『シンデレラ 後編』

「シンデレラって結局どこ行ったのかね?」
「どうせウィリアム様に捨てられたんでしょ。そもそもあの器量で皇太子妃って、高貴な方々の冗談だったんじゃないの?」
「それはあるかも。だってあの子って、見た目も悪けりゃ中身も最悪だったし、心を砕かれる王妃様が本当にお気の毒だったもの」


ウィリアムは窓辺に腰掛けて外の景色を眺めていた。
今日も鬱陶しいほど天気がいい。
空は青く、街は明るく、遠くの緑は鮮やかだった。
見慣れた景色だ。何の感慨もない。
正直飽き飽きしていたが、城の中に目を向ける気にはなれなかった。
どの床もシンデレラが磨いていたような気がする。
どの草もシンデレラがむしっていたような気がする。
どの布もシンデレラが洗っていたような気がする。
室内で、回廊で、庭園で、シンデレラと言葉を交わし合った。
どれもこれもろくな会話ではなかったのに、何故か覚えている。
そんな自分が腹立たしい。
女の影を追い払おうと頭を振れば、どこからか密やかな笑い声が聞こえてくる。
本人が姿を消してようやくおおっぴらに牙をむけるようになった一部の下女どもが好き勝手に噂する声だ。
いちいちどれももっともなのに、どうしてか聞いていることができない。
おそらくその名前さえ耳に入れるのが嫌なのだ。
だから手の空いた時間は専ら部屋で外を眺めている。
遠くの森のその向こうを見つめたとしても、思うところは何もないから。

「何を見ておる」

突然の呼びかけに振り向けば、父の姿がそこにあった。
「シンデレラが姿を消してから毎日毎日、気もそぞろに外を見て、……おまえは何を探しておる」
ウィリアムは不思議そうに眉を上げた。
「気もそぞろとは心外です。執務も一区切りつき、しばしの休息に城下の様子を眺めるのはそれほどにおかしなことでしょうか」
「……数週間前からおまえに回す書類の量を減らしておることに未だに気づいていないのだとすればな」
ため息の音に顔がこわばる。
「……何故です、父上」
ウィリアムはかろうじて声を抑えた。
「その問い自体が理由の一つ。以前のおまえならすぐに気づいた。わしが部屋に入ったこともだ。……もう一つは、生半可な気構えの者を国政に関わらせるつもりはないということ」
「私はそのような……っ」
「おまえには時間を与える必要があると決断を下したのだ」
「父上、私は務めに対して力を抜いたことなど一度たりとて」
反論は静かに押しつぶされる。
「ウィリアム、少し黙れ。己を知らぬ者が己を語れると思うか」
王は厳しく言い放った。
「聞け。……この国に、富み、蔓延するものは……、平和ぞ。数百年前の戦を経て、ようやく手にした平和。これほど厄介なものはない。国は平和ゆえに収まり、平和ゆえに乱れる。……美味なる果実は腐りやすい。だからこそ、王家に甘えは許されん。わしも、おまえも。妃も、ロイドも。この血に連なる者のすべてが、この国の今と未来に尽力する義務を負う。わしは国王として、いついかなるときも、決しておまえを甘やかしはせん」
それはウィリアムにとって何度も聞かされた言葉。
王にとっては言い慣れた言葉。
子に、妻に、語るたびに自らの胸に繰り返し刻みこんできた唯一絶対の正義。
「……だが、シンデレラは違う。皇太子妃たるもの美しいに越したことはない。賢く、気品に満ちあふれ、家柄も良ければなおのこと望ましいだろう。……しかしだ。何より重要なのは、やがては国王となる夫を支えることのできる女性であるかどうか。仲睦まじく、心許し合う夫婦となれる相手であるかどうかだ。わしがおまえを許さずとも、シンデレラがおまえを許し、わしがおまえを突き放そうとも、シンデレラがおまえを包みこむ。……そうなればと、思っておった」
若かりし頃、母によって選び抜かれた婚約者は非常に美しかった。
賢く気高く名家の生まれで、皇太子妃の名に誇りを持ち、散財も放蕩もすることがない。申し分のない女性だった。
妃となった今も不満を感じたことなどない。
安らぎも、甘やかな想いも、何も感じることがないのと同様に。
ただ厳めしい信頼と契約だけがそこにあった。
ウィリアムの婚約者を選ぶ際、自分にできなかったことをさせようと思ったのはほとんど自然な思いつきのようなものだった。
「いつしか……わしは、シンデレラが可愛くて。……まるで娘ができたようだと思った。シンデレラのためにあれをこれをと、初めて父親らしくあれた気がしたのだ。……わしには、息子が二人もおるというのに」
王は眉間のしわを深くした。
息子の顔から目をそらさないことが、何よりもつらく、何よりも成し遂げなければならないことのように思えた。
それはきっと、ただの自己満足でしかないのだけれど。
「……今さら、だ。今さらわしは後悔する。おまえを……王としてではなく、親として育てればよかったと。……親として支えることが、何故できなかったのかと。……わしはおまえに相談を受けたことが一度もない。報告を受けたことはあるがな。おまえがその年になるまで何に悩み、何に苦しんだのか。……何一つ知らん」
それでもいいと思っていた。それは自分の役目ではないのだと。
ならば誰の役目なのかと、考えることもせず。
「おまえは出来た息子だった。おまえが正体を失うほど取り乱したところなど見たことがない。……わしは、おまえを誇りに思っておった。……それがどうだ。おまえは今や抜け殻のような顔をして、毎日毎日呆けたように外を見る。鈍くのろくおかしくなって、自分でそれに気づきもしない。ゆっくりと、着実に壊れておる」
そうしてやっと自らの責任に思い当たるこの愚かしさ。
「……わしは今、おまえが……哀れでならん」
「父上……?」
今さらだ。
本当に、今さらだ。
今さら親を名乗り、親のように振る舞いたいと望む。
子どもが子どもらしくあることを願う。
今さら気づき、今さら悔いる。
今さら……今からでも取り戻せることを、祈る。
「……休暇を与える。今のおまえに任せる執務はない。好きなだけ休むがいい。……誰もおまえに何一つ求めはしない。ここにあること自体がおまえを縛るなら……旅に出るもよかろう。王として、……親として。おまえに時間を与えよう」
「ち、ち……う、え」
王は返事を待たなかった。返事は必要なかった。
容赦なく距離を開いていく後ろ姿に、ウィリアムは何も言うことができなかった。
簡単な音と共に扉が閉まる。
部屋が暗くなった気がする。
世界が暗くなった気がする。
窓から降り注ぐ無神経な日射しが全身の血を沸き立たせた。
「……おっしゃることが……よくわかりません。どういうことですか?……父上。私の何が至らないと?何の役にも立たぬ者だということですか?誰も私に……何一つ……。父上、あなたは……どうせよと……おっしゃる。私に……私にっ!」
問いつめても答える者は誰もいない。
「親としてのあなただと!……そんなあなたに対し、私がどうすることがあなたの望みなのですかっ!……王としての、父上。王妃としての、母上。王子として、皇太子としての……私。ずっと……そうやって……いつも、そうやって……今さら!」
髪を掻き乱し、奥歯を食い縛る。膝が、折れる。立っていられない。
熱い、どろどろとした、重たい何かが。心臓をひきちぎり全身を駆け巡り頭を突き破って……どこにも行くところがない。
人の……上に立つ者は、常に冷静であらねばならない。
正しい判断を下すために。
激しく取り乱す様を見せてはならない。
人々に不安感を与えないために。
物や人にあたってはならない。
王者のすべき行動ではないから。
物心ついた頃にはすでに王子と呼ばれていた。
周囲の視線が言葉が行動がどれも何かを要求した。
父も母も、良き王子たる自分を望んでいた。
泣けば軟弱者よと罵られ、笑えば品がないとたしなめられた。
王子として生きることしか許されなかった。
ずっとそうやって、生きてきたのに。
「……おっしゃってください、父上。必ずやご期待にお応えいたします。何でもお申し付けください。すべて……、すべてその通りにいたします。いたしますから……どうか」
今さら。
王子としてでない己など。
誰に見せられるだろう?
誰に受け入れられるというのだろう。
誰が受け止めてくれるというのか。
「……どうか……私を、見ないでください」
怖い。
怖いのだ。
こんなにも。
否定しないで。失望しないで。
だから、
見ないで。
本当は、優しくなどありません。
誰に感謝を述べられても、どれだけ澄んだ瞳で見られても、この心は限りなく冷めたままで。
本当は、温厚などではありません。
いつだって微笑は暗く歪んで。胸中は毒であふれて。呪詛が喉につまったままで。
知られたくない。
誰にも。
王子の殻がこの身を守り、王子の殻が心を削る。
王子として。
それ以外に、どうやったら生きられるのかわからない。
「……父上……ウィリアムは王子として日々務めを果たしております。それではいけないのですか?父上……父上、……父上っ!ち、ち……う」
誰もいない部屋で、一人。泣き崩れる自分を受け止めてくれる人はいない。
例え、いたとしても。身の内にたまる毒ごと抱きしめてくれる人はいない。
いるわけがない。
どこから見ても完璧な『ウィリアム皇太子』は誰も彼もに愛されているのに。
こんなにもどうしようもない『ウィリアム』には慰めの一つさえかからない。
反吐が出そうな偽りを、それでも失うことが恐ろしくて。
いつだって笑うことしかできなかった。
「……っ」
唇が戦慄く。
呼べる名前はどこにもない。
指先が震える。
つかめる腕はどこにもない。
どれだけ頭をかきむしっても。思い浮かぶ顔は……

