『シンデレラ 前編』

魔女は大口を開けてあくびをした。
寝過ぎて頭が痛いが、起きていてもやることがない。
あくびしながら暇を持て余すよりは夢でも見ていた方がまだましな気がする。
しかし頭が痛い。
思わずもれたため息は洞窟中に広がり、やがて消えた。
魔女はもう一度ため息をついた。
まるでシャボン玉のように、膨らんでは儚く消えていく。

くびり殺されているようだ。

頭に浮かんだ言葉は、笑えるほどよく似合った。
洞窟の中は今日も寒気がするほど静かで、重苦しい闇が頑なに空間を閉じている。
ここは棺。棺に眠る者は死者と決まっている。生きながら死んでいる己にぴったりの比喩。
自虐的な笑声を響かせるのにも飽きて、またため息をついた。
吐いても吐いても、消えない虚脱感。
自分の他は誰もいない、時さえも流れない闇の中、退屈が、人を殺す。
眉を寄せた拍子に息がつまった。
もがきながら腕を伸ばし、水晶球を覆う布を取り払う。
まぶしい光が闇を裂いた。
晴れた空。明るい日射しの下で力強く笑い、泣き、生きている人々。毎日を精一杯進む命。
それはいつも同じ景色を映している。
魔女はかすかな息をもらして微笑み、すぐに固く瞳を閉じた。
そっと布を被せ直す。
まぶたの裏が塗りつぶされてやっと目を開いた。
闇は静かで、空気は冷たく、ため息がよく響く。そしてほどなく静寂の真綿に包まれていった。
それでもとうに癖になっているため息を、もう一度……繰り返そうとして顔を歪めた。
幻聴が聞こえる。
人の足音だ。
近づいてくる。
心の中で「消えろ」と叫んだが、いつまでたっても消えはしなかった。
それどころか闇の中、赤い炎が小さく灯る。
何十年ぶりかに見たランタンの光だった。
「客人、赤の火を使っているな。……生者か」
魔女は声がかすれないよう、細心の注意を払って尋ねた。
空気が目に見えて振動する。
「……はい、叶えていただきたい願いあって参りました」
返ってきた声は低かった。小さな炎が心のように揺らめいた。徐々に距離をつめる固い靴音。
何もかも、外のにおいがした。
魔女は人差し指を弾いて巨大な火を生むと、両の指で引き裂いて、十の炎を宙に浮かべた。
途端に照らし出された洞窟で、驚きに染まる顔と喜びに満ちた顔が出会う。
久方ぶりの客が若い男で、それもなかなかに端整な顔立ちをしていたので、魔女は満面の笑みをさらに輝かせた。
「歓迎しよう。まずは座るといい」
声と共に土が踊り、テーブルと椅子が力強く生長する。うっすらと被った土を払って台上にいくつか円を描くと、それらと同じ大きさの食器がみるみる浮かび上がってきた。魔女はコップを手に取り、その上でもう片方の手を軽く握って振った。指と指の間からかぐわしい香りをまとった茶色の液体があふれ出す。立ち上る湯気を、男はじっと見つめていた。
魔女は怪訝に眉をひそめた。
「どうした?立ち話ですませる気か?私は嫌だぞ。座れ。遠慮することはない。……それとも、紅茶が嫌いなのか?コーヒーにするか?ミルクがいいか?水が飲みたいのか?毒など入っていないが、他人から出されたものを飲まない性質ならば無理にすすめはしない」
「……いえ、魔法というものを初めて見ましたので、少々驚いてしまっただけです。お気を遣わせて申し訳ありません」
男は優雅に会釈してようやく席に着いた。
「そうか。気にするな。私は見慣れている」
魔女が小さく両手を叩く。先ほどまで何もなかった皿の上にクッキーが積み重なった。
男はまた動きを止めた。
魔女もまた眉をひそめる。
「……クッキーは嫌いなのか?ケーキを出してもいいが、クリームがべとつくから面倒だ。それとも甘いものが苦手なのか?」
「……いえ、せっかくですが、飲食物は結構です」
「そうか……、残念だ。久しぶりに味見をしてもらえると思ったのだが。……では次は何を出そうか」
魔女は心底残念そうに口を曲げると、召使いを呼ぶようにテーブルを叩いた。
「客人、チェスは強いか?」
すぐにチェス盤が浮かび上がる。
「ポーカーをやるのもいいな」
これまた間を置かずトランプが落ちてきて見事なブリッジを披露した。
「チップはどれだけ必要だ?」
大人しくなったカードの上に大量の金貨が降り積もる。
一体どこから?と聞いてはいけない。
男は気づかれないように小さく息をついた。
いくらなんでもでたらめだ。
こちらのペースを乱すためにわざとやっているのかと思ったが、魔女の笑顔に企みの色は見当たらない。むしろ寒気がするほど無邪気だった。
「……せっかくですが、歓迎は結構です」
やっとの思いでそれだけ言うと、魔女はぷいっと口を尖らせた。
「なんだ、つまらない。以前来た男は倒れるまでやるほどチェスが好きだったが」
それはおそらく恐ろしくて断りきれなかったのだ。
そう思ったが、口に出すのはやめておいた。
「それより……眼光鋭い老婆を想像していたのですが、随分とお若いのですね」
「ああ、見た目はな。二十を越えていたかいなかったか……それくらいのうちに止まった。心配するな。数えるのが面倒になって久しいが、一世紀どころではない年月を大魔女と呼ばれて過ごしてきた。まだボケてもいない。昔話を所望ならいくらでもしてやろう。いつがいい。千年前か、さらに遡るか?最近の話はできない。専ら寝て過ごしているからな」
「……いえ、せっかくですが、昔話も結構です」
ここまでくると男もこの魔女がひどく退屈していることがわかりすぎるほどよくわかった。
倒れるまでチェスにつき合わされるのはまっぴらと、とにかく話を切り出すことにする。
「早速私の望みを聞いていただきたいのですが……」
魔女はやる気なさげに息を吐くと、だらりと首を回してから言った。
「仕方がない、仕事に入るとしよう。どんな願いも私に叶えられないものはない。客人、面白い願いを言え」
……沈黙。
たっぷりと間をとってから、男は非の打ち所のない笑みを浮かべた。
「……そうですね、面白いかどうかは保証しかねますが、とにかく話を聞いていただけますか?」
魔女は頷きながら手首を振る。
「気にするな。もう少し遊んでもらいたかっただけだ。大概のものは面白いから安心するといい」
人の望みに面白い面白くないと点をつけられてもかなり面白くないのだが、そういったことはこの魔女にはわからないようだった。
「……その前に、まずは名乗らせていただきましょう」
男は浅く一礼すると、腰に携えていた剣を外して鞘をかざした。
魔女の目が見開かれる。
「私の名はウィリアム。ファミリーネームはこの国の名。皇太子をやっております」
そこには王家の紋章が刻まれていた。
魔女の瞳が細くなる。
記憶がざわめき出す。
かつてこの国は繰り返し戦火に焼かれていた。
頬のこけた女が嗚咽をもらしながら訪れた。体の一部を落とした男が血と共に望みを叫んだ。
王命を受けた者も多くやってきた。
叶える望みは一人に一つだ。
それを知って王は何人もの臣下を使い捨てるのだった。
それで持ちかけられる願いといえば、やれ誰々を暗殺せよ、やれ敵国のどこそこに病を流行らせろ、民衆を鎮圧しろ、伝説の美女を攫ってこい、そんなものばかりで。
叶えなければ使者の首が入り口に並んだ。軍隊を差し向けられたことも、洞窟ごと埋められかけたこともある。
時は流れ、大地は平和を取り戻したけれども、国は国のままで、未だに王なんてものが統治している。
皇太子の願いなど、面白いはずもなかった。
久方ぶりの客に胸が弾んだというのに、待ちに待った退屈を乱すものは災いだったか……と、せめて話を聞く前に追い出そうと思ったが、皇太子はすでに語り始めていた。
「私の願いは……お願いします、どうか。生涯結婚を免れるようにしていただけませんか」
魔女は耳を軽くマッサージしてみた。
「もう一度言え」
「……ですから、生涯独身を貫けるようにしていただきたいのです」
「何故だ、幻聴が聞こえる」
結婚だの、生涯独身だの、およそ王族には似つかわしくない響きがぐるぐると回る。もしかしたら幻聴ではないのかもしれない……とよぎった端からいやいやちょっと待てよ、と打ち消される。が、何度かそれを繰り返した後、魔女の脳味噌は幻聴ではないが王族らしさは損なわれない一つの答を導き出した。
「そうか、わかった!貴様の望みは酒池肉林だろう!生涯独身でうっはうはのハーレム生活を送る気だな!」
大分混乱してはいたが。
沈黙が落ちる。
たっぷりと間をとってから、ウィリアムは輝かんばかりの笑みを浮かべた。
「……いいえ、残念ですが、そうではありません。私はこの先女性との交わりを一切持ちたくないのです」
「男色か」
「違います」
「獣と交わるのが趣味なのか?」
「違います」
「神に身を捧げるというやつだな」
「……そういうわけではありませんが、弟が一人前になれば皇太子の身分を譲るつもりではあります」
「では貴様は、生涯に渡って女性と関係を持たない、ただそれだけが望みだというのか」
「……名実共に、です。私の妻を名乗る女性も、私のそばにかしずく女性も、一人として現れないようにしていただきたい」
魔女は顔を歪めた。
解せない。どうしても、解せない。
「そこまで女を避ける理由は何だ。言ってみろ。私は良心的な魔女だ。守秘義務は守る」
ウィリアムはにこやかな笑顔のまま、
「嫌だからです」
短く告げた。
「……そうか、ならば嫌々結婚するがいい。言っておくが、私は理由も聞かずに願いを叶えるほど酔狂ではないぞ。どうしてもというなら流れ星をあたれ」
魔女はジト目になってテーブルを叩いた。
「さぁ、ポーカーをしよう!ポーカーはいい。運が決め手となることも多いからな。先ほど話したチェス好きだが、正直弱くてな、あまり面白くなかった。だがちゃんと理由を話したので願いは叶えてやったぞ?どんな内容だったのか教えてやれないのが本っ当ーに残念だ!」
あからさまな挑発に、ウィリアムは苦笑するしかない。
「いじめないでください。ごまかしたわけではありませんよ。……本当に、それが理由なのです」
魔女はカードをシャッフルし始めていた手を置いた。
「女嫌いか」
「そう、……でしょうね」
ウィリアムはぎこちなく頷く。
戸惑いは見えるが嘘は見当たらない。この皇太子は本当に、女が嫌いだという理由だけでここにやってきたのだ。立場にかまわず、他人にとっては首を傾げる願いを、真剣に、叶えにきた。
魔女は穏やかに微笑んだ。
「……客人、おまえはまだ若い。ここで人生を制限してしまうのは少々早すぎると私は思うが?」
ウィリアムはゆるゆると首を振った。
「それはあなたが生きすぎているからでしょう。私は必死です。時間もありません。……今までに随分な数の縁談を断ってきたものですから、周りの者は皆やけっぱちになってしまいました。近く、身分問わず、自由参加の舞踏会が開かれてしまいます。必ず一人は気に入りの女性を見つけるようにと、きつく言い渡されているのですよ。……今回を免れたとしても、いつかは逃れられない日が来るでしょう。それも、近いうちに。その前に、私の願いを叶えていただきたいのです。あなたならば、私の望みを叶え、かつ、そのために起こるであろう問題も、すべて解決できるのでしょう?」
強い眼差しを向ける。
魔女は正面から受け止め、かすかに口の端を上げた。
「ああ、私にできないことはない。だが、忠告させてもらおう。……客人、恋はしておけ」
だてに退屈をいとうているわけではない。
純粋で真剣な願いを抱く客には余さず幸せになってもらいたい。
長い人生を虚無と共に歩む自分には、それが一番心の弾むことだから。
「……畜生と違って人というものは必ずしも恋愛をしなくていいようだ。だから人の色恋は必ずしも生殖に結びつくとは限らない。下世話な話を離れて、恋愛感情というものは……その美しさも醜さもすべて、尊く、貴重で、大切なものではないのか?あるいはそうでなくとも、人生の喜びの、大きな一つであることは確かだろう。実らずとも、それを抱けるということは……とても素晴らしいことだと私は思うぞ」
だから、生きすぎている自分からの、心からの忠告を贈る。
「恋はしておけ。この際同性でも獣でも何でもいいだろう。おすすめは異性だが」
ウィリアムは疲れたような顔をした。
「この先ずっと恋愛に溺れる予定はありませんが……、万が一そうなったらばそのとき後悔すればいいことだとは思いませんか?」
「……それも人生だがな。私にとっては歯がゆいことだ。正直に言ってみろ。理想の女性像くらいはあるだろう。髪は何色だ?目鼻立ちはどういったものがいい?体つきに注文はあるか?性格についても事細かに言ってみろ」
「特にありませんよ」
ウィリアムは『疲れたような』を通り越して『げっそりとした』顔になったが、魔女は気づかない。上半身を乗り出して距離をつめていく。
「なら捏造しろ。深層心理が出てくるかもしれん」
ウィリアムはため息をついた。
「何か思いついたかっ?」
さらに乗り出してくる肩を押さえて、気怠げに頬杖をつく。
ちらりと様子を窺えば、間近に迫った魔女の顔はこれまでに見たどんな美女よりも美しかった。
流れるような黒髪が透き通る肌によく似合う。夜の底に満天の星の輝く瞳がこちらを見つめている。すっと通った鼻梁に、花びらのような唇。絶世の美女と形容できるその容姿。
ウィリアムはふむと頷き、すらすらと並べ立てた。
「……猫の毛が濡れたような金髪に、豚が泥遊びしたような肌の色。目は曇天のような色で、見えるか見えないかくらいの細さ。鼻は団子っ鼻。口はたらこ唇。性格は……大人しくて控えめで、気弱な方がいいですね。そう、特別な力も何もない、ごくごく普通の女性がいいです」
魔女は眉を寄せて突っ伏した。
「随分具体的な理想があるものだな。……本当に女が嫌いなのか?理想が高すぎて他がどうでもよく見えるだけなのではないか?それだけそろった女性を見つけるのは難しかろう」
「……捏造してもいいと言うから言ってみただけですよ。まず実在しないでしょう。それより……私の願いは叶えていただけるのでしょうか?」
魔女は細く長い息を吐いた。
「忠告を聞く気はないということか」
「お気持ちだけはいただいておきます」
ウィリアムの答にゆっくりと頷く。
「……そうか、気持ちだけ……な。わかった。……では、これを持っていくといい」
手のひらを捻るようにして上に向けると、何もなかった空間からまぶしい光が現れた。
それは一足の、光り輝く靴。
ウィリアムは思わず目を眇めた。
宝石ではない、まるで光そのもののような。
しかし薄闇に落ち着いてしまえばただの白い石に見える。
「ガラス……?」
何度も目を凝らしてようやくつぶやいた。
輝きが影をひそめても繊細な細工の美しさは失われていない。
触れただけで塵と消えそうな儚い風情。
細工も素材もそれでしかありえないというような、完成された美がそこにあった。
「そうだ。ガラスの靴。無理にはこうとすればたちまち砕ける。これを持ち帰ってこう言え。『この靴をはくことができた女性を私の妻とする』と」
両手の上に靴を乗せ、ウィリアムは神妙に頷いた。
少し力を入れただけでどこかしらが折れてしまいそうだ。
「……なるほど。誰もはくことはできないというわけですね?ありがとうございます。……しかし、少々頼りない話のような気がしますが。……一時凌ぎにしかならないのでは?」
魔女はわずかに目を見開くと、すぐににやにやとした笑みを浮かべた。
「安心しろ。言ったろう、私は良心的な魔女だ。一人につき一つの願いしか叶えないが、その代わり完璧に叶えてみせる。客人が心配することは何もない。私を信じることだ。もしも願いが叶えられなかったと感じたときはなかったことにもしてやれる」
ウィリアムは確かな不安を感じたが、すぐに気にするのをやめることにした。
書庫の奥深くにしまいこまれた古い本。すっかり色褪せてほこりを被っていたその本に、いつか誰かが挟んでいたメモ用紙。そこに書かれた夢物語のような『魔女』にすがろうと決めたときから、不安なんてものは気にするだけ無駄だったのだ。
ガラスの靴をテーブルの上にそっと置く。
何はともあれ可能性は手にした。信じろと言うのなら信じてみるしかないだろう。
「わかりました、では報酬の話ですが……」
「いらん」
「は?」
間の抜けた顔になったウィリアムを魔女がおかしそうに笑う。
「すでにもらっている。久しぶりに外の空気を吸った。……楽しかった。これからおまえの願いを叶えるまでに一働きある。それも、楽しい。願いを叶えてやればおまえは幸せになるだろう。……それ以上のものはない。どうしてもというのならポーカーをしてくれ。チェスでもいい。強い方が楽しいが弱くてもかまわない。紅茶とクッキーが嫌いなら他のものを出そう。フルコースを馳走してもいい。昔話ならたくさんしてやれる。できればおまえの話の方を聞きたいが」
言葉が切れたと同時に表情が消えた。
「……だが、そんな暇はないのだろう。私以外の者はみな忙しい。だからいいんだ」
ウィリアムはかける言葉をなくして口を閉じた。
魔女を苛んでいるものが退屈だけではなかったとしても、所詮自分は行きずり以上になる気はない。ならばここで何も言わずにいることがせめてもの情けであるような気がした。
「……私に不可能はない。今となっては他人の不可能を可能にすることが至上の喜びだ。おまえの願いを叶えるために尽力する。同時におまえの幸せを心から願っている」
魔女は儚げな微笑を浮かべて席を立った。


