『シンデレラ』

魔女は大口を開けてあくびをした。
寝過ぎて頭が痛いが、起きていてもやることがない。
あくびしながら暇を持て余すよりは夢でも見ていた方がまだましな気がする。
しかし頭が痛い。
思わずもれたため息は洞窟中に広がり、やがて消えた。
魔女はもう一度ため息をついた。
まるでシャボン玉のように、膨らんでは儚く消えていく。

くびり殺されているようだ。

頭に浮かんだ言葉は、笑えるほどよく似合った。
洞窟の中は今日も寒気がするほど静かで、重苦しい闇が頑なに空間を閉じている。
ここは棺。棺に眠る者は死者と決まっている。生きながら死んでいる己にぴったりの比喩。
自虐的な笑声を響かせるのにも飽きて、またため息をついた。
吐いても吐いても、消えない虚脱感。
自分の他は誰もいない、時さえも流れない闇の中、退屈が、人を殺す。
眉を寄せた拍子に息がつまった。
もがきながら腕を伸ばし、水晶球を覆う布を取り払う。
まぶしい光が闇を裂いた。
晴れた空。明るい日射しの下で力強く笑い、泣き、生きている人々。毎日を精一杯進む命。
それはいつも同じ景色を映している。
魔女はかすかな息をもらして微笑み、すぐに固く瞳を閉じた。
そっと布を被せ直す。
まぶたの裏が塗りつぶされてやっと目を開いた。
闇は静かで、空気は冷たく、ため息がよく響く。そしてほどなく静寂の真綿に包まれていった。
それでもとうに癖になっているため息を、もう一度……繰り返そうとして顔を歪めた。
幻聴が聞こえる。
人の足音だ。
近づいてくる。
心の中で「消えろ」と叫んだが、いつまでたっても消えはしなかった。
それどころか闇の中、赤い炎が小さく灯る。
何十年ぶりかに見たランタンの光だった。
「客人、赤の火を使っているな。……生者か」
魔女は声がかすれないよう、細心の注意を払って尋ねた。
空気が目に見えて振動する。
「……はい、叶えていただきたい願いあって参りました」
返ってきた声は低かった。小さな炎が心のように揺らめいた。徐々に距離をつめる固い靴音。
何もかも、外のにおいがした。
魔女は人差し指を弾いて巨大な火を生むと、両の指で引き裂いて、十の炎を宙に浮かべた。
途端に照らし出された洞窟で、驚きに染まる顔と喜びに満ちた顔が出会う。
久方ぶりの客が若い男で、それもなかなかに端整な顔立ちをしていたので、魔女は満面の笑みをさらに輝かせた。
「歓迎しよう。まずは座るといい」
声と共に土が踊り、テーブルと椅子が力強く生長する。うっすらと被った土を払って台上にいくつか円を描くと、それらと同じ大きさの食器がみるみる浮かび上がってきた。魔女はコップを手に取り、その上でもう片方の手を軽く握って振った。指と指の間からかぐわしい香りをまとった茶色の液体があふれ出す。立ち上る湯気を、男はじっと見つめていた。
魔女は怪訝に眉をひそめた。
「どうした?立ち話ですませる気か?私は嫌だぞ。座れ。遠慮することはない。……それとも、紅茶が嫌いなのか?コーヒーにするか?ミルクがいいか?水が飲みたいのか?毒など入っていないが、他人から出されたものを飲まない性質ならば無理にすすめはしない」
「……いえ、魔法というものを初めて見ましたので、少々驚いてしまっただけです。お気を遣わせて申し訳ありません」
男は優雅に会釈してようやく席に着いた。
「そうか。気にするな。私は見慣れている」
魔女が小さく両手を叩く。先ほどまで何もなかった皿の上にクッキーが積み重なった。
男はまた動きを止めた。
魔女もまた眉をひそめる。
「……クッキーは嫌いなのか?ケーキを出してもいいが、クリームがべとつくから面倒だ。それとも甘いものが苦手なのか?」
「……いえ、せっかくですが、飲食物は結構です」
「そうか……、残念だ。久しぶりに味見をしてもらえると思ったのだが。……では次は何を出そうか」
魔女は心底残念そうに口を曲げると、召使いを呼ぶようにテーブルを叩いた。
「客人、チェスは強いか?」
すぐにチェス盤が浮かび上がる。
「ポーカーをやるのもいいな」
これまた間を置かずトランプが落ちてきて見事なブリッジを披露した。
「チップはどれだけ必要だ?」
大人しくなったカードの上に大量の金貨が降り積もる。
一体どこから?と聞いてはいけない。
男は気づかれないように小さく息をついた。
いくらなんでもでたらめだ。
こちらのペースを乱すためにわざとやっているのかと思ったが、魔女の笑顔に企みの色は見当たらない。むしろ寒気がするほど無邪気だった。
「……せっかくですが、歓迎は結構です」
やっとの思いでそれだけ言うと、魔女はぷいっと口を尖らせた。
「なんだ、つまらない。以前来た男は倒れるまでやるほどチェスが好きだったが」
それはおそらく恐ろしくて断りきれなかったのだ。
そう思ったが、口に出すのはやめておいた。
「それより……眼光鋭い老婆を想像していたのですが、随分とお若いのですね」
「ああ、見た目はな。二十を越えていたかいなかったか……それくらいのうちに止まった。心配するな。数えるのが面倒になって久しいが、一世紀どころではない年月を大魔女と呼ばれて過ごしてきた。まだボケてもいない。昔話を所望ならいくらでもしてやろう。いつがいい。千年前か、さらに遡るか?最近の話はできない。専ら寝て過ごしているからな」
「……いえ、せっかくですが、昔話も結構です」
ここまでくると男もこの魔女がひどく退屈していることがわかりすぎるほどよくわかった。
倒れるまでチェスにつき合わされるのはまっぴらと、とにかく話を切り出すことにする。
「早速私の望みを聞いていただきたいのですが……」
魔女はやる気なさげに息を吐くと、だらりと首を回してから言った。
「仕方がない、仕事に入るとしよう。どんな願いも私に叶えられないものはない。客人、面白い願いを言え」
……沈黙。
たっぷりと間をとってから、男は非の打ち所のない笑みを浮かべた。
「……そうですね、面白いかどうかは保証しかねますが、とにかく話を聞いていただけますか?」
魔女は頷きながら手首を振る。
「気にするな。もう少し遊んでもらいたかっただけだ。大概のものは面白いから安心するといい」
人の望みに面白い面白くないと点をつけられてもかなり面白くないのだが、そういったことはこの魔女にはわからないようだった。
「……その前に、まずは名乗らせていただきましょう」
男は浅く一礼すると、腰に携えていた剣を外して鞘をかざした。
魔女の目が見開かれる。
「私の名はウィリアム。ファミリーネームはこの国の名。皇太子をやっております」
そこには王家の紋章が刻まれていた。
魔女の瞳が細くなる。
記憶がざわめき出す。
かつてこの国は繰り返し戦火に焼かれていた。
頬のこけた女が嗚咽をもらしながら訪れた。体の一部を落とした男が血と共に望みを叫んだ。
王命を受けた者も多くやってきた。
叶える望みは一人に一つだ。
それを知って王は何人もの臣下を使い捨てるのだった。
それで持ちかけられる願いといえば、やれ誰々を暗殺せよ、やれ敵国のどこそこに病を流行らせろ、民衆を鎮圧しろ、伝説の美女を攫ってこい、そんなものばかりで。
叶えなければ使者の首が入り口に並んだ。軍隊を差し向けられたことも、洞窟ごと埋められかけたこともある。
時は流れ、大地は平和を取り戻したけれども、国は国のままで、未だに王なんてものが統治している。
皇太子の願いなど、面白いはずもなかった。
久方ぶりの客に胸が弾んだというのに、待ちに待った退屈を乱すものは災いだったか……と、せめて話を聞く前に追い出そうと思ったが、皇太子はすでに語り始めていた。
「私の願いは……お願いします、どうか。生涯結婚を免れるようにしていただけませんか」
魔女は耳を軽くマッサージしてみた。
「もう一度言え」
「……ですから、生涯独身を貫けるようにしていただきたいのです」
「何故だ、幻聴が聞こえる」
結婚だの、生涯独身だの、およそ王族には似つかわしくない響きがぐるぐると回る。もしかしたら幻聴ではないのかもしれない……とよぎった端からいやいやちょっと待てよ、と打ち消される。が、何度かそれを繰り返した後、魔女の脳味噌は幻聴ではないが王族らしさは損なわれない一つの答を導き出した。
「そうか、わかった!貴様の望みは酒池肉林だろう!生涯独身でうっはうはのハーレム生活を送る気だな!」
大分混乱してはいたが。
沈黙が落ちる。
たっぷりと間をとってから、ウィリアムは輝かんばかりの笑みを浮かべた。
「……いいえ、残念ですが、そうではありません。私はこの先女性との交わりを一切持ちたくないのです」
「男色か」
「違います」
「獣と交わるのが趣味なのか?」
「違います」
「神に身を捧げるというやつだな」
「……そういうわけではありませんが、弟が一人前になれば皇太子の身分を譲るつもりではあります」
「では貴様は、生涯に渡って女性と関係を持たない、ただそれだけが望みだというのか」
「……名実共に、です。私の妻を名乗る女性も、私のそばにかしずく女性も、一人として現れないようにしていただきたい」
魔女は顔を歪めた。
解せない。どうしても、解せない。
「そこまで女を避ける理由は何だ。言ってみろ。私は良心的な魔女だ。守秘義務は守る」
ウィリアムはにこやかな笑顔のまま、
「嫌だからです」
短く告げた。
「……そうか、ならば嫌々結婚するがいい。言っておくが、私は理由も聞かずに願いを叶えるほど酔狂ではないぞ。どうしてもというなら流れ星をあたれ」
魔女はジト目になってテーブルを叩いた。
「さぁ、ポーカーをしよう!ポーカーはいい。運が決め手となることも多いからな。先ほど話したチェス好きだが、正直弱くてな、あまり面白くなかった。だがちゃんと理由を話したので願いは叶えてやったぞ?どんな内容だったのか教えてやれないのが本っ当ーに残念だ!」
あからさまな挑発に、ウィリアムは苦笑するしかない。
「いじめないでください。ごまかしたわけではありませんよ。……本当に、それが理由なのです」
魔女はカードをシャッフルし始めていた手を置いた。
「女嫌いか」
「そう、……でしょうね」
ウィリアムはぎこちなく頷く。
戸惑いは見えるが嘘は見当たらない。この皇太子は本当に、女が嫌いだという理由だけでここにやってきたのだ。立場にかまわず、他人にとっては首を傾げる願いを、真剣に、叶えにきた。
魔女は穏やかに微笑んだ。
「……客人、おまえはまだ若い。ここで人生を制限してしまうのは少々早すぎると私は思うが?」
ウィリアムはゆるゆると首を振った。
「それはあなたが生きすぎているからでしょう。私は必死です。時間もありません。……今までに随分な数の縁談を断ってきたものですから、周りの者は皆やけっぱちになってしまいました。近く、身分問わず、自由参加の舞踏会が開かれてしまいます。必ず一人は気に入りの女性を見つけるようにと、きつく言い渡されているのですよ。……今回を免れたとしても、いつかは逃れられない日が来るでしょう。それも、近いうちに。その前に、私の願いを叶えていただきたいのです。あなたならば、私の望みを叶え、かつ、そのために起こるであろう問題も、すべて解決できるのでしょう?」
強い眼差しを向ける。
魔女は正面から受け止め、かすかに口の端を上げた。
「ああ、私にできないことはない。だが、忠告させてもらおう。……客人、恋はしておけ」
だてに退屈をいとうているわけではない。
純粋で真剣な願いを抱く客には余さず幸せになってもらいたい。
長い人生を虚無と共に歩む自分には、それが一番心の弾むことだから。
「……畜生と違って人というものは必ずしも恋愛をしなくていいようだ。だから人の色恋は必ずしも生殖に結びつくとは限らない。下世話な話を離れて、恋愛感情というものは……その美しさも醜さもすべて、尊く、貴重で、大切なものではないのか?あるいはそうでなくとも、人生の喜びの、大きな一つであることは確かだろう。実らずとも、それを抱けるということは……とても素晴らしいことだと私は思うぞ」
だから、生きすぎている自分からの、心からの忠告を贈る。
「恋はしておけ。この際同性でも獣でも何でもいいだろう。おすすめは異性だが」
ウィリアムは疲れたような顔をした。
「この先ずっと恋愛に溺れる予定はありませんが……、万が一そうなったらばそのとき後悔すればいいことだとは思いませんか?」
「……それも人生だがな。私にとっては歯がゆいことだ。正直に言ってみろ。理想の女性像くらいはあるだろう。髪は何色だ?目鼻立ちはどういったものがいい?体つきに注文はあるか?性格についても事細かに言ってみろ」
「特にありませんよ」
ウィリアムは『疲れたような』を通り越して『げっそりとした』顔になったが、魔女は気づかない。上半身を乗り出して距離をつめていく。
「なら捏造しろ。深層心理が出てくるかもしれん」
ウィリアムはため息をついた。
「何か思いついたかっ?」
さらに乗り出してくる肩を押さえて、気怠げに頬杖をつく。
ちらりと様子を窺えば、間近に迫った魔女の顔はこれまでに見たどんな美女よりも美しかった。
流れるような黒髪が透き通る肌によく似合う。夜の底に満天の星の輝く瞳がこちらを見つめている。すっと通った鼻梁に、花びらのような唇。絶世の美女と形容できるその容姿。
ウィリアムはふむと頷き、すらすらと並べ立てた。
「……猫の毛が濡れたような金髪に、豚が泥遊びしたような肌の色。目は曇天のような色で、見えるか見えないかくらいの細さ。鼻は団子っ鼻。口はたらこ唇。性格は……大人しくて控えめで、気弱な方がいいですね。そう、特別な力も何もない、ごくごく普通の女性がいいです」
魔女は眉を寄せて突っ伏した。
「随分具体的な理想があるものだな。……本当に女が嫌いなのか?理想が高すぎて他がどうでもよく見えるだけなのではないか?それだけそろった女性を見つけるのは難しかろう」
「……捏造してもいいと言うから言ってみただけですよ。まず実在しないでしょう。それより……私の願いは叶えていただけるのでしょうか?」
魔女は細く長い息を吐いた。
「忠告を聞く気はないということか」
「お気持ちだけはいただいておきます」
ウィリアムの答にゆっくりと頷く。
「……そうか、気持ちだけ……な。わかった。……では、これを持っていくといい」
手のひらを捻るようにして上に向けると、何もなかった空間からまぶしい光が現れた。
それは一足の、光り輝く靴。
ウィリアムは思わず目を眇めた。
宝石ではない、まるで光そのもののような。
しかし薄闇に落ち着いてしまえばただの白い石に見える。
「ガラス……?」
何度も目を凝らしてようやくつぶやいた。
輝きが影をひそめても繊細な細工の美しさは失われていない。
触れただけで塵と消えそうな儚い風情。
細工も素材もそれでしかありえないというような、完成された美がそこにあった。
「そうだ。ガラスの靴。無理にはこうとすればたちまち砕ける。これを持ち帰ってこう言え。『この靴をはくことができた女性を私の妻とする』と」
両手の上に靴を乗せ、ウィリアムは神妙に頷いた。
少し力を入れただけでどこかしらが折れてしまいそうだ。
「……なるほど。誰もはくことはできないというわけですね?ありがとうございます。……しかし、少々頼りない話のような気がしますが。……一時凌ぎにしかならないのでは?」
魔女はわずかに目を見開くと、すぐににやにやとした笑みを浮かべた。
「安心しろ。言ったろう、私は良心的な魔女だ。一人につき一つの願いしか叶えないが、その代わり完璧に叶えてみせる。客人が心配することは何もない。私を信じることだ。もしも願いが叶えられなかったと感じたときはなかったことにもしてやれる」
ウィリアムは確かな不安を感じたが、すぐに気にするのをやめることにした。
書庫の奥深くにしまいこまれた古い本。すっかり色褪せてほこりを被っていたその本に、いつか誰かが挟んでいたメモ用紙。そこに書かれた夢物語のような『魔女』にすがろうと決めたときから、不安なんてものは気にするだけ無駄だったのだ。
ガラスの靴をテーブルの上にそっと置く。
何はともあれ可能性は手にした。信じろと言うのなら信じてみるしかないだろう。
「わかりました、では報酬の話ですが……」
「いらん」
「は?」
間の抜けた顔になったウィリアムを魔女がおかしそうに笑う。
「すでにもらっている。久しぶりに外の空気を吸った。……楽しかった。これからおまえの願いを叶えるまでに一働きある。それも、楽しい。願いを叶えてやればおまえは幸せになるだろう。……それ以上のものはない。どうしてもというのならポーカーをしてくれ。チェスでもいい。強い方が楽しいが弱くてもかまわない。紅茶とクッキーが嫌いなら他のものを出そう。フルコースを馳走してもいい。昔話ならたくさんしてやれる。できればおまえの話の方を聞きたいが」
言葉が切れたと同時に表情が消えた。
「……だが、そんな暇はないのだろう。私以外の者はみな忙しい。だからいいんだ」
ウィリアムはかける言葉をなくして口を閉じた。
魔女を苛んでいるものが退屈だけではなかったとしても、所詮自分は行きずり以上になる気はない。ならばここで何も言わずにいることがせめてもの情けであるような気がした。
「……私に不可能はない。今となっては他人の不可能を可能にすることが至上の喜びだ。おまえの願いを叶えるために尽力する。同時におまえの幸せを心から願っている」
魔女は儚げな微笑を浮かべて席を立った。


