『リピート』

 ある朝Kは今日が昨日の繰り返しであることに気がついた。
 薄い壁の向こうからモーニングコールが聞こえてくる。隣人は朝に弱いようで、日頃何十回と鳴り響くその音が、昨日は珍しく三度ですんだ。
 トゥルルル……トゥルルル……トゥルルル……「あい……おう母ちゃん、今日もありがとさん」
 第一声もハッキリくっきり昨日と同じ。コールも間違いなく三回で。
 ごくりとつばを飲みこんで自分の部屋をあちこち見たが、これから破る日めくりカレンダーも昨日ゴミ箱に放りこんだ数字に間違いはない。
 そして何より、思い返せば一昨日も今日と同じだったような、そんな気がするのだった。
 Kはそろそろと頬をつねったが、あまりにも当たり前に痛いので、そういう夢もあるかもしれないと思い、冷水でバシャバシャと顔を洗った。
 目がパッチリ開いたところでまずは朝食。キッチンの棚を埋め尽くしているカップラーメンを一つ取り出し、電気ポットのお湯を注ぐ。昨日はポットの調子が悪くて、沸騰ランプがついているのに湯気も出ないぬるま湯だった。
 Kは出てきた液体を凝視してため息をつく。以前から時々あったことだが、もう完全に故障したのかもしれない。戻りきらないインスタント麺の味は何度食べても慣れなかった。
 ポットが完全に壊れたのはいつなのか、昨日か一昨日か、その前はまともなカップラーメンを食べたと思うが、どうもはっきりとしなかった。しかしおそらく一昨日なのだろう。何度見てもカレンダーの数字は同じままだ。
 Kは考える。
 メビウスの輪を歩くような事態に陥ってしまった原因に、心当たりはまったくない。ということは、突然正常な時の流れに戻る可能性がないこともない。
 ならば。あるべき流れに戻った時点が繰り返した毎日の次の日だった場合、未来に刻まれるのはどの「今日」になるのだろうか。
 考えて考えて、Kは真面目に学校に行くことにした。つまらない講義ばかりだが、これ以上休むと出席数で単位を落とされるのだ。
 頭の上を過ぎていく教授の話も、耳をかすめる周囲のひそひそ話も、どれもこれもテープを巻き戻したような様子だった。Kは昨日と一昨日と同じように、机に突っ伏したまま午後まで惰眠をむさぼった。
 Kは人付き合いが得意ではないので、同じ会話を繰り返さなければならない友人がいないのは唯一の幸福だった。
 午後からはバイトに出たが、そこでも新しい時とは出会えず。
 家に帰って晩ご飯。コンセントやコードをしっかり繋ぎ直して沸かしたお湯は朝と同じ水温で、Kは仕方なしにほこりをかぶっていた鍋を洗った。煮え立つお湯にカップラーメンの中身を落としながら、これからの今日、朝も夜もいちいち湯を沸かさねばならなくなったことに気がつくと、思わずげんなりと肩を落とした。
 次の朝も隣人の寝覚めは最速で、カレンダーの枚数も元に戻っていて。原因を確かめようと一晩中起きていてみても、気分が悪くなったと思ったらもう同じ昨日のその時間に戻っている。
 その次の日も、次の次の日も。Kはまったく変わらない一日を、もう十数回もやらされていた。
 鍋を洗う手がほんの少しスムーズになった。親からの仕送りは微々たるものなのに、昨日ついにバイトに行く気がなくなった。
 Kはカレンダーをじっと見つめる。
 一日一枚めくるのを義務づけられる形式をわざわざ愛用しているのは、そうすることにより過ぎていく日々の大きさに気づかされるからだった。
 Kはそこそこ記憶力が良いので、中学生の頃は特に勉強をしなくとも試験の点がよく取れていた。高校生になるとさすがに勉強は必要だと思ったが、それまでの怠惰癖が部屋でゲームばかりさせていた。そんなとき両親に渡されたのが日めくりカレンダーで、これを使うようになってから、試験の三日くらい前には教科書や参考書を見るようになったのだ。大学生の今も習慣は続いていて、レポートの〆切間際に大いに効力を発揮していた。
 しかし今は役に立たない。
 Kは束の上の方をむんずとつかみ、何枚もの日数を一息に破り捨てた。
