『子どもの目』

思えば遠くへ来たもんだ? 子どもの目1


 暁光。鳥の羽音とさえずり。さわやかな冷気。猫はもういなかった。
 思いがけず熟睡してしまい、男はつい額を押さえる。正体なく眠りこけるなど戦士のしてよいことではない。体に異常はなく剣も無事のようだったが、気鬱な思いが重くのしかかっていた。
 だが、美しい朝だ。
 胸いっぱいに息を吸う。澄んだ空気は優しくて、旅の疲れを癒してくれるようだった。普段なら人々が目を覚まさぬうちに街を出るのだが、今回はそうできない。
 途端に時間をもてあます。早く立たなければ、早く歩き出さなければ、早く、早く。気は急いても打つ手がない。今から城門に詰めかけても何にもなりはしないだろう。
 一夜明けて考えれば言われた言葉がするりと胸に落ちてきた。今どころかいつ行っても王妃には会えないような気がした。
 しかし座り込んでいるのは落ち着かない。気が変になりそうだ。
 眉間にしわを寄せて剣を抱える。ざわりと草の音がして顔を上げると、どうやら誰か来たようだった。
 ――こんな時間に?
 まだ朝は始まったばかりだ。まさか自分を訪ねてきたわけではなかろうが、男は慎重に様子をうかがった。
 やってきた男は大荷物を乗せたロバの手綱を引いていて、こちらを見るとゆっくりと帽子をとって挨拶した。
「やあ、おはようございます。あなたが噂の新入りさん。ぼく、カトル・バーゲン。商人です。いつもこの公園で野菜とか、調味料とか売ってます。昨日仕入れから帰ったばかりで、タイミング悪かったなーって思ってて、えっと、でも、これからよろしくお願いします」
 顔から年齢は読みとりづらいが、二十歳は越えているだろう。しかし随分と舌っ足らずでのんびりとしたしゃべり方だった。
 商人はうんせと絨毯を広げると、まんべんなく両手で押さえ、おぼつかない手つきで野菜を並べる。
 男は目を細くした。幼子の積み木遊びを連想させる動作。それより何より気になるのは、自分のすぐ横で店を構えだしたことだ。ベンチとベンチの間の狭っ苦しい場所に商品を並べてどうするのか。
 男は立ち上がり、場所を譲ろうとした。するとしょんぼりとした声がかけられた。
「どこかに行っちゃうんですか? 色々お話、しませんか?」
 それが狙いだったらしい。男は三歩進んでからしばらくの間立ち止まり、寄りかかるようにして元いたベンチに腰掛けた。
「王妃について教えてほしい」
 商人は丸々したキャベツをなでながらにこにこと微笑む。
「面白いけど、ちょっと困った人ですね。でも王妃様がいないとイルハラは成り立ちません。本当にすごい人なんです」
「……会うにはどこへ行けばいい?」
「えっと、会おうとして会える人じゃないです。むやみに会いたいって思うとかえって会うことができなくて。王様だってなかなか会えなかったりするそうです」
「……人の心や記憶を読みとれるか?」
「え。わかんない、です。王妃様ならなんでもできそうな気が。みんなそう思ってるんじゃないかなぁ……」
 はっきり言ってまったく何の役にも立たない情報だ。またもや打つ手を見失う。
「あの、旅のお話とか、聞いてもいいですかー?」
「俺に話しかけるな」
 半ば八つ当たり的にそう言うと、商人は目に見えて消沈した。
 男は心中で大きく息をつく。今度こそ場所を移動することにした。といっても行くあてなどない。同じような場所の似たようなベンチに腰掛ける。
 打つ手が見つからないということは、すなわち何もすることがないということだ。
 常ならば歩いていればそれですんだ。しかし街中をぐるぐる回ってみても意味がない。
 時は蝸牛のように進んでいく。

 朝日が空気を暖めた頃、街がようやく動き始めた。仕掛け時計のねじを巻き、ピエロの飛び出た騒がしさ。おはようおはようおはようと、重なる挨拶が近づいてくる。
 男は森に身を隠し、公園を横切る人々の姿を遠目に見た。誰も彼もが笑顔を浮かべ、一日を始める活気にあふれている。
 小枝の折れる音がして振り向くと、ふくよかな体型の紳士が高枝鋏と袋を持ってたたずんでいた。
「おはようございます。今日はいい天気になりそうですね」
 麦わら帽子の中からうっすらはげた頭を見せて、何の変哲もない挨拶をする。紳士は男の反応を見もせずに、目についた枝を手際よく払っていく。――庭師だろうか。
 ここにいては邪魔になろうと、男は再度場所を移すことにした。
 子どもたちの声が聞こえてくる。
「待って。待ってリック。待ってってば。アンジェもう転ぶの嫌ぁー!」
「いっつも寝坊すんのが悪いんだろ! もっと急げ! 遅れるぞ!」
「手をつないで走るから転ぶんだよリック……いくらアンジェが可愛いからって」
「うーるーせー! そんなんじゃねーっ! こいつの足の遅さ知ってんだろーっ?」
 学校に登校する途中のようだ。鐘の音が鳴り響く。
「うわっ! ほら、シンディ先生に怒られるぞっ! 走れーっ!」
「きゃあああーっ」
「アンジェ、大丈夫っ? あああ泣かないで。早く立って。急がないとっ!」
 駆け足で進む朝。時間をもてあましているのは自分だけかと、男はそっと目を閉じた。

