『今日から鈴木』

 男の名は木村良雄。
とりたてて言うことも何もない普通の男子中学生。クラスの中で特に目立つわけでもなく、特に目立たないわけでもなく。ただただ『普通』。
それは彼自身が望んでいた己の姿でもあった。
『普通』が楽だった。
ただ、時々息が詰まるだけ。
もしかしたらまるっきりの演技かも知れないその姿に。
そして衝動はふいにやってくる。
例えば仲間達と隠れてこっそり吸っているタバコを教室の真ん中で堂々と吸ってやりたいというものだったり、先生に唾を吐いて授業中の教室を出ていってやりたいというものだったりする。
しかしそれも拳に汗を握るようなせっぱつまった衝動ではなく、シャーペンをくるくると回しながらぼーっと考える、いわば思いつき。
おそらく誰でも一度は考えるであろう程度のものだ。
木村良雄は本当に『普通』だった。

 木村は先生と話すことが苦手だった。『先生』という人種が苦手なわけではないし目の前にいる先生個人が苦手なのでもない。『先生と生徒』という関係が苦手なのだ。相手の厚意には少なからず『義務』が含まれているから。どんなに親身に接してくれても先生個人に好感を持っても居心地の悪さは消えない。普段ならば自分から積極的に先生と接したりはしないのだが……これは免れない。
二者面談。
はっきり言ってこれほど最悪な行事もないと木村は思う。何が悲しゅうて先生と面つきあわせて話しこまねばならないのか。しかも
「木村、最近何か悩みでもあるのか?」
何が悲しゅうてもっとも苦手な部類の話に持ちこまれなければならないのか。木村は先生の前であることも構わずあからさまにため息をついてやりたい気分だった。だがそんなことをすれば余計教師魂を煽りかねない。困ったことに自分の担任は熱血教師なのだ。
「何もないっすよ。」
決して顔を見ようとはせずに俯いて言った。
この時間は苦痛だ。さっさと終わらせたい。
「それならいいんだが……何か悩みがあるのなら先生でよければ相談に乗るからな。」
お決まりのセリフだ……。
そんなことを言われても白々しい気分になるだけだ。
木村は内心の苛立ちを募らせた。だが決してそれを表に出すことはない。
自分は『普通』でいたいから。
そんな自分自身に顔を歪める。
「オレ自分のこと好きになれません。」
つい言ってしまったのは普は段うるさい教室が妙に静かで息苦しかったからかも知れない。沈黙に追いつめられたかのように口を滑らせていた。
「木村は自分が嫌いなのか。」
先生はすっかり相談を受ける態勢だ。木村は言った瞬間から後悔してしまっていた。だがここで「やっぱりなんでもありません。」と言うこともできず、しぶしぶ説明を加える。
「本当のオレがわからないんです。家にいても学校にいてもそれは自分じゃなくてなんか違う奴みたいな気がして…『普通』のオレの中で本当のオレが暴れ出しそうな感覚があって…でもそれもやっぱり本当のオレじゃないような気がして…」
話し出してみると気分的に楽になってきている自分に気がついた。おそらく友達にはこんなことは言えないだろう。一線引かれている『先生』だからこそ軽く話せるのかも知れないと思うと「よくできた仕組みだなぁ。」なんて冷静に感心してしまったりもして、木村は少しだけ『先生』が自分にかける言葉に期待した。おそらくは『義務』に基づいたあたりさわりのない言葉なのだろうけれど。
「木村は自分が嫌いなんじゃなくて自分がわからないのか?」
先生は確認するように聞いてくる。木村は早く結論が欲しかった。
「本当のオレがわからないんですけど…でもどれもオレだと思うんです。『普通』のオレや偽物のオレや色々全部…でもそうしたら余計オレ、自分のこと嫌な感じで…」
吐き気がするときもある。
とまでは言わなかったが、木村は真摯な表情を見せた。その顔はやはり俯いたままで先生に向いてはいなかったが。
「そうか、わかった。先生いいこと考えたぞ。」
妙に弾んだ先生の声に、木村はゆっくりと顔を上げて首を傾げる。
先生は自信満々に言った。

「明日からおまえは『鈴木』だ。」

は?

