『箸棒拙話 File.2 ベアトリス』

 蝶よ花よと。ベアトリスお嬢様は奥様旦那様からたいへん慈しまれ、愛されてお育ちになりました。
 お嬢様のお洋服には常にしわ、しみ、ほころびの一つとしてございませんでした。旦那様はお嬢様を外に出すのが心配で、最新流行のおもちゃを一月ごとに箱が塔を作るほど買い与えられました。奥様はお嬢様のストロベリーブロンドの髪が殊の外お気に入りで、毎日自らくしを通されては楽しそうにリボンの色をお選びになるのでした。
 そんなお二人の深い愛情がもっとも顕著に表れたのがお嬢様の健康面で、殺菌除菌抗菌、消毒、消臭。お屋敷を清潔に保つよう使用人の一人一人にまで細かい指示が出ておりました。そうしてこのお屋敷は長い廊下を歩いても広いお部屋を見渡しても塵一つなく、無菌室を思わせるほど清潔感に満ちあふれた空間となったのです。
 しかしそれでも窓が、扉がある以上、無菌室には保てません。お嬢様は幼少のみぎり、重い風邪にかかってしまわれました。風邪と言いましても死に至る例もございますれば、馬鹿にできるものではございません。それまで病気らしい病気をほとんど経験してこられなかったお嬢様の苦しそうな様をご覧になり、旦那様、ことに奥様は、非常に心痛されたのです。そうしてついには外からやってくる人々、雇い入れた庭師や家庭教師、買い出しから戻った使用人にも、殺菌処理を入念に施してからお屋敷に入れるようになりました。
 それが功を奏したのか、以来お嬢様はさしたる病をしておりません。一つ年を追うごとに一枚の花弁が開いたかのように美しくなり、そのお心も貴婦人にふさわしく、気高く成長されていきました。
 美しいものは美しいものを好むのでしょう。お嬢様は身の回りの品々を自らの選んだ一流のブランド品で固められました。お洋服にお帽子にお靴、鞄などの小物類、ファッションに関係したものはもちろん、カーテン、ワードローブ、椅子、シャンデリアなど家具、お勉強のときに使われるペンの一つ一つに、三時にお召し上がりになる紅茶やクッキーまでも。それからお嬢様ご自身、お屋敷をいかに清潔に保つかに注意を払われるようになりました。健康のためではなく、醜きを厭い、美しい生活を求めるがゆえに。
 綺麗な、まるで絵に描いたような生活を、絵にも描ききれないご両親の愛の下で過ごされていたお嬢様。ですが……ベアトリスお嬢様十五歳のときです。旦那様と奥様が、お二人同時にお亡くなりになってしまわれたのでした。
 お嬢様は十五歳にして家産を引き継ぎ、家を取り仕切らねばなりませんでした。ご両親との思い出がそこかしこに宿るお屋敷に、たった一人。使用人は多くおりましたが、召し使いはしょせん召し使いです。使われる以上のものではございません。お嬢様のお力になりたいとは願うものの、自らの分をわきまえない者には与えられた仕事さえ満足に務まらないのです。立場というものに歯痒さを覚えつつ、ただお嬢様を見守るしかありません。
 やがてお嬢様は新しい愛を見つけられました。使用人一同待ちに待った『お嬢様を支えることのできる方』です。お二人の愛は静かに、少しずつ育てられていきました。
 眼差しと眼差しが交差するたび紅潮する頬の気恥ずかしさ。手袋越しに伝えられる指先のぬくもりがいかに優しかったか。年頃の少女らしく、極上の砂糖菓子のように恋を語るお嬢様。相手の方は見るからに好青年で、髪には一筋の乱れもなく、整った生活態度のかいま見える引き締まった体型。趣味の良いスーツを見事に着こなし、白い歯ののぞく気持ちの良い笑顔が同性にも好感を抱かせる、文句のつけようがないお方です。心持ちも爽やかで、外部の方には敬遠されるこの家の清潔を重んじた考え方にも、多大な理解を示されました。
 ただ一つ、お嬢様がお顔を曇らせる点が、ただ一つだけ。その方は、時折キスをお求めになるというのです。
 メイドたちは遠慮なく笑いました。「おのろけがすぎますわ」と。けれどもお嬢様は真剣でした。お屋敷の中だけで育てられたと言っても過言ではないような方ですが、キスの経験はございます。今は亡き旦那様や奥様に、頬への口付けを毎日毎朝毎晩何度も。そう、唇へのキスは、一度もございませんでした。
 大家がステータスのごとく必ず飼っているペットは、この家にはおりません。お嬢様は動物と触れ合ったことがございません。それどころか人間とも、幼少の頃のご両親との触れ合いを除いては、常に手袋ごしの接触だったのです。

