『LIFE』

人の形と書くけれど、決して人にはなり得ない。
人によって作られた、人のためのもの。


十郎は思わず足を止めた。
近くの酒屋までの見慣れた道が、まるでステージのようにそこだけ輝いている。
それはそんな美貌だった。
まっすぐな黒髪に縁取られた透き通るような白い肌。長いまつげは憂うように伏せられ、折れそうなほどの儚さを醸し出していた。それでいて黒と白の絶妙なコントラストは強烈で、どうしても目を引きつけられる。中学生くらいの年齢に見えるが学生という言葉はまったく似合わない。一目で高級品だとわかる着物に身を包んだ深窓のご令嬢だ。
見れば見るほど妙な光景だった。
赤い絨毯の上しか歩かないような雰囲気の人間が、マンションとマンションの間にある小さなゴミ捨て場に座り込んでいるのだ。
大きなゴミ袋の上で正座している少女は目を伏せたままぴくりとも動かない。
十郎は酒屋を一瞥し、すぐにまた視線を戻した。
面倒は嫌いだ。妙なことには関わりたくない。しかし足は一度止まってしまった。
引き寄せられるようにして近づき、おい、と一言声をかけてみた。
反応は返らない。
庶民と話す口はないってか?
そんなことを思ったが、段々と本当に生きているのかどうかを疑い始める。
十郎は少女の右肩をつかんで軽く揺さぶった。
開かれた瞳に声をかけようとして固まる。
磨き上げられた宝石のような黒い瞳がいくつもの星と共に自分を映していた。
「私に声をかけましたか?」
数秒遅れて頷いてから話しかけられたのだと気づき、息を吸い込む。
何故か緊張している自分に自然と顔が歪んだ。
十郎は悪く言えばいかつい、よく言えば野性味あふれる容貌だが、少女は臆することなく見つめてくる。
「ありがとうございます。申し訳ありません。用件をどうぞ。」
妙な状況で出会った妙な少女は喋っても妙だった。
「あんた何してんだ?」
当然のように聞けば、
「思案しています。」
当然のように返ってくる。
十郎はこのまま納得して立ち去ろうかとも思ったが、背中を向けようと片足をひいた姿勢で少し考え、これだけは言ってやることにした。
「場所を変えたらどうだ?んなとこで正座するこたねぇだろ。」
少女は背筋をぴんとのばしたまま凛とした声で言った。
「ここは私の家です。」
「……………いつからそうなった。」
「約三時間ほど前だと思います。」
「あんた、もったいねぇな。作りは完璧なのに頭がいってるとはな。」
十郎は今度こそ立ち去ることに決めた。
しかし少女は白い眉間を狭くして十郎の足を止める。
「頭はどこにも行かずここにありますが。」
笑うところなのかもしれない。笑う気にはなれない。
予定通り酒を買ってさっさと家に帰ろう。らしくもなく声なんかかけたのが災いした。やはり妙なのは放っておくべきだ。
そう思うのに、服のすそが引っ張られる。
「待ってください。思案の末やはりわかりませんでした。どうか教えてください。」
振り払ったが、少女の言葉はまたもや十郎の足を止めた。
「仕事はどこで見つけるんですか。」

十郎は直接関わってこないものには近づかない男であるし、自分から他人に興味を持つことも稀である。少女に声をかけたのは十年に一度、いや、二十年に一度くらいの大珍事といってもいい。
慣れないことはするもんじゃない。
十郎は少女の話を聞きながらつくづくそう思っていた。
「話はわかった。家出少女ってわけだな。」
少女は首を振る。
「以前いた家にいられなくなっただけです。今はもう家を見つけました。」
足下にはゴミの詰まった大きな袋。もう日も落ちる頃だというのに隅の方には高々と積んである。
十郎は呆れるのも疲れたといった様子で顎をかいた。
「毎日ここで寝てここで飯食ってここから働きに出るってか?」
「家と仕事は必要ですから。」
真剣に首を傾げる少女にいっそ感心する。
冗談でも演技でもない。少女の本気が伝わってくる。いくら深窓の令嬢とはいえどうやったらこんなふうに育つのか。すでに世間知らずという言葉ではすまない域にまで達している美少女を、どうすればいいかといえば道は一つだろう。
「来い。おまわり紹介してやる。」
十郎のこれ以上ない親切に少女はあからさまに体をすくませた。
「戻れば今度こそ壊されます。壊されるのだけは…嫌です。」
淡いピンクの唇が小刻みに震えている。両腕で体を抱いているのは恐怖から自分を守っているのだろうか。妙な言動ばかりだが家出するだけのことはあるらしい。
さっきまでの毅然とした態度が嘘のように消えて、小動物のように震える少女。
十郎は思わずため息をついてしまい、今日の自分がどうかしていることを確信した。
「…俺んとこに来るか?」
半ば断られることを前提に言ってみた一言は、きらきらと輝く瞳に受け止められた。
さすが世間知らずのお嬢様は警戒心も持たないらしい。
もう苦笑するしかない。
「あんた、名前なんていうんだ。」
少女はうつむき、微かに微笑んで首を振る。
「私は人形ですから。前の持ち主は名前をつけませんでした。」
「…ああそうかい。じゃあ今考えな。」
妙ちきりんなのは今さらのことだったので適当に流したが、少女は長い間憂い顔で沈黙したあともう一度首を振った。
「好きなように呼んでください。」
十郎の態度が気に入らなかったのか、それとも呼ばれたい名を思いつかなかったのか、十郎には読みとれない。
はっきりしない態度が妙に苛立たしかった。
「さっきの勢いはどうした。名前くらいさっさと決めろ。思いつかなきゃ本名でいくんだな。」
「………名前は…必要ですか。」
少女は心底困っているようだった。
「もし雇ってもらえたとして職場でなんて呼ばれるつもりだ?」
「…あの、名前は…つけてもらいたいです。人はみんな生まれたときに人につけてもらうと聞きました。」
いかつい顔をどれだけしかめても少女には効果がない。ため息をつこうがつくまいが影響なし。
十郎はすでに少女を家に招いたことを激しく後悔し始めていたが、ここまでくればもうなるようになれである。
「これも覚えとけ。名前には願いがこめられることもある。……あんたは冴。頭が冴えるの冴だ。」
少女は本当に、心から嬉しそうに顔をほころばせた。
口を開けて呆けてしまった十郎にありがとうございます、と頭を下げる。
「………俺は十郎だ。」
十郎は居心地悪そうに言った。


持ち主がいなくなれば壊される運命なのだと知った。
自分を作らせ自分で遊んだ主人が亡くなって、その妻はすぐさま破壊処分を命じた。
掃除夫にこっそり助けられて慌てて家を出たけれど、主人のいない外で何をすればいいのかわからなかった。
やっと家を決めて、次は仕事を決めようと思って、考えている間に出会った人間。
十郎という名前の人間が、次の持ち主になったのか違うのかわからない。

