『文書きさんに10のお題 〜食べ物編〜』

『スパゲッティ』


 ちょっとした高級感ってやつ?
それでも初めてのオレには衝撃だったわけだ。

 ミートソース。

 ――スパゲッティ・ミートソース。

それまではお袋のケチャップ・スパゲッティしか食べたことがなかった。
 ケチャップには出せないまろやかさ。ミンチの醸し出す深い味わい。温かいトマトは意外に美味かったし、マッシュルームってぇ、妙な名前のキノコも独特の風味があった。
 オレは途端に虜になった。
 ミートソースミートソースミートソース。
色は赤。主な原材料・トマト。
しょせんはケチャップ属性だろうになんでこんなに違うのか。

 もう一度二度三度……食べたい。

 「ちょっとした」でも高級感は高級感だ。ファミレス等にでも行かない限り食べることはないだろう……。学生の身で外食は少々つらい。
と、思っていたら、百円均一にてミートソース発見。
オレは思わずうなだれた。

「オレ的ちょっとした高級感」=百円。

カタカタカタカタ……チーン

頭の中のコンピューターがチープな音を立てて紙を吐く。
しかし持ち主の立ち直りは早かった。

 ミートソースはお得だ!

 「お袋、今度からスパゲッティ作るときはミートソース使ってくれ。この前おじさんに食わせてもらったんだけど、ケチャップよか断然美味いんだって!袋に入ったのが百円。なー、ミートソース、試してみ?」
夕食の唐揚げをつまみ食いしながら早速提案してみる。
お袋はフライパンから皿へと補充移民を整え、
「一食百円以上でしょうが。ケチャップの方が断然安いわよ。それにソースを温める鍋を余分に洗うのは誰?面倒でしょ。レンジでチンでいいならあんた麺も自分でゆでてよ」
と、箸を鳴らして威嚇してきた。
 電子レンジは嫌いだ。
熱すぎると思えばすぐに冷めるし。中身が頻繁に爆発するし。味も普通に調理したものと比べるとやはり劣る。温め直すこと以外に使いたくない。

 オレが食いたいのはスパゲッティ・ミートソースではない。
 美味いスパゲッティ・ミートソースなのだ。

 しかしオレに家事能力はまったくない。
作れる料理はカップ麺オンリーワン。たまに皿を洗っても必ず洗い直される。
 目で訴えた。
無言で圧迫してみる。
お袋はオレのすねを足でつついてキッチンから追い出すと、こっちを見ないままに言った。
「はいはい、鬱陶しいわね。わかったわよ。その代わり買い物行ってきなさいよ」

 粘り勝ち、一本。

 次の日オレは大量のミートソースを持ち帰った。
もちろん殴られたが。
カタリと皿が置かれた瞬間磁力を増すにおいに思わず唾液分泌。頭の痛みも遠くの山へと飛んでいく。

「いっただっきまぁす♪」

小学生のような声を出して両手を叩く。
フォークをくるくる回すリズムに乗って「糸巻き巻きのうた」でも歌いたいところだ。
ソースを絡めてにおいを味わい、強引に麺を奪い取った。
「ちょっとした高級感」はオレの胃袋頬袋をこれでもかと幸せにしてくれた。

「ごっちそぉさまぁ♪」

 目を糸にして再び両手を鳴らすと、「はいはい」といった声が返ってくる。
 お袋は洗濯物をたたんでいた。
お袋が夕食を食べないのは珍しくない。食べてもその辺にある菓子とかで、理由はただただ「作るのが面倒」、だそうだ。
 だが今日に限り、オレは面白くない。
ミートソースの美味しさを共有できるはずだった相手がたたみ終えたタオルを運んでいく。
「お袋も食えよ」
「今日はおなか空いてないの」
話しかけた背中は扉の奥に消えてしまった。

 次の日もその次の日もスパゲッティがゆでられることはなかった。
オレの中の小さな感動はすっかり乾燥してしまった。

 食えば絶対美味いのに。

ミートソースたちは買い物袋に入ったままキッチンの隅に転がっている。右には菓子袋、左にはラーメン袋が鎮座ましましていたが、オレにはうっすらと透けている赤いパッケージが「早くオレたちを食べてくれ」と切実な訴えをよこしているような気がしてならなかった。

 数日後。
お袋不在の間に家に着いたオレは、シンクに残された洗いものを見て眉を寄せた。
白い皿にこびりつくこの赤い染み。
紛れもなく、ケチャップ。ミートソースとは微妙に色が違う。
ところどころ線状になっているところを見るに、おそらくはスパゲッティ。
本日昼、お袋はケチャップ・スパゲッティを食したと推定される。
 ミートソースたちの叫びを叶えもせず。
 しかし。
オレの耳には新たに別の訴えが届いてきた。

「このやろー、ミートソースごときにヤられやがってガキが!奴らが百円の高級食ならオレらお袋の味だぜぇ?値段のつけられない品ってやつ?価値ってもんがわかってねーんじゃねーのか、よォよォよォーっ?」

オレは蛇口に手をかけたまま、皿に水が溜まっていくのをずっと見ていた。

 玄関が開くと、パンパンにふくらんだ買い物袋たちがいくつも顔をのぞかせた。
どいつもこいつも同時に入ろうとするから結局みんながつっかえている。
その内の半分を引き受け、オレは横をすり抜けていくお袋につぶやいた。
「……今日はケチャップの方のスパゲッティ食いたいんだけど」
重い音と共にキッチンの袋コーナーがさらなる拡張を終える。
振り向いたお袋は言った。