一つしかない。

扉を開け放って、回廊をひた走って、髪の毛を振り乱して、
ただ一人を探す。
いない。
ここにもいない。
どこを探してもいない。
いつも磨いていたそこかしこの床。
最初に命じてむしらせた草。
いつのまにか広がっていた勢力範囲の布。
しぶとくずぶとく憎々しい女が。
どこにもいない。
息が切れ、鼓動が騒いで。鈍い痛みが頭を打った。
まるで鐘を叩いたようだった。
……ああ、
そうだ。
そうだった。
「……シンデレラ」
そんな女はいない。
何故か覚えているろくでもない会話。室内で、回廊で、庭園で。どれもこれも、そんなものは、元からなかった。
全部嘘だった。
ふざけたような口調も、不気味な笑い声も、でたらめな性格も、生意気な眼差しも、泣きそうな微笑みも。
「シンデレラ……」
城中の至る所を冒すだけ冒して、記憶さえ汚してから消えて失せた。
もう、どこにもいない。
世界中の神々よ、照覧あれ。
馬鹿な男がいる。
自分でついた嘘に首を絞められ、見破ったつもりの罠にかかった馬鹿がいる。
唇が歪む。
おかしかった。
とても。とてもおかしかった。
ひとしきり笑って目を閉じれば、遠巻きに様子を窺っている女たちがひそひそと囁き合っているのが聞こえてきた。
あの卑しく姦しい口からシンデレラの名前は聞きたくない。
しかし、立ち去ろうとした耳に届いたのは他でもない自分の名前だった。

「……ウィリアム様どうかしちゃったのっ?ご乱心?」
「しーっ、声が大きいってば。ただごとじゃないよ、お耳に届いたら追い出されるだけじゃすまないよ絶対」
「ウィリアム様といえどやっぱり人の子だから、見えないところで色々あるんでしょ。あんなにべそをおかきになって……、やっぱりねぇ、完璧な殿方ってそんなに簡単に見れるようなもんじゃないんだよねぇ。でも幻想だけは壊してもらいたくなかったよねぇ」

何一つ隔てのない自分への評価など所詮こんなものだ。
女の、人の心など、所詮はこんなものだ。
世界は欺瞞と虚飾に満ち満ちて。
弱者が身を守るためには、諦めをつける他にない。
王子としてしか生きられないなら王子として生きていけばいいだけのこと。
周囲もそれを望んでいる。父も、やがてはきっと欺ける。
「……もう、いない。……元から、いなかった」
ウィリアムは床を見つめ、目を閉じてから笑った。
涙を拭い、赤みさえ引けば、それは完璧な微笑だった。


「ご心配をおかけしました。休暇のおかげで体調も回復いたしましたので、すぐにでも執務の方に復帰したいと思います」
貼り付いたような笑顔で会釈するウィリアムに、王はあからさまに顔をしかめた。
あれから三日。
何があったかは知らないが、良い方向に進んだものは一つとしてないのが見てとれる。
「……復帰は許さん」
重く響かせれば、
「暇疲れというのもなかなかに心力を奪うものですよ」
軽く肩をすくめてみせた。
いつも通りの微笑がだからこそ痛々しい。
眉をひそめて口を開く。
もやもやとした思いが胸を叩くが、いっこうに形にならなかった。
それでも何か言わねばならぬと、懸命に口を動かす。
「おまえに任せる執務はない」
反論は横から返ってきた。
「陛下、何をおっしゃいます。ウィリアムには大切な仕事がございます。……シンデレラが失踪したのですから、新たな婚約者を選ばなければなりませんでしょう?」
王妃が口の端をわずかに上げる。
今まさにその話をしていたところだったのだ。
王妃にとっては渡りに船、カモがネギをしょってやってきたといったところだろう。
「先日の舞踏会は台無しになってしまいましたが、候補を募ればすぐに集まることでしょう」
王はますます顔をしかめた。
「……ウィリアム、真相を知る者はおまえだけだ。おまえが探す必要はないと言うから動かずにいる。おまえが固く口を閉ざすのには何か理由があるのだろうと思うからこそ今はもう問いつめずにいるのだ。おまえが一言『探せ』と言えば国内外すぐにでも人をやる。おまえが『待て』と言うのなら、わしの余命分は待ってやろう」
「陛下っ?」
「……シンデレラは、おりません。そのような者は最初から存在しなかったものとお考えください」
ウィリアムは静かに言い放った。
にっこりと、笑う。
「ですから、父上がこれからの日々を憂えて過ごす必要などどこにもないのです。……母上、先日お引き合わせいただいた女性はどなたも美しく聡明で私にはとても選ぶことができません。母上の、王妃として、女性としての目から見て、皇太子妃にもっともふさわしいと思われる方を迎え入れることにしようと思うのですが……」
王妃が喜々として話を進め、ウィリアムがひたすらに頷く中、王は眉間のしわに拳を当てて心でうめいていた。
何故こんなことになったのか。やはり、遅すぎたのか。それとも方法を間違えてしまったのだろうか?
シンデレラの顔が頭に浮かぶ。
何故か初めの頃のおどおどとした様子で、今にも泣き出しそうに顔を歪めていた。
もしもウィリアムがシンデレラであったなら、断固として発言を撤回させる。
しかしウィリアムはウィリアム以外の何者でもない。
父親としてはどうするべきなのか、見当もつかない。
「……おまえがそれで良しとするならばもはやわしに言うことはない。婚約者選びについてはすべて任せよう」
王としてなら、簡単に思い至るのに。


