思えば遠くへ来たもんだ? 異邦の旅人1
赤茶けた砂煙が続いていく。
男は皮の帽子を目深にかぶり、鼻から下を覆うスカーフを軽く押さえた。
風の音が耳にうるさい。マントがバタバタとはためいて体を持って行かれそうになる。まるで竜巻の中にいるようだ。どれほど進んだのか、行く手に何があるのかもわからない。自分の瞳は黒いはずだったが、もうずっと煉瓦色に染まっている。右の腰はひどく軽い。水も食べ物も残っていない。来た道は戻れない。
男はベルトから剣を外し、ひび割れた大地に突き立てた。刻むようにして前へ、前へと進んでいく。風が勢いを増すたび、鋭く前をにらみつける。
困難は絶望ではなかった。むしろ試練のように感じていた。それは乗り越えるべきものだ。
男は歩き続ける。
そのために旅人となったのだから。
ふいに風がやんだ。気まぐれのような静寂が大地に降りる。
男は帽子を押さえつけていた左手をゆっくりとおろし、徐々に目を見開いた。
さっきまで砂煙が刻んでいた空間に、宝石のごとき緑の園が広がっている。
――蜃気楼。いや、悪戯好きな精霊の見せる幻か。
やおら剣を抜く。血と泥の染みこんだぼろ布にくるまれた鞘から、光り輝く刃が現れる。
「精霊よ、この剣は肉と魂を断つもの。俺の行く手を阻むなら容赦はしない」
幻は揺るがない。
人にちょっかいを出してくる精霊は総じて大胆で恐れ知らずだ。人間の力を侮っている。
男は剣を収め、まっすぐに幻の都へと向かっていった。罠を回避するも飛び込むも、すべては乗り越えるため。
――これが試練ならば、立ち向かうべきものなのだ。
その都は高い壁に覆われていた。一体何で作られているのか、継ぎ目らしい継ぎ目は見あたらない。砦として見るなら実に堅固な素晴らしい建築だといえるだろう。門が開け放たれていなければ。いや、正確には開け放たれているとはいえなかった。
ないのだ。
壁にはぽっかりとアーチ型の穴が開いている。そしてその上には、
『ようこそ緑のオアシス・イルハラへ! 宿屋は十メートル先を左折!』
と書かれた看板が掲げられていた。
男は思わず腕組みをして考え込む。
こんな場所にオアシス……。あってもおかしくはない……と、いえなくもないが、やはりここは幻と見るのが一番だろう。今はオアシスといえどもものものしい警戒を必要とする時代だ。例えどれほどの辺境にあっても。
門の周りには見張りの一人さえいない、ここはあまりにのんきすぎる。
アーチ型の穴から見える光景はまさに地上の楽園といっていいものだ。立ち並ぶ木々。生え茂る草。わき出す泉に、――人々の明るい声。左の奥にはカラフルな町並みが。緑の向こうには城らしき尖塔が見える。
――これで俺を誘惑しているなら、とんだ見当違いだ。
男は剣の柄に手を這わせた。振り向きざまに抜き払い、背後に向かって一太刀する。
「何者だ? 精霊に影があるという話は聞いたことがない」
加減のない殺気をたたきつけた。
気配は完全に絶たれていた。影が影を覆う場所に来るまで、その存在を気づかせずにいた人物。相当の使い手だ。
突きつけた切っ先の前には、無精ヒゲの筋肉ダルマがでんと構えて立っていた。身じろぎするでもなく親指と人差し指の谷で顎のヒゲをなでつけている。その手にも腰にも武器の姿は見あたらない。
「若者よ、それほどの腕がありながら何故ネズミのようにビクつくのだ。……周りのすべてが敵であるかのような顔をして。慎重と臆病は異なものと知れ。……入るがいい。イルハラがおまえの指針となろう」
「なんだと……っ?」
むさ苦しい大男は口の端をつり上げると、蟻一匹逃さぬと言われた突きを軽々と抜け、背中を向けて街の中へと入っていく。
「待て!」
男はすぐさま後を追った。剣を抜いた自分を前に背中を見せて去っていくなど、これ以上ない屈辱だ。
しかしすぐに右手から蹄の音が迫ってくる。ただ一騎のみだったが、すでにここは罠の中。隙を見せるわけにはいかなかった。
男は騎馬に向き直る。
「旅の方とお見受けする! 私はルーク・クラウディッツ。街の情報を司る者。名前と職業を尋ねさせていただく!」
馬上の男は息を荒げる馬をいなしながら言った。
名を呪として術を使う精霊もいると聞く。男はマントの中にひそませた剣を握り直す。
