第一章11
ソルティアはヴァンが眠ったのを確かめると、入ったときと同じように音を立てないようにして部屋を出た。
誰もいない通路をきょろきょろと見回し、ぐっと拳を握って歩き出す。
フローリオの部屋へと。
フローリオは自室に他人が立ち入るのを嫌う。世話係の者さえ絶対に入れようとしない。フローリオがいないことを確かめれば後は誰に注意する必要もない。
ソルティアは十歩ばかり歩いて閉じたばかりの扉を振り返った。
ヴァンは優しい。
きっとフローリオよりも、すごく。
優しすぎて、どうすればいいのかわからない。
どうしたってこの心がフローリオから逃れられるはずもないのだから。
だから、早く見捨ててくれればいい。
自分に傷を負わせた女のために怪我を押して危険を冒す必要なんかない。
そう思うのに、もう一度優しくされたいと願ってしまう。
ひどい女。最低な女。とんでもない女。縛り付けてしまう前に、二度と自分が許せなくなってしまう前に、見捨ててほしいと願う、どこまでも自分のことだけしか考えられない女。
「……ごめんなさい。」
自分でも、それしか言葉を知らないのかと、呆れる。
だが他に言える言葉が見つからないのだから仕方がない。
振り切るように前を見据えて、そっと足を進ませる。
月に一度フローリオは十司教と会う事を義務づけられている。確かそれは今日、この時間だったはずだ。
ヴァンはカオスのためにもしばらく様子を見た方がいいと言ったが、倒れるほど具合が悪そうには見えなかったし、できるだけ早くフローリオから引き離した方がいいように思えた。
絶好の機会を逃すわけにはいかない。
それに、元々最後は一人でなんとかするつもりだったのだ。
これ以上ヴァンには頼れない。絶対に。
ひたひたと、聞こえるか聞こえないかのはずの自分の足音が異様に大きく聞こえる。
心臓の音と入り乱れて耳がまともに機能しない。
今さら迷いなど抱いても仕方がないのに一歩、また一歩と近づくたびに世界が揺れる。
怖くてたまらない。
開きかけた唇が、小さく歯を鳴らしただけで閉じる。
こんなとき以前ならフローリオの名を唱えた。
フローリオこそが恐怖に突き落とした張本人であっても、他に呼べる名などなかったから。
では今は違うというのか。そんなはずはない。
そんなはずはないのに、唇は音をもらさなかった。
自分で自分がわからなくなりそうになる。
ただ立ち止まろうとしない足だけがおぼろげに心を表していた。
どれだけ歩いたのか、長かったのか短かったのか、とうとう目の前に分厚い扉が立ちはだかる。
フローリオはいない。この日は決して時間に遅れようとしないから。泣いても叫んでも狂ってもこの日だけはずっとそばにいてはくれなかった。
だから、大丈夫。扉を開けた途端心臓が止まるということはない。
そもそもフローリオは自分が部屋から出て歩き回るなど想像もしないだろう。
言い聞かせるようにそう思って、一気に扉を引いた。
びくともしない。
声もなく手元を見れば、小さな黒い穴が絶望的な存在感を示している。
ソルティアは両手で口を押さえ、頼りない拳を握ってこめかみに当てた。
どうしよう。どうしよう。おそらく鍵はフローリオしか持っていない。当然なのに、どうして考えなかったのだろう。隠された通路にしか繋がっていない自分の部屋には鍵などついていなかったから。だから、フローリオの部屋は一般通路にも繋がっていることはわかっていたが、こちらの扉は大丈夫だろうと思っていた。
フローリオは他人を信用しない。
ヴァンも、自分も。
知っていたのに、頬が濡れる。
ソルティアは扉に縋り付いた。
記憶の始まりにはフローリオがいた。
それまで自分がどこで何をしていたのか、幼い頃のことはよく知らない。ただぼんやりとした恐怖が見え隠れするだけだ。