冴は十郎の背中に何度も話しかけようとして、その度に躊躇った。
さっきは深く考えなかったが、よくよく考えてみると名前をもらい、一緒に暮らすことにもなったのだ。新しい持ち主が決まったと考えるべきなのだろうか。
十郎は冴が何かを話すたびに今まで見たことのない反応を返してきた。前の持ち主は冴の反応を楽しむことはあっても冴が自発的に話すことは望んでいなかった。しかし十郎は違うのだ。名前のことから見ても、冴が自分で何かを決定することを望んでいる。もし十郎が持ち主になったのなら、その反応に対応しきれなかった場合壊されてしまうかもしれない。
持ち主になったのかどうかを尋ねることくらいは許されるだろうか?
でないと対応が選べない。
冴が悩んでいるうちに十郎は玄関の鍵を開け、靴を放り投げてどかどかと入っていく。
「さっさと入れ。入らねぇんだったらドア閉めろ。」
冴は着物の袖を握りしめて中に入り、そっと扉を閉めた。
すぐに全体が見渡せる狭い部屋。色あせた畳の上には色々なものが散らばっている。隅の方にはほこりが積もっているようだ。足の踏み場がないほどではないが、塵一つない世界から来た冴にとっては異世界である。
「汚い…。」
それが素直な感想だった。
「ゴミだめと比べての台詞か?眼科までの道を教えてやるからさっさと出てけ。」
冴は首をぶんぶん振ってしずしずと十郎の傍に寄り、畳の上に正座する。
「俺は今日は休みだがいつもは仕事だ。夜はほとんど帰らねぇから安心しろ。数日泊めてやるから仕事を探すか帰るか考えな。」
目の前に布団を放り投げた十郎に、冴は聞きたいことがたくさんあった。
まず、布団はどんなふうに敷くものなのか。
結局仕事はどこで見つけるものなのか。
何に安心するのか。
新しい持ち主になったのかどうか。
これ以上たまってくるとどうしようもなくなりそうな気がしたので、思いきって全部を聞いてみることにした。
「……あのな、マジでもなんでもわけのわからん話はするな。俺は数日泊めてやるだけだ。働く気があるんならバイト募集の看板やらチラシやらを片っ端からあたりゃあいいだろうが。布団は適当に敷け。安心云々はそのうち実践で教えてやる。」
十郎は面倒そうにしながらも全部にちゃんと答えてくれた。
よくわからないことが多かったが、冴にとってはそれだけでも嬉しかった。
「看板とチラシとは何ですか?」
十郎は脱力した。ここでいいかげん怒りがわいてくるのではなく脱力してしまうのが自分でも不思議だった。
「あんた…どういう仕事がいいんだ?」
あくまで働くつもりのようだが、こんな人間を雇ってくれるような職場はあるのだろうか。
「お金が稼げる仕事です。」
返ってきた答は簡潔そのもの。
「………まぁ明日は履歴書でも書いとけ。……履歴書ってのは雇う側に持ってこいって言われる紙ペラだ。……俺は出かけてくるから…もう寝ろ。」
冴は頷いて、敷き布団と掛け布団を畳に沿って綺麗に並べ始めた。
十郎はそれ以上その光景を見ないように玄関の扉を閉めた。

冴は着物姿のまま布団の上に横になり、寝返りをうって部屋中を見渡してみた。
おそらくここには掃除夫がいないのだ。あちこちでほこりが固まりになっている。
けれどなんだか十郎らしいとも思えた。
「…十郎は、主人じゃない。私は家を探さないといけない。」
『ゴミ捨て場』は家にしてはいけないようだった。前の主人が何かあるごとにお金を使っているのを見たが、家にもやはりお金が必要だったのだろう。まずは仕事を見つけなければならない。仕事を見つけて、お金を稼いで、家を買おう。
考えはまとまったが、十郎は帰ってこない。
自分はどれだけの間寝ていればいいんだろうか。
十郎は持ち主になったのではないようだが、できる限り十郎の望み通りにしようと思う。
冴はじっと十郎の帰りを待っていた。

朝になり、家に帰ってきた十郎は驚いた。
自分がドアを開けるなり冴が起きてきて、「朝食を作りますか?」と聞いたのだ。
まるで待っていたかのようなタイミングにも驚けば、その言葉にも驚いた。
そして出来上がってきた料理にも驚いたのだった。
「…何もできねぇお嬢かと思えば一応取り柄はあんのか。」
「料理は元々のプログラムにある程度組み込まれています。」
わけのわからない言動は無視。手作りの味を堪能する。
「あんたは?」
「私に食事は必要ありません。」
「ダイエットか。死ぬときゃ俺の部屋以外でな。」
「人形ですから大丈夫です。」
わけのわからない言動はやっぱり無視。
顔と料理は一級品なのにつくづくもったいないものだと考えていると、真剣な目で見つめてくる冴に気がついた。
「…なんだ?」
「昨日何故私を抱かなかったんですか?」
「……はぁ?」
そう言うのが精一杯だった。
家でくつろぐはずだったせっかくの休みを危機感のかけらもない純粋培養のお嬢様のために潰したというのに、まさかそんな言葉が出てくるとは思わなかった。
「抱いてほしかったのか?」
冴は頷きもせず、首を振ることもせず、そっと目を伏せた。
「私の仕事です。」
目を開いていても閉じていても冴は美しかった。
白い肌はどのくらい柔らかいのだろうかと考えはするし、据え膳食わぬは男の恥だ。
しかし十郎は冴の奇妙さが気にくわない。
言動の奇妙さは無視していたが、時々見せるはっきりしない態度が気にくわないのだ。
内気というのは少し違う。反抗的でもないが、どこか嫌々口を閉じているようなその態度。
得体が知れない。イライラする。そういう趣味はないが、痛めつけたくなる。
「わけわかんねぇな。仕事はまだだろ。さっさと履歴書でも買いに行け。」
冴はきちんと正座をしたまま首だけを傾げた。
「履歴書はどこに売っているものですか。」

