『シンデレラ 中編』

舞踏会の準備が始まる頃になると、シンデレラは美しいお辞儀ができるようになっていた。全体的に物腰が優雅になり、気品らしきものも感じられるようになった。ダンスも上達し、二日に一度は王を相手にワルツを踊る。だからといって仕事に手を抜くことはなく、毎日一生懸命働いていた。
底抜けに明るく遠慮を知らない性格は以前の彼女を知る多くの者たちを戸惑わせたが、有無を言わせぬペースに押されて徐々に受け入れられていった。中には反感を抱く者もいた。しかしシンデレラに何をどう仕掛けても笑顔でかわされてしまう。下手に手を出すと自分たちの方が危ない。動くに動けない状態に追いやられていた。

「ねーねー、結構上達したんだってば!たまには一緒に踊ってください!王様だってロイド様だって練習相手になってくださいましたよ!」
「……あなたと踊るのは本番一度で十分でしょう」
「ケチー!ケチケチケチケチどケチっ!……いいですけどー。最初に踊るのが舞踏会っていうのもすごく素敵なシチュエーションではあるし」
「……それより、わかっていますね?『結構』では困ります。『完璧以上』でなければ。『非の打ち所のない貴婦人』を圧倒してくださらねば困るのですよ」
「まーかせてちょっ!ラストスパートって大得意ー!絶対に仕上げてみせちゃいます♪」

城に仕える者たちはウィリアムとシンデレラが何かを話している様子を頻繁に目にするようになった。
二人は随分と打ち解けた様子で、シンデレラを皇太子妃として認める者も少しずつではあるが着実に数を増やしていた。

王はシンデレラに対して好意的になっていく城の雰囲気を体で感じ、満足げに笑みをこぼした。
最初は素直になれなかった息子もようやく好意を示すことに慣れたようだと、そう解釈し、影ながらに二人を見守っていく。あまり隠れてはいなかったが、心から二人の幸せを願っていた。

一方、王妃はまるで面白くなかった。
夫はシンデレラにめろめろ。ウィリアムと会話を交わせば、王子としての自覚が薄れたわけでもなく、特に何かが変わったようには思えない。しかし不快な噂は日に日に大きくなっていく。
息子が自分をだましているとは考えにくい。
優しすぎることは問題だが、それ以外はすべて満足のいく子なのだから。
それでも見えないところで何かが起こっているのはわかる。
気の弱いばかりだと思っていた馬の骨が本性を出して以来、事態は悪い方へ悪い方へと向かっている気がする。
舞踏会をもっと早い日に予定すればよかった。時が急いでくれないものか。
唯一の欠点が愚かさを導いたのか、馬の骨が卑しい策を使ったのか。何があったにしろ、誤りは正さなければならない。
名家の令嬢たちを見れば息子の目も覚めるはずだ。いや、覚ましてしまわなければ。
尊い王家に卑しい女の血が混じるなど、決して許されることではない。
王妃はひどく焦っていた。

最近大臣に小言を言われる回数が減ったとロイドは思った。
シンデレラと話をした日から自分の中で何かが少しずつ形を変えている気がする。
心の中。以前はどうしようもない苛立ちで満ちあふれていた。
自分越しに兄を見て比較するすべての人々に、……そう、自分と接する人間のすべてがそうであることに憤っていた。
兄の欠点を挙げて貶めることもできず、陰口に面と向かって立ち向かえるだけの誇りも持てず、膨らんでいく憎しみにますます己がどうしようもない存在であるような気がしてくる。
シンデレラは、自分と兄を比べなかったわけではないと思う。
ただ、こんなにもどうしようもない自分を受け止めてくれた。
自分は自分でいい。少しずつ、マイペースで成長していけばいいのだと、言ってもらえた気がした。
思えば、自分と兄とを比べていたのは誰よりも己自身だったのだ。
どことなく軽くなった心で周りを見る。
近頃兄は眉をひそめたり顔をしかめたりすることが多くなった。
注意してよく見れば、決まってシンデレラと一緒にいるときだ。
以前は誰が相手だろうと終始穏やかな微笑を浮かべていた。部下がとんでもない失敗をしでかしたときなどはさすがに難しい顔をしていたが、とにかくめったにないことだったのに。
しかしそれは、いいことのように思えた。
少なくとも自分は初めて兄を身近に感じることができたと思った。
兄とて人間なのだから、いつも微笑みを絶やさずにいられるわけがない……はずだ。
いや、ない。
自信を持つのを躊躇うのは、記憶の中の兄がいつでも完璧だったからだ。
微笑の下に様々な表情があったのだろうか。真偽か正誤か割り切れず、持て余してどうすることもできない感情もあっただろうか。
シンデレラと出会えてやっとそれらを表に出すことができたのだとしたら。
そうであってほしいと願う自分がいる。
貶めるためでなく、幸せを願うために。それから、その方が、もう少しだけ素直になれそうだから。
しかし二人の関係がどうなっているのかは正直よくわからなかった。
親密なのだと思うが、見ようによっては険悪ともとれる。色恋とは無縁のような気もしないでもない。二人っきりになればまた違うのかもしれないが。
想像だけが無限に広がる。詮索しすぎれば壊してしまいそうで、探りを入れることもできなかった。
兄がシンデレラを想っているのであれば、もはや反対するつもりもない。むしろ……。
ロイドは舞踏会の日を指折り数えた。普段は面倒なばかりの催しだが、今回は違う。
何かを変えてくれそうな特別な日。
やってくるのが待ち遠しかった。

様々な思いが渦巻く中、一日一日がゆっくりと過ぎ去っていく。
変わりない毎日のように思わせながら何かが確実に変化していく。
ある日突然気づく、その瞬間へと誘うように。


そして、舞踏会の日。
ウィリアムはしびれを切らしていた。
今日限りはシンデレラに心優しく、つけいる隙の一片もないような恋人同士として振る舞わねばならない。
だから父の「登場するときは二人で仲良く出てくるのだぞ」という言葉にも頷いたというのに、遅い。遅すぎる。
シンデレラが女官たちと一緒に部屋にこもってからどれだけの時間が過ぎたろう。見た目を繕う必要があるのはわかるが、素材の難点を隠すのにも限界がある。これ以上の時間をかけるのは無意味というものだ。
しかし部屋に踏みこむわけにもいかず、一人で出て行くわけにもいかない。
ウィリアムの眉と眉が今にもひっつかんとした、そのときだった。
「ウィリアム様!お待たせいたしました。どうぞシンデレラ様をご覧になってください!」
女官の声と共に扉が開き、白いドレスが勢いよく飛び出した。
「お待たせダーリン!ね、ね、どうですかっ?」
裾を翻してくるくる回る。無邪気に、踊るように。
集まる視線がそろって感想を求めてくる。
それでも何も言えなかった。
ドレスは美しいと思うが、中身を美しいとは思わない。
思わないのだが、
見慣れた顔が飾り立てられるというのはなかなかに衝撃的なものだ。
笑った顔がいつもと違う。
紛れもなくシンデレラ自身なのに、まるで別人のように思える。
『馬子にも衣装』とはこういうことを言うのだろう。
女官の前だ。何かそれらしいことを言ってほめてやらねばならない。
しかし何も思い浮かばなかった。
「……似合っていると思いますよ、とても」
ようやく出てきた言葉はそんなもので、社交界においてはまったく通用しない代物だったが、シンデレラは顔を真っ赤にしてうつむいた。
「……正直に、別にほめなくてもいいんだから、そんな顔でそんなこと言っちゃ嫌」
そんな顔とはどういう顔か。おかしな表情をしたつもりはないが。
ウィリアムは自分の頬に指で触れた。
怪訝に眉をひそめる。
シンデレラの様子を見れば、あまり知りたくはなかった。
何人もいた女官たちはいつのまにやら姿を消していて、二人だけの空間はとてつもなく居心地が悪い。
シンデレラの顔を上げさせようと視線を下ろし、ふと、その足元に気がついた。
「……ガラスの靴をはいたのですか……」
「トレードマークだし。婚約者でーす!ってアピールできるかと思いまして♪」
確かにそうだが、その輝きを見ていると複雑な思いに囚われる。
魔女を頼ろうなどと思わなければ。魔女の洞窟を訪れさえしなければ。魔女を信用したりしなければ。
どうなったというのだろう。
ウィリアムはシンデレラをじっと見つめた。
「……えと、なんですかー?」
シンデレラはきょとんとして首を傾げた。
顔はまだ赤いままだ。
「……いえ、別に。何でもありません。わかっているかとは思いますが、そのおどけた口調は改めてください」
「はーい、頑張りまーっす!王子様も、今日は私たちラブラブ婚約者ですよん?」
「……わかっていますよ……」
もしもを考え始めればきりがない。
ウィリアムはとにかく今日という日に集中することにした。