幸せではなかったのだろうと思う。幸せになど、なれるはずがない。自分も、周りの人間も。
それでもフローリオは笑ってくれた。
穏やかに、優しそうに、こんな呪われた自分に。
取り乱して泣き叫ぶたびに抱きしめて口づけてくれる。
もう何年も、フローリオだけが受け止めてくれる人。
ずっと騙されていられればよかった。
向けられる微笑みに幸せだけを感じていられればよかった。
僕のところにおいで。
と、手を差し伸べてくれた笑顔と同じ笑い方で、同じ言い方で、災いを起こすことを求められる。
何度も、何度も。
その度にフローリオからは決して離れられないことを実感する。
腕を振り払うだけで容易く解ける蜘蛛の糸から逃れようとしないのは自分。
鍵もついていない残酷な檻の中にいつまでもうずくまっているのは自分。
役にも立たない涙を流すことしかしようとせずに。
大好きだよソルティア。
笑顔に笑顔を返せていたことも、かつては確かにあったはずなのだと、今となっては気の遠くなるほどはるか昔のことを思い返し、失った仮初めの幸せを嘆く。
ソルティアは扉の縁に刻まれた模様に爪を立てた。
おそらくこの向こうにカオスがいる。
同じ色を身に纏いながら、涙も鎖も檻も似合いはしない。
あの瞳は自分などには手の届かない高みを見つめているのが似合っている。長い髪は自由な風に揺れ、大地を駆け抜ける足に振り乱されるのが似合っている。美しく力強い様は人々の目に焼けつき、呪いなどかき消してしまうだろう。
どうしてあんな人がいるのだろう。
「……どうして私はこんななの………?」
どうして抱きしめなどしたのだろう。
カオスも、ヴァンも、優しすぎて憎くなる。
ずっと騙されていられればよかった。
もう何年もそうだったようにこれからも自分を受け止めてくれるのはフローリオただ一人なのだと思っていられればよかった。
「優しくされる資格なんか生まれたときからなかったのに、知ってるのに、…どうして私に優しくしたの…?」
残酷な細い糸は、それでも縛られていると安心できたのに。
フローリオさえいてくれればいいと、いつまでも思っていられると信じていたのに。
今さら、フローリオがいないと生きていられない今になって、何故これほどまでに恐ろしい目に遭わせるのか。
ソルティアは次から次へとあふれる涙を拭おうともせず、右手を開いて扉に押し当てた。
大きな音を立ててあっけなく瓦礫と化す。
床や壁がびりびりと震えるのを何の感慨もなく見やって上品な絨毯を踏んだ。
「ソルティア……」
鎖を鳴らして立ち上がったカオスが驚いているのがありありとわかった。
「…あなたのせい。……だから、早く逃げて。」
微笑みを浮かべたかったのに口が不格好につりあがってしまった。
苦笑しようと思ったが、どうすれば笑えるのか考えてもよくわからなかった。
「……私は一人で逃げたくはない。言える立場ではないのかもしれん。だがソルティア、おまえと…あの少年を連れて行きたい。知ってしまったものを知らぬふりなどできない。」
「ヴァンを…連れて行くの?………だめ。ヴァンは私が逃がしたい。あなたも私が逃がすの。私は…ここにいます。フローリオに殺される…。それで…いいの。」
ソルティアは目を細めて、今度こそ上手く笑えたと思った。
涙さえ出ていなければ完璧だったのにと、少しだけ悔しかったけれど。
「馬鹿を言うな!いいわけなどあるものかっ!…あの男はっ」
「言わないで。あなたには…言ってほしくない。…ありがとう、カオスさん。お願いを一つだけ聞いて下さい。…私にあなたを、助けさせて。…移動魔法を使います。苦手だったけど、今なら絶対に使える。どこがいいですか?」
「ソルティアっ!」