「……名乗っていただけない場合、名無しの権兵衛(仮)殿ということになるがよろしいか?」
「……結構だ」
慎重にうなずくと、気にとめた様子もなく次の質問がやってきた。
「では職業を。イルハラでの滞在はいかほどのご予定で?」
「……俺は物乞いだ。滞在はそちら次第といったところだろう」
多分に挑発を含んだ答を返せば、
「ふむ、物乞い。今までのイルハラにはおりませんでした。新しい風ですね! 私たちはあなたを歓迎いたします! ようこそイルハラへ! どうぞお気のすむまで安らぎの時をお過ごしください!」
皮肉としか受け取りようがない笑顔を向けられて、
「では失礼。私は早速この情報をみなへ伝えねばなりませんので!」
颯爽と立ち去ってしまった。
男は少々唖然とした。
間をあけずに通りのいい声が聞こえてくる。
「伝令、伝令ー! 名無しの権兵衛(仮)殿、職病物乞い! 本日入国ー! 物乞いの名無しの権兵衛(仮)殿、本日入国ー! 伝令、伝令ー!」
男はひどい頭痛に見舞われた。
質の悪い悪ふざけだ。一体どんな精霊が自分を招き入れたのか。しかしとりあえず命を狙っているわけではなさそうだった。からかうつもりだろう。
やれやれと剣を収め、空っぽの水筒と携帯袋の中を一瞥する。
もしも幻でなく現実だったならば。
歓迎していいものかどうか、わからなかった。
思えば遠くへ来たもんだ? 異邦の旅人2
万緑の中を歩いていると幻に取り込まれるのも悪くないような気になってくる。
男は軽く首を振った。
左に見えた町並みと右に見えた公園とで思わず右を選んでしまったが、先ほどまで砂嵐に巻かれていたことを考えるとこれは非常に不自然な光景だった。
下も緑。上も緑。噴水やベンチが据えられているところから公園と見て間違いはないのだろうが、少々手入れの届いていない、乱雑な森。それゆえに力強い生命力を感じさせる。何もかも切り刻まんとする風の刃も、すべてを拒むように乾いた大地のひび割れも、見る影もない。
努めて神経を研ぎすませようとするのだが、穏やかな木漏れ日がまるで子守歌のように心を揺らしていく。
――こんな場所で最期を迎えられたら。
男は再度首を振る。
それは安らかな想像だったが、これは幻なのだ。取り込まれることはすなわち敗北を意味する。――自らへの。
左手で剣をなぞり、歩き出す。緑の奥には城が見える。冗談好きな精霊がいるならそこだろう。しかし急ぐ気にはなれずに、小鳥たちのさえずりを聞きながら進んでいた。
「街にはいなかったから、きっとこっちの方にいると思うのよね!」
「王様に挨拶に行こうとしているのかもしれないね」
何やら背後が騒がしくなってくる。男は眉をひそめ、拳一つ分ほど歩幅を広げた。
しかし。
「あ! あれよきっと! いかにも旅してきましたーってマントだもの!」
女の甲高い声が背中に突き刺さる。続いて連れの男が
「すいませーん、名無しの権兵衛(仮)さん、ちょっと待ってくださーい」
間延びした調子でふざけた仮名を呼んだ。
男は靴一足分ほど歩幅を広げた。
「あら? 聞こえなかったのかしら。もしかしたら耳の不自由な方かもしれないわ。シモン、走るわよ! 絶対に散らさないでね!」
「タ、タニア……」
草の削れる音が近づいてくる。些細な小競り合いは時間の無駄だ。大人しくからかわれてやるつもりもない。だが、仕掛けてくるのなら立ち向かわねばならないのだろう。立ち止まり、くるりと振り向く。
かすかに息を弾ませた女は嬉しそうに微笑んだ。
「ああ、よかった。聞こえてらしたのね。初めまして名無しの権兵衛(仮)さん。私、タニア・スピークスと申します。こっちは夫のシモンですわ」
遅れてやってきた連れの男は両手いっぱいに豪華な花束を抱えていて、思わず怪訝に見つめてしまう。タニアはにこにこと微笑みかける。
「私たち花屋をやっておりますの。どうぞこれを。お近づきの印です」
花の名前に詳しくはない。しかし差し出された花束は宮殿に飾られていてもおかしくないものだと一目でわかる。男はますます怪訝な顔をした。いくら営業熱心な花屋でも、乞食にこんなものを渡すなどどうかしている。
何か仕掛けてあるのだろうか。
間者や刺客を見破る目には自信がある。目の前の二人は純粋な好意で言っているように見える。その足下には黒い影。
幻に影をつけることはできただろうか?