次の日城下は大騒ぎだった。
『ウィリアム皇太子』は優しく温厚で、めったに声を荒げることもないがやるべきことはしっかりとやる、非常に思慮深い王子として民衆の間にかなりの人気がある。
ガラスの靴の話は瞬く間に伝わり、街中の女が使者の来訪を待ちかまえた。
やがて次々と上がる悔しさいっぱいの悲鳴。
ウィリアムは城の自室で椅子にもたれながら穏やかな時を過ごしていた。

そして――

街が落ち着きを取り戻した頃、ガラスの靴を抱えて東奔西走した使者もようやく城へと戻ってきた。

一人の女性を連れて。

「王子様、この方こそあなた様が探しておられた御方!見事ガラスの靴をはくことができた女性、シンデレラ嬢でございます!」

ウィリアムは耳を疑った。
今なんと言ったのか。
ガラスの靴は、誰にもはくことができない、はず、である。
だが女は確かにそこにいた。
使者に出した部下の影に隠れるようにして立ち、時々そっと顔を出して不安げにこちらを見る。
ウィリアムは目を疑った。
今はっきりと見えた、その、女は。

まず、髪。
金か茶か判断に困る。日の光の下でようやくかろうじて金髪だとわかる、まるで金茶の猫が濡れそぼったような色が、腰の辺りまで続いている。
次に、肌。
白くはないが黒くもない。何色というよりも薄汚れた様子。肌色にうっすら泥を塗ったような、まさに豚が泥遊びしたような色。
続いて目。
今にも雨が降り出しそうな曇り空、一面に広がる不穏な雲の色……だと思うのだが、細すぎて断言しづらい。
さらに鼻。
見事な団子っ鼻。
そして口。
立派なたらこ型。

「あの……は、初めまして。ウィリアム王子様……。シンデレラと申します。お会いできて……光栄というのもおこがましいですよね。……あの、……夢のようです」

性格。
どうやら大人しくて控えめで気弱な感じ。

言葉にしたときは想像もできなかった存在が今目の前に実在している。
ウィリアムは現実を疑った。
思わず自分の頬をつねる。
痛い。
女は消えていない。
痛い。
夢ではない。

ウィリアムは頬をつねりながら思い返していた。

『忠告を聞く気はないということか』
『お気持ちだけはいただいておきます』
『……そうか、気持ちだけ……な。わかった。……では、これを持っていくといい』

ガラスの靴を渡されたとき、魔女は何と言っていた?
あのにやにや笑いは。一瞬の、虚を突かれたような表情は。

『私の願いは叶えていただけるのでしょうか』

魔女は頷いたか?叶えると、そう答えたか――?

『おまえの幸せを心から願っている』

ウィリアムは、全身の筋肉に渇を入れて、とりあえず、微笑んだ。
「……あいにく夢ではないようですよ。初めましてシンデレラ嬢。いえ、シンデレラと、呼ばせていただきましょう」
笑顔がぎこちなく強ばってしまうのはどうしようもなかったが。
なんだかいつもと少し違う王子の様子に不思議そうにする使者の横で、シンデレラは顔を真っ赤にして下を向いた。
「は、……はいっ!どうぞご自由にお呼びください!あの……よろしくお願いします!」
「……こちらこそよろしくお願いいたします」
ウィリアムは今度こそ誰が見ても文句の付けようがない笑顔を作ることに成功した。


王は手に汗を握った。
息子が妙な靴を持ち出して妙なことを言い、妙な女を連れてきたのが昨夜。
もはや相手は誰でもいい。とにかく名前を挙げさせることが先決だ。……とは思っていたものの、皇太子妃の座につけるにはあまりに不似合いな女だったので、なんとか理由を付けて追い出してやらねばと考えていた。
そこで早速女の部屋を訪れてみたのだが、ノックをしても返事がない。
こほんと一つ咳をして失礼、と扉を開けてみたらば、誰もいない。
王は首を傾げ、天気がいいのに気が付いて、久しぶりに庭園を散歩してみることにした。
整えられた緑と果てのない青の鮮やかなコントラスト。
噴水の水が日の光を反射してキラキラと輝いている。
そこで、妙なものを見た。
「……あー、そなた、何をしておる?」
そこにいるのは確かに息子が自分の妻にするとして連れてきた女だ。
名を、シンデレラと言った。
シンデレラは庭の隅にしゃがみこんで黙々と草をむしっていた。
「おはようございます王様。草むしりをしております」
たらこのような唇からそのままの答が返ってくる。
「そうではない。何故そのようなことをしておるのかと聞いておる」
「あ、申し訳ありません。草むしりをするよう申しつけられましたので、草むしりをしております」
シンデレラは深々と頭を下げた。
か細い声は少しの疑問をも含んではいない。
対して王は疑問だらけだった。
側仕えは一体何をしているのか、女の着ている服はぼろぼろ、髪もぼさぼさで、見るからにみすぼらしい。
彼女がすべきことは草むしりではない。その容姿を磨く努力と、礼儀作法その他諸々の勉強である。
良い方向に目をひくものなど何一つとして持ち合わせていないこの女をただの貴婦人ではなく皇太子妃にまで仕立て上げるにはいくら時間があっても足りないだろうに、薄汚れた手は再び草をむしろうとしている。
「そなたはウィリアムの婚約者にと連れてこられたのだ。それは庭師の仕事ぞ!誰が申しつけた!」
王は声を張り上げた。
「……あ、あの、私……確かにあの靴をはくことはできました。ですが、王子様の婚約者になれるなどとは考えておりません。……私は見ての通り、器量の悪い女です。王子様の隣りに並ぶにはふさわしくないと承知しております。身寄りもございませんので、……こうしてお城で使っていただけるだけで幸せなんです。お気になさらないでください。……あの、ありがとうございました」
シンデレラは控えめながらもはっきりと告げた。
うつむきがちにもじもじと、それでも要所要所で目を合わせる。そこには伝えようとする意志と、しっかりとした決意がある。
王は何も言うことができなくなってしまった。
シンデレラの言う通り、ウィリアムの婚約者としては見栄えが悪い。
それだけではない。
気性が人の上に立つのに向いていない。皇太子妃の名の重みだけでつぶれてしまいそうな女だ。
しかし、しかし、
しかしである。
「シンデレラ!そのようなことを言うでない!そなたは確かにウィリアムに望まれてここにおるのだ!堂々としておれ!」
見ているとどうしてもむずむずしてくる。背筋をしゃんと伸ばしてやりたいような、そんな衝動に襲われる。
「そなたにはウィリアムに選ばれた誇りはないのか?あれをいとうか」
「と、とんでもございません!……ウィリアム様は素敵な方です。……お慕いするのも畏れ多いほど雲の上の御方なのです。私は……望まれたのではなくて……ただ、偶然の巡り合わせだったのだと思います。分不相応な幸せを手に入れようなどとは思いません」
王はもどかしくて歯がゆくてどうにもならなくなってきた。
「でも……王様に力づけていただくなんて、とても素敵な経験をしました。私は十分、幸せすぎるほど幸せです!」
シンデレラの力無い笑顔が無性に腹立たしい。
「……そなたに草むしりを申しつけたのは誰か!」
拒否を許さぬ声で怒鳴れば、シンデレラはそっと微笑み、ゆっくりと首を横に振った。
「……いけません。王様、その方をどうされるおつもりですか?私はこのお城で、頑張って働きたいと思っています。その方は何も悪いことなどしておられません」
儚げでなお力強い、優しく諭すような微笑みに、王は……
「シンデレラーっ!案ずることはない!わしが!絶対に!そなたをウィリアムの妻にしてみせる!」

落ちた。

号泣し、ずびずびと鼻をすすりながら息子の部屋にダッシュする。
その頭からはシンデレラを追い出そうとしていたことなどすっかり抜け落ちていた。

かくして王子ウィリアムの部屋。
勢いよく扉を破って転がってきた父親を見事にキャッチしたウィリアムは、その第一声を聞いて困ったように微笑んだ。
「……『明日にも式を挙げろ』とは、いくらなんでも無茶な話です。まだ何の準備もできていないのですよ?どれだけの者が悲鳴を上げるか」
「誰が命じたか、シンデレラは草むしりなどさせられておるのだぞっ!」
涙と鼻水びっちょりの顔で迫られ、思わず眉をひそめる。ウィリアムは布巾を放り投げて数歩後ずさった。
「……それは、可哀想だとは思いますが、どうしようもないことです。考えてもみてください。シンデレラは異例の選ばれ方をした平民です。民衆は喜ぶかもしれません。しかし貴族は……?城内の者は?シンデレラが大きな反発に出会うことは当然予想されます。ですが、それは彼女自身が乗り越えていくしかありません……。私や父上が何かしても逆効果ではないでしょうか」
「あれはおまえが連れてきたのだぞっ?草むしりなどさせられておってはそれこそ逆効果ではないか!……わしとて、すぐに式ができるとは思っておらん。そのくらいの態度を示せというのだ!……おまえの妻ぞ。おまえが守らずして何とするっ?」
王は大きく床を鳴らした。
本人は分不相応がどうとか言っていたが、シンデレラを選んだのがウィリアム自身であることは紛れもない事実だ。それも随分と奇妙な選び方だった。あんな方法をとったのもシンデレラこそを妻に迎えたかったからではないのか。なのに城に招き入れた途端その手を離すとは、あまりに薄情というものだ。
一つ、息を吐く。
「……ウィリアム、おまえに非の打ち所のない貴婦人を宛うのはそれほど困難なことではない。だが皇太子妃となる者に最も必要なのは整った容姿や洗練されたしぐさ、卓越した知識などというものではない。……参加に制限のない舞踏会を開こうとしたのもそのためだ。おまえがシンデレラを選んだのは……望ましいことといえる。先行きが不安だという点では……わしにとっては頭の痛いことだが……おまえ自身が求めたというのは何よりも望ましいことではあるのだ。だが……『皇太子妃』として選ぶということがどういうことかわからなかったわけではあるまい?それでもあれを選んだというのなら、おまえが育て上げてやれ」
ウィリアムは重々しくうつむいた。
「……手取り足取りというわけにはいかないでしょう。突き落とすのも教育のうちですよ。……そこからのしあがれないのであれば私の妻にはなれません」
王は息子を罵ってやりたかった。
シンデレラの指は泥と草と血の色に染まっていた。
あれは下働きの手だ。
選ばれた身であるにもかかわらずあれほど気弱な発言を見せるのも、ウィリアムに責があるのではないか。
しかし、罵声は音になる前にかき消えた。
「……そう、だな。あれは『皇太子妃』としてここに来た。それは正しいことなのかもしれん。誤っているとは、言いきれんな。……ウィリアム、おまえは……いや……、いい」
ウィリアムが片眉を上げるのに、王は眉間にしわを刻んで視線をそらす。
「……わしはあれが気に入った。他も、すぐ気に入る」
「……ええ、父上が心配されるようなことは何もありませんよ」
ウィリアムは目を閉じて笑った。

その頃シンデレラは王と入れ替わりでやってきた王妃と向かい合っていた。
「率直に言いましょう。出てお行きなさい。あなたはあの子にふさわしくありません」
多くの民が額を土に付けて控えるであろう威圧感。虫けらを見るような目で王妃が言う。
「城に置くのも汚らわしい。あなたはここに何をしに来たのです。王家の名を汚しに来たのですか」
シンデレラは震えていた。
「……下賤の身であることは、……承知しております。もとより王子様と結ばれるなどとは思っておりません。あの……でも、私……この城で下働きとして働くことは、許していただきたいのです。行くところが……ありませんし、お城で働くことは……、夢のまた夢のようなことですから……」
か細い声は消えそうにかすれ、今にも嗚咽をもらしそうだ。
王妃は鼻で笑った。
「哀れと思わせて居座る魂胆ですか。小賢しい知恵を働かせて。この城にあなたを置く場所などないと言ったでしょう」
「で、ですが……っ、出て行けとおっしゃったのは王妃様だけです……っ」
生意気にもはむかってくる様子に柳眉をすっとつり上げる。
「今、私に口答えをしましたか?愚かな。ウィリアムも、あの人も、城の者たちも、口に出さないだけで皆あなたを疎ましく思っていますよ。見苦しいぼろ雑巾のような女が皇太子妃と呼ばれるのを微笑ましく見る者がおりますか」
「私は……っ……本当に、お城で働かせていただくことだけが望みなんです!ガラスの靴をはくことができて、夢見るような気持ちでここまで来てしまいましたけど、私のような女が王子様と結婚なんてできるはずないってこと、考えなくてもわかることです。……ですから、どうか、ここで働かせてください!」
シンデレラの顔が今度こそ泣きそうに歪んだ。
開いているのか閉じているのかわからない目をいっそう細くしている。
たわいない小娘。
あともう少しつついただけで容易く崩れ落ちそうな、皇太子妃にふさわしいところなどまるで見当たらない娘。
ウィリアムがどうしてこの娘を選んだのかまったく理解できない。
子どもが過ちに気づかぬときは、正してやるが親の役。
「……そう、ならばどのようなことでも耐えられますね?あなたはここに働きにきているのだから」
王妃は艶やかに微笑んだ。
「も、もちろんです」
返された答にますます笑みを深くする。
「いいでしょう。存分にここで働きなさい。雑巾が雑巾として動くのであれば誰も気にとめはしないでしょうから。用途にあった使い方をしてあげます。城中の床でもお拭きなさいな」
散々にこき使ってやればすぐにも根をあげて逃げ出すだろうと、早速シンデレラに仕事を与えた。


しかしシンデレラはよく働き、不満をもらすこともなく、下の者から次第に上の者へと、城一番の働き者として誰もに認められていった。

「そろそろ公な動きを見せてもよいのではないか」
「……まだですよ。シンデレラは下働きとして認められただけですから。皇太子妃として認められたわけではありません」
王の顔はほころび、ウィリアムは苦笑して首を振る。
「シンデレラ、あなたの磨いた床は見苦しくてなりません。やり直しなさいな」
王妃はシンデレラの仕事に次々とケチを付けていく。
城に仕える者たちの間ではこんな会話が飛び交うようになった。
「シンデレラって実は皇太子妃候補なんだろ?」
「はぁ?」
「ガラスの靴だよ!あれで選ばれたのがあの子なんだって」
「ありゃデマだろう。皇太子妃候補がなんで下働きするんだい」
「デマじゃないさ!私の娘も試したんだ。あの子が来た時期も合うし、本当に候補なんだと思うけどね。ほら、王妃様はあの子にだけひどく当たるだろ?何か理由があって下働きしてるけど、いずれはあの子がウィリアム様のお隣りに並ぶんだよきっと」
「だーからなんで下働きしてんのさ」
「知るもんかい、本人に聞きゃあいいだろ」
「シンデレラー、あんたちょっと聞きたいことがあるんだけどさーっ」
シンデレラは何も言わず、ただ働いていた。


偶然その場に通りかかって、ウィリアムは踵を返すべきか否か数秒迷ってしまった。
やっと足を動かそうとしたところでちょうど雑巾を絞り終えたシンデレラと目が合った。
どんな顔をされるのかと思えば、シンデレラは立ち上がり、スカートの端を摘んでお辞儀をした。
そしてまた何事もなかったかのように仕事に戻る。
雑巾をつかむ指は赤い。拭いた端から掃いていくスカートの裾は擦りきれ、黒ずんでいる。
正面から顔を合わせたのは初めて出会ったあの日以来数十日ぶりのことだったが、彼女の視線はひたすら床に注がれていた。
ウィリアムにはシンデレラがまったく理解できなかった。
恨みがましい目で見るか、涙の一つでもこぼしてみせるのかと思っていたのに。
女が何を考えてここにとどまっているのか、知っておく必要があると思った。
「……シンデレラ、あなたは人を、私を恨むということをしないのですか?あなたは皇太子妃として連れてこられたのに……そうして毎日床を磨いてばかりいる。話が違うと憤ることはないのですか」
シンデレラは細い目を見開いて不思議そうな顔をした。
「あ……すみません。声をかけてくださるなんて思わなかったので……。あ、あの……恨むなんて、とんでもないことです。私は私にふさわしい幸せをつかむことができたと思っておりますし……最初から、わかっていました。一瞬でも夢を見ることができてとても嬉しかった……。それで十分ですから」
たらこのような唇から奏でられる声は可憐で、紡がれた言葉は……大人しくて控えめで、気弱な感じがする。
笑っているのか違うのか、ますます目を細くした。
ウィリアムは心底不愉快な気持ちになった。
あれから何度も例の洞窟を訪ねたが、いつ行っても魔女に会うことはできなかった。
夜逃げ、と見なしてもいいであろう。
自分が投げた言葉そのままの女を残してとんずらしてしまった。
一体どういうつもりなのか。これが客の幸せを望んだ結果だとでもいうのだろうか。
これを相手に恋をしろと?
今頃は魔法で高見の見物でもしているのかもしれない。
それこそ『退屈しのぎ』に。
「……私の妻になるつもりがないというのなら、あなたは何故ここにいるのですか?」
ウィリアムはわずかに首を傾け、唇で弧を描いて尋ねた。
シンデレラの頬が紅潮する。
「あ……の……、おそばに……仕えさせていただくことくらいは……許されるかと思ったのです」
ウィリアムは静かにまぶたを伏せた。
音もなく息を吐き出し、にっこりと満面の笑みを浮かべる。
「そうですか。お仕事『ご苦労様』です。あなたはとても働き者だと評判になっていますよ。頑張ってくださいね」
そのまま踵を返そうとすると、シンデレラが慌ててお辞儀をした。
ぼろぼろのスカートを摘む荒れた指先。空間にほこりを散布するぼさぼさの髪。それでも物腰さえ優雅ならばなんとか見られるのかもしれないが、見よう見まねで覚えたらしいお辞儀はひどく不格好で、雑巾が物乞いをしているようにしか見えなかった。
「私のことなどを気にかけてくださって、ありがとうございます……っ」
折りたたまれたぼろ布は勢いよく顔を上げるとたらこ唇を大きく開いてそう言った。
ウィリアムはマントを翻し、ちらりとも振り返らなかった。