「……もっと、早く…ううん、あなたなんかに…会わなければよかった。」
ソルティアはカオスを縛る鎖を手にとった。がっちりとした太い鎖は窓際の柱に繋がれていて、窓は机でふさがれていた。おそらくこれからもっとしっかりとした拘束に変えるつもりだったのだろう。そうでもしなければ閉じこめておけない獲物。自分とは違う。
ベッドの上には立派な剣が置いてあり、見た目は美しかったが、持つと想像以上に重かった。
カオスに手渡し、その肩から滑り落ちた黒髪にそっと口づける。
「私の呪いはもう解けません…。だから。」
カオスは違うと、そんなことはないと叫びたかった。
だが見上げる瞳はわずかな揺らぎも見せずに告げている。
逃げろと。
誰よりも逃げたいのはおまえではないのか。
言えば壊してしまいそうで、カオスはソルティアを抱き寄せた。
「結界へ。…結界のひずみへ、頼む。……私はバルドンに行こうと思っている。私の髪は…以前はこうではなかった。ある日突然変わったのだ。その理由を知りに、バルドンへ行けば何かわかるのではないかと、…自分を知りに行く。」
目を閉じて腕に力をこめる。華奢な体は今にも折れてしまいそうだったが、そうせずにはいられなかった。
「…ありがとう、ソルティア。私はおまえのおかげで先へ進むことができる。……っ、ソルティア!忘れるな。おまえは美しい。そして強い。呪いなど、ないのだ。…私はおまえに、会えてよかった。」
空間が、揺らぐ。
カオスは歯を食いしばってその感覚に耐えた。
最後に見たソルティアはやはり涙を流していたが、少しだけ微笑んでいたような気がした。
「………おいたを、してくれたようだね。」
「…ごめんなさい。」
ソルティアは振り向かずに答えた。
足が震えるのが悔しかったけれど、声は震えなかった。
「いつのまにたぶらかされていたの…?」
背中を向けたまま首を振る。
「逃げてほしかったの。……ごめんなさい、フローリオ。お仕置きするの?」
フローリオは顔を歪めた。
「こっちを向きなさい。ソルティア。」
ソルティアは躊躇なくフローリオと向かい合った。
頬に泣いたあとがある。だがもはや涙は出ていない。
そらされることのない視線が見たことのない色を称えていた。
同じ黒でも、まるで違う。
気のせいだと思ったが、似た色を知っている。
あれの瞳は青灰色。ソルティアの黒と重なるはずもない。しかし間違いない。
フローリオは役目をなくして床に散らばっていた鎖を踏みつけ、内心で舌を打った。
「ソルティア、はい、これの鍵だよ。お仕置き…とは言わないかもしれないね。君には意味を持たないものだから。でもこれからはずっとこれをしていてくれるかな。ああ、聖都の外に出るときは違う枷を用意しよう。君に救いを求めている人々は多くいるからね…。」
突き放す口調で言ったのに、ソルティアは戸惑いもせず手錠と足枷の鍵を解き、手足をはめて、また鍵をした。
すっと差し出される。
「君が持っていなさい。」
フローリオはソルティアを見るのも嫌になって部屋を出た。
十司教との会合はまだ終わっていない。早く戻らなければどれだけの嫌味と小言を投げられることか。
だが今この状態で戻るわけにはいかない。
はらわたが煮えくりかえるとはこのことなのだろう。体の奥底から何かが駆け巡りあちらこちらにぶつかりながら出口を求めている。次から次へ、ひっきりなしに生まれてくる。こんな姿を誰かが見たら怯えて逃げてしまう。
だがソルティアはその片鱗を見ても反応しなかった。あのソルティアが。
自分だけを映して揺れていた瞳が生意気な色に染まる。
フローリオは拳を握り、手近な柱に叩きつけた。