網膜を攻撃するきらびやかな装飾。笑顔を要求する拍手と歓声。
わかりやすい美しさばかりを競い合う連中の頂点に立ち、ウィリアムは上品な笑みを浮かべる。
シンデレラも優雅なお辞儀を披露し、柔らかく微笑んだ。
「皆様にご紹介いたします。……私の婚約者、シンデレラです」
「よろしくお願いいたします」
会場が騒然とする。
王とロイドは満足げに手を叩き、王妃はわなわなと震えて立ちつくした。

舞踏会が幕を開けた。

シンデレラの評判はおまけして中の上といったところだった。
貴婦人として何も問題はない。本質的には。
ただその容姿と生まれが槍玉に挙げられた。
国王や皇太子が認めているものを面と向かって非難する輩はいないが、ひそひそとした囁きは無遠慮に這い回る。
時折声を大きくするのが集まった娘たち。
当然のようにシンデレラを蔑み、「我こそ皇太子妃にふさわしい」と胸を張る。
だが彼女たちはそこから何もできなかった。
ウィリアムに近づこうとすればするりと避けられ、ようやく近づけたかと思えばシンデレラがぴったりくっついていて、その紹介を受けただけで接触終わり。どうにか会話を広げようと思っても、「婚約者を持つ私がこのように美しい女性を独り占めしていては他の男性方に恨まれてしまいます。まだ皆様へのご挨拶も終わっておりませんので、申し訳ありませんが失礼させていただきますね。今夜の舞踏会、どうぞ心ゆくまでお楽しみください」などといった調子でかわされてしまう。隙がない。
会場内にイライラとした空気が渦巻いていく。
その中心にいた王妃がとうとうウィリアムを呼び付けた。

ウィリアムは内心で舌を打った。
有力貴族への挨拶も一通り終え、踊るための曲も流れ始めてようやく舞踏会としての場が落ち着いてきた今、すさまじい笑顔で母が自分の名前を呼ぶ。
場の雰囲気を乱さず、かつ逃げようのないタイミングをずっと見計らっていたのだろう。
「どうされました?王妃様のお呼びですもの、早く参りましょう?」
シンデレラが絡めた腕を軽く引く。
「……覚悟はできてるんでしょ?ここまできたら行くしかないじゃないですか。だーいじょうぶですって!私もついてるし!」
小声で囁かれ、ウィリアムはため息をつきたい気分になった。
確かに覚悟はできているが、どちらかといえば自分よりもシンデレラの方が覚悟を決めるべき立場だろう。母は非情ではないが、王妃として情があるのであって、王家のためなら非情にもなる。衆目の前でひどい扱いをするかもしれない。シンデレラがついているからこそ心配事も増えるのだ。
しかしシンデレラはへらへらと笑っている。
『初めての舞踏会』であることは何度もしつこく聞かされたが、まさか浮かれて楽観的になりすぎているのか。あれだけやかましくせがんできたダンスもできなくなるかもしれないのに。
そう考えて、ウィリアムはさっさと歩き出した。
馬鹿馬鹿しい。この女が踊りそこねようがどうでもいいことだ。問題はそこではなくて、母の用意した女たちをかわすことができるかどうかだ。盾にならないシンデレラに用はない。元々使い捨ての婚約者なのだから。傷つこうが何をされようが、知ったことではない。

「いかがされました?母上」
ウィリアムはにっこりと笑った。
「今すぐ顔を改めなさい。これは何です?」
王妃は冷ややかな眼差しでシンデレラを指差した。
ウィリアムはすっと表情をなくすと、さらにまたにっこりと目を細めた。
「私の婚約者です」
今度は面と向かってたてつく『ような』真似ではない。明らかにたてついている。
こんなときにも笑顔を作っていることが、自分で少しおかしかった。
「……道を、誤りましたね?ウィリアム」
王妃の声が低くかすれる。
「……どういうつもりかとは尋ねません。今すぐお選びなさい。血を汚しし罪人となるか、過ちを正すことで詫びるのか」
「……謝罪と共に自身の価値が下がるとおっしゃったのは母上です。シンデレラのことは父上も認めておられます。こうして公な紹介もすませました。……何をもって過ちとされるのですか」
「……愚かな。あなたがそこまで愚かだったとは。皇太子の名が泣きます。……あの人が認めているからどうだというのです?私は認めません。王家に下女の血が入るなど、あってはならない。王子にあるまじき所行ですよ。母の恥となるつもりですか」
王妃は蔑みをこめて片眉を上げた。
夫が一体どういうつもりでいるのかはまったくわからないままだった。
皇太子妃にふさわしい女性と考えれば自ずと数は絞られる。選ぼうと思えば造作もないことだろうに、何故身分を問わない舞踏会など開こうとしていたのか。
何度尋ねても説明してはもらえなかった。ただ断固として「反対は許さぬ」と言うだけで。
シンデレラのこともそうだ。
何故肩を持つのか、どこが気に入ったというのか、一切説明はない。ただ「口を出すな」。それだけだ。
元々理解しがたい人ではあったが、他のことであればこうではなかった。夫はそれなりに妻を尊重し、説明をつくしたり意見を求めたりした。なのに何故。
反対しないわけがない。口を出さないわけがない。
自分にも王妃として、今は亡き先代に選ばれた女としての誇りがある。
将来王妃の座につく者が、みすぼらしい端女などであってはならない。
それは決して王家のためにも、息子のためにもならない。
考えずともわかることだというのに。
王妃はシンデレラを一瞥し、ゆっくりと首を横に振りながら深いため息をついた。
どれだけ飾り立てても卑しい血はごまかせない。
先ほどから人々の嘲笑を聞くたびにどんな思いをしていたか。
「改めなさい、ウィリアム。目を覚ましなさい、私の息子ならば。あなたにふさわしい相手は選んであります。王家の者としての務めを果たしなさい」
「……母上」
ウィリアムは眉を寄せた。
何か言おうとするシンデレラを視線で制し、まぶたを重く閉ざす。
「あなたは王子です。過ちの許される立場ではありません。陛下が気づいておられない過ちにあなたこそは気が付きなさい」