報われずとも想い続けたいというのは常套句の一つだ。
見ているだけでいい。そばにいるだけでいい。多くは望まない。
ならば胸の奥深くに封じこめていればいいものを、自らを謙虚だと思っている女に限ってわざわざ宣言してくる。その言葉一つがどれほど不快なものか、これっぽっちも気が付かない。
煩わしい。
こうして何気なく歩いている間に時が加速してくれたらいい。あらゆる雑事を飛び越えて終末までの日数をあくびしながら数えるような、春の夢のような暮らしがしたい。
そう思った端から厄介事が訪れる。

「ウィリアム!」
先刻シンデレラが磨いたばかりの床に高い踵の音が響いた。
「はい、なんでしょう母上」
「あなた、舞踏会を開く気はないかしら。中止してしまったものの代わりに」
王妃はさも妙案といったように指を立てた。
一瞬で言葉の裏を読み取り、ウィリアムは内心で顔をしかめる。
母はシンデレラが気に入らないのだ。
シンデレラにきつく当たる母の様子は下の者たちの間でこっそりと噂されていた。父はその手のことに疎いので気づくまでにかなりの時間を要するが、自分の耳にはすでに届いている。
ようするに、選び直せということだ。
「しかし母上、今開いてしまっては誤解されましょう。私にはすでにシンデレラがおります」
そっと苦笑してみせれば、王妃はあからさまに不機嫌な口調になった。
「あれは下働きです。本人も納得済みのこと。あの人は何を思ってか妙にあれを気に入っているようだけれど、皇太子妃にふさわしくないことなど、一目でわかるでしょう」
息子である自分だからこそ『険のある口調』だとわかるが、他の者にはせいぜい『迫力が増した』くらいにしか感じないだろう。
一片の隙もない笑顔。
こういうところは自分と似ているとウィリアムは思った。
王妃は笑顔を崩さないまま、語調だけを心持ち強くした。
「……あの人が……陛下が、どういうおつもりなのか私にはよくわかりません。どうしてあなたの相手を見つけてくださらないのか……。けれど、……ウィリアム、あなたは王子。王家の血の尊さはわかっていますね?端女に心惑わすなど、決して許されないこと。後世のためより良き血を残すことはあなたの義務です。ゆめゆめ忘れてはなりません」
「……重々承知しております。ですが、シンデレラはすでに選ばれたのです。彼女の名はガラスの靴の話と共に少しずつ広まりつつある。……彼女の今後を思うと……哀れです」
拒否を許さない絶対の響きに、ウィリアムはそっと視線を外す。
王妃は音を立てて嘆息した。
「……ウィリアム、あなたは優しい子。母の誇りです。けれどその優しさは誤りです。王子たるもの優しければいいというわけではないのですよ。もっと広い視野を持ちなさい。一時の憐憫がどのような結果をもたらすか、よく考えることです。常に立場をわきまえなさい。自覚が足りないのではありませんか」
「申し訳ありません……」
「謝罪と共に自身の価値が下がることを知りなさい。さらなる過ちを犯さないよう努めるのです。いつでも裁く立場にあるよう努力しなさい。……あなたにとって優しさは諸刃の剣。正しく行使する判断力が必要です。……今回は私が名を貸しましょう。舞踏会に訪れた娘たちから申し分のない貴婦人を数人見繕いますから、その中の一人を娶りなさい」
王妃はウィリアムの返事を待たずに再び踵を鳴らして去って行ってしまった。

いない。
ここにもいない。
どこを探してもいない。
必要としていないときはそこらに転がっているのに、いざ必要となればどうにもこうにも見つからない。探し物とはそういうものだ。
もっとも、今回は『探し人』だが。
ウィリアムは険しい目つきで辺りを見回した。
回避に成功したと思われた舞踏会の再来襲が決定してしまった。
母の目論見は読めている。
訪れた娘たちの中から見繕うなどと言っていたが、すでに気に入りの令嬢を用意してあるに違いない。婚約者選びの舞踏会とは名ばかり。ただの見合いの席だ。父を納得させるために名を借りただけにすぎない。出てしまえば最後、『非の打ち所のない貴婦人』とやらと無理やり婚約させられてしまうだろう。
しかし舞踏会を中止させることはできない。少なくとも後に問題のない方法は思いつかない。
となれば、もはや道は一つ。
シンデレラを誰もが認めるレディに磨き上げることだ。
容姿はどうにもならないかもしれないが、身のこなし、気品、気迫、知性、などなど、他の多くが抜きん出ていればなんとかカバーできる。幸いどれも訓練の効く要素ではある。性格は父が気に入るほどだし、皇太子妃としては問題であろう点も、立場に合った扱われ方をすれば次第に矯正されていくものだ。後は自分さえ他の娘たちに興味を示す素振りを見せなければいい。懸念される点は皇太子妃として扱われた彼女のその後だが、あの気の弱さならどうすることも容易いだろう。
しかし。
「……それは……、おめでとうございます。あの……選び直す、ということですよね?……今度こそ王子様にふさわしい方が見つかるとよろしいですね。……せっかくのお言葉ですが、私は舞踏会の席には似合いませんから……ドレスの仕立ても、ダンスの稽古も結構です」
ようやく見つけたシンデレラは消えそうな声でそんなことを言った。
「……あなたはいつもよく働いておられるから、こんなときくらいは思う存分楽しんでみてはいかがです?」
どれだけ優しく微笑みかけても、躊躇いがちにうつむくばかりで。
「あ……ありがとうございます。でも……いいんです。私の名は……知る人には知られておりますでしょう?そのような場に出てしまっては王子様にご迷惑がかかると思いますし、……私も、どうしたらいいのかわかりません。……私のことは気になさらないでください。……どうか、お願いです」
ぺこりと頭を下げて床の上の雑巾に手を伸ばす。
赤い指先が話を振り切る寸前に、ウィリアムはその手をすくいとった。
「……シンデレラ、私は『夢ではない』と言いましたね?あなたは選ばれたのです。この私の、婚約者なのですよ?大きな声では言えませんが……あなたに下女の真似をさせているのもやがては皇太子妃として迎えるため、周囲を納得させるためにやむなくしていることです。……そばに仕えるだけでいいなどと、あなたが口にする言葉ではないのですよ。……もっとも、こんなにも指を荒れさせて、こんなにも苦しい思いをさせてしまった私のことなど……とうに嫌いになってしまわれたかもしれませんが」
にっこりと笑みを浮かべ、仕上げに小さく眉をひそめる。寂しげな吐息をもらすことも忘れない。
シンデレラはますます下を向いたが、その耳朶は炎のように染まっていた。
「嫌いになるなんてっ……そんなこと……こうして王子様とお話しできるだけでも、……身に余る幸せだと思いますのに……。でも……私はガラスの靴をはいただけで……それに……皇太子妃だなんて……考えるだけで無理だってわかりますし……舞踏会はとても素敵だけど……素敵ってだけでは、参加しちゃいけないと思ったり……」
床を見つめたまましどろもどろにつぶやく。ひどく混乱しているが、矢印の方向は決まっているようだ。
「私はっ……今のままでっ、幸せで……っ……だから、声をかけていただいて、とても嬉しいんですけど、でも……っ」
らちがあかない。
あるいはもう一押しすればなんとかなるのかもしれなかったが、それはそれで面倒なことになりそうだった。
ウィリアムはひとまず他人の手を借りてみることにした。

王様登場。
「シンデレラ、舞踏会に出るのだ。今度の舞踏会はそなたのお披露目なのだぞ。主役が出ずになんとする?」
王はシンデレラの両手を握りしめ、目と目を合わせて訴えかけた。
「えぇっ?そんな……でも……」
「何を躊躇うことがある。衣装は用意する。ダンスもマナーも最高の教官をつけよう。心配することなど何もない」
シンデレラは小さくなって瞳をそらす。
「でも……私、王子様の婚約者として見られてしまうのでしょう?きっと……みなさんにひどいご迷惑をおかけします。それなのに……」
いかにもな言葉だったが、王は、ん、と顔をしかめた。
婚約者として見られてしまうも何も、婚約者として城にいるのではないか。
下働きをしているうちに忘れてしまったのか。いや、以前から自分の立場を認識していないような感じではあった。草むしりなどさせられていたから実感が持てないのだろうと思っていたが……。だが思えばシンデレラはあれから毎日床を磨くばかりだったのだ。未だに実感が持てずにいるのも頷ける。
ならば持たせてやらねばなるまい。
いくら自分がシンデレラを気に入っていても、本人にそのつもりがないのではどうしようもないのだから。
「そなた、やがてつく立場を恐れるなら何故ここに来た。幸福を求めたからではないのか?ウィリアムを好いておらんわけではないのだろう?何故」
「だって!……私は……王子様にふさわしくありません」
言葉を遮って何を言うのかと思えば、泣きそうな声でつぶやかれ、王は怒りに顔を赤くした。
「何を言うか!そなた、悪いのは器量ではなくその性根ぞ!……先の心配より今の努力をするがいいっ!そなたは消極的に過ぎる。過ぎてはもはや美徳ではない!」
今回の舞踏会は今までずっと下働きとして扱われていたシンデレラがウィリアムの婚約者たる地位を確保する絶好のチャンスなのだ。
それをふさわしくないだのなんだのと……確かに自分も最初は彼女を追い出そうとした。シンデレラが皇太子妃としてやっていけるとはとても思えなかった。
しかしシンデレラにはシンデレラの良さがある。
ほだされた、のは確かだが、それだけで肩を持っているわけでもない。
あれだけ縁談を無下にしていたウィリアムが唯一、自分から選んだ女性が彼女なのだ。
それはある意味で皇太子妃の絶対条件だともいえる。
「……そなたを責めたかったわけではない。……わしはそなたを気に入っておる。だが、もう少し……積極的になるのだ。自信を持つがいい」
王は自ら幸せと遠いところにあろうとするシンデレラを光の下まで導いてやりたかった。それが息子の幸せにも繋がるのならなおさらのこと。
シンデレラは困惑した様子で唇をうっすら開いたり閉じたりしていたが、やがて深くうつむくと、こくりと頷いて顔を上げた。
「……王様……。はい。……はいっ!ありがとうございます。……私、頑張ります!」
長い雨の後ようやく日の光を得た花のように笑う。
王は目を細くした。
初めて見る全開の笑顔は寂しげに歪んだ表情よりずっと似合っていた。糸目も団子っ鼻もたらこ唇もどれもみな可愛い。
娘がいたらこんな感じだろうか。
そんなことを考え、舞踏会が成功すればやがては紛れもない娘になるのだと気が付いて、思わず苦笑した。
そうだ、息子の妻ということは、自分の娘でもあるわけだ。
今の今まで気づかなかった。
「……ああ、頑張れ。……おまえのために、いくらでも力になろう。……『皇太子妃』のことはひとまず忘れよ。何よりウィリアムのことを考えておればよい」
ついつい頬が緩む。
少々くすぐったかったが、悪くはなかった。

「早速ドレスを仕立てさせよう。……おいで。すでに仕立屋を呼んでおる」
シンデレラの手を引いて回廊を進む。しばらくすると、前方に二人の息子の姿が見えた。
ちょうどいいタイミングである。
シンデレラをウィリアムに任せようと、声をかけようとしたらば。

「なんで僕を怒るのさ!悪いのは大臣だろっ!ぐちぐちぐちぐち、嫌味ったらしくて、僕が何をしたってわけでもないのにさ!」

幼い声が激しく響いた。
何やらもめているようだ。
王は眉間に小さなしわを寄せた。
第二王子のロイドはまだ九歳。年の離れた兄弟が理解し合うのは難しいのか、こういった光景を頻繁に目にする。
といっても、
「……確かに大臣にも問題はあるが、ロイド、おまえの口は悪すぎるんだ。……大臣はあれでも心配しているのだから、もう少し柔らかい受け止め方を……」
「心配される覚えなんてないね!」
弟の方が反抗期なだけなのかもしれなかった。
自分が出て黙らせるのは簡単だが、それでは収めたことにはならないだろう。
シンデレラと頷き合い、会話が収束するのを待つ。
「兄様が大臣の味方をするのはその方が角が立たないからだよね!僕みたいな子どもの味方をしても何にもならないから、だからだろ!したり顔で説教するな!」
「そんなことは……」
「だいたいさぁ、心配されるなら兄様の方じゃないの?何さ、あれ。あの女。シンデレラ、だっけ?」
王の眉がぴくりと動いた。
「あんな汚い下女のどこがいいわけ?この前偶然出くわしたら、ただ会釈するだけで気の利いた挨拶も何もない。あんなおどおどした皇太子妃見たことないよ?」
辛辣な言葉は続く。
「知らなかったよ。兄様って趣味悪かったんだね!本気であの女と結婚するつもり?僕は嫌だね。あんなのを義姉様って呼ぶはめになるなんてぞっとする!兄様が信じられないよ」
大人しく聞いていたウィリアムは、ロイドの頭にぽんぽんと手を置いて疲れたように苦笑した。

「……私は結婚しないよ。シンデレラは手違いだ。私の趣味でも何でもない」

静けさが回廊を行き渡る。
ロイドは言葉をなくしていた。
王も思わず目を見開いて立ちつくす。
シンデレラはウィリアム自身が選んだのだ。ある日突然奇妙な靴を持ち出してどこからか連れてきた。それは紛れもない事実。
自分で選んだのだから、当然結婚するつもりのはずだ。
現に舞踏会の話を持ってきたのはウィリアムだったではないか。
シンデレラを公にさらすためにと。
王ははっとして背後を振り返った。
そこには誰もいなかった。
せっかく初めて明るい顔を見せたというのに、ショックで駆け出してしまったのだろうか。どんなに傷ついて……
そう思ったとき、視界の反対側からシンデレラの声がした。
すなわち、ウィリアムとロイドのいる方向。

「では王子様のご趣味は気の利いた挨拶ができておどおどしない女性ですか?」

めったに見られないウィリアムの呆然とした顔。
つま先立ちでそれを見上げるシンデレラ。
その態度はあっけらかんとしていて、怒りも悲しみも感じられない。表情にはむしろ面白がっているような色がある。
ウィリアムは暫時固まっていたが、一度ゆっくりと瞬きすると、小さなため息をついた。
「……ええ。本当は、あなたとは正反対な。……明るくて……積極的で、強気で。……遠慮など知らないような、そんな女性が理想なんです。ですがそれはあくまで」
「わかりました!明るくて積極的で強気で遠慮なんか知らない女ですね!」
シンデレラは頷いてにこやかに笑った。
またしても行き渡る静けさの中を、気にもとめずに歩いていく。
立ちつくす三人をすり抜け、元いたところまで戻ると、
「王様、私明日から明るくて積極的になりますね。自信も持ちます!」
妙に弾んだ声でそう言った。


そして翌日。
礼儀作法のレッスンを受ける未来の娘のもとへと訪れた王を、

「あっ、王様だ!心配してきてくれたんですかー?わーい!ありがとっ!王様優しいから大好きー!でも心配いりませんって!こんなのちょろいちょろーい。まっかせてちょ!」

なんだかすっかり変わり果ててしまったシンデレラが出迎えた。

「シ、シンデレラ……?おまえ……」
「え?なになに?あっ、わかった。みんなと同じこと言うんでしょ!王様だって王子様だって積極的になれっておっしゃったじゃないですかー。王様はプラス自信を持て。王子様はプラス明るくて強気で遠慮なんか知りませーん。というわけで、なってみましたー!じゃんじゃんっ」
「……なって、みました……とは……。じゃんじゃん?」
「もしかして今さら冗談でしたとか言いませんよねー?王様ひどい……っ、私をもてあそんだのね!ひどいひどいひっどーい!ひどすぎーる!」
「……い、いや……」
一国の王さえもたじろがせるこの勢い。
昨日までのシンデレラはどこへいったのか、別人としかいいようがない。
脂汗をかきまくる王を見て、シンデレラはうつむき、小さな声で囁いた。
「王様は……今日からの私は嫌いなんですか……?」
以前の面影をほんの少しだけ宿した言葉に、昨日の出来事を思い返し、王は……
「馬鹿なことを言うでない!嫌いなどであるものか!わしはおまえを娘のように思っておる!ウィリアムがあのようなことをほざきおって、やはりショックだったのだな、そうなのだなっ」

落ちた。

号泣し、ずびずびと鼻をすすりながら息子の部屋にダッシュする。
その頭にはシンデレラの力になってやりたいという思いしかなかった。

かくして王子ウィリアムの部屋。
勢いよく扉を破って転がってきた父親を見事に避けたウィリアムは、その第一声を聞いて大きなため息をついた。
「……『シンデレラが壊れた』?どういうことですか?よく意味がわかりませんが……」
「ひっどーい王様。壊れてませんよー!ちょーっと変わっただけですっ!ポンコツみたいに言われてなんか嫌ー!」
落ちる沈黙。
「いつ入ってきたのですか……っ」
ウィリアムはいつのまにか王の隣りにしゃがみこんでいたシンデレラを、信じられないものを見る目で見つめた。
「王子様がため息ついてる間にささーっとお邪魔しちゃいました!王様また急に走り出すから、今度はついていっちゃおーっと思ったの!王子様、こんちは♪」
ますます目を見開く。
信じられない。

誰だ、これは。

(見よ、壊れておるではないか)
王が送ってきたアイコンタクトにかくかくと顎を動かす。
まさか。
昨日の一言が原因でこんなことになってしまったというのだろうか。

何故?