「あれは僕のものだ…あれは僕のものだ、あれは僕の、僕だけのものだ……この手の中でもがき、僕を怖れ、僕だけに縋ればいい。僕が与えるものしか知らなくていい!……銀騎士カオスっ…よくもあれに手垢をつけてくれた!……次は、次は殺す…。」
奥歯を噛みしめて眼鏡をかけ直し、大きな足音が鳴り響くのも気にせずに歩いていく。
ヴァンの部屋の扉を乱暴に開け放った。
「……なんだよ、クソ野郎。」
ベッドの上から苦しげな悪態が届く。
フローリオはつまらなそうに見下ろして、顔にかかる髪を払いのけた。
「君、もういらないよ。気に入ってたから殺すのはやめておいてあげよう。さっさと出て行ってくれないかな?」
「……なっ」
「ああ、骨が折れているのだったね。面倒だな…。殺してしまおうか。」
「何を言ってやがる!」
「いらないって言ったんだよ。そうだね、動けるようになるまではいてもいいよ。どのみち二度と会わせない。」
「……ソルティアがどうかしたのかっ?」
「…そういえば、君が連れてきたのだったね。まったく…気が変わったよ。君はこのままここにいるといい。早く元気になってほしいものだね。思う存分いたぶってあげるから。」
言うだけ言って扉の向こうに消えていったフローリオを、ヴァンは呆然と見つめていた。
部屋が揺れたような気がして目を開けばソルティアはすでにいなかった。やっぱり夢だったのかもしれないと何度も思ったが、一体あれから何があったというのだろう。
あんなフローリオは初めて見た。
いつ、どんなときだっていけすかない微笑を浮かべている男だったのに。
動こうとしない頭を叱咤して投げつけられた台詞を反芻し、
「まさか!あいつ……一人でっ」
思わず大声を出して胸に走る激痛に身悶える。
馬鹿な。
手伝うと言ったではないか。
ソルティアがどれだけフローリオを怖れているか知っている。
だからできる限り自分が背負ってやるつもりだったのに。
ソルティアの願いを叶えることができる。
やっと力になってやれると、思ったのに。
「…くそっ、ちくしょお……っ馬鹿野郎!」
大嫌いだ。あんな女。
ヴァンはシーツを握りしめ痛みやら涙やらを必死にこらえようとしたが、どれも上手くはいかなかった。
ソルティアは手の上の小さな鍵を見つめてどうしようかと考えていた。
フローリオが持っていろと言うのだから持っている。だが自分の意志で使うことは…
あった。
そう、まだすることが残っている。
ヴァンをここから逃がさなければ。
一度殺されてもいいと思ってしまった後では何をするにも大胆になるようだった。
以前ならばフローリオがずっと拘束されていろと言えばその通りに、鍵を使おうなどとは絶対に思わなかっただろう。
だが今はフローリオの命令よりもヴァンの救出の方を優先したいと思っている。
いいことなのか悪いことなのか、少し考えたが、どちらでも構わないと思った。
フローリオに嫌われてしまったら、きっと殺してくれるだろうから、もうそれでいい。
それまでこうして繋がれてフローリオだけを見ていよう。
一度だけ鍵を使えば、後はずっとそうしていられるから。
「怪我が治った頃…絶対にここから逃がすから。……ごめんなさい、ヴァン。それまで我慢していて…。」
ソルティアは自分の体を抱きしめて、鎖の音が鳴るのを聞いて小さく笑った。
不釣り合いな拘束。
こんなものがなくても逃げはしない。
鍵だって目的を果たすために使うだけで、二度目はありえない。
逃げるつもりなどない。
逃げられない。
机にふさがれた窓を見上げ、カーテンの向こうに空を思い描く。
会えてよかったとカオスは言った。
嬉しかった。
私も会えてよかったと、もう少しで言えそうだったけれど、言わなくてよかったかもしれないと思った。
鎖は重くて、冷たくて、ソルティアは自分を抱きしめる腕に精一杯力をこめた。
続く。