次の日城下は大騒ぎだった。
『ウィリアム皇太子』は優しく温厚で、めったに声を荒げることもないがやるべきことはしっかりとやる、非常に思慮深い王子として民衆の間にかなりの人気がある。
ガラスの靴の話は瞬く間に伝わり、街中の女が使者の来訪を待ちかまえた。
やがて次々と上がる悔しさいっぱいの悲鳴。
ウィリアムは城の自室で椅子にもたれながら穏やかな時を過ごしていた。

そして――

街が落ち着きを取り戻した頃、ガラスの靴を抱えて東奔西走した使者もようやく城へと戻ってきた。

一人の女性を連れて。

「王子様、この方こそあなた様が探しておられた御方!見事ガラスの靴をはくことができた女性、シンデレラ嬢でございます!」

ウィリアムは耳を疑った。
今なんと言ったのか。
ガラスの靴は、誰にもはくことができない、はず、である。
だが女は確かにそこにいた。
使者に出した部下の影に隠れるようにして立ち、時々そっと顔を出して不安げにこちらを見る。
ウィリアムは目を疑った。
今はっきりと見えた、その、女は。

まず、髪。
金か茶か判断に困る。日の光の下でようやくかろうじて金髪だとわかる、まるで金茶の猫が濡れそぼったような色が、腰の辺りまで続いている。
次に、肌。
白くはないが黒くもない。何色というよりも薄汚れた様子。肌色にうっすら泥を塗ったような、まさに豚が泥遊びしたような色。
続いて目。
今にも雨が降り出しそうな曇り空、一面に広がる不穏な雲の色……だと思うのだが、細すぎて断言しづらい。
さらに鼻。
見事な団子っ鼻。
そして口。
立派なたらこ型。

「あの……は、初めまして。ウィリアム王子様……。シンデレラと申します。お会いできて……光栄というのもおこがましいですよね。……あの、……夢のようです」

性格。
どうやら大人しくて控えめで気弱な感じ。

言葉にしたときは想像もできなかった存在が今目の前に実在している。
ウィリアムは現実を疑った。
思わず自分の頬をつねる。
痛い。
女は消えていない。
痛い。
夢ではない。

ウィリアムは頬をつねりながら思い返していた。

『忠告を聞く気はないということか』
『お気持ちだけはいただいておきます』
『……そうか、気持ちだけ……な。わかった。……では、これを持っていくといい』

ガラスの靴を渡されたとき、魔女は何と言っていた?
あのにやにや笑いは。一瞬の、虚を突かれたような表情は。

『私の願いは叶えていただけるのでしょうか』

魔女は頷いたか?叶えると、そう答えたか――?

『おまえの幸せを心から願っている』

ウィリアムは、全身の筋肉に渇を入れて、とりあえず、微笑んだ。
「……あいにく夢ではないようですよ。初めましてシンデレラ嬢。いえ、シンデレラと、呼ばせていただきましょう」
笑顔がぎこちなく強ばってしまうのはどうしようもなかったが。
なんだかいつもと少し違う王子の様子に不思議そうにする使者の横で、シンデレラは顔を真っ赤にして下を向いた。
「は、……はいっ!どうぞご自由にお呼びください!あの……よろしくお願いします!」
「……こちらこそよろしくお願いいたします」
ウィリアムは今度こそ誰が見ても文句の付けようがない笑顔を作ることに成功した。


王は手に汗を握った。
息子が妙な靴を持ち出して妙なことを言い、妙な女を連れてきたのが昨夜。
もはや相手は誰でもいい。とにかく名前を挙げさせることが先決だ。……とは思っていたものの、皇太子妃の座につけるにはあまりに不似合いな女だったので、なんとか理由を付けて追い出してやらねばと考えていた。
そこで早速女の部屋を訪れてみたのだが、ノックをしても返事がない。
こほんと一つ咳をして失礼、と扉を開けてみたらば、誰もいない。
王は首を傾げ、天気がいいのに気が付いて、久しぶりに庭園を散歩してみることにした。
整えられた緑と果てのない青の鮮やかなコントラスト。
噴水の水が日の光を反射してキラキラと輝いている。
そこで、妙なものを見た。
「……あー、そなた、何をしておる?」
そこにいるのは確かに息子が自分の妻にするとして連れてきた女だ。
名を、シンデレラと言った。
シンデレラは庭の隅にしゃがみこんで黙々と草をむしっていた。
「おはようございます王様。草むしりをしております」
たらこのような唇からそのままの答が返ってくる。
「そうではない。何故そのようなことをしておるのかと聞いておる」
「あ、申し訳ありません。草むしりをするよう申しつけられましたので、草むしりをしております」
シンデレラは深々と頭を下げた。
か細い声は少しの疑問をも含んではいない。
対して王は疑問だらけだった。
側仕えは一体何をしているのか、女の着ている服はぼろぼろ、髪もぼさぼさで、見るからにみすぼらしい。
彼女がすべきことは草むしりではない。その容姿を磨く努力と、礼儀作法その他諸々の勉強である。
良い方向に目をひくものなど何一つとして持ち合わせていないこの女をただの貴婦人ではなく皇太子妃にまで仕立て上げるにはいくら時間があっても足りないだろうに、薄汚れた手は再び草をむしろうとしている。
「そなたはウィリアムの婚約者にと連れてこられたのだ。それは庭師の仕事ぞ!誰が申しつけた!」
王は声を張り上げた。
「……あ、あの、私……確かにあの靴をはくことはできました。ですが、王子様の婚約者になれるなどとは考えておりません。……私は見ての通り、器量の悪い女です。王子様の隣りに並ぶにはふさわしくないと承知しております。身寄りもございませんので、……こうしてお城で使っていただけるだけで幸せなんです。お気になさらないでください。……あの、ありがとうございました」
シンデレラは控えめながらもはっきりと告げた。
うつむきがちにもじもじと、それでも要所要所で目を合わせる。そこには伝えようとする意志と、しっかりとした決意がある。
王は何も言うことができなくなってしまった。
シンデレラの言う通り、ウィリアムの婚約者としては見栄えが悪い。
それだけではない。
気性が人の上に立つのに向いていない。皇太子妃の名の重みだけでつぶれてしまいそうな女だ。
しかし、しかし、
しかしである。
「シンデレラ!そのようなことを言うでない!そなたは確かにウィリアムに望まれてここにおるのだ!堂々としておれ!」
見ているとどうしてもむずむずしてくる。背筋をしゃんと伸ばしてやりたいような、そんな衝動に襲われる。
「そなたにはウィリアムに選ばれた誇りはないのか?あれをいとうか」
「と、とんでもございません!……ウィリアム様は素敵な方です。……お慕いするのも畏れ多いほど雲の上の御方なのです。私は……望まれたのではなくて……ただ、偶然の巡り合わせだったのだと思います。分不相応な幸せを手に入れようなどとは思いません」
王はもどかしくて歯がゆくてどうにもならなくなってきた。
「でも……王様に力づけていただくなんて、とても素敵な経験をしました。私は十分、幸せすぎるほど幸せです!」
シンデレラの力無い笑顔が無性に腹立たしい。
「……そなたに草むしりを申しつけたのは誰か!」
拒否を許さぬ声で怒鳴れば、シンデレラはそっと微笑み、ゆっくりと首を横に振った。
「……いけません。王様、その方をどうされるおつもりですか?私はこのお城で、頑張って働きたいと思っています。その方は何も悪いことなどしておられません」
儚げでなお力強い、優しく諭すような微笑みに、王は……
「シンデレラーっ!案ずることはない!わしが!絶対に!そなたをウィリアムの妻にしてみせる!」