ウィリアムは驚きがすーっと冷めてくのを感じた。
一つ、ため息をつく。
「なるほど。……父上、申し訳ないのですが、……シンデレラと二人で話をさせていただきたいのです」
「うむ、よぉーっく話し合うのだぞ」
王は神妙に頷いて部屋を後にした。

ウィリアムは窓辺に腰掛け、外の景色を一望した。
今日も鬱陶しいほど天気がいい。
街の様子はもちろん遠くの森まではっきりと見渡せる。
あの緑を越えたところには土に埋まりかけた小さな洞窟があるが、今行っても誰もいないのだろう。
思えば魔女などという存在をあてにしたのがそもそもの間違いだったのだ。
「……周到なことだ。すべては演技だったというわけですか。……シンデレラ、あなたはそこまでして私の妻になりたいのですか?」
「はい!内向的な方が王子様の好みにマッチしてるかなーと思ったんですけど、全然違ってたみたいで。せっかく板についてきたところだったのにちょーっと残念かな?でもイライラすることも多かったからいっかー。ちなみに演技じゃなくて、努力と言ってね!未来の旦那様♪」
シンデレラは悪びれもせずに笑っている。
ウィリアムは底冷えのする眼差しを向けた。
「……名か、財か、何が目的かは知りませんが、私があなたになびくことはありませんよ。早々に諦めていただけませんか」
シンデレラはまったく怯まず、両手の指を組み合わせて口元に当てた。可愛いつもりか、首を傾けてウィンクなどしてみせる。
「きゃあ素敵♪一筋縄ではいかないって感じで俄然盛り上がっちゃいます♪」
ウィリアムは怒りを感じる前に脱力した。
これまで何人もの女をことごとく払いのけてきたが、さすがにこういうタイプは初めてだった。
いくらなんでも、あからさますぎるだろう。
「……好いてもいない男のもとによく嫁ぐ気になれますね」
存分に侮蔑をこめて言えば、シンデレラは楽しそうに口角を上げた。
「あれ?あれれ?やだなぁー、王子様ってば。私はこーんなに愛してますのに!」
呆れて何も言う気がしない。
「……いやいや、ホントですって。ホントホント。王子様ー大好きですー」
よくもこれだけ見え透いた嘘がつけるものだと、いっそ感心する思いで嘆息する。
わかりやすかろうがにくかろうが、不愉快なものには変わりがないが。
「……どうでもいいですが、言いましたね?私がなびくことはありません。あなたがここに居座っても……時間が無駄に過ぎていくだけ。城を出ていただきましょう」
シンデレラは小さく吹き出した。
「や・だ。言いましたねー?俄然盛り上がっちゃうんです。お城で働くのはとーっても楽しいし。王子様は愛しちゃってるけど王様もかーなーり好きだし。王妃様から逃げ出したくないし。そ・れ・に。忘れたんですか?王子様。私なしで舞踏会をどうやって乗り切るんです?さぁ、よーっく考えよう!大勢の女の子対私一人。相手にするのはどっちが楽でしょうっ?」
ウィリアムは歯がみするしかなかった。
昨日は気弱な薄ら笑いを作っていた糸目が今日は底意地悪い企み顔を構成する。
誰だ、これを覚醒させたのは。
頭痛がする。
違うのだ。昨日はあまりに『大人しくて控えめで気弱』な様子が腹立たしかったので少々当てつけのつもりで言うだけ言った。もちろんすぐにフォローを入れるつもりで。実際はその前に遮られてしまったが、まさかこんな結果になるとは思いもしなかったのだ。
こんなことなら……どんな魂胆が秘められていようと『大人しくて控えめで気弱』なままの方がよかった。
「それじゃ早速礼儀作法のレッスン受けてきまーっす♪」
勝ち誇った顔で笑うシンデレラが心底いとわしかった。


ロイドは床を蹴りつけて進んでいた。
大臣や兄に見られたらまた説教を食らうだろうが、だからといって正す気にもなれない。
頬を膨らませ、唇を尖らせて前方をにらみつける。
そこには鼻歌を歌いながら床を磨くシンデレラがいた。
シンデレラを見かけるとき、彼女はたいてい床を磨いている。
使用人は一人ではない。城の床にほこりがたまることなどないのに、やり直しを命じられたからといってピカピカの床を何時間もかけてさらにピカピカにしているのだ。
馬鹿じゃないのか、と思う。
相手が王妃だろうと、理不尽なことを言われたら言い返してやればいい。
良い子ぶって大人しく言いなりになって……内心で恨み言をつぶやいていないわけはないのに、外面ばかり取り繕ってどうするというのだろう。
「おい」
声をかければすぐに顔を上げ、慌てて立ち上がってまた下手な礼をする。
気の利いた挨拶も何もない……と思えば。
「ごきげんようロイド様!今日もとーってもいいお天気ですよね!こんな日は庭園のお散歩とかしちゃいたいですね!王様も前にしておられましたよ♪」
ロイドは目を丸くした。
この女はこんなに活発な話し方をしていただろうか。こんなに明るく笑いかけたか?
会話を交わしたことはなかった。だからよくわからないが、先刻父が『シンデレラが壊れた』と叫んで殴りこんできた理由だけはよくわかった。
躊躇いつつ口を開く。
「……父様が、おまえに謝れってしつこいから……来てやった。……昨日は悪かったね!間違ったことは言ってないけどね!……ふん」
シンデレラは大声を上げた。
「きゃーっ!ロイド様ってば可愛いー!素直じゃないー!小生意気ーっ!最っ高っ!はいはい、怒ってないでちゅよー安心してくだちゃいねー♪」
「な……っ、おまえ僕にケンカ売ってるのっ?下働きの分際で、こんな無礼な女見たことないよ!」
怒りを露わに怒鳴りつけても、
「違うでしょーロイド様、下働きじゃなくて義・姉・サ・マ!」
と頭をなでられる。
屈辱に血が上った。
「僕は認めないよ!おまえみたいな女が兄様と結婚なんてっ」
頭を下げることしか知らない気弱な女も嫌だが、人を小馬鹿にしてはばからない無礼な女も嫌だ。
そもそもその激変に納得がいかない。
いくら変わろうと努めたからといって、一日やそこらでこうも人格が変化するものだろうか。
明らかにおかしい。
こんな女のどこがいいのか。
昨日あれから父につめよられた兄は「もちろんシンデレラを娶るつもりではありますが、彼女に対する評価が不安定なこの時期に廊下でそう公言するのもどうかと思い……まさか本人が聞いているとは思わず、とっさにああ言ってしまったのです」とか、「彼女なら舞踏会当日には誰もに皇太子妃として認められているに違いないのですから、……私が気にしすぎていたために……ひどいことをしてしまいました。……すぐに詫びて参ります」とか言っていたが、自分には『とっさの一言』の方がよっぽど納得できた。むしろあれこそが本音だったのではないだろうか。
そうでなければだまされているのだ。
「あらあら、ロイド様はお兄様が大好きなんでちゅねー」
シンデレラは微笑ましいとでも言いたげな顔で笑っている。
ロイドは思う様ねめつけた。
「違う!嫌いだあんな奴っ!」
薄汚れたスカートをひっつかんでその腹に拳を打つ。
「あんな……」
いつも優しくて、どれだけ挑発しても手を上げるどころか怒鳴ることさえなくて、およそ欠点というものが見当たらない。
「……その辺にうろついてる奴を数人捕まえて兄様について聞いてみなよ。そろって同じことを言うよ。優しいだとか温厚だとか……それでいて優柔不断なわけでもない。やるときはやるしっかり者?みんなさ、みんなそう言う。おまえもそう思ってるんだろ?気持ち悪いったらないね!」
みんなに信頼されて、誰からも非難されることがない。
「あんな外面のいい奴大っ嫌いだ!……おまえもそうさ!母様に何度も床を磨かされて、嫌じゃないわけないだろっ!どうして嫌って言わないのさ!良い子ぶって我慢なんてしちゃって、不幸面してればいつか幸せが訪れるとか、おめでたいことでも考えてるわけ?頭の弱い女っ!」
女につかみかかることもなければ、ひどい言葉を浴びせることもなく。
「おまえのことを気に入る人間なんて、……所詮上辺だけだっ!」
苛立ちを他人にぶつけることさえない、完璧な兄。
「……泣けば?泣けよ!腹が立ったのなら怒鳴ればっ?」
ロイドは手の中の布を握りしめて顔を見上げた。
シンデレラは柔らかく微笑んでいた。
「……何笑ってんの」
傷ついていないわけはないのに。
自分にだって、それくらいわかるのに。
傷つけてやるつもりで叫んだのに。
「ロイド様の方が泣きそうな顔です」
言われて頬が熱を持った。
「……そんなわけ、……ないっ」
平然と否定できない声帯が憎たらしい。
「僕が泣く理由なんかないだろ!泣くのはおまえだ!……泣けよっ!」
思いきりにらんで。顔の熱が目にまで回る。
固く固くまぶたを閉じた。
シンデレラの腕が、そっと体を包む。
「ロイド様って素敵ですね。真実の大切さを知っておられる。……少しばかり長く生きてますとね、自分をごまかすことを覚えてしまいまして。自覚のある嘘や、まるっきりない嘘をついてしまいます。ある意味ではその方が楽だったりしちゃうものですから」
下手な慰めなど聞きたくない。
本心を隠した、優しいばかりの言葉なんて。
罵ってくれればいいのに。
その方がよっぽど痛くないのに。
傷つけるばかりの自分を、柔らかな腕が温める。
「……でも、ロイド様。なんでもかんでも『本当』を追うことだけが正しいというわけではないんです。真実がひどく心を傷つけることもある。偽りで慰めるのが正しいとは言いません。けれど、人の心は複雑で……実際にはそう簡単に割り切れるものではなく、……真偽に分けることも、正誤に分けることも、とても難しいことだったりするんですよ。無理に分けてしまえば……それもまた、嘘になる。偽りを真実だと信じる人の、何が真に偽で、何が真に真なのか、功利だけでは判断できない。何を見ても判断できないのかもしれない。判断できたからといって……『真』が『正』とは限らないのです」
「……もっとわかりやすく言ってよ。……聞いてやるから」
殴るためにつかんだ腰にすがりついた。
みっともないことくらい知っている。
それでも、顔を見られたくない。見たくない。
怖いから。
シンデレラの手が頭をなでた。
「ロイド様は、王様に言われて仕方なく謝りに来てくださったんでしょう?でも、私に悪いことをしたという気持ちもあったからこそここにおられるのでしょう?……ロイド様は、ウィリアム様をお嫌いでしょう?……でも……」
「言うなっ!」
ロイドは声を張り上げた。
「それ以上、言うな。わかったから……っ」
ますます顔を埋めると、優しい手が宥めるように髪を梳く。
元々言うつもりはなかったのかもしれなかった。

でも、ウィリアム様をお好きでしょう?

まだ、言われたくない。他人の口からは。
まだ、認めたくない。いかに真実であろうとも。
逃げかもしれない。間違っているのかもしれない。卑小な己を思い知るだけでも。
今は、まだ。
それ以外にどうやったら心を守れるのかわからない。
そんな自分を許すかのように、シンデレラの腕にわずかな力がこもる。
情けなかった。
こんな女さえ他人を癒すことを知っていて、こんなにも簡単にやってのける。
なのに、
自分は兄とは違うから。
あんなふうには、どうやってもなれないから。卑屈な自尊心がなりたくもないと叫ぶから。
優しい言葉の一つさえ……上手くかけることができない。
「……僕に説教して、……勝ったつもりになるなよ。……僕は泣いてない。泣いてないんだから。おまえに悪いことをしたなんて、思って、ない……。おまえのことなんて、元々ほとんど気にかけてなかったんだからねっ!……ただ……、ちょっと、兄様を……怒らせてやりたかっただけさ。……あんな奴、大っ嫌いだから」
せめて謝ろうと思っても、心は口でねじ曲がる。
こんなふうに言いたいんじゃない。これじゃあ伝わりようがない。余計傷つけてしまう。
わかっているのに。
「……はい。もうちょっと大人になられたら、ロイド様の理想とされる御自身になってくださいね。私は今のロイド様も可愛くて大大大好きですけど♪」
ロイドはぽかんとしてシンデレラを見た。
シンデレラは口をむずむずさせて笑っている。
吹き出しそうになるのを懸命にこらえている様子だった。
顔に火がつく。
「……うるさいよっ!馬鹿にされてることがわからないとでも思ってるのっ?……子ども扱いするな!」
自分が子どもであることくらいわかっているけれど、そうではなくて。
馬鹿にされても仕方がないくらい人間ができていないことくらいわかっているけれど、そうではなくて。
何を言ってもどんなことをしても見透かされているような感じが、……悔しくて、恥ずかしくて。
「えー、馬鹿になんかしてませんってばー。ホントのホントに可愛くて素敵だと思ってるんですー」
少しだけ、ほんの少しだけ嬉しいのが……とても恥ずかしい。
ロイドはシンデレラの背中に両腕を回した。
王子として、今の顔を誰にも見せるわけにはいかない。
それから……、この場所は、温かくて、心地良くて、優しいから。
「……ふん、その無礼な物言いを許してやってもいいよ?……その代わり交換条件だよ!もうちょっと……もうちょっとだけでいいんだ……もっと」
今だけ、もっと……許してほしい。
「はいはい、ぎゅーっとしちゃいますよん♪」
シンデレラの陽気な声にくすりと微笑み、ロイドはぬくもりに身を任せた。
「……ねぇ、おまえは、どうなのさ。おまえの『真』はどっちなの?両方?」
「両方、とも言えます……かねぇ?両方違うとも言えるかも。……大丈夫、ロイド様のせいじゃありませんよ。あ、それから。私働くの好きなんですよ。だからお掃除も楽しんでます♪王妃様のお言葉にはカッチーンときたりしますけど、雑巾をかける腕にもいっそう力が入るってもんで!いつか黙らせて勝ち誇ってやりますから、楽しみにしててくださいねん♪……って、ロイド様にとってはお母さんなのに、こんなふうに言っちゃ悪かったですかね?」
「……いいよ、別に。母様は母様だけど、あんまりそんなふうに思ったことないから。……母様を黙らせられるような人なんて、父様くらいしかいないよ。期待してるからね、シンデレラ」
二人は抱きしめ合ったまま、クスクスと笑った。