 目覚めたときには太陽が真上にいた。惰眠をむさぼるなど初めてしたような気さえする。体が泥になりそうだ。
 水を汲もうと森から出ると、商人は相変わらずベンチの間。男は見て見ぬふりをした。
 しかし。前方からロバを引き連れた、まったく同じ風貌の男が歩いてくる。後ろを振り返り、もう一度前を見る。同じ人間が二人いる。
 前からやってきた男は朝見たものとそっくり同じお辞儀をした。
「……俺はルクス・バーゲン。職業・道具屋。たいていはこの公園で店を出す。ひいきにしろ」
 挨拶はやたらと素っ気ないものだったが。
 男の怪訝な面持ちに気づいたのか、道具屋はうなずいてから一言付け加えた。
「あっちは双子の兄」
 近くで見ると確かに同じ顔だがどことなく感じが違っている。兄の方はふぬけた面だが、弟の方は仮面のように無表情だ。
 道具屋はぶらぶらと突き進み、兄の前を素通りした。
 兄・カトルが頬をふくらませる。
「……ルクス、お兄ちゃんと挨拶はっ」
「ハイハイ。……『お兄ちゃん』? そこじゃ客が寄りにくい」
 弟・ルクスは振り向きもせずに言う。
「う、うるさいなぁ〜っ。ルクスの方こそ、そんな態度じゃお客さん寄ってこないから!」
「ハイハイ」
「ルー、クー、スっ!」
 不思議な兄弟関係を横目で見やり、男は前をむき直す。すると今度はほうきを持った老婦人が向かってきた。
 男は大きく迂回したが、婦人は直角に曲がってやってくる。男の頭からつま先までをじろじろと見てこう言った。
「ゴミだね。あんた、人間の格好じゃないよ。ほら、風が吹くとなんともいえないにおいがする。とんでもないね。ひどいもんだよ」
 婦人はあからさまに顔をしかめる。まだらにくすんだマントを親指と人差し指でつまみ上げ、
「おいで。ゴミが歩くなんて許せないよ。風呂に入って、洗濯をして! 街を歩くならすっかり綺麗になってからだ。変な虫がわいたらどうしてくれるんだいっ?」
有無を言わせぬ眼差しでにらんできた。
「……離せ」
「ゴミの言うことなんて聞けないね。ほら、おいでって言ってるだろう! 世話の焼ける子だね!」
 男はマントを引いてはねのけるが、婦人はむんずとつかみ直す。
「おお嫌だ! ざらりとしたよ! 信じられない。許せないね! あんたがどうしてもついてこないなら、洗濯桶を持ってきてあんたごと洗ってやってもいいんだよっ!」
 男は長く嘆息する。まったくこの街の住人は――。心の声も、言い飽きた。

 老婦人は自宅まで男を連行し、さんざん「汚い!」「許せない!」と騒いでから身ぐるみはいで風呂場へ放り込んだ。そうして出てきた男に清潔な衣装をあてがうと、非常に満足そうにうなずいた。
「男前じゃないか。やっと人間になったよあんた。あたしの名前はヘレン・バーゲン。洗濯物が乾いたら届けてやるよ」
 男は濡れた前髪をかき上げ、適当に水滴を落としてからすぐにおろす。剣だけはなんとか死守したものの、帽子もスカーフも取り上げられた。顔を隠すものがない。
「これは返しておこうね。ほら、受け取りな」
 洗濯水で湿った手が水筒と携帯袋を差し出してくる。ちゃぷんという音と、すっかりふくらんだ袋。風呂をおごられたのも、これほど自然な施しを受けたのも初めてだった。
 男は二つを手にしたまましばらく立ちつくしていた。老婦人が首を傾げる。
「どうしたい? なんなら昼食食べてくかい?」
「……いや」
 そうではなく。しかしそのままでは皿を並べられそうだったので、男は早々に立ち去ることにした。

 そうしてどこへ行くかといえば、やはり公園くらいしか行く場所がない。だが公園も居心地がいいとはとても言えなかった。初対面の人間はみんな話しかけてくるのだから。
 男は夕方になるまで木の上にいた。
「リック、オリバーのところに行こうよ」
「えー。……行くけど。俺マリー嫌いなんだよ。すっげー生意気じゃん」
「アンジェはマリーちゃんのこと大好きよ? 可愛いもの」
「あいつのどこが可愛いんだよ! だいたいおまえの目はおかしすぎんだよ!」
「ひっどぉーい!」
 子どもは声が大きい。男は朱色の空を見てため息をつく。学校が始まってから終わる時間までをまるまる無為に過ごしていたということだ。夜と朝はすぐに来る。いつまでここにいるのだろう。
 緑豊かな森は最期を迎える場所としては理想的だが、それまで暮らす場所としては穏やかすぎた。
 ここにいては駄目になる。しかしここから出られない。
 西の空を多くの鳥たちが飛んでいく。男はそれをじっと見ていた。

「こらっ! そんなとこに登っちゃ危ないでしょうっ? 早く降りてきなさい!」

 すぐ下で女のわめき声がする。眼鏡が反射して顔はわからないが、怒っているのは明らかだった。
「あら? もしかしたら新しい子ね。名無しの権兵衛(仮)君でしょう。とにかくすぐに降りてきて! 早くしないとカトル君とルクス君に頼んで引きずり降ろしてもらいますからねっ!」
 どうもひどく子どもに見られているような。
 男は顔をしかめたが、大事にされるのは煩わしかった。黙って木を滑り降りる。
「やっと降りてきたわね。初めまして。私の名前はシンディ・キルクス。権兵衛君、これから先生と一緒に色々お勉強していきましょうね。はい、最初の授業です。危ないことはしちゃいけません! 万が一ケガでもしたらどうするつもりだったの? お父さんやお母さんに心配かけないようにしましょう! わかったかな?」
 眼鏡の女は穏やかで、しかししっかりとした口調で詰め寄ってくる。
「こら、お返事は? ちゃんとしたお返事もできない子は将来立派な大人になれませんよっ!」
 と言われても、自分は二十一で、すでに成人の儀はすんでいるのだが。
 思わず後ずさる。この女にはこの図体が子どものように見えるのか。
「お・へ・ん・じ・は!」
「……わかった」
 力無くつぶやくと、女はにこりと笑みをもらし、そっと頭をなでてきた。
「はい、よくできました。偉いね権兵衛君。暗くならないうちにおうちに帰りましょうね。じゃあまた明日。さようなら」
 右手も剣をとる気力を失っているらしい。女はにこにこと笑いながら、一歩も動こうとせずにいる。
「挨拶のお返事は?」
 にっこり。
「……『さようなら』」
「はい、よくできましたー」
 なでなで。
 男はぐったりとうなだれた。女の背中を呆然と見る。いいかげん飽き飽きしていても、心でつぶやかずにはいられない。