いつも、いつでも、それこそが。

「……母様?王妃が国王を信じてないのはまずいと思うけど?」

三人はそろって目を見開いた。
王妃の背後からドレスをかきわけるようにして現れたのはロイドだった。
「確かに、父様が間違うこともあるかもね。なら本人にそう言いなよ。こんなところでひそひそ兄様を責めてないでさ。今、舞踏会やってるんだよ?知ってる?」
顎をしゃくって背後を示す。
踊っている男女も多いが、壁の花や花を渡る蜜蜂、談笑を楽しんでいる者も多い。
今いっせいに顔を背けた者は先ほどからずっと耳を澄ませていたのだろう。
シンデレラが小さく「あちゃー」と言った。
ロイドはくすりと笑みをもらした。
「出席者が全員婚約者候補だとでも思ってるわけ?純粋に夜会を楽しみに来た人間はいないんだ?社交界がそこまで腐ってたとは知らなかったよ」
王妃の顔が歪む。
「ロイド、あなたはまた生意気な口を……っ、立場がわかっているのですか。あなたも王子なのですよ」
「うるさいよ。わかっていようがいまいが僕は王子さ。それが何?王家の血って下々の者とは色が違うの?何色でも嫌な奴は嫌な奴だよ」
「お黙りなさい!何故あなたはそう自覚に欠けているのですか。ウィリアムは道を誤りましたが、あなたよりはよほど自覚があります。兄を見て」
「……母上、ロイドは自覚がないわけではありません。現に我々の思惑とは関係なく集まった人々のことをしっかりと気にかけているではありませんか」
エスカレートする一方かと思われたやりとりは、ウィリアムの一言によって終結した。
「……自覚がないのは、私です。母上のお顔をつぶすようなことをいたしました。申し訳ありません」
深々と腰を曲げる。
ゆっくりと頭を上げると、穏やかな微笑で首を傾げた。
「……母上の、お選びになった女性は……どちらにいらっしゃるのですか」
「兄様っ?」
ロイドが思わず声を上げる。
それを無視して、王妃は美しく微笑んだ。
「ああ……やっと目が覚めましたか。それでこそあなたです。こちらにおいでなさい」
都合の良い言葉以外すべてこの世から消え去ったと言わんばかりだ。
そのままついていこうとしたウィリアムに、シンデレラが消えそうな声で呼びかけた。
「……王子様」
ウィリアムはシンデレラの瞳を見ない。
「……ロイド、シンデレラを任せる。頼んだよ。おまえも聞いているとは思うが、これが初めての舞踏会だそうだから」
弟の肩に手を置いて、そっと苦笑する。
ロイドは顔をしかめた。
素直に頷く気には、とてもなれなかった。
「……そんなの、耳にたこだよ。『兄様と一緒に踊りたい』っていうのも嫌というほど聞かされたんだけど?」
言外に兄を責める。
何故母に従う必要がある?待ち受ける女たちを、シンデレラをどうするつもりなのだ。
今この場で確かにある確執を隠し通してのけたからって、実際には何一つ変わらない。
王族の面子などどうでもいいではないか。意志を明確に示すことの方がよっぽど意義がある。
なのに兄は曖昧に微笑むのだ。
「……なら、それも頼むよ」
「冗談っ」
どこまでも噛みついてやろうとしたが、
「ウィリアム、何をしているのです」
王妃の呼びかけによってあっさりと振り払われてしまった。
ロイドは腹が立って仕方なかった。
あれでは兄が自分をかばうため、周囲の人を思うがゆえに仕方なく従ったみたいだ。
それが正しいことだというのか。違うだろう?少なくとも自分はそんなこと望んでいなかった。
だが結局この場は穏やかさを取り戻したのだ。
置き去りになったのは、この心だけなのか。
「……行ってしまわれましたねー」
シンデレラの間延びした口調がカンに障った。
「何それ?それだけっ?なんで兄様を引き止めなかったのさ!ボケっとして他の女のところになんか行かせて、馬鹿じゃないのっ?」
「ロイド様、しーっ」
人差し指を立てて口に当てる動作に、ここにいるのが二人だけではないことを思い出す。
ついさっき自分で言ったことなのに。
「私、少し疲れてしまいました。外の空気を吸いたいので、よろしければつき合っていただけますか?」
シンデレラが声を抑えて言った。
それが本当のことなのか、何か話したいことがあるのか、このままでは気持ちが収まらないことを見透かされたのかはどうでもよかった。
「……いいよ。仕方ないからね」
すぐにでもこの場を離れたい。
ここにいるだけで血が重くなる気がした。