だが幻と考えなければ説明がつかない。突然やんだ砂嵐。突然現れた緑の園。そこに住まう奇妙な人々。
「あの……聞こえてます、わよね?」
顔をのぞき込むようにされ、男ははっと顎をのけぞらせた。
「……聞こえている。俺に近づくな」
あと一歩でも近寄られていたら、剣を抜いてしまっただろう。しかしタニアはクスクスと、おかしそうに笑いをこぼす。
「まぁ、なんだか可愛らしいのね。見ればまだ若い方、あまり女性に慣れていらっしゃらないのかしら?」
「タニア、もしそうならなおのこと、そんなふうに言うもんじゃないよ……」
シモンががさがさと花束を揺らす。夫婦の勝手な解釈に、男はじわじわとした疲労感にのしかかられる。
「……俺は物乞いだ。花屋の世話になることはない。受け取れない」
端的に言い捨てて背中を向けた。脇から花が追いすがる。
「まぁ、まぁまぁまぁ! 違います。そんなつもりじゃありませんのよ。これは私たちから街の新しい住人への歓迎の花束ですわ!」
「そうです。営業じゃありません。僕たちの心づくしです」
「……乞食を歓迎するのか?」
ますますもって奇妙だった。薄汚れたぼろを身にまとい、働こうともしない者など、どこに行っても鼻つまみもの。たたき出されたことは多いが、歓迎されたことは一度もない。
夫婦はにっこりと笑う。
「僕たち、今知り合ったばかりです。あなたが何故乞食をしているのかとか、何も知りませんし、むやみに首を突っ込んでいいことなのかどうかもわかりません。確かなのは今、ここにいること。仲良くしたいと思って当然でしょう?」
にこにこ。
「初めて知り合う方にはいつも花を贈りますの。私たちが何より自信を持って贈ることのできるものですもの」
にこにこ。
――うすら寒い。
男の感想はこうだった。
おそらく二人の気持ちに嘘はない。だが好意が純粋であればあるほど、心地が悪く思えてしまうのだ。やはり幻なのだと思う。こんな人間はいない。
しかし押しつけられた花束を、振り払うことも地に落とすこともできなかった。
「……いらない」
そう言ってみても、
「でしたら捨ててくださっても結構ですわ。悲しいし、可哀想ですけど、それはあなたのために用意したものですもの。他の方にお贈りするわけにはいきません」
にこにこ。
「街のことでわからないことがあったら何でも聞いてくださいね。これからよろしくお願いします」
にこにこ。
夫婦はにこやかな調子を崩さぬまま、満足げに去っていってしまった。
残された花束。
男は鼻を覆うスカーフを引き下ろして香りを嗅ぐ。茎の根本に指を差し入れても、何か仕掛けてある様子はない。ただ美しいだけの花。ただ好意だけで、贈られた。
左手の他に持つ場所がない。男は自分が滑稽に思えた。
ため息をつくと、またもや背後から高い声が響いてくる。
「あれだっ! あんなきたねーマント、街の人間じゃ見たことねぇっ!」
今度は子どものようだ。いかにも正直な評価を下してくれる。
「やっぱり花束持ってるよ」
「くそっ、またタニアおばさんに先越されたかっ!」
「だってお母さん、『初めまして』するの大好きなんだもん♪ アンジェも大好きよ?」
子どもらしい好奇心で街の新顔を見に来たようだった。
「なーなー、おっさん、どっから来たんだ?」
ためらいもなく聞いてくる。
子どもは無視するに限る、と、男は知っていた。そうすれば早々に興味をなくして去っていくだろう。
「おいっ、聞いてんのかよ! おっさん!」
効果が出るのも結果が出るのも非常に早い。眉をつり上げる少年を、視界から外してとことんまで無視する。
少女が少年の袖をくいくいと引いた。
「リックったら。『初めまして』のときにはちゃんとこちらからご挨拶しなきゃダメなのよ? お母さんいつも言ってるもの」
少年は慌てて少女の口をふさごうとする。
「馬鹿! こいつは名無しの権兵衛なんだぞっ?」
しかし少女は可愛らしいお辞儀をちょこんとして、にこにこと微笑みながら言った。
「初めましておじさま。アンジェリカ・スピークスですっ! お父さんとお母さんはお花屋さんですっ」
たんぽぽのような雰囲気がよく似ている。男はそう思ったが、微塵も態度には出さなかった。
「あ、僕はブライト・ケイクです!」
もう一人の少年が続く。
「ほら、リックも」
「おーれーのー名ーをーよーぶーなーっ! なんでこんなヤツに名前を教えてやらなきゃいけねーんだよっ! 不公平だろーっ?」
リックと呼ばれた少年は思いきり頬をふくらませる。その間も男はすたすたと歩みを進める。
「あっ、ほら、行っちゃうよぉ!」
駆け寄ろうとするアンジェリカを、リックは力いっぱい引き寄せた。
「もういいだろ、あんなヤツ! 何言っても答えねーんだぞ? つまんねぇよ!」
「それはリックがちゃんと自己紹介しないから……」
ブライトをにらみ、アンジェリカの手を引いて走り出す。