 働いた分だけお金が欲しい。新しい電気ポットを買ってきて、三分で食事が作れる毎日に戻りたい。
 Kの願いは切実だったが、翌日、カレンダーはすっかり元に戻っていた。Kはもうそのままにしておいた。
 しばらくしておなじみのモーニングコールが聞こえだし、一回、二回、三回目が耳に入ろうとしたとき、かわりに飛びこんだのはピンポンというチャイムの音だった。
 Kは瞬きして、人差し指で耳をほじった。
 まるでそれを見ていたかのように、再びチャイムが呼びかけた。
 慌てて扉に張り付きのぞき穴に目を凝らしたKが、確認したのは幼女とマッチョ。
 大人しくふとんに戻ろうとすると、途端にピンポンラッシュが繰り出され、
 「どちら様ですか……」
 許したのは五センチの隙間だったが、次の瞬間にはマッチョのつま先がくいこみ、力わざで一気に開け放たれていた。
 「よぅ! 初めまして。突然だが俺らはなんと未来から来た」
 「こ、この度はっ、ご迷惑をおかけしてごめんなさ……も、申し訳ありませんでしたっ!」
 爽やかに笑うマッチョに、汗をかいて謝る幼女。非現実的な現実の檻にいるKは、彼らが未来人であることを疑うよりも先に一つの結論を導き出していた。
 「……もしかして、原因ですか」
 二人の客はそろって大きく首肯した。
 話を聞くと、マッチョの方はある科学者の父親で、ある日研究室の片隅でうっすらほこりをかぶっているタイムマシンを発見した。それは半ば冗談で作ったようなもので、使用したことも、する気もないということだった。彼は科学者の息子に負けず劣らずSFが大好きだったので、ロマンに満ちあふれたそのオブジェを非常に気に入って持ち帰った。そうして夜遅くまで空想に鮮やかな色を塗り、楽しい夢へと沈んでいった。
 「……起きたら昼一歩手前でなぁ。続きが気になってしょうがなかった連続テレビ小説、とっくに終わっちまっててよ。ちょっと試しに」
 実は大成功だったタイムマシンを使って以来、元々朝に弱く、再放送を待ちきれない性分の彼は、すっかり味をしめてしまった。
 「時間はデリケートなんですっ、そんなやり方してたら絶対どこかにひずみが出るんですっ。私たちだって、それはそれは丁寧に扱ってるんですからっ!」
 力説する彼女はマッチョよりもさらに未来の人間で、タイムマシンを使った犯罪が起こらないよう、常に時の流れを調査している監視員だと名乗った。
 Kは激しいめまいに崩れ落ちたが、言いたいことはただ一つだった。
 「わかったから早くなんとかしてください」
 「は、はいっ! もちろんです!」
 幼女は厳めしい機械を取り出し、Kの部屋をじっくりと探索し始めた。
 「どこかにひずみの中心があるんです。流れをねじ曲げる渦みたいな。普通ならタイムマシンを使った本人に影響が出るんですけど、……何故かあなたが閉じこめられてしまったからには、他にも原因があるのかもしれないです。時間がかかるのでしばらく私のことは無視してください。お気づかいなく」
 「うーわっ。あんた何食って生きてんだ、冷蔵庫の中もシンクの下もなーんもねぇぞ。カップラーメンしか見つかんねぇ」
 いつのまにかマッチョが勝手に物色している。Kは脱力して壁に寄りかかった。
 「いかんな。あんたの横幅俺の半分しかないわけだ。もっと筋肉つくもの食わんと、俺ぐらいの歳には寝たきりだぞ? ん?」
 肩をすくめて見つめるマッチョに、Kは仕方なく受け応えた。
 「そうですか」
 「そうだとも! んー、すぐにでも買い物行って美味いもんどかどか作ってやりたいけどよ、あの嬢ちゃんがこの時間に生きる人間に姿見せんなって止めるんだよ、ああ、無論あんたは別だがな」
 「いりませんよ」
 「そういうわけにはいかねぇな。人間、食と睡眠だ。よしあんた、隣に住んでるヤツと知り合ってこのわびしい食生活を打ち明けろ。そうすりゃたらふく飯が食える。人間、助け合いが大切だ」
 「いりませんて」
 「遠慮すんな、俺はこう見えても面倒見がいいって言われんだ」
 Kはカップラーメンの味やにおいや早さ、お手軽さを愛しているので、マッチョの助言はただ煩わしいだけだった。