「ありがとうございますロイド様。ロイド様にご挨拶をしようとされていた方々もたくさんいらっしゃったでしょうに、申し訳ありません」
庭に出るなりそんなことを言い出すシンデレラに、ロイドはげーっと舌を出した。
「気持ち悪いからやめてくれない?おまえには無礼な口調の方が合ってるよ」
ひんやりとした空気は予想外に心地良く、鬱陶しい視線のないのがこの上なく開放的だ。
さっきまでは怒鳴りつけてやろうと思っていたのに、なんだか清々しい気分にさえなってくる。
「そうですよねぇー、もー挨拶だけで肩こっちゃって。『皇太子様の婚約者』ってのも大変ですよー。王子様ほどじゃないのかもしれませんけど」
一緒にいるのがシンデレラなのも大きな理由の一つだった。
兄と比べられまいと、余計な気を張ることもない。
「……ふん、わかってるじゃないか。おまえより僕の方がずっと大変だよ。疲れるのはこっちさ。挨拶なんて冗談じゃない」
ロイドは澄んだ空気を胸いっぱいに吸いこんで、こぼすように笑った。
「……まぁ、結構良くやったんじゃない?おまえって本番に強いよね。正直始まる前はどうなるかと思ってたけど」
シンデレラも嬉しそうに答える。
「ロイド様にも随分特訓につき合っていただきましたし、失敗するわけにはいきませんからね!」
「当然だよ。この僕がつき合ってやったんだよ?……他の女どもに負けるなんて、許さないからね」
そのまま忘れられたらよかったのに、どうしても心が捕まってしまった。
「……兄様が間違ってると思うのは、僕が子どもだから?」
自分だけが夜に逃れ、兄は未だ光の中にいる。人々の視線を浴び続け、なんら痛痒がないというように笑っている。堂々とした、それこそが『王族たる微笑』だろう。
……唾棄すべきだと思うのは、きっと嫉妬とかじゃない。
「……ロイド様」
月が隠れたせいか、シンデレラの表情が少し曇った気がした。
もしかしたらすべては自分を気遣ってなのかもしれなかった。
外へ出たのも、わざと丁寧な口調をしてみせたのも、話をそらして憤りを散らそうとしてくれていたのかもしれない。
もしもそうであるなら、問いかけは、気持ちを踏みにじることになるのだけれど。
それでもこのままなかったことにするのとどちらが正解かと考えれば、答は断固として揺らがなかった。
「答えてよ。おまえはどう思う?どうして兄様を行かせたのさ」
問いかけてしまえばごまかさずに立ち向かってくれるだろう?
母も、兄も、自分をすり抜けるようにして行ってしまった。
願いをこめて見つめる。
シンデレラは苦笑しながら首を振った。
「ウィリアム様が……笑ったのが、とてもつらそうだったから。とてもつらそうだったのに、笑ったから。なんか、急に色々考えちゃって、どうしていいのか、わからなかったんです。止めたかったけど、止めていいのかわからなくて。……他にも理由がないわけじゃありませんが」
困っているような、悲しんでいるような、哀れんでいるような、慰めているような。
微笑みがぬくもりとなって頭をなでる。
「誰が間違ってるなんて言えませんよ。ロイド様にとって大切なものとウィリアム様にとって大切なものは違うのかもしれません。ウィリアム様が心から大切にしておられるものを間違いだと言うことができるほど、私は……、私とあの人との距離は……近くは、ない。……ただ、……やっぱり、引き止めたかったんですけど、ね」
優しかったが、悲しかった。
ロイドは一つでも暴言を吐いたことを後悔し始めていた。
この問いかけも、シンデレラにとってはつらいことだったのかもしれない。
それでも聞かずにはいられなかったし、誤ったことをしたとは言い切れない。
ただシンデレラの微笑が自分の罪のように思えて心が痛んだ。
笑ったからって、泣いたからって、それはそれ、ただそれだけのことで。
だから正しいとか、だから間違いだとか言えないのに。
「……兄様、つらそうだった?」
心臓を押さえる。
ついさっきの記憶なのに怒りに彩られて真実が見えない。
「……そう思っただけです」
たった今、シンデレラが本当はどんな表情を浮かべているのかさえ、よくわからない。
困っているのか、悲しんでいるのか、哀れんでいるのか、慰めているのか。
唇は弧を描いていても。
「……そう、なのに、笑ったんだ?」
ロイドは毒々しい光が騒ぐ方向に目をやった。
夜の闇を汚すその光は、月明かりに比べればあまりにも陳腐で無粋で品がない。
虚飾に満ちた輝きの最たるところを城と呼び、中央に座する者を王族と言う。
醜さを隠す以外何の役にも立たないドレスを纏った女たちに囲まれ、兄はやはり微笑んでいた。
なんら痛痒を感じないとでも、何も感じることができないとでも……いうように。
「……なんでかな。なんで兄様は笑うんだろう。つらいって、言えばいいのに。そういう顔、すればいいのに」
つらそうだった、と、シンデレラの言葉に安心した。
兄とてそういった感情がないわけではないのだ。
それはきっと当然のこと。
至極当然のことなのだけれど、さっきは疑ってしまったから。
安堵と共に新たな苛立ちがわきあがり、すぐに悲しみに塗りつぶされた。
自分はまた間違えたのだ。
「……最近なんか、わかってきた気がしてたんだ……」
苦しくても痛くても平気な顔をして、誰にも気づかせることなく、他人の期待に応え続ける。
それが兄という人間なのではないかと。
完璧ではけしてない。完璧であろうと努力した人なのだと。
「僕は……兄様を何度も傷つけたかもしれない」
深い悩みを抱くことなどないのだろうと思っていた。
理由がないから。
生まれながらにして完璧なのだろうと思っていたから。
「兄様こそ僕のことを嫌いなのかもしれない」
九年。兄弟という絆の下で共に暮らしていても、その本当の表情を引き出すことはできなかった。
記憶の中の兄はどれも穏やかな顔をしている。
その奥でどんな感情を燃やしていたのか。どう思われていたのか。
「……僕のことを、大っ嫌いかもしれない」
過ちは呼吸のように繰り返され、うじが蠢き出すまでその傷口に気が付かない。
笑う顔が腹立たしい。
そして、
怖い。
自分がこんなにも兄のことを好きだったなんて知らなかった。
「……例え、そうだったとしても。ロイド様はもう何もわからないわけではないでしょう?」
シンデレラが穏やかに微笑んだ。
もれいずる月の光に照らされて、翳りなどかけらもないように見える。
その言葉も、優しさに満ち満ちて。
「もっと、わかっていけばいいんですよ。過ぎたことはどうしようもない。これからは傷つけないようにすればいい。……あの人の苦しみに、今までは誰も気づいていなくても。これからは、ロイド様が気が付くでしょう?ウィリアム様にはこんなにも力強い味方ができたんですね」
温かくて心地良いのに、どこか寂しかった。
ロイドはシンデレラのドレスにすがりついた。
そうでもしないと消えてしまいそうな気がして。
「違う……わかったつもりになってただけだ。さっきだって絶対傷つけた!僕は……駄目なんだ。できない……んだ」
シンデレラが寂しそうなのもきっと自分のせいだ。
でもどうすればいいのかわからなくて、どうすることもできなくて。ますます寂しげになっていくのを、見つめ続けることさえ耐えられなくて。
なのに答と助けを求めてすがりつく自分が、殺してやりたいほど憎たらしいのに。
「兄様のこと、おまえはわかるんだろっ?兄様があんなに表情豊かになるのはおまえの前だけだ。おまえも兄様の味方だろう……っ?」
「もちろんですよー♪」
それでも消えることのないシンデレラの笑顔に、恐れながらも安堵している。
その微笑みが嘘ではないにしろ何かを隠していることくらいわかっている。
わかっているのに。
「本当に?」
震える声で問いかければ、
「……ええ、本当に」
返ってきた答は掠れていた。
ロイドは不安を抑えることができなかった。
いつもはずぶとくて何をされても倒れそうにないシンデレラなのに、今は弱々しくて儚いとまで感じる。
「……兄様のところに行け」
思わずそう言っていた。
シンデレラを一人にしておきたくない。
自分では駄目なのだ。慰め方など知らない。
人を楽しい気持ちにさせることなどできない。
兄ならなんとかしてくれるだろう。一緒にいるだけでもきっと違う。兄もあのまま、母の言いなりになっているべきではない。
そして自分も……、こんなところで言いたい放題言って、シンデレラに慰めてもらったところで、一体何が変わるというのだろう。変われるわけがない。
何ができなくとも、このままでは駄目だ。それだけはわかる。
シンデレラに対しても、兄に対しても、自分に対しても。
わかってしまったら、動かずにいるのは罪なのだ。
「ダメですよ。ウィリアム様がお決めになったことです」
シンデレラが首を振る。
兄にとって大切なものが何なのか、ロイドにはよくわからない。
だから自分にとって大切なものがそれに劣っているともけして思わない。
「黙って見てるつもり?」
からかいでも、嘲りでもなく、真剣に問いかけた。
おまえにとっての大切なものは、そんなにも軽いものなのかと。
シンデレラは瞳を閉じて肩をすくめた。
「んー、あの中にウィリアム様の気に入りそーな女性がいるかもしれないしー、だったら遠慮しなくっちゃあーと思いまして」
問題発言である。
「はぁっ?何さそれ。おまえは兄様が好きなんじゃないのっ?」
一応は事実に基づいた希望的観測によると、シンデレラの方は兄に惚れきっていて、あとは兄がどう出るかの問題……のはずだったのだが。お互いどうとも思っていないのだとしたらどうして婚約者などやっているのだ。そもそもシンデレラは兄が連れてきたのであって、……しかし以前『手違い』とも言っていたような気がする。
二人の関係がますます謎に包まれていく。
「……その辺は……まぁ、その……複雑な事情がありまして……」
もじもじするシンデレラをきっとにらみつける。
「さっぱりわからないよ。わけのわからないこと言うのやめてくれない?」
「ごめんなさいー」
「好きか嫌いかって聞いてるんだよ!」
「それはもちろん!」
シンデレラは胸を張って、
「……あれ?」
両手で口元を押さえた。
「もちろん、す……す、すす……っ、す、す……す……」
くぐもった声がどもりまくる。
白く塗られた肌がみるみる色づいていく。
「あ、あれ……?違うんです!嫌いってわけじゃなくて、ホントになくて……、その……、……き。……なんです……け、ど……」
とうとうゆでだこになってしまったシンデレラに、ロイドは『ごちそうさま』と言ってやるのをかろうじてこらえた。
「……だったら乗りこみなよ」
「……い、いえ、ですからその辺は、複雑な事情がですねぇ……」
あれだけわかりやすい反応を示しておきながらまたもやわけのわからないことを言い出す様子にため息が出る。
会場の方をちらりと見れば、兄は女たちに取り囲まれてすっかり身動きが取れなくなっていた。その後方では母が付かず離れず目を光らせていて、絶対に逃がさない、といった感じである。父ははらはらして見ているようだが、よほどのことがない限り玉座を離れることはできない。
この状況を唯一打開することのできるシンデレラはうつむいたきりもじもじとした動作を繰り返すだけ。頬の熱を散らすのに忙しいようだ。
微笑ましくはあるが、今はそういう場合ではない。
ロイドは再びため息をもらした。
「しっかりしてよ。いつもの無駄にたくましいおまえはどこに行ったのさ」
「……無駄に、たくましくなくちゃ……ダメですかね、……やっぱり」
「はぁ?」
シンデレラは思いつめた表情で言った。
「ロイド様は、例えば私が実は大人しくて控えめで気弱な感じだったりしたらどうします?」
以前聞いた。
おまえの真実はどちらなのかと。
あのときシンデレラは何と答えたのだったか。
「……知らないよそんなこと。……でも、じゃあ今のおまえは偽者ってこと?僕はそうは思わないね。おまえはおまえだろ。ただちょっと真偽と正誤に分けるのが難しいだけじゃないの?」
両方そうであり、両方違うと答えたのだ。
「……そうかも、しれませんね……」
シンデレラは両手で顔を覆った。
さっきからずっと様子がおかしい。問題発言によって深刻さが薄らいだように思えたが、この奇妙さは思いのほか深いところに根を下ろしている。
こんなシンデレラは初めて見る。
……いや、兄に色々あるように、シンデレラはシンデレラで色々あるのだろう。
誰だって笑顔しか持っていないわけではない。
今まで見えていなかっただけで、これだってシンデレラなのだ。
それでも、できることなら笑っていてほしかった。
悩みなんて一つもないとでもいうように。
薄っぺらな微笑を断罪したその口でできれば笑ってほしいと願う。
なんて勝手な言い分だろう。
せめて音にはしまいと唇を噛めば、シンデレラが顔を上げて明るく言った。
「そうそう、いつか聞いちゃおうと思ってたんですけど!ウィリアム様の理想の女性像ってどんなのかわかりますっ?どうも本人から聞き出した情報はいまいち信頼性がなくて」
白々しいほど陽気に差し出された脈絡のない話題。
このまま話に乗ってしまえば痛々しい空気はどこかへ消えて何事もなかったかのようにいつもの雰囲気がやってくるのだろう。
表面上は。
それではいけないと思うのに、どうすればいいのかがわからない。
やはり自分では駄目なのだと実感する。
ロイドは再び兄を見やった。
「……。あ。あの女なんて兄様の好みじゃないかな」
周りに群がっている女たちを適当に指差す。
「えぇっ?どれどれどれっ?どれですかっあれですかっ」
「そう、それ」
シンデレラは首を固定してじっと目を凝らした。
眉がせわしなく体操している。唇は一直線に結ばれたまま動かず、瞳は時折閉ざされるもののすぐに開いて一点を見つめ続ける。
どの女を見ているのかわからないが、表情は真剣そのものだ。

