ギリシャ系散文

『ナルシスの夢』


 ナルシスは鏡台の中にいた。
 普段は折りたたまれているが、広げると三面鏡になるやつだ。
 そうに違いないと思った。
 こう、どこもかしこも、自分の顔があるのでは。
 みんな青ざめて震えていた。
 ナルシスは気味が悪くて仕方なかった。
 どうしてみんな怯えた瞳でこちらを見る。
 ナルシスは喉仏を揺らし、歯をカタカタいわせながら笑ってみた。
 勇気のいることだったが、途端にみんなが滑稽な笑顔になった。
 なんて奇妙な笑い方!
 ナルシスは腹を抱えて笑い転げた。
 みんなも楽しそうに転げ回った。
 ひとしきり笑ったあと、ナルシスは一人の少年に手をのばした。
 息がぜいぜいいうたび、ゆるやかに上下する頬に触れ、二人でくすくす笑うはずだった。
 だがそこにあったのは透明な壁。
 ナルシスはぼう然と目を見開いた。
 少年も向こう側でびっくりした顔をした。
 指先を見つめると、あちらの指とぴったりくっついていた。
 透明な壁は薄皮一枚ほどの厚さに違いないのに、ナルシスの指は絶望的な冷たさに震えるのだ。
 少年はまっすぐに腕をのばしているが、本当は自分に触れようという気持ちはないのではないか。
 ナルシスはいぶかしみ、気がついた。
 ああ、そうだ。これは鏡だった。
 ナルシスはまぶたを閉ざし、寒がる体をぎゅっと抱いた。
 世界は真っ暗闇だったが、小さな腕の中には、ただ一つの確かなぬくもりが脈打っていた。
 ナルシスは口元をたゆませて、さめない夢へと手をのばした。
END.
    

『アポロンの選択』


 アポロンは堅く口を閉ざしていた。
 デメテルの嗜好によりもたらされる地上の人々の悲喜を、ありありと見ることができたから。
 笑った顔も、怒った顔も見せなかった。身じろぎも、瞬きさえこらえていた。
 神々は嘲り、人々はそういうものとして受け止めた。
 アポロンは憂えた。
 神たる責務を全うせんとするは我のみぞ。
 私たちは在るだけでかまわないのです。
 アルテミスが言った。
 アポロンは妹が堕落してしまったと思い、もはや耳を貸さなかった。
 大地にはびこる貧弱な生き物たちが、どれほどたくましく輝かしく生きているか。自分ほどよく知っている者はおるまい。
 首をちょいと傾けるだけで、片隅に暮らす生物は飢えるのだ。
 アポロンは考えに考え、やがてすべてのものから完全に姿を隠してしまった。
 そうして世界は闇に包まれ、人々は死に絶えた。
END.
    

『ひとつのディオスクロイ』


 ディオは腹の中にふたつの生き物を飼っていた。
 色も形もなかったが、ふたつは兄弟であったので、強い方をカストル、弱い方をポルックスと名付けた。
 名前を付けると不思議とふたつのことがわかったような気になった。
 カストルがどんなときに腹を立て、様々な報復を考えて、結局はそれを実行したりしないことや、ポルックスが常にハラハラしてしょっちゅう何かを呑み込んで、時折消えそうになるのを堪え忍んでいることもわかった。
 ディオはふたつが腹を破る気配はまったくないと見て、ふたつを自由に遊ばせてやることにした。
 ふたつはとけあってひとつになったり、再びふたつにわかれてそっぽを向いたりを、めまぐるしく繰り返した。
 ふたつの仲は悪いようで良く、良いようでいて悪かった。
 ディオは高みの見物をしていたが、ふと、ふたつを別々に閉じこめてやったらどうなるだろうかと考えた。
 しかし腹を割くのは嫌だったので、ポルックスを消してしまうことにした。
 元々弱かったポルックスはあっけなく無に帰した。
 ディオの腹にはカストルがひとつだけ。
 ディオの名前はカストルになった。
END.
    

『ハデスの記憶』


 闇と沈黙が満ちた空間に、ハデスは一人、たたずんでいた。
 周囲には無数の石ころがちりばめられていたが、そのどれもが何かのかけらであって、言葉を交わすものはおろか、反応を返すものさえいなかった。
 そこにはハデスを知るものは誰もなく、世界でさえ、ハデスを忘れたかのように思われた。
 ハデスはいたく満足した。
 光る石ころが何度か過ぎて、長い長い時がたった。
 ハデスは自分の名前も忘れかけていた。
 もう少しの辛抱だった。
 もう少し。もう少しで。
 ところがあるとき、ハデスめがけて飛んできた少し大きめの石ころが、何を思ったか――思う力があるのか、ハデスの周りをぐるぐるぐるぐる回り出した。 ハデスは困惑した。
 追い払おうかと思ったが、動き出すのはおっくうだった。
 正直なところ、困惑するのも面倒であったのだが、ハデスの奥底にある何かが、勝手に目を覚ましていた。
 ハデスはその石ころに呼びかけてみた。
 しかし反応は何もなく、この石ころも他のと同じ、沈黙の一つなのだとハデスは思った。
 他の石ころは流れている。この石ころは動いている。
 ……それだけのことなのだ。
 だが石ころが休みなく回っているのは、自分の周りなのである。
 数えきれない回転があり、長い長い時がすぎた。
 ハデスは常にその石ころを見つめていた。
 何度呼びかけても答えることはなかったが、石ころはずっと回り続けていた。
 ハデスはとうとう名前をつけてやることにした。
 一度も呼ぼうとはしなかったが、ずうっと前から決めていたのだ。
 ――ベルセフォネー。
 かつて愛した少女の名前だった。
END.
    

『プロメテウスの宝物』


 なんだかよくわからないがとにかくとてもとても偉いプロメテウスとかいう人が、このたび宝物を授けてくださったのだと翁が言った。
「つくろうと思えば無限につくれるので早い者勝ちではない。それでも手にした早さの違いによって、世界は少しずつ変わるだろう、ということだ」
 子どもらは競って冒険へと飛び出した。
 道々のうわさ話で、まずは『ヒ』という名前が知れた。
 次に色は赤とわかった。
 女の子は「きっと花よ」と喜んで、男の子は石を蹴飛ばした。
「まだ、わからないさ」
 ずーっとずーっと行くと、うわさ話は急に元気をなくした。
 『ヒ』は『赤い』ことしかわからない。
「花だったら形も言えるはずだぜ。きっと見たこともない形の武器なんだ」
 男の子は笑い、女の子はぶすくれた。
「そんなの、つまらないわ。きっともっといいものよ」
 そのうちどうやら熱いらしいことがわかると、
「赤い色の温泉かな」
「いいや生き物かもしれないぞ」
 みんな首を傾げてしまった。
 それでも足取りは重くならなくて、とうとうそれにたどりついた。
 『ヒ』は、『赤く』て『熱く』て、形がなかった。
「こんなに熱くちゃ持てないぜ」男の子は腕組みをして、
「頭に飾ることもできないじゃない」女の子もため息をついた。
 宝箱に入れようにも動かせないし、不思議ではあるがさほどキレイというわけでもない。
 なんだかよくわからないがとにかくとてもとても偉いプロメテウスとかいう人は、どうにもならないものをくれたとみんな思った。
 『ヒ』に向かってありったけの罵声を浴びせ、気がすむと、みんなでくすくす笑いあった。
 とにかくここまでの冒険は楽しかった。
 問題なのは帰りを待っているみんなの方で、彼らは楽しいことなんかなんにもない。
 子どもらは話し合い、『ヒ』を見つけることはできなかったことにしようと決めた。
END.
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