ロイドは躊躇なく扉を蹴った。
できるだけ大きな音が立てばいいと思った。
怒りを緩めない勇気と、怒りに囚われない覚悟が、しっかりと響き渡るように。
「……何の冗談?」
あとは舌がもつれないことだけを気を付けた。
「新しい婚約者が決まったって聞いたんだけど」
わずかに目を見開いたまま微動だにしない兄をきつくにらみつける。
「……ロイド、扉は手で開けるものだよ?」
「うるさいよ!つまんないこと言わないでくれる?」
ふっと笑われてますます頭に血が上った。
普段と変わらない笑顔。しかし、明らかにおかしい。
いつもの兄なら眉をひそめてたしなめた。
なのに、まだ、笑っている。
「シンデレラが突然いなくなって、どういうことって問いつめてもひたすら黙ったままで、どうしたって納得できないのをそれでも我慢してきたのは全部無駄だったってわけ?」
ロイドは早口でまくし立てた。
腹が立って仕方がない。
こんな結末を迎えるために黙って見ていたわけではない。
二人の間に何があったか知らないが、兄なら必ずシンデレラを探してきてくれると信じていた。兄にとって彼女はとても大切な存在なのだと信じているのに。
「それなら今答えてもらうよ。……シンデレラはどうして消えたのさ。何があってどこに行ったのさ。どうして兄様は探しもせず新しい婚約者なんて選んじゃってるわけ?兄様って色魔?スキモノ?式挙げる前からもう第二夫人選び?答えてよ。シンデレラのこと、どう思ってるのさ」
ウィリアムはかすかに眉を寄せた。
弟はシンデレラとどの程度親密だったのだろうか。
顔を赤くして、全身から怒りをほとばしらせて。
あの女にそれほどの価値があるはずもないのに。
教えてしまったら、傷つくだろうか。憎むだろうか。
諦めるだろうか。
ウィリアムは口の端をそっと上げた。
女が嫌いだった。
『王子様』に群がり、無邪気に、無神経に、簡単に『愛』を告げるその様が。
世界が嫌いだった。
何も知らないくせに、知ろうともせず、わかったようなつもりで偽りを甘受する人々が。
だが、もういい。
知らなくていい。わからなくていい。全部嘘でいい。もはや何も望みはしない。
最後まで駄々をこねていた領域を手放そう。
飾りとなり、血を残そう。愛を騙って名を果たそう。
自分は赤子ではない。
叶わぬなら何もいらない。
臆病なのか、勇敢なのか。どちらにしろ馬鹿馬鹿しいが、少し楽しい。
さぁそれを、どうねじ曲げて伝えよう。
「……大人って黙りこんで居心地悪い気持ちにさせること上手いしよくやるけど、それって単に逃げてるってことだよね」
考えているうちにとげを刺された。
そんなつもりはなかったが、確かに。このまま逃げてしまえたらどれだけ楽なことだろう。
それでもこの弟は、決して許しはしないのだろうが。
「何とか言ってよ兄様」
まっすぐな眼差しがまっすぐすぎて痛い。
嘘を許さない響きが声帯をすくませる。
見せない真実を気づかせないための微笑みは、一体どれが正解だろう。
今自分がどんな表情を浮かべているのか。もう、よくわからない。
とりあえず目を細くした。
「……逃がさないよ。兄様がどれだけつらくたって、僕にとって大切なものは、その先にあるんだから」
ロイドは拳を握りしめた。
子どもだとそしられてもいい。
子どもの立場に守られない自分自身を傷つけられても。
今ここにある心を裏切って、『良い子』のふりはしたくない。
「兄様!」
ウィリアムの唇が、ゆっくりと開いていく。
「……シンデレラは……シンデレラじゃなかったんだよ。あれは……私を裏切った。おまえも、父上も、皆。だからそんなにも怒ってやる必要はないんだ」
「……どういうこと?」
ロイドが顔をしかめると、ウィリアムはまた、そっと笑った。
「シンデレラのすべては偽りでできている。姿も、中身も、名前さえ、本当ではないのかもしれない。私の知っているシンデレラも、おまえの知っているシンデレラも、どれも嘘の固まりだ」
微笑は薄く、読みとれるものは何もなかったが、ロイドはなんとなくわかった気がした。
「……ようするに、兄様はシンデレラを信じてないってこと?」
咎めるように見つめられ、ウィリアムは表情を固くした。
信じるも何もない。嘘だったのだ。すべて。何も残らないくらいに。
心の中の訴えは、簡単に覆された。
「……僕はそうは思わない。シンデレラのすべてが嘘だなんて思わない。……兄様のすべてが、嘘だなんて……思わないよ……」
「ロイド……?」
なぜそこに自分の名前が出てくるのか。
「気づいてないの?周りが見えてなかったんだね、舞踏会でシンデレラと踊ったとき。あんな風に声を荒げる兄様は初めて見たって女どもが大騒ぎさ。父様もぽかんと見てた。母様は記憶から排除してるみたいだけど、あのときは失神寸前だったね」
ウィリアムは頭の中が真っ白になった。
そうだ。何故気づかなかったのだろう。いくら音楽が流れていたとはいえ、他にも踊っている組がいたとはいえ、あれだけ声を大きくして、あれだけ不審な動きをしては、注目が集まらない方がおかしい。しかもあの日の主役の二人だ。
周りが見えていなかった?
この自分が?
シンデレラと踊っていて?
そんなところを、他人に見られたのか。見せたのか。
信じられない。
「僕は……嬉しかった」
ウィリアムが呆然とするのを、ロイドは苦笑しながら見つめていた。
自分もその光景を見たときは思わず何度も目を擦った。周囲のざわめきを繰り返し確かめ、母の様子を窺って。父の唇が緩やかな弧を描いたのを見てからやっと、思う存分頬を緩めた。とても嬉しかった。
今までにない兄の一面をかいま見れたことが。
引き出している人間がシンデレラだったことが、さらに嬉しくて、少しだけ悔しくて。
だから、決めていた。
「……僕は」
舌が痺れる。顎が錆び付く。どうしたって心が怯む。
知っている。
多くの人々の自分に対する評価は『小生意気なクソガキ』。
それを助長する態度を取ってきたりもした。誰に対しても、兄に対しても。
憤りながら盾に使ってきた。
「僕は……」
目が、熱い。
「兄様の笑顔が、ちぐはぐだって気づいてた。そぐわない場面で繰り返し笑うから、どこか変だってわかってた。何かを隠すように笑う兄様が……嫌で嫌でたまらなかった。僕は……」
拳が震える。
こんなにも、弱いけど、ちっぽけな自尊心とどちらが重いかなんてわかってる。
うつむきがちになる頭を起こして、熱に潤む瞳を隠さず、まっすぐ。見つめることができたらそれだけで強くなれるような気がする。
見せてほしいと望むなら、見せなきゃ駄目だと思う。きっと。
汗ばむ拳を握り直した。