「……」
「……」

やがて眉毛がぴんと張り、喉仏がこくんと動いた。
「あ……あのー、ロイド様?私ちょーっとウィリアム様に用があったこととか思い出しちゃったりとかしちゃったりとかとかとか」
「行ってきたら?僕もいつまでもおまえの相手をしてやれるほど暇じゃないんだよ。くっだらない挨拶にも答えてやらなきゃいけないしね」
ロイドは顎をしゃくってみせた。
待ちくたびれた様子などおくびにも出さない。
「えーっとぉ、では……行って参ります!」
びしっと敬礼して回れ右した背中に小さくつぶやく。
「……まったく、世話が焼けるよね」
本当はこんなことしかできない自分がとても悔しかったけれど、確かに感じるかすかな満足感をないがしろにすることだけはしないようにした。
「……僕には……人を癒したり、慰めたりはできないけど……できることも、あるんだ、……きっと」
そう思っていたかったから。

ウィリアムはすでに『うんざり』を通り越して『げっそり』していた。
ごてごてと飾り立てられたドレス。けばけばしく塗りこめられた化粧。強すぎる香水は各種混ざり合って人を殺せそうだ。
真っ赤な唇からは薄っぺらい美辞麗句が飛び出し、静かになったと思ったら視線が何かを訴えている。そのくせ直接会話すると随所に恥じらった様子を見せる。下手な演技だ。
それらに対して当たり障りのない態度を返すのは思った以上の苦痛だった。
何しろ数が多い。母の選んだ候補はほんの数人だが、野心に燃えるその他大勢が押し合いへし合いひしめいている。それも互いに妙な競争意識を抱き合っているようで、あっちを向けば「こっちも見て!」、そっちを向けば「こっちも見て!」とひっきりなしだ。自分の婚約者選びというよりは女たちの障害物レースといった感じがする。
これだから、女というものは。
内心で舌を打っていると、いつのまにやら周囲の輪が小さくなっていた。
「ウィリアム様、最初はどなたをお選びになりますの?」
「是非私と一緒に踊っていただきたいですわ」
「あら、ずるいですわ。私もさっきからずっと誘っていただけるのを待っておりましたのに」
「女の方から誘うなんて、慎みがないとお思いになりますか……?」
一人の女を皮切りに、次から次へとつめよってくる。
ウィリアムは後ずさった。
背後にも女たちがいた。
ブレンドされた香水に白粉のにおいまでもが調合され始める。
このまま息をつめて死ぬのと毒に蝕まれて死ぬのとではどちらがましな死に方か。
吐き気と共に悪夢の底がやってくる。
囁きが虫のように這い回り、皮膚を食い破って体内へと侵入する。
笑い声は頭を割り、眼差しは眼球を舐める。
悪魔か夢魔か吸血鬼。
血に濡れた唇が次なる獲物を求めている。
踊りましょう踊りましょう踊りましょう……
ねっとりとした声が沼のように手招いた。
気持ちが悪い。
こんな生き物は死ねばいい。

「ウィリアム様っ!踊りましょうっ!」

貴婦人らしからぬ元気な声が響き、全員がそろってそちらを向いた。
風が生まれる。
シンデレラが、風を起こす。
「約束してましたでしょ?最初のダンスは私とですよ♪」
ウィリアムは差し伸べられた手に引き寄せられるまま、一歩踏み出した。
道は簡単に開いた。
女たちに一言二言の謝罪をすることも忘れてまっすぐ歩いていく。

空気が色を変えた気がした。

ウィリアムはだらしなく見えない程度に首を回し、短く息を吐いた。
「『最初の』ダンスを約束した覚えはありませんが……?」
「ウィリアム様ってば婚約者をないがしろにして他の女性と最初に踊る気ー?私にとって初めての舞踏会なのにぃ?」
シンデレラはにこにこと笑った。
作り物ではなく、本当に笑った顔をしている。
今日一日は上品な笑顔をしているようにと言ったのに。
「……それに、あなたのことはロイドに任せたはずです。背後の方々の鋭い視線をどうされるおつもりですか?」
「う。それは……その、……うーん……」
シンデレラは途端に眉を反らせた。
ウィリアムは深々とため息をつく。
母は今どんな顔をしているのか、見る気にもなれない。
大人しくロイドと過ごしていればよかったのに、何故出てきたのか。
出てくるなら出てくるで貴婦人然として現れればよかったものを、あれでは周りの評価を幾分下げてしまったことだろう。
まったく余計なことをする。足を引っ張りに来たのか。
……だが。
ウィリアムはゆっくりと深呼吸した。
何もかもどうでもいいような気がしてきた。
投げやりになったのか、気が抜けたのか、自分でもわからないが、おかしな気分だ。
笑える。
クッと喉が鳴った。
「……曲が始まる。手を貸せ」
一度は破ったが、約束は約束だ。仕方なしに手を差し出せば、シンデレラは目を大きく開いて固まっていた。
「どうした?早くしろ。母上がいつまでも黙って見ていると思うのか?」
白く塗られた頬が一気に薔薇色に染まる。
「……万が一足踏んでも、怒っちゃ嫌ですよ?」
消えそうな声が届いた。
はにかんだ表情は見ようによっては愛らしいといえるかもしれない。
手のひらで小刻みに震える小さな指。
今の今まで緊張した素振りなどまったく見せなかったくせに、『初めての舞踏会での初めてのダンス』はそれほど楽しみだったのだろうか。
ますます笑えてくる。
「おまえが相手だ。それなりの覚悟はしている」
「ひっど……っ」
うるさくなる前に肩を抱いた。