落ちた。

号泣し、ずびずびと鼻をすすりながら息子の部屋にダッシュする。
その頭からはシンデレラを追い出そうとしていたことなどすっかり抜け落ちていた。

かくして王子ウィリアムの部屋。
勢いよく扉を破って転がってきた父親を見事にキャッチしたウィリアムは、その第一声を聞いて困ったように微笑んだ。
「……『明日にも式を挙げろ』とは、いくらなんでも無茶な話です。まだ何の準備もできていないのですよ?どれだけの者が悲鳴を上げるか」
「誰が命じたか、シンデレラは草むしりなどさせられておるのだぞっ!」
涙と鼻水びっちょりの顔で迫られ、思わず眉をひそめる。ウィリアムは布巾を放り投げて数歩後ずさった。
「……それは、可哀想だとは思いますが、どうしようもないことです。考えてもみてください。シンデレラは異例の選ばれ方をした平民です。民衆は喜ぶかもしれません。しかし貴族は……?城内の者は?シンデレラが大きな反発に出会うことは当然予想されます。ですが、それは彼女自身が乗り越えていくしかありません……。私や父上が何かしても逆効果ではないでしょうか」
「あれはおまえが連れてきたのだぞっ?草むしりなどさせられておってはそれこそ逆効果ではないか!……わしとて、すぐに式ができるとは思っておらん。そのくらいの態度を示せというのだ!……おまえの妻ぞ。おまえが守らずして何とするっ?」
王は大きく床を鳴らした。
本人は分不相応がどうとか言っていたが、シンデレラを選んだのがウィリアム自身であることは紛れもない事実だ。それも随分と奇妙な選び方だった。あんな方法をとったのもシンデレラこそを妻に迎えたかったからではないのか。なのに城に招き入れた途端その手を離すとは、あまりに薄情というものだ。
一つ、息を吐く。
「……ウィリアム、おまえに非の打ち所のない貴婦人を宛うのはそれほど困難なことではない。だが皇太子妃となる者に最も必要なのは整った容姿や洗練されたしぐさ、卓越した知識などというものではない。……参加に制限のない舞踏会を開こうとしたのもそのためだ。おまえがシンデレラを選んだのは……望ましいことといえる。先行きが不安だという点では……わしにとっては頭の痛いことだが……おまえ自身が求めたというのは何よりも望ましいことではあるのだ。だが……『皇太子妃』として選ぶということがどういうことかわからなかったわけではあるまい?それでもあれを選んだというのなら、おまえが育て上げてやれ」
ウィリアムは重々しくうつむいた。
「……手取り足取りというわけにはいかないでしょう。突き落とすのも教育のうちですよ。……そこからのしあがれないのであれば私の妻にはなれません」
王は息子を罵ってやりたかった。
シンデレラの指は泥と草と血の色に染まっていた。
あれは下働きの手だ。
選ばれた身であるにもかかわらずあれほど気弱な発言を見せるのも、ウィリアムに責があるのではないか。
しかし、罵声は音になる前にかき消えた。
「……そう、だな。あれは『皇太子妃』としてここに来た。それは正しいことなのかもしれん。誤っているとは、言いきれんな。……ウィリアム、おまえは……いや……、いい」
ウィリアムが片眉を上げるのに、王は眉間にしわを刻んで視線をそらす。
「……わしはあれが気に入った。他も、すぐ気に入る」
「……ええ、父上が心配されるようなことは何もありませんよ」
ウィリアムは目を閉じて笑った。

その頃シンデレラは王と入れ替わりでやってきた王妃と向かい合っていた。
「率直に言いましょう。出てお行きなさい。あなたはあの子にふさわしくありません」
多くの民が額を土に付けて控えるであろう威圧感。虫けらを見るような目で王妃が言う。
「城に置くのも汚らわしい。あなたはここに何をしに来たのです。王家の名を汚しに来たのですか」
シンデレラは震えていた。
「……下賤の身であることは、……承知しております。もとより王子様と結ばれるなどとは思っておりません。あの……でも、私……この城で下働きとして働くことは、許していただきたいのです。行くところが……ありませんし、お城で働くことは……、夢のまた夢のようなことですから……」
か細い声は消えそうにかすれ、今にも嗚咽をもらしそうだ。
王妃は鼻で笑った。
「哀れと思わせて居座る魂胆ですか。小賢しい知恵を働かせて。この城にあなたを置く場所などないと言ったでしょう」
「で、ですが……っ、出て行けとおっしゃったのは王妃様だけです……っ」
生意気にもはむかってくる様子に柳眉をすっとつり上げる。
「今、私に口答えをしましたか?愚かな。ウィリアムも、あの人も、城の者たちも、口に出さないだけで皆あなたを疎ましく思っていますよ。見苦しいぼろ雑巾のような女が皇太子妃と呼ばれるのを微笑ましく見る者がおりますか」
「私は……っ……本当に、お城で働かせていただくことだけが望みなんです!ガラスの靴をはくことができて、夢見るような気持ちでここまで来てしまいましたけど、私のような女が王子様と結婚なんてできるはずないってこと、考えなくてもわかることです。……ですから、どうか、ここで働かせてください!」
シンデレラの顔が今度こそ泣きそうに歪んだ。
開いているのか閉じているのかわからない目をいっそう細くしている。
たわいない小娘。
あともう少しつついただけで容易く崩れ落ちそうな、皇太子妃にふさわしいところなどまるで見当たらない娘。
ウィリアムがどうしてこの娘を選んだのかまったく理解できない。
子どもが過ちに気づかぬときは、正してやるが親の役。
「……そう、ならばどのようなことでも耐えられますね?あなたはここに働きにきているのだから」
王妃は艶やかに微笑んだ。
「も、もちろんです」
返された答にますます笑みを深くする。
「いいでしょう。存分にここで働きなさい。雑巾が雑巾として動くのであれば誰も気にとめはしないでしょうから。用途にあった使い方をしてあげます。城中の床でもお拭きなさいな」
散々にこき使ってやればすぐにも根をあげて逃げ出すだろうと、早速シンデレラに仕事を与えた。


しかしシンデレラはよく働き、不満をもらすこともなく、下の者から次第に上の者へと、城一番の働き者として誰もに認められていった。

「そろそろ公な動きを見せてもよいのではないか」
「……まだですよ。シンデレラは下働きとして認められただけですから。皇太子妃として認められたわけではありません」
王の顔はほころび、ウィリアムは苦笑して首を振る。
「シンデレラ、あなたの磨いた床は見苦しくてなりません。やり直しなさいな」
王妃はシンデレラの仕事に次々とケチを付けていく。
城に仕える者たちの間ではこんな会話が飛び交うようになった。
「シンデレラって実は皇太子妃候補なんだろ?」
「はぁ?」
「ガラスの靴だよ!あれで選ばれたのがあの子なんだって」
「ありゃデマだろう。皇太子妃候補がなんで下働きするんだい」
「デマじゃないさ!私の娘も試したんだ。あの子が来た時期も合うし、本当に候補なんだと思うけどね。ほら、王妃様はあの子にだけひどく当たるだろ?何か理由があって下働きしてるけど、いずれはあの子がウィリアム様のお隣りに並ぶんだよきっと」
「だーからなんで下働きしてんのさ」
「知るもんかい、本人に聞きゃあいいだろ」
「シンデレラー、あんたちょっと聞きたいことがあるんだけどさーっ」
シンデレラは何も言わず、ただ働いていた。


偶然その場に通りかかって、ウィリアムは踵を返すべきか否か数秒迷ってしまった。
やっと足を動かそうとしたところでちょうど雑巾を絞り終えたシンデレラと目が合った。
どんな顔をされるのかと思えば、シンデレラは立ち上がり、スカートの端を摘んでお辞儀をした。
そしてまた何事もなかったかのように仕事に戻る。
雑巾をつかむ指は赤い。拭いた端から掃いていくスカートの裾は擦りきれ、黒ずんでいる。
正面から顔を合わせたのは初めて出会ったあの日以来数十日ぶりのことだったが、彼女の視線はひたすら床に注がれていた。
ウィリアムにはシンデレラがまったく理解できなかった。
恨みがましい目で見るか、涙の一つでもこぼしてみせるのかと思っていたのに。
女が何を考えてここにとどまっているのか、知っておく必要があると思った。
「……シンデレラ、あなたは人を、私を恨むということをしないのですか?あなたは皇太子妃として連れてこられたのに……そうして毎日床を磨いてばかりいる。話が違うと憤ることはないのですか」
シンデレラは細い目を見開いて不思議そうな顔をした。
「あ……すみません。声をかけてくださるなんて思わなかったので……。あ、あの……恨むなんて、とんでもないことです。私は私にふさわしい幸せをつかむことができたと思っておりますし……最初から、わかっていました。一瞬でも夢を見ることができてとても嬉しかった……。それで十分ですから」
たらこのような唇から奏でられる声は可憐で、紡がれた言葉は……大人しくて控えめで、気弱な感じがする。
笑っているのか違うのか、ますます目を細くした。
ウィリアムは心底不愉快な気持ちになった。
あれから何度も例の洞窟を訪ねたが、いつ行っても魔女に会うことはできなかった。
夜逃げ、と見なしてもいいであろう。
自分が投げた言葉そのままの女を残してとんずらしてしまった。
一体どういうつもりなのか。これが客の幸せを望んだ結果だとでもいうのだろうか。
これを相手に恋をしろと?
今頃は魔法で高見の見物でもしているのかもしれない。
それこそ『退屈しのぎ』に。
「……私の妻になるつもりがないというのなら、あなたは何故ここにいるのですか?」
ウィリアムはわずかに首を傾け、唇で弧を描いて尋ねた。
シンデレラの頬が紅潮する。
「あ……の……、おそばに……仕えさせていただくことくらいは……許されるかと思ったのです」
ウィリアムは静かにまぶたを伏せた。
音もなく息を吐き出し、にっこりと満面の笑みを浮かべる。
「そうですか。お仕事『ご苦労様』です。あなたはとても働き者だと評判になっていますよ。頑張ってくださいね」
そのまま踵を返そうとすると、シンデレラが慌ててお辞儀をした。
ぼろぼろのスカートを摘む荒れた指先。空間にほこりを散布するぼさぼさの髪。それでも物腰さえ優雅ならばなんとか見られるのかもしれないが、見よう見まねで覚えたらしいお辞儀はひどく不格好で、雑巾が物乞いをしているようにしか見えなかった。
「私のことなどを気にかけてくださって、ありがとうございます……っ」
折りたたまれたぼろ布は勢いよく顔を上げるとたらこ唇を大きく開いてそう言った。
ウィリアムはマントを翻し、ちらりとも振り返らなかった。