「母様を、『お母さん』だと思ったことがない。母様は母様だけど、そんなんじゃなくて。父様も……父親だけど、『お父さん』じゃない。……でも、嫌なんだ。僕は……兄様みたいに、笑ってないのに笑うのは嫌だよ。……僕だって、王子だ。わかってる。民衆の前では無理やりでも笑ってみせる。でも、母様や父様や兄様の前で……そんなこと、したくない!大臣に怒られても、母様に疎まれても、兄様に嫌われても。嫌だ!……僕は、僕でいたい。だって、……家族、だから。どんなでも家族だと思うから。嫌われたって、……そのままの僕を見てほしい。見せて、ほしいんだ……」
頭に血が上る。怒りではなくて。羞恥ともいえない。わからない。
心臓がうるさい。馬鹿みたいに足が震える。
初めて自分の意志でむき出しの心をさらけ出した。
傷つくのが怖い。怖いけど、どこまでも逃げてばかりの自分でいたくない。
眼球が熱くて。視界がにじみすぎて。それでも兄の姿が見たかったから、目を擦った。
唾を飲みこもうとしたが、喉仏が動いただけだった。
兄はひどく苦しそうな顔をしていた。
見たこともない苦悶。でもまだ、耐えている。
「正しいとか間違ってるとか、考えないよ。……兄様が痛いかどうかなんて、考えない。もっと痛い目に遭わされてもいいから……、見せてよ」
兄にとっての大切なものが自分のそれより劣っているとは思わない。
だから、傷つけても、傷つけられても、絶対に怯まないと決めていた。
「見せてよ、……兄様」
ロイドの眼差しは、涙に濡れそぼっても、決してそらされることなく。
ウィリアムはずっとまぶたを閉ざしたかった。
だが暗闇に逃げこんでも追ってくる声から逃れることは叶わないのだろう。
幼い声。幼い眼差し。幼い……弟。
昔からそれらに対して勝てたことは一度としてなかった。
顔が歪む。
笑えない。
笑うことが、できない。
「……私はおまえほど、強くない」
離れた年の数を数えても何かを得た年月というよりは失った日々のようで。
稚い姿にかつての自分を思い返してはその本質の明らかな差異を知る。
同じ『王子』としての立場にありながら、弟が己を見失うことは決してない。
長男だとか、世継ぎだとか、儚い言い訳が行き交うたびに思い知った。
強い、強い、強い弟。
諦めることなどないのだろう。
こうして涙に濡れながら、すべてを越えていくのだろう。
羨ましくて妬ましくて愛しかった。
「僕は兄様ほど強くない!笑えるのに笑わないわけじゃないっ、笑えないから笑わないんだから……。……でも、シンデレラが、それでもいいんだって言ったんだ。……終着点は、今じゃないから」
「……ロイド」
いつも、痛みに耐えきれなくなるのはこんな時だった。
弟の口から自分を語る言葉が出るたび、それがどんな内容であっても痛みが走った。
劣等感を感じていると知っていた。羨望を抱いていると知っていた。複雑な思いに苛まれていると知っていて放っておいた。
弟が、どんなに傷ついても。
それくらいは許されると思ったから。
いつか周りも気が付くに決まっている。
それまで、それくらいの傷さえ受けないなんてひどすぎるから。
心に巣くう二律背反な思い。
その苦痛を、一方だけ感じなくなるのは不公平だと思ったから。
「……私は、強いと言われるような人間じゃない!私は……私は……っ」
卑屈で。卑小で。卑怯で。
ここまで心をさらされてなお何一つ返すことができない。
「兄様は、僕のことも信じてないわけ?」
「違う!」
思わずとっさに叫んでいた。
ロイドが笑う。
「兄様は強いよ。強いんだ。自分でわかってよ。兄様は強くて……そればっかりじゃないだけだよ。でも、強すぎたおかげで僕は強くない部分のことをほとんど何も知らないんだ」
違うと、思うのに、言うことができない。
そうであったらいいと思う心は弱者の証だろうか。
思いこみにさえすがりつきたい弱さの発露なのか。
そうでありたいと、願う心は。
「教えてよ。知りたいんだ。僕の知らない兄様のこと。……今までが全部嘘だったなんて思わない。知らないことがまだまだあるんだって思うよ。全部暴こうなんて思わない。……でも、お願いだよ。苦しいときはそう言って。泣きたいときはちゃんと泣いて。……無理して笑わないで。ほっとするけど、痛いんだ。……痛いんだよ」
「……ロイド」
今ここに、偽りは微塵もない。
何故かそう思えた。
何の保証もないのに。
もしも偽りがあったとしても、それでもいい。
応えたいと感じた自分の心は本物だと思えるから。
何の保証もないけれど。
「私……は」
唇を戦慄かせて、何を言うべきか数秒迷った。
言わなければならないことが多すぎる。
言えそうなことはひどく少ない。
「おまえの兄は……どうしようもない男だ」
出てきた言葉は思ったことそのままだった。
情けない。意気地がない。本当に、どうしようもない。
終着点は幻さえ姿を見せず、目の前の道のりは至極険しい。
それでもロイドは片眉をつり上げ、少しだけ微笑んだ。
「兄様のこと悪く言わないでくれる?言っていいのは今のところ僕と……シンデレラだけだ」
おそらく伝わってくれたのだ。受け取って、くれたのだ。
ふっと息がもれたが、すぐに付け足された名前に眉を寄せた。
「シンデレラは……幻だ」
「……兄様がそんなこと言うなら、シンデレラのことを悪く言っていいのは僕だけだ」
ロイドは深いため息をついた。
眉間をもみしだいてから挑発するような笑みを浮かべる。
「賭けてもいいよ。シンデレラは現実で、兄様のことが大好きだよ」
ウィリアムはいっそう眉を引き寄せた。
「……あり得ない話だ」
シンデレラの正体は魔女だ。魔女の目的は仕事にかこつけた暇つぶしだ。自分は単に暇つぶしの遊び道具。ただそれだけ。
「だったら確かめてみたらいい。さっさと探してきてよ。母様好みの高慢女が義姉様だなんて、絶対に御免だからね!」
「ロイド、シンデレラは……」
言いかけて、ふと、額に手を置く。
今は痛くも何ともない頭。鼻。……唇。
あの女が最後によこしてきた弱々しい頭突きの意味は何だったろう。
くちづけというにはあまりに不格好な接触事故。
やることなすこと、所詮戯れだと、深く考えたことなどなかった。
だが。
「あれは……くちづけだ」
断言すれば本当にそうだったように思えてきた。
「泣きそう……だった」
本当にそうだったか、そう思っていたいのか、段々とわからなくなってくる。
「私は……言ってしまったんだ。嘘つき、だと」
それでも、何かがやっとつながった気がした。
嘘だったのか、違うのか。どこまでが嘘でどこからが本当なのか。
何もわからないのに一つだけはっきりしていることがある。