 この街の――

「シンディ先生は誰にでもああよ。王様にだってああなんだから」

 次はどんな奇人変人だ。
 男は覚悟を決めて振り向いた。


思えば遠くへ来たもんだ? 子どもの目2


 腰よりも下の位置で大きな瞳が見上げてくる。――子どもだ。
「見違えたわ。あなたそっちの方が絶対素敵よ! これからはずっとその格好でいるといいわ!」
 老婦人に渡されたマントに小さな両手がしがみつく。少女はこちらのことを知っているようだったが、男には初対面としか思えなかった。遠目で見たのかもしれない。そう考えていると、少女の眉がきゅっと寄る。
「……私のこと、覚えてないだなんて、言わないわよね?」
 ――というよりは、他と勘違いしているのではないかと思うのだが。
「覚えてないのっ? ほんっとーに覚えてないのっ? 私にあんなことをしておいて、全然っ?」
 少女は目ざとく表情を読んでマントをぐいぐい引いてくる。相手が子どもでなければきわどい意味をはらむ発言に、男は当惑せずにはいられなかった。
 ここしばらく子どもと関わり合いになったことなどない。やはり人違いだろう。いや――
 控えめな視線で少女を見る。
 利発そうな眼差し。鼻の上にはいくつかのそばかす。肩まである緩い巻き毛はところどころくしゃくしゃになっていて、元気いっぱいな様子がうかがえる。
 気のせいか、どこかで見たことがあるような。
 夕日を浴びて輝きを増す、鮮やかな赤銅の色――。
「花を、渡したか……?」
 少女は弾けんばかりの笑顔になった。
「そうよ! 花束をプレゼントしたレディよ! やっと思い出したのね!」
 ぬいぐるみに抱きつくようにして脚に腕を回してくる。右手が痙攣する。まさか剣を抜くわけにもいかないが。棒立ちになる男に、少女ははっと顔を赤らめて飛び退いた。
「ちょ、ちょっと子どもっぽかったわね。私としたことがはしたないことをしちゃったわ。普段はこうじゃないのよ!」
 何やら必死になって言い訳している。子どもっぽいも何も、子どもだ。妙に口が回るようだが、昨日見た子どもたちよりさらに小さい。十にも満たないのではなかろうか。
 少女は両手で頬をべちべち叩き、わざとらしい咳払いをこほんとすると、
「私はマリーベル・クライスラー。マリーって呼んでちょうだい。素敵な花束をありがとう」
丁寧というよりは大げさなお辞儀をしてみせた。
 男はそっぽを向いて歩き出した。なつかれても困るのだ。
「ちょっと! そこは『どういたしまして』『喜んでいただけて何よりです』とか言うところよ!」
 案の定というか、少女は追いかけてきたが、何を言われようと、何をされようと、とことんまで無視し通すつもりだった。借り物のマントを全力で引っ張られても、まとわりつかれて何度も足を踏まれても。あてどなく歩き続けているうち、段々と空が薄墨色に変わっていく。やれやれようやく逃れられるか、と、ほっとしてから数十分。一番、二番、三番星までが姿を見せたが、少女は未だ離れずにいた。
「……帰れ」
 男は立ち止まり、声に怒気をはらませる。
「あら、どうして? 私まだあなたとお話してないわ」
 少女はむしろ面白がるように笑みを浮かべた。
「話す気はない。俺に関わるな。帰れ」
「今やっとこっちを向いてしゃべってくれるようになったところじゃない。ちゃんとしたお話になるまでもう一息。絶対、帰らないわ」
 相手は子どもだ。確かに子どもなのだが、一筋縄でも二筋縄でもいかないようだった。
 不承不承口を開く。
「……たまたま通りすがった相手に押しつけた。それだけだ、あの花は」
「知ってるわよ。元はタニアおばさんからあなたへのプレゼントでしょ」
 少女はうつむく。
「馬鹿にしないで。その辺の子に比べたら私はずーっと大人なんだから! ……勘違いなんてしないわよ。……ふん、ただの時間つぶし、あなたがちょっと興味深かったから観察してただけ。こっちこそ、たったそれだけなんだからっ!」
「ならもう気はすんだろう」
 男はため息こそつかなかったが、声音には多分に疲れが染みこんでいた。少女はそれを呆れだと受け取った。
「全然っ! 私たちほとんど会話してないじゃない! あなたのせいよ! ちっとも紳士じゃないんだからっ! わかったらお話しなさいよ! じゃないと帰らないわ!」
 白くなるまで拳を握り、噛みつくようにねめつける。
 男はさっきまで笑っていた少女が何故急に怒り出したのか、まったく理解できなかったが、やはりこの少女は子どもなのだと、妙に納得させられた。
 一人にしてしまえばいいのだ。夜を恐れて帰るだろう。どのみちじきに親が迎えに来るに違いない。
 ふいをついて走り出す。大人の足と子どもの足では追いつかれるはずもなく、男はあっけないほど簡単に少女をまいて、最初からこうすべきだったと後悔した。あとはしばらくぶらついてから戻ればいい。
 『戻る』――。浮かんだ単語に首を傾げる。
 住人に気をつかう必要はあるが、家がないのだから、どこもかしこも寝床のようなものだ。わざわざ『戻る』ことはない。しかし、戻らなければ、と何かが訴えかけてくる。実に不可解だった。

