『蒼月記』

 将綱は思わず己の耳を疑った。
幼少の頃より仕えてきた主君の口からかような言葉が出ようとは夢にも思わなかったのである。
状況は絶望的であった。
万に一つも勝機のない籠城戦。
米も水もとうに尽き果て、元々わずかであった兵はもはや半数以下。
その兵たちもみな一様に意気消沈しており、勝利を確信している敵兵との差は一目瞭然。
窮余の一策を立てようにも立てようがない。必滅の運命は如何にしても避けようがなく、自軍に残された道は一つしかなかった。
城に火をかけ、主君直継の自害を敵に邪魔させないようにすること。
そう、この場に呼集された家臣たちは誰しも自分たちの殿が自害するものと信じて疑わなかったのである。
しかし、直継が発した言葉はみなの予想とはまったく反対のものであった。
「わしは逃げる。おぬしらも逃げよ。」
居並ぶ臣下たちの前で、直継はそう道破した。
言葉に反して泰然としたその姿は威厳に満ちあふれていたが、瞳が決して虚言ではないことを語っていた。
動揺する者をなだめることも、「何故そのような見苦しい真似をしようとなさるのか。」と詰問する者を説伏することも、胸中を披瀝することもせずに、直継は前をまっすぐに見つめたまま緘黙して語らなかった。
それからどれだけ時が過ぎただろうか。
おそらく半刻。いや、それ以上か。
直継は目を閉じ、よく通る声で告げた。
「わしはもうおぬしらの主君ではない。縛ることはせぬ。何処へなりと行くがよい。今までわしのような器の小さい主君によう仕えてくれた。……さらばじゃ。」
そして城に静寂が訪れた。

 弓張り月の美しい夜であった。
夜陰の中さやかに輝き、一切のものを蒼く照らし出す見事な月が下界を鳥瞰していた。
城の中庭で直継は一人清閑と月を仰いでいた。
蒼い月の光を全身に浴びてたたずむ直継の姿はまるで幻のようにひどく儚く見え、直継を追ってきた将綱は思わず息をのんだ。
蒼い。
何もかもが蒼い。
直継の髪も顔も肌も。
……その身に纏った白い着物も。
「殿。」
将綱は耐えきれずに声をかけた。
「……将綱か。もう殿ではない。直継と呼べ。……昔のように。わしはおそらく明日死ぬであろう。その前に語る相手は臣下ではなく心友としてのおまえがよい。」
直継は薄く微笑し、将綱を手招いた。
将綱は躊躇いつつも傍らに立ち、
「……拙者にも腹心を布いては下さりませぬのか?」
と問うた。
直継と将綱は竹馬の友である。
直継の乳母の息子である将綱は、家臣として、友として、直継が最も信頼を置いている人物であった。
直継はまたも微笑すると、やおら語り始めた。
「わしは生まれる時代を間違えた。この戦国動乱の時代に生きるにはわしは臆病すぎたのじゃ。わしは元々いくさが好かんかった。剣の稽古をしながらもわしが考えていたことはいつも……『平和な時代』のことじゃ。いくさで勝ち上がった覇者ではなく、民から選ばれた大人が政を行う世。血にまみれた戦乱ではなく、知性と理性に基づいた談合ですべてを決定する世。……そんな世を…わしが作りたかった…。しかしわしには才も器もなかった。……わしのような男が一国一城の主になったのは間違いだったのじゃ。」
将綱はしばし呆然とした。
直継の言葉がすぐには理解できなかったのだ。
直継と視線が合ってようやく将綱は己を取り戻し、慌てて否定した。
「それは違う。」と。
直継は決して凡愚ではないと将綱は思う。
確かに直継が言ったことは戦国の世には甘すぎる、取るに足らない絵空事である。
だが、なんと素晴らしい絵空事なのか。
こんなことを考えつく人間はおそらくこの時代には他にいないであろう。
着意したこと。それ自体が才だ。
ただ、そう、ただ――
時代に沿っていないだけなのだ。
「……わかっておる。時代の流れじゃ。」
将綱の心を読みとったかのように直継が言った。
その瞳に憂いはなく、諦めのような、それでいて何か強い決意のようなものが感じとれた。
「わしは生まれる時代を間違えた。だからこそ見届けたいのじゃ。この時代を。決して己の手では死なぬ。首斬られようとも腹裂かれようともこの眼は決して閉じぬ。」
そう言って直継は振り仰ぎ、また月を見た。
「……それでは終わらぬぞ。土が血に汚れれば汚れるほどあの月は蒼くなる。そう感じたことはないか?わしは死しても十万億土の旅には出ぬ。月世界に留まり時代の終極を見届けてくれるわ。」
将綱は時代が違えば一角の人物になっていたであろう直継の横顔を何とも形容しがたい複雑な思いで見つめていた。
「執念……でございますか。しかし拙者の微衷もお察し下さい。直継様のそのような死に様など見とうありませぬ。」
「言ったであろう。敬語はやめい。様もいらぬ。……わしは死に花を咲かせることなどとうに考えておらぬのだ。将綱、おまえももう逃げよ。このような男に付き合って死んではならぬ!」
直継は急に峻烈な態度で告げた。
将綱は直継を正面から見据え、ゆっくりと首を左右に振った。
「あなたが真に逃亡するというのなら拙者も何処かへ逃げまする。けれどあなたは運命のようなものに挑みに行く。……ならば供が必要です。」
「いかん!それは許さぬ!将綱、おまえはここで終わってはならぬ!」
厳しい口調で言う直継を、将綱は思う様睨め付け怒鳴った。
「直継!」
二人の間に暫時しじまが続いた。
将綱は微苦笑すると言い聞かせるように言った。
「……終わりではありませぬ。月への旅路の途中に死があるだけのこと。その死装束はただの旅支度。…そうなのでしょう?」
直継は眼を眇めた。
「……たわけめ。」

 そして、月を見る。
二人、遠い旅路を見るように。
「わしらが討ち死にしても人の想いと血はあの月を染める。月は蒼さを増しながら後の世も輝き続けるであろう。……そうしてわしらは異なる時代を生きることができる。……泰平の世もきっと来る。」
生まれてくる時代を間違えた男はそう言って、静かに瞑目した。
夜の帳が深く降り、静寂が二人を包む中、月の囁きだけが聞こえていた――。
了。
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