結局コンビニまで付き添って履歴書を買わせた十郎はひどく疲弊していた。
家に戻ってきたら戻ってきたで履歴書はどういうために使うのか、ここの欄の説明はどういう意味かなど、質問責めだ。しかも「苗字がありません。」「学校は行ったことがありません。」ときた。どこまで本気なのか疑ってみても冴は真剣に頭を抱えているばかり。いいかげんにしろと声を荒げればきょとんとした顔で「何をどういうかげんにすればいいですか。」と返してくる。
十郎は苦虫を噛み潰した顔になったり、全身の力を吸い取られたような顔になったりしながら、めったにしない拾い物でとんでもないものに当たってしまった己の不幸をしみじみと感じていた。
「あんたな、こんなもんも埋められねぇんじゃまともなところは雇っちゃくれねぇぞ。」
「まともじゃなければ雇ってくれますか。」
安心したように言うものだから頭痛もひどくなる。
「ああ、もう好きにやってみろ。俺は知らねぇよ。」
突き放したつもりだったのに冴は嬉しそうに笑ってありがとうございますと頭を下げる。
十郎は畳の上にごろりと横になり、背中を向けた。
今のうちに寝ておかなければ夜になると仕事がある。昨日も寝ていないのだから、何かあったとき支障が出るだろう。
等と思いつつ、実際はただ落ち着かないだけだということに気づいていた。
ふと時計を見れば、仕事の時間までまだ大分ある。
十郎はうんざりして目を瞑った。
タイミング良くチャイムが鳴って舌打ちしながら起きあがる。

「十郎、俺だよ。」
インターホン越しの声は聞き慣れたもので、ますますうんざりした気分になる。
「あ。十郎、今『帰れ。』って言おうとしてるだろ。ヘアピン一本で開けてみせてもいいけど…開けないと上物の酒を逃がすことになるよ。」
「酒の一本や二本で足りるか。ヘアピン使ってみろ。見られねぇ顔にしてから不法侵入罪で警察呼んでやる。」
いつも会いたくない相手だが、今日は冴がいる。絶対に入れるわけにはいかなかった。
「仕方ないな。大家さんを呼ぶよ。ヘアピン技の代わりに演技力を披露しよう。ちょうど目薬も持ってるしね。」
インターホンから聞こえてくる声は意地の悪い笑いを含んでいる。
「てめぇ…あのミーハーばばあまでたぶらかしやがったのか!」
十郎は額に手を当ててやけくそ気味に鍵を回した。

「おい佐古田ァ、絶対に悪い癖出すなよ。」
と、にらみを効かせたときにはすでに遅し。
案の定、佐古田は冴に釘付けになっていた。
冴は十郎の様子をちらりと窺ってから佐古田をじっと見つめる。
佐古田ははっとして手に持っていた酒を放り出し、胸ポケットから名刺を取り出した。
「君、名前は?これ俺の名刺。ねね、よかったら是非…」
「ダメだ。」
十郎はすでに冴の肩に回されている佐古田の手を叩き落として、渡された名刺をびりびりと破った。
しかし冴は綺麗な顔をほころばせてぺこりと頭を下げる。
「私の名前は冴です。」
それだけでむさ苦しい部屋の空気ががらりと変わる。
「へぇ、冴ちゃん。いい名前だね。ね、君…」
「ダメだ。」
有無を言わせない十郎に佐古田が顔をしかめれば、十郎はふんぞり返って忌々しそうに目を細めた。
「とっとと帰れストーカー。」
「人聞きの悪い。俺は仕事熱心な好青年だよ。」
佐古田は十郎の姉の元恋人である。職業はカメラマン。
今まさにプロとして名前が売れてきている彼は、撮りたいと思わせる被写体を見つけると断られても逃がすものかとしつこく食い下がるのである。十郎も被害者の一人であった。身内と関係があったから気安くてついしつこくしてしまう、いつもはそうでもないと佐古田は言うが、真偽のほどは定かではない。
とにかく冴もターゲットに選ばれてしまったのだった。
「ところで十郎、冴ちゃんどこから誘拐したの?」
佐古田はついさっき放り出した酒をちゃぶ台の上に置き、にこにこと言った。
「拾った。」
十郎は憮然としてあぐらをかき、酒瓶を手にとってじろじろと見回す。
冴は二人の間できちんと正座して微笑んでいた。
「ふーん、いいなぁ。俺もこんな女の子拾いたいよ。」
あっさり納得した佐古田がにやりと口元をつり上げ忍び笑いをもらした。
「ふふふふ…十郎は嫌だろうけどね。見たよ。冴ちゃんが書いてたもの。」
冴の両肩をつかんでにっこりと笑う。
「冴ちゃん、俺が雇ってあげるよ♪一緒に仕事しようね♪」
冴が輝くばかりの笑顔を浮かべていくのを十郎は苦々しい思いで見つめていた。
しかし、仕事内容を聞いた冴は見る見る顔を曇らせた。
「…私は世間の注目を浴びられません。」
なるほどと頷く。家出少女がモデルをやるわけにもいかないだろう。
「残念だったな佐古田。帰れ。今すぐ出てけ。」
思わず顔が笑うのを抑えきれない十郎の前で、冴は佐古田に必死に頭を下げた。
「他には、何かありませんか。できることはなんでもします。仕事をさせてください。」
着物の袖を変色した畳に広げ、額をつけて頼み込む冴に、十郎も佐古田も何も言えなくなった。
「…惜しいなぁ。どうしても撮りたいんだけどな冴ちゃん。わかったよ、何か見つけてあげるから。顔上げて。」
耐えかねた佐古田がそう言うと、冴はまた深々と頭を下げて感謝を述べた。


夜になり十郎が仕事に出ても佐古田は出て行かなかった。
冴と向き合ってにこにこと話しかける。
「ね、なんでそんなに仕事したいの?」
冴はほんの少し驚いたように目を大きくした。
「仕事はしなければいけません。」
佐古田は思ってもみなかった答に目をぱちくりさせて小さく吹き出した。
「いいなぁ。なんかいいなぁ冴ちゃん。どうしよう。ますます撮りたくなっちゃったなぁ。」
佐古田が何故笑うのか冴にはわからなかったが、何かを間違えたのかもしれないと思って付け足した。
「お金を稼いで家を買います。」
佐古田はまた目をぱちくりさせる。
「家買うの大変だよ。ずっと十郎のところに居座っちゃえば?」
冴はきょとんとした顔をして、
「家はなければいけません。」
と不思議そうに言ってくる。
佐古田は出がけの十郎がなんだか心配そうにしていたのを思い出し、耐えられなくなって笑い出した。
背筋をまっすぐにして正座しているその姿は凛としているのに口を開けばこのギャップだ。
十郎はさぞかしペースを乱されているのだろう。
それにしても見れば見るほど不思議な美貌だと佐古田は思う。
まるでこの世のものではないような、と言えば失礼かもしれないが、そういう形容がふさわしい。人間離れした、ともすれば大気に溶けてしまいそうな。けれど決してそんなことにはならない強さも感じる。まるで儚さに懸命に立ち向かっているような、その輝きに魅せられる。
佐古田はそっと冴の頬に触れてみた。
当然のように柔らかな質感がある。確かにそこに存在している。
輝きは儚さに打ち勝っている。
わかっていたけれど、確かめて少し安心した。
冴にじっと見つめられていることに気がついて苦笑し、なんとごまかそうかと考える。
「抱くんですか?」
思わず目を見開いた。
聞き返そうかとも思ったが、冴は正座したままこちらを凝視していた。
白い肌が黒髪によく映える。長いまつげがわずかにゆれ、極上の黒真珠が反応を窺っている。全身を覆う布を暴けばどんな美しさが現れるのだろうか。
「へぇ、しちゃってもいいんだ?」
舌なめずりしてしまうのは当然のことだろう。
「私の仕事です。」
冴が言い終わらないうちに佐古田は帯に手をかけた。