 ああ、伝令に、公園に滞在すると伝えたから――。

 眉間にしわが寄る。それこそ不可解な話ではないか。そこまで気をつかってやる必要はない。住人と関わり合いになるつもりはないのだ。脱出もあきらめてはいない。ただ今は様子を見て――。そうだ、様子を見るべきだと思うから。
 なんとなく思考が言い訳がましいような気がする。寝てばかりいたから脳が腐っているのだろうと、男はとにかく足を動かすことにした。
 目的もなくただ歩くだけの時間は、ひどく疲れるものだった。

 時間を計って、というよりは、耐えられなくなって戻ってくると、少女はまだその場所にいた。空にはすでに満天の星。子どもが一人でいていい時間はとうに過ぎ去っている。
 少女は膝に埋めていた顔をおそるおそる上げてその目に男を捕らえると、脇目も振らず飛びついた。
「遅いわ! どこへ行ってたのよ! レディを一人にしておくなんて、まったく紳士のやることじゃないわ!」
 威勢が良かったのは最初だけだ。声は段々と小さくなり、大きく震えていく。そして何も言わなくなった。
 男はたっぷりとためらってから、少女の頭に左手を乗せた。しかし下手になつかれても困ると思うと上下にも左右にも動かせない。長いことそのままでいた。
「……帰れ。親が心配している」
 少女は脚にしがみついてうつむいたまま。
「……そうね。でもやっとあなたが帰ってきたから。もうちょっとここにいるわ」
 今度は逃がさないとでもいうように、力いっぱい締めつけている。
「帰れ。これだけ遅くなっては、きっと探し回っているだろう」
 男はため息をつく。このまま少女の親に出くわせば厄介なことになるのは確実だ。なんとしてでもご免こうむりたかった。
「安心して。それはないから」
 少女が顔を上げて笑う。
「あのまま今日中に会えなかったら、二度と話してもらえないと思ったんだもの。もうちょっとここにいてもいいでしょう?」
 何故そんなにもなつくのか。ここまでくると煩わしいのを通り越して気味が悪いというものだ。
 男は切口上で言った。
「くだらない。心配をかけているという自覚があるなら早く帰れ。『大人』のすることとは思えない」
「……ふん。何よ。私の気持ちも知らないくせにお決まりのお説教をしてくるあなたの方がよっぽど底が浅いわよ。帰らない。帰らないったら帰らない! もうちょっとここにいるんだからっ」
「……ならここにいろ。俺は他へ行く」
 言葉も終わらないうちに、少女は男の脚にぶら下がった。間抜けな光景だが、少女の必死さは伝わってくる。
 男は深々と息をつく。この街に来てからというもの、ひっきりなしにため息をついている気がする。幸薄き大臣の姿を思い出し、続きそうだったもう一息をぐっと呑み込んだ。
「家はどこだ。……送ってやる」
 最大限の譲歩のつもりだったのだが、
「しつこいわね。帰らないって言ってるでしょうっ?」
少女にはただの繰り返しにしか聞こえなかったらしい。仕方がない。他の人間に聞くしかあるまいと、周囲をきょろきょろと見回した。
 双子の商人はすでに帰ってしまったようだった。さすがにこうも時間が遅いと散歩をする人間なんかも見あたらない。住宅街へ行って探すしかないのか、と思ったとき、……いた。見つけてしまった。茂みの中から頭だけをちょこんと出した、片目の妖怪変化もどきを。夜の闇の中月明かりだけに照らし出されたその姿は、『もどき』をつける方が間違いなのでは、というくらい不気味だった。
 男はできれば見なかったことにしておきたかったが、妖怪のぼんやりとした左目から放たれた視線はまっすぐこちらに向けられており、何故か、熱を帯びているような気がした。うかつに視線をそらせない状況に陥ってから数十秒後、向こうから話しかけてきた。
「こんばんは。僕、悪役です」
 やはり不可思議な少年である。
「お困りのようですね。その子の家を知りたいですか?」
 男が口を開く、と同時に、少女も口を開いた。
「……いや、聞きたくもない」
「是非知りたいそうよ! 教えてあげてちょうだいっ!」
 少年の垂れ下がったまぶたがぐぐっと押し上げられる。
「え? ええ? ど、どっちですか? どっちかに決めてください。お二人はどっちの方が困りますか?」
 つまりこの『悪役』は、道が左なら右と、ものを教えろと言ったなら教えないといった反応を返す『悪役』らしい。推測は正しかったものの、少女のせいで答を聞くことができなかった。少年はうんうん考え込んでしまっている。らちがあかないと、男はもう一度周囲を見回した。