「ま、待って。アンジェ転んじゃうっ」
次第に遠くなっていった喧噪に、男はやれやれと息をついた。
この街が幻であるという考えは何故か薄まっていた。ルークという男が言ったように、ここには物乞いがいないのだろう。警戒心のかけらも抱かず、好奇心だけでやってくる。奇妙な街。奇妙な人。だが、彼らが作り物のようには、とても見えなかった。
心の奥底にそれこそが罠なのだという思いもある。しかし左手の花束を見つめると、罠だからどうなのだという思いがわいてくる。どちらにしても自分がとる態度は同じではないか。
関係ないのだ、誰も彼も。
城に着いて確信を得たらすぐに街を出るだろう。オアシスなど、必要ない。
思えば遠くへ来たもんだ? 異邦の旅人3
黙々と進む男の前にごてごてとした鞍をつけた白馬が立ちはだかる。その上には見るからに貴族のお嬢様といった感じの女が足をそろえて座っている。手綱を引く従者は恭しく手を差し伸べた。
「こちらはイルハラ王国第二王女、ミシェイラ様であらせられる」
王女、と聞いて、男は改めて視線を向けた。
最初に目を引いたのは腰の辺りまである豪勢な金髪だ。そんじょそこらではお目にかかれない、見事な輝きを放っている。シンプルな濃紺のドレスがさらにそれを際だたせる。顔に注意が行くのは少し遅れたが、その造りも髪に負けず劣らず美しかった。
王女は男の視線にわずかに口の端を上げたと思うと、全身を使って盛大にため息をついた。
「……がっかりですわ」
王女らしからぬ品の無さである。そしてそのつややかな唇はさらにこう続けた。
「ルークが! 旅人で! しかも妙齢の男性だと言うから期待していましたのに! なんですのコレはっ? こんな汚らしい、ぼろぼろの! 私の馬の方がよほど綺麗ではありませんのっ! 失格です! 失格ですわ! 大却下ですっ!」
男には何がなんだかわからない。癇癪を起こし続ける王女を一瞥し、従者がこっそりと話しかけてきた。
「……ミシェイラ様はハーレムをお作りになるのが夢なのですが、未だそのお目に叶える男性に出会えていらっしゃらないのです」
脱力してしまう。王女が乞食に何をしにきたかと思えばこれである。まさか王族はみんなこんなふうだというわけではあるまいが、国王に会う気力はかなりそがれた。
「……失礼なことを聞くが、本物だろうか?」
従者は「もちろん」、とうなずきを返す。
鵜呑みにするわけではないが、もういいのではないだろうか。きっとこれは幻ではなく現実で、ようするにこの街も人も何もかもが変なのだ。それだけだ。別に国王に会わずとも。
「行きますわよセバスチャン! 時間を無駄にしましたわ!」
王女の方も自分の前から去ってくれる。大人しく頭を垂れている年若い従者に、男は少々同情した。
それも束の間、ミシェイラが「あら」と声を上げ、思わずそちらに視線をやる。
「お父様も見にいらしたの?」
お父様。それはもちろん国王のことだろう。
今度は黒い馬が姿を現す。手綱を引くのは中年の男。そして馬上には――
一枚の鏡が乗っかっていた。
中年の男は鏡を両手で持つとはぁ、と息をつき、そっとこちらに向けてくる。両腕で作る輪くらいの大きさがある鏡には、金髪碧眼の男性が映っていた。
「……国王陛下、ライオネル様であらせられます」
しおれる草のような紹介とは対照的に、鏡の中の男性は太陽のごとく尊大な笑みを浮かべている。
「よぉ! よろしくな! 俺様の王国にようこそー♪」
背後を振り返るが誰もいない。
これはやはり幻で、悪戯好きな精霊の冗談なのだろう。男は深く納得した。
「あー。その顔。外からやってきたヤツぁ、みーんなその顔すんだよなぁ。面倒くせぇ。大臣、いつもの説明よろしく頼まぁ」
碧い瞳が細められる。鏡を持つ中年の男が、深々と嘆息する。灰色混じりの黒髪がやけに悲愴に見えた。
「……申し遅れましたが、私、この国の大臣をやっております、ギルデバルド・イルデバーンと申す者。陛下に代わってご説明申し上げます」
男は眉をひそめる。てっきりただの従者なのだろうと思っていたのだが。大臣は再度息を吐く。
「この国の王妃様は、……いわゆる、魔女、なのでございます」
魔女とか魔法使いとかいう存在は、非常に希有なものとされている。本来精霊は人とは交わらない。一方的にちょっかいを出してくるか、人間の手で狩られるか。しかし魔女や魔法使いは違う。精霊と意思を疎通させ、思いのままに操ることもできる。とは第三者の目から見た感想で、魔法使い当人が言うことにはあくまで精霊たちとの間にあるのは友情の類なのだという。しかしどのみち各国の脅威となっていることに変わりはない。
こんなところに魔女が。
男は瞳を瞬かせた。大臣は眉間にしわを寄せてため息をつく。
「……いえ、ハイ、その魔女ですが、違う意味でも魔女なのでございます」
そしてまたため息。いくらついてもつきたりないといった調子だ。