「あっそ。助かるわ。あんたにはわからないでしょうけどね、鍋一つ洗うのがホント面倒なんだから」

 ……。

 まぁ、いいのだ。
オレの胃袋頬袋は今日も満たされた。
出てきたケチャップ・スパゲッティにはミンチもマッシュルームも入っていなかったが、それでもとてもあたたかくて美味しかったから。
END.
         10

『ステーキ』


可愛い仔牛 売られていくよ
悲しそうな目をして 見ているよ


 「おまえはいいよな」
 聞き慣れた言葉に曖昧な笑みを返し、手を振って別の道を行く。
角を曲がった途端網膜を突き刺す夕日に、少しだけ穏やかな気持ちになれた。
 ――あの言葉を聞くのももう終わりだ。
熱を伴わない光と共にひんやりとした風が全身をはたいていく。
 僕は恵まれているらしい。
医者である父は息子にも同じ道を歩ませようと熱心に教育してくれた。
目標は常に前にあり、バックアップも超強力だ。
 僕は恵まれている。……らしい。
 ――頭が悪いのは一体どっちだ?


ドナドナドナドナ 仔牛を乗せて


 『ドナドナ』は「暗い歌」の代名詞とも言える有名な民謡だ。初めて習ったのは小学生のときだったが、その前からサビのメロディーと曲のイメージは頭に入っていた。
しかしこの歌のどこがそんなに「暗い」のかはわからずにいた。
売られていくから?
「悲しそうな」、だから?
メロディーが暗い感じのせい?
歌うたびに首を傾げていると、音楽の先生は「売られてお肉になっちゃうからじゃないかなぁ?」と答えてくれた。

 そんな記憶が蘇ったのは、殴られた拍子に脳の内部がぐちゃぐちゃになってしまったからだ。
隙間なく詰め込まれていた受験用の知識もいくつか抜け落ちてしまった可能性がある。
にもかかわらず、父は未だ拳を握りしめたまま。夕日のように顔を赤くして打ち震えている。
「もう一度言ってみろ」
頭上から低い声が押さえつけた。
「僕は医者にはなりません。役者になりたいんです」
ご要望にお応えして一字一句そのまま繰り返せば、対する反応もまた同じ。同じだけの痛みが頭を打つ。
きっと三度目を繰り返したとて何の変化もないのだろう。
父の拳は固まり続け、母はふすまの向こうで口を押さえたまま何も言おうとしない。
予想したとおりの反応がおかしかった。


ドナドナドナドナ 荷馬車が行くよ


 世の中の多くの牛たちはステーキになる、ただそれだけのために生きている。
厩舎の中で与えられた餌を食し、状況に任せていればそれだけで立派なステーキになれる。
 僕は嫌だ。
悲しそうな目をしながら解体されるために育つのは。
ステーキがどんなに美味しくて高級でも、肉は肉だ。「屠殺された牛」にすぎない。
この身には柵を越えることのできる「自由」がある。
絶対に、ある。
例えなくても、信じている。
あとは飛んでみるだけだ。
 僕はできるだけうやうやしく頭を下げて顔を上げた。
「楽しそうな顔」には自然となれたと思う。

「そういうわけなので、家出します」

――そして僕は家畜をやめる。
END.
         10

『寿司』


 赤いの白いのオレンジの。玉子焼きが乗ってるヤツに、赤い目玉がぶつぶつ乗っかってるヤツ。見た目が気持ち悪いのも食べると意外にいけたりするんだ。
 いなかのばあちゃん家に来ると必ずオスシを頼んでくれる。
今までのオレはただ喜んでただけだったがこれからはちがう。オレはオトナになったんだぜ! もうちゃんと気をつかうことだってできるんだ。ちゃーんと一番安いの頼むから、安心してよ、かあちゃんばあちゃん。
 って、胸張って「これっ!」って指さしたのに、すっげー変な顔された。
「……それでいいのかい? 他のものにしたらどうかね」
ばあちゃん。
「カッパ巻きぃ? もったいない、そんなもの母さんだって作れるわよ。もっといいもの頼みなさい!」
かあちゃん。
……確かに変なナマエだと思ったけどさ。スシはスシじゃん、うまいに決まってるぜ。なんでそんな反応されるんだよ。かあちゃん、いっつも「おばあちゃんにあんまりお金使わせないの!」とか言ってたくせに。
いいよ、オレもういつものヤツにする。
 「テッカまき。サビ抜きの!」
まったく、オトナになって損したぜ。
ホントはコレ頼みたかったんだよね! スシ食えるの、ばあちゃん家来たときだけだし、食えるだけ食ってやるぜ!
 で。
食った食った、丸い黒にピカピカ光る、白と赤のうまいヤツ! オレのおなかと久しぶりにコンニチワだ! 会えてうれしかったぜっ。
今日の記録、実に三十六個。新記録達成だ。
横からつまんだノリついてないヤツあわせると四十くらい? ヤツら鼻が痛くならなければもっとうまいだろうにまったくもったいないぜ。
まぁいい、また半年後に会うのを楽しみにしているぜ!