「あたしが教えてあげるわ。その子の家」

 近くで女の声がした。しかし姿が見えない。一匹の黒猫がいるだけで。
「いやあね、あんた鈍いの? 他にいないんだからあたしに決まってるじゃないの。あたしよ、あーたーし」
 黒猫は尻尾をゆらゆらと揺らしている。
「あたしの名前はリリス。人語を解する猫よ。でも正真正銘の猫だから。間違っても中途半端なのと一緒にしないでね」
 男は自分は夢を見ているのかもしれない、と思った。
「ちょっとリリス! 勝手に首を突っ込んでこないで! これは私とこの人の問題なのよ!」
 少女が猫を怒鳴りつける。猫は優雅に背筋を伸ばしていく。
「嫌がらせだもの。首突っ込んで当然じゃない。この子の家はねーえー」
「ああ、もうっ! わかったわよ! 帰るわっ! もう帰るわよ!」
「なぁんだ、つまらない」
 男が呆然としている間に話はどんどんと進んでいき、あっという間に決着がついたようだった。
「覚えておいてね。あたしの名前。ど忘れして『猫』とか呼んだらその顔に綺麗なタータンチェックを描いてあげる」
 黒猫は捨て台詞を残して茂みの中へと消えていった。少女は悔しそうに草を蹴っている。振り返って男をにらみつけ、マントを引きちぎらんばかりに引っ張った。
「馬鹿っ!」
 一言。
 男には八つ当たりとしか思えなかったが、少女は思いっきり恨みがましげな目をしていた。
「さようならっ。また明日っ」
 そう言って走り出そうとする。男は思わずその肩をつかんだ。
「なぁに?」
 少女が振り向く。
「いや……」
「引き留めて、言いかけておいてなんでもないって言うつもり? 私はもう振り向いたのよ!」
 男は迷ったが、この少女は言い出すときかないたちだ。たった数時間でよくわかった。自分の不覚と認め、あきらめて言葉にすることにした。
「……さっきは怖がっていただろう」
 闇の中で一人、膝を抱えて震えていた。少女を一人で帰してよいものか、やはり送るべきなのではなかろうかと思ったのだ。こののんきな街の中で何かあるとも考えにくいが、子どもは暗闇自体を怖がるものだから。
 少女は途端に真っ赤になって、むきになって大声を張り上げた。
「あ、あれはっ、あなたが私を置いていくからだわっ! 今度は家に帰るのよ! 怖くなんかないんだからっ!」
 言うだけ言って、逃げるように駆け出していく。
 男はしばらくその場に立ちつくしていた。
 風が草を渡っていく。聴覚。嗅覚。触覚。視覚。夜は夜であって闇ではない。男にはなんの恐怖も与えない。
 けれど。

「マリーは明日もここに来るでしょう。あなたがここにいるからです」

 茂みの中から少年が言う。
「……『あまりにも必死そうで面白かったから』。王妃様は僕を招いた理由をこう言われました。あなたを見ているとあの頃の僕がわかるような気がします。……王妃様にはいつか、絶対に会えますよ。早いか遅いかは、あなた次第なんです」
 問い返そうとしたときには、すでにいなくなっていた。


思えば遠くへ来たもんだ? 子どもの目3


 二度目の朝がやってきた。
 男は作業的に朝食を終え、剣を見つめて考えた。
 この街で物騒なことは起こりそうにない。腕がなまらないよう訓練の時間をとるべきだろうか、と。
 そこに双子の商人の片割れが現れて、昨日と同じように舌っ足らずな挨拶をした。男は音の発生源を確かめるごとく視線を投げただけで、挨拶を返したりはしなかった。昨日と同じように。
 しかし内心は驚愕でいっぱいだった。

 今、何を考えていた――?

 一昨日から昨日、昨日から今日と、段々とこの街にあることを受け入れていく自分がいる。もう何人の相手から「初めまして」と言われただろう。二度目からはその部分が取り払われ、なんら修飾を必要としない挨拶の声をかけられる。そうやって街の日常へと溶け込んでいくのだろうか。
 ぞっとする。
 男は勢いよく立ち上がった。張りのあるマントがバサリと音を立てる。老婦人は洗濯物が乾けば届けてやると言った。ならば今日、再び会うことになるのだろう。そうしてどんな会話を交わす? その次に出くわせば?
 考えたくもない。
 出口へ、出口へ、出口へ――。アーチ型の穴を抜け、闇雲に歩き出す。盗人とののしってくれればいい。石を投げて追い出してくれればいい。砂嵐が吹くことを、願った。

 三年間、苛烈な土地を好んで歩いた。目の前に障害しか見えないような。前以外に進む道のないような。体を痛めつければ痛めつけるほど頭の中がクリアになり、神経がピンと研ぎすまされていく。荒れた土地に住む人々は心も荒れていることが多かった。襲撃を察する第六感。ありとあらゆる感覚が鍛えられ、剣士としての己が磨き上げられていく。毎日が冷たい針に貫かれるような緊張感とともにあった。
 生き抜くこと。前へ進むこと。考えるのはただそれだけ。岩壁に爪を立てるように。どこまでも強く、単純に、懸命に――。

 淀んだ水のようだと思った。
 出口であったはずの入り口の前で、男はとうとう膝をついた。前にも後ろにも道が見えない。行くべき方角が見あたらない。どこまで行っても檻の中。

「王妃よ、俺に何を求める。俺はただの乞食だ。今も、これからも――ずっと、ずっとだ」

 男は入り口の脇の壁にもたれかかった。形ばかりの抵抗だが、『中』に入りたくはなかった。
 しかし、通りのいい声が名前を呼ぶ。
「名無しの権兵衛(仮)殿、名無しの権兵衛(仮)殿! いずこにおられますかっ? お届け物です! 名無しの権兵衛(仮)殿ーっ!」
 迫ってくる蹄の音。あの伝令は一日中街を駆け回っているのだろうか。関わるとろくな事がないのはすでに充分知らされたが、届け物という言葉が気になった。心当たりが一つ、あるからだ。
 仕方なしに穴の前に出て姿を見せると、伝令は雷のような勢いで飛んでくる。
「ここにおられましたか。ヘレン・バーゲン殿から洋服一式と伝言を預かって参りました! こちらです。どうぞ」
 すっかり清潔になってしまった着慣れた服を、男は何ともいえない気持ちで受け取った。
「伝言ですが、昨日渡した服は権兵衛殿に差し上げると、こまめに着替えて身綺麗にするように、とのことです!」
 はきはきと伝えられる内容に、さらに複雑な気分になる。
「ヘレン殿は街を清潔に保つ役目を自ら担っておられます。子どもたちには理解されがたいですが、厳しい優しさというものを自然と備えておられる方ですから、権兵衛殿への言動も純粋な好意によるものです。権兵衛殿を否定しているわけではありません」
「……わかっている」
 そんなことは。
 汚いと顔をしかめられたことはあっても、洗濯されたことなどないのだから。
 ただ、否定された方が、きっとよかった。
「では失礼。他の方にもお届け物がありますので!」
 蹄の音が去っていく。男は再び壁にもたれ、スカーフをつけて帽子を深くかぶった。染みついた汗のにおいは消えていて、太陽と風の香りがした。