木村はこれ以上は開かないというくらいに目を見開いて無言で先生を凝視する。心の中の声は口には上らなかった。絶句してしまっていた。
「うん!じゃあ早速準備しないとな!先生頑張るからな鈴木!」
先生はそう言って熱血オーラをメラメラと燃やして木村に微笑みかけた。そして「はい、鈴木はこれで終わり。次の人呼んできてくれ。」と教室を出ていくよう身振りで示す。
木村は「適当にごまかされた?」と思いしかめっ面で先生をにらんだが先生は「明日から頑張ろうな鈴木。」と真剣そのものの表情で言うので、ひたすら首を傾げることしかできなかった。
「今なんか新しい病気とか流行ってたっけ?」
教室から出て来るなりいきなりそう尋ねた木村をクラスメイトは不思議そうに見つめた。


 そして次の日。
木村は『鈴木』だった。
登校途中いつも一緒になる友達に開口一番「おはよう鈴木!」と爽やかに挨拶され、靴箱のシールにも『鈴木』と書かれ、上靴の踵にもマジックで『鈴木』と書いてあった。
「なんの悪戯だよ…」
嫌な予感をさせながらもそうつぶやくと友達が追い打ちをかけるように「どうしたんだよ鈴木。」と言う。教室に入ると黒板には大きく『木村は今日から鈴木。』と書かれていて、木村は憤慨してすぐに消した。
先生が入ってきた途端木村は勢いよく詰め寄ってその胸ぐらをつかんだ。
「どういうつもりですか!」
先生は驚いた様子もなく
「どうした鈴木。早く席に着け。出席取るぞ。」
と木村の体を離す。
「オレは木村です!こんなん悪質ですよ。先生何がしたいんすか。」
「ん?昨日ちゃんと言ったろう。おまえは今日から鈴木だって。」
「だからなんで!」
いい加減にしろ!と殴りかかる寸前の木村に先生は飄々と言う。
「だっておまえ自分が嫌いなんだろう。だから先生が『木村』から『鈴木』にしてやろうと思ってな。」
無茶苦茶だ。
木村はあまりの馬鹿馬鹿しさに怒るよりも先に呆れてしまった。
「先生よく教員試験通りましたね。」
「ひどいなぁ鈴木。先生これでも頭いいんだぞ。」
そのいい頭をかち割ってやろうか!
木村は半ば本気で考えたがやめておいた。
どうせ今日だけだろう。今日だけこの大ボケ先生の茶番につきあってやればまた日常が戻ってくるのだ。『普通』にしていればいい。
木村は大きくうなだれて席に着いた。
「それじゃあ出席をとるぞ。」
自分が『鈴木』になってしまったこと以外はすべて普通通りのようだ。
先生はいつものように出席をとり始めた。
「加藤の次は……鈴木。鈴木。おーい鈴木、返事しろー。」
木村はようやく自分が呼ばれていることに気がついた。無視していたわけではない。なにせ今日だけ『鈴木』なのである。気がつかなかったのだ。木村は憮然として手だけを挙げた。
「どうした鈴木、元気ないな。はい次、子西。」
他のクラスメイト達が普通に返事をしていく。木村は居心地が悪いったらなかった。むかむかして隣の席の友達に「ったくなんだよアイツ。オレは木村だっつーの。馬鹿じゃないの?」と言ってみても「はぁ?おまえは鈴木だろ?頭沸いたか?」とごく自然に返ってくる。なんて悪質なのだろう。今日だけ、今日だけ。と思いつつ、木村は奥歯を噛まずにいられなかった。

1時間目。体育。
「おい鈴木ー、今日マラソンだってよ。だるー。」
「鈴木!歩くな!あと5周だぞ!」
「鈴木お疲れー。おまえ途中へばってたろ。」
「鈴木、早く着替えねぇと次遅れるぜ!」

2時間目。数学。
「はい次この問題を鈴木。」
「あ?なんだよ鈴木。オレを頼るなよ数学苦手なんだから。」
「鈴木、そこはそうじゃない。」
「なぁ鈴木、数学進むの早すぎると思わねぇ?」

3時間目。国語。
「寝るな鈴木!はいそこ読む!」
「あはは鈴木君ださーい。」
「はい、いいぞ。鈴木、授業中に寝るなよ。」
「無理だよ先生ー。鈴木が寝てない授業なんてほとんどねーもん。」