その夜ウィリアムは自室に戻り、ベッドの上を見て絶句した。
シンデレラが丸くなって寝ていたのだ。
「何故あなたがここにいるのですか!」
「ぐーぐーぐー」
首根っこをつかまえて引きずり出す。
「痛い痛い痛いっ痛いですって!リサーチ……じゃなかった、……夜這い!そう、せっかく夜這いに来てあげたレディにこんな扱いはないっしょーっ!」
「……夜這い?」
呆れ果てて頭痛がする。
「レディは夜這いなどしませんよ。慎みのない女性はレディとは呼べません」
「『遠慮など知らないような、そんな女性が理想なんです』って言ってたから王子様にとってはレディの範疇ですよっ!それもストライクゾーンど真ん中?」
勝手に人の範疇を定めないでもらいたい。だいたいあれは昨日までのシンデレラと正反対のことを言ってみせただけで、理想でも趣味でも好みでもない。
「……とにかく、せっかく夜這いに来ていただいても私がその気になれませんので」
「どうしてぇー?」
シンデレラは抗議の声を上げた。
ウィリアムはうつむきがちに眉間を押さえた。
理由というなら、すべてだろう。下心丸出しで近づいてきた美しいとはいえない女をどうやったら抱く気になれるというのか。この城で共に暮らしていることさえ耐え難いのに。
「どうしてもです」
根本から拒絶するように、短く答える。
が、
「ふーん、じゃあ私はどうしても夜這いしちゃいまっす♪」
すげない態度に傷つくような相手ではなかった。
いいかげんにしてもらいたい。就寝前にどっと疲れがたまる。
倒れるようにしてベッドに腰掛け、うんざりとした視線で見ても、少しもこたえた様子がない。
ウィリアムはとりあえず片っ端から挙げ連ねていくことにした。
「……そんな貧相な体では」
「ひんそォーっ?どこがぁ?ちゃんと出るとこ出たボンキュッボンのナイスバディだと思うのにー!」
シンデレラが体をくねらせて胸を張る。
ナイスバディかどうかは審議の対象となるにしても、確かに貧相な体とは言い難いかもしれない。選択を間違えた。ならば顔の造形について指摘しようと、口を開こうとすれば。
シンデレラが肢体を見せつけんばかりにのしかかってきた。
元々色気のかけらもないが、その瞳に探るような光を見つけては、もはや鼻で笑うしかない。
押しのけようと身動ぎすると、つやのない髪が薄い肩からこぼれて顔にかかった。
水を含んだ猫の毛色。
ウィリアムは露骨に顔を歪めた。
「……どいてください。衛兵を呼びますよ」
シンデレラは眉を高くつり上げた。
「さては出ないとこも出た三段腹女が好みなのねーっ!」
無茶苦茶な発想に脱力する。
相手にする気にもなれず、適当に「そんなところです」と答えておいた。
性格は演技力でいくらでもどうにでもなるのかもしれないが、体型は手の打ちようがないだろう。
さっさとすべて諦めてくれればいい。
……そういえば。
ウィリアムは今さら、ふと気が付いた。
シンデレラの容姿はあのとき自分が告げた通り、そのままだが、それは魔女がどこからかぴったり一致する女を見つけてきたのだろうか。それともその辺の哀れな女を言いくるめて魔法をかけたのか?無から人一人を作り出すのはいかな不思議とて不可能だろう。
元々存在していた女に魔法をかけたのだとしたら、名でもなく、財でもなく、女は呪いを解きたいのだ。
仮説に過ぎなかったが、妙に納得できるものがあった。
ウィリアムはにっこりとした笑みを浮かべた。
「いつまでいるつもりですか、出て行ってください」
シンデレラは親指と人差し指を添えて顎をひねった。
「……ねーねー、王子様って私にだけそうなんですかね?みんなには優しくてー温厚でー、……なんだっけ?そうそう、それでいて優柔不断ってわけでもない、やるときはやっちゃうしっかり者?なんですかね?」
「……な、に……?」
思わず顔が強ばる。
「ロイド様がおっしゃるには誰に聞いてもそう答えるそうなんですけど、どーも王子様ってば私には優しくない気がするんですよねー。最初の自己紹介のときから。笑顔だけは今みたく完璧なんですけども。そりゃー私は降って湧いた婚約者なわけでして、仕方ないことなのかなーと思いつつ、優しい王子様ってのを拝見してみたい所存でありましてー」
「……ロイドが、そう言って……?」
「……えーっと、……はい」
躊躇いがちに頷くシンデレラに、すぐには言葉を返せない。
父も、母も、臣下も。下男下女。城下に住まう人々。国中に広がるたくさんの噂の中で。
『ウィリアム皇太子』は優しく温厚で、めったに声を荒げることもないがやるべきことはしっかりとやる、非常に思慮深い王子である。
誰もがそうした評価を下しているのは事実だ。自分もそれを知っている。知らないはずもない。
弟もまたその中の一人だったとしても、十分予想されたことではあるのだが。
ウィリアムは額に拳を置いた。
目を閉じて、ゆっくりと開く。
「……そうですか。……やるときはやるしっかり者、なんでしょう?私は。夜中の不法侵入者に対して当然の態度を示し、自分を利用しようとする女性に警戒を怠らない。……何かおかしなところがありますか?ありませんね?では出て行ってください」
『完璧な笑顔』とやらを作ってみせた。
シンデレラは一瞬の間の後、すぐにやかましくわめきたてた。
「王子様のいーけーずー!不法しんにゅーって、鍵開いてたしー!利用なんてしてないしー!恋する乙女をもっと大切に扱うことを要求するー!」
「……あなたは明日も朝早いのでしょう」
なんでもいい。どうでもいい。とにかくすぐに出て行ってほしい。
「……うーん、それはそーなんだけどー、どーしよっかなぁ……」
迷っているのは声音だけ。のんきにのびをしながら時計を確かめる様子を、祈るように見つめる。
突然。
「きゃあっ!もうこんな時間っ?やっばーい。お肌に優しい時間を過ぎてます!じゃあねダーリンまた明日♪」
ふてぶてしく居座っていたシンデレラの姿がかき消えて、目をぱちくりさせた間に廊下を疾走する音が遠ざかっていった。
ウィリアムは一体今何が起こったのか認識するのにかなりの時間を要した。
何だったのだ、あれは。
『こんな時間』といってもかろうじてまだ今日のうち。夜這いをかけに来た人間が帰る時間ではない。
最初からそのつもりはなかったということだろうか。
あまつさえ屈辱のダーリン呼ばわり。
つまりは、完全にからかわれていたということか。
思えば今日は朝からずっと調子が狂いっぱなしだった。シンデレラのペースに巻きこまれ、まんまと敗北して……。
ウィリアムはベッドに倒れこんだ。


朝、見事に三段腹に変貌を遂げたシンデレラを見て、ウィリアムはもはや痛む頭を押さえることさえ馬鹿馬鹿しくなっていた。
服の上からでもわかるでっぷりとした腹。あれでは座れば三段どころか十段腹だ。
本当に肉ならば。
ウィリアムは投げやりに言った。
「……中のものを出しなさい」
「中のものって……、はらわたですよぉー?王子様ってば私を殺す気ですかっ?きゃーっ!人殺しー!殺人鬼ー!歪んだ愛の末路ー♪」
一言一言に疲労が募り、問答無用で肉の山をわしづかむ。
「枕とシーツですね」
「いやぁーんダーリンのえっちー!」
「……失礼しました」
どうにも言葉を紡ぎづらいのは、変わったのが腹だけではないからだ。
昨夜は腰まであったその髪が、今朝は刈ったばかりの草のように短くなっていた。
ウィリアムはこれ以上とないほど呆れ果てていた。
呆れ果てて呆れ果てて、もうこれ以上は、と思っても、シンデレラの一挙一動があっさりと記録を打ち破る。
呆れた。
本当に。
確かに不愉快な表情を隠しはしなかった。あからさまに眉をひそめて、少しでも傷つけばいいと思っていた。
だが、それだけだったではないか。
ほんの短い時間の、たった一つの表情。
それだけで。
色は悪く、つやもないが、女としての体裁を一応は繕っていた長さの髪が、囚人のように短くなってしまった。
顔にかかる長さに苛立ったのではない。自分が魔女に告げた通りのその色に苛立ったというのに。
シンデレラはスカートの裾から枕とシーツを取り出しながら、
「仕方ないっかー、今日からご飯死ぬほど食べちゃいますから、ちょっぴり待っててくださいねー♪」
とウィンクしてみせた。
陽気な声。最初はもっとか細い声で弱々しい喋り方をしていた。
ずぶとい性格。最初は一つ弾けばそれだけで壊れそうなほど脆い印象だった。
短く刈られた金茶の髪。
熱くただれた苛立ちがせり上がってくる。
「……そこまでして、ですか」
シンデレラはきょとんとした顔をした。
「……あなたの目的は何です?……名か、財か、魔女にかけられた呪いを解くため?そのために性格を変え……髪を切って。……そこまでして、そこまでして私に取り入りたいか……っ!」
いけない。
声を荒げては。
堰を切っては、いけないのに。
「どんな手を使おうと……私がおまえごときに惑うなどとは決して思うなっ」
拳を握りしめる。手のひらに爪を穿つ。奥歯を心で砕いて血を飲み干す。
ウィリアムはシンデレラの胸ぐらをわしづかんだ。

女は嫌いだ。

どいつもこいつも、汚らしい肉のかたまりにしか見えない。
欲深で、醜悪で、どす黒い、ありとあらゆる罪悪を塗り固めたような生き物だ。
この女も!

「今、『おまえ』って言ったー!」

シンデレラはウィリアムを指差し、人差し指をぐるぐると回した。
「ついでに、言葉遣いがどーんどん乱暴になってきてますよ。王子サマ?」
胸ぐらをつかまれていることなど気にもかけず、揶揄するように笑う。
「怪しいとは思ってましたとも。いくら望まない婚約者とはいえいきなり草むしりなんてやらせるんだもんー。とってつけたような理由をどれだけそれっぽく言われても、やっぱ、ねぇ?笑顔もうさんくさかったし、裏表がありまくりそうだなーとはわかってましたよ、うん。考えてみればボロありすぎ。ねーねー、ホントは一人称も『私』じゃなかったりして?」
つり上がった口の端には、確かに嘲りがにじんでいた。
ウィリアムは怒りが全身の毛を逆立てるのを感じた。
どれだけ蔑んでも足りない相手に嘲られたのだ。
「……黙れ、売女。その薄汚い口を閉じろ。……おまえのような女に」
「王子サマは優しくて温厚な方のはずでは?」
「黙れっ!」
拳は押さえたが、その分が他にいった。
端から見た今の己はどんな姿になるのか、想像もできない。
城内の者は荒げた声を聞いただけでその耳を疑うだろう。
優しいとか温厚だとか、そんなふうに言われ始めたのはいつだったのか。覚えてはいない。
だがその言葉に押さえつけられるものは年を追うごとに膨らみ……膨らみ……。
怯えて許しを請えばいい。
声も出ないというのなら一言「失せろ」と告げてやる。
ウィリアムは噛みつくように女をにらんだ。
しかし、シンデレラはけらけらと笑った。
「ファースト・コンタクト……って、言うのかな?初めましてウィリアム様ー。なかなか楽しい性格をしておられるようで嬉しい限り♪ますます愛しちゃったかも♪」
気持ちが悪い。
何を計算して笑うのか。この女の思考回路はいかれているのではないか。それとも、それさえも演技なのか。

女は嫌いだ。

肉欲を利用し体で迫る女たち。心から籠絡せんと策を巡らす女たち。
払っても、払っても、次から次へと小賢しい手で近づいてくる。
『好き』だと、『愛している』と、何度も聞いた。誰も彼も、そろってそれを盾に使う。
天使のような顔をして。美しく、優しげな微笑で嘘をつく。
誰一人として……代名詞以上の自分を知りはしないのに。
「……私を、わかったようなつもりになるな……っ、おまえは何もわかっていない。……おまえは、何も、わかって、ない。……私の何を知るわけでもないのに、見え透いた嘘をつくな。目障りだ……っ!」
誰もみな、この心以外の何かを求めて『恋』をする。
そうしてこの身に『恋』を語る。
「……髪を切り、肉をつけて、それで私がほだされるとでも思ったか?……愚かだな。その浅ましい性質が王家の血にふさわしいはずもない」
ウィリアムは吐き捨てるように言った。
「……浅ましい?好きな人の理想に近づきたいと思うのは、浅ましい?」
シンデレラの顔が初めて曇った。
その表情が本当に『傷ついている』ように見えて、ますます怒りがこみあげる。
「……見え透いた嘘をつくなと言った。……私が『優しくて温厚でしっかり者』であることは、周知の事実だぞ?それさえも知らない女が、誰を『好き』だと?笑わせる。……おまえが何を目的に動いていようが、私にはどうでもいいことだ。舞踏会が終わるまではな。だが、下手な芝居を見せるのはよしてもらおう。まっぴらだ」
シンデレラは口を尖らせてため息をつくと、どこか寂しげに苦笑した。
「……まぁ、ね。ちょーっと反論しづらい部分もあるんですけど、でも」
どうして『寂しげ』だと感じたのかわからない。
たらこ唇は弧を描き、細い瞳の色は見えない。
見えないが、
「……嘘だと望んで嘘だと言えば、嘘になる。……だから、これは本当。……『私はあなたが好き』です」
今にも雨が降り出しそうな、そんな色をしていると思った。
どこまでが嘘で、どこからが真実なのか。
今ここですくいとるべき『本当』はどれなのか。
目を凝らしてもわからなくて、ウィリアムは同じ言葉を繰り返そうとした。
「おまえは、何も……」
「知らないから……知っていこうと思って、調査してみたんですけど、短い髪も嫌いでした?」
シンデレラは途端に明るい笑顔になった。
「かなり久しぶりに切ったものだからついつい切り過ぎちゃってー。途中でやばいとは思ったんですけど短ければ短いほどいいのかなー?とも思ったり。でも困りましたねー、長いのは切れるけど短いのはすぐには伸びないし。うーん、どーしよっかなぁ」
ウィリアムは声をなくした。
この女が何を考えているのかまったくわからない。
今の展開からどうしてそんな話に繋がるのだ。どうして未だにこりていない?
どうして……怒りは呆れに変わろうとしているのだろう。
ふと、シンデレラの視線が遠くなった。
「……あっ!王妃様、おはようございまーっす!」
すっかり力の抜けていた腕を逃れて丁寧なお辞儀を披露する。
大声での挨拶は不作法だったが、お辞儀自体は最初の頃に比べれば格段に見られるようになっていた。
やってきた王妃はシンデレラを目に映すとすぐに顔を背けた。
「……なんてみっともない頭ですか。あなたには相応かもしれませんが、見ている方は不快です。頭巾でも被りなさい。それに、何です?この散乱した寝具は。まさかあなたの仕業ですか」
床に散らばる枕とシーツを指差す。
シンデレラはスカートの裾から出した際きちんとたたんで抱えていたのだが、ウィリアムに胸ぐらをつかまれた拍子に床に落としてしまったのだ。
「はーい、すぐに片づけますー。でも頭巾は持ってないですー」
一言で終わらせて素早く拾い集める。
「ならばあなたが私の目の届かないところへと消えなさい」
「あ。そうですね、そういえば私お洗濯も手伝うように言われてたんですよー。ではでは御前失礼いたしまーす♪」
暗に「城から出て行け」と告げている王妃の言葉にもまったく動じることなく、隙のない笑顔でかわしてみせる。
そのまま振り返らずに立ち去ろうとしたシンデレラの、
その腕を。
何故、つかんでしまったのか。
長い長い一瞬のうちに、ウィリアムは何度も自問した。
「……シンデレラ、申し訳ありませんが、洗濯場に行く前にあなたの時間を少しだけ貸していただきます。……母上、母上がこちらにお越しになったのは、彼女に用あってでしょうか、それとも私に何か?」
シンデレラがあんぐりと口を開けて腕を見つめる。
王妃の表情にも動揺がにじんでいた。
「……いいえ、たまたま通りかかったのです。……ウィリアム?シンデレラにどのような用件が?」
ウィリアムは、ふ、と慣れた笑みを浮かべると、
「母上にご不快を抱かせないよう、頭巾を用意しようと思いまして。……それから、母上。いくら私のためとはいえ……いえ、だからこそ。お優しい母上が鬼のように振る舞われる様を見るのは非常に心苦しいものです」
と言って眉をひそめた。悲しげに吐息をもらすことも忘れない。
「……なっ……ウィリアム?」
「はい」
「……王家の者としての務めはわかっていますね……?」
困惑の中でも切っ先を尖らせた王妃の問いかけに、ウィリアムは姿勢を正して一礼する。
「もちろんです母上。これまでとこれからの歴史のため。我が国民のため。……母上にご心配をおかけしないためにも、自ら道を誤るような行いはいたしません」
シンデレラのお辞儀など足下にも及ばないほど優雅に、美しく。
「……確かに聞きましたよ。その言葉、信じます。優しさを愚かさに変えることのないように」
「承知しております」
王族の気品をこれでもかと漂わせた笑顔で締めくくった。

ウィリアムはシンデレラの手を引いたまま早足で進んでいた。
とっさの勢いとはいえ初めて母に面と向かってたてつくような真似をした。
何もあの場であんなことを口にする必要はなかったのに。母が去った後でシンデレラを訪ねれば波風の一つも立つことなく終わったろうに。
どうしても苛立ちを抑えきれなかったのだ。
気づかれないようそっと背後を窺えば、シンデレラはまるで顎が外れたかのようにかぱっと口を開けて呆けていた。
「……この時間なら父上はおそらく自室だろう。……おまえが一人でいるときにその頭を見られては面倒だ。連れて行く。ついでにかつらを作っていただけばいい」
ウィリアムは言ってから口を押さえた。
何故自分が女の顔色を見てこんな説明をせねばならない?
これではまるで言い訳だ。
馬鹿が勝手に馬鹿なことをして、馬鹿にふさわしい扱いを受けている。
その責任の一端があるように感じてしまう己が腹立たしかったから、根元を絶とうとしているだけだというのに。
「へっへっへー、なーんだ。ウィリアム様ってば、猫とかじゃなくて本当に優しいんだ♪贅沢言っちゃえばもうちょっとゆーっくり歩いてもらえるともーっと嬉しいですー♪」
ウィリアムは振り返り、この上なく嫌なものを見る目で見てから腕を離した。
「馬鹿の尻ぬぐいをさせられているだけだ。その頭で舞踏会に出られるとでも思っているのか?」
「ふーん、そっかぁ。尻ぬぐいしてもらっちゃったんですねー、えへへへー♪」
シンデレラは不気味な顔で笑っている。
頬を赤く染め、口を横に伸ばしてにやにやと……見ているだけで気分が悪くなってきた。
ウィリアムは再び前を向いた。
「勘違いするな。舞踏会に出せないのならおまえの存在を許している意味がない」
すべては舞踏会が終わるまでだ。それから先は自分の力でどうにでも……どうにかするしかない。
母に宛われる女どもも御免だが、この先ずっとこれの相手をするのはもっと御免だ。
舞踏会が終わったら適当な理由をつけてすぐさま追い出してやる。それとなく試練を負わせて出て行くのを待つだけではいつまでたっても結果が出ないとよくわかった。
それまで存分に利用しつくしてやるつもりだが、それを勘違いされ懐かれてしまってはたまらない。
態度ははっきりさせておかねばならない。
「わーかってますって!私今バリバリ勉強中ですから安心してくれて大丈夫♪……ねーねー、出るは出ますけど、私舞踏会って初めてなんです!記念に一曲でいいから一緒に踊ってくださいね!」
シンデレラがマントを引っ張る。
ウィリアムはぴたりと足を止め、ため息をついてまた進んだ。
「……それも演出だ」
「やったぁ!絶対絶対絶対絶対ぜぇーったいにですよ!それから、足踏んでも怒っちゃ嫌だかんね!」
痛む頭を押さえながら、本当にわかっているのか、「安心して大丈夫」と言った端から「足を踏んでも怒るな」とはどういうことか、果たして舞踏会を無事に迎えることはできるのだろうかと考える。
今すぐシンデレラを追い出して自分一人で臨んだ方がよっぽどいいのではないか。
あながち間違いとも思えない考えにふらふらしつつ、ウィリアムは「舞踏会のことは当日まで極力考えないようにすべきである」、と悟った。