一番最初に目を開いたとき映ったのは人間の喜びに満ちた表情だった。
次に出会った人間もとても嬉しそうに自分を見た。
何もかもがよくわからない世界で最初に教えられたことは人を喜ばせること、楽しませること、そのために作られたこと。
特別な力もなく、極めて人間に近いだけのものとして作られた自分が唯一出来ること、そして、しなければならないこと。

五感があるというのも善し悪しだと冴は思った。
どこかを傷つけたときすぐにわかって対処できるというのはメリットだが、この行為の最中はデメリットでしかない。
濡れた股に異物が出入りする感触が気持ち悪くてたまらなかった。
触れられれば反応するし望まずとも声はあがるようにできているけれど、どうして気持ちがいいとは思えないのだろう。
自分が人間ではないからだろうか。人間の女性なら気持ちがいいと思えるのだろうか。
重なる体が汗をにじませている。けれど自分が汗をかくことはけしてない。
何故なのかと問えば、必要ないからだと答えられたことがあった。
冴にはわからない。
何故自分は人間に近いだけのものなのだろう。
上にのしかかってくる湿った塊に腕を絡ませ自分の声を遠くに聞きながら、静かに終わりを待ち続けた。


佐古田は数枚の紙幣を置いていった。
冴は首を傾げたが、
「だって冴ちゃんお金欲しいんでしょ?家買うにはたくさん稼がないとね。それにお仕事なんでしょ?だから報酬。」
と手に握らされ、戸惑っているうちに出て行ってしまった。
「今晩も来るよ。明日からは昼の仕事も始まるからね♪」
去り際の台詞が嬉しかったが、自分の手に残った紙幣を見て冴はもう一度首を傾げた。
どうしてお金をもらえたのかまったくわからない。
前の持ち主とも何度もしたけれど一度だってもらえたことはなかった。
仕事はお金をもらえるものだと聞いたが、この仕事だけは自分がこのために作られたものであるためにもらえないのだと思っていた。
何故もらえたのだろう?
わからないけれど、冴はお金を畳に一枚一枚並べてみた。
初めて仕事をして稼げたお金。
そう思うととても嬉しくて、何度もなでてみたり、手にとってじっくり眺めてみたりする。
気がつくとカーテンから透ける朝日が大分明るくなっていた。
もうすぐ十郎が帰ってくる。
昨日は冷蔵庫にあったあり合わせのもので朝食を作ったが、もうめぼしい物はない。人間は食べないと死んでしまう。
冴は紙幣をかき集めて慌てて家を飛び出した。


十郎は鍵を回してノブを引き、数回がちゃがちゃと鳴らしてからもう一度鍵を回した。
家の中には誰もいない。
「おいおい…他人の家開け放ったまま帰りやがったのか?」
そうつぶやいたとき、今閉めたばかりの玄関が開いた。
「お帰りなさい。」
十郎はまぶしい朝日に目を細め、どこに行っていたのかと尋ねようとした口を閉じた。
冴の両手には白いビニール袋が一つずつ。丸くふくらんでいる。
「朝食を作ります。」
思わずあっけにとられたが、はっと気がついてひだを作っているビニール袋を広げてみる。
「あんたこんだけの量コンビニで?不味いもんをわざわざ馬鹿な値段で買いやがって…。おい、待て。どこにそんな金があった。」
冴は無一文だ。履歴書を買う金さえ持っていなかった。
不審をあらわにそう聞くと、冴は十郎に飛びつくようにして笑いかけた。
「お金を稼いだんです!紙のお金!佐古田さんがくれました!」
まるで誰かに話したくてたまらなかったとでも言うように。
十郎は少なからず驚いていた。
冴が頷いたり首を傾げたりするたびに小さな違和感は感じていたが、育ちと性格のせいだろうと思っていた。
しかし冴も年若い少女だ。
こんなふうに生き生きとして笑う姿こそが本来の冴なのかもしれない。
「…あいつ夜中に仕事させたのか?他人の家だと思って好き勝手しやがって。おい、今度からはちゃんと鍵かけて出ろ。それからもっと安い店教えてやるし、てめぇの食費くらいてめぇで出す。変な気を遣うな。」
ぶっきらぼうにそう言って、昨日作ったばかりの合い鍵を差し出す。
「閉め忘れんなよ。」
冴は勢いよく頷いた。

仕事に出るのかと思えば今日はないと言う。
十郎は早速冴を連れ出して朝のうちに食品が安い店を教えてやった。
教えてやるだけのつもりがついつい買い物もしてしまう。今日の食事も美味かったが、やはり冴は一口も口にしていなかった。そんなことを思い出してつい買ってしまったのだ。
太ってもいないのにダイエットに情熱を燃やす女の気持ちはわからない。気になる分だけ美味いはずの飯がまずくなる。昼はなんとしても食べさせてやるつもりでいた。
しかし家に帰り着くなり睡魔が襲い、気がついたら昼どころか出勤まであと一時間という有様。
十郎のためだけに用意された昼食はすっかり冷たくなっていた。
「適当に温めてくれ。手早く食って出る。」
その間に支度をすませようと立ち上がると、どうも妙な違和感を感じた。
どこを見回しても何も変わっていないように見えるが、よく見てみると隅に積もっていたほこりやらうっすらと重なっていた汚れやらがなくなっている。
十郎は冴を振り返って、その後ろ姿が随分とくたびれていることに気がついた。
おそらく着物のまま隅々を掃除したのだろう。ぴしっとして滑らかだった着物がところどころ薄汚れ、よれよれになってしまっている。
何か言おうと思うが、口を開いても何も出てこない。
眉間にしわを寄せて鏡に向かい合う。
ひげを剃り、適当に髪に梳かしていると冴が背後から興味深そうに見ているのが鏡に映った。
「何見てんだ?」
「頭に白い粉がかかっています。」
鏡で確かめると、前髪の根本にぱらぱらと細かい白い粉がついている。
「ああ、フケだな。」
十郎は適当に髪を払った。
冴がフケの落ちるあたりに手を伸ばしたのを見て思わず目を瞠る。
「おいっ?」
冴は白い手に落ちたかもしれないフケを探した。
「フケ……。」
十郎は顔をしかめたが、すぐにまたくしを動かし始めた。
「生きてりゃ汚いもん出して当然だろうが。んな珍しそうに見んな。」
冴は何も言わずにずっと自分の手を見つめ続けていた。