報われずとも想い続けたいというのは常套句の一つだ。
見ているだけでいい。そばにいるだけでいい。多くは望まない。
ならば胸の奥深くに封じこめていればいいものを、自らを謙虚だと思っている女に限ってわざわざ宣言してくる。その言葉一つがどれほど不快なものか、これっぽっちも気が付かない。
煩わしい。
こうして何気なく歩いている間に時が加速してくれたらいい。あらゆる雑事を飛び越えて終末までの日数をあくびしながら数えるような、春の夢のような暮らしがしたい。
そう思った端から厄介事が訪れる。

「ウィリアム!」
先刻シンデレラが磨いたばかりの床に高い踵の音が響いた。
「はい、なんでしょう母上」
「あなた、舞踏会を開く気はないかしら。中止してしまったものの代わりに」
王妃はさも妙案といったように指を立てた。
一瞬で言葉の裏を読み取り、ウィリアムは内心で顔をしかめる。
母はシンデレラが気に入らないのだ。
シンデレラにきつく当たる母の様子は下の者たちの間でこっそりと噂されていた。父はその手のことに疎いので気づくまでにかなりの時間を要するが、自分の耳にはすでに届いている。
ようするに、選び直せということだ。
「しかし母上、今開いてしまっては誤解されましょう。私にはすでにシンデレラがおります」
そっと苦笑してみせれば、王妃はあからさまに不機嫌な口調になった。
「あれは下働きです。本人も納得済みのこと。あの人は何を思ってか妙にあれを気に入っているようだけれど、皇太子妃にふさわしくないことなど、一目でわかるでしょう」
息子である自分だからこそ『険のある口調』だとわかるが、他の者にはせいぜい『迫力が増した』くらいにしか感じないだろう。
一片の隙もない笑顔。
こういうところは自分と似ているとウィリアムは思った。
王妃は笑顔を崩さないまま、語調だけを心持ち強くした。
「……あの人が……陛下が、どういうおつもりなのか私にはよくわかりません。どうしてあなたの相手を見つけてくださらないのか……。けれど、……ウィリアム、あなたは王子。王家の血の尊さはわかっていますね?端女に心惑わすなど、決して許されないこと。後世のためより良き血を残すことはあなたの義務です。ゆめゆめ忘れてはなりません」
「……重々承知しております。ですが、シンデレラはすでに選ばれたのです。彼女の名はガラスの靴の話と共に少しずつ広まりつつある。……彼女の今後を思うと……哀れです」
拒否を許さない絶対の響きに、ウィリアムはそっと視線を外す。
王妃は音を立てて嘆息した。
「……ウィリアム、あなたは優しい子。母の誇りです。けれどその優しさは誤りです。王子たるもの優しければいいというわけではないのですよ。もっと広い視野を持ちなさい。一時の憐憫がどのような結果をもたらすか、よく考えることです。常に立場をわきまえなさい。自覚が足りないのではありませんか」
「申し訳ありません……」
「謝罪と共に自身の価値が下がることを知りなさい。さらなる過ちを犯さないよう努めるのです。いつでも裁く立場にあるよう努力しなさい。……あなたにとって優しさは諸刃の剣。正しく行使する判断力が必要です。……今回は私が名を貸しましょう。舞踏会に訪れた娘たちから申し分のない貴婦人を数人見繕いますから、その中の一人を娶りなさい」
王妃はウィリアムの返事を待たずに再び踵を鳴らして去って行ってしまった。

いない。
ここにもいない。
どこを探してもいない。
必要としていないときはそこらに転がっているのに、いざ必要となればどうにもこうにも見つからない。探し物とはそういうものだ。
もっとも、今回は『探し人』だが。
ウィリアムは険しい目つきで辺りを見回した。
回避に成功したと思われた舞踏会の再来襲が決定してしまった。
母の目論見は読めている。
訪れた娘たちの中から見繕うなどと言っていたが、すでに気に入りの令嬢を用意してあるに違いない。婚約者選びの舞踏会とは名ばかり。ただの見合いの席だ。父を納得させるために名を借りただけにすぎない。出てしまえば最後、『非の打ち所のない貴婦人』とやらと無理やり婚約させられてしまうだろう。
しかし舞踏会を中止させることはできない。少なくとも後に問題のない方法は思いつかない。
となれば、もはや道は一つ。
シンデレラを誰もが認めるレディに磨き上げることだ。
容姿はどうにもならないかもしれないが、身のこなし、気品、気迫、知性、などなど、他の多くが抜きん出ていればなんとかカバーできる。幸いどれも訓練の効く要素ではある。性格は父が気に入るほどだし、皇太子妃としては問題であろう点も、立場に合った扱われ方をすれば次第に矯正されていくものだ。後は自分さえ他の娘たちに興味を示す素振りを見せなければいい。懸念される点は皇太子妃として扱われた彼女のその後だが、あの気の弱さならどうすることも容易いだろう。
しかし。
「……それは……、おめでとうございます。あの……選び直す、ということですよね?……今度こそ王子様にふさわしい方が見つかるとよろしいですね。……せっかくのお言葉ですが、私は舞踏会の席には似合いませんから……ドレスの仕立ても、ダンスの稽古も結構です」
ようやく見つけたシンデレラは消えそうな声でそんなことを言った。
「……あなたはいつもよく働いておられるから、こんなときくらいは思う存分楽しんでみてはいかがです?」
どれだけ優しく微笑みかけても、躊躇いがちにうつむくばかりで。
「あ……ありがとうございます。でも……いいんです。私の名は……知る人には知られておりますでしょう?そのような場に出てしまっては王子様にご迷惑がかかると思いますし、……私も、どうしたらいいのかわかりません。……私のことは気になさらないでください。……どうか、お願いです」
ぺこりと頭を下げて床の上の雑巾に手を伸ばす。
赤い指先が話を振り切る寸前に、ウィリアムはその手をすくいとった。
「……シンデレラ、私は『夢ではない』と言いましたね?あなたは選ばれたのです。この私の、婚約者なのですよ?大きな声では言えませんが……あなたに下女の真似をさせているのもやがては皇太子妃として迎えるため、周囲を納得させるためにやむなくしていることです。……そばに仕えるだけでいいなどと、あなたが口にする言葉ではないのですよ。……もっとも、こんなにも指を荒れさせて、こんなにも苦しい思いをさせてしまった私のことなど……とうに嫌いになってしまわれたかもしれませんが」
にっこりと笑みを浮かべ、仕上げに小さく眉をひそめる。寂しげな吐息をもらすことも忘れない。
シンデレラはますます下を向いたが、その耳朶は炎のように染まっていた。
「嫌いになるなんてっ……そんなこと……こうして王子様とお話しできるだけでも、……身に余る幸せだと思いますのに……。でも……私はガラスの靴をはいただけで……それに……皇太子妃だなんて……考えるだけで無理だってわかりますし……舞踏会はとても素敵だけど……素敵ってだけでは、参加しちゃいけないと思ったり……」
床を見つめたまましどろもどろにつぶやく。ひどく混乱しているが、矢印の方向は決まっているようだ。
「私はっ……今のままでっ、幸せで……っ……だから、声をかけていただいて、とても嬉しいんですけど、でも……っ」
らちがあかない。
あるいはもう一押しすればなんとかなるのかもしれなかったが、それはそれで面倒なことになりそうだった。
ウィリアムはひとまず他人の手を借りてみることにした。

王様登場。
「シンデレラ、舞踏会に出るのだ。今度の舞踏会はそなたのお披露目なのだぞ。主役が出ずになんとする?」
王はシンデレラの両手を握りしめ、目と目を合わせて訴えかけた。
「えぇっ?そんな……でも……」
「何を躊躇うことがある。衣装は用意する。ダンスもマナーも最高の教官をつけよう。心配することなど何もない」
シンデレラは小さくなって瞳をそらす。
「でも……私、王子様の婚約者として見られてしまうのでしょう?きっと……みなさんにひどいご迷惑をおかけします。それなのに……」
いかにもな言葉だったが、王は、ん、と顔をしかめた。
婚約者として見られてしまうも何も、婚約者として城にいるのではないか。
下働きをしているうちに忘れてしまったのか。いや、以前から自分の立場を認識していないような感じではあった。草むしりなどさせられていたから実感が持てないのだろうと思っていたが……。だが思えばシンデレラはあれから毎日床を磨くばかりだったのだ。未だに実感が持てずにいるのも頷ける。
ならば持たせてやらねばなるまい。
いくら自分がシンデレラを気に入っていても、本人にそのつもりがないのではどうしようもないのだから。
「そなた、やがてつく立場を恐れるなら何故ここに来た。幸福を求めたからではないのか?ウィリアムを好いておらんわけではないのだろう?何故」
「だって!……私は……王子様にふさわしくありません」
言葉を遮って何を言うのかと思えば、泣きそうな声でつぶやかれ、王は怒りに顔を赤くした。
「何を言うか!そなた、悪いのは器量ではなくその性根ぞ!……先の心配より今の努力をするがいいっ!そなたは消極的に過ぎる。過ぎてはもはや美徳ではない!」
今回の舞踏会は今までずっと下働きとして扱われていたシンデレラがウィリアムの婚約者たる地位を確保する絶好のチャンスなのだ。
それをふさわしくないだのなんだのと……確かに自分も最初は彼女を追い出そうとした。シンデレラが皇太子妃としてやっていけるとはとても思えなかった。
しかしシンデレラにはシンデレラの良さがある。
ほだされた、のは確かだが、それだけで肩を持っているわけでもない。
あれだけ縁談を無下にしていたウィリアムが唯一、自分から選んだ女性が彼女なのだ。
それはある意味で皇太子妃の絶対条件だともいえる。
「……そなたを責めたかったわけではない。……わしはそなたを気に入っておる。だが、もう少し……積極的になるのだ。自信を持つがいい」
王は自ら幸せと遠いところにあろうとするシンデレラを光の下まで導いてやりたかった。それが息子の幸せにも繋がるのならなおさらのこと。
シンデレラは困惑した様子で唇をうっすら開いたり閉じたりしていたが、やがて深くうつむくと、こくりと頷いて顔を上げた。
「……王様……。はい。……はいっ!ありがとうございます。……私、頑張ります!」
長い雨の後ようやく日の光を得た花のように笑う。
王は目を細くした。
初めて見る全開の笑顔は寂しげに歪んだ表情よりずっと似合っていた。糸目も団子っ鼻もたらこ唇もどれもみな可愛い。
娘がいたらこんな感じだろうか。
そんなことを考え、舞踏会が成功すればやがては紛れもない娘になるのだと気が付いて、思わず苦笑した。
そうだ、息子の妻ということは、自分の娘でもあるわけだ。
今の今まで気づかなかった。
「……ああ、頑張れ。……おまえのために、いくらでも力になろう。……『皇太子妃』のことはひとまず忘れよ。何よりウィリアムのことを考えておればよい」
ついつい頬が緩む。
少々くすぐったかったが、悪くはなかった。

「早速ドレスを仕立てさせよう。……おいで。すでに仕立屋を呼んでおる」
シンデレラの手を引いて回廊を進む。しばらくすると、前方に二人の息子の姿が見えた。
ちょうどいいタイミングである。
シンデレラをウィリアムに任せようと、声をかけようとしたらば。