「……王妃様は、その、……気に入ったものをいじめてしまうといった習性の持ち主でして、……それで陛下はこのように、鏡の中に閉じこめられているのでございます。……ハイ」
「まったくお母様にも困ったものですわ。お父様も、それをわかってらしてあえて回避策をとらないのですもの。どうしようもありませんわ」
ミシェイラが口を挟む。ライオネルは笑いながら鏡面をぺしりと叩いた。
「何言いやがる。これはあいつの愛の証なんだぞ? かーわいいじゃねぇか! 愛の前には理性がきかねぇんだ。俺はあいつのそんなところにべた惚れなんだよ!」
「……そういうわけでして。無理を承知で申しますが、陛下のお姿についてはどうか気になさらないでいただきたく……ハイ」
つつけば倒れそうな大臣に、豪快に笑い続ける国王陛下。鏡の中に閉じこめた、犯人は魔女。しかも王妃ときた。
それこそ冗談のような話だったが、もしや、と、男は尋ねた。
「……ここにたどり着くまでに、ひどい砂嵐があった」
大臣は瞠目する。
「あなたはあれを越えてこられたのですか。てっきりどなたかのお客様だとばかり思っておりましたが……いえ、その、あれは結界のようなものでして。内から招く者がいない限りは侵入者を拒むようになっているのです」
「……招かれざる客ということか」
男は少々おかしくなった。招かれたのではなく、侵していたのだ。それを罠と受け止めて疑心暗鬼に陥るとは。勘違いも甚だしい。一言謝罪を告げ、早急に出て行こう。そう、思ったのだが。
大臣は言いにくそうに視線を落とした。
「いえ、あなたは招かれたのです。……王妃様ご自身によって。……気に入られてしまったのですね。……もはやここを出ることはかないません」
ぽかんとして目を見開く男に、鏡の中から追い打ちがやってくる。
「俺様の妃はすげぇぞっ? その力たるや物心ついたときから一人でイルハラを守り抜くくれぇだからな! 誰にも破られたことはない。つまりおまえにも破れねぇ。で、だ。その妃を落とした俺様はもっとすげぇ!」
大臣が「陛下、余計なことを口にされないように。あなたは今鏡の中なのですから」と王を諭す。だが男には聞こえていなかった。
気に入っただと? 招かれただと? 出られないだと?
「……王妃に会うにはどうしたらいい」
大臣は癖になっているため息をまた一つ。
「……あなたが会いたいと願う限り、どのようなことをしてもお会いすることはかないません。……そういう方ですから、……ハイ」
重く深く長く、響かせた。
思えば遠くへ来たもんだ? 異邦の旅人4
男は暫時沈黙した後、くるりと踵を返した。
「あーん? どこへ行く?」
「この街を出る」
気安い問いかけを切り捨てる。ライオネルは鏡面をばしばしと叩く。
「むーり無理むーり! あきらめてここに住めや権兵衛!」
叩き割ってやろうか、という殺意が芽生えたが、男はなんとか押しとどまった。
一つところに定住するなど冗談ではない。しかもこんな妙な街に。それも自由を縛られて。出られないと告げられたくらいで屈服してなるものか。なんとしてでも結界を抜けてやる。
そんな男の決意を押しのけるようにして鏡の中の美丈夫が指を鳴らす。
「よーっしゃ、そうと決まれば大工を呼ぼう。立派な家建ててもらえよ!」
決まってない。だいたい乞食に家をあてがってどうするのか。――もはや切り返す気にもならない。
男はすぐさま立ち去ろうとしたが、ふと思い当たって向き直った。
「国王と言ったな」
「……嘘ではございませんよ」
大臣が背中を丸めて鏡を持ち直す。その点も非常に不審ではあるがひとまずそれは置いておいて。
「……そもそも何をしに来た?」
王が、乞食に。
タイミングと流れからして自分に会いに来たことは間違いないと思われる。王女のようにハーレムに入れる男を見定めに来たわけでもなかろう。もしも王妃に関する用件で来たならば、耳に入れるくらいはした方がいい。
ライオネルは思いきりふんぞりかえって言った。
「おう、いいか、俺様は王サマだ! 新入りは丁重にもてなしてやる、こりゃ王サマの務めってヤツだ! 何か困ったことがあったら俺様に言え。俺様に不可能ってもんはねぇっ!」
男はうつむいて痛いほど引き寄せた眉の間に指を当てた。王女も王女で、王妃も王妃なら、王も王だ。どこまで奇妙な国なのだ。放浪を始めて三年、様々な地を渡って来たが、いまだかって出くわしたことのない珍妙さだ。
「なら王妃に会わせてもらう。……とにかく俺はここを出たい」
疲労感に耐えながら紡ぎ出した言葉は、あっさりと却下された。
「俺様があいつの楽しみを邪魔するわけねーだろ? 楽しいことは一緒に楽しんでやる。そりゃ夫の務めってヤツだ!」
もはや話すことはなかった。全力をもって結界に挑むまで。
「ほどほどにして戻って来いよー! 俺様もおまえのこと気に入ったからよぉ、城に来りゃいつでも遊んでやらぁー!」