「口と口をくっつけるだなんて、汚いでしょう。もしも唾液がついたら一体どうするというの」
「まぁお嬢様ったら。『もしも唾液がついたら』ですって? まだまだネンネでいらっしゃる」
「何がおかしいの? 何を笑うのかしら? 説明してちょうだい。わけもわからず笑われるのは気分が悪いわ」
「私どもからの説明よりも実地で教えていただいた方がよろしいかと存じますわ! きゃあ〜っ♪」

このとき、メイドたちはその深刻な問題に気づくことができませんでした。
 結局お嬢様はその唇を許すことなく、ほっそりした手を絹の手袋に包んだままで花嫁衣装をまとわれたのです。
 神前の結婚式、誓いの口付けは互いの頬と頬へと。明らかに不自然な光景を言及する者はおりませんでしたが、お嬢様のお耳に決して入らないところでは様々な言葉でもって噂されておりました。
 子どものようだと嘲笑するもの、新郎が哀れだと同情するもの。そして、無事にお子様のお顔を見られるのだろうかと心配するものたち――。
 その心配は、ある意味では外れたと、ある意味では当たったと言えばいいのでしょうか……。
 新婚の初夜。お屋敷の新しい旦那様と、花嫁となったお嬢様は、一つのお部屋に入られました。お二人のこれからのためにと整えられたお部屋です。そうして一晩、ローブとネグリジェのまま、横に並んでお眠りになったのでした。

「彼女は世間知らずなところがあるだろう? まだ子どもなんだと……それだけなんだと、自分に言い聞かせていたんだが……抱きしめて眠ることさえも許してくれなくてね。……彼女は本当に僕を愛してくれているのかと、そう思うことがある」

 旦那様はお嬢様の成長を見続けてきた私にそうおもらしになりました。私は……

「お嬢様は決して子どもではございません。接触に不慣れなのです。そのため『生きているもの』に触れることを汚く感じてしまうのやもしれません。けれど……、お嬢様は確かに旦那様を愛しておられます。旦那様がお嬢様のお心をほぐしてくださることを切に願っております」

旦那様にありのままを伝えてしまったのです。ありのままとは言いましても、私の心のありのまま。いかにお嬢様を見守り続けてきた身であっても、どうすればよいと導くことのできるものではありません。
 その日から旦那様は手袋越しでもことあるごとにお嬢様の手をとるようになり、ペットを飼う相談をされたり、恋愛劇を観に行かれたり、同じく新婚で仲睦まじい友人夫婦を招かれたりと、それはもう目に飛び込んでくるような努力をされました。けれどお嬢様は微笑むだけ。手袋の向こうにある優しいぬくもりに触れてみようとはされません。お嬢様は日に日に幸せそうなお顔になり、旦那様は日に日に疲れをにじませていきました。
 ある夜のことです。お二人のお部屋から叫び声が聞こえてきます。誰も彼もいっせいに飛び起き、屋敷中の人間がスコップなりフライパンなり辞書なりを持って扉の前に駆けつけました。

「やめて! 誰か助けてっ!」

いっさいをかなぐり捨てたお嬢様の声。

「入ってくるなっ! これは僕たちの問題だ! だろう? そうじゃないか! 君はいつも……っ」

すべてをこめるような旦那様の声。

「……いつも、僕は君に愛を捧げてきたつもりだ。だが君は? 君はどうだ! 僕と顔を合わせると嬉しそうに微笑む、それだけでもいいと思っていたさ……。だが君は僕を本当に愛してくれているのかっ? 頬へのキスもあのときだけだ。指先一つ、たった一つ……受け入れようともせずに。……つまり、君は愛されるのが好きなんだ。僕が君を愛しているから、君はただ側に置いただけだ。……だろう?」
「な……にを。わけのわからないことを言わないで! お願いだから正気に戻ってちょうだい! 私たち、愛し合ってるじゃない。あなたいつも、優しく笑ってくれた。私はいつも……そんなあなたを愛して……なのに、どうして急にこんな……っ」
「は。……ははは。……いいさ。君が僕を愛さずとも、僕が君を愛するよ。心も体も、……全部ね」

 集まった使用人たちは誰も何も言えず、扉にスコップを振り下ろすことも踵を返して立ち去ることもできずに涙をこらえていました。かつてお嬢様のお言葉を笑ったメイドたちも、今となっては旦那様のお言葉の一つ一つに悲しみに満ちた理解を示さずにはいられません。
 こんなことは間違っている。二人が夫婦であっても。旦那様が音にならない鳴咽をもらしていたとしても。……いや、だからこそ。