佐古田の体は今日も熱かった。
次第に汗をにじませてくるその背中に、懸命に手をはわせてみる。
冴の体は冷たくはない。人の体温よりも少し低めだが一定の温度を保っている。一応運動量によってある程度の幅はできる。
しかし決して汗をかくことはない。
股間は濡れるようにできているのに、この体は汗も出なければフケも出ない。
物を食べることもなければ排泄物を出すこともない。
せいぜいが注ぎ込まれた精液を後から手で掻き出さねばならないくらいだろうか。
佐古田は挿入する前に全身を嬲るように指や舌でいじってきた。前の持ち主はしなかったことをされて少し驚いたが、やはり快感を感じることはない。
触られているのはわかる。まるで何かのスイッチを押されたかのように体のあちこちがはねるし、声も出る。
なのに何故だろう。
もしかしたら自分は気持ちよさを感じないようにできているのかもしれない。
きっとそれも必要ないものなんだろう。
冴はがくがくと揺すられながらそんなことを考えていた。

「私は気持ちいいんですか?」
股がぬめる感覚にわずかに眉をひそめて問えば、佐古田は腕枕している腕を曲げてそっと頭をなでてきた。
「そりゃあね。気持ちよくなきゃ二度目はないでしょ。正直すごくいい。他とできなくなりそう。」
冴は微かに口の端を上げて微笑した。
「それは…良かったです。」
こんな体でも、それだけはちゃんとできているのだ。


佐古田は今日も金を置いていった。
お金を貯めればいつかは家も買えるだろう。今日からは昼も仕事が出来る。
家で暮らして、仕事をして。
自分はちゃんとやっている。
冴は鏡の前に立ち、まっすぐな黒い髪をそっと梳かしてみた。
くしは何度通しても同じ、ほとんど引っかかることなしにすんなりと髪の間をすり抜ける。
頭皮を見てもフケは出ていない。
十郎のようには。
冴はもらったお金を手にとってまた枚数を数えてみた。
昨日食品を買って余った分と合わせれば何枚になるだろう。今日の昼は何枚くらいもらえるのだろう。
家には何枚くらい必要なのか知らないけれど、家を買えるのはそう遠いことではないかもしれない。
部屋の中を見回して、昨日掃除したあたりに目をやると、そこには何もない。
冴が片づけたのだ。塵やほこりや汚れや、毎日生きていれば出てくるものを。
もうすぐ十郎が帰ってくる。
朝食を作り始めなければ間に合わない。
そう思いつつ、冴は畳の上に正座した。少しずつ体を傾けて寝転がる。
ところどころすり切れ、色あせた畳。冴は手に持っていた紙幣を綺麗に畳の上に並べて、すぐにかき混ぜた。
「私の家は…きっと、こうなれない。」

カチャリと音がして無造作に扉が開く。
まだ朝食の用意を何もしていないのに十郎が帰ってきてしまった。
十郎は見た目には目立たないけれど、筋肉がしっかりとバランスよくついている。冴は逆光に照らされたシルエットをぼんやりと見つめていた。
頭の中では「お帰りなさい。」と言っているのに声が出ない。
十郎も何も言わずに、不機嫌そうな表情で冴に近づいてくる。
冴は自ずと手を伸ばした。
「……………触ってもいいですか?」
やっと声を出せたと思ったのに「お帰りなさい。」よりも先にそんなことを言ってしまった。
しかし十郎は気にした様子もなく、顎で促した。
「触りたきゃ触れ。」
許しを得てやっと、そっと触れてみる。
胸板の形をなぞる。肩をなでてみる。首のあたりもしっかりとしている。顎は毎日ひげが生える。髪にはフケができる。
脈打ち、呼吸をし、汗をかく、生きている体。
気がついたら冴は十郎に抱きついていた。
「おい、俺は女を泣かせる趣味はねぇんだ。涙見るとムカムカする性質でな。しばらくその顔見せんな。」
十郎は冴の腰と頭に手を回してしっかりと抱き寄せた。
分厚い胸に顔を埋めて、冴は自分の頬が濡れていることに初めて気がついた。
元々涙は流れるようにできている。前の持ち主は行為の最中に泣かせるのが好きだった。
けれど、
こんなときにも流れるものだったとは知らなかった。
力任せに抱きしめてくる十郎の腕は何故だか心地が良いように思えた。


十郎は佐古田に連れられて仕事へ出る冴を見送った後、しばらくしてから出かける支度を始めた。
ちらりと鏡を見れば今日もフケが少しついている。いつもシャワーですませてしまうのがいけないのかもしれない。
冴の反応を思い出し、少し念入りに払ってみる。しかし払えば払うほど次から次にフケが浮かび上がってくる気がして、馬鹿馬鹿しくなってやめた。元々身だしなみを気にする方ではない。いつものごとく適当に見られるようにして家を出る。
冴は今日も同じ着物を着ていた。
佐古田のことだ、仕事場で気障ったらしい台詞を吐きながら数着押しつけてくるかもしれないが、汚れても構わないような服はやらないだろう。
一着くらいなら買ってやってもいい。
十郎は家を出て最初の交差点で赤信号でもないのに足を止めた。
右へ行くと市場があり、その片隅に古着屋がある。左へ行くと駅に出て、デパートが建っている。
服一着の値段でもこの二軒で比べると天と地ほどの開きがある。
十郎は片足を浮かせた。
着物のまま掃除なんかしてよれてきてしまっていたから、汚れてもいいような服を買ってきてやるのだ。
どちらに行くかは決まっている。
十郎は右に五メートルほど進んでから乱暴に回れ右した。


一方冴は仕事をするはずが何故か喫茶店で佐古田と一緒にテーブルについていた。
「これが仕事ですか?」
佐古田はもちろんと大きく頷いて、
「外での冴ちゃんを堪能する仕事だよ。」
と一見人の良さそうな笑顔を浮かべて見せた。
冴には佐古田の言ったことの意味がよく理解できなかったが、とにかくこれは仕事なのだと納得したように頷いた。
くすくす笑う佐古田に再度首を傾げつつ、なんだか視線を感じて周りを見回してみる。
冴を見ていた客達は一斉に目をそらした。
そういえば冴はこういった場所に入ったことはなかった。前の持ち主はそういう人間ではなかったし、自分に飲食物は必要ない。もしかしたらここに人形がいるのは奇妙なことなのかもしれないと不安になって佐古田を見れば、佐古田は笑いながら冴の手を取った。
「出よっか。次はどこ行こう?もっと人のひしめいてる場所がいいよね。」
「行けません。」
佐古田は少し力を込めて冴の手を引き、喫茶店を出て迷うことなく歩き出した。
「あの世間に注目されるわけにいかないってやつ?あれね、思ったんだけど、色んなところがクレームをつけようとしてもたいしたことできないくらい有名になっちゃえば問題ないと思わない?」
冴は佐古田に引きずられながら眉をひそめる。
「つまりね、俺はどうしても君を撮りたいわけ。あ、誤解しないでね。悪いのは俺のカメラマン魂を刺激してやまない冴ちゃんだから。」
冴は腕が痛むのも構わずぴたりと足を止めた。