常世の煩わしさをすべて祓うような、心地良い音色が流れ始める。
ウィリアムは軽くまぶたを伏せた。
こういう場で楽しめるものといえば目を閉じて聴く音楽とあとはいっそ一秒ごとに荒んでいく内心のつぶやきくらいかもしれない。
ダンスは嫌いだった。
赤い唇が刻む微笑を間近にし、何かを含んだ視線を浴び続け、まとわりつく香りに冒される。振り切ることも許されない一定時間。
楽しいと感じたことなど一度もない。『良き王子』としての義務を果たす作業でしかなかった。
今もまた、『良き婚約者』としての義務を果たさなければならない。
音が導くままに足を運ぶ。
シンデレラはうなじまで染め上げて下ばかりを見つめていた。
よほど足元が気になるらしい。
こういうのは気にしない方が上手くいくものだ。第一うつむいて踊っていては見栄えが悪い。
ウィリアムは耳元に囁いた。
「……おまえなら私の足を踏んでも笑ってすませるのだろうが。顔を上げろ。……楽しい記念なんだろう?おまえにとっては」
緊張するほど楽しみにしていたものを、その緊張でぶち壊してしまうことはない。
この瞬間は、一度限り。二度と訪れないのだから。
「……下を見てた方がまだドキドキしないんじゃないかと思って」
シンデレラがおずおずと顔を上げた、そのふいをついてさっと腕を引く。
「きゃっ」
強引にステップを早めれば、細い指が必死になって手をつかんできた。
「速い速い速い!音楽に合ってない!速いってば!足踏んじゃうっ!踏んじゃいますって!踏むからねーっ!」
ウィリアムはなんとなく愉快な気分になった。
いつも他人を自分のペースに巻きこんでいいように事を進めていくシンデレラが、本気で焦っている。
さらにスピードを上げて振り回してやると、泣きそうな表情できつく目を閉じた。
そんな顔もできたのかと、思わず感心してしまう。
もう少しいじめてやりたくなった。
「……父上とロイドまで駆り出しておいてその程度の成果か」
シンデレラは弾かれたように背筋を伸ばした。
「何をうーっ!言っときますけど血反吐吐くほどやったんですからっ!誰かさんはちーっともつき合ってくれませんでしたけどーっ」
鋭い目つきでにらんでいるが、顔が真っ赤なのであまり迫力はない。
ウィリアムは意地悪く笑った。
「今つき合ってやっている。おまえは私との本番をわざわざ狙って失敗するつもりなのか?」
シンデレラの口がへの字に曲がる。
「じょーだん!実力見せちゃいますからね!」
手をぎゅっと握って大きくターン。
回る回る、普通は一回回るところを二回三回四回と。
つい先ほどまでの様子が信じられないくらい堂々と、力強く。
「馬鹿かおまえは!女がリードするなっ!」
ウィリアムは慌てて怒鳴ると、負けじとスピードを上げた。
今度はシンデレラが悲鳴を上げる。
「きゃーっ!だーかーらもっとゆっくりーっ!ゆっくりだってばー!ワルツは目が回るんですーっ!」
ウィリアムはふん、と鼻を鳴らした。
城中にはびこる欺瞞に満ちた美しさ。その中で唯一心から美しいと思える音楽に、たゆたうように身を任せる。
緩やかに流れる。ゆっくりと回る。
互いの瞳を見つめ合い、息を合わせて踊る。
シンデレラが笑った。
頬を淡く染め、花が綻ぶように。
「どうですか?ちゃんと踊れてるでしょ?ね?ね?」
楽しそうに。
夢見るような瞳で。
「……ああ」
不思議だった。
曲に終わりがあるのが残念のような気がしてくる。
目の前の微笑みが、美しいものであるような。
そんな錯覚に囚われる。
体が軽かった。
いつまでも踊っていられそうなほど。

天上の音色が星空を渡る。
地上を照らす光は魔法に満ちて、過ぎゆく時を七色に染める。
今宵一晩、醜いものをすべて癒して。
極上の夢へと変えるように。
舞踏会の夜が、美しく過ぎていく。

曲が、終わる。
夢が、覚める。

それでもシンデレラは笑っていた。

「ありがとうございます!すーっごーっく楽しかったー!」
ウィリアムはシンデレラの肩を抱いたまま無言で歩き出した。
「あ、あれ?ウィリアム様?ウィリアム様ってば?」
「中庭に出る。このまま出ればさすがに追ってこれる人間はいないだろう。あの中に戻るのは御免だ」
シンデレラは上気した頬を両手で覆い、照れたようににやついた。
「えへへへへー♪」
「気味の悪い声を出すな」
「えへへへへー♪」
ウィリアムはため息をついて、もう何も言わなかった。

誰もいない中庭は随分と静かだった。
息のつまる喧噪はすぐそこで続いているのに、帳一枚隔てた別世界にいるような感じがする。
闇が優しい。
月は穏やかで、星は清かだった。
楽隊の奏でる音だけがひっそりと聞こえてくる。
曲は違うが、ワルツだ。
ウィリアムはシンデレラをちらりと見た。
シンデレラは噴水の縁に座ってぴんと伸ばした足をじっと見つめている。
痛めたのではなく思い出し笑いをしているようだ。
つくづく気味の悪いことだと思ったが、『初めての舞踏会での初めてのダンス』はどうやら満足のいくものに終わったらしい。
ウィリアムはシンデレラの前に立ち、その足をまじまじと見た。
「……よく踊れたな。はくだけで砕け散りそうに見えるのに」
すっかり忘れていたが、シンデレラの足を飾っているのはガラスの靴だ。
手にしたときは蝶の羽とどちらが軽いかとまで思ったのに、あれだけ速いペースで踊ってよくぞ無事だったものだ。
「ああ、これはですね、コツがあるんですよ♪砕けたらその時はその時!と思ってはくの。必要なのは勇気、かな?」
シンデレラはなんてことないように笑ってのけた。
「……でたらめな」
そんなものに人生を左右する決定を任せていたのかと思うと疲れがどっと湧いてくる。今さらといえば、あまりに今さらすぎたが。
ウィリアムは深いため息をついた。
少し離れたところに腰掛け、何をするでもなく静寂を聞く。
シンデレラは何も言わない。
ウィリアムも何も言わない。
柔らかな夜風が頬をなぞる。
そのまま二人で、時の流れを見つめていた。