嘘で、なければいい。

本当だったら、いい。
できれば……すべて。

心に深く刻まれた部分だけでも。

くすんだ金茶が漆黒に塗りつぶされる。偽りが真実に消えていくのが嫌で、外ばかり眺めていた。
黒髪の女に思い出すことはほとんどない。記憶が手と手を取り合って結びつくのを頑なに拒否した。
不快に顔を歪め、何が不快なのか、考えることから逃げ続けた。
「嘘でなければいい、なんて……」
気づいてしまったら、どうなるのか、恐ろしくて。
願いをはね返されるのが怖くて。
希望を抱く勇気もなくて。
それでも。
「……嘘で、なければ……いい」
こんなにも救いを求めている。
気づかなければ楽だったのに、気づいてしまった。
なおも動こうとしないのならば赤子と言われても否定はできない。
だが、どうすればいい?
いくら信じたいと願っても、滑稽な思いこみで嘘と本当を取り決めても。
この現実には確実に真実が存在するのに。
すべてが虚構でもかまわないと納得できるほどおめでたくもなければ寛容でもない。
何より楽な術は知っているが、目覚めてしまった心を抑えることは難しくて。
前後左右、どこにも足を動かせない。
「あー、もう!見てるしかないってのに見てられないんだけど!」
ロイドは思わず頭をかきむしった。
硬直したままの兄が何を思っているかなんて考えれば考えるほど絶叫したくなる。
引きずってでも捜させてやりたいが、それでは意味がない。
いや、意味は……あるのかもしれない。
少なくとも、こうして手をこまねいているよりはずっと。
「ちょっと待ってて!」
ロイドはすさまじい速さで廊下を疾走してあっという間に戻ってきた。
ウィリアムが見送る暇も迎える暇もない。ただ驚きに目を丸くするしかなかった。
その前に、ずいっと両手を差し出される。
ガラスの靴が、乗っていた。
兄と弟の視線がぶつかる。
「置いてったんなら探せってことだろ」
ロイドが言った。
「……そういう解釈もできるのか」
ウィリアムはうわごとのようにつぶやいた。
この靴をはけるのは一人しかいないから。最初に勘違いした通りの用途で使用しろということかと思っていた。
それくらいの義理はあったのかと。
しかしそういえばあのふざけた『シンデレラ』はこつさえつかめば誰でもはけるようなことを言っていた。
何故置いていったのか。
ロイドの解釈は当たっていない。
探す必要はない。どこにいるかは知っているのだから。
「何故……」
引き寄せられるように腕を伸ばす。
ウィリアムの指が触れたのと、ロイドの手が離れたのが同時だった。
蝶の羽のごとく、重さを感じさせない靴は、宙を漂う間もなく床に縫い付けられた。
盛大な音と共に砕け散る。
無数の破片がはね返る。
ウィリアムはとっさに腕で目元をかばった。
足は間に合わない。服を突き破ることはないと思うが、もしあったとしても深くは届かないだろう。万が一にも眼球に刺さることのないよう動いたつもりで、しかし反射的に下を向いてしまっていた。
ウィリアムは見た。
飛んできた破片は、肉に刺さることもなければ衣装を破ることもなく、衝撃を加える前にすとんと落ちた。
直角に。
すぐそばで砕け散ったというのに、結局ひとかけらも当たりはしなかった。
「……どう、しよう……。ごめんなさい……兄様。僕、どうしよう……」
ロイドが蒼白になって震えている。
ウィリアムはじっと足元を見つめていた。
ガラスのくずは静かに床に伏している。
原形はまったくとどめていない。
「……兄様」
ロイドはもう何を言っていいのかわからなかった。
一瞬の出来事が信じられない。しかし音が耳に残っている。足元には変わり果てた輝きが広がって。
タイミングが悪かったのだ。あ、と思ったときにはすでに指が離れていた。
言い訳のような考えがぐるぐると回る自分に吐き気がする。
再度兄を呼ぼうとしたが、音にならなかった。
しかし心は届いたのか、ウィリアムはゆっくりと顔を上げた。
「……いい。それより、怪我は?」
「ない……けど」
言われて初めて気が付いた。
痛みはない。それどころか破片がぶつかってきた感覚さえなかった。
「そうか……」
「でも……ガラスの靴が……っ」
傷は治るが、割れたものは元には戻らない。
「気にしなくていい」
いいわけがない。
シンデレラが消えた夜身につけていた物の中で、唯一手元に残された品。
兄が割ろうとして自分が止め、父が保管していた大切な靴。
ただ一つの手がかりで、二人にとっては何にも代えがたい思い出の品であるはずなのに。
ロイドは唇を噛みしめて涙をこらえようとしたが、どうしても止めることができなかった。
ウィリアムは言葉を重ねる代わりにロイドの頭をそっとなでた。
「……ガラスは、割れるものだ」
ぶるぶると左右に動く頭をぽんぽんと叩き、小さく息をつく。
最初に手にしたときから予感らしきものは十分あった。そもそもガラスでできた靴など、巷にあふれる勇気の量がいかほどだろうが、砕けることを前提に作られたものだとしか思えない。
ガラスは割れるものだ。
容赦なく、粉々に。砕けてしまえば、いかな方法でつなぎ合わせようと、決して元の姿には戻らない。
笑えるくらい、それはそういうものなのだ。
「……ロイド、私は急用を思い出した」
ウィリアムはロイドの頬を手の甲で拭った。
ロイドは頬の肉を固くした。
「兄様?」
にじんだ視界の中で、兄の口元がかすかに笑っているような気がする。
拳をごしごしと擦りつけ、まぶたを固く瞑ってから恐る恐る開いた。
「どうしても確かめねばならないことができた」
「それって……」
期待に満ちた戸惑いを投げると、穏やかな苦笑が広がっていく。
「私は賭けに負けたのかどうか、勝敗の結果を」
ウィリアムは確かに笑っていた。
ロイドは頬を拭いながらやっと口の端をつり上げた。
「……僕が勝ったら、『義姉様』をもらうよ」
なのにウィリアムの眉が困ったようにのけぞってしまう。
「それは約束できない」
「なんでさ」
「確かめることは……もう一つある」
そのときだった。
上品な音を立てて扉が開いた。
二組の目がそちらを見る。
現れたのは王妃だった。
王妃は非常に機嫌がよろしい様子で、ガラスに輝く不審な床にも明らかに泣いている子どもの顔にも目を留めずににこにこと笑った。声も心なしか弾んでいる。
「ウィリアム、あなたの婚約者に手紙を書きなさい。改めて顔を合わせる前にまずは書面での」
「母上、申し訳ありませんが気が変わりました。婚約は破棄させていただきます。まだ口約束だけだったとはいえ相手の方にはこの上なく手ひどい仕打ちでしょうからできる限りのお詫びはしたいと思いますが、母上に対してはどう言って詫びればよいのかわかりません」
続く言葉を遮り、ウィリアムは遜色ない笑顔を向ける。
「どういうことです?」
すぐには内容を認識しきれなかったのだろう。王妃が怪訝な顔をした。
ウィリアムはにっこりと、さらに微笑を深くする。
「何しろ確かめた結果次第では皇太子の座を退き生涯独身を貫こうと思っておりますので」
「ウィリアムっ?」
「何それ!聞いてないよ兄様!」
王妃に続き、ロイドまでが声を上げる。
ウィリアムはロイドに振り向くと、ふっと頬を緩めた。
「私が勝ったらの話だ」
「二人とも、一体何の話をしているのです!」
苛立ちが戸惑いを押し始めた声に再び笑顔を向け直す。
わずかな間見つめ合ってから、自ずと表情が消えていった。
「母上、私は王子ですが、王子は私ではありません。私の中には王の子らしからぬ部分も確かに存在するのです。……今まではその部分を押し殺そうとしていました。王の子として、そうすべきであると。……ですが、本当は……その部分も受け入れていただきたかった。あなたや、父上に、どんな私でも自慢の息子であると、そう言っていただきたかったのです。私の臆病ゆえに、そんなことは……、とても、言い出せませんでしたが」
本当はいつも笑ってなどいなかった。
本当に言いたかったことは何一つ口にしてこなかった。
それは母だけが原因ではなく、父や周りの者たちの責任でもなく、何のせいでも、それだけでは決してなく。
例え誰が違うと言っても、確かに自分自身の咎でもあるのだ。
「ウィリアム……?」
「といっても、今の私のすべてが偽物というわけではなく、おそらくは努力のたまものでもある……ような気がしてきたりしているのです。ですが、努力は努力ですから、取り残される部分もできてくるものだとは思われませんか?」
「ウィリアム、先ほどから何を」
「以前からずっと、……時々どうしても言いたくなるときがあったのですよ」
ウィリアムはため息をついて、再びにっこりとした笑顔を作った。
できる限り露骨に。
「いいかげんにわけのわからない物言いはおやめなさい!」
様子を窺うばかりだった王妃もとうとう怒りを露わにした。
ウィリアムは極上の作り笑いのまま、

「黙れクソババァ。二度とオレに指図するな」

地獄まで届きそうな響きを解き放った。
「な……っ、なんですって?今何と言いました!そのような……下賤の者のような口を……っ、王子にあるまじき所行ですよ!」
真っ赤になって取り乱す王妃から顔を背けてロイドに苦笑を向ける。
「ほら、どうしようもないだろう?」
こんなものはほんのちっぽけな片鱗でしかない。身の内にたまった毒をすべて吐き出せば母は憤死してしまうだろう。民衆にはとてもじゃないが見せられない。
しかしロイドは吹き出すのをこらえてこらえきれない様子だった。
「そう?ちょっとかなりスカっとしたけど?いいんじゃない、新鮮で」
だからウィリアムも晴れ晴れと笑うことができた。
他には見せない。見せられなくてもいい。ここにわかってくれる人がいる。わかって、受け入れてくれる。
「ウィリアム!王家の誇りをどこへ置いてきたのです!」
受け入れてくれそうにない人が叫ぶ。
それでもその反応がくすぐったい気がして、ウィリアムは歌うように言ってのけた。

「あの世」

ロイドに手を振って部屋を出る。
呆然とする母の肩をつかんで横にどけ、『気品』をかなぐり捨てて走り出した。
捕まったとしても大人しくしているつもりはまったくないのだが、なるべくなら手間をとりたくない。
今のこの、世界が色を変えていくような気持ちのままで会いたかった。
「お待ちなさい!ウィリアムっ!」
王妃ははっと我に返るとすぐさまドレスの裾を翻した。
一人、取り残された兄の部屋で、ロイドは腹を抱えて笑い転げた。
母の誉れであり続けた『完璧』な兄より、今の方がよっぽどいい。
きっとこれからも羨ましかったり妬ましかったりすることはあるのだろうけれど、これまでよりはずっとそばにいてもらえる。
兄を感じる。
羨ましさも、妬ましさも、拗ねたように口に出せる。
おそらく自分も変わったのだ。
こんなふうにして、一歩一歩、確かに近づいていくのだろう。
「……兄様も元気になって、父様もすっきりして、母様も血の巡りが良くなって万々歳ってやつ……?あとは僕のために、未来の義姉様、ちゃんと捕まえて来てよね」
ロイドは唇を引き伸ばして、何度もまぶたを擦り付けた。