前の持ち主はよく言っていた。
おまえは私だけの玩具だと。
彼は必ず自分を連れて移動したが、限られた人以外の目には触れさせようとしなかった。財を投げ込み科学の粋を尽くした唯一無二の玩具だと誇らしげに言っていた。彼の人生最後にして最大の娯楽が自分だったのだと何人かの人間から聞いた。
無闇に姿を見せるなと命じられていたが、それは冴の望みでもあったのだ。
自分のことを世間に広く知られてしまったら、同じプログラム同じ設計図でできた同じ物が安いおもちゃのように大量生産されて店頭に並ぶ日が来るかもしれない。
そんな恐ろしい光景は決して見たくない。

「冴ちゃん!」
佐古田はうつむいた冴の顎を取って視線を合わせた。
「よく見て!さっきの喫茶店でも、ここでも、みんな冴ちゃんを見てるだろう。薄っぺらな綺麗さじゃない、人を惹きつける輝きを見せつけておいて撮るなって?拷問だね!今日は君の意志を尊重した。明日からは君の美しさを尊重する。お互いのために今気を変えた方がいいよ。他に仕事はない。」
冴は苦しげに眉根を寄せた。
綺麗、美しい、似たような言葉をよく聞かされる。
だがそれは人形だからだ。作りものだからだ。生きていないからだ。
十郎が言った、生きていたら出るはずの汚い物が、自分にはないからだ。
自分なんかよりも、あの隅にほこりがたまっている部屋や、すり切れた畳や、パラパラと落ちるフケ、そんなものたちの方が、何十倍も何百倍も美しい。
なんだか無性にあの家に帰りたくなった。
十郎は今頃寝ているだろう。寝ている間に何か自分にできることがあるだろうか。なくてもいい。
悲しくなるけれど大好きな、あの空間に帰りたい。
そう思ったら幻聴まで聞こえてきた。

十郎の声だ。
何か怒鳴っている。

「あ、十郎。」
佐古田のつぶやきに弾かれたように顔を上げれば、十郎が空を飛んでいた。
正確には跳び蹴りをしていたのだが、冴にはそう見えた。
目が離れようとしない。
「相変わらずそそるなぁ、十郎の蹴り。さすが本職。どうやらひったくりを仕留めたようだね。」
冴の様子を見て佐古田は小さくため息をついた。
「何も教えてないんだ?十郎の仕事は警備員だよ。」

知らなかった。警備員とは空を飛ぶ仕事だったのだ。
十郎はいつもあんなにも力強く、美しく飛んでいるのだ。

口を開けたまま動かない冴に佐古田が笑う。
「十郎は綺麗だよね。どうしても撮りたくて未だにあきらめきれないんだよ。」
綺麗、という言葉を聞いて驚きに目を見開くと、佐古田は両手の親指と人差し指でフレームを作ってみせた。
「ほら、十郎だけ目立つだろう?理由は一つ。綺麗だからだよ。冴ちゃんも、あんなふうにとても綺麗だ。」
綺麗とは自分が十郎とその周りのものたちに思ったばかりの言葉だ。
佐古田が同じように考え、その上で自分にもその形容を使ったことが冴にとっては驚きだった。
「それにしてもなんでこんなところにいるんだろうね。電車でどこか行くのかな?」
つぶやきが耳を通りすぎたが、冴はしばらく動くことができなかった。


夜、佐古田は当然のように冴を抱きに来た。
帯を解かれながら、昼に言われた言葉が頭をよぎる。
初めて本当の意味で綺麗だと言われた気がした。
けれど佐古田は知らないのだ。
首筋を、胸元を、吐息がよぎり、指先が体中をなぞっていく間に自分が何を考えているか。嬌声をあげながら何を感じているのか。
前の持ち主でさえ気づかなかったことを佐古田が気づくはずもない。
そう思って、ふと気がついた。
もしかしたら佐古田は自分が人形だということを知らないのではないだろうか。
自分はこれが仕事だ。しかし普通の人間が好きこのんで人形を抱くものだろうか?
そう、自分は限りなく人間に近いものなのだ。ちょっとやそっとでは区別できないのかもしれない。
だとしたら十郎はどうなのだろう。十郎が抱かない理由は。

自分の声であり自分の声でない喘ぎが聞こえる。
くちゅくちゅとした水音と一緒に部屋中を満たしている。
荒い息づかいが耳を打ち、熱い体がのしかかる。
体が勝手にはね上がる。

気持ちが悪かった。
何もかもが。
体と心が遠いところにある自分が。

微かに目を開くと、部屋の片隅に白い物が見えた。
紙袋だ。十郎が持って帰ってきた紙袋。
何が入っているのかは知らないが、とても不機嫌そうな顔で小脇に抱えていた。
十郎は今頃どのへんを飛んでいるのだろう。
冴は佐古田の肩口に置いた顔をそっとほころばせた。

佐古田は何度か達した後必ず腕枕をして、もう片方の腕を巻き付けてくる。
今日もそうだった。
冴は睡眠を取らないが、頭をなでられて思わず目を伏せる。
「次の仕事は撮影だからね。」
冴が目を開くと、佐古田は口元に笑みを浮かべて眠りにつこうとしていた。
しかし、そのとき素早く鍵が回る音がして、あっという間もなく玄関が開いたのだ。