就寝前、ウィリアムは扉をノックする音を三回ほど無視した。
次も無視しようかと思ったが、相手はそう簡単に諦めてくれるような性格ではない。
きりがない気がして扉を開けた。
「おっそーい!もーちょっと早く開けてくださいよー!だいたいどうして鍵なんかかけてるのー!ずっるーい!」
思った通り、そこには眉をつり上げたシンデレラが立っていて、ウィリアムはあからさまにため息をついた。
「掃除を命じてもいないのに断りなく部屋に入ってくる無礼な輩もいるようですので。……何用でしょうか。女性が男の部屋を訪れる時間ではないように思いますが?」
シンデレラはチッチと人差し指を振る。
「いやーん王子サマってばー、私とあなたの仲に遠慮は無用♪どーぞぞんざいな喋り方しちゃってくださいな!」
ウィリアムはさらに息を吐いた。
懐いた口調が鬱陶しい。この先も顔を合わせる事実が煩わしい。自分以外に心があるのが面倒くさい。
少しばかり他人と違った態度を見せたからといって特別だと思いこまれてはかなわない。『特別』というなら、『特別に腹が立った』だけなのだから。
「……用がないのでしたらお帰りください」
短い言葉の分だけ視線で上乗せしてみるが、シンデレラのずぶとさに通じるようなものではなかった。
シンデレラは頬に手を添え、しなを作って言った。
「今夜も夜這いに参りましたー♪」
静かに扉を閉める。
「……というのは嘘でぇ……。嘘だってばー!王子サマってばもうちょい冗談わかるようになってくれてもいいんじゃないのーっ!開けて開けて開けて開ーけーてーっ!」
このまま永遠に封印しておきたいが、放っておけば収まるような相手でもないのだろう。理解は不幸を呼ぶ。
睡眠時間は貴重だ。安らかな眠りを楽しみたい。
「……くだらない用件ならすぐに出て行っていただきますから」
ウィリアムはしぶしぶ扉を開いた。
「へっへっへー♪」
シンデレラは部屋に入るなり浮かれた声を出してにやにやと笑った。
背中に何かを隠しているようだ。
十中八九『くだらない用件』だろう。
しかし、今さら気が付いた。
部屋に入れざるを得ない女なら、話も聞かざるを得ないに決まっている。
一度部屋に入ったのだ。シンデレラのことだ。話を聞いてやらない限り出て行くこともない。
なし崩しだ。
どれもこれもあくまで『仕方なく』ではあったが、ようは『流されている』ということで。いつのまにかシンデレラのペースに慣れてきているような気もする。……恐ろしい話だった。
「……前置きは、必要ありませんから、早くしていただけますか……」
シンデレラは少し口を尖らせたが、すぐに大げさな身振りで何かを差し出した。
「じゃっじゃーんっ!かつら様の完成でござーいー♪」
満面の笑顔で手に持つかつらを梳かす。
ウィリアムは目を丸くした。
頼んだのは今朝だ。細かな注文を出し終えたのは確か昼頃だったはず……。
「随分と早い……」
思わずそうつぶやけば、シンデレラはうんうんと頷いた。
「そうですよねー。なんか王様が職人さんをかーなーり急がせたみたい」
シンデレラの頭を見せた際の父の狼狽ぶりを思い出し、なるほど、としみじみ納得する。
それにしても早すぎだ。普通はどれだけ急いでも一日では完成しないのではなかろうか。これだけ早いと品質の方に問題があるのでは?
と、かつらを凝視して眉を寄せた。
シンデレラの髪は日の光の下でなんとか金に入るだろうと思える色だ。かつらの方は蝋燭に照らし出された薄暗い部屋にあってもはっきり金髪だと判別がつく。
「……あなたの髪にしては明るすぎますが」
色が違えば印象も変わる。意図したことでない限り、不良品、と言ってしまってもいいだろう。
しかし本人は特に不満に思うこともないようだった。
「急がせたから私の髪に合う色がなかったみたいで。これでも大分似たような色を選んでくれたようなんだけど」
嬉しそうにかつらをなでる。
ウィリアムは目を眇めた。
これで髪の色からは解放される。
だがあまり晴れ晴れとした気分にはなれなかった。
髪が色を変えても肌の色や目や鼻や口がそのままだから……というわけではない。
こうなったのはまたしても己が示した不用意な態度が原因であり、結果的には何も変わっていないからだ。
その肌も目も鼻も口も……髪も。
目にするたび魔女にしてやられたことを思い出す。
それから。
「……こっちの方がいいですか?……私の髪の色ってヤな色だった?」
シンデレラが不安そうに顔をのぞきこんできた。
どう答えろというのか。
肯定すればどうするのだろう。否定すればどうするのだろう。
ウィリアムはいつのまにかうつむきがちになっていた顔を上げた。
「……みすぼらしい色ではありました」
シンデレラは一つ頷くと、かすかな息を吐いて微笑んだ。
「そっかー、色かぁ。じゃあ被ってよっと♪」
無邪気にはしゃいでいるように見えるが、ウィリアムは見逃さなかった。
吐いた息にこめられた、小さな安堵。
髪の短い女性などいない。たいてい腰まで、短くても肩にかかるまでの長さはある。それが普通だ。
どれだけ平気そうに笑っていても気にしていなかったはずはない。例え切っている間は気にとめずとも、今日一日、様々な人の目にさらされて散々な思いをしてきただろう。
今の今まで、これっぽっちも思い至らなかったが。
シンデレラはかつらを被るとくるりと一回転してみせた。
腰まである金髪が踊る。
本来のものとは違い、色も良ければつやもある。
期待に満ちた眼差しを向けられ、ウィリアムは思わず口を結んだ。
適当に、一言でも、ほめておけば収まるのか。
世辞は言い慣れている。言おうと言えばいくらでも出てくる。
しかし何をどうほめていいのかわからなかった。
「……あなたは……すべてを私の言った通りにしてみせるおつもりですか?」
「んん?……ですから、ウィリアム様の理想にできるだけ近づくよう頑張ろっかなーと思いまして」
理想などない。女に夢など抱かない。
どの言葉もその場の思いつきで口にしただけだというのに。
「……馬鹿馬鹿しい。切る前に気づかなかったのか?あんな見苦しい頭が理想であるわけがないだろう。髪が伸びるまではそれを被っておけ」
ウィリアムは内心の苛立ちを抑え、眉間に拳を当てて言った。
シンデレラは嬉しそうにはにかんだ。
「髪が伸びるまではお城にいていいんだっ?」
「誰がそんなことを」
随分と都合のいい耳をしている。
「髪が伸びたら元の色でいてもいいんだっ?」
「それは……」
よく考えればそう受け止めることもできるのかもしれないが、そんなつもりではなかった。
だいたいそんなもの好きにすればいいだろう。良いと言われようが悪いと言われようが、気にする方がおかしいのだ。たった一つの言葉や態度に過敏に反応されて、鬱陶しいにもほどがある。髪の色がどうこういう意味で言ったわけではないのに、どうしてそこまで深読みするのか。
「えっへっへっへっへー。ウィリアム様ってば優しいー♪……ホントに、優しいね。えへへへへー♪」
シンデレラが不気味に笑う。
ひどい勘違いだ。
わかったような顔が不快でならない。
そんな目で見られる覚えはない。
「……おまえは何もわかっていない」
呪文のように唱えれば、
「それはもう聞きましたってばー。だから、もっともーっとウィリアム様のこと、私に教えてくださいねっ!」
魔法のように微笑まれた。


舞踏会の準備が始まる頃になると、シンデレラは美しいお辞儀ができるようになっていた。全体的に物腰が優雅になり、気品らしきものも感じられるようになった。ダンスも上達し、二日に一度は王を相手にワルツを踊る。だからといって仕事に手を抜くことはなく、毎日一生懸命働いていた。
底抜けに明るく遠慮を知らない性格は以前の彼女を知る多くの者たちを戸惑わせたが、有無を言わせぬペースに押されて徐々に受け入れられていった。中には反感を抱く者もいた。しかしシンデレラに何をどう仕掛けても笑顔でかわされてしまう。下手に手を出すと自分たちの方が危ない。動くに動けない状態に追いやられていた。

「ねーねー、結構上達したんだってば!たまには一緒に踊ってください!王様だってロイド様だって練習相手になってくださいましたよ!」
「……あなたと踊るのは本番一度で十分でしょう」
「ケチー!ケチケチケチケチどケチっ!……いいですけどー。最初に踊るのが舞踏会っていうのもすごく素敵なシチュエーションではあるし」
「……それより、わかっていますね?『結構』では困ります。『完璧以上』でなければ。『非の打ち所のない貴婦人』を圧倒してくださらねば困るのですよ」
「まーかせてちょっ!ラストスパートって大得意ー!絶対に仕上げてみせちゃいます♪」

城に仕える者たちはウィリアムとシンデレラが何かを話している様子を頻繁に目にするようになった。
二人は随分と打ち解けた様子で、シンデレラを皇太子妃として認める者も少しずつではあるが着実に数を増やしていた。

王はシンデレラに対して好意的になっていく城の雰囲気を体で感じ、満足げに笑みをこぼした。
最初は素直になれなかった息子もようやく好意を示すことに慣れたようだと、そう解釈し、影ながらに二人を見守っていく。あまり隠れてはいなかったが、心から二人の幸せを願っていた。

一方、王妃はまるで面白くなかった。
夫はシンデレラにめろめろ。ウィリアムと会話を交わせば、王子としての自覚が薄れたわけでもなく、特に何かが変わったようには思えない。しかし不快な噂は日に日に大きくなっていく。
息子が自分をだましているとは考えにくい。
優しすぎることは問題だが、それ以外はすべて満足のいく子なのだから。
それでも見えないところで何かが起こっているのはわかる。
気の弱いばかりだと思っていた馬の骨が本性を出して以来、事態は悪い方へ悪い方へと向かっている気がする。
舞踏会をもっと早い日に予定すればよかった。時が急いでくれないものか。
唯一の欠点が愚かさを導いたのか、馬の骨が卑しい策を使ったのか。何があったにしろ、誤りは正さなければならない。
名家の令嬢たちを見れば息子の目も覚めるはずだ。いや、覚ましてしまわなければ。
尊い王家に卑しい女の血が混じるなど、決して許されることではない。
王妃はひどく焦っていた。

最近大臣に小言を言われる回数が減ったとロイドは思った。
シンデレラと話をした日から自分の中で何かが少しずつ形を変えている気がする。
心の中。以前はどうしようもない苛立ちで満ちあふれていた。
自分越しに兄を見て比較するすべての人々に、……そう、自分と接する人間のすべてがそうであることに憤っていた。
兄の欠点を挙げて貶めることもできず、陰口に面と向かって立ち向かえるだけの誇りも持てず、膨らんでいく憎しみにますます己がどうしようもない存在であるような気がしてくる。
シンデレラは、自分と兄を比べなかったわけではないと思う。
ただ、こんなにもどうしようもない自分を受け止めてくれた。
自分は自分でいい。少しずつ、マイペースで成長していけばいいのだと、言ってもらえた気がした。
思えば、自分と兄とを比べていたのは誰よりも己自身だったのだ。
どことなく軽くなった心で周りを見る。
近頃兄は眉をひそめたり顔をしかめたりすることが多くなった。
注意してよく見れば、決まってシンデレラと一緒にいるときだ。
以前は誰が相手だろうと終始穏やかな微笑を浮かべていた。部下がとんでもない失敗をしでかしたときなどはさすがに難しい顔をしていたが、とにかくめったにないことだったのに。
しかしそれは、いいことのように思えた。
少なくとも自分は初めて兄を身近に感じることができたと思った。
兄とて人間なのだから、いつも微笑みを絶やさずにいられるわけがない……はずだ。
いや、ない。
自信を持つのを躊躇うのは、記憶の中の兄がいつでも完璧だったからだ。
微笑の下に様々な表情があったのだろうか。真偽か正誤か割り切れず、持て余してどうすることもできない感情もあっただろうか。
シンデレラと出会えてやっとそれらを表に出すことができたのだとしたら。
そうであってほしいと願う自分がいる。
貶めるためでなく、幸せを願うために。それから、その方が、もう少しだけ素直になれそうだから。
しかし二人の関係がどうなっているのかは正直よくわからなかった。
親密なのだと思うが、見ようによっては険悪ともとれる。色恋とは無縁のような気もしないでもない。二人っきりになればまた違うのかもしれないが。
想像だけが無限に広がる。詮索しすぎれば壊してしまいそうで、探りを入れることもできなかった。
兄がシンデレラを想っているのであれば、もはや反対するつもりもない。むしろ……。
ロイドは舞踏会の日を指折り数えた。普段は面倒なばかりの催しだが、今回は違う。
何かを変えてくれそうな特別な日。
やってくるのが待ち遠しかった。

様々な思いが渦巻く中、一日一日がゆっくりと過ぎ去っていく。
変わりない毎日のように思わせながら何かが確実に変化していく。
ある日突然気づく、その瞬間へと誘うように。


そして、舞踏会の日。
ウィリアムはしびれを切らしていた。
今日限りはシンデレラに心優しく、つけいる隙の一片もないような恋人同士として振る舞わねばならない。
だから父の「登場するときは二人で仲良く出てくるのだぞ」という言葉にも頷いたというのに、遅い。遅すぎる。
シンデレラが女官たちと一緒に部屋にこもってからどれだけの時間が過ぎたろう。見た目を繕う必要があるのはわかるが、素材の難点を隠すのにも限界がある。これ以上の時間をかけるのは無意味というものだ。
しかし部屋に踏みこむわけにもいかず、一人で出て行くわけにもいかない。
ウィリアムの眉と眉が今にもひっつかんとした、そのときだった。
「ウィリアム様!お待たせいたしました。どうぞシンデレラ様をご覧になってください!」
女官の声と共に扉が開き、白いドレスが勢いよく飛び出した。
「お待たせダーリン!ね、ね、どうですかっ?」
裾を翻してくるくる回る。無邪気に、踊るように。
集まる視線がそろって感想を求めてくる。
それでも何も言えなかった。
ドレスは美しいと思うが、中身を美しいとは思わない。
思わないのだが、
見慣れた顔が飾り立てられるというのはなかなかに衝撃的なものだ。
笑った顔がいつもと違う。
紛れもなくシンデレラ自身なのに、まるで別人のように思える。
『馬子にも衣装』とはこういうことを言うのだろう。
女官の前だ。何かそれらしいことを言ってほめてやらねばならない。
しかし何も思い浮かばなかった。
「……似合っていると思いますよ、とても」
ようやく出てきた言葉はそんなもので、社交界においてはまったく通用しない代物だったが、シンデレラは顔を真っ赤にしてうつむいた。
「……正直に、別にほめなくてもいいんだから、そんな顔でそんなこと言っちゃ嫌」
そんな顔とはどういう顔か。おかしな表情をしたつもりはないが。
ウィリアムは自分の頬に指で触れた。
怪訝に眉をひそめる。
シンデレラの様子を見れば、あまり知りたくはなかった。
何人もいた女官たちはいつのまにやら姿を消していて、二人だけの空間はとてつもなく居心地が悪い。
シンデレラの顔を上げさせようと視線を下ろし、ふと、その足元に気がついた。
「……ガラスの靴をはいたのですか……」
「トレードマークだし。婚約者でーす!ってアピールできるかと思いまして♪」
確かにそうだが、その輝きを見ていると複雑な思いに囚われる。
魔女を頼ろうなどと思わなければ。魔女の洞窟を訪れさえしなければ。魔女を信用したりしなければ。
どうなったというのだろう。
ウィリアムはシンデレラをじっと見つめた。
「……えと、なんですかー?」
シンデレラはきょとんとして首を傾げた。
顔はまだ赤いままだ。
「……いえ、別に。何でもありません。わかっているかとは思いますが、そのおどけた口調は改めてください」
「はーい、頑張りまーっす!王子様も、今日は私たちラブラブ婚約者ですよん?」
「……わかっていますよ……」
もしもを考え始めればきりがない。
ウィリアムはとにかく今日という日に集中することにした。

網膜を攻撃するきらびやかな装飾。笑顔を要求する拍手と歓声。
わかりやすい美しさばかりを競い合う連中の頂点に立ち、ウィリアムは上品な笑みを浮かべる。
シンデレラも優雅なお辞儀を披露し、柔らかく微笑んだ。
「皆様にご紹介いたします。……私の婚約者、シンデレラです」
「よろしくお願いいたします」
会場が騒然とする。
王とロイドは満足げに手を叩き、王妃はわなわなと震えて立ちつくした。