背中にかけられた声を斬り捨てたい衝動をやり過ごし、男は来た道を猛進した。
「お父様、あれのどこが気に入りましたのっ? 私は却下でしてよ!」
「ん? あーいうヤツほど実はからかうとおもしれぇもんなんだぞ? ちょっくら鍛えてやんのも楽しいじゃねーか」
「……陛下、……その、……ハイ」
後に残った人々の会話が届かなかったのは、誰にとっての幸運なのか。
門のところまで引き返して立ち止まる。左手の花をじっと見つめる。
あの風ではひとたまりもないだろう。無事に抜けたとしてもその後はまた乾いた日々だ。持って歩くわけにはいかない。
男は途方に暮れた。道ばたに打ち捨てるのはためらわれた。やはり受け取るのではなかったと思うが、今さらそんなことを言ってもどうにもならない。これまで頓着せずにいたせいで美しく整えられていた花々は微妙に位置がずれたりへろへろになってしまっている。自分が持つべきものではないと、花束自身が訴えかけているようだ。
花屋の一家のことを思い返せば、例えば――穏やかな家庭の食卓に、さらなる幸せを運ぶような。それこそがこの花にふさわしい有り様だろう。
花から視線をそらした延長線上、小さな子どもの姿が見えた。自分の三分の一あるかないかの少女が、一人とぼとぼ向かってくる。赤銅のような赤毛が目元を隠している。まだこちらに気づいていない様子だった。
男は逡巡したが、その時間さえも惜しくなって声をかけた。
「突然すまない、これをもらってほしい」
少女はきょとんと目を丸くする。あどけない表情は押しつけた花々の風格と少々釣り合いがとれていない。だがそれもまた微笑ましい感じがした。
「受け取ってくれ。俺には必要のないものだ」
自分の手にあるよりはこんな少女に愛でられた方が花も嬉しいに違いない。
少女はこぼれ落ちそうな瞳のままそっと花束に手を添えた。男は安堵の息をもらすとともに「ありがとう」、とだけ告げた。少女がますます目を見開く。
さぞ不審に思われていることだろうとは思ったが、フォローはしなかった。花を抱えて呆然とするのをそのままに、早足で門をくぐり抜ける。
一刻も早くこの街を離れるのだ。これ以上ここにいたくない。水筒も携帯袋も空のままだったが、だからなんだと考える。最初は花屋の夫婦だった。そして次に子どもたち。さらに王女に国王だ。全身の細胞がざわざわと不快感を訴える。あれらにまみれて暮らすのはまっぴらだった。
旅を、続けなくては。目的も手段もそこにある。
男は一直線に歩き続けた。しかしほどなくして街の入り口に戻ってきた。何度も、何度も、どれだけ突き進んでも同じ光景が見えてくる。見えない迷路。まるで世界が嘲っているかのように。風は牙をむかなかった。ただねじ曲げられた空間がやんわりと男を引き戻すのだ。
焦燥がよじ登る。
魔女め、一体どういうつもりなのか。大臣は「気に入られた」と言った。どこまでもふざけた――
男ははっとした。
「気に入られた」とは、何をもって気に入ったのか。
魔を使う者の力には個人差がある。優れた使い手の限界は一体どれほどのものなのか、常人には想像が及ばない。
もしも思考や記憶を読みとる術があるとしたら――?
それが理由で、自分を閉じこめたのなら。
王妃を打ち倒さなければならない。
男はアーチ型の穴をにらみつけ、ゆっくりと街へ戻っていった。
思えば遠くへ来たもんだ? 異邦の旅人5
最初に目指すべきはやはり城であろう。
尖塔に向かって進むうち、徐々に歩調が上がってくる。公園は縦に長く、道らしい道もない。繁茂する草の上に踏み分けられた跡があるだけだ。緑のざわめきになだめられているのかさいなまれているのか、よくわからなくなってくる。
「おーい、あんただろー? 名無しの権兵衛(仮)ってのは〜」
そしてまたもや背後から投げかけられた声に、男はさらに歩調を上げた。
今度は一体誰なのだ。この街の人間はどうしてこうも自分を放っておいてくれないのだ。
走るようなペースで歩いていく。しかしこの街の人間は――
「おい、待てって。しゃーねぇ、走るか」
やはり、追いかけてくるのだった。
「よう、初めまして。俺はゲイル・トーエン。街の大工だ」
明るく差し出された右手に、男はげんなりとした様子を隠せない。
「俺は今からこの街を出る」
そのまま振り切ろうとするのだが、
「待てって。あんた王妃様のお客なんだろ? それじゃ出れねーよ。王様からあんたに家建ててやれって頼まれてんだ。ほれ、どんな家がいいのか言ってみな」
ぐいっと肩をつかまれる。
男は咄嗟に剣を抜いた。まったくの無意識だった。体が勝手に動いたのだ。切っ先を三秒ほど突きつけた後、弾かれたように正気に返る。
「あ……。すまない。……俺に触るな。家はいらない」
大工は顎を引いて固まっていたが、男が背中を向けて歩き出すと、すぐにその後を追った。