かすかな音が闇に溶けた。

「……やっぱりお疲れ?」
シンデレラの声に一瞬固まり、ウィリアムはようやく今のが自分のため息だったということに気が付いた。
ため息自体は珍しくないが、無意識のうちにもらすなど初めてのことだ。
途端に重力が増した気がした。
動きたくない。いつまでもこうしているわけにはいかないが、もう少しだけ休んでいたい。
確かに、疲れている。
「んじゃ、もうちょっとだけのんびりしましょっ♪」
まだ何も言っていないのに。
思わず目を見開いた。
そこまでわかりやすい顔をしているのかと眉を寄せる。
疲れているなどと、周囲に気取られるわけにはいかない。本来なら今も会場の真ん中でにこにこと笑っていなければならないのに。
女の群れを思い出すとどうしても体が動かなくなる。母の眼差しを思い浮かべると頭が痛む。
背中に感じる冷気が心地良くて。夜の静けさが温かくて。
こんなにも居心地の良い空間を離れてしまうのがもったいなかった。
もう少しだけ、と、正直な体を止められない。
臆病なのか、勇敢なのか。
思考が歩き始める前にシャットアウトした。
ため息をつき直し、さらに楽な姿勢を求めて座り直して。
それまでと同じ、穏やかな静寂が続くのかと思えば。
「……ねーねー、たくさんの女性に囲まれてましたけどー、好みの人とかいた?」
「馬鹿かおまえは」
ウィリアムは頭が痛くなった。
躊躇いがちな響きではあったが、わざとらしいくらいにそわそわした態度がやたらとやかましい。
唐突な問い。
あんな連中に囲まれてどうやったらそんな思考にたどり着けるというのだろう。
うんざりとした気分が蘇ってくる。
「ただひたすら不快で疲れるだけだ」
それをそのまま吐き出せば、シンデレラは悲しそうにつぶやいた。
「……もうちょっと、言い方とか……。あの中にウィリアム様のこと本気で好きな人もいたかも……」
一体何が言いたいのか、いまいちよくわからない。
一度吐いたうさはなかなかひっこまず、手をつないでするすると飛び出してくる。
「馬鹿馬鹿しい。あの女どもは王家の名に群がっているだけだ。ロイドが年頃ならロイドにも迫っていただろう」
シンデレラが顔を歪めた。
「でもでも……っ!もし私がいなかったら中には告白しちゃう人とかいたかも……っ」
上半身を倒して距離をつめ、真剣な表情で言い募る。
ウィリアムは首を揺らしながら答えた。
「ああ、いただろうな。まったく、よくやるものだ」
『婚約者』がいようがいまいがあのまま会場にいればやがてはそういう目に遭っていただろうが。
そう考えて、また一つ動きたくない理由が増えた。
噴水の水に手を浸し、緩やかな円を大きく描く。
シンデレラはすっくと立ち上がり、ずかずかと歩いてウィリアムの正面に立った。
「……もしかして女の人みーんなみんな王家の名がうんたらかんたらだって思ってたりします?」
腰に手を当てて眉をつり上げる様はいかにも『怒ってます』といった感じだったが、ウィリアムに怒られる覚えはない。
「何が言いたい?」
「ちょーっと疑り深すぎません?人の気持ち勝手に決めつけてるっていうか……頑なすぎ!」
人差し指を突きつけられ、頬の肉を歪めてみせた。
「……疑うも何もない。最初から本心が見えているものを」
吐き出せば、吐いてしまえば、この疲労感も収まるだろうか。
そんな考えがよぎったのは一瞬のこと。勝手に舌が動き出す。
「あの女どもが私の何を知っている?『皇太子』もしくは『優しくて温厚でしっかりもの』といったところか……?それだけで恋情を抱けるというのか。だとしたら随分と単細胞な生物だな。……私は知っている。女は美しさを競う一つの方法として私を用いている。人生を成功に導く一つの買い物として私を選んでいる。……私自身は飾りでしかない。どの女も寵を得ていち早く子を孕むことしか頭にない。あれらを相手に一度寝たら最後、必ず赤子を連れて『あなたの子どもです』とやってくる。それが事実だ。見え透いた『愛』にだまされる男は哀れだな」
ウィリアムは嘲笑した。
「……しかし皇太子が何より優先すべき務めは子作りなのだそうだ。あれらの中から一人、母の自尊心を満足させ、かつ孕みやすい女を選んで行為に励むのが私の役目だ」
価値は飾り。意味は子種。その他は以下省略。
恋は戦略、愛は武器。偽りは呼吸と同じ。
名は足枷で血は呪い。
醜い醜い醜い人の世は、立場が変われば見え方も変わるのだろうか。
今はどこまでも同じに見える。
「……笑えないか。尊い王家のため、汚らわしい雌豚に身を捧げよと!……血に誇りを持つ方ほどそうおっしゃる。一応『非の打ち所のない貴婦人』とやらを選んではくださるが、所詮は雌豚だ」
生まれがどうであれ女は女。その本質に変わりはない。
欲深で、醜悪で、小賢しく、異臭を放ち、触るとべとべとしている。
嘘が得意で、ごまかしのために真実を述べ、計算高い割に感情的で頭が悪い。
嫌になるほど同じだ。どれもこれも。
たいていは。
「……おまえが何の目的で私に近づこうと、私にはどうでもいいことだ。だが、おまえにも誇りがあるのなら……目を覚ましてはどうだ?万が一おまえが皇太子妃についたとしても、おまえにとって私が飾りであるように、私にとっておまえは子を作るための道具でしかない。もっとも、例え万が一にでも手を付けるようなことはないだろうがな」
シンデレラはうつむいて表情を見せなかった。
「……ウィリアム様のことを、本気で想っている人は……?」
消えそうなつぶやきを一笑に付し、ウィリアムは話を終わらせようとした。
「言っただろう、あの女どもが私の何を」
「私は知ってる……っ!」
シンデレラの拳が震える。親指の爪の先が白く染まる。勢いよく上げた顔は赤く、目は潤んで。まっすぐににらんでいる。
「ウィリアム様が本当は優しい?温厚?どこが?っていうような人で、でも本当の本当は優しいんだってこと知ってる……っ!」
こぼれた涙をすぐさま拭い、檻にはめるように、一瞬も、瞳をそらさない。
ウィリアムは目を眇めた。
その顔は自分にはむかう顔だ。責める顔だ。
何も知らないくせに。わかったような気になって。
「……そんなに、そんなに女が嫌なら、どうしてあの人たちに笑いかけたんですか!上辺だけの笑顔でも、……どうして、我慢しながら笑うの……?『王子様』でいるのは、そんなにつらいこと……?」
責めながら、哀れむ顔だ。
「……以前、わかったような気になるなと言わなかったか?おまえが私の何を知っているだと?勝手に私を分析するな……っ!ずけずけと入ってくるな!不愉快だ!私を……私のことを知って、どうするつもりだ?手玉にでも取るか?おまえごときが!」
ウィリアムはシンデレラの胸ぐらをつかんで引き寄せた。
互いの吐息が触れ合う距離で、むき出しの怒りを叩き付けて、それでもこの女が怯むことはないと知っている。
それでも。
「……何それ。ウィリアム様わけわかんない」
シンデレラは呆れたように半眼になった。
「何も知らないくせに?知ってどうするつもりだ?わかったような気になるな?知られたいの知られたくないのどっち!……知らないのは、当然でしょ?ウィリアム様猫被ってるんだから。自分で自分を隠しておいて、なのにあの人たちを責める資格があるっていうんですか?」
「……猫、だと?何がわかる!おまえなどに……っ、私は王子だぞ!王子たるべき王子たるべき王子たるべき……!誰よりもよく知っている!」
ウィリアムが拳をひねって首を絞めても、決して目をそらさない。
「……王家の名に群がるって言いましたよね、ハッキリ言って女を甘く見てる。誰が称号なんかに惚れるんです?王家の名に群がる女しか寄ってこないならそれは本人に魅力がないってこと!猫被ってなきゃ王子としていられないならそれだって自分に問題があるんです!」
むしろ胸を張って言ってのけた。
ウィリアムは怒りのあまり声が出なかった。
このまま絞め殺してやりたい。その気丈な顔をぐしゃぐしゃにして、うめき声しか出せないようにしてやりたい。
何がわかる?
味わってきた苦しみの、抱えこまざるを得なかった痛みの、一体どれだけが他人に理解できると?
視線で殺せたらとうに殺していた。女の首など少し力をこめただけで容易くへし折れるだろう。窒息させるならあとわずかばかり布をねじっただけですむ。
そして浮かぶ言葉はただ一つ。

何がわかる?