佐古田は瞬時に起きあがった。
だがその後の数秒はすべての時が止まっていた。
冴は少したってからのそのそと起きあがり、動かない二人に首を傾げた。
「……邪魔したな、と言ってやろうかとも思ったが思い出しちまったんだ。生憎ここは俺の家だってな。」
十郎は靴を放り投げてどかどかと布団の上の二人に近づく。
「佐古田、てめぇが脱ぎ散らかしたもんかき集めて出てけ。二秒以内にな。三秒後は病院のベッドだ。」
佐古田は素早く自分の服を拾うと、冴の頬にキスをした。
「今は帰るけど、合意だよ。ただし間に金を挟んである。俺はまだ本気まで数ミリ残してる。被写体としては本気なんか蹴飛ばして運命だけどね。」
三秒を越えて悠々と扉が閉まる。
十郎は忌々しげに舌打ちすると乱れた布団に目を移した。
情事の後と一目見てわかるそれに、いつも着物をきっちり纏っていた冴が白い裸体を惜しげもなく晒して座っている。透けるような肌に佐古田がつけた跡が鮮やかに残っている。昼間の冴からは想像もつかないような姿だったが、確かに冴だ。
冴は状況をよく飲み込めていないのか、体を隠そうともせずきょとんとしていた。
「……今日駅前で時間外労働してな。日頃働き者だからいつもより早く追い払われた。久しぶりに朝風呂でもゆっくり浴びるかと思いながら帰ってきたわけだ。」
「今から入れますか?」
冴が立ち上がろうとしてついたその腕を十郎は思いきり引っ張った。
「…あんた、今日まで俺のいない時間に何をしてた?」
「仕事です。」
冴は苦痛に顔を歪めながら体勢を立て直す。
十郎は腕を締め上げたあとすぐに手を離して、小さくため息をついた。
「……ああ、わかった。売りをやるのはあんたの自由だ。だが俺の家を使うな。」
冴には十郎が何故怒っているのかがわからなかった。思い当たったのはたった一つだ。
十郎は部屋を汚されたから怒っているのだろう。すぐにいつも通り綺麗にしなければ。そして風呂を沸かして、朝食を作るのだ。
その前に、一つだけ聞いておこう。
「売りってなんですか。」
十郎は心底疲れきったように言った。
「あんたが佐古田にしたことだよ。」
冴は感心して頷いたが、すぐに疑問を口にする。
「これからはどこでやればいいんですか?」
十郎は長い長いため息をついた。
冴はふともう一つの理由を思いついて慌てて頭を下げた。
「申し訳ありません。気づいてないと思いませんでした。私が人形なのは一目瞭然だと…」

「黙れ。」

きっと結果的に佐古田を欺いてしまったことを怒っているのだろうと思って謝ろうとしたのに、喋ることを禁じられてしまった。それほど怒っているのだろう。冴は人間が自分に対して激しい怒りをあらわにするのを直接見たことはほとんどない。どういう反応を返すのが正しいのかまったくわからない。十郎が自分に何を望んでいるのかわからない。
謝罪どころか喋るなと言われ、あと、自分ができることは。

正座をして深々と頭を下げる。
「今から片づけます。お風呂を入れます。朝食も作ります。終わったらいなくなります。ありがとうございました。」
そうして着物を取ろうとした腕を、またつかまれた。
「もう一つだ。」
そのまま布団に縫いつけられる。
何を要求されているのかは明らかで、冴は全身の力を抜いてゆっくりと目を閉じた。
「金は払わねぇぞ。」
「やはりそれが普通なんですか。どうして佐古田さんは払ったんですか?」
普段は面倒そうにしながらも質問にはちゃんと答えてくれる十郎であるのに、何も答えてくれなかった。自分を押さえつけてくる腕は力を込められたまま動かない。
冴はそっとまぶたを持ち上げた。
十郎は怪訝な表情で冴を見つめている。
「……何言ってんだ?」
「佐古田さんはどうしてお金をくれたのかがわかりません。」
冴は丁寧に言い直して今度こそ答を待った。
「あんたが体売ったんだろうが。」
「体はどこにも行かずここにありますが。」
まったく話がわからない。十郎が難しそうな顔をしているので話も難しいのだろうと思うが、わからなければ何を言っていいのかわからない。冴は口を閉じて十郎の言葉を待っていた。
十郎は乾いた唇をぎこちなく動かした。
「……あんた、なんで馬鹿みてぇに大人しく横になってんだ。」
やっとかけられた言葉に冴はほっとして答える。
それならば、すぐに答えられる。
「私の仕事です。私はそのために作られた人形ですから。」
腕の力を少しだけ緩めて、十郎は冴を見つめ直した。
冴の体は冷たい。ぬくもりがないわけではないが、随分と冷たく感じた。こんな状態にあっても吐息一つ乱さず、穏やかな顔をして、待っている。十郎が冴を蹂躙するのを待っているように思えた。
思い返せば自分は最初に目の前にいるこれが本当に生きているのかどうか疑問に思ったのではなかったか。
食事をしているところも、眠っているところも見たことがない。
馬鹿馬鹿しいと思う。
白い腕は折れそうに細く、肉は柔らかい。じっと見つめてくる瞳の、どこが人間でないというのだろう。
百歩譲ってもただの比喩だ。
そう、思いつつ。
押さえつけている姿態はあまりに美しかった。
「……まともに喋れ。このままだと商売道具の無事が保証できねぇこともわからねぇか?抵抗の一つもしてみちゃどうだ。」
形の良い乳房を乱暴にわしづかんでみても戸惑う様子すらない。
冴は微動だにしないまま十郎を見つめている。
「私の仕事です。このために作られたものです。仕事はしなければなりません。」
無防備に預けられた体は、おそらく誰にでも同じなのだ。求めれば当然のように開かれる。金を払おうが払うまいが。
胸くそが悪い。けったくそが悪い。腹が立つ。
「…萎えた。」
十郎はすんなりと冴の上から退いた。
驚いたのは冴だった。
未だかって途中で止められたことなどない。何か粗相をしたのだろうか。わからなかった。何一つ。
これで最後だ。この家を出て行かなければならないのに、十郎の望みを叶えられない。
離れていく体に取り縋る。必死だった。
「待ってください。どうすればいいですか?教えてください。教えられればその通りにできます。」
十郎は冴を払いのけた。
「それが気にくわねぇ。ムカっ腹が限界だってのにこの腹にさえムカつくんだ。抱かれてぇのか?嫌なのか?どっちだ!あんたは何様のつもりで言いなりになってやってんだ!」
「私の仕事は…」

自分はロボットではない。人形だ。特別な力は何もない。役に立たないただの愛玩人形だ。一度飽きられてしまえば後は処分されるだけのものだから、細部まで計算されて作られている。どうすれば人間を喜ばせることができるのか、それができなければ破壊されるしかない。
十郎は冴が自分で選択することを望んでいる。ならば選択するのが正解だ。できるのならば。
だが、自分の存在理由はただ一つなのだ。

「私を…破壊しないでください。可能なことはなんでもします。きっと…何かできます。破壊しないでください。」
プログラムされた人格。成長を可能にした学習プログラム。
どこまでを自分と呼んでいいのか冴にはわからないけれど。
人間を喜ばせるためだけの存在である自分が、唯一自分の意志で選択したこと。
「私は生きたい。生きたいんです。」
汗もフケも出ない、どうやっても人間にはなれない体。
それでも、生きたい。
生きたかった。
無理だということはわかっていた。
モーターはあっても命は宿っていない。
だが人間と同じように、仕事をして、お金を稼ぎ、家を買って。
生きるために必要なことを、すべてこなせたなら。
そう思ってきたのに、十郎の望みを叶えられない。
「私は仕事をちゃんと果たしてきたのに…どうしてそんな選択をさせるんですか。」
そう言いながら違うと思った。
おそらく人間ならばここで十郎の望みを叶えられるのだ。自分の仕事はそれなのだから、やはり十郎を喜ばせるために選択しなければいけないのだ。
「私はそのために作られたはずなのに。もう、壊れているんでしょうか…。」
冴は小刻みに震える体をどうすることもできなかった。