わははははは……

 って、せっかくカッコイイ別れ方をしたのに、オレとスシらとの再会は思いのほか早かった。
かあちゃんが「いいところに連れてってやる」って言うからついて行ってみればそこにはヤツらがぐるぐるぐるぐる回っていたのだ!
 なんだコレ、なんだコレ! 次から次へとスシ出てくる!
テッカまき発見! ただちにいただきます! 、だ。
 「あぁあぁ、このお店、あんたのためにできたのかもしれないわね。お財布に余裕があったらまた連れてきてあげるわよ」
かあちゃん、それは「もう半年に一度を待たなくてもいい」ってことだなっ? ホントだなっ? 絶対だなっ?
 その日またもや新記録を打ち立てたオレのおなかはパンパンにつまった喜びにまぁるくなっていた。

 わははははは……

 かあちゃんはめずらしく約束をやぶらなかった。
あれから何度も「ぐるぐるズシ」でスシを食った。
新記録も何度も立てた。
「テッカまき」はいつだってうまい。「カッパまき」の正体も知った。ワサビの入ったヤツだって前よりずっと食えるようになった。
だけど……。

 「今日も回転寿司いこっか?」
かあちゃんにひっぱられた手を、オレは思わず振り払った。
「何よ、今日は嫌なの?」
嫌じゃない。
スシ食うの、嫌じゃないけど。
「どうしたのよ。おなか痛いの?」
ちがう。ちがうんだけど。
「ちょっと、ちゃんと言いなさいよ」
かあちゃんの顔が怖くなる。
急に目の下が熱くなった。
「……だって、ちがうんだよ、ぐるぐる。スシだけど、スシじゃないもん。うまいけど、前ほどうまくない。うれしいけど、ばあちゃんとこのスシはもっとうれしかった……っ!」
誰にもわからないかもしれないけど、オレにはわかる。
絶対、ちがうんだ。
ヤツら、オレの知ってるヤツらじゃない。
最初はだまされたけど、もう、わかったんだぜ。
わかったから、本物の居場所教えてよ……っ!
 オレが泣いているのに、かあちゃんはケラケラ笑い出した。
「はいはい、次にお寿司食べるのは冬休みにおばあちゃんのところに帰ってからにしましょうねー」
オレは鼻水をすすりながらただうなずいていた。

 わははははは……

 会いたかったぜ、「テッカまき」! オマエが本物だっ!
このピカピカぐあいは誰にもマネできないぜっ! 味もサイコーだっ!
 ばあちゃんがにこにこする前で最後の一個をほっぺたに入れる。
久々に新記録の更新もできて、超ごきげんだぜっ!
次はまた半年後だな。長い時間だが、オマエのためならガマンできるぜ?
 そしてオレはカッコイイ再会のため、カッコイイ別れをはたしたのだった。
END.
         10

『おにぎり』


 鮭のつもりで食ったら梅干しだった。
ちくしょう、すっぱいじゃねぇか。
 今日もオレの弁当は黒々としたおにぎり三つ。
女房の手作り……って、いうんだろうな、こんなんでも。
 自販機に百円玉を入れようとしてやめた。ポケットからタバコを取り出そうとしてやめた。ため息をつこうとして、思う存分背中を丸めた。
通り過ぎていく様々な靴たちは一つも立ち止まることがない。オレはしわしわのスーツを窮屈に感じながら、うっすらと開いた目でそれらを見ていた。
手の中で丸めたラップが邪魔くさい。手の届く範囲にゴミ箱はない。指を伸ばそうかと思ったが、それさえも面倒になってまぶたを閉じた。
 最初は、おとなしくて知的な女かと思ったんだがなぁ。
結婚してみりゃこれが図々しくて、癇が強くて、興奮したポメラニアンみたいな声でキャンキャン騒ぐ。騒ぐだけ騒いだ後は貝のように口を閉じてこっちの話なんざ聞きゃあしねぇ。
見合いってのは博打だな、ああ。
オレには女を見る目がなかった、それだけのこった。
何度も何度も離婚を考えて、なんで未だに一緒にいるんだか。
 オレはラップのかたまりを押しつぶし、わざわざ公園まで行ってゴミ箱に捨てた。
 時間をつぶすのも馬鹿馬鹿しくなってきたので、さっさと帰宅することにした。
 玄関を開けた途端所帯じみた空気がねっとりと絡みつく。
オレはうんざりとして靴を脱ぎ捨てた。
女房はテレビを見ながらせんべいを食べている。
カリカリという音の中に小さく「おかえりなさい」が聞こえてきた。
夕食はすでに用意されていて、すでに冷たくなっている。
……今日はその方がありがたいってもんだがな。
 「おい」
裁判長のように口を開けば、
「……鮭フレークはなくなったのか?」
間抜けな言葉が飛び出した。
「昨日なくなりましたよ」
女房は二枚目のせんべいを口に運んでいる。
オレはその背中を見つめたまま動けずにいる。
「どうしたんですか?」
ようやくこちらを見た瞳に、喉の奥がきゅっと絞められた。
 オレはおまえにとっていい夫じゃなかったかもしれないが、せんべいを豚のように食えるくらいの生活はさせてきた。
それくらいの能力はあったんだ。
オレは……。
 「会社、クビになった」
せんべいが床に落ちる。
オレは背中を向けて、電話台の引き出しからハンコを取り出そうとした。紙はもらってきてある。幸い女房の両親は存命だ。子どももいないし、まぁまだ見られる顔なんだから、やり直そうと思えばやり直しがきくだろう。ゴミをポイ捨てしないくらいの良識はオレにだってある。
だから、取っ手に指を伸ばしたのに。
 「……そう、ですか。明日からパート増やさなきゃ」
今オレの手にせんべいがあったら、確実に落としていただろう。
「あなたは職探し頑張ってくださいね」
静かな手を背中に置かれる。
 なんで、未だに。
恋はしなかった。
愛には当てはまらない。
かといってせんべいでもないらしい。
オレは……。
 「……明日もおにぎり作ってくれ」
すっぱいのも、それなりにうまいのかもしれない。
END.
         10