 日が傾き始めていた。頭の中に赤銅の色が浮かび、昨日の少女の形を作る。
 今日もあの公園に来るのだろうか。
 二度と会いたくなかった。
 だからといって、いつまでもこんなところに座り込んでいて何がどうなるわけでもない。城に詰めかけて門番を斬り捨てるべきだろうか? 剣士としての名誉と誇り、人としての良心を失う代わりに一体何が得られるだろう。

 どうして自分はこんなにも、気の狂いそうな思いをしているのか。

「くそっ!」
 わざと声に出して言ってみても、何も収まりはしなかった。
 おもむろに剣を抜き、大地に突き立てて両手で柄を握りしめる。まぶたをおろし、一呼吸、二呼吸。
 神経が冴え渡る。ここが戦場ならば何者にも負けはしない。この旅の間に著しく成長した己の剣を受け止められる者などいるわけが――

 入るがいい。イルハラがおまえの指針となろう。

 この場所で、最初に出会った男はそう言った。
「この俺が、ネズミのようにビクついていると、そう言ったか!」
 ――ああ。ああ、そうだろうとも!
 ここは戦場ではない。人々が敵であるとは限らない。そして、勝ちも、負けも、明確なものは何も、ないのだ。
 一振りの剣をのどかな森の中に投げ込んで何になる? ただ、錆びていくだけだ。

 俺はこの街が恐ろしい。

「天を気取って試練を与えてみたつもりか!」
 男は片方の頬の肉を歪めた。
 試練は苦難とも置き換えられる。男にとってこれ以上の苦難はなかった。
 だが試練はいつだって――立ち向かうものであり、乗り越えるものである。それが困難であればあるほど。逃げてしまいたい、と、願えば、願うほどに。

「飛び込んでやろう。そして俺は、けして錆びない」

 男は歩き出す。入り口に向かって。


思えば遠くへ来たもんだ? 子どもの目4


 公園に着くと、甲高い声が雛鳥のように騒ぎ合っていた。
「うるせぇーっ! マリーのバーカ! アーホ! マヌケーっ!」
「リ、リック、やめなよ、元はといえばリックが……」
「ブライトは黙ってろ!」
 完全に興奮している少年に、なんとかそれをなだめようとおろおろしている少年。二人の前にいるのは昨日の少女だ。
「そうよ、黙っていてちょうだい。ねぇ、リック? 今私のことバカって言った? アホって言った? マヌケって言ったかしら? しょっちゅう宿題を忘れてシンディ先生に怒られたり、テストの結果が返ってくるたびにヘカーテおばさんにこき使われたりしているあなたの言葉とは思えないわね。今だって、アンジェリカが一緒にいないところを見ると、また居残りだったんでしょう? 私はそんなマヌケな姿をさらしたことは一度だってないわ」
 少年よりも頭一つ分くらい背が低いが、堂々と顎を上げ、蔑むような視線を向けている。
「……うっ、だ、だいたいおまえは年下のくせに生意気だぞっ!」
 怒鳴り声にも臆することなくにっこりと作り笑いを浮かべてみせた。
「なぁんて使い古されたセリフかしら。それじゃあ次の国語のテストも期待できないわね。それにフローラおばあちゃんくらい年の離れた人ならともかく、あなたなんかに礼儀をつくす理由が一体どこにあるっていうの」
 一転、冴え冴えとした表情になる。
「……それも、自分よりもバカで、アホで、マヌケな人なのに?」
「う、うるさいっ! だからおまえは可愛くねぇっていうんだよっ!」
「リック! もうやめなよ! マリーも!」
 追い込まれた少年が苦し紛れに言い、傍らの少年がきつくとがめる。しかし少女は悠然とした態度を崩さなかった。
「……ああ、そう。だから何? それがどうしたっていうの? 可愛いだけで頭の空っぽな人間になりなさい、と言いたいの? そうなればさぞかしあなたのような人には好かれるんでしょうけど、あいにく私はあなたのような、可愛くもないし頭も良くない人間に好かれたいとはこれっぽっちも思わないの」
 少年は返す言葉を失ってしばらくうなると、わなわなと震えながら言った。
「おっ、おまえみたいな妹をもったオリバーは、すっ、すっげーかわいそうだよなぁっ! あいつの体が悪いのもおまえの毒気に当てられてんじゃねーのっ!」
「リック! 今のは最低だよ! 謝って!」
「……う」
 傍らの少年に肩をつかまれ、怒りで顔を真っ赤にしていた少年は途端に深く下を向く。
「ブライト! 黙っててちょうだいって言ってるでしょう! ……ねぇ、リック、そういうのをなんて言うのか知ってるかしら。……『負け犬の遠吠え』って言うのよ!」
 少女は嘲笑を浮かべ、少年は弾かれたように顔を上げた。
「おまえ……っ」
「まだ何か言うつもり? 少しは頭の回転を良くしてから出直した方がいいんじゃないかしら? まぁ、何をやってもバカはバカだと思うけれど?」
 少年は今度こそ本当に返す言葉をなくしたようだった。拳が小刻みに震え、それを振り切るように背中を向ける。
「……ブライト、行くぞっ!」
「リック! マリーもほら、謝って! あああ、もうっ、リーック!」
 もう一人の少年も慌ててその後を追い、
「……ふん」
残された少女はうつむいて軽く草を蹴った。