舞踏会が幕を開けた。

シンデレラの評判はおまけして中の上といったところだった。
貴婦人として何も問題はない。本質的には。
ただその容姿と生まれが槍玉に挙げられた。
国王や皇太子が認めているものを面と向かって非難する輩はいないが、ひそひそとした囁きは無遠慮に這い回る。
時折声を大きくするのが集まった娘たち。
当然のようにシンデレラを蔑み、「我こそ皇太子妃にふさわしい」と胸を張る。
だが彼女たちはそこから何もできなかった。
ウィリアムに近づこうとすればするりと避けられ、ようやく近づけたかと思えばシンデレラがぴったりくっついていて、その紹介を受けただけで接触終わり。どうにか会話を広げようと思っても、「婚約者を持つ私がこのように美しい女性を独り占めしていては他の男性方に恨まれてしまいます。まだ皆様へのご挨拶も終わっておりませんので、申し訳ありませんが失礼させていただきますね。今夜の舞踏会、どうぞ心ゆくまでお楽しみください」などといった調子でかわされてしまう。隙がない。
会場内にイライラとした空気が渦巻いていく。
その中心にいた王妃がとうとうウィリアムを呼び付けた。

ウィリアムは内心で舌を打った。
有力貴族への挨拶も一通り終え、踊るための曲も流れ始めてようやく舞踏会としての場が落ち着いてきた今、すさまじい笑顔で母が自分の名前を呼ぶ。
場の雰囲気を乱さず、かつ逃げようのないタイミングをずっと見計らっていたのだろう。
「どうされました?王妃様のお呼びですもの、早く参りましょう?」
シンデレラが絡めた腕を軽く引く。
「……覚悟はできてるんでしょ?ここまできたら行くしかないじゃないですか。だーいじょうぶですって!私もついてるし!」
小声で囁かれ、ウィリアムはため息をつきたい気分になった。
確かに覚悟はできているが、どちらかといえば自分よりもシンデレラの方が覚悟を決めるべき立場だろう。母は非情ではないが、王妃として情があるのであって、王家のためなら非情にもなる。衆目の前でひどい扱いをするかもしれない。シンデレラがついているからこそ心配事も増えるのだ。
しかしシンデレラはへらへらと笑っている。
『初めての舞踏会』であることは何度もしつこく聞かされたが、まさか浮かれて楽観的になりすぎているのか。あれだけやかましくせがんできたダンスもできなくなるかもしれないのに。
そう考えて、ウィリアムはさっさと歩き出した。
馬鹿馬鹿しい。この女が踊りそこねようがどうでもいいことだ。問題はそこではなくて、母の用意した女たちをかわすことができるかどうかだ。盾にならないシンデレラに用はない。元々使い捨ての婚約者なのだから。傷つこうが何をされようが、知ったことではない。

「いかがされました?母上」
ウィリアムはにっこりと笑った。
「今すぐ顔を改めなさい。これは何です?」
王妃は冷ややかな眼差しでシンデレラを指差した。
ウィリアムはすっと表情をなくすと、さらにまたにっこりと目を細めた。
「私の婚約者です」
今度は面と向かってたてつく『ような』真似ではない。明らかにたてついている。
こんなときにも笑顔を作っていることが、自分で少しおかしかった。
「……道を、誤りましたね?ウィリアム」
王妃の声が低くかすれる。
「……どういうつもりかとは尋ねません。今すぐお選びなさい。血を汚しし罪人となるか、過ちを正すことで詫びるのか」
「……謝罪と共に自身の価値が下がるとおっしゃったのは母上です。シンデレラのことは父上も認めておられます。こうして公な紹介もすませました。……何をもって過ちとされるのですか」
「……愚かな。あなたがそこまで愚かだったとは。皇太子の名が泣きます。……あの人が認めているからどうだというのです?私は認めません。王家に下女の血が入るなど、あってはならない。王子にあるまじき所行ですよ。母の恥となるつもりですか」
王妃は蔑みをこめて片眉を上げた。
夫が一体どういうつもりでいるのかはまったくわからないままだった。
皇太子妃にふさわしい女性と考えれば自ずと数は絞られる。選ぼうと思えば造作もないことだろうに、何故身分を問わない舞踏会など開こうとしていたのか。
何度尋ねても説明してはもらえなかった。ただ断固として「反対は許さぬ」と言うだけで。
シンデレラのこともそうだ。
何故肩を持つのか、どこが気に入ったというのか、一切説明はない。ただ「口を出すな」。それだけだ。
元々理解しがたい人ではあったが、他のことであればこうではなかった。夫はそれなりに妻を尊重し、説明をつくしたり意見を求めたりした。なのに何故。
反対しないわけがない。口を出さないわけがない。
自分にも王妃として、今は亡き先代に選ばれた女としての誇りがある。
将来王妃の座につく者が、みすぼらしい端女などであってはならない。
それは決して王家のためにも、息子のためにもならない。
考えずともわかることだというのに。
王妃はシンデレラを一瞥し、ゆっくりと首を横に振りながら深いため息をついた。
どれだけ飾り立てても卑しい血はごまかせない。
先ほどから人々の嘲笑を聞くたびにどんな思いをしていたか。
「改めなさい、ウィリアム。目を覚ましなさい、私の息子ならば。あなたにふさわしい相手は選んであります。王家の者としての務めを果たしなさい」
「……母上」
ウィリアムは眉を寄せた。
何か言おうとするシンデレラを視線で制し、まぶたを重く閉ざす。
「あなたは王子です。過ちの許される立場ではありません。陛下が気づいておられない過ちにあなたこそは気が付きなさい」

いつも、いつでも、それこそが。

「……母様?王妃が国王を信じてないのはまずいと思うけど?」

三人はそろって目を見開いた。
王妃の背後からドレスをかきわけるようにして現れたのはロイドだった。
「確かに、父様が間違うこともあるかもね。なら本人にそう言いなよ。こんなところでひそひそ兄様を責めてないでさ。今、舞踏会やってるんだよ?知ってる?」
顎をしゃくって背後を示す。
踊っている男女も多いが、壁の花や花を渡る蜜蜂、談笑を楽しんでいる者も多い。
今いっせいに顔を背けた者は先ほどからずっと耳を澄ませていたのだろう。
シンデレラが小さく「あちゃー」と言った。
ロイドはくすりと笑みをもらした。
「出席者が全員婚約者候補だとでも思ってるわけ?純粋に夜会を楽しみに来た人間はいないんだ?社交界がそこまで腐ってたとは知らなかったよ」
王妃の顔が歪む。
「ロイド、あなたはまた生意気な口を……っ、立場がわかっているのですか。あなたも王子なのですよ」
「うるさいよ。わかっていようがいまいが僕は王子さ。それが何?王家の血って下々の者とは色が違うの?何色でも嫌な奴は嫌な奴だよ」
「お黙りなさい!何故あなたはそう自覚に欠けているのですか。ウィリアムは道を誤りましたが、あなたよりはよほど自覚があります。兄を見て」
「……母上、ロイドは自覚がないわけではありません。現に我々の思惑とは関係なく集まった人々のことをしっかりと気にかけているではありませんか」
エスカレートする一方かと思われたやりとりは、ウィリアムの一言によって終結した。
「……自覚がないのは、私です。母上のお顔をつぶすようなことをいたしました。申し訳ありません」
深々と腰を曲げる。
ゆっくりと頭を上げると、穏やかな微笑で首を傾げた。
「……母上の、お選びになった女性は……どちらにいらっしゃるのですか」
「兄様っ?」
ロイドが思わず声を上げる。
それを無視して、王妃は美しく微笑んだ。
「ああ……やっと目が覚めましたか。それでこそあなたです。こちらにおいでなさい」
都合の良い言葉以外すべてこの世から消え去ったと言わんばかりだ。
そのままついていこうとしたウィリアムに、シンデレラが消えそうな声で呼びかけた。
「……王子様」
ウィリアムはシンデレラの瞳を見ない。
「……ロイド、シンデレラを任せる。頼んだよ。おまえも聞いているとは思うが、これが初めての舞踏会だそうだから」
弟の肩に手を置いて、そっと苦笑する。
ロイドは顔をしかめた。
素直に頷く気には、とてもなれなかった。
「……そんなの、耳にたこだよ。『兄様と一緒に踊りたい』っていうのも嫌というほど聞かされたんだけど?」
言外に兄を責める。
何故母に従う必要がある?待ち受ける女たちを、シンデレラをどうするつもりなのだ。
今この場で確かにある確執を隠し通してのけたからって、実際には何一つ変わらない。
王族の面子などどうでもいいではないか。意志を明確に示すことの方がよっぽど意義がある。
なのに兄は曖昧に微笑むのだ。
「……なら、それも頼むよ」
「冗談っ」
どこまでも噛みついてやろうとしたが、
「ウィリアム、何をしているのです」
王妃の呼びかけによってあっさりと振り払われてしまった。
ロイドは腹が立って仕方なかった。
あれでは兄が自分をかばうため、周囲の人を思うがゆえに仕方なく従ったみたいだ。
それが正しいことだというのか。違うだろう?少なくとも自分はそんなこと望んでいなかった。
だが結局この場は穏やかさを取り戻したのだ。
置き去りになったのは、この心だけなのか。
「……行ってしまわれましたねー」
シンデレラの間延びした口調がカンに障った。
「何それ?それだけっ?なんで兄様を引き止めなかったのさ!ボケっとして他の女のところになんか行かせて、馬鹿じゃないのっ?」
「ロイド様、しーっ」
人差し指を立てて口に当てる動作に、ここにいるのが二人だけではないことを思い出す。
ついさっき自分で言ったことなのに。
「私、少し疲れてしまいました。外の空気を吸いたいので、よろしければつき合っていただけますか?」
シンデレラが声を抑えて言った。
それが本当のことなのか、何か話したいことがあるのか、このままでは気持ちが収まらないことを見透かされたのかはどうでもよかった。
「……いいよ。仕方ないからね」
すぐにでもこの場を離れたい。
ここにいるだけで血が重くなる気がした。

「ありがとうございますロイド様。ロイド様にご挨拶をしようとされていた方々もたくさんいらっしゃったでしょうに、申し訳ありません」
庭に出るなりそんなことを言い出すシンデレラに、ロイドはげーっと舌を出した。
「気持ち悪いからやめてくれない?おまえには無礼な口調の方が合ってるよ」
ひんやりとした空気は予想外に心地良く、鬱陶しい視線のないのがこの上なく開放的だ。
さっきまでは怒鳴りつけてやろうと思っていたのに、なんだか清々しい気分にさえなってくる。
「そうですよねぇー、もー挨拶だけで肩こっちゃって。『皇太子様の婚約者』ってのも大変ですよー。王子様ほどじゃないのかもしれませんけど」
一緒にいるのがシンデレラなのも大きな理由の一つだった。
兄と比べられまいと、余計な気を張ることもない。
「……ふん、わかってるじゃないか。おまえより僕の方がずっと大変だよ。疲れるのはこっちさ。挨拶なんて冗談じゃない」
ロイドは澄んだ空気を胸いっぱいに吸いこんで、こぼすように笑った。
「……まぁ、結構良くやったんじゃない?おまえって本番に強いよね。正直始まる前はどうなるかと思ってたけど」
シンデレラも嬉しそうに答える。
「ロイド様にも随分特訓につき合っていただきましたし、失敗するわけにはいきませんからね!」
「当然だよ。この僕がつき合ってやったんだよ?……他の女どもに負けるなんて、許さないからね」
そのまま忘れられたらよかったのに、どうしても心が捕まってしまった。
「……兄様が間違ってると思うのは、僕が子どもだから?」
自分だけが夜に逃れ、兄は未だ光の中にいる。人々の視線を浴び続け、なんら痛痒がないというように笑っている。堂々とした、それこそが『王族たる微笑』だろう。
……唾棄すべきだと思うのは、きっと嫉妬とかじゃない。
「……ロイド様」
月が隠れたせいか、シンデレラの表情が少し曇った気がした。
もしかしたらすべては自分を気遣ってなのかもしれなかった。
外へ出たのも、わざと丁寧な口調をしてみせたのも、話をそらして憤りを散らそうとしてくれていたのかもしれない。
もしもそうであるなら、問いかけは、気持ちを踏みにじることになるのだけれど。
それでもこのままなかったことにするのとどちらが正解かと考えれば、答は断固として揺らがなかった。
「答えてよ。おまえはどう思う?どうして兄様を行かせたのさ」
問いかけてしまえばごまかさずに立ち向かってくれるだろう?
母も、兄も、自分をすり抜けるようにして行ってしまった。
願いをこめて見つめる。
シンデレラは苦笑しながら首を振った。
「ウィリアム様が……笑ったのが、とてもつらそうだったから。とてもつらそうだったのに、笑ったから。なんか、急に色々考えちゃって、どうしていいのか、わからなかったんです。止めたかったけど、止めていいのかわからなくて。……他にも理由がないわけじゃありませんが」
困っているような、悲しんでいるような、哀れんでいるような、慰めているような。
微笑みがぬくもりとなって頭をなでる。
「誰が間違ってるなんて言えませんよ。ロイド様にとって大切なものとウィリアム様にとって大切なものは違うのかもしれません。ウィリアム様が心から大切にしておられるものを間違いだと言うことができるほど、私は……、私とあの人との距離は……近くは、ない。……ただ、……やっぱり、引き止めたかったんですけど、ね」
優しかったが、悲しかった。
ロイドは一つでも暴言を吐いたことを後悔し始めていた。
この問いかけも、シンデレラにとってはつらいことだったのかもしれない。
それでも聞かずにはいられなかったし、誤ったことをしたとは言い切れない。
ただシンデレラの微笑が自分の罪のように思えて心が痛んだ。
笑ったからって、泣いたからって、それはそれ、ただそれだけのことで。
だから正しいとか、だから間違いだとか言えないのに。
「……兄様、つらそうだった?」
心臓を押さえる。
ついさっきの記憶なのに怒りに彩られて真実が見えない。
「……そう思っただけです」
たった今、シンデレラが本当はどんな表情を浮かべているのかさえ、よくわからない。
困っているのか、悲しんでいるのか、哀れんでいるのか、慰めているのか。
唇は弧を描いていても。
「……そう、なのに、笑ったんだ?」
ロイドは毒々しい光が騒ぐ方向に目をやった。
夜の闇を汚すその光は、月明かりに比べればあまりにも陳腐で無粋で品がない。
虚飾に満ちた輝きの最たるところを城と呼び、中央に座する者を王族と言う。
醜さを隠す以外何の役にも立たないドレスを纏った女たちに囲まれ、兄はやはり微笑んでいた。
なんら痛痒を感じないとでも、何も感じることができないとでも……いうように。
「……なんでかな。なんで兄様は笑うんだろう。つらいって、言えばいいのに。そういう顔、すればいいのに」
つらそうだった、と、シンデレラの言葉に安心した。
兄とてそういった感情がないわけではないのだ。
それはきっと当然のこと。
至極当然のことなのだけれど、さっきは疑ってしまったから。
安堵と共に新たな苛立ちがわきあがり、すぐに悲しみに塗りつぶされた。
自分はまた間違えたのだ。
「……最近なんか、わかってきた気がしてたんだ……」
苦しくても痛くても平気な顔をして、誰にも気づかせることなく、他人の期待に応え続ける。
それが兄という人間なのではないかと。
完璧ではけしてない。完璧であろうと努力した人なのだと。
「僕は……兄様を何度も傷つけたかもしれない」
深い悩みを抱くことなどないのだろうと思っていた。
理由がないから。
生まれながらにして完璧なのだろうと思っていたから。
「兄様こそ僕のことを嫌いなのかもしれない」
九年。兄弟という絆の下で共に暮らしていても、その本当の表情を引き出すことはできなかった。
記憶の中の兄はどれも穏やかな顔をしている。
その奥でどんな感情を燃やしていたのか。どう思われていたのか。
「……僕のことを、大っ嫌いかもしれない」
過ちは呼吸のように繰り返され、うじが蠢き出すまでその傷口に気が付かない。
笑う顔が腹立たしい。
そして、
怖い。
自分がこんなにも兄のことを好きだったなんて知らなかった。
「……例え、そうだったとしても。ロイド様はもう何もわからないわけではないでしょう?」
シンデレラが穏やかに微笑んだ。
もれいずる月の光に照らされて、翳りなどかけらもないように見える。
その言葉も、優しさに満ち満ちて。
「もっと、わかっていけばいいんですよ。過ぎたことはどうしようもない。これからは傷つけないようにすればいい。……あの人の苦しみに、今までは誰も気づいていなくても。これからは、ロイド様が気が付くでしょう?ウィリアム様にはこんなにも力強い味方ができたんですね」
温かくて心地良いのに、どこか寂しかった。
ロイドはシンデレラのドレスにすがりついた。
そうでもしないと消えてしまいそうな気がして。
「違う……わかったつもりになってただけだ。さっきだって絶対傷つけた!僕は……駄目なんだ。できない……んだ」
シンデレラが寂しそうなのもきっと自分のせいだ。
でもどうすればいいのかわからなくて、どうすることもできなくて。ますます寂しげになっていくのを、見つめ続けることさえ耐えられなくて。
なのに答と助けを求めてすがりつく自分が、殺してやりたいほど憎たらしいのに。
「兄様のこと、おまえはわかるんだろっ?兄様があんなに表情豊かになるのはおまえの前だけだ。おまえも兄様の味方だろう……っ?」
「もちろんですよー♪」
それでも消えることのないシンデレラの笑顔に、恐れながらも安堵している。
その微笑みが嘘ではないにしろ何かを隠していることくらいわかっている。
わかっているのに。
「本当に?」
震える声で問いかければ、
「……ええ、本当に」
返ってきた答は掠れていた。
ロイドは不安を抑えることができなかった。
いつもはずぶとくて何をされても倒れそうにないシンデレラなのに、今は弱々しくて儚いとまで感じる。
「……兄様のところに行け」
思わずそう言っていた。
シンデレラを一人にしておきたくない。
自分では駄目なのだ。慰め方など知らない。
人を楽しい気持ちにさせることなどできない。
兄ならなんとかしてくれるだろう。一緒にいるだけでもきっと違う。兄もあのまま、母の言いなりになっているべきではない。
そして自分も……、こんなところで言いたい放題言って、シンデレラに慰めてもらったところで、一体何が変わるというのだろう。変われるわけがない。
何ができなくとも、このままでは駄目だ。それだけはわかる。
シンデレラに対しても、兄に対しても、自分に対しても。
わかってしまったら、動かずにいるのは罪なのだ。
「ダメですよ。ウィリアム様がお決めになったことです」
シンデレラが首を振る。
兄にとって大切なものが何なのか、ロイドにはよくわからない。
だから自分にとって大切なものがそれに劣っているともけして思わない。
「黙って見てるつもり?」
からかいでも、嘲りでもなく、真剣に問いかけた。
おまえにとっての大切なものは、そんなにも軽いものなのかと。
シンデレラは瞳を閉じて肩をすくめた。
「んー、あの中にウィリアム様の気に入りそーな女性がいるかもしれないしー、だったら遠慮しなくっちゃあーと思いまして」
問題発言である。
「はぁっ?何さそれ。おまえは兄様が好きなんじゃないのっ?」
一応は事実に基づいた希望的観測によると、シンデレラの方は兄に惚れきっていて、あとは兄がどう出るかの問題……のはずだったのだが。お互いどうとも思っていないのだとしたらどうして婚約者などやっているのだ。そもそもシンデレラは兄が連れてきたのであって、……しかし以前『手違い』とも言っていたような気がする。
二人の関係がますます謎に包まれていく。
「……その辺は……まぁ、その……複雑な事情がありまして……」
もじもじするシンデレラをきっとにらみつける。
「さっぱりわからないよ。わけのわからないこと言うのやめてくれない?」
「ごめんなさいー」
「好きか嫌いかって聞いてるんだよ!」
「それはもちろん!」
シンデレラは胸を張って、
「……あれ?」
両手で口元を押さえた。
「もちろん、す……す、すす……っ、す、す……す……」
くぐもった声がどもりまくる。
白く塗られた肌がみるみる色づいていく。
「あ、あれ……?違うんです!嫌いってわけじゃなくて、ホントになくて……、その……、……き。……なんです……け、ど……」
とうとうゆでだこになってしまったシンデレラに、ロイドは『ごちそうさま』と言ってやるのをかろうじてこらえた。
「……だったら乗りこみなよ」
「……い、いえ、ですからその辺は、複雑な事情がですねぇ……」
あれだけわかりやすい反応を示しておきながらまたもやわけのわからないことを言い出す様子にため息が出る。
会場の方をちらりと見れば、兄は女たちに取り囲まれてすっかり身動きが取れなくなっていた。その後方では母が付かず離れず目を光らせていて、絶対に逃がさない、といった感じである。父ははらはらして見ているようだが、よほどのことがない限り玉座を離れることはできない。
この状況を唯一打開することのできるシンデレラはうつむいたきりもじもじとした動作を繰り返すだけ。頬の熱を散らすのに忙しいようだ。
微笑ましくはあるが、今はそういう場合ではない。
ロイドは再びため息をもらした。
「しっかりしてよ。いつもの無駄にたくましいおまえはどこに行ったのさ」
「……無駄に、たくましくなくちゃ……ダメですかね、……やっぱり」
「はぁ?」
シンデレラは思いつめた表情で言った。
「ロイド様は、例えば私が実は大人しくて控えめで気弱な感じだったりしたらどうします?」
以前聞いた。
おまえの真実はどちらなのかと。
あのときシンデレラは何と答えたのだったか。
「……知らないよそんなこと。……でも、じゃあ今のおまえは偽者ってこと?僕はそうは思わないね。おまえはおまえだろ。ただちょっと真偽と正誤に分けるのが難しいだけじゃないの?」
両方そうであり、両方違うと答えたのだ。
「……そうかも、しれませんね……」
シンデレラは両手で顔を覆った。
さっきからずっと様子がおかしい。問題発言によって深刻さが薄らいだように思えたが、この奇妙さは思いのほか深いところに根を下ろしている。
こんなシンデレラは初めて見る。
……いや、兄に色々あるように、シンデレラはシンデレラで色々あるのだろう。
誰だって笑顔しか持っていないわけではない。
今まで見えていなかっただけで、これだってシンデレラなのだ。
それでも、できることなら笑っていてほしかった。
悩みなんて一つもないとでもいうように。
薄っぺらな微笑を断罪したその口でできれば笑ってほしいと願う。
なんて勝手な言い分だろう。
せめて音にはしまいと唇を噛めば、シンデレラが顔を上げて明るく言った。
「そうそう、いつか聞いちゃおうと思ってたんですけど!ウィリアム様の理想の女性像ってどんなのかわかりますっ?どうも本人から聞き出した情報はいまいち信頼性がなくて」
白々しいほど陽気に差し出された脈絡のない話題。
このまま話に乗ってしまえば痛々しい空気はどこかへ消えて何事もなかったかのようにいつもの雰囲気がやってくるのだろう。
表面上は。
それではいけないと思うのに、どうすればいいのかがわからない。
やはり自分では駄目なのだと実感する。
ロイドは再び兄を見やった。
「……。あ。あの女なんて兄様の好みじゃないかな」
周りに群がっている女たちを適当に指差す。
「えぇっ?どれどれどれっ?どれですかっあれですかっ」
「そう、それ」
シンデレラは首を固定してじっと目を凝らした。
眉がせわしなく体操している。唇は一直線に結ばれたまま動かず、瞳は時折閉ざされるもののすぐに開いて一点を見つめ続ける。
どの女を見ているのかわからないが、表情は真剣そのものだ。