『サンドイッチ』


 「けーん、じっ!」
 ふりかかった声に、建二は思わずツナサンドを握りつぶした。
屋上までは追いかけてこないと思ったのに。
「やーっと見つけた。一緒に食べよっ?」
言いながらすでに座り込んでいる友美の笑顔が建二の言葉を奪い取る。
それでもコンクリートに手をついたが、
「……手を握ってとか、デートしてとか、言ってるわけじゃないよ? ……お弁当、一緒に食べたかっただけだもん」
うつむいて膝を抱える友美を見ると動けなくなってしまった。
「お昼、食べよ?」
建二はツナサンドを握りつぶしたまま、残りのたまごサンドにも手をつけなかった。

 たまごもツナもおいしいけれど。
二つを一つのパンにはさむことは許されないのだ。

 放課後になると今度は麻美に捕まった。
「ねぇねぇ、お昼どこで食べたの? 一緒に食べようと思ったのに。いないから、随分探したよ?」
早足にしても駆け足でついてくる。
「……もしかして、友美と食べたの?」
建二は思わず足を止めた。
「あ、はは。ちょっと、……聞いてみたかっただけだから。ねっ?」
見なくてもわかる。
友美とそっくりの顔で、友美とそっくりの仕草で。友美と同じくらいの優しさでうつむく麻美。
「ごめん!」
建二は一言放り投げて、振り返らずに走り出した。

 友美。麻美。
幼なじみの双子はみるみるうちに「女の子」になり、自分一人が取り残された。
嫌いじゃない。
好きだけど、恋なのかがわからない。
「だって、選べないんだ」
自分の家を越え、二人の家を越え、昔遊んだ公園を越えて。
がむしゃらに走り続ける建二の鞄の中で、ツナサンドとたまごサンドが国語辞典に押しつぶされていた。
END.
         10

『サラダ』


 私はサラダが大好きだ。
一、二、三食。毎日サラダ。とにかくサラダを食べて食べて食べる。
そろそろ表皮が緑になってもおかしくないくらい。
かけるのはドレッシング。マヨネーズは嫌いだから。
何もかけないことも結構あるかな。素材の味を楽しむの。

 私はサラダが大好きだ。
誰に何と言われようと今日もサラダ。食堂に入っても頼むのはサラダだけ。
前世が草食動物ならいいんだけど。
レタスをしこたま胃に収めた後は残しておいたプチトマト。
さらに水を三杯飲めば今日のお昼ご飯これにて終了。

 私はサラダが大好きだ。
家の冷蔵庫は野菜室チルド室冷凍庫、飲み物を立てる場所にも全部野菜がつまってる。
朝のぞいたとき真緑だったから、今日買い物に行く必要はないみたい。
よかった。スーパーや市場に行くのは嫌いなの。
駆け足で家に帰れば、夕食のサラダがお待ちかね。

 私はサラダが大好きだ。
作るのが簡単だからちょっとくらい寝坊しても大丈夫。むしって洗って入れるだけ。
みずみずしい野菜は朝のさわやかさによく似合う。
今日はドレッシングもいらないかな。

 私はサラダが大好きだ。
目盛りを見ればマイナス五キロ。

勝ったわっ!

健康診断無事終了。

 私はサラダが大好きだ。
来年の今日、一週間前から。またよろしくお願いね。

今日は焼き肉食べに行こう。
END.
         10

『パスタ』


 ある日リカちゃんは海に遊びに行きました。
大きなおリボン頭につけて。貝殻の道を歩いていると、ネジネジ星人こんにちは。
あなたにこの竹をプレゼントします。ではお元気で。ごきげんよう。
ありがとうネジネジおじさん。また来週もよろしくです。
リカちゃんは竹の中身をのぞきこみました。
ただの竹でした。
怒ったリカちゃんは魔法のポールを振りました。
ぽるるんぽるるんぽるぽるるん。
すると竹の中からネジネジわん……

 「絵美ちゃんっ! きゃあっ、何してるのっ!」

 ママが怒ってる。ちゃんとお部屋キレイだしちゃんとお留守番してたのに。
「食べ物よ、それ! パスタ! ファルファーレにコンキリエにペンネ、マカロニ!」
宇宙人語しゃべってる。ネジネジ星人・ネジネジママ! ……だったらヤだなぁ。
「まったくもう、洗って……捨てる、べきかしらねぇ、やっぱり」

 あっ

 「だめぇっ! それはリカちゃんのおリボンなのっ! ネジネジおじさんとっちゃ嫌!」
ママがさわる前におリボンや貝殻をかき集める。
「あのねぇ、これは食べ物。たーべーもーのーなーの。おままごとの道具じゃないの。わかった?」
ママ、嘘ついてる。こんなにかわいいおリボンや貝殻が食べられるわけないもの! 竹とポールと……ネジネジおじさんは、食べられるのかもしれないけど。
「絵美ちゃん、こっちに渡しなさい」
ママがますます怖い顔をする。
もしかして、もしかしたら、ママってオバケなのかもしれない。
だからかわいいものを食べるんだわ!
「ママ、おリボンは頭につけるのよ。食べちゃダメなの! 貝殻は、貝殻は……えっと、キレイだからダメ! 竹あげるから、今日はそれでガマンしなさい!」
「絵ー美ーちゃーん。わからない子ねぇ。……強硬手段でいくわよ。貸しなさい!」