「なんで僕を怒るのさ!悪いのは大臣だろっ!ぐちぐちぐちぐち、嫌味ったらしくて、僕が何をしたってわけでもないのにさ!」

幼い声が激しく響いた。
何やらもめているようだ。
王は眉間に小さなしわを寄せた。
第二王子のロイドはまだ九歳。年の離れた兄弟が理解し合うのは難しいのか、こういった光景を頻繁に目にする。
といっても、
「……確かに大臣にも問題はあるが、ロイド、おまえの口は悪すぎるんだ。……大臣はあれでも心配しているのだから、もう少し柔らかい受け止め方を……」
「心配される覚えなんてないね!」
弟の方が反抗期なだけなのかもしれなかった。
自分が出て黙らせるのは簡単だが、それでは収めたことにはならないだろう。
シンデレラと頷き合い、会話が収束するのを待つ。
「兄様が大臣の味方をするのはその方が角が立たないからだよね!僕みたいな子どもの味方をしても何にもならないから、だからだろ!したり顔で説教するな!」
「そんなことは……」
「だいたいさぁ、心配されるなら兄様の方じゃないの?何さ、あれ。あの女。シンデレラ、だっけ?」
王の眉がぴくりと動いた。
「あんな汚い下女のどこがいいわけ?この前偶然出くわしたら、ただ会釈するだけで気の利いた挨拶も何もない。あんなおどおどした皇太子妃見たことないよ?」
辛辣な言葉は続く。
「知らなかったよ。兄様って趣味悪かったんだね!本気であの女と結婚するつもり?僕は嫌だね。あんなのを義姉様って呼ぶはめになるなんてぞっとする!兄様が信じられないよ」
大人しく聞いていたウィリアムは、ロイドの頭にぽんぽんと手を置いて疲れたように苦笑した。

「……私は結婚しないよ。シンデレラは手違いだ。私の趣味でも何でもない」

静けさが回廊を行き渡る。
ロイドは言葉をなくしていた。
王も思わず目を見開いて立ちつくす。
シンデレラはウィリアム自身が選んだのだ。ある日突然奇妙な靴を持ち出してどこからか連れてきた。それは紛れもない事実。
自分で選んだのだから、当然結婚するつもりのはずだ。
現に舞踏会の話を持ってきたのはウィリアムだったではないか。
シンデレラを公にさらすためにと。
王ははっとして背後を振り返った。
そこには誰もいなかった。
せっかく初めて明るい顔を見せたというのに、ショックで駆け出してしまったのだろうか。どんなに傷ついて……
そう思ったとき、視界の反対側からシンデレラの声がした。
すなわち、ウィリアムとロイドのいる方向。

「では王子様のご趣味は気の利いた挨拶ができておどおどしない女性ですか?」

めったに見られないウィリアムの呆然とした顔。
つま先立ちでそれを見上げるシンデレラ。
その態度はあっけらかんとしていて、怒りも悲しみも感じられない。表情にはむしろ面白がっているような色がある。
ウィリアムは暫時固まっていたが、一度ゆっくりと瞬きすると、小さなため息をついた。
「……ええ。本当は、あなたとは正反対な。……明るくて……積極的で、強気で。……遠慮など知らないような、そんな女性が理想なんです。ですがそれはあくまで」
「わかりました!明るくて積極的で強気で遠慮なんか知らない女ですね!」
シンデレラは頷いてにこやかに笑った。
またしても行き渡る静けさの中を、気にもとめずに歩いていく。
立ちつくす三人をすり抜け、元いたところまで戻ると、
「王様、私明日から明るくて積極的になりますね。自信も持ちます!」
妙に弾んだ声でそう言った。


そして翌日。
礼儀作法のレッスンを受ける未来の娘のもとへと訪れた王を、

「あっ、王様だ!心配してきてくれたんですかー?わーい!ありがとっ!王様優しいから大好きー!でも心配いりませんって!こんなのちょろいちょろーい。まっかせてちょ!」

なんだかすっかり変わり果ててしまったシンデレラが出迎えた。

「シ、シンデレラ……?おまえ……」
「え?なになに?あっ、わかった。みんなと同じこと言うんでしょ!王様だって王子様だって積極的になれっておっしゃったじゃないですかー。王様はプラス自信を持て。王子様はプラス明るくて強気で遠慮なんか知りませーん。というわけで、なってみましたー!じゃんじゃんっ」
「……なって、みました……とは……。じゃんじゃん?」
「もしかして今さら冗談でしたとか言いませんよねー?王様ひどい……っ、私をもてあそんだのね!ひどいひどいひっどーい!ひどすぎーる!」
「……い、いや……」
一国の王さえもたじろがせるこの勢い。
昨日までのシンデレラはどこへいったのか、別人としかいいようがない。
脂汗をかきまくる王を見て、シンデレラはうつむき、小さな声で囁いた。
「王様は……今日からの私は嫌いなんですか……?」
以前の面影をほんの少しだけ宿した言葉に、昨日の出来事を思い返し、王は……
「馬鹿なことを言うでない!嫌いなどであるものか!わしはおまえを娘のように思っておる!ウィリアムがあのようなことをほざきおって、やはりショックだったのだな、そうなのだなっ」

落ちた。

号泣し、ずびずびと鼻をすすりながら息子の部屋にダッシュする。
その頭にはシンデレラの力になってやりたいという思いしかなかった。

かくして王子ウィリアムの部屋。
勢いよく扉を破って転がってきた父親を見事に避けたウィリアムは、その第一声を聞いて大きなため息をついた。
「……『シンデレラが壊れた』?どういうことですか?よく意味がわかりませんが……」
「ひっどーい王様。壊れてませんよー!ちょーっと変わっただけですっ!ポンコツみたいに言われてなんか嫌ー!」
落ちる沈黙。
「いつ入ってきたのですか……っ」
ウィリアムはいつのまにか王の隣りにしゃがみこんでいたシンデレラを、信じられないものを見る目で見つめた。
「王子様がため息ついてる間にささーっとお邪魔しちゃいました!王様また急に走り出すから、今度はついていっちゃおーっと思ったの!王子様、こんちは♪」
ますます目を見開く。
信じられない。

誰だ、これは。

(見よ、壊れておるではないか)
王が送ってきたアイコンタクトにかくかくと顎を動かす。
まさか。
昨日の一言が原因でこんなことになってしまったというのだろうか。

何故?

ウィリアムは驚きがすーっと冷めてくのを感じた。
一つ、ため息をつく。
「なるほど。……父上、申し訳ないのですが、……シンデレラと二人で話をさせていただきたいのです」
「うむ、よぉーっく話し合うのだぞ」
王は神妙に頷いて部屋を後にした。

ウィリアムは窓辺に腰掛け、外の景色を一望した。
今日も鬱陶しいほど天気がいい。
街の様子はもちろん遠くの森まではっきりと見渡せる。
あの緑を越えたところには土に埋まりかけた小さな洞窟があるが、今行っても誰もいないのだろう。
思えば魔女などという存在をあてにしたのがそもそもの間違いだったのだ。
「……周到なことだ。すべては演技だったというわけですか。……シンデレラ、あなたはそこまでして私の妻になりたいのですか?」
「はい!内向的な方が王子様の好みにマッチしてるかなーと思ったんですけど、全然違ってたみたいで。せっかく板についてきたところだったのにちょーっと残念かな?でもイライラすることも多かったからいっかー。ちなみに演技じゃなくて、努力と言ってね!未来の旦那様♪」
シンデレラは悪びれもせずに笑っている。
ウィリアムは底冷えのする眼差しを向けた。
「……名か、財か、何が目的かは知りませんが、私があなたになびくことはありませんよ。早々に諦めていただけませんか」
シンデレラはまったく怯まず、両手の指を組み合わせて口元に当てた。可愛いつもりか、首を傾けてウィンクなどしてみせる。
「きゃあ素敵♪一筋縄ではいかないって感じで俄然盛り上がっちゃいます♪」
ウィリアムは怒りを感じる前に脱力した。
これまで何人もの女をことごとく払いのけてきたが、さすがにこういうタイプは初めてだった。
いくらなんでも、あからさますぎるだろう。
「……好いてもいない男のもとによく嫁ぐ気になれますね」
存分に侮蔑をこめて言えば、シンデレラは楽しそうに口角を上げた。
「あれ?あれれ?やだなぁー、王子様ってば。私はこーんなに愛してますのに!」
呆れて何も言う気がしない。
「……いやいや、ホントですって。ホントホント。王子様ー大好きですー」
よくもこれだけ見え透いた嘘がつけるものだと、いっそ感心する思いで嘆息する。
わかりやすかろうがにくかろうが、不愉快なものには変わりがないが。
「……どうでもいいですが、言いましたね?私がなびくことはありません。あなたがここに居座っても……時間が無駄に過ぎていくだけ。城を出ていただきましょう」
シンデレラは小さく吹き出した。
「や・だ。言いましたねー?俄然盛り上がっちゃうんです。お城で働くのはとーっても楽しいし。王子様は愛しちゃってるけど王様もかーなーり好きだし。王妃様から逃げ出したくないし。そ・れ・に。忘れたんですか?王子様。私なしで舞踏会をどうやって乗り切るんです?さぁ、よーっく考えよう!大勢の女の子対私一人。相手にするのはどっちが楽でしょうっ?」
ウィリアムは歯がみするしかなかった。
昨日は気弱な薄ら笑いを作っていた糸目が今日は底意地悪い企み顔を構成する。
誰だ、これを覚醒させたのは。
頭痛がする。
違うのだ。昨日はあまりに『大人しくて控えめで気弱』な様子が腹立たしかったので少々当てつけのつもりで言うだけ言った。もちろんすぐにフォローを入れるつもりで。実際はその前に遮られてしまったが、まさかこんな結果になるとは思いもしなかったのだ。
こんなことなら……どんな魂胆が秘められていようと『大人しくて控えめで気弱』なままの方がよかった。
「それじゃ早速礼儀作法のレッスン受けてきまーっす♪」
勝ち誇った顔で笑うシンデレラが心底いとわしかった。


