『かえらないひと』

 父が死んだ。
 豚が飛んだとか、魚が生えたとかいう話と似たように、そこそこインパクトあるフレーズに、わずかに漂う滑稽さ。
 母の青白い顔を遠目に見て、私は音を立てずに息を吐いた。
 とりあえずトイレに逃げてみたはいいものの、そう長い間こもっていてはうら若き乙女にふさわしくない誤解を招く。不自然でない時間を計って戻ってきたが、数珠の音、焼香のにおい、同じ動きをする黒ずくめ……それらの中に再び入っていく気にはとてもなれそうになかった。
 真っ黒な連中の一部はよく見知った親戚だが、今日の彼らはまるで連行されてきた風船のようだ。出ないわけにはいかないから参列し、気持ちもないのに礼儀を尽くし、棺の中をちろりと見物したらやれやれと流れていく。
 あの死体は蝋人形だ。
 七割くらいの本気でそう思った。手を伸ばせば届くところに死体があるなんて、普通あり得ないではないか。そう母に言ってやりたかったが、雰囲気がそれを許さない。段々と腹が立ってきた。
 父はダジャレが好きで、なんでもないことで無理なダジャレをひねりだしては冷たい視線を思うままにしていた。といっても母は視線さえも向けようとしなかったので、思うままなのは量ではなく鋭さだ。たかがダジャレ、されどダジャレ。父の舌にマシンガンで穴を開けてやりたかった。
 父が死んだ。
 ダジャレといえばダジャレっぽい。
 最後の最後までムカつく親父だな。
 眉を寄せると細くなった目に今までのムカつきメモリーが次から次へと映り出す。
 生まれたときに「なんだ女か」と言われたこととか、夜泣きしたとき「明日仕事だから寝付くまで玄関であやしてろ」と母に言ったことだとか、「三歳になったら俺がちゃんと教育してやる。それまでおまえが面倒みろ」と言ってたくせに実際の鼻垂らした三歳児を見て即投げ出したことだとか。
 自分が間違ってるのに他人の意見を聞かないどころか回りくどい言い訳をして最後には力ずくでうやむやにしたり、結局「俺はおまえたちのために頑張ってる」でまとめようとしたり。たまにこっちの話を聞いてきたと思えば「誰に似たんだ、俺はもっと勉強ができた」。暴力をふるうことはなかったが、皮肉や嘲笑は大安売りで。
 それでも父親だからと父の日に贈ったプレゼントは、虫の居所が悪かったとやらで投げ捨てられた。
 母から聞いただけの話も鵜呑みにしてしまえるくらいには、私は父親が大嫌いで、それだけの過去も味わっている。
 なのに何故母が今にも倒れそうな面持ちでいるのか、私には理解できなかった。
 過去のエピソードを交えた父への憤りを聞いたとき、笑って一緒に怒ったけれど、胸の真ん中が静まりかえったのも確かなことで、母が父を嫌ってほしいと言うなら、嫌いにならない理由なんかなかった。
 何もなくても「あの人」は「嫌い」。ただ「父親」だから「許せない」だけ。しかし母の笑顔に繋がるならば、嫌悪は悲痛を忘れさせてく。
 もしも母が……
 考えても人の心はわからない。私は母の傍らに戻ることにした。
 しおれた母を間近にするとこれからの暮らしへの不安がわき上がる。段ボールに暮らそうが心次第で人生は楽しめると信じる私だが、母が不幸で自分が幸福であるわけがない。
 私は力ない横顔をじっと見ていた。

 「棺に花を入れましょう。さぁ、うんと綺麗な花を選んで」
 ピンクの花、黄色い花、喪服の中で浮き上がる。母は白い花を棺の頭の方に入れた。
 私は距離を置いたまま、適当な色を適当な場所に投げ入れた。
「何してるの」
 怒る気力もない声は、悲しむしかないようだった。
「……お父さん綺麗な顔してるのよ。見てあげて」
 無言で後ずさる。父がお世辞にも美形とはいえないことは充分よく知っている。
「……大丈夫だから」
 例えばそこにあるものが、蝋人形でなかったから。二度とは動かない、すぐに燃やされる皮膚が整っていたからといって、一体何の意味があるのか。
 「気持ち悪いから、いい」とは言わず、私はただ首を振った。
「……最後なのよ」
 母はなおも促したが、やがてあきらめてまぶたを閉じた。
 私が見た最後の父は。ニュースを見てくだらないダジャレをかまし、当然のごとく相手にされず、クチャクチャいわせて朝食を終え、「行ってらっしゃい」も言われず出て行った育毛剤のにおい。いつもと何ら変わらない、寂しく惨めな嫌われ者のサラリーマン。
 毎日をやっとこさ終われるのだから、そりゃあいい顔だってするだろう。――でもそんな顔は見たくない。見たくなかった。

