『闇』

 その日私は推理小説に没頭していた。
窓の外は漆黒の闇。音さえも殺されている。
ひんやりとした冷気が私を包みこむ。
その本を読むには絶好の状況だった。
本の内容はもちろん推理小説なのだから、事件が起こり探偵役が謎を解決していく、というものだ。
根本的なあらすじはどの推理小説も変わらない。
ようはエッセンスの問題なのだ。
この本にしみこんだエッセンスは極上とまではいかないまでも私の心をとらえてはなさなかった。
リアルな死体の描写、私が最も嫌悪している古い日本的な家庭、その中で起きた惨劇、哀れな犯罪者、衝撃の真実。
不幸な人々の複雑な心理は私に「本の中のこと」という感覚を忘れさせた。
それはすでに非現実的な現実だった。
 私は夜が明けぬうちに小説を読み終えた。
余韻を味わおうとしたが時計を見るとそうもいかない。
時刻はすでに2時半を回っていた。明日は仕事がある。
私はまだ歯も磨いていなければ顔も洗っていなかった。
まぎれもない現実を疎ましく想いながら洗面所に立つ。
私は少しどきっとした。
なぜなら、私の半径1メートルをのぞいてまわりはすべて闇に侵されていたからだ。
闇は私を待っている。
狙っているわけではない。
ただ、待っている。
そんな気がした。
私は激しく首を振った。ばかばかしい。
さっきの小説の余韻がこんな形で残っているとは。
私は頭の固い親父のようなことを考えながら、無意識に闇を恐れている自分に気がついた。
私の後ろに闇が映る。
ああ、やはり、待っている。
私は顔を洗うのが怖くなった。
鏡から目を離したすきに私を襲うのではないか。
そんなことはあり得ないとわかってはいた。
非現実的だし、闇は私を待っているのだ。
矛盾している。
私は冷たい水で顔を洗った。
後ろから押さえつけられるかもしれない。
そんな考えがよぎったが、何も起こらなかった。当然だ。
私は自分が情けなくなった。
そして、洗面所の明かりを消した。

グアッ

闇が声をあげて迫ってくるのを感じた。
闇は私の表面を侵し、内部までも侵そうとしている。
寒気がした。
私はもう一度明かりをつけ、深いため息をついた。
私はなぜ闇におびえるのか。普段は平気なのに。
闇は待っていた。私を呼んでいた。
私にはわかっている。あれは私の心なのだ。
逃げてきたもの、おさえてきたもの、私にとってタブーであるそのすべてが凝縮され、闇に姿を変えていた。
だからあんなに恐ろしかったのではないだろうか。
闇に飲み込まれそうになった。
ああ、私の心はこんなにも危うく存在していたのか。
そしてそれさえもはっきりとは知らなかったのだ。
私は朝まで明かりを消すことができなかった。

私は光の中に闇を封印した。
しかし長くはもたないだろう。
私はすでに闇を見てしまったのだから。
おわり。
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