4時間目、5時間目、6時間目と、木村は頭痛が止まらなかった。

『鈴木』
『鈴木』
『鈴木』
『鈴木』

まるで呪いの呪文のように唱えられる。
「なんだってんだよ……オレは『木村』だ。『鈴木』なんかじゃねぇ。」
たかが名前一つ。それも今日一日だけだというのに木村はつらくてたまらなかった。『鈴木』と呼ばれるたびに自分の存在が消されていく気がする。そんなはずはないとわかっているのに自分が『鈴木』になってしまったような気がして、心の片隅で確実に『木村』が蝕まれていく。

「じゃあな鈴木。また明日。」

その言葉を聞いて友達と別れたとき、木村は心底ほっとした。
これで終わりだ。やっと終わったのだ。
家に帰ると木村はいつも通り『木村』だった。
表札を見ても当然のように『木村』と刻まれている。電話から「すいません木村さんのお宅でしょうか。」と声がして、思わず「はい、木村良雄です!」と答えた。家がこんなにも居心地が良かったのは初めてだった。そして木村は安心して眠りについた。
自分は『木村』なのだ。『鈴木』ではない。明日になれば学校のみんなも元に戻っているだろう。馬鹿馬鹿しい悪夢は終わったのだ。

だが次の日も木村は『鈴木』だった。


『鈴木』
『鈴木』
『鈴木』
『鈴木』

「消えろ。」と言わんばかりの呪いの言葉。
木村はとうとう耐えきれなくなった。
昨日一日だけだと思っていたから耐えていたのだ。
自分の存在を否定されて、こんなに屈辱的なことはない。
木村は教室に入ってきた先生に突然殴りかかった。
「オレは『木村』だ!『鈴木』じゃない!」
先生は木村の拳を難なくよけて上から覆い被さる形で押さえ込む。
「だって自分が嫌いなんだろう?」
「だからなんだよ!オレはオレだ!『鈴木』じゃない!『木村』だ!」
木村は我を忘れて暴れた。
あとで生活指導を受けようが構わない。これは『自分』を守るための戦いなのだ。引くわけにはいかない。
「せっかく『鈴木』としてやり直せる機会を与えてやったのにわざわざ嫌いな『木村』に戻るのか?」
ピクリと、反応を示してから、木村の体が動かなくなった。
「『木村』を消すことで『鈴木』になれるような気がしなかったか?『木村』が嫌いなら『鈴木』として生きればいいだろう。嫌いな自分になんでそんなにこだわるんだ。」
体が動かない代わりに血管を熱い何かがめまぐるしく駆け巡る。木村は考える前につぶやいていた。
「嫌いだけど……オレはオレだ。『木村良雄』だ。捨てようなんて…思わない。わかんないけどだって……今までずっとこれで…きたし…」
「そうだよな。『木村良雄』は生まれてから今までずっと生きてきたんだ。『生きる』という、ただそれだけで大変なことを、ずっとやってきたんだ。」
木村は何かが押し寄せてくるような感覚を感じた。それは自分をうち消すようなものではなくて、支えてくれるような、高みに押し上げてくれるような、そんな奔流で。
「木村、『自分』なんて名前一つで簡単に揺らいでしまいそうになるような不安定なものだ。自分自身にも容易につかめない。だけどおまえは今確かにそれを守ったんだ。『自分』としての誇りを。今は嫌いでもいい。これからも『木村良雄』として生きていくことでおまえがおまえを育てていけばいい。」
木村は先生の言葉を聞きながら自分の中のしこりが溶けていくのを感じた。だからどうというわけでもなかったけれど、大切なものをやっと見つけることができたような気分が不快なわけもなく、木村は先生の腹に一発拳を入れて笑った。
「先生、職権乱用で生徒の心を傷つけた償いは必ずしてもらいますからね、このくそ教師。やることが馬鹿すぎるんだよアンタ。」
先生が冷や汗をかいて苦笑するのを見てすっきりしたところにクラスメイト達が集団で謝ってきた。
「ごめんな木村。なんか気分悪かっただろ。」
「私もごめんね木村君。」
次から次へと紡がれる謝罪の言葉よりも自分の名前が呼ばれることの方が嬉しくて木村は照れくさそうに微笑んだ。
あれだけ嫌いだった自分。それを表す名前を呼ばれることがとても嬉しい。かといって自分の何かが変わったわけではない。そう簡単には好きになれないがそう簡単には捨てたくない。それだけだ。自分自身でもよくわかっていない『自分』をとりあえず頑張ってみようと思う。
木村はおどけた様子で肩をすくませ、おかしそうに笑いながらお辞儀をした。

「これからも『木村良雄』をどうかヨロシク。」
END.
HOME