世界が塗り替えられていく。
少しずつ、着実に。
けれど何かが足りないまま。
心当たりは一つだけ。

おまえがいなければ始まらない。

どうしてそう思うのか。
この気持ちが何なのか。

わからない。

形になりそうな言葉はある。
それでも形になりはしない。

ただ

いてほしいんだ。

声が聞きたい。
姿が見たい。

どんな声でも、どんな姿をしていても。
偽りと真実にまみれて、嘘と本当を抱きかかえて。

それでも変わらないおまえがあるなら、

どんなことをしてもそれに触れたい。

少しでいい。許された心がほしい。
きっと返すことができるだろう。
叶わなくても、道は途切れはしないだろう。
現れて傷つかない者などいない。
恐れながら、それでも傷ついていくんだろう。

仕方がない。

そう思わせるのがおまえなら、

それはもう、仕方のないことなんだろう。


会いたい。


棺の中は今日も寒気がするほど静かで、重苦しい闇が頑なに空間を閉じている。
魔女はため息をつくことができなかった。自嘲しても、笑う気にはなれなかった。
身の内にたまるものは虚脱感ではなくなったが、もっと厄介なものになったような気がする。
吐き出せば何も残らなくなるような。苦しいのに、手放すのが恐ろしいような。
わけのわからないものに冒されていく。
痛い。苦しい。狂いそうだ。
魔女はすがりつくようにその方向を見た。
水晶球は金のかつらに覆われている。
伸ばそうとした手を、ぐっと握った。
ごまかしようのない心。
もう随分と長い間、それはいつも同じ景色を映している。
「余計なことを……しては、な。これ以上……。なおもかき回すだけだ、私は。それしかできないのだから」
魔女は固く瞳を閉じた。
闇は静かで、空気は冷たく、この心だけが騒がしい。
悶え、喘ぎ、迷惑顔の静寂を引き裂き続けている。
こんなにも騒々しい死者などいないと、大人しく脈を止めろと、暗闇が責め苛んでいる気さえする。
なのにもはや眠ることもできない。
胸が痛い。
何年、何十年、何百年、長い長い時の流れを、鼓動の続くままに生きてきた。
そろそろ壊れたのかもしれない。
それならそれで、完全に壊れきってしまえばいいものを。
だらりと首をのけぞらせた。
音が聞こえる。
睡魔か死か。儚い期待に反して地に足をつく音だ。
だが、幻聴だ。
魔女は足音に聞き入っていた。
いつまでも聞いていたかった。

「いるのでしょう、出てきてください」

うっすらとまぶたを開けば、闇の中に小さな炎がぽっかり浮かぶ。
記憶が巻き戻ったのかと思ったが、初対面のとき声をかけたのは確かこちらからだった。
幻。
しかし声は切り裂くように迫ってくる。
「他に行く場所があるのならばこんなところで千年近くも惰眠を貪ったりしないでしょう?」
足音が響く。
近づいてくる。
夢だと、幻だと、思っていたいのに。
空気が徐々にはりつめていく。
姿を隠すのは簡単だった。魔法を使っても使わなくてもやり過ごすことはできるはずだ。
だが、こんなにうるさくては。
こんなにも心臓が叫んでいては。
聞こえてしまう。聞こえている。
逃げられない。

「……帰れ」

うめくように声が出てから、長い間息を止めていたのだと気がついた。
呼吸を取り戻すとかえって心臓が痛くなったような気がした。
「歓迎は結構ですが、開口一番それとは……少々ひどいのではありませんか?」
吐息が笑う。
どんな顔で笑っているのかよく見えなかったが、きっと痛いに違いなかった。
「……おまえの願いは、叶える。今すぐ。だから帰れ」
魔女は息が切れないよう、胸元を覆う布を必死にわしづかんだ。
なのに、
「この上私があなたを頼るとでも?そんなことのために訪れたわけではありませんよ。……まずは姿を見せていただけませんか。一方的に見られるのは気持ちの良いものではありませんから」
表情を作れと声が言う。
今の自分には団子のような鼻もなければたらこのような唇もない。例えその場の思いつきでも、理想だと言っていた要素は何一つない。
気安く会話を交わし合った時間さえ、もはや失われたものなのに。
今の姿で、どんな表情を浮かべて、どういった調子で話せばいいのか。
考えれば考えるほど顔の筋肉が強ばっていく。
おそらく信じてはもらえないのだろうが、嘘をつくのは苦手なのだ。
それでも、なんとかして乗り切らなければと、強烈に思った。
魔女は人差し指に拳ほどの火を灯し、二人の間に放り投げた。
なるべく遠くに。顔が見えないように。
悟られないよう、なるべく中間に。
大きく息を吸いこみ、拳を握って頬を歪めた。
「……ならば何をしにきた?話ならば聞く。おまえの気がすむまで。頬を打つなら両方やろう。どうとでもすればいい。……責めを受ける謂れはある」
精一杯の笑顔だった。
とにかく笑わねばならないと思ったから、魔女は状況に対するその奇妙さに気づくことはできなかった。
まるで自分を見ているようだ。
ウィリアムは苦い思いを感じていた。
ちぐはぐで、不格好で、見苦しい笑顔。
今にも泣きそうな顔だ。
嘘か、感傷なのか、今は確かめることを迷わない。
「あいにく私は話しに来たのでも殴りに来たのでもなく……聞きに来たのです。あなたの言い訳と、事実に基づいた……願わくば、納得のいく理由を。今のままではどうにもすっきりしませんので」
「……話せば納得するとは思わない」
「それはそうですが、責めを受ける謂れはあるのでしょう?私が聞きに来たのですから、あなたは話さなければならないはずです。……それとも、無理やり納得させるために美しい嘘を並べ立ててみせますか?……それがあなたの償いだとおっしゃるなら、どうぞご自由に」
慣れたしぐさで冷ややかに微笑む。
魔女は静かにつぶやいた。
「……嘘をつくことが……必ずしも悪いことだとは思わないが……、おまえには、悪いことをしたと、思っている」
炎は遠くにある。闇は濃い。
それでも、うつむいてしまう。
上手く言葉を紡げない。
こう思わせるべきだからこういう言い方をすべきだとか、何も考えずにありのままを言えばいいのだとか、下手な計算が頭をよぎるが、そもそもの事実からして曖昧で、どう説明すればいいのか、まるでわからない。
混乱している。
まとまろうとしないまま……口が、動き出す。
「……暇つぶし、だ。理想に……ぴったりの女がおまえを想っていれば……恋愛に対する態度が軟化するのではと、最初はきっかけを作ってやるだけのつもりだった。その役を私自身がやったのはただの、暇つぶしだ。……そうだった」
毎日毎日、とてつもなく暇だった。
生活に飽きた。生きることに飽きた。飽き飽きしていた。
昔、まだ人々が不思議なものを日常に受け入れていた時代、魔女も人と共にあった。洞窟で暮らすようになったのは何百年かのち、魔女狩りが行われるようになってからだ。多くの仲間たちが火にくべられ、なんとか生き延びた者たちは各地の森や洞窟に散り散りに逃げた。
『魔女』といえども人は人であるからして、『人間』を憎むことはせず、いつか理解してもらえる日を待つため集わず目立たず害なすことなくひっそりと暮らすことを選んだのだった。
誰もいない暗闇で、一人。
誰と話すこともなく、するべきこともない。
ひどく退屈な日々。
人々との接触が取り戻されるまで、何百年待っただろうか。
自分の名が再び外に出て、国王にまで届いた頃。
戦争が始まった。
多くの人間が強い願いを胸にやってきた。
一つ一つを精一杯叶え、平和を願う人々のためにできる限りのこともした。
戦を拡大させようとする国王に度々はむかったりもして。
途端に忙しくなったが、いざ平和が訪れると、途端に暇になった。
代替わりした国王が洞窟のある森を封鎖したという話を聞いた。
彼は戦争が始まったのも長引いたのも『魔女』のせいだと考えたようだった。
真実は知らない。
だが、人々が自分を忘れていくなら、それでもいいと思った。
人は自らの手で望みを叶えようとする姿こそが美しい。
そんなことは、とっくにわかっていたのだから。
ただ毎日何もなくて、死にたくなるほどつまらなかった。
外に出るのは簡単だけれど、そこに居場所があるわけではなくて。
力を隠して人として暮らそうとも、どうにもできない部分は必ず存在する。
命を絶つには臆病で、頑固で、自尊心が高く、希望を捨てきれず、世界が愛しかった。
時が流れ、『魔女』は忘れ去られ、森の封鎖も解かれて、迷いこむ者がぽつぽつ現れるようになると、毎日、……ずっと。