「あー、いやいや。こっちこそ触られたくないのに触っちまって悪かった。まぁまぁ待てって。釘打ち一筋三十年。あんただけの立派な家をこの二の腕の筋肉が保証するぜ?」
男の前に出てポージングを三種類。ハァッ、ハッ、フン! と見せつける。
男は眉をひそめた。二の腕どころか全身ムキムキマッチョな姿態に視界を侵されたからではない。たった今殺されかけた事実をあっさりとなかったことにしてしまえる思考回路に。だがそれを口にすることはしなかった。
「……今日中に出られなかったとしても、俺は物乞いだ。家など必要ない」
代わりにそれ以上の会話を断ち切る言葉を返した、つもりだったが。
「へぇ? 珍しい職業もあったもんだなぁ」
大工は心底不思議そうに首を傾げた。
「しかしあんたも随分つらそうな職を選んだな、で、物乞いってなぁ具体的には何をするもんなんだ?」
「……知らないのか?」
思わず聞き返してしまう。
「俺はここ生まれのここ育ちだ。ここにないもんは何も知らねーよ」
大工はあっけらかんとして答えた。
物乞いのいない街。それにはなんて大きな意味があるのだろう。――ここにいてはいけない。いるわけには、いかない。
男は決意を固くする。
「とにかく家は必要ない」
城に、向かわなくては。
今度こそ振り切ろうとする男に、大工はなおも追いすがった。
「待て待て。一応宿屋の場所を言わせてくれ。って、看板見たか。街の門をくぐってすぐ……」
「右です」
大工の舌が止まる。男の足が止まる。
脇からひょっこり現れた声の持ち主は、茂みの中から頭だけをちょこんと出している。その頭がまた異様だった。肩の辺りまであるぼさぼさの黒髪は顔の半分を覆っていて、片目しか見えない。左目はまぶたが下垂気味で、いかにも気弱そうに震えている。まるで青い血が流れているかのごとき顔色は、日の光の下にあっても幽霊や妖怪の類に見えないこともなかった。
男は剣を向けるべきか迷ったが、大工は白い歯を見せてその頭をぽんぽんと叩く。
「よう、今日も頑張ってんだなー。おまえもこの人を見に来たのか?」
どうやら街の住人らしい。こくこくとうなずいてこちらを見る。
「初めまして。僕、悪役です」
男はたっぷり一分は沈黙した。
「あなたも王妃様に招かれたんですね。僕もそうでした。王妃様に初めて会ったのは街に来てから一年後です。ですからあなたも今すぐにでも会えますよ」
名乗りも容貌も不可思議な少年は、言っていることもまったくもって不可思議だ。明らかに矛盾している。
「てなわけで、宿屋は門を入ってすぐ左だから」
大工はごく普通にしゃべっている。
「ち、違います。右です」
少年は懸命にくつがえす。
男は無言で歩き出した。これ以上つきあっていたら頭が痛くなりそうだった。
ようやく城門まで来ると、そこには一人の門番がいた。いかにのんきな国であってもさすがに城の前には見張りを置くらしい。といっても本当にたった一人で、しかも丸腰だったが。
門番は漆黒の前髪の奥から磨き抜かれた黒曜石の瞳をぶつけてきた。剣呑な光。視線が交差した一瞬ののち、ゆっくりと唇が開かれた。
「ここは通さん」
「……それは王妃の命令か」
男は剣に手をかける。門番は腕組みをして仁王立ちのまま顎を上げて睥睨する。
「馬鹿か貴様は。俺の許しを得ずこの門をくぐろうとする者はことごとく排除する、それが門番というものだ」
……門番の役割は侵入者を判別することだろう?
何か違うんじゃないのか、と思ったが、男はあえてつっこまずにおいた。おそらく疲れるだけだからだ。
「許しを得るにはどうすればいい」
門番はふん、と鼻を鳴らす。
「帰れ。貴様の目つきはどことなく気にくわん」
ちょっと待て。
「そんな理由で客を弾くのか? 俺は王に招かれている」
男は今度こそ黙っていられなかった。即座に切り捨てたはずの王の申し出を引きずり出して振りかざす。
門番はふふんと嘲笑った。
「知らんな。王が招いた、だからどうした。俺はここの守りを任されたただ一人の人間だ。すなわち俺の判断がすべてということ。貴様は俺の眼鏡にかなわなかった。自分を見つめ直して出直してこい」
「……俺はなんとしてでも王妃に会う必要がある」
男は剣を抜き払った。鋭利な刃物の輝きはそれだけで身をすくませる者も多かったが、門番は微動だにしないどころかますます口の端をつり上げる。
「やはり貴様を通すわけにはいかん」
男はぴくりと眉を上げた。
「よく考えてみろ。俺は職務を遂行し、出直してこいと忠告をくれてやったのだ。貴様がとれる対処はそれだけか? その剣を無益な殺人の道具に貶めるのか。剣士としても見下げ果てた奴」
黒曜石の瞳が弧を描く。揶揄か、挑発か。火種をくすぐられるような思いがするのに、男は何も言えなかった。
丸腰相手に自身の意志で剣を抜いた。どんな理由があろうとそれは確かだ。門番の眼鏡は自分という人間をはっきりと映し出したのかもしれない。しかし、ならば、だからこそ。