 ああっ

 ママが絵美のおリボンとった! 貝殻、竹、ポール、ネジネジ……
「ひどいっ! ひどいママ! おリボン返して! 絵美のなんだからぁ……っ」
食べられちゃうんだ。ママ、やっぱりオバケなんだ。
絵美泣いてるのに、こっち見ない。ママのバカ! ママの……オニっ!
 泣いて泣いて、息苦しくなって、頭が熱くてふらふらしたら、なんだかおいしいにおいがしてきた。
「ママ、これ、もしかして……?」
テーブルの上には湯気がいっぱい。
エプロンをはずしたママが両手を腰に当ててにこにこしてる。
「ふふーん? ママ特製グラタン、ショート・パスタづくし、よ! 絵美ちゃんが遊んでたやつ、ぜーんぶ入れてやったわ! もちろん『リボン』も入ってるわよぉ〜?」
やっぱり。おリボンのにおい、……なの?
「食べたいでしょ?」
ママがウィンクする。
「食べたくない?」
ママがにやにやしてる。
おリボン……絵美の……リカちゃんのおリボン。あんなにかわいかったのに。本当の、本当に、食べられるのかしら? おいしそうな、におい。
「そう、しょうがないわねぇ。絵美ちゃんがいらないなら、ママ食べちゃおっと」
「食べる! 食べるもん! ママ、ダメ!」
ママの手のスプーンをひったくって、『グラタン』に沈めてみる。
さくっ、ふにゅっ、とろとろ〜ってしたっ!
とろとろが流れて……おリボン! おリボンが入ってる!
ふーふーして口に入れたら……
「美味しい?」
ママが優しい顔で聞いたから、絵美、力いっぱいうなずいた。
かわいい、おいしい、おリボン、貝殻。竹もポールも同じくらいおいしい!
「リボンの形をしたのが『ファルファーレ』、貝殻の形をしたのが『コンキリエ』、竹っていうのはたぶん『ペンネ』ね。ポールは普通に売ってるマカロニで、ネジネジおじさん? は、『フジッリ』っていう名前なのよ?」
 ママはまた宇宙人語をしゃべりだして、全然よくわからなかったけど、ネジネジおじさんの名前は『フジッリ』っていうみたいだった。
おじさんも、食べたらすごくおいしかったよ!
これなら……
おリボンも、貝殻の道も、竹もポールもなくなって、おじさんもいなくなっちゃったけど、
許してくれるよね? リカちゃん。
END.
         10

『ピザ』


 郵便受けをのぞいたらそこはピザ屋だった――。
そんな言葉が思い浮かぶくらい、ピザピザピザ。ピザのチラシばっかり。

――あいつの手紙は、どこにもない。

 大学二年目の冬が冷え込もうとしていた。
 街は間近に迫ったクリスマスにすっかり浮かれていて、雪を甘い砂糖菓子のように受け止めていた。手を繋ぐ恋人同士、鴨のように歩いていく子どもたち、温かい雪に包まれながら、幸せな帰路につく。
 あたしの周りだけがブリザードだった。
 新雪降り積もる坂道をえんやこらと登って帰宅すれば、ポストにはピザのチラシがいちにぃさんしぃ、四枚! ちなみに同じ物が二枚ずつ。ふざけてんの? と毒づきたい気分だ。見るのも腹が立つから住所を確かめたことはないけれど、たぶんすぐ近くに何件かあるんだと思う。ポストはしょっちゅうピザ屋になる。その度にあたしはピザなんか頼むもんかと思うのだ。
ピザ屋は敵。敵だ!
 服を着替えて落ち着いたところでテレビをつける。「クリスマ……」と聞こえてきた時点で電源を切った。どいつもこいつも、他の言葉は忘れたんかいっ! って言いたくなる。去年はあたしも……その中の一人だったけど、さ。
 ため息をつく。
 どうしても目が吸い寄せられる、本棚の一番上。
横になった紙袋の中から、寒々しい色の便箋がはみ出ている。あいつの手紙は、いつも水色だった。
 「――変態」
 今時携帯電話も持たない男。笑ってるんだか寝てるんだかわからない顔で「電子メールだと伝えたいことを伝えられないから」、なんてほざきやがった。
 高校時代、みんなで馬鹿にしてた。流行知らずでおっさんくさくて変なこだわりばっか持ってる同級生。「キモイ」って言ってる子もいたっけ。あたしは――そこまでは言ってなかったけど、やっぱり変なヤツだと思ってた。
 なのにさ。