目の前の生意気な瞳がふっと翳った。
「私は……まだ、そんなにもあなたのことを知りませんか……?私の知らないウィリアム様ってどんなの……?……誰にならそれを見せていいの?王様王妃様ロイド様、……みんなに完璧な笑顔を向けて、苦しいときや、悲しいときに、……誰になら心を預けるの?」
……いない。そんなものは。
――ずっと。
いらない。
「誰も……心そのままを知ることなんてできない。何を許しても、誰を受け入れても、人は、孤独だけれど。それでもその手を……強く、つないでもいいと感じるのは、……一体誰?」

いらない。

「何が……そんなに、怖いの?」
シンデレラの両手が頬を覆った。
ウィリアムは弾かれたように突き飛ばした。
「何が……怖い、だと……?」
聞いてはいけない。
どこかで警鐘が鳴る。
その音を、認めたくない。
こんな女に揺るがされたりしない。
世界は醜い。この身を襲う偽りのすべてを知っている。
今は、もう。
怖いものなど何もない。
シンデレラはゆっくりと腕を伸ばし、ウィリアムの前にその手を差し出した。
闇の中、白い手が揺れる。
「……怖いんでしょ?怖くて笑うことしかできないんでしょう?……誰にも見せないものを、誰が知ってるっていうの?誰にも許さない心を、誰が受け取るっていうの?何もしなくても受け入れてもらえる無償の愛がほしいの?どれだけ嘘をついても見破って、本当の自分を受け入れてくれる聖母のような女が好み?……赤ちゃんみたい」
小さく、震えている。
蔑むようなことを口にしながら、
声が、
「……愛されたいのなら、愛されようとしないとダメ。どれだけ望んでも……望むだけでは、絶対に。手に入れることは叶わない……」
瞳が、
震えている。
ウィリアムは顔を背けた。
目の前の手を、自分に注がれる視線を、それ以上見たくなかった。
「……私を、わかったような気になるなと言った。愛されたい?はっ!誰がだ?いつそんなことを口にした?第一、おまえが……それを言うのか?」
渾身の力をこめて唇を歪める。
「その容姿は私が魔女の見た目の反対を適当に並べてみただけ。最初の気弱な性格も魔女の反対を言ってやっただけ。今のそのやかましい性格はさらにその反対を言っただけ!……おまえの真実が、どこにある?それが愛されようとした結果だとでも言うつもりか?笑わせるなっ!」
名か、財か、呪いか。どれでなくとも。例え王子としてではないこの心が望みだとしても。
「おまえは私が知っているどの女よりひどい大嘘つきだ……っ!」
おまえが。
おまえこそが。
誰よりも嘘にまみれているだろう?
「嘘……つき、め。……嘘つきめ!……私に嘘をつくな!私を欺こうとするな!……舞踏会は、終わる。どこへなりと消えて失せろっ!」
ウィリアムは叫んだ。
シンデレラは、笑った。
「……あーあ。言ったのに」
いつものような軽い口調。
差し出した手をひっこめて、「あちゃー」といった感じで額に当てる。わざとらしいため息を大きくついて。いかにもあてつけがましい態度は二人でいるときよく見たものだ。
ただその微笑だけがいつもと違う。
「嘘だと望んで嘘だと言えば、嘘になる。……言われてしまえば真実も揺らぐ。言ったのに。……言われたくなかったのに」
泣きそうに、見えた。
「何を……言っている?」
涙はこぼれていない。
それでもひどく悲しそうに、シンデレラが笑う。
「もう、いられない、な。……私は……結局あなたをかき回しただけだった?いつだって幸せを願っていたつもりだったのに。……ああ、でも、私情は入っちゃったから、やっぱりかき回しただけだったかも」
誰に向けての微笑みなのか。自身に対する苦笑のようでも、自分に対する繕いのようでもあり。
どちらにしろ気に入らなかった。
何を普通の女のように哀れを装っているのか。似合わない。
この女はいつも追いつめてやるほどよく笑った。しぶとくずぶとく憎々しく。
どこまでも強く。
「……わけのわからないことを。黙って消えることもできないのか?」
元々醜い顔に嘲ざけるような笑みが広がっていく様もかなり見苦しかったが、今の微笑はもっと見るに耐えない。
いつだってまっすぐ貫いてきた眼差しが途方に暮れた子どものように宙をさまよう。
初めて顔を合わせたときの様子とはまた違う。
うっすらとのぞく曇り空は今にも雨を降らしそうで。
気持ちが悪かった。
「もう少し、あと少しだけ、……待ってください。もう少し」
シンデレラは星を読むように天を仰いだ。
ウィリアムも吸い寄せられるように空を見上げた。
夜は美しく、果てしなく、少し前であれば、きっと快かったはずだった。
今は胸に染みこむように星が瞬く。
どこからか、世界が揺れる音がした。
重く深く震える。
一日の終わりと、始まりを告げる音。

十二時の鐘が鳴った。

十二回、正確に。
鳴り終わった。

波紋が闇に溶けきったとき、ウィリアムの前からシンデレラがいなくなった。
代わりに、
夜の帳を編む黒髪。月よりも輝く白い肌。星々を閉じこめたような……瞳。
「……この時間に、毎日魔法をかけ直した。肌は豚が泥遊びしたような色。目は曇天の色で……見えるか見えないかくらいの細さ。鼻は団子っ鼻。口はたらこ唇。……それが理想だと聞いたからな。……三段腹は地道に叶えていくつもりだったが……間に、合わなかった」

白いドレスに身を包み、ガラスの靴をはいた魔女。

永遠にも似た一瞬の間、二人は互いに見つめ合っていた。
一人は事実を知るために。一人は裁きを待つために。
先に沈黙を破ったのはウィリアムだった。
「……は、はは、ははははは!」
おかしくて、おかしくて、こみあげる笑いを抑えきれない。
「傑作だ!傑作だぞ!」
何もかも嘘だと知っていた。
そろいすぎた容姿も。一晩で変貌した性格も。
挨拶のように『好き』だと言ってのけるその想いも。
見え透いた嘘だとわかっていた。
思った以上に醜い女だったことが、とてもおかしい。
「見ろ!最低だ!最悪の女だっ!……さぞかし楽しかっただろう。非力な人間で遊ぶのはな!」
世界中の神々よ照覧あれ!我ここに絶対の真理を得たり!
これが女という生き物だ!
そう叫んで笑い転げてやりたかった。
魔女が薄く微笑する。
「……ああ、楽しかった。……とても。とてもとても楽しかった」
手にした金のかつらを梳かし、そっと唇を寄せる。
よく見れば黒髪は無様な長さのままだった。
気持ちが、悪い。
女が。
女が笑っている。
悲しそうに。
目鼻立ちも、雰囲気も。何もかも違うのに、先ほどまでの彼女と同じ表情のまま。
シンデレラのドレスを着てシンデレラの靴をはいた、まったく別の女がいる。
ウィリアムは冷ややかに言い放った。
「消え失せろ」
その表情も、見苦しい頭も。身に纏うドレス。手にしたかつら。存在のすべて。
見ているだけで吐き気がする。
世界中の女を死滅に追いこんでやりたい気分だった。
「……そうだな。そうしよう。……目を閉じろ、……ウィリアム。見られていては消えることができない」
魔女がゆっくりと頷く。
「いつからそんなに謙虚な魔法を使うようになった?」
軽く嘲れば、
「……しばらく外見をいじるばかりだったからな。腕が落ちた」
軽くかわされる。
「消えてほしいのだろう?……目を、閉じろ。すぐに消える」
どこも似ていないのに、よく似ている。
ウィリアムは固くまぶたを閉じた。
真っ暗な世界にしわを刻む。
それを打ち砕くかのように、何か固いものがぶつかってきた。
鼻がつぶれ、唇の裏に歯がくいこむ。
「痛っ」
心を代弁するような声が聞こえた。
思わず目を開けば、すぐ前で魔女が鼻を摘んで口元を覆っていた。
「……案外難しいものだな」
至近距離の涙目が言う。
鼻を摘んでいた手が額を押さえるのを見てやっと、顔で顔を殴られたのだと知った。
それはつまり、そういうことで。
呆然としている間に目の前の苦笑がみるみる薄らいでいく。

「……さよならだ」

瞬きした後に残ったものは、顔面の鈍い痛みと、今にも砕けそうなガラスの靴――。
ただそれだけだった。
まるで儚い夢だったかのように、シンデレラの姿はどこにもない。
最後に見た表情はそのまま黒髪の女に重なって。
遅いこだまが十二回、記憶のすべてを冒していく。
すべて嘘だと知っていた。
見え透いた嘘だとわかっていた。
真実はもはや暴かれた。
なのに何かがつながらない。
誰もいない中庭で。ただ一人、闇に紛れて。
か細いワルツが溶けていくのを、ずっと見つめ続けていた。
続く。
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