 隣人など顔も知らないし、アパートの壁がもう少し厚ければ声だって聞くことはなかったはず。今どき近所づきあいをしている学生なんてよほどの物好きだとしか思えない。寮ではなく一人で暮らしているのも、自分だけの気ままな時間を長く味わいたいと思ったからで。それが……。
 幼女が床にへばりつき、マッチョが目の前に立つ光景に、Kは疲れてまぶたを伏せた。
 「……なんだな。どうものどが乾いててな。茶ーもらってもかまわんか? 自分でいれるからよ」
 マッチョが電気ポットを指さしたので、Kは鍋に水を入れて火にかけてやった。ある意味では招かれざる客だが、一応の礼儀は尽くすべきかもしれなかった。
 「それ壊れてるんです」
 不思議そうにしていたので説明すると、マッチョはにやりと口を歪めた。
 「ほっほお、そりゃあ気づかなかった。よし、俺が直しちゃる。任せろ息子は科学者だ」
 何の関係があるのかと思いつつ、騒々しい子どもにおもちゃを与えておく親のような心境でKは頼んだ。
 マッチョにいれた茶はすぐになくなったが、もう一つの湯飲みはいつまでも動かずにいた。やがて、すっかり冷え切った頃に幼女が手に取り、ぐいっと飲み干してから切り出した。
 「とりあえずひずみの修正は終わりました。数時間後には元の流れに戻ります。あるかもしれない他の原因の方は……ごめんなさい、見つからなくて……一生懸命探したんですけど……ふぇっ」
 「もういいから」
 「うぇぇぇぇんごめんなさいぃぃぃっ!……わ、私、今回は犯罪っていうより事故だから、お勉強してきなさいってママが言うから、一人で来るの初めてで、頑張ったけど、私、私じゃわかりませ……っ、ううう、わかんないよぉぉぉっ!」
 ようやく解放されると思ったところで手のつけられない状況が。
 「何してんだ、慰めてやんなよ」
 立ちつくすKの背中を叩いたのはマッチョ。Kは振り返って眉を寄せた。
 「今『もういい』って言ったじゃないですか」
 「んあ? ソレ慰めてたのか? じゃあ嬢ちゃんにも呆れたように聞こえたんだ。ほれ、やり直したやり直した」
 Kは幼女に向き直り、しばし沈黙した後もう一度マッチョの顔を見た。
 「……女子どもと話したことないんで」
 「だっはっは、何言ってんだ人間だぞ。言葉でたりなきゃジェスチャーで、とにかく伝えたいと思や伝わるもんだ。ほれ」
 ゴジラのように泣きわめく幼女に言葉は通じそうにもなかったが、Kはとにかく「別にいいから」、「理由がわからなくても元には戻ったんだし」、「大丈夫だから」、「気にしないから」と繰り返した。
 幼女はいつまでも泣きやまなかった。Kはいいかげん腹が立って、
 「うるさいなぁ、口を閉じろよ!」
 しまったと思ったときには後の祭り、幼女は青ざめて硬直した。
 「ち、違う。怒ったんじゃないんだ、泣かれると困るんだ。うるさいのは苦手で。……そうじゃなくて! ああもう、とにかく泣くのはやめてくれ。さっきから言ってるのは嘘じゃない。元にさえ戻れば原因なんかは本当に気にならないんだから」
 幼女はぎこちなくだがうなずいてくれたので、Kはほっと胸をなで下ろした。
 「うん、よかったな、一件落着!」
 マッチョが笑う。幼女が慌てて飛び上がった。
 「ら、落着じゃないです。過去の人を未来の法で裁くことはできませんけど、げ、厳重注意ですっ。もちろんタイムマシンは没収ですっ」
 「……んん、便利だったんだが。まぁ過去にもこれたし、未来もかいま見れて楽しかったがな」
 「たっ、楽しくないですーっ! ちゃんと、ちゃんとこの方に謝ってくださいっ。ここに連れてきたのは、あなたに自分の罪を見せるためなんですよ!」
 「ああ、……わかってる」
 二人の会話をぼんやりと聞いていたKに、むさ苦しいマッチョの顔がアップで迫る。
 「兄ちゃんホントにすまなかったな。ゾッとするような目に遭わせちまって。この嬢ちゃんが来てくれなきゃ俺ぁ死んでも許されねぇ重罪人になるとこだ。今度からは大人しく再放送を待つ。……頼む。許してくれ」