 「柏木、……オレ、おまえのこと好きだ」

 不覚。不覚だったよ、ホントに。
――ドキドキした。
 ちょうど卒業を控えた『そういう時期』で、三人くらいからメールで告白されたけど、全部「残念賞」って送り返したのに。
普段のなよなよした口調が妙に男っぽく頑張ってただけで。笑ってるんだか寝てるんだかわからない変態が、真っ赤になって……そう言っただけで。あたしも、真っ赤になった。
「……わかった」
口が勝手に動いてた。あれって絶対、詐欺で錯覚で催眠術だ。
でも、久しぶりに、すっごく久しぶりにドキドキしたから、それでもいいかなって。気の迷いを起こしちゃったんだよ。
 卒業後の進路は北と南。ケータイ持てって言ったのに、今度は
「声を聞くと会いたくなると思うんだ。柏木の生き生きした声、好きだから。でも、それじゃ困るよな」
とか!
「会えない分だけ柏木のこと考える。たぶん、考えずにいられなくなる。ずっと想ってる」
とかとか!
「手紙書くよ。たくさん」
なーんてほざきやがった。あたしは背中が痒くなったり寒くなったり大忙しで、「あんたは何の三流ドラマに出演してんだ!」って、露骨に嫌な顔してやったけど、実際手紙が来たら――ドキドキしたんだ、これが。
 自分で自分が恥ずかしかった。
返事、書いちゃったり。今までの手紙、保管してたり。一月に、何通もやりとりして、数ヶ月に一度、会っちゃったりなーんかして。
 去年のクリスマス、ついに認めた。
「あたし、あんただからドキドキするみたい」
あいつが珍しく笑ってるんだってわかる表情になったから、あたしも一緒に笑ってやった。
 もう三ヶ月連絡がない。
 最初は忙しいのかと思ってた。ちょうどあたしも忙しい時期だったから。何気なく過ごしているうち、段々「どうしたの?」って送れなくなっていた。
あっちから手紙がこないとこっちからはよこさない!
意地を張り続けて、――もうすぐ、クリスマスがくる。
 あたしはゴミ箱に捨てたピザのチラシを取り出して、紙吹雪にしてやってから部屋の電気を消した。

 今日は講義が午前中まででバイトも休みだから、午後はパーッと買い物してやる! と決めていたのを思いっきり果たした、一番最後に訪れたのはスーパーの食品売り場。
 こなきゃよかった、こんなとこ。
 惣菜コーナーのピザをにらみながら体を斜めにする。
大きな丸い皿の端までを覆う肉厚のピザ。チーズこんもり。サラミてらてら。
何もかもがカンに障る。
食べるヤツの顔が見たいわっ! とまで思ったとき、人の良さそうなおじさんが一切れ、プラスチックの容器に入れて持っていった。その先にはカートとおばさんが待っていて、おばさんは一言文句を言っていたけど、二人は仲の良い夫婦に見えた。
あたしの横のお皿には、三角形の空間がぽっかり。白い表面を見せて凍えている。

 返して!
 大事にして、お願い。

……あたしはまだ、どっちも言わない。
ただ、チーズは冷やしておくんだ。今の内に。
 家についてもポストは見なかった。

 「きぃーよぉーしぃー、こぉーのよぉーるー、ほぉーし、はー。ひーかーりぃー……」
 こら、がきんちょ。あたしその続き知らないんだから、ちゃんと歌いなさいよ。気になるでしょうが。
走っていくチビどもを横目で見ながら思う。
 みんな家に帰る。みんな聖夜を見に行く。
あたしはコンビニの前でケーキなんて売っている。しかも、売れねーし。
売れないからって、どうなるわけでもないけど。逆にそれが困るんだ、今日は。
前日まで予定入れなかった。いざとなったらつきあってもらおうと思ってた友達は全員ピンクな予定ができてやがった。よかったねって、思うけど。
 八時になったら家に帰らなきゃいけない。
 家に帰ったら、手紙書くんだ。
 世界中の時計の電池、なくなっちゃえばいい。
しかし現実はいつも容赦がないノだ。

 「お先に失礼しまーす」
 「お疲れ様でしたー」

 さよならの言葉は何を選ぼう。
マフラーも手袋も着けずに歩いた。牙をむく白い風が、何もかも漂白してくれそうな気がした。
 あっけなく家に着く。
 髪の雪を払いながら頭を起こすと、目の前に郵便受けがあった。
かじかんだ指は金属の温度を感じない。カタカタと鳴りながらフタが開く。
 そこは――ピザ捨て場、だった。
「……ピザ屋ァ、セールスより性質悪いんじゃないの? こんな何枚も何枚も何枚も……っ! いいかげん頼む気ないってわかったらどうよ! 学習しないなぁっ。ピザなんか嫌い! だーいっ嫌いっ! どうせ落ちたサラミそんまま乗っけてんでしょうが、誰が頼むかっての!」
ポストから地面へ、次々と落ちていくピザのチラシ。
スパイシーなんたらピザ。ガーリックなんたらピザ。シーフードなんたらピザ。エトセトラ、エトセトラ……
 そして水色の便箋はどこにもなかった。
「……頼んでやる……。……頼みまくってやる……。もういいっ!」
 チラシを全部かき集めて、部屋に入ったところでばらまいた。
その辺の一枚をひっつかんですぐさま電話をかける。
「一番高いの持ってきてよっ!」
 乱暴に切った後、静寂を取り戻した部屋があたしを押しつぶした。
テレビをつける気になんてなれない。だけど……
やだやだ。やだって! 本棚の一番上なんか見たくないってば。なんで言うことを聞かないのかね、この両目は。勘弁してよ。
おいおい、ちょっと待ってよ。何? なんかあたし立ち上がってない? しかも本棚に手とか伸ばしちゃってない? 待ってってば。やだって。嫌なんだってば。
嫌――


 柏木由紀さま。

お元気ですか。オレは元気です。いつも同じ書き出しになってしまう。
けどこうして手紙を書いていると一文字ごとに柏木のことを思い出す。
いつのまにか忘れていたちょっとしたことも思い出せそうでオレは好きだ。
封筒にのりをつけるのは嫌いだ。遠いってことを思い出す。
オレが何か言うと柏木はすぐ嫌な顔をするけど、いなくなったことはない。
そんなふうにここにいてほしいと思う。
楽しいとき、うれしいとき、どんなときも、柏木がここにいたら、と思う。
会えないとき、ずっと、会いたいと思っている。