「やめ、やめて……っ。誰か、誰か助けて!」
「……うるさいよ、ベアトリス。仮にも、君は僕の妻だろう?」

それでもお嬢様の悲鳴の前に、身じろぎすることさえできません。旦那様が冷静さを取り戻してくれることを一心に願い、万に一つも望めないであろうと知りながら。次第に眼球が熱に耐えられなくなっていきます。誰もみな、お二人の幸せな日々を願っていました。なのに、いつかこんなときがくるのだと、わかっていたような気さえするのでした。
 虚ろな日々が続きます。花のかんばせに笑顔の浮かばない日々。お嬢様はまるで囚人のようになってしまわれました。旦那様は本来のお姿を取り戻すことなく、狂気に囚われ続けておられます。あの夜何があったか知る者たちは一様に下を向いて黙々と仕事をこなすことしかできません。
 そんな中、とうとうお嬢様がご懐妊されてしまいました。本来なら手放しで喜べる知らせのはずでしたのに。絶望となるのか、小さな希望となるのか。後者になってくれることをただ祈るばかりでした。
 旦那様は上機嫌で愛の言葉をささやきます。愛しの妻と、日に日に成長する小さな命に。お嬢様は虚ろな眼差しのまま宙を見つめています。それでも、我が子の顔を見れば、きっと……。きっと……。
 出産は困難を極めました。お子は逆子、お嬢様のお心は出産に備えておらず、生みたくないようなそぶりさえ見せました。旦那様がお嬢様の手を握ります。産婆は額の汗を拭うこともできません。ようやく、ようやっと生まれた赤ん坊は、将来きっと美しくなるであろう女の子でした。
 旦那様は涙を流して赤ん坊を腕に抱かれます。お嬢様は疲弊しきっておられたため、赤ん坊の姿をその目に映すのは一週間も後になってしまいましたが、体は小さくも元気に泣く様を見てわずかに口元をほころばせたのでした。それを見た私たちは、この家はきっと本来あるべきはずだった姿を取り戻していけると、そう思ったのです。
 けれど。ああ、けれど……。この世に生まれ出でたばかりの命はまだ何も知りません。何につけても介助を必要とし、誰かの手がなければ何ほどのこともできはしないのです。
 それは、赤ん坊がお嬢様の腕の中で粗相をしてしまったとき――。すぐに乳母が後始末をいたしましたが、お嬢様はご自分の手のひらを見て何事か考えているご様子でした。そして、こうつぶやいたのです。

「汚いわ。なんて汚らしいのかしら。どこそこ構わず粗相をして。いつもよだれをたらしていて。乳母のお乳をたらし、鼻水を流し。この私の娘でありながら。どうしてこうも汚らしいものになったのかしら? ……ああ、ああそうだったわね。あれにはあの汚らわしい男の血も混ざっているのだったわね。私を汚した……汚物の固まりのような男……。ふふ、今の私と、あの男で、綺麗なものなんてできるわけがないわよね。……かわいそうに。なんてかわいそうな子なのかしら」

 お嬢様は乳母に今後赤ん坊の世話は手袋をつけてするようにとお命じになりました。決して素手では触るなと。極力抱かないようにして、粗相をすれば叩いて言い聞かせろと。そして何があっても旦那様に会わせてはならないと。乳母は頑として首を振り抗議しましたが、お嬢様は決して耳を貸さず、ついにはその乳母をやめさせてしまわれました。けれどもそんな要求を聞きいれるような乳母はおりません。何人もの乳母がやめていき、とうとうお嬢様自ら赤ん坊を育てることとされたのです。
 決して触れない。決して抱かない。手袋越しの平手が飛び、泣き叫ぶ我が子をあやしもしない。
 赤ん坊には母親の愛情が必要です。誰かのぬくもりを受けて育たなければならないのです。赤ん坊は排泄物を垂れ流し、自分でそれをどうする術も持ちません。けれどもそれはそういうもの。誰かの手を借りなければ、けして生きられない生き物なのです。

「……ベアトリス。……すまなかった。本当に。君にとる手段を……間違えたことは詫びる。もはや遅いとしても。……だが、君は娘に何をした? 僕の娘に、君の娘に! 何をしたんだっ!」

 赤ん坊は死にました。――死ぬべくして。

「あれが綺麗になるにはこうなるしかなかったんじゃないかしら……」

 私はお嬢様の幸せをずっと願い続けてまいりました。お嬢様が生まれ出でたそのときからずっとです。一介の使用人の身ではありますが、心からお祈りしておりました。……ですが使用人として、私は間違っていたのやもしれません。
 あの夜、身を挺してお二人の仲裁に入っていればこのようなことには。いや、旦那様の本音を聞かせていただいたとき、お嬢様に忠言差し上げていれば。そもそもはお嬢様が成長された後この家の風潮を正していたなら!
 いつからやり直せばいいのか。どれだけ悔いようとももはや時は戻らず、失われた命もまた戻ることはありません。お嬢様のお心が戻られる日は、この家に再び幸せが訪れる日はくるのでしょうか。
 私は敬愛するお嬢様と旦那様のため、己の罪を見届けるため、そして償いのために――今もこの家で執事を続けているのでございます。
END.
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