「…あんた、そんなことのために生きてんのか?」
十郎の大きな手が冴の頬を拭う。
冴は瞳の奥を揺らした。
「役に立てなければ壊されます。…破壊するんですか。」
十郎は両手で冴の頬を覆って、そっとなでさすった。
「仕事は別に探してたじゃねぇか。あれはどういうこった。」
「生きるためにはお金がいると聞きました。」
呆れてしまう。
いや、もう呆れなどとっくに通り越してしまっている。
滑らかな頬の上を走る涙の道を見てもため息さえ出てこない。
馬鹿だとか阿呆だとか間抜けだとか罵りはいくらでも頭をよぎるのに口からは一つも出てこない。
「あんた、綺麗だな。」
気がつけばそんなことをつぶやいていて、驚きに見開かれる瞳に苦笑を返す。
十郎は冴の左胸に手のひらを押し当てた。
人間ならば鼓動を感じられるはずのそこは静寂に満ちていた。ただ低い体温が伝わってくるだけだ。それでも気味が悪いとは思わなかった。
「条件さえ果たせばクズこそ大歓迎の世の中なんざに許されたがんのはやめとけ。群れに入るために矯正されんのは割にあわねぇ。一つだけだ。たった一つ、生きるために必要なのは自分の許しくらいだ。それも義務じゃねぇ。俺が今ここで腹かっ捌こうと間違ってねぇ。しなきゃならねぇことはゼロ。マゾが涙して縛られてるだけだ。俺はゴミみてぇな奴かもしれねぇが。あんたが家と仕事をクリアしなくても、俺は今あんたを許す。こんなもんじゃまだあんた生きてねぇか?」
十郎は冴の顎を引き寄せ、強引に口付けた。
「生かされようとすんな。してぇことをしてぇようにして生きろ。」
舌をねじ込み、絡めたり引っ張ったりしながら口腔を嬲る。
「あんた生きたくて今ここにいるんだろうが。んなふうに全部自分で決めな。俺が見ちゃいられねぇと思うような道を選ぶのも自由だ。ただしそんときゃ俺の見えねぇところでやってくれ。」
舌と舌を結ぶ銀糸を断ち切り、低い声で告げた。
「欲情した。あんたの穴につっこみてぇ。」
冴は思わず目をそらした。
なぜそうしてしまったのか自分でもわからなかったが。
十郎は喉の奥で小さく笑った。
「ダッチワイフとやるのは御免だ。いいのか、嫌か。さっさとわかれ。」
冴は顔を曇らせながら十郎の胸板にそっと手で触れてみる。
選択肢は一つしかないはずだ。
意味も価値も、役割を果たせてこそ与えられるものだ。
もしここで拒絶したとしても十郎は自分を破壊したりしないだろう。
ただ、その後には一体何が残るのだ。
指が震えた。
「私は…綺麗ですか?生きていなくても…欲情しますか?あなたでも?」
「話聞いてねぇのか?人形に盛る趣味はねぇよ。俺から見りゃすでにあんたは生きてる。足掻いてんだからな。馬鹿みてぇに必死に生きようとするあんたは綺麗と言えねぇこともねぇ。」
目の奥が熱い。
冴は十郎の首筋から肩にかけてをそっとなぞった。
今まで見た中で一番たくましい体。生命力にあふれている肉体。まるで十郎の心を表しているように、綺麗だ。
こんなふうになりたかった。
だが今自分はこの人に綺麗だと言ってもらえたのだ。
冴は両腕を十郎の首にかけた。
「……私には触感があります。でも快感を感じたことはありません。中に入られるのは気持ちが悪いです。仕事でもなければしたくありません。」
十郎は苦笑したが、それでも「わかった。」と頷いて冴の頭をなでた。
しかし密着して離れない柔らかい体に苦笑どころではなくなる。
無理やりに引き剥がし息をつくと、すぐさま部屋の隅に置いていた紙袋をつかんで中身を取り出した。
「着ろ。」
白くてすべすべした生地でできたシンプルなワンピースを何故かしかめっ面をして差し出してくる十郎。
冴は驚くのも喜ぶのも忘れて首を傾げた。
「私にですか?…買ったんですか?」
十郎は何も言わずに冴に向かって放り投げ、すぐに玄関に向かった。
「出かけてくるから寝てろ。クソ野郎を入れるんじゃねぇぞ。」
冴はワンピースを片腕で抱きしめ、もう一方の腕を体ごと伸ばして十郎の服を握った。
「お風呂に入らないんですか?」
「外で入ってくる。」
冴はきょとんとして、風呂は家の外でも入れるものなのだろうかと疑問に思った。
しかしもっとわからないのは何故いきなり外に出かけるのかということだ。
服の端がしわになるほど握りしめ、口をぱくぱくと動かす。
十郎が振り払おうとしても決して離さなかった。
「離せ。」
冴の細い眉は八の字になってしまっている。
「…嫌………かもしれません。」
目を見開く十郎に肩をすくませるが、それでも離したくなかった。
十郎は何故だか情けない声で言った。
「嫌がる女を無理やりねじ伏せる趣味もねぇ。下半身を切り離しさえすればな。」
ようやく的を射て、十郎を逃がさないように抱きつく。
程よく硬い、温かくて大きな体。
「今のところこれだけに快感を感じます。」
腕に抱いたままの白いワンピースがするすると伝い降りてくる。
床に落としてしまうのが嫌で冴はますます力を込めて抱きついた。
「仕事でないときはどうするのかわかりません。だから、教えないでください。きっと喜ばせられません…でもあなたなら私でいたい。役立たずで綺麗じゃなくても受け止めてもらえたなら許せる気がするんです。…私は人形だけど、生きたくて。…あなたのようになりたくて……。」
大きな手のひらが降りてくる。
この手が汗ばんでも、きっと喜べる。
「…欲情しました。あなたを包み込みたいです。」
十郎が笑う。
冴が微笑む。
無骨な愛撫はまるで腕を滑るワンピースのようにひどく心地がよかった。


仕事を探そう。
お金を稼いで十郎に何かを贈りたい。
一つずつ、したいことを見つけて。
真っ白なワンピースに恥じない私になりたいから。
やがて壊れて動かなくなる日まで生き続けよう。


人の形と書くけれど、決して人にはなり得ない。
それでも、
命が宿っていなくても、
何ができなくとも、誰が許さずとも。

あなたに許された私を私が許す。
END.
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