                             澤村俊二。


 「……三流ドラマ。痒いし。寒いし。……ていうか、いつになったら下の名前で呼ぶんだあんたは。――……嘘つき」
あたしの意地がただの臆病に変わるほど放っといたあんたの言葉なんてもう信じない。詐欺や錯覚や催眠術にひっかかるのはもうたくさんだ。
 なのにさ。
どうしてあたし、……泣いてるんだろう。
どうしてこんな手紙抱きしめてんの? 気持ち悪いよ。
どうして、気持ち悪くても、傷ついても、信じたいなんて、思って……いるんだろう。
 自宅の電話番号は知ってるんだ。
ただ忘れていたかっただけ。
待っているのはつらかったけど、すごく楽だったから。
 ……もう、いいや。降参してやる。攻勢に出てやるっ!
あたしは――。
 人差し指で押せなかったから、親指で番号を押した。受話器が冷たくて馬鹿みたいにがくがく震えた。
 呼び出し音が、ひとつ、ふたつ、
 「はい、澤村ですけど」
普通に出てきやがった。
なのにあたしってば、声が出ない。
「どなたですか?」
あたし。
「あのー」
あたしだって!
「……切りますよ?」
「あたしはねっ! こういうの嫌いなんだって、わかってんのっ? あっさりスッパリ行きたいのよ! みっともないのは嫌いなの! あんたのせいよっ! 切るならハッキリ切りなさいよ! そしたら! ……そしたら、あっさりスッパリみっともなくなれたでしょうがっ! どうしてくれんのよ、この三ヶ月! あたしは……っ、あたしは、もう、待ったりなんかしない……っ」
「……柏木?」
そうよっ!
「……本当に?」
「本当じゃなかったら何なのよ!」
なんだか、全身の震えが全部心臓に行ったみたい。血が高速で流れていって、口が脳みそを待たずに動いてる。
「……あ、えーっと、……元気?」
歯切れの悪いすっとぼけた言葉が返るから、ますますスピードアップした。
「あんたあたしを馬鹿にしてんのっ? もっと言うことがあるでしょっ!」
すると、
「ああ。明日会いに行くよ。……クリスマスに間に合わなくてごめん」
赤血球がそろってストップした。
「はぁっ?」
口は勝手に動いてたけど。
あいつは言った。
「手紙を出すのが嫌になったんだ。オレは行けないのに、こいつらは柏木に会いに行くのかと思うと、いてもたってもいられなくなった。だから、とにかく金をためて、とにかく時間作って、会いに行こうと思ったんだよ。……声が、聞けてよかった。行っていいのかって、少し思ったんだ。……クリスマスは間に合わなかったけど、今年は一緒に年を越したい」
 ……馬鹿だ。
痒いし。寒いし。……詐欺で、錯覚、催眠術。
 それでも、
「……あのさ、あたしにだって予定があるんだけど」
とか言いながら、
「お土産ちゃんと買ってきてよね」
顔がすごく笑ってしまっていたりするわけだ。
 何だったわけ? あたしの苦悩。
受話器を置いて考える。
馬鹿だ、馬鹿馬鹿、馬鹿だよね。

馬鹿万歳!

「くっそぉー、メリークリスマース!」

ピーンポーン……

 ……何さ、タイミング悪いなぁ……。
と、思ったらそういえば。ピザを頼んでいたんだった。
そそくさと玄関を開けてピザを受け取る。
 箱を開けば綺麗なマルが乗っかっていて、あたしはまた嬉しくなった。
END.
         10

『ラーメン』


 初めてのデート。
 服も靴も髪型も、念入りに考えて念入りにチェックして完璧に決めてきたのに。
いざ彼の顔を見るとお腹が痛くなってきて、でもそれはまだ予想の範囲内。彼がよそ見をした隙にポケットの薬を飲み込んだ。
 履き慣れない靴に足を痛めながらやってきたところは映画館。観たかった恋愛映画は長蛇の列。彼のうんざりした顔が怖くて「他のにする?」って提案したら、指さされたのはサイコスリラー。
……いいの。怖がるふりして手を握ったりしてやるんだから。
そう思ったのに、本気で怖くて震えながら横を見たら、完全に熟睡状態、気持ち良さそうに眠ってる。
なんでっ? この大音響の中でっ!
……スクリーンを見るのはやめてかかとに絆創膏を貼ることにした。
 映画も終わってお昼時。嫌な感じにお腹がすいてきて、今にも無様な音を立てそう。こんなことなら腹筋を鍛えておくんだった、と思っても後の祭り。もうダメ! と思ったとき、頭上を電車が通過してギリギリセーフ。上手くかき消されてくれたみたい。
彼のお気に入りの店まであと少し。
 そして――
誰か、嘘だと言って。
どうして? どうして初めてのデートでラーメン屋?
ラーメンなんて、ラーメンなんて、
キレイに食べるのがすっごく難しいのよーーっ!
やっぱり黙々と食べるんじゃなくて話しながら食べるのよね? どうしよう、ごまかせない。麺類だけは嫌だったのに……。
 「いらっしゃいませー」
 ああ、もう逃げられない……。
「何にする? オレのオススメは豚骨かなー」
 私にはチャーハンを頼むことすらも許されない……。
心の中で滂沱の涙に濡れながら豚骨ラーメンを注文する。
なんとかしなくちゃいけないわ。何か方法が……。
彼の話に適当な相づちを打ちながら必死に考えたけど、結局答は出なかった。
目の前にででんと豚骨ラーメン。
意を決して割った割り箸は片方が途中で折れてしまった。
なんとか……キレイに丁寧に、音を立てず汁を飛ばさず、急に話しかけられても口から麺がぶら下がってるなんてことのないように。
 そうだわっ!
まず、一本つかむ。それを割り箸にぐるぐる巻き付ける。そして食べる。
このスパゲッティ方式を用いればすべての条件がかなえられるはず!
ひらめいた名案を早速試す。
一本二本三本四本五本食べているうちに、彼の方のお皿はスープだけになっていた。
うそっ、早すぎるっ!
 「珍しい食い方してんなぁー」
手持ちぶさたなのか、私の方をじろじろ見てる。
やめて! のぞきこまないで! 今鼻の下に汗かいてるのっ。
「いっつもそんなふうに食べんのか? 変なヤツー」