ロイドは床を蹴りつけて進んでいた。
大臣や兄に見られたらまた説教を食らうだろうが、だからといって正す気にもなれない。
頬を膨らませ、唇を尖らせて前方をにらみつける。
そこには鼻歌を歌いながら床を磨くシンデレラがいた。
シンデレラを見かけるとき、彼女はたいてい床を磨いている。
使用人は一人ではない。城の床にほこりがたまることなどないのに、やり直しを命じられたからといってピカピカの床を何時間もかけてさらにピカピカにしているのだ。
馬鹿じゃないのか、と思う。
相手が王妃だろうと、理不尽なことを言われたら言い返してやればいい。
良い子ぶって大人しく言いなりになって……内心で恨み言をつぶやいていないわけはないのに、外面ばかり取り繕ってどうするというのだろう。
「おい」
声をかければすぐに顔を上げ、慌てて立ち上がってまた下手な礼をする。
気の利いた挨拶も何もない……と思えば。
「ごきげんようロイド様!今日もとーってもいいお天気ですよね!こんな日は庭園のお散歩とかしちゃいたいですね!王様も前にしておられましたよ♪」
ロイドは目を丸くした。
この女はこんなに活発な話し方をしていただろうか。こんなに明るく笑いかけたか?
会話を交わしたことはなかった。だからよくわからないが、先刻父が『シンデレラが壊れた』と叫んで殴りこんできた理由だけはよくわかった。
躊躇いつつ口を開く。
「……父様が、おまえに謝れってしつこいから……来てやった。……昨日は悪かったね!間違ったことは言ってないけどね!……ふん」
シンデレラは大声を上げた。
「きゃーっ!ロイド様ってば可愛いー!素直じゃないー!小生意気ーっ!最っ高っ!はいはい、怒ってないでちゅよー安心してくだちゃいねー♪」
「な……っ、おまえ僕にケンカ売ってるのっ?下働きの分際で、こんな無礼な女見たことないよ!」
怒りを露わに怒鳴りつけても、
「違うでしょーロイド様、下働きじゃなくて義・姉・サ・マ!」
と頭をなでられる。
屈辱に血が上った。
「僕は認めないよ!おまえみたいな女が兄様と結婚なんてっ」
頭を下げることしか知らない気弱な女も嫌だが、人を小馬鹿にしてはばからない無礼な女も嫌だ。
そもそもその激変に納得がいかない。
いくら変わろうと努めたからといって、一日やそこらでこうも人格が変化するものだろうか。
明らかにおかしい。
こんな女のどこがいいのか。
昨日あれから父につめよられた兄は「もちろんシンデレラを娶るつもりではありますが、彼女に対する評価が不安定なこの時期に廊下でそう公言するのもどうかと思い……まさか本人が聞いているとは思わず、とっさにああ言ってしまったのです」とか、「彼女なら舞踏会当日には誰もに皇太子妃として認められているに違いないのですから、……私が気にしすぎていたために……ひどいことをしてしまいました。……すぐに詫びて参ります」とか言っていたが、自分には『とっさの一言』の方がよっぽど納得できた。むしろあれこそが本音だったのではないだろうか。
そうでなければだまされているのだ。
「あらあら、ロイド様はお兄様が大好きなんでちゅねー」
シンデレラは微笑ましいとでも言いたげな顔で笑っている。
ロイドは思う様ねめつけた。
「違う!嫌いだあんな奴っ!」
薄汚れたスカートをひっつかんでその腹に拳を打つ。
「あんな……」
いつも優しくて、どれだけ挑発しても手を上げるどころか怒鳴ることさえなくて、およそ欠点というものが見当たらない。
「……その辺にうろついてる奴を数人捕まえて兄様について聞いてみなよ。そろって同じことを言うよ。優しいだとか温厚だとか……それでいて優柔不断なわけでもない。やるときはやるしっかり者?みんなさ、みんなそう言う。おまえもそう思ってるんだろ?気持ち悪いったらないね!」
みんなに信頼されて、誰からも非難されることがない。
「あんな外面のいい奴大っ嫌いだ!……おまえもそうさ!母様に何度も床を磨かされて、嫌じゃないわけないだろっ!どうして嫌って言わないのさ!良い子ぶって我慢なんてしちゃって、不幸面してればいつか幸せが訪れるとか、おめでたいことでも考えてるわけ?頭の弱い女っ!」
女につかみかかることもなければ、ひどい言葉を浴びせることもなく。
「おまえのことを気に入る人間なんて、……所詮上辺だけだっ!」
苛立ちを他人にぶつけることさえない、完璧な兄。
「……泣けば?泣けよ!腹が立ったのなら怒鳴ればっ?」
ロイドは手の中の布を握りしめて顔を見上げた。
シンデレラは柔らかく微笑んでいた。
「……何笑ってんの」
傷ついていないわけはないのに。
自分にだって、それくらいわかるのに。
傷つけてやるつもりで叫んだのに。
「ロイド様の方が泣きそうな顔です」
言われて頬が熱を持った。
「……そんなわけ、……ないっ」
平然と否定できない声帯が憎たらしい。
「僕が泣く理由なんかないだろ!泣くのはおまえだ!……泣けよっ!」
思いきりにらんで。顔の熱が目にまで回る。
固く固くまぶたを閉じた。
シンデレラの腕が、そっと体を包む。
「ロイド様って素敵ですね。真実の大切さを知っておられる。……少しばかり長く生きてますとね、自分をごまかすことを覚えてしまいまして。自覚のある嘘や、まるっきりない嘘をついてしまいます。ある意味ではその方が楽だったりしちゃうものですから」
下手な慰めなど聞きたくない。
本心を隠した、優しいばかりの言葉なんて。
罵ってくれればいいのに。
その方がよっぽど痛くないのに。
傷つけるばかりの自分を、柔らかな腕が温める。
「……でも、ロイド様。なんでもかんでも『本当』を追うことだけが正しいというわけではないんです。真実がひどく心を傷つけることもある。偽りで慰めるのが正しいとは言いません。けれど、人の心は複雑で……実際にはそう簡単に割り切れるものではなく、……真偽に分けることも、正誤に分けることも、とても難しいことだったりするんですよ。無理に分けてしまえば……それもまた、嘘になる。偽りを真実だと信じる人の、何が真に偽で、何が真に真なのか、功利だけでは判断できない。何を見ても判断できないのかもしれない。判断できたからといって……『真』が『正』とは限らないのです」
「……もっとわかりやすく言ってよ。……聞いてやるから」
殴るためにつかんだ腰にすがりついた。
みっともないことくらい知っている。
それでも、顔を見られたくない。見たくない。
怖いから。
シンデレラの手が頭をなでた。
「ロイド様は、王様に言われて仕方なく謝りに来てくださったんでしょう?でも、私に悪いことをしたという気持ちもあったからこそここにおられるのでしょう?……ロイド様は、ウィリアム様をお嫌いでしょう?……でも……」
「言うなっ!」
ロイドは声を張り上げた。
「それ以上、言うな。わかったから……っ」
ますます顔を埋めると、優しい手が宥めるように髪を梳く。
元々言うつもりはなかったのかもしれなかった。

でも、ウィリアム様をお好きでしょう?

まだ、言われたくない。他人の口からは。
まだ、認めたくない。いかに真実であろうとも。
逃げかもしれない。間違っているのかもしれない。卑小な己を思い知るだけでも。
今は、まだ。
それ以外にどうやったら心を守れるのかわからない。
そんな自分を許すかのように、シンデレラの腕にわずかな力がこもる。
情けなかった。
こんな女さえ他人を癒すことを知っていて、こんなにも簡単にやってのける。
なのに、
自分は兄とは違うから。
あんなふうには、どうやってもなれないから。卑屈な自尊心がなりたくもないと叫ぶから。
優しい言葉の一つさえ……上手くかけることができない。
「……僕に説教して、……勝ったつもりになるなよ。……僕は泣いてない。泣いてないんだから。おまえに悪いことをしたなんて、思って、ない……。おまえのことなんて、元々ほとんど気にかけてなかったんだからねっ!……ただ……、ちょっと、兄様を……怒らせてやりたかっただけさ。……あんな奴、大っ嫌いだから」
せめて謝ろうと思っても、心は口でねじ曲がる。
こんなふうに言いたいんじゃない。これじゃあ伝わりようがない。余計傷つけてしまう。
わかっているのに。
「……はい。もうちょっと大人になられたら、ロイド様の理想とされる御自身になってくださいね。私は今のロイド様も可愛くて大大大好きですけど♪」
ロイドはぽかんとしてシンデレラを見た。
シンデレラは口をむずむずさせて笑っている。
吹き出しそうになるのを懸命にこらえている様子だった。
顔に火がつく。
「……うるさいよっ!馬鹿にされてることがわからないとでも思ってるのっ?……子ども扱いするな!」
自分が子どもであることくらいわかっているけれど、そうではなくて。
馬鹿にされても仕方がないくらい人間ができていないことくらいわかっているけれど、そうではなくて。
何を言ってもどんなことをしても見透かされているような感じが、……悔しくて、恥ずかしくて。
「えー、馬鹿になんかしてませんってばー。ホントのホントに可愛くて素敵だと思ってるんですー」
少しだけ、ほんの少しだけ嬉しいのが……とても恥ずかしい。
ロイドはシンデレラの背中に両腕を回した。
王子として、今の顔を誰にも見せるわけにはいかない。
それから……、この場所は、温かくて、心地良くて、優しいから。
「……ふん、その無礼な物言いを許してやってもいいよ?……その代わり交換条件だよ!もうちょっと……もうちょっとだけでいいんだ……もっと」
今だけ、もっと……許してほしい。
「はいはい、ぎゅーっとしちゃいますよん♪」
シンデレラの陽気な声にくすりと微笑み、ロイドはぬくもりに身を任せた。
「……ねぇ、おまえは、どうなのさ。おまえの『真』はどっちなの?両方?」
「両方、とも言えます……かねぇ?両方違うとも言えるかも。……大丈夫、ロイド様のせいじゃありませんよ。あ、それから。私働くの好きなんですよ。だからお掃除も楽しんでます♪王妃様のお言葉にはカッチーンときたりしますけど、雑巾をかける腕にもいっそう力が入るってもんで!いつか黙らせて勝ち誇ってやりますから、楽しみにしててくださいねん♪……って、ロイド様にとってはお母さんなのに、こんなふうに言っちゃ悪かったですかね?」
「……いいよ、別に。母様は母様だけど、あんまりそんなふうに思ったことないから。……母様を黙らせられるような人なんて、父様くらいしかいないよ。期待してるからね、シンデレラ」
二人は抱きしめ合ったまま、クスクスと笑った。


その夜ウィリアムは自室に戻り、ベッドの上を見て絶句した。
シンデレラが丸くなって寝ていたのだ。
「何故あなたがここにいるのですか!」
「ぐーぐーぐー」
首根っこをつかまえて引きずり出す。
「痛い痛い痛いっ痛いですって!リサーチ……じゃなかった、……夜這い!そう、せっかく夜這いに来てあげたレディにこんな扱いはないっしょーっ!」
「……夜這い?」
呆れ果てて頭痛がする。
「レディは夜這いなどしませんよ。慎みのない女性はレディとは呼べません」
「『遠慮など知らないような、そんな女性が理想なんです』って言ってたから王子様にとってはレディの範疇ですよっ!それもストライクゾーンど真ん中?」
勝手に人の範疇を定めないでもらいたい。だいたいあれは昨日までのシンデレラと正反対のことを言ってみせただけで、理想でも趣味でも好みでもない。
「……とにかく、せっかく夜這いに来ていただいても私がその気になれませんので」
「どうしてぇー?」
シンデレラは抗議の声を上げた。
ウィリアムはうつむきがちに眉間を押さえた。
理由というなら、すべてだろう。下心丸出しで近づいてきた美しいとはいえない女をどうやったら抱く気になれるというのか。この城で共に暮らしていることさえ耐え難いのに。
「どうしてもです」
根本から拒絶するように、短く答える。
が、
「ふーん、じゃあ私はどうしても夜這いしちゃいまっす♪」
すげない態度に傷つくような相手ではなかった。
いいかげんにしてもらいたい。就寝前にどっと疲れがたまる。
倒れるようにしてベッドに腰掛け、うんざりとした視線で見ても、少しもこたえた様子がない。
ウィリアムはとりあえず片っ端から挙げ連ねていくことにした。
「……そんな貧相な体では」
「ひんそォーっ?どこがぁ?ちゃんと出るとこ出たボンキュッボンのナイスバディだと思うのにー!」
シンデレラが体をくねらせて胸を張る。
ナイスバディかどうかは審議の対象となるにしても、確かに貧相な体とは言い難いかもしれない。選択を間違えた。ならば顔の造形について指摘しようと、口を開こうとすれば。
シンデレラが肢体を見せつけんばかりにのしかかってきた。
元々色気のかけらもないが、その瞳に探るような光を見つけては、もはや鼻で笑うしかない。
押しのけようと身動ぎすると、つやのない髪が薄い肩からこぼれて顔にかかった。
水を含んだ猫の毛色。
ウィリアムは露骨に顔を歪めた。
「……どいてください。衛兵を呼びますよ」
シンデレラは眉を高くつり上げた。
「さては出ないとこも出た三段腹女が好みなのねーっ!」
無茶苦茶な発想に脱力する。
相手にする気にもなれず、適当に「そんなところです」と答えておいた。
性格は演技力でいくらでもどうにでもなるのかもしれないが、体型は手の打ちようがないだろう。
さっさとすべて諦めてくれればいい。
……そういえば。
ウィリアムは今さら、ふと気が付いた。
シンデレラの容姿はあのとき自分が告げた通り、そのままだが、それは魔女がどこからかぴったり一致する女を見つけてきたのだろうか。それともその辺の哀れな女を言いくるめて魔法をかけたのか?無から人一人を作り出すのはいかな不思議とて不可能だろう。
元々存在していた女に魔法をかけたのだとしたら、名でもなく、財でもなく、女は呪いを解きたいのだ。
仮説に過ぎなかったが、妙に納得できるものがあった。
ウィリアムはにっこりとした笑みを浮かべた。
「いつまでいるつもりですか、出て行ってください」
シンデレラは親指と人差し指を添えて顎をひねった。
「……ねーねー、王子様って私にだけそうなんですかね?みんなには優しくてー温厚でー、……なんだっけ?そうそう、それでいて優柔不断ってわけでもない、やるときはやっちゃうしっかり者?なんですかね?」
「……な、に……?」
思わず顔が強ばる。
「ロイド様がおっしゃるには誰に聞いてもそう答えるそうなんですけど、どーも王子様ってば私には優しくない気がするんですよねー。最初の自己紹介のときから。笑顔だけは今みたく完璧なんですけども。そりゃー私は降って湧いた婚約者なわけでして、仕方ないことなのかなーと思いつつ、優しい王子様ってのを拝見してみたい所存でありましてー」
「……ロイドが、そう言って……?」
「……えーっと、……はい」
躊躇いがちに頷くシンデレラに、すぐには言葉を返せない。
父も、母も、臣下も。下男下女。城下に住まう人々。国中に広がるたくさんの噂の中で。
『ウィリアム皇太子』は優しく温厚で、めったに声を荒げることもないがやるべきことはしっかりとやる、非常に思慮深い王子である。
誰もがそうした評価を下しているのは事実だ。自分もそれを知っている。知らないはずもない。
弟もまたその中の一人だったとしても、十分予想されたことではあるのだが。
ウィリアムは額に拳を置いた。
目を閉じて、ゆっくりと開く。
「……そうですか。……やるときはやるしっかり者、なんでしょう?私は。夜中の不法侵入者に対して当然の態度を示し、自分を利用しようとする女性に警戒を怠らない。……何かおかしなところがありますか?ありませんね?では出て行ってください」
『完璧な笑顔』とやらを作ってみせた。
シンデレラは一瞬の間の後、すぐにやかましくわめきたてた。
「王子様のいーけーずー!不法しんにゅーって、鍵開いてたしー!利用なんてしてないしー!恋する乙女をもっと大切に扱うことを要求するー!」
「……あなたは明日も朝早いのでしょう」
なんでもいい。どうでもいい。とにかくすぐに出て行ってほしい。
「……うーん、それはそーなんだけどー、どーしよっかなぁ……」
迷っているのは声音だけ。のんきにのびをしながら時計を確かめる様子を、祈るように見つめる。
突然。
「きゃあっ!もうこんな時間っ?やっばーい。お肌に優しい時間を過ぎてます!じゃあねダーリンまた明日♪」
ふてぶてしく居座っていたシンデレラの姿がかき消えて、目をぱちくりさせた間に廊下を疾走する音が遠ざかっていった。
ウィリアムは一体今何が起こったのか認識するのにかなりの時間を要した。
何だったのだ、あれは。
『こんな時間』といってもかろうじてまだ今日のうち。夜這いをかけに来た人間が帰る時間ではない。
最初からそのつもりはなかったということだろうか。
あまつさえ屈辱のダーリン呼ばわり。
つまりは、完全にからかわれていたということか。
思えば今日は朝からずっと調子が狂いっぱなしだった。シンデレラのペースに巻きこまれ、まんまと敗北して……。
ウィリアムはベッドに倒れこんだ。