誰かを待ち続けた。

一度きりの、出会い。
自分と関わってくれた、数少ない人々。
暇つぶしに利用したのは本当だけれど、幸せを願っていたのも本当のこと。
ただ……城は、楽しかった。
楽しすぎた。
鼻持ちならない王族どもを引っかき回してやろうかとも思っていたのに、王も王妃も王子もみな気に入ってしまった。
甘やかされること、厳しくされること、慕われること、疎まれること、どれもこれも懐かしく、新鮮で、嬉しくて。
「おまえは……おまえに懸想した女でいることは、とても……楽しかった」
長い半生だったが、恋愛をしたことは一度もない。片想いでさえ。
もしもそういう相手がいたなら客を待つ日々も少しは楽しくなるのではないかとよく考えたものだ。
だから私情が入ってしまった。
恋愛気分を味わう絶好のチャンスであると。
「……おまえの理想に沿うように、できる限りのことをした。……鏡の前で何度も鼻の角度を検討したり、唇の厚さを毎日少しずつ変えてみたり。肌の色が一番難しくて……満足のいく色合いになるまで何度も魔法をかけ直した。……そのたびにおまえの反応を確かめて、気になって。気づいたのは、髪を切ったときだけだったようだが。それでも私は、楽しかった。……毎朝最初に出会うまでの不安と期待のせめぎ合いや、反応を窺うときの胸の高鳴りや、一つ一つのしぐさに神経を尖らせる緊張感。……まるで、本当に恋をすることができたような……、そんな気になった」
シンデレラと呼ばれるたび、本当に『シンデレラ』になっていく。
気弱な素振り、強気な素振りをするたびに、新しい自分を発見する。
恋を、しているように、……振る舞えば。

「……これが、恋ならいいと。そう……思った」

ウィリアムに聞かせるためというよりは、心を整理するために口に出した。
「勘違いを、してしまった……」
唇を歪める。
いつからだろう。
わからなくなったのは。
ずっと、恋をしてみたいと思っていた。
そうすれば救われるような気がしたから。
寂しかったから。
とても、寂しかったから。
だが、違う。
いつまでも『シンデレラ』でいられたらと思ったけれど、実際には、自分は魔女で。
闇の中にしか居場所がない。
恋などしてはいない。
……はずだ。
「私は、混乱している。……おまえの顔を見たくはなかった。戻ってすぐに……おまえの願いを……叶えようと、したのに。誰の願いなのか、わからなくなって……できなかった」
あれから何度も思い返した。
楽しかった初めての舞踏会。初めてのダンス。
あのとき、初めて自然な笑顔を見せてくれて本当に嬉しかった。
きっとロイド王子の方が自分の何倍も支えになれる。
誰よりも近くにいることができたら……という勝手な願いは叶わない。
それでもいいと思った。
純粋に、嬉しかったから。
なのに、他の誰かもあの手を取り、あの笑顔を見て、あんなふうに踊るのかと思えばいてもたってもいられない。
恋ではないのに。
演技だった。
すべては思いこみのなせる技。
けれど、どうしても、苦しくて。
だがそんな衝動で力を使うことは許されない。許さない。

混乱する。

どこまでが嘘でどこからが本当か。
どこまでが願望でどこからが現実なのか。

わからない。

確かなのは、仕事に一定以上の私情を持ちこんだあげくただ引っかき回しただけで終わらせ、依頼人に詫びる方法さえないということだけ。
二度と顔を見せないことくらいしか思い浮かばない。
だがそれさえも、一体誰の望みなのか。
「……帰れ。話すことはすべて話した。もう聞きたいこともないだろう。……帰れ」
帰ってくれ。
懇願しそうになるのを懸命にこらえた。
存在を感じると、夢を見たくなる。
『シンデレラ』のようになりたいと願ってしまう。
死者が棺から出られるはずもないのに。

「……魔女というのは人間か?それとも魔物なのか?」

唐突に問われて思わず眉をひそめる。
「……人間だ。それがどうした」
ウィリアムはため息をつきながら首を鳴らした。
「別に、たいした問題でもないが、気になっていただけだ。……帰るぞ」
どこか満足げなその様子に、魔女は目を細くした。
「……達者で暮らせ」
もう二度と会うこともないのだろう。
この痛々しい勘違いも、じきに忘れる。きっと忘れる。
それでもその姿を目に焼き付けようと、まっすぐに前を向けば。
「馬鹿かおまえは」
呆れ顔で言われた。
そういえば話し方もぞんざいなものに変わっている。
乱暴に、

「帰るぞ」

手を、差し出される。
「……何?」
炎の向こうで照らし出された右手に、魔女は呆けたような声しか返せなかった。
「ガラスの靴が割れた。オレの足に当たるはずだった破片が垂直に落ちた。おまえの仕業だろう?なんらかの方法で見ていたんだろうが。不快だ。……そばで見ていろ」
二度と見られないと思った姿が、一歩、また一歩、近づいてくる。
幻聴だ。幻覚だ。これこそ、夢幻だ。
手は炎の直前で立ち止まった。
「帰るぞと、言っている」
横柄な視線とかすかに笑みを刻む口元。
魔女は呆然と立ちつくしていた。
「私は……魔女、だぞ……?」
「だから確かめたろう。人間なのかと。安心したぞ。魔物よりは面倒が少なくてすむ」
そんな大雑把な話があるか。
言おうとした言葉を見透かされたかのように遮られる。
「たまたまおまえが魔女だったんだ。仕方がない」
「……しかし、私は……シンデレラではない。この感情を……恋、だと、言うつもりも……ない。何故だ。何故……私を……」
「自惚れるな」
ウィリアムはふっと顎を上げて前髪をはねのけた。
「オレはおまえに心奪われたつもりはない。なのに何故なのか。それも確かめに来たつもりだったが、さっぱりわからない。……だが、……そばにいろ。オレがおまえに飽きるか、おまえがオレに飽きるまで。……おまえがいないのは……嫌、なんだ。嘘を、ついてもいい。……だが、嘘はつくな。理由や経緯はどうであれ、おまえはオレを選んだ、そのことだけは。『シンデレラ』にしろ、『魔女』にしろ、オレはただ……不快を拭うために迎えに来ただけだ。オレの隣りに並ぶ女は、ガラスの靴をはくことができれば誰でもいいというわけじゃない」
魔女は何か言おうとして、何も言うことができなかった。
差し出された手をとってしまいたい。
だがウィリアムの手は大きくて、まぶしすぎる。
「……私は魔女だ。人間だが、常人ではない。……外の世界には……受け入れられない」
現実はそれほど大雑把には進まないものだ。
この洞窟を離れ、城に入って皇太子の横に並ぶなど、ありえない。
また戦争が起こるのか、それともこの身を炎に焼かれるか。
様々な不幸を呼ぶことになるだろう。
『シンデレラ』にはできることが、『魔女』にはできない。
『人間』の望みはすべて叶えることができるのに、『魔女』の望みはけして叶わない。
『シンデレラ』でなくてもいいと、……言って、もらえたのに。
「……何故泣いている」
ウィリアムの声に肩が揺れた。
「……泣いていない」
「随分嘘が下手になったものだ」
魔女は口元を引き締め、ゆっくりと顔を上げた。
頬に濡れた感触はない。やはり、泣いてなどいなかった。
ウィリアムは何を言っているのだろうと思う。
こんなにも上手に笑おうとしているのに、泣いているわけがない。
ただ少し、困っていた。

