからないから、って。」
「それは私が嘘をつくっていうこと?」
葉子が言った。
キルルは平然と続ける。
「うん。人は絶対嘘をつくものなんだって。君が嘘をつくかもしれないし、僕が嘘をつくかもしれない。だから顔を見て話した方がいいよ。」
「実際には顔を見たって本当のその人はわからないわよ。でもね、世の中嘘ばっかりだっていうことは知ってる。だから余計、顔なんか見ない方がいいと思うわ。」
葉子はため息混じりに言った。
こういう話をするのは嫌いではない。
葉子が思うに、人間というものはきれいごとのように聞こえる事実よりも辛辣な虚言の方を信じてしまうものなのだ。
だから葉子はこういう話をするときいつも、辛辣な言葉で自分が真実だと思っている厳しい現実のことを言った。元々口がたつ方だったこともあって、誰も葉子の真実に勝てはしなかった。
親も、友達も、先生も。
幸せなきれいごとたちをうち破っていくたびに、葉子は自分が持っている真実の強さに満足した。
だが今回は相手の様子がなんだか一風変わっている。
「それは僕も知ってるよ。周り中嘘だらけだ。でもね、それは『嘘』だろう?だったら『真実』もあると僕は思ってる。僕は探し物をするとき絶対あると思って探すんだ。だから地球まで来たんだよ。」
キルルの口調は穏やかだった。
最後のふざけたセリフはともかく、他はどれもよくあるセリフだと葉子は思った。
しかし何故だろう。
彼が本当にそう思っているということだけはハッキリと信じられるのだ。
「あなたって変わってるわ。あなたに会えてよかったかも。実は私そこで自殺するつもりだったのよ。」
世間話でもするように葉子は言った。
「ダメだよ!」
「みんなそう言うわ。それしか言葉知らないんじゃないの?ってくらい。でもね、疲れたの…もう……」
「悩むことに?」
「……そうね。」
「生きることは悩むことなんだって。だから悩まないっていうのは死ぬことなんだよ。君は悩んで悩んで今まで生きてきたのに、ハッピーエンドを迎える前に終わらせちゃっていいの?」
葉子はハッとした。
この世界にはお約束がある。
例えば、『自殺は止めなければならない。』のような。
それはあらゆるところに作用していて、腹を割った真剣な話し合いとかでさえ『こういう場合はこういうことを言わねばならない。』というお約束に基づいて進んでいたりする。
だから、言葉は心に届かない。
誰もかれもが同じようなセリフを使いまわしてまるで義務のように口にする。
だから、きれいごとだけで真実が見えない。
今までどんな名ゼリフを聞かされても葉子の心に響くことはなかった。
しかし何故だろう。
キルルのセリフは何かの引用かもしれないが、さっきと同じように彼が心からそのセリフを話しているということだけは信じられるのだ。
葉子は少し幸せな気分になった。
葉子の中の厳しい真実を誰よりも信じているのはもちろん葉子自身であったが、同時に誰よりもそれに絶望を感じているのも他でもない葉子自身だったのだ。
しかしとまどいもあった。
長年信じてきた葉子の中の真実はいまさら捨てられるものではない。
だが絶望を感じながらも今まで信じてこれたのはそれが少しも揺らぐことのない真実だったからだ。
葉子はどうすればいいかわからなくなった。
そんな葉子の心を見透かすかのように、キルルは言った。
「でもね、僕は思うんだ。本当は『真実』なんかないんだって。」
「え?」
「信じたいことを心から信じていれば、それが真実なんだよ。」
「!」
葉子はキルルの顔を見たいと思った。
けれど今見ようとしてもハッキリ見ることはできないことを知った。
涙があふれて止まらなかった。
今まで生きてきた年月分の涙を流した気がした。
「キルルーーーっ!どこだこのやろーーーっ!」
それほど遠くもない距離から怒気をはらんだ声が聞こえてきた。
その声を耳にした瞬間、キルルは階段から身を乗り出して叫んだ。
「天輝ーーっ!僕はここだよーーーっ!」

そのときだった。

「きゃあああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
絹を裂くような、悲鳴。
その後の、言葉。
「ばっ、化け物!」