 ゴテゴテきんきらきんの霊柩車はすぐ前にあると目障りで仕方なかったが、その後をゾロゾロとついていく滑稽さに気づいたらどうでもよくなった。
 車だらけの道が続いていく。色も形も様々で、行き先も様々で、霊柩車の目的地はただ一つで、途絶えたら、何もなくて。
 棺の中身が骨格標本とすり替わるとき、母は涙を流すだろうか。
 私は少し眉を寄せる。
 しかし、私がそれを確かめることは叶わなかった。
 灰にまみれた骨を前に箸を渡され、ゲロをぶちまけて意識が切れた。
 翌日、母は普通に朝ご飯を作っており、私はごく普通に食べてごく普通に登校した。「行ってらっしゃい」を言わないのもいつもの通り。
 あっけないものだった。
 帰っても父はいない。元々私が起きている時間に帰ることはめったになかったので、私の一日に変化はない。
 今日は変わらずともこれからの生活は何か変わるのか、と思ったが、父は生前から自分でたくさんの生命保険をかけていたらしく、贅沢しなければなんとかやっていけるだろう、ということだった。
 存在ってたわいないな、と思った。

 次の日は土曜日で、私は新しく出たマンガを買うために朝から本屋を訪れた。
 友達は気をつかって誘ってくれないし、自分も似たような感じで母にどう接してよいかわからず、少年マンガでも読んでスッキリしたい気分だったのだ。
 手早く選んでレジに行く。財布には小銭が少なく、お札は一枚、一万円札だけだった。
 それはおよそ一週間前。珍しく早く帰った父が、何を思ったか部屋までやってきておもむろに差し出したもの。
「小遣いをやろう、あまりもらってないだろう」
 一言だったと思う。
 私は抑揚のない「ありがと」だけを返礼に、もらうものはちゃっかりともらっておいた。娘の無愛想に慣れている父は特に何も言わなかった。
 子どもの頃、日曜に部屋でグースカ寝る父の腹の上にダイブして、「どこかに連れてって!」としょっちゅうねだった。父は五回に四回は「これで菓子でも買ってきたらいい」と金を渡し、再びいびきをかくのだった。
「部下は金をばらまけばついてくる」「俺はこれでも稼いでる。おまえたちの生活は俺が守ってるんだ」
 父は人心を金で掌握できると信じていたから、私は大人しく小遣いをいただいて、いいなりになんかなってやらなかった。
「お客さん? あのぉ……」
 店員のとまどった声に正気に戻る。財布を出したままぼーっとしていた間に、後ろに一人並んでいる。焦ってお札を取り出した。が、すぐに戻した。
「お客さん?」
「すみません、やっぱりやめます」
 いつの間にか頬が熱く濡れていた。
 まったく意識しない涙で、自分でも不思議でならなかったが、持っていた本を元の位置に戻した頃には、頭の中で浮き上がっていたピースがカチリといった。
 一つ一つの断片が一枚のパズルとなって絵を見せる。
 誕生日もクリスマスも、何もしてくれることのなかった父、日常会話は言葉を交わすなんてものじゃなく下手で無理なダジャレばかりで、ギャグも説教も無視していたら、たまにふらっと来て金をよこすようになり、ついに……ついにお父さんは、多額の生命保険になってしまったのです。――めでたし、めでたし。
「クソ親父っ!」
 本屋の中心で力の限り怒りを叫ぶ。
「あたし一度も自分から小遣いねだったことなんてなかったじゃんっ! そういうとこが金さえ渡しておけばいいって思われてるみたいで嫌だったのに!」
 本当に、嫌だったのに。会話をすれば皮肉が返るし、そんな熱い話をするなんて恥ずかしかったから、何も伝えず、伝わらずに。
 ――お金なんて。
「……それしかできないからって、……大馬鹿っ!」

 家までの道をダッシュする。
 父は毎朝この何倍もの距離を自転車で会社まで走っていた。疲れて帰っても愚痴を聞く者はなく、昇進してからは休みも返上して通っていた。家にいるときは食べてるか寝てるかどちらかで。ビールを飲んで、つまみを食べて、部屋で一人、テレビのボリュームを大きくした。
 どれだけ記憶をたどっても、父の趣味は一つも浮かび上がらなかった。
 なんたる完全仕事人間。仕事のための人生、仕事だけして仕事のせいで逝ってしまった。
 玄関の前で立ちつくす。扉を開けても父はいない。当然だ。今日は土曜だ。何曜だろうと、こんな時間に父はいない。
 開けたらきっと、母が父の部屋を片付けているのだけども。
 しかし、だって、あれは蝋人形で、あれは骨格標本だ。もしも本物だったなら、あの親戚も、母だって、どうして取り乱さずに見ていられる?
 二度とかえらないものを。
 私はゆっくりとうつむいた。涙が顎に伝い、雫となって離れていく。
 父は嫌な人だった。思春期にありがちななんとやらではなく、今までの人生経験が拒否させざるを得ない人格だった。家族の甘えか未熟の甘さか。それが父親だから余計許せなくて。

 それでも父を、愛していた。

「……おかえりって、言うから。行ってらっしゃいって、言わせて。……ごめんなさい。ごめ、ん……なさ、い。……お父……さん」
 耐えきれずうずくまる。
 玄関の扉は重く冷たい。開ければ風が吹き抜け、すぐに空気が換わるだろう。
 澱まず過ぎていく日々の中で、必ず越えねばならないこの一枚を開くために、棺で眠る父の顔を見ておくのだったと思った。
 ――父は今、胸の奥。一度も見せたことのない、一番見たかった優しい微笑を浮かべている。
END.
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