『箸棒拙話 File.1 アイン』

 アインは本を読むのが好きだった。
 書物はアインという枠を越え、知らない国の知らない文化や考え方、知っている世界の知らない領域や未知なる無限の可能性を教えてくれる。
 本を読むとわくわくした。どきどきした。新しい知識を取り入れると昂揚して息もおぼつかない。野良仕事も家畜の世話も放り出し、裕福な友達の家に通い詰めては本を読み、毎日両親に怒鳴られる。
 それでもアインは読書に夢中だった。それはまるで永遠に醒めることない熱病のように彼を支配していた。

 ――一枚のページをめくる。
 ここに書かれていることはほとんどが真実。自分が育てた豚も牛も羊も、収穫した小麦もトウモロコシも、父も母も兄も、何も出てはこないけれど、この世界のどこかにあるまぎれもない現実なのだ。
 なんて非現実的な、不思議な世界だろう。
 次のページにも、その次のページにも、出てくるのはただの文字の羅列。けれど、世界は確かに生きている。

 やがて大人たちは結託してアインから唯一至上の楽しみを取り上げた。
 アインは申し訳なさそうにする友人に微笑んでみせた。

「……もういいんだ。これでやっと本から離れられるよ」

 アインとて好きで仕事を放り出していたわけではない。いつもやらなければ、やらなければと思いつつ体が言うことを聞かないのだ。そうしてひとたび本を手に取ればもう止まらなくなってしまう。他のすべてのことが抜け落ちて、こびりついていた罪悪感すらどこかへ消えて失せてしまう。食事、睡眠、そっちのけ。ただただ両目が文字を追う。
 恐ろしかった。魔物が魂を食らっているのではないかと思うほどだ。
 そしてこれが魔物の仕業ではなく自分の業であることが、何よりも恐ろしかったのだった。

 アインはかつて夢と恐怖の城であった友人の邸宅を一望し、まぶたを閉じて頷いてからゆっくりと家路についた。両親にこれまでのことを詫び、本来の生活へと戻るのだ。

 翌朝アインは空を見つめて目が覚めた。
 気持ちの良い朝なのに、小さく、からっぽなばかりの空が胸にある。アインはため息をつきながら前髪をかきあげ、両手で頬をべちんべちんと叩いた。

 干し草のにおいが好きだ。動物たちはくさいし汚いけれど可愛いし、汗をかくのも気持ちが良くて好きだ。一面に広がる黄金畑で風を聞くのもとても好きだ。広い空には雲一つない。澄み渡った空を見るのも大好き……だったはずなのに。その青い色が、どうしてこんなにも空虚に思えてしまうのか。

 アインは熊手で干し草の山をえぐり、ふっと手を離した。
 家は代々農場をしている。たくさんの想いが宿った土地を、やがては自分が受け継ぐことになるのだろう。両親のためにも将来の自分のためにも農場の仕事をしっかりとやっていかねばならない。

 ――だが、逃れられない宿命というのはあるのだ、きっと。それは環境によって整備されるものではなく、遺伝子に組み込まれたことわりのようなもの。意志の力ではどうにもならない。

 そう思い、アインは首を振る。もう、認めるべきなのだ。
 魔物に魅入られた――ような――自分。熱病に冒された――ような――自分。

「……なんでもいいから、どうやってでも、本が読みたい」

 紛れもない――自分。

 その瞬間、人生の全貌を見る。
 いついかなるときも書物と共にあるだろう。飢えたとて手放しはしない。ページをめくって人生の幕を閉じるだろう。おそらくは確実に、後悔はない。後悔は、ないのだ。認めてしまったその時からすでに農場のことなど微塵も考えられないのだから。

 アインの頭の中でまっすぐな道が開かれる。
 まず都会で働く兄に相談する。なんとしてでも両親を口説き落とす。そのためには都会の進学校に通えるだけの学力を身につけること。都会に行けば――もっと色んな本が読める。それから、できうる限り両親を嘆かせないため高名な学者になってのけること。そうすれば――、もっとたくさんの本が読める。
 無謀な計画だったが、あらゆる艱難辛苦はアインの目に映らなかった。アインは自分の人生を知っていた。その終わりさえも。実現に至らない可能性など、考えもしなかった。

 はたしてそれはその通りに達成される。
 アインは学者としての高い地位と名誉を手にし、いついかなるときも書物と共にあり、そしていついつまでも飽きるということがなかった。
 しかし、一つだけ、たった一つだけ――アインの展望に反することが起こっていた。

 目はかすみ、手は震え、足は木偶のように動かない。ときおりひどい目眩がする。老いさらばえた身に訪れた病は終末をはっきりと明示する。
 アインは意識を取り戻しては本を開くという時間を繰り返しながら、目前に迫る死にただ苛立っていた。

 指は大きく震えながらもまだ動く。望み通りページを送るうちに息をひきとることができるのだ。
 だが、まだたりない。まだ読みつくしていない。知りつくしていない。それどころかこの身は忘却という呪いにかかっている! もっと早く、もっと多く読むのだった。もっと、もっと……っ!
 まだ死ねない! 後悔のないはずがない!

「医者に用はないっ! 死神よ、出てこい! わしと交渉しろ! この先書を読み続けること以外の、あらゆるものをおまえに捧げようっ! ……神よ、悪魔よ、何だろうとかまわん! 出てきてわしの願いを聞け!」

 そうしてアインは永遠に目を閉ざす。
 彼の瞳は最後の瞬間まで文字を追い続けていた。
 その壮絶ともいえる遺言を受け取った人々は、悪魔や死神が彼に耳を貸さなかったことを喜ぶべきか決めかね、せめてもの慰めとして棺に様々な本を収めてやった。

 しかしはたして本当に彼の願いは聞き入れられなかったのか?

 アインは現代に蘇った。新しい体に宿る新しい命として。
 当然前世の記憶は持たなかったが、文字もわからない頃から書物に興味を示し、小学校に上がる頃には図鑑や百科事典を繰り返し開くようになっていた。
 それは子ども特有の何にでも興味を示す性質によるものだったのかもしれない。しかし新たに知識を手に入れることの快感は彼と本とをしっかりと結びつけた――はずだった。

 中学校へ進学した頃、彼の家にある変化が起きた。
 パソコンがやってきたのだ。
 インターネット導入。ついでに百科事典をインストール。今までは図書館で一冊一冊本を確かめペラペラとページをめくって目を細めながら調べていたことが、キーボードぱっぱ、Enterキーぽん、でハイ完了。
 劇的な変化だった。
 彼は途端に夢中になり、そして飽きた。新しい知識を、自分で探すということに。
 彼は本を読まなくなった。必要なことはパソコンを開けばすぐに調べられるからだ。
 さほど必要でない知識に目を向けようと本を手にしても、所要時間の違いを考えれば開く気にはなれなかった。ならばパソコンを開くのかといえばそうでもなく、テレビゲームや漫画を読むのに意識がそれる。二日や三日たって虚しさを覚えても、また違うゲームや漫画に手が伸びる。
 そうして中学生活も終わりに近づいた頃、彼は言った。

「将来のことはまだ全然考えてないっす。熱中できるようなもんってないんで。高校はとりあえず近いとこ行きたいって思ってます」

 魔物に魅入られ、熱病に冒されたかのごとく夢中になる。
 かつて自分にもそういったものがあったことを、微塵も思い出すことなく。
END.
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