 顔の前で両手を合わせて身を縮めるマッチョ。背中を丸めようと馬鹿でかい図体はでかいままなのに、Kにはハムスターよりも小さく見えた。
 「もういいです」
 「いーや、よかぁねぇ。あんた時間に閉じこめられてたんだぞ。百発殴られたってかまわねぇ」
 「いいですから」
 「兄ちゃんよ、俺はそんなに馬鹿じゃねぇ、謝ったっていいわきゃないことくらいわかってんだ、でも謝るっきゃない、だろ?」
 「そりゃあ腹は立ちますけど。そんなに謝られても」
 「んあ? ……やっぱな、怒ってるわな。だろうと思った、いくらなんでもな」
 マッチョは急に小声になって、「マジで笑って許すヤツはいないわな」とつぶやいた。
 「よし、俺を殴れ!」
 でなければ動かない、という勢いが伝わってきたので、Kは一発だけお見舞いした。人を殴ったのは初めてで、指の骨が折れるのではないかと思った。マッチョの方は微動だにしていない。
 「まだまだ、次! もっと来い!」
 「充分ですから。手が痛いですから」
 「……じゃあ俺はどうすりゃいいんだ」
 「そろそろ帰ってください」
 Kが玄関を指さすと、マッチョは目に見えて消沈した。
 「……それで許してくれるんなら、出てくけどよ……」
 足が震えている幼女を小脇に抱え、短い距離を何度も何度も振り返る。戸を開き、もう一度Kを見て、
 「悪かったな」
 音もなく扉を閉じて行った。
 Kはため息をついて、ふとんにばたりと倒れ伏した。
 疲れた。本当に疲れた。女の子とマッチョ相手によくしゃべった。泣きわめくのを慰め、興奮するのを押しなだめ。一年分の気力を使い果たしたような気がする。非現実的な事態を修正するには、これくらいの非日常が必要なのか。
 寝返りを打って横を向くと、机の上に二つの湯飲みが見えた。Kは飛び起きて電気ポットを確かめた。お湯を受けたコップからはっきりとした湯気があふれ出る。
 「直ってる……」
 教えてくれたらありがとうくらい言えたのに。……あの女の子が急に泣いたからタイミングを逃したのかも。追い出さなければ後で告げるつもりだったのかもしれない。
 Kはしばらく考えて、今日はもう寝ることにした。まだ太陽がさんさんと輝いていたが、明日の朝まで熟睡できるに違いなかった。
 目が覚めれば待ちに待った「明日」がある。Kは忘れずにカレンダーを一枚破っておいた。
 果たして。
 鳥の声に目を覚ませば、後を追うように聞こえてくるモーニングコールは一回、二回、三回、四回……長々と鳴り続けている。
 Kは顔を洗い、朝食の調理に取りかかった。三分で熱いカップラーメンにありつけるのは、本当に久しぶりのことだった。
 食後のひとときをぼんやりと過ごしていると、何度も切れてはまた鳴っていた電話の音が、ようやく役目を終えたようだった。
 「あい……おう母ちゃん。ん? ……わかってるって、誰だって朝は忙しいもんだ。けどよ、目覚ましだと壊しちまう。知ってんだろ? ……悪いと思ってるよ」
 隣人も今日は違う朝を迎えたらしい。
 Kは晴れやかな気分でカレンダーを破り、家を出た。
 退屈な講義でまどろみにとらわれる。午後になってバイト先で精を出し、帰宅してすぐカップラーメン、三分間クッキング。
 就寝前、カレンダーを見て少し不安になったが、次の日も時はまっすぐに流れていた。
 顔を洗ってカップラーメン。隣人のモーニングコールを聞き届けてのんびりし、歯を磨いて着替えて鞄を抱えてカレンダーを破ってから大学に行く。午後までの睡眠時間を終えると、バイトをして金稼ぎ。帰ってきてまたカップラーメンを摂取する。風呂、歯磨き、そして就寝。
 顔を洗ってカップラーメン。隣人のモーニングコールを聞き……
 そんなふうにして数日がたつと、Kは時々何気ない瞬間に、未来から来たあの二人のことを思い返すようになった。
 さまよい続けた時間も含めてまったく面倒な事件だったが、あれから未来に帰った二人はその後どうして、今はどんなふうに暮らしているのだろうか。
 そう考えている間、自分が穏やかな微笑を浮かべていることに、Kはまったく気づかずにいた。
END.
BACK