変なヤツ……

何気ない彼の一言に、私の心は鉛になった。
だって、初めてのデートなんだもん。
好きな人とずっと一緒。
変なところ、見られたくなかったのに。
割り箸をぎゅっと握りしめる。
「早く食えよ。のびるだろ」
 ……何よ。
人の努力も知らないで。なーんも気づかないで。
映画は寝ちゃうし、ラーメンは立ち食いでもないのに三分もかからないうちに食べちゃうし。
さいってー! 最低だよ!
私はずずずーっと音を立てて一気にラーメンをかきこんだ。
「そうそう、それがフツーの食い方な、やりゃできんじゃん。今度からそうして食えよ。その方が絶対ウマイから」
彼は優しく笑って、自分の皿のスープをずずずーっと飲んだ。
私はやっとこの店のラーメンがとても美味しいってことに気がついた。
 ……やっぱり、さっきのなし。
最高じゃないけど、最低なんかじゃない。
普通でいいよね、とびきり嬉しい――「普通」。
 そのあと私の足が悲鳴を上げて、残りの予定はなしになった。
だけど、彼が「また今度な」って言ってくれたから。悔しかったけど、すっごーく悔しかったけどあきらめることにした。
 また今度――今度は、普通に頑張るんだ。

今日はすごく楽しかった。
END.
         10

『肉じゃが』


 金曜日は肉じゃがと決まっている。
美佐子はじゃがいもに箸を突き立てながら、前へと視線を走らせた。
妙子はご飯を口に入れようとしているところだった。
目は箸先を見つめていて、こちらを気にした様子はない。
 いつもそうだ。
妙子は感想を求めない。
美佐子にとってそれは快く、同時にひどく落ち着かなかった。
 黙々と箸を運ぶ。
二人の間に無理な会話は必要ない。沈黙のいるに任せ、それでいて肩が凝らない。
いつからそうだったのかといえば、父に引き合わされたあのときから、だと思う。
妙子はまれに見る人当たりの良さを持っており、出会いの時点ですでに美佐子は妙子に好感を抱いていたのだった。
 だから、一体何がどうしてこうなったのか、美佐子は自分でもわからなかった。
いや、原因となった一言はわかっている。

「肉じゃがって、カレーと同じで誰にでもできる簡単な料理だから、一週間のうち一回は必ず肉じゃがだったんだよ。正直うげぇって思ってたけど、今思えば『お母さん』って感じの味がして好きだったな」

妙子が最初に肉じゃがを作ったとき、――つい、言ってしまった言葉。
普通のときならきっと談笑の中に埋もれていた。

「『おかあさん』って呼んでくれると嬉しいな」

――その言葉の、後でなければ。
 美佐子の使う呼称はいつでも『妙子さん』だった。心の中であっても変わることはなかった。決して嫌っているわけではないし、どうしても譲れないものがあるわけでもない。それなのに、何故か。
 妙子の反応は明るかった。
「肉じゃがね! わかった、頑張るわっ!」
あんまりあっさりしていたものだから、美佐子はそのまま会話を終わらせてしまった。
 その日から毎週金曜日、決まって肉じゃがが出る。
 幾度めかの金曜、幾度めかの肉じゃが。妙子の作る肉じゃがは母のものより少し甘いが、美味しいのには変わりがない。
何も躊躇うことはない。一言『おかあさん』と呼べばいいだけ。自分の曇りない賛成のもと、すでに妙子は義母であるのに。
美佐子は何度も呼ぼうとして、どうしても呼ぶことができない。
今日も、また。
 気がついたらじゃがいもが八つ裂きになっていた。
美佐子は慌てて一つ口に運んだ。
しかし少し遅かったようだ。
「美佐子ちゃん?」
妙子が眉を曇らせる。
美佐子は「美味しくないわけじゃない」と弁解しようとして、
「……妙子さんは、『妙子さん』だけど、私の大事な家族、――それじゃダメ?」
すべてを投げかけてしまっていた。
 妙子は少しの間きょとんとして、やがて、幸せそうに笑った。
「……ごめんなさい。とても嬉しい。それで充分、ううん、それが一番嬉しいわ」
美佐子は心からほっとして、思わず椅子からずり落ちた。
 何故なのか、よくわからない。
それでも、お母さんはたった一人。『妙子さん』もたった一人。
二人とも特別、二人とも大好き。決して比べることのできない二人。
「妙子さんの肉じゃがはお母さんのとは違うけど、負けないくらい美味しくてすごく好きだよ」
 美佐子はやっと安心してそう言うことができた。
END.
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