「……俺はこの街にいるべきではない」
男は剣を収め、正面から目を合わせた。門番は軽く首をすくめる。
「街の門は王妃の管轄だ。俺の知ったことではない」
結局男は門を越えられなかった。門番を斬るのは容易いことだったが、どうしてもそうできなかったのだ。
城への道が閉ざされれば、他に思い当たる場所はない。王妃の人となりを尋ねなければならないのか。誰に。
うんざりする。しかしあの門番相手ではいつまでたっても中に進めまい。
森の緑に淡い朱色が混ざり始める。少なくとも今晩はここで眠りにつくことになるだろう。たった半日の間に寿命の半分がすり減ったのではないかというくらい疲れてしまった。
足下の草を見つめながら息をつく。すると、遠くから蹄の音が聞こえてきた。
嫌な予感がする。
やってきたのは自分に名無しの権兵衛(仮)と名付けた、ルークとかいう男だった。
「おお、名無しの権兵衛(仮)殿、ちょうどよかった。先ほどは大切なことを忘れておりました。私は街の情報とともに郵便を司る者。権兵衛殿はこの街のどこに滞在されるご予定で?」
ルークは相変わらず馬の上で、降りようとする素振りはまったくない。
男はそのまま立ち去ってくれまいかと思ったが、すでにこの街の住人の性質は身をもって知っている。
「俺に手紙などこない」
それでもぶっきらぼうな応対を続けてやればそのうち近づかなくなるだろう、と思う。それに実際手紙の来るあてなどないし、そもそも脱出をあきらめてなどいないのだ。長居はしない。絶対に。
しかしルークは生真面目に「いけません!」と眉をつり上げる。
「私には人々の住居を把握する義務がある! 郵便があるかないかの問題だけではないのです! いかに『名無しの権兵衛(仮)』殿といえど、これだけははっきりさせておかねばなりません!」
男は本当に疲れていた。むきになって詰め寄ってくる相手に頑として抵抗する気力は元からないが、今はさらに一秒だって他人と顔を合わせていたくない状態である。
だから深く考えもせず、やっかい払いのつもりで答えたのだ。
「……今日はこの公園のベンチで寝ようと思っている」
「なるほど、承知いたしました」
ルークは深くうなずくと、
「では失礼。私は早速この情報をみなへ伝えねばなりませんので!」
聞き捨てならないことをのたまった。
「ま……っ」
止める間もない。馬のしっぽが激しく揺れる。
「伝令、伝令ー! 名無しの権兵衛(仮)殿、公園のベンチで寝泊まりされるご予定! 物乞いの名無しの権兵衛(仮)殿、公園のベンチにて寝泊まりされるご予定ー! 伝令、伝令ー!」
この街にプライバシーとかいうものは存在しないらしい。
男はその場に膝をつきたい気分になった。
泉の水を沸かして、食べられそうな草を摘んで。夜になっても、男はなかなか眠りにつけなかった。
どんな場所でも仮眠をとることができるのはすでに特技だ。だが今日は様々なことがありすぎた。特に得体の知れない王妃のことを考えると、夜空に巨大な目が浮かんでこちらの様子をうかがっているような気がしてしまう。
いざとなれば目を覚ます自信はある。相手が生身の人間なら不覚をとることはなかった、今までは。だが王妃は精霊使いであるし、それに――最初に門で出会った男のことを思い浮かべる。
あれはただ者ではない。武器を持って戦えば自分と互角、いや、認めたくはないが自分より上だ。実際奴が敵であり、あのとき帯刀していたなら、簡単に殺されていたはずだから。そんな人間に出会ったのは三年間旅をしてきて初めてだった。
眠れない。
夜の森は深い闇と涼しげなさざめきを与えてくれる。なのに。この街には多くの人間が蠢いている。そのことがかゆいようないらだちをぶつけてくる。
両手で剣の柄を握りしめる。頭の方から気配を感じ、男は瞬時に起きあがった。
そこにいたのは一匹の猫。純白の毛並みが美しいしなやかな獣だった。
猫は体重を後ろにかけて、今にも飛び退きそうにしている。男は神経が過敏になっていることを実感した。
慎重と臆病は異なものと知れ。
思い出したくもない言葉を思い出す。深いため息をつき、猫に向かって左手を差し出した。
「来い」
猫はますます後ずさる。その視線がなんとなく自分の右手にあるような気がして一瞥すると、右手は剣をとったまま。ゆっくりと指を離す。軽く握った状態で、左手をさらに差し伸べた。
「……おいで」
そろそろと伸びてくる前足。明らかにおそるおそるといったその様子に、男はついおかしくなった。
「……悪かった。眠れないんだ。しばらく俺の懐を温めてくれ」
猫はのろのろと、それでも男の腕に収まった。
「少しの間でいい。……ありがとう」
そっと目を閉じる。滑らかな毛並みが心地よい。生き物にこんなふうに触れたのはどれくらいぶりだろう。そんなことを考えながら、深い眠りに落ちていく。
――明日からのことはひとまず忘れて。
続く。