朝、見事に三段腹に変貌を遂げたシンデレラを見て、ウィリアムはもはや痛む頭を押さえることさえ馬鹿馬鹿しくなっていた。
服の上からでもわかるでっぷりとした腹。あれでは座れば三段どころか十段腹だ。
本当に肉ならば。
ウィリアムは投げやりに言った。
「……中のものを出しなさい」
「中のものって……、はらわたですよぉー?王子様ってば私を殺す気ですかっ?きゃーっ!人殺しー!殺人鬼ー!歪んだ愛の末路ー♪」
一言一言に疲労が募り、問答無用で肉の山をわしづかむ。
「枕とシーツですね」
「いやぁーんダーリンのえっちー!」
「……失礼しました」
どうにも言葉を紡ぎづらいのは、変わったのが腹だけではないからだ。
昨夜は腰まであったその髪が、今朝は刈ったばかりの草のように短くなっていた。
ウィリアムはこれ以上とないほど呆れ果てていた。
呆れ果てて呆れ果てて、もうこれ以上は、と思っても、シンデレラの一挙一動があっさりと記録を打ち破る。
呆れた。
本当に。
確かに不愉快な表情を隠しはしなかった。あからさまに眉をひそめて、少しでも傷つけばいいと思っていた。
だが、それだけだったではないか。
ほんの短い時間の、たった一つの表情。
それだけで。
色は悪く、つやもないが、女としての体裁を一応は繕っていた長さの髪が、囚人のように短くなってしまった。
顔にかかる長さに苛立ったのではない。自分が魔女に告げた通りのその色に苛立ったというのに。
シンデレラはスカートの裾から枕とシーツを取り出しながら、
「仕方ないっかー、今日からご飯死ぬほど食べちゃいますから、ちょっぴり待っててくださいねー♪」
とウィンクしてみせた。
陽気な声。最初はもっとか細い声で弱々しい喋り方をしていた。
ずぶとい性格。最初は一つ弾けばそれだけで壊れそうなほど脆い印象だった。
短く刈られた金茶の髪。
熱くただれた苛立ちがせり上がってくる。
「……そこまでして、ですか」
シンデレラはきょとんとした顔をした。
「……あなたの目的は何です?……名か、財か、魔女にかけられた呪いを解くため?そのために性格を変え……髪を切って。……そこまでして、そこまでして私に取り入りたいか……っ!」
いけない。
声を荒げては。
堰を切っては、いけないのに。
「どんな手を使おうと……私がおまえごときに惑うなどとは決して思うなっ」
拳を握りしめる。手のひらに爪を穿つ。奥歯を心で砕いて血を飲み干す。
ウィリアムはシンデレラの胸ぐらをわしづかんだ。

女は嫌いだ。

どいつもこいつも、汚らしい肉のかたまりにしか見えない。
欲深で、醜悪で、どす黒い、ありとあらゆる罪悪を塗り固めたような生き物だ。
この女も!

「今、『おまえ』って言ったー!」

シンデレラはウィリアムを指差し、人差し指をぐるぐると回した。
「ついでに、言葉遣いがどーんどん乱暴になってきてますよ。王子サマ?」
胸ぐらをつかまれていることなど気にもかけず、揶揄するように笑う。
「怪しいとは思ってましたとも。いくら望まない婚約者とはいえいきなり草むしりなんてやらせるんだもんー。とってつけたような理由をどれだけそれっぽく言われても、やっぱ、ねぇ?笑顔もうさんくさかったし、裏表がありまくりそうだなーとはわかってましたよ、うん。考えてみればボロありすぎ。ねーねー、ホントは一人称も『私』じゃなかったりして?」
つり上がった口の端には、確かに嘲りがにじんでいた。
ウィリアムは怒りが全身の毛を逆立てるのを感じた。
どれだけ蔑んでも足りない相手に嘲られたのだ。
「……黙れ、売女。その薄汚い口を閉じろ。……おまえのような女に」
「王子サマは優しくて温厚な方のはずでは?」
「黙れっ!」
拳は押さえたが、その分が他にいった。
端から見た今の己はどんな姿になるのか、想像もできない。
城内の者は荒げた声を聞いただけでその耳を疑うだろう。
優しいとか温厚だとか、そんなふうに言われ始めたのはいつだったのか。覚えてはいない。
だがその言葉に押さえつけられるものは年を追うごとに膨らみ……膨らみ……。
怯えて許しを請えばいい。
声も出ないというのなら一言「失せろ」と告げてやる。
ウィリアムは噛みつくように女をにらんだ。
しかし、シンデレラはけらけらと笑った。
「ファースト・コンタクト……って、言うのかな?初めましてウィリアム様ー。なかなか楽しい性格をしておられるようで嬉しい限り♪ますます愛しちゃったかも♪」
気持ちが悪い。
何を計算して笑うのか。この女の思考回路はいかれているのではないか。それとも、それさえも演技なのか。

女は嫌いだ。

肉欲を利用し体で迫る女たち。心から籠絡せんと策を巡らす女たち。
払っても、払っても、次から次へと小賢しい手で近づいてくる。
『好き』だと、『愛している』と、何度も聞いた。誰も彼も、そろってそれを盾に使う。
天使のような顔をして。美しく、優しげな微笑で嘘をつく。
誰一人として……代名詞以上の自分を知りはしないのに。
「……私を、わかったようなつもりになるな……っ、おまえは何もわかっていない。……おまえは、何も、わかって、ない。……私の何を知るわけでもないのに、見え透いた嘘をつくな。目障りだ……っ!」
誰もみな、この心以外の何かを求めて『恋』をする。
そうしてこの身に『恋』を語る。
「……髪を切り、肉をつけて、それで私がほだされるとでも思ったか?……愚かだな。その浅ましい性質が王家の血にふさわしいはずもない」
ウィリアムは吐き捨てるように言った。
「……浅ましい?好きな人の理想に近づきたいと思うのは、浅ましい?」
シンデレラの顔が初めて曇った。
その表情が本当に『傷ついている』ように見えて、ますます怒りがこみあげる。
「……見え透いた嘘をつくなと言った。……私が『優しくて温厚でしっかり者』であることは、周知の事実だぞ?それさえも知らない女が、誰を『好き』だと?笑わせる。……おまえが何を目的に動いていようが、私にはどうでもいいことだ。舞踏会が終わるまではな。だが、下手な芝居を見せるのはよしてもらおう。まっぴらだ」
シンデレラは口を尖らせてため息をつくと、どこか寂しげに苦笑した。
「……まぁ、ね。ちょーっと反論しづらい部分もあるんですけど、でも」
どうして『寂しげ』だと感じたのかわからない。
たらこ唇は弧を描き、細い瞳の色は見えない。
見えないが、
「……嘘だと望んで嘘だと言えば、嘘になる。……だから、これは本当。……『私はあなたが好き』です」
今にも雨が降り出しそうな、そんな色をしていると思った。
どこまでが嘘で、どこからが真実なのか。
今ここですくいとるべき『本当』はどれなのか。
目を凝らしてもわからなくて、ウィリアムは同じ言葉を繰り返そうとした。
「おまえは、何も……」
「知らないから……知っていこうと思って、調査してみたんですけど、短い髪も嫌いでした?」
シンデレラは途端に明るい笑顔になった。
「かなり久しぶりに切ったものだからついつい切り過ぎちゃってー。途中でやばいとは思ったんですけど短ければ短いほどいいのかなー?とも思ったり。でも困りましたねー、長いのは切れるけど短いのはすぐには伸びないし。うーん、どーしよっかなぁ」
ウィリアムは声をなくした。
この女が何を考えているのかまったくわからない。
今の展開からどうしてそんな話に繋がるのだ。どうして未だにこりていない?
どうして……怒りは呆れに変わろうとしているのだろう。
ふと、シンデレラの視線が遠くなった。
「……あっ!王妃様、おはようございまーっす!」
すっかり力の抜けていた腕を逃れて丁寧なお辞儀を披露する。
大声での挨拶は不作法だったが、お辞儀自体は最初の頃に比べれば格段に見られるようになっていた。
やってきた王妃はシンデレラを目に映すとすぐに顔を背けた。
「……なんてみっともない頭ですか。あなたには相応かもしれませんが、見ている方は不快です。頭巾でも被りなさい。それに、何です?この散乱した寝具は。まさかあなたの仕業ですか」
床に散らばる枕とシーツを指差す。
シンデレラはスカートの裾から出した際きちんとたたんで抱えていたのだが、ウィリアムに胸ぐらをつかまれた拍子に床に落としてしまったのだ。
「はーい、すぐに片づけますー。でも頭巾は持ってないですー」
一言で終わらせて素早く拾い集める。
「ならばあなたが私の目の届かないところへと消えなさい」
「あ。そうですね、そういえば私お洗濯も手伝うように言われてたんですよー。ではでは御前失礼いたしまーす♪」
暗に「城から出て行け」と告げている王妃の言葉にもまったく動じることなく、隙のない笑顔でかわしてみせる。
そのまま振り返らずに立ち去ろうとしたシンデレラの、
その腕を。
何故、つかんでしまったのか。
長い長い一瞬のうちに、ウィリアムは何度も自問した。
「……シンデレラ、申し訳ありませんが、洗濯場に行く前にあなたの時間を少しだけ貸していただきます。……母上、母上がこちらにお越しになったのは、彼女に用あってでしょうか、それとも私に何か?」
シンデレラがあんぐりと口を開けて腕を見つめる。
王妃の表情にも動揺がにじんでいた。
「……いいえ、たまたま通りかかったのです。……ウィリアム?シンデレラにどのような用件が?」
ウィリアムは、ふ、と慣れた笑みを浮かべると、
「母上にご不快を抱かせないよう、頭巾を用意しようと思いまして。……それから、母上。いくら私のためとはいえ……いえ、だからこそ。お優しい母上が鬼のように振る舞われる様を見るのは非常に心苦しいものです」
と言って眉をひそめた。悲しげに吐息をもらすことも忘れない。
「……なっ……ウィリアム?」
「はい」
「……王家の者としての務めはわかっていますね……?」
困惑の中でも切っ先を尖らせた王妃の問いかけに、ウィリアムは姿勢を正して一礼する。
「もちろんです母上。これまでとこれからの歴史のため。我が国民のため。……母上にご心配をおかけしないためにも、自ら道を誤るような行いはいたしません」
シンデレラのお辞儀など足下にも及ばないほど優雅に、美しく。
「……確かに聞きましたよ。その言葉、信じます。優しさを愚かさに変えることのないように」
「承知しております」
王族の気品をこれでもかと漂わせた笑顔で締めくくった。