右手が消えない。

まっすぐに差し伸べられたまま、静かに待っている。
「……早く、ひっこめてくれ。おまえのしてくれたことはすべて嬉しかった。これ以上はもう……つらい。帰れ。早く……っ」
ため息の音が洞窟中に響き渡る。
ウィリアムは眉間にしわを寄せ、仕方のない奴だとでもいうように笑ってのけた。
「おまえは案外弱い女だな。……もっと、強いのだろうと思っていた。なるほど魔女といえど人間には違いないらしい。……人の心は、やがて変わる。どんな気持ちも、誰の心も。他人の願いを叶えながら、何故自分の願いは叶えない。こんなところにいて何ができる?……受け入れられたいのなら、受け入れられる努力をしてはどうだ」
魔女は目の前の世界が音を立てて破れたような錯覚に陥った。
「私は……」
何年、何十年、何百年、長い長い時の流れを、鼓動の続くまま……ひたすらに、待ち続けた。
「わ、たし……は……」
闇の中でただ一人、虚無にまみれ、怠惰に身を沈めた。退屈に息をもらし。
諦め半分に希望を捨てきれずにいた『いつか理解してもらえる日』。
何故。
何年、何十年、何百年、
どうして。
どうして、『理解してもらうこと』を考えずにいたのだろう。
足元ががらがらと崩れ落ちていくような感じがする。
うっすらと、気づいては、いたのだ。
ウィリアムに投げた言葉はすべて自分に向けたもの。『シンデレラ』でしかいられなかった自分自身への断罪。
それでも。
「怖い。……私は、異質だ。理解は差異を知ることだ。受け入れられるはずもない。……ずっと、外に出たかった。晴れた空、明るい日射しの下で……泣いたり、笑ったりしたかった。だが、外に出て、『おまえの居場所はここにはない』と言われることが……怖いのだ、とても」
「……だがそれでは何も変わらない」
ウィリアムが緩やかに首を振る。
魔女は頷くしかない。
何もしないまま何も変わらずに過ごした日々。
年月の差はあれど、お互いよく知っている。
変えたいのなら、変える努力をしなければならない。

本当にそう願うなら。

右手が軽く手招いた。
「もういいか?腕を上げているのも疲れてきた。いいかげん、しのごの言うのはやめにしろ」
炎を挟んで、一歩と十数歩。
ウィリアムの腕はまっすぐに伸びている。
伸ばせるだけ、伸ばされた、手。

静寂が時を歪めた。

薄闇の中、二人は互いを見つめ続ける。

炎が揺れる。
救済のように。障害のように。

魔女はピクリとも動けなかった。
迷いはしなかった。
戸惑っていた。
この手はきっと、自分に伸ばされる唯一の手だ。
魔女たる自分を知った上で差し出された、ただ一つの手。

許された場所。

抗えない。
抗えるわけがない。
傷つくことの痛みと恐れがどれだけ制止を呼びかけても。

抗いたくない。

足が勝手に走り出す。
一つ蹴るごとに何も考えられなくなっていく。
痛いほど、腕を伸ばして。
互いの指と指を組み合わせて。
踊るように腰を抱かれて、隙間を埋めるようにしがみついた。
炎を飛び越え、影と影が一つになる。

「……ウィリアム、私の居場所は、おまえがいい。わからない、わからないが……おまえが、いい」

回された腕にぐっと力をこめられ、涙が出た。
ウィリアムは抱きしめたぬくもりを感じながらさらに力をこめた。
理由も経緯も、過去も未来も、何がどうなろうと、意味を成さない。
偽りも真実も痛みも恐れも何もかも遠のいていく。
あの夜から、今、やっと。
やっと……

手と、手が、つながった。

「わからなくて、いい。わからなくても……同じ、だ。例え、違ったとしても、変わらない」

名前など、どうでもいい。
正体など知る必要はない。

形は違えど、誰しも救われたいと願うだろう。
誰しも真実を知ることなく、あらゆるものを脚色し、
不鮮明な世界の中で生きるだろう。

これが恋だと、一言言えば恋になる。
だからそうは言わない。

それでもおまえがいいと思った。


「……それに、心配せずともおまえなどを妻に迎えようとする男はオレくらいだ」
わかりやすい照れ隠しに、魔女は泣きながらクスクスと笑った。
「……おまえ、猫を被ってないときのひねくれ具合がロイド王子とそっくりだな」
喜ぶべきか憤るべきか。ウィリアムは無言で押し通した。
魔女がますますおかしそうに笑う。
ウィリアムは憮然として腕をほどいた。
「……帰るぞ」
「……ああ。かえ、る。……『帰る』。……いや、少し待て。持っていきたい物がある」
魔女はくるりと踵を返すと、奥から白いドレスと金のかつらを持ってきた。
「初めての舞踏会のために初めて贈られたドレスとかつらだ。初めての婚約者殿からのな。嬉しかったから、持っていきたい」
からかうようなウィンクを無視し、ウィリアムは疑問に思っていたことを尋ねてみた。
「……そういえば、靴は何故置いていった?」
「……わがままだ。おまえは忘れたいだろうと思ったが、私は忘れられたくなかった。ガラスの靴なら簡単に壊すことができる。だから、つい置いていってしまった……」
ドレスとかつらはどうしても持ち帰りたかったしな、と魔女が付け足す。
「いい迷惑だ」
ウィリアムはふいっと顔を背けた。
そんなものを置いていかずとも城のあちらこちらを見るたび思い出していたなどと、絶対に知られたくはない。
背けた視線の先に何やら小さな光を見つけた。
目を凝らしてみるが、暗くてよくわからない。
魔女がにっこりと笑う。
「……あれはいいんだ。もう……あんなものに映す必要はない。見たいものはこの目で見る」
その言葉になんとなくその正体を知る。
おそらく靴を割ったときに自分たちの様子を映していた道具なのだろう。
そう考えて、ふと気が付いた。
「……待て。どこまで見ていた?」
泣きっ面やら何やらを見られるのは非常に面白くないがまぁよしとしよう。
しかしシンデレラの名を呼び、探し求めていたあたりは……。
「いや、靴のときは偶然だ。それ一度きりしか見ていない。一刻も早く忘れなければと思っていたからな」
思わず安堵の息がもれた。
「いいか、あれは絶対に持ってくるな。のぞきを働かれるのは御免だ」
しかし魔女はにやりとほくそ笑む。
「ふむ、それはいい使い道だ。少々未練を感じるな」
「……おまえを義姉と呼ぶつもりでいるロイドを泣かせる気か」
「案外共犯者になってくれるかもしれん」
「……」
「本気で怒っちゃいやーん!王子サマってば相変わらず冗談通じなさすぎーっ!」
「おまえこそ相変わらずふざけた女だっ!」
「いやいや、私は人生において最も大事なものは娯楽だと宣言する。……まぁいい。あれがなくてものぞきなど容易いことだ。……。冗談だと言っている!そんなことをする必要などない。……そばに、いて、いいんだろう?」
「……いささか不本意だが、な」


二人、言葉を交わしながら、一歩一歩出口へと進んでいく。
辺りに群がる闇たちはざわざわとざわめいて主の門出を祝い、やがてしんと静まりかえった。
闇の奥に潜む小さな光はもはや何も映さず、輝きを取り戻すこともない。
すべてのものの侵入を拒むかのように、冷たい静寂が横たわる。
棺は閉ざされた。
重く、固く。

以後、開かれることは二度とない。
END.
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