 男は結末を見届けてしまってから、今さらながらに姿を隠そうとした。本当は今度こそ少女を突き放そうと思っていたのだが、小さな体は打ちひしがれているように見えた。
 しかし、男が足を動かすよりも早く、少女が頭を上げてまっすぐに男を見た。
 幼い顔がみるみるうちに歪んでいく。
「……見たのね。あなたのせいなんだから! あなたがいなかったから、あんなバカにからまれて、こんな……っ」
 震える背中が丸くなる。白くなった拳がスカートの両端をぎゅっと握る。
 男は踵を返す。大きな瞳が濡れる前に。が、四歩ほど進んだところで脚に衝撃が加わり、がむしゃらな力で締め付けられてそれ以上一歩も動けなくなった。
「離せ」
 少女はぶら下がったまま首を振る。
 引きはがすのは容易い。しかし、と逡巡するうちに、少し離れたところから心配そうな視線が向けられているのに気がついた。
「慰めは商人にしてもらえ」
 気にかけている人間はちゃんといる、と、そう教えたつもりだったのに、少女はますます締め付けを強くした。
「傷、ついてなん、か、ないっ! 逃げ、られそ、だっ、た、から……っ、逃が、さな、よ、に、して、る、だけっ、な、からっ!」
 隠しようもないほど声を震わせ、それでも強がりをやめようとはしない。膝の後ろがどんどん冷たくなっていき、男は深く息をついた。
 抵抗する少女を肩に担ぎ上げ、森の中へと入っていく。木々が密集した薄暗い場所を見つけると、少女を下ろしてぐったりと木にもたれかかった。
「これでいいんだろう」
 少女は目をぱちくりとした。その拍子にしずくが一つ、二つ、こぼれ落ちる。ゆっくりと首を回して辺りの様子を眺めると、呆けたように男を見つめ、やっと大きな声で泣きわめいた。
 なんて鮮やかな変化だろう。男は思わず目を奪われていた。
 するすると皮肉を紡いだ口が声にならない声を出し、嘲笑を自在に操っていた顔が真っ赤に染まってくしゃくしゃに歪む。『生意気』という言葉では収まらないような険しさの裏側に、こんなにももろい一面がある。偽りはそのどこにもない。人の心の不思議。
 しがみついてくる腕を引きはがすこともできず、男は少女の激情が去るのをただ待ち続けた。

「……知ってる。可愛くないって、知ってるわ。……子どものくせに、頭が良くて、やりにくいって、大人たちが言ってるの、知ってるわ。全部、全部、知ってる! 本当のことを言われたからって、傷ついたり、しない! 私は、……私は、心はずっと、ずーっと大人、なんだからっ!」
 少女は小さな声でぽつぽつと話し始めたかと思うと、突然はっと顔を上げた。
「誤解しないで! 慰めなんかいらない! 泣いたのだって、気にしてもらいたいからなんかじゃないわ! そんなことするような子どもじゃないんだからっ! ただ……そうよ、このままじゃあなたが何がなんだかわからないでしょうから、だから話してあげてるのよっ」
「これ以上関わるつもりはない」
 男ははっきりと告げたが、
「ダメよ。あなた、紳士だもの」
少女はにっこりと笑った。
「レディの涙を守ったわ。花束をくれたのだって、やっぱり紳士だからなのよ。その傷んだ帽子とスカーフみたいに、妙ちくりんなもので覆い隠してはいるけれど、それでもあなた、紳士なんだわ」
 つき合っていられない。
 男は少女を置いて公園に戻ろうとした。しかしここまでまっすぐに歩いてきたわけではなかった。担がれていた少女は現在位置を把握しているのか、一人で戻れるのかどうか……。仕方なしに向き直ると、少女はますます笑みを深くした。
「ほら、ね?」
 さっきまで泣いていたのに今は得意げに胸を張る。変わり身の早さにあきれ果て、よくわからないいらだちを持てあまして、男は露骨に顔をしかめた。
 妙に、癇に障った。
「……確か、勘違いはしないと、そう言っていたと思ったが……?」
 少女の表情がさっと変わる。
「何よ! 私の勘違いだって言いたいのっ? 自慢じゃないけど私は本当に頭がいいのよ! 嘘を見破るのなんて簡っ単! 大人が何を考えているかなんて、手に取るようにわかるんだからっ!」
「ならわかるはずだろう。これ以上関わるのは御免だ。……子どものお守りをする気はない」
 わざわざ重ねて挑発した自分に、男は驚いて目を瞠った。この街に感化されはしない、と誓ったのはつい先ほどのこと。しかし今口を動かしているのは誓約ではなく、つかみ所のない奇妙ないらだちの方に思えた。困惑を押し隠すように言葉を続ける。
「もう、待つな。俺は知らない」
 だがその一言に、今にも目で殺さんとにらみつけていた少女が勝ち誇った笑みを浮かべてみせた。
「今の、『待たれると放っておけない』って言ったのと同じだわ。それに、知ってるかしら? 人って本当のことを言われると怒るものなのよ。あなたさっき、初めて本当に怒ったわ。……何故だか知らないけれど、私に優しくするのが怖いのねっ!」
 それが何故だか、わからない。
 巨大な蛸の化け物が砂の中から触手を突き上げたようだった。いらだちが一気に噴き出して、瞬時に怒りへ姿を変える。それをそのまま投げつけた。
「……おまえは子どもだ。その傲慢な目で人をもてあそぶ、ただの子どもだ!」
 八つ当たりだ!
 たかが子どもが発したたわいのない、取るに足らないはずの言葉にわけもわからず揺るがされた己への怒りを、少女へのものとすり替えている。
 そう思っても、抑えられない。なんて未熟な!
 少女は青ざめて叫んだ。
「……嘘をつけるようになれば大人なのっ? 私、悪いことしてないわ。本当のことを言っただけだもの! 謝らないんだから! 待ってるわ! 今日だってずっと待ってる! あなた、私に花を贈ったわ! 通りすがりでも! 私に! くれたんだから! ……待ってるっ! ずっとよ!」
 男は少女を置いて森を抜けた。
 心を落ち着けようと剣に手を伸ばし、やはりやめて拳を固く握りしめた。悪党などここにはいない。木を痛めつけてしまいそうだ。
 本当に、何故こんなにも揺るがされたのか、まるでわからなかった。何をされたわけでもない。ただ一言で――。