ウィリアムはシンデレラの手を引いたまま早足で進んでいた。
とっさの勢いとはいえ初めて母に面と向かってたてつくような真似をした。
何もあの場であんなことを口にする必要はなかったのに。母が去った後でシンデレラを訪ねれば波風の一つも立つことなく終わったろうに。
どうしても苛立ちを抑えきれなかったのだ。
気づかれないようそっと背後を窺えば、シンデレラはまるで顎が外れたかのようにかぱっと口を開けて呆けていた。
「……この時間なら父上はおそらく自室だろう。……おまえが一人でいるときにその頭を見られては面倒だ。連れて行く。ついでにかつらを作っていただけばいい」
ウィリアムは言ってから口を押さえた。
何故自分が女の顔色を見てこんな説明をせねばならない?
これではまるで言い訳だ。
馬鹿が勝手に馬鹿なことをして、馬鹿にふさわしい扱いを受けている。
その責任の一端があるように感じてしまう己が腹立たしかったから、根元を絶とうとしているだけだというのに。
「へっへっへー、なーんだ。ウィリアム様ってば、猫とかじゃなくて本当に優しいんだ♪贅沢言っちゃえばもうちょっとゆーっくり歩いてもらえるともーっと嬉しいですー♪」
ウィリアムは振り返り、この上なく嫌なものを見る目で見てから腕を離した。
「馬鹿の尻ぬぐいをさせられているだけだ。その頭で舞踏会に出られるとでも思っているのか?」
「ふーん、そっかぁ。尻ぬぐいしてもらっちゃったんですねー、えへへへー♪」
シンデレラは不気味な顔で笑っている。
頬を赤く染め、口を横に伸ばしてにやにやと……見ているだけで気分が悪くなってきた。
ウィリアムは再び前を向いた。
「勘違いするな。舞踏会に出せないのならおまえの存在を許している意味がない」
すべては舞踏会が終わるまでだ。それから先は自分の力でどうにでも……どうにかするしかない。
母に宛われる女どもも御免だが、この先ずっとこれの相手をするのはもっと御免だ。
舞踏会が終わったら適当な理由をつけてすぐさま追い出してやる。それとなく試練を負わせて出て行くのを待つだけではいつまでたっても結果が出ないとよくわかった。
それまで存分に利用しつくしてやるつもりだが、それを勘違いされ懐かれてしまってはたまらない。
態度ははっきりさせておかねばならない。
「わーかってますって!私今バリバリ勉強中ですから安心してくれて大丈夫♪……ねーねー、出るは出ますけど、私舞踏会って初めてなんです!記念に一曲でいいから一緒に踊ってくださいね!」
シンデレラがマントを引っ張る。
ウィリアムはぴたりと足を止め、ため息をついてまた進んだ。
「……それも演出だ」
「やったぁ!絶対絶対絶対絶対ぜぇーったいにですよ!それから、足踏んでも怒っちゃ嫌だかんね!」
痛む頭を押さえながら、本当にわかっているのか、「安心して大丈夫」と言った端から「足を踏んでも怒るな」とはどういうことか、果たして舞踏会を無事に迎えることはできるのだろうかと考える。
今すぐシンデレラを追い出して自分一人で臨んだ方がよっぽどいいのではないか。
あながち間違いとも思えない考えにふらふらしつつ、ウィリアムは「舞踏会のことは当日まで極力考えないようにすべきである」、と悟った。


就寝前、ウィリアムは扉をノックする音を三回ほど無視した。
次も無視しようかと思ったが、相手はそう簡単に諦めてくれるような性格ではない。
きりがない気がして扉を開けた。
「おっそーい!もーちょっと早く開けてくださいよー!だいたいどうして鍵なんかかけてるのー!ずっるーい!」
思った通り、そこには眉をつり上げたシンデレラが立っていて、ウィリアムはあからさまにため息をついた。
「掃除を命じてもいないのに断りなく部屋に入ってくる無礼な輩もいるようですので。……何用でしょうか。女性が男の部屋を訪れる時間ではないように思いますが?」
シンデレラはチッチと人差し指を振る。
「いやーん王子サマってばー、私とあなたの仲に遠慮は無用♪どーぞぞんざいな喋り方しちゃってくださいな!」
ウィリアムはさらに息を吐いた。
懐いた口調が鬱陶しい。この先も顔を合わせる事実が煩わしい。自分以外に心があるのが面倒くさい。
少しばかり他人と違った態度を見せたからといって特別だと思いこまれてはかなわない。『特別』というなら、『特別に腹が立った』だけなのだから。
「……用がないのでしたらお帰りください」
短い言葉の分だけ視線で上乗せしてみるが、シンデレラのずぶとさに通じるようなものではなかった。
シンデレラは頬に手を添え、しなを作って言った。
「今夜も夜這いに参りましたー♪」
静かに扉を閉める。
「……というのは嘘でぇ……。嘘だってばー!王子サマってばもうちょい冗談わかるようになってくれてもいいんじゃないのーっ!開けて開けて開けて開ーけーてーっ!」
このまま永遠に封印しておきたいが、放っておけば収まるような相手でもないのだろう。理解は不幸を呼ぶ。
睡眠時間は貴重だ。安らかな眠りを楽しみたい。
「……くだらない用件ならすぐに出て行っていただきますから」
ウィリアムはしぶしぶ扉を開いた。
「へっへっへー♪」
シンデレラは部屋に入るなり浮かれた声を出してにやにやと笑った。
背中に何かを隠しているようだ。
十中八九『くだらない用件』だろう。
しかし、今さら気が付いた。
部屋に入れざるを得ない女なら、話も聞かざるを得ないに決まっている。
一度部屋に入ったのだ。シンデレラのことだ。話を聞いてやらない限り出て行くこともない。
なし崩しだ。
どれもこれもあくまで『仕方なく』ではあったが、ようは『流されている』ということで。いつのまにかシンデレラのペースに慣れてきているような気もする。……恐ろしい話だった。
「……前置きは、必要ありませんから、早くしていただけますか……」
シンデレラは少し口を尖らせたが、すぐに大げさな身振りで何かを差し出した。
「じゃっじゃーんっ!かつら様の完成でござーいー♪」
満面の笑顔で手に持つかつらを梳かす。
ウィリアムは目を丸くした。
頼んだのは今朝だ。細かな注文を出し終えたのは確か昼頃だったはず……。
「随分と早い……」
思わずそうつぶやけば、シンデレラはうんうんと頷いた。
「そうですよねー。なんか王様が職人さんをかーなーり急がせたみたい」
シンデレラの頭を見せた際の父の狼狽ぶりを思い出し、なるほど、としみじみ納得する。
それにしても早すぎだ。普通はどれだけ急いでも一日では完成しないのではなかろうか。これだけ早いと品質の方に問題があるのでは?
と、かつらを凝視して眉を寄せた。
シンデレラの髪は日の光の下でなんとか金に入るだろうと思える色だ。かつらの方は蝋燭に照らし出された薄暗い部屋にあってもはっきり金髪だと判別がつく。
「……あなたの髪にしては明るすぎますが」
色が違えば印象も変わる。意図したことでない限り、不良品、と言ってしまってもいいだろう。
しかし本人は特に不満に思うこともないようだった。
「急がせたから私の髪に合う色がなかったみたいで。これでも大分似たような色を選んでくれたようなんだけど」
嬉しそうにかつらをなでる。
ウィリアムは目を眇めた。
これで髪の色からは解放される。
だがあまり晴れ晴れとした気分にはなれなかった。
髪が色を変えても肌の色や目や鼻や口がそのままだから……というわけではない。
こうなったのはまたしても己が示した不用意な態度が原因であり、結果的には何も変わっていないからだ。
その肌も目も鼻も口も……髪も。
目にするたび魔女にしてやられたことを思い出す。
それから。
「……こっちの方がいいですか?……私の髪の色ってヤな色だった?」
シンデレラが不安そうに顔をのぞきこんできた。
どう答えろというのか。
肯定すればどうするのだろう。否定すればどうするのだろう。
ウィリアムはいつのまにかうつむきがちになっていた顔を上げた。
「……みすぼらしい色ではありました」
シンデレラは一つ頷くと、かすかな息を吐いて微笑んだ。
「そっかー、色かぁ。じゃあ被ってよっと♪」
無邪気にはしゃいでいるように見えるが、ウィリアムは見逃さなかった。
吐いた息にこめられた、小さな安堵。
髪の短い女性などいない。たいてい腰まで、短くても肩にかかるまでの長さはある。それが普通だ。
どれだけ平気そうに笑っていても気にしていなかったはずはない。例え切っている間は気にとめずとも、今日一日、様々な人の目にさらされて散々な思いをしてきただろう。
今の今まで、これっぽっちも思い至らなかったが。
シンデレラはかつらを被るとくるりと一回転してみせた。
腰まである金髪が踊る。
本来のものとは違い、色も良ければつやもある。
期待に満ちた眼差しを向けられ、ウィリアムは思わず口を結んだ。
適当に、一言でも、ほめておけば収まるのか。
世辞は言い慣れている。言おうと言えばいくらでも出てくる。
しかし何をどうほめていいのかわからなかった。
「……あなたは……すべてを私の言った通りにしてみせるおつもりですか?」
「んん?……ですから、ウィリアム様の理想にできるだけ近づくよう頑張ろっかなーと思いまして」
理想などない。女に夢など抱かない。
どの言葉もその場の思いつきで口にしただけだというのに。
「……馬鹿馬鹿しい。切る前に気づかなかったのか?あんな見苦しい頭が理想であるわけがないだろう。髪が伸びるまではそれを被っておけ」
ウィリアムは内心の苛立ちを抑え、眉間に拳を当てて言った。
シンデレラは嬉しそうにはにかんだ。
「髪が伸びるまではお城にいていいんだっ?」
「誰がそんなことを」
随分と都合のいい耳をしている。
「髪が伸びたら元の色でいてもいいんだっ?」
「それは……」
よく考えればそう受け止めることもできるのかもしれないが、そんなつもりではなかった。
だいたいそんなもの好きにすればいいだろう。良いと言われようが悪いと言われようが、気にする方がおかしいのだ。たった一つの言葉や態度に過敏に反応されて、鬱陶しいにもほどがある。髪の色がどうこういう意味で言ったわけではないのに、どうしてそこまで深読みするのか。
「えっへっへっへっへー。ウィリアム様ってば優しいー♪……ホントに、優しいね。えへへへへー♪」
シンデレラが不気味に笑う。
ひどい勘違いだ。
わかったような顔が不快でならない。
そんな目で見られる覚えはない。
「……おまえは何もわかっていない」
呪文のように唱えれば、
「それはもう聞きましたってばー。だから、もっともーっとウィリアム様のこと、私に教えてくださいねっ!」
魔法のように微笑まれた。
続く。
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