天輝が現場にたどり着いた頃、キルルはやっと気がついた。
道行く人が何を見て倒れたのか。
彼女が何におびえているのか。
何を見て『化け物』と言ったのか。

キルルは泣いた。
あまり涙を流さずに、静かに泣いていた。
涙の色は地球人と同じ、悲しい透明だった。

「ったく、自衛隊出動までは免れたものの……」
一瞬のうちに何もかもを悟った天輝は葉子の頬を軽くたたいた。
葉子は呆然としている。
天輝はかまわず話しかけた。
「今見た紫の発光体は幻です。あなたは夢を見ているのです。すべては気のせいです。」
「天輝、それじゃあ幻なのか夢なのか気のせいなのかわからないよ。」
キルルが涙を拭いながら言った。
「っだぁーーーっ!余計なつっこみ入れるなお前は!」
いつのまにか階段を降りてきていたキルルをげんこつで殴り、天輝はため息をついた。
「キルル、おまえちょっと耳ふさいでろ。」
それだけ言って、葉子に向かい合う。
「あのさぁ、何があったのか大体は想像つくんだけど……えーっと、あいつついこの前地球に来た宇宙人なんだけど……」
一体何が言いたいのかと顔をあげた葉子に一言言った。
「悪い奴じゃないってことぐらいわかるだろ?」
葉子は目を見開いた。
天輝はにっと歯を見せて笑う。
「地球人同士だって相手がどんな奴かわからない。そこらへん宇宙人だらけ一人一人異星人同士みたいなもんだ。あいつは紫だし、しかもほの光りしてるけど、中身は地球人とそう変わらない。あんたに拒絶されてショック受けてる姿見てもあいつがあんたをまるかじりするような奴じゃないってことくらいはわかりそうなもんだろ。」
葉子はうなずいた。
その通りだと思った。
キルルは今まで会った誰よりも心に響く言葉をくれた人だったのに、どうして外見で判断してしまったのか。
「化け物。」なんて、ひどいことを言った。
キルルが化け物なら今まで出会ってきたきれいごと星人たちは一体何だろう。
「……ごめんなさい、キルル。私、あなたの顔を見てお礼を言いたいって思ってたのに……。」
キルルは何も言わず、ただ紫に光っている右手を差し出した。
葉子は迷わずその手をつかんだ。
「僕は最初地球人が怖かった。地球人は光ってないからまるで死体が動いてるみたいで見ただけで怖かったんだ。でも天輝が助けてくれたから、だからやっと地球人は怖くないってわかったんだよ。」
天輝が顔をひきつらせている横で、キルルはにこにこと笑っていた。

 天輝の朝は、鼻孔をくすぐるコーヒーの香り、パンが焼けた音、そして、視界一面に広がる紫の物体で始まる。
はずだったのだが、
天輝の視界に紫の物体は映らなかった。
代わりに金髪碧眼の少年がいた。

「どぉわぁぁぁぁぁ!」

心地よいまどろみもどこかへ吹っ飛び、天輝は絶叫した。
「ど、どなたさまで?」
思わず自分の頬をつねった天輝に少年は言った。
「僕だよ。地球人に変身してみたんだ。色素がうまくいかなくて天輝とはちょっと髪と目の色が違っちゃったけど。」
天輝は目が点になった。
プラチナ・ブロンドの髪はさらさらと、アクアマリンの瞳はゆらゆらと、なんていうかもう映画に出てきそうな美少年なのだ。
「き、気持ち悪ぃ〜っ。」
「ひどいや。昨日はすごくいいこと言ってくれて嬉しかったのにっ。」
キルルは頬を膨らませて天輝をにらんだ。
天輝はかまわず思いっきりキルルを殴る。
「おまえ耳ふさいでろっつったのに聞いてたなっ!ったく、二度と大学に来んなよ。」
「どうしてだい?せっかく地球人っぽく外見を変えてみたのに。」
「別の意味で目立つっての!」

 ……キルルの容姿が変わっても、キルルがいる限り天輝の毎朝の日課が絶叫であることは変わらないようである。

 これから何が起こるのか想像もつかないが、とりあえず今回自衛隊出動の危機を見事乗り越えた天輝に賛辞の言葉と祈りを捧げたいと思う。
彼の前途に幸あれ。
……アーメン。
あいかわらず天輝が振り回されたまま終わる。
一応続く。
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