 見透かされた。

 頭の中に浮かんだ言葉を繰り返し否定する。違う。怖いなどと。この街に対する思いとあの少女への思いは違う。面倒なのだ。あの煩わしさを味わうのは二度と御免だ。ただ少女の傲慢さが鼻についた、それだけだ。
 大人げないことをした。だが、これでいい。予定通り、関わってくるものはすべて切り捨てる。商人は自分が少女をつれて森に入ったのを見ていた。夜が更けても少女が帰らなければ保護者にその話がいくだろう。そして自分を追い出してくれれば――それでいい。

 空が鮮やかな朱色に染まる。今日も鳥たちは西を飛ぶ。男は歩く。
 森から出てきた少女と顔を合わせないよう公園を出て、「初めまして」の挨拶など聞きたくもないので人気のない場所を探して歩く。歩く、歩く。見つからない。どこにもない。そしてついに立ち止まる。
 いつも、場所などなんの関係もなかった。ただ目の前にある試練だけが重要で。どの街にも長居せず、毎日ひたすら歩き続けた。手段も、目的も、旅の中にこそあったから。それさえあれば、他は必要なかったから。

 ここで、俺は、俺を貫く。それだけが、ここに在る意味。だが――
 目的を見いだした今、なおも耐え難い疲れがあるのはどういうわけだ?

 自問に答を返せない。進む方向に意味などなかったのに。さまようようにしか歩けずに、時間を気にして、いつ公園に『戻る』かと、そう思うのは、どういうわけだ――?

 朱色から薄墨色へ。夜の帳が優しく降りる。ゆっくりと、いくつもの輝きを散りばめて。
 三番星を見届けたとき、男はまだ戻れない、と眉を寄せた。西の空のわずかな名残も消え失せて、星につけた番号も意味をなさなくなった頃、昨夜の少女の様子が頭の中で繰り返し男を責めた。そして今日の、激しい泣き顔が重なっていく。

 自業自得だ。待つな、と、ちゃんと告げたのだ。知ったことか。

 家々にはすっかり明かりが灯り、どこからか漂っていた食欲をそそる香りもついに途絶えた。
 子どもはすぐに腹を空かせる。そううなずいて、男は寝床へ帰ることにした。もういない、いないはずだと、何度も心でつぶやいて。
 そうして――その寝床、公園のベンチには、少女が膝を抱えてうずくまっていたのだった。
「こ、の、馬鹿がっ!」
 思考がそのまま声になる。
 少女は暗闇の中ですがりつけるものに向かって一直線に駆けてくる。昨日と、まったく同じように。
 街の日常に溶け込むなどまっぴらだというのに、震える体をやはり、引きはがすことができずにいる。男は左手を赤毛の上に乗せ、音のない息を深くついた。
「何故、そんなにも俺になつく」
 少女がぴくりと肩を震わせる。
「……だって、私、可愛くないんだもの」
 男には意味がわからない。少女はちらりと上目を向けて、自分の髪を一筋ひょいとつまんだ。
「見て。この、赤い髪。まるで傷んだような色よ。鼻の上にだってこんなにそばかすがあって、リックにもよくからかわれるわ」
 自嘲して笑う。
「それなのに、生意気で、嫌味ばかり言って、人を……傷つけて。私、アンジェリカみたいになれないもの。あんなふうに、いつもにこにこ、バカみたいに簡単に笑って、簡単に……今さら人前で泣いたり、できないもの……っ!」
 アンジェリカ、とは、誰の名前だったか。男には思い出せなかったが、少女はもう一度その名を呼んだ。
「あの花を見たとき、アンジェリカに似合いそう、って思った。でも、あなたは私にくれたからっ、通りすがりでもなんでも、私のことを知らなくたって、私だったからっ! ううん、私のことを知らなかったから! ……あなたの前なら、きっと、素敵なレディになれるって、思ったの……」
 少女の瞳に再び涙がにじみ出す。
「……ごめんなさい。……ごめんなさい! 謝るからっ! 嫌いにならないでっ! また傷つけたら、また怒って! ちゃんと、謝るから……っ。……ごめんなさい」
 すがりつく、何度目かの、余裕のない、力。紛れもなく、少女は子どもだった。――揶揄ではなく。
 男はいたたまれない思いがした。
「……いや、すまなかった。……俺の方こそ」
「許してくれる、の……?」
 少女がおそるおそる表情をうかがってくる。
「……ああ。許すも許さないも……」
「お話、してくれ、る……?」
 男は思わず口をつぐんだ。まさかそうくるとは思いもしなかったのだ。ちゃっかりしていると言えばいいのか、もしや今までのはすべて計算だったのではと疑ってしまいそうになる。そんなことはないと、わかっているのだが。
「……ダメ、なの……?」
 少女の顔が曇った。この子どもに泣かれるのはもう嫌だった。
 根負けという表現が一番近いのかもしれない。
 男は眉間を強く押さえ、心の中で小さく白い旗を振った。
「頼む……根掘り葉掘り聞くのはやめてくれ……」
 絞り出す、一声。
「そんな子どもっぽいこと、しないわ」
 少女は嬉しそうに、花がほころぶように可愛らしい笑顔を見せた。
続く。
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