「……」
「……」

やがて眉毛がぴんと張り、喉仏がこくんと動いた。
「あ……あのー、ロイド様?私ちょーっとウィリアム様に用があったこととか思い出しちゃったりとかしちゃったりとかとかとか」
「行ってきたら?僕もいつまでもおまえの相手をしてやれるほど暇じゃないんだよ。くっだらない挨拶にも答えてやらなきゃいけないしね」
ロイドは顎をしゃくってみせた。
待ちくたびれた様子などおくびにも出さない。
「えーっとぉ、では……行って参ります!」
びしっと敬礼して回れ右した背中に小さくつぶやく。
「……まったく、世話が焼けるよね」
本当はこんなことしかできない自分がとても悔しかったけれど、確かに感じるかすかな満足感をないがしろにすることだけはしないようにした。
「……僕には……人を癒したり、慰めたりはできないけど……できることも、あるんだ、……きっと」
そう思っていたかったから。

ウィリアムはすでに『うんざり』を通り越して『げっそり』していた。
ごてごてと飾り立てられたドレス。けばけばしく塗りこめられた化粧。強すぎる香水は各種混ざり合って人を殺せそうだ。
真っ赤な唇からは薄っぺらい美辞麗句が飛び出し、静かになったと思ったら視線が何かを訴えている。そのくせ直接会話すると随所に恥じらった様子を見せる。下手な演技だ。
それらに対して当たり障りのない態度を返すのは思った以上の苦痛だった。
何しろ数が多い。母の選んだ候補はほんの数人だが、野心に燃えるその他大勢が押し合いへし合いひしめいている。それも互いに妙な競争意識を抱き合っているようで、あっちを向けば「こっちも見て!」、そっちを向けば「こっちも見て!」とひっきりなしだ。自分の婚約者選びというよりは女たちの障害物レースといった感じがする。
これだから、女というものは。
内心で舌を打っていると、いつのまにやら周囲の輪が小さくなっていた。
「ウィリアム様、最初はどなたをお選びになりますの?」
「是非私と一緒に踊っていただきたいですわ」
「あら、ずるいですわ。私もさっきからずっと誘っていただけるのを待っておりましたのに」
「女の方から誘うなんて、慎みがないとお思いになりますか……?」
一人の女を皮切りに、次から次へとつめよってくる。
ウィリアムは後ずさった。
背後にも女たちがいた。
ブレンドされた香水に白粉のにおいまでもが調合され始める。
このまま息をつめて死ぬのと毒に蝕まれて死ぬのとではどちらがましな死に方か。
吐き気と共に悪夢の底がやってくる。
囁きが虫のように這い回り、皮膚を食い破って体内へと侵入する。
笑い声は頭を割り、眼差しは眼球を舐める。
悪魔か夢魔か吸血鬼。
血に濡れた唇が次なる獲物を求めている。
踊りましょう踊りましょう踊りましょう……
ねっとりとした声が沼のように手招いた。
気持ちが悪い。
こんな生き物は死ねばいい。

「ウィリアム様っ!踊りましょうっ!」

貴婦人らしからぬ元気な声が響き、全員がそろってそちらを向いた。
風が生まれる。
シンデレラが、風を起こす。
「約束してましたでしょ?最初のダンスは私とですよ♪」
ウィリアムは差し伸べられた手に引き寄せられるまま、一歩踏み出した。
道は簡単に開いた。
女たちに一言二言の謝罪をすることも忘れてまっすぐ歩いていく。

空気が色を変えた気がした。

ウィリアムはだらしなく見えない程度に首を回し、短く息を吐いた。
「『最初の』ダンスを約束した覚えはありませんが……?」
「ウィリアム様ってば婚約者をないがしろにして他の女性と最初に踊る気ー?私にとって初めての舞踏会なのにぃ?」
シンデレラはにこにこと笑った。
作り物ではなく、本当に笑った顔をしている。
今日一日は上品な笑顔をしているようにと言ったのに。
「……それに、あなたのことはロイドに任せたはずです。背後の方々の鋭い視線をどうされるおつもりですか?」
「う。それは……その、……うーん……」
シンデレラは途端に眉を反らせた。
ウィリアムは深々とため息をつく。
母は今どんな顔をしているのか、見る気にもなれない。
大人しくロイドと過ごしていればよかったのに、何故出てきたのか。
出てくるなら出てくるで貴婦人然として現れればよかったものを、あれでは周りの評価を幾分下げてしまったことだろう。
まったく余計なことをする。足を引っ張りに来たのか。
……だが。
ウィリアムはゆっくりと深呼吸した。
何もかもどうでもいいような気がしてきた。
投げやりになったのか、気が抜けたのか、自分でもわからないが、おかしな気分だ。
笑える。
クッと喉が鳴った。
「……曲が始まる。手を貸せ」
一度は破ったが、約束は約束だ。仕方なしに手を差し出せば、シンデレラは目を大きく開いて固まっていた。
「どうした?早くしろ。母上がいつまでも黙って見ていると思うのか?」
白く塗られた頬が一気に薔薇色に染まる。
「……万が一足踏んでも、怒っちゃ嫌ですよ?」
消えそうな声が届いた。
はにかんだ表情は見ようによっては愛らしいといえるかもしれない。
手のひらで小刻みに震える小さな指。
今の今まで緊張した素振りなどまったく見せなかったくせに、『初めての舞踏会での初めてのダンス』はそれほど楽しみだったのだろうか。
ますます笑えてくる。
「おまえが相手だ。それなりの覚悟はしている」
「ひっど……っ」
うるさくなる前に肩を抱いた。

常世の煩わしさをすべて祓うような、心地良い音色が流れ始める。
ウィリアムは軽くまぶたを伏せた。
こういう場で楽しめるものといえば目を閉じて聴く音楽とあとはいっそ一秒ごとに荒んでいく内心のつぶやきくらいかもしれない。
ダンスは嫌いだった。
赤い唇が刻む微笑を間近にし、何かを含んだ視線を浴び続け、まとわりつく香りに冒される。振り切ることも許されない一定時間。
楽しいと感じたことなど一度もない。『良き王子』としての義務を果たす作業でしかなかった。
今もまた、『良き婚約者』としての義務を果たさなければならない。
音が導くままに足を運ぶ。
シンデレラはうなじまで染め上げて下ばかりを見つめていた。
よほど足元が気になるらしい。
こういうのは気にしない方が上手くいくものだ。第一うつむいて踊っていては見栄えが悪い。
ウィリアムは耳元に囁いた。
「……おまえなら私の足を踏んでも笑ってすませるのだろうが。顔を上げろ。……楽しい記念なんだろう?おまえにとっては」
緊張するほど楽しみにしていたものを、その緊張でぶち壊してしまうことはない。
この瞬間は、一度限り。二度と訪れないのだから。
「……下を見てた方がまだドキドキしないんじゃないかと思って」
シンデレラがおずおずと顔を上げた、そのふいをついてさっと腕を引く。
「きゃっ」
強引にステップを早めれば、細い指が必死になって手をつかんできた。
「速い速い速い!音楽に合ってない!速いってば!足踏んじゃうっ!踏んじゃいますって!踏むからねーっ!」
ウィリアムはなんとなく愉快な気分になった。
いつも他人を自分のペースに巻きこんでいいように事を進めていくシンデレラが、本気で焦っている。
さらにスピードを上げて振り回してやると、泣きそうな表情できつく目を閉じた。
そんな顔もできたのかと、思わず感心してしまう。
もう少しいじめてやりたくなった。
「……父上とロイドまで駆り出しておいてその程度の成果か」
シンデレラは弾かれたように背筋を伸ばした。
「何をうーっ!言っときますけど血反吐吐くほどやったんですからっ!誰かさんはちーっともつき合ってくれませんでしたけどーっ」
鋭い目つきでにらんでいるが、顔が真っ赤なのであまり迫力はない。
ウィリアムは意地悪く笑った。
「今つき合ってやっている。おまえは私との本番をわざわざ狙って失敗するつもりなのか?」
シンデレラの口がへの字に曲がる。
「じょーだん!実力見せちゃいますからね!」
手をぎゅっと握って大きくターン。
回る回る、普通は一回回るところを二回三回四回と。
つい先ほどまでの様子が信じられないくらい堂々と、力強く。
「馬鹿かおまえは!女がリードするなっ!」
ウィリアムは慌てて怒鳴ると、負けじとスピードを上げた。
今度はシンデレラが悲鳴を上げる。
「きゃーっ!だーかーらもっとゆっくりーっ!ゆっくりだってばー!ワルツは目が回るんですーっ!」
ウィリアムはふん、と鼻を鳴らした。
城中にはびこる欺瞞に満ちた美しさ。その中で唯一心から美しいと思える音楽に、たゆたうように身を任せる。
緩やかに流れる。ゆっくりと回る。
互いの瞳を見つめ合い、息を合わせて踊る。
シンデレラが笑った。
頬を淡く染め、花が綻ぶように。
「どうですか?ちゃんと踊れてるでしょ?ね?ね?」
楽しそうに。
夢見るような瞳で。
「……ああ」
不思議だった。
曲に終わりがあるのが残念のような気がしてくる。
目の前の微笑みが、美しいものであるような。
そんな錯覚に囚われる。
体が軽かった。
いつまでも踊っていられそうなほど。

天上の音色が星空を渡る。
地上を照らす光は魔法に満ちて、過ぎゆく時を七色に染める。
今宵一晩、醜いものをすべて癒して。
極上の夢へと変えるように。
舞踏会の夜が、美しく過ぎていく。

曲が、終わる。
夢が、覚める。

それでもシンデレラは笑っていた。

「ありがとうございます!すーっごーっく楽しかったー!」
ウィリアムはシンデレラの肩を抱いたまま無言で歩き出した。
「あ、あれ?ウィリアム様?ウィリアム様ってば?」
「中庭に出る。このまま出ればさすがに追ってこれる人間はいないだろう。あの中に戻るのは御免だ」
シンデレラは上気した頬を両手で覆い、照れたようににやついた。
「えへへへへー♪」
「気味の悪い声を出すな」
「えへへへへー♪」
ウィリアムはため息をついて、もう何も言わなかった。

誰もいない中庭は随分と静かだった。
息のつまる喧噪はすぐそこで続いているのに、帳一枚隔てた別世界にいるような感じがする。
闇が優しい。
月は穏やかで、星は清かだった。
楽隊の奏でる音だけがひっそりと聞こえてくる。
曲は違うが、ワルツだ。
ウィリアムはシンデレラをちらりと見た。
シンデレラは噴水の縁に座ってぴんと伸ばした足をじっと見つめている。
痛めたのではなく思い出し笑いをしているようだ。
つくづく気味の悪いことだと思ったが、『初めての舞踏会での初めてのダンス』はどうやら満足のいくものに終わったらしい。
ウィリアムはシンデレラの前に立ち、その足をまじまじと見た。
「……よく踊れたな。はくだけで砕け散りそうに見えるのに」
すっかり忘れていたが、シンデレラの足を飾っているのはガラスの靴だ。
手にしたときは蝶の羽とどちらが軽いかとまで思ったのに、あれだけ速いペースで踊ってよくぞ無事だったものだ。
「ああ、これはですね、コツがあるんですよ♪砕けたらその時はその時!と思ってはくの。必要なのは勇気、かな?」
シンデレラはなんてことないように笑ってのけた。
「……でたらめな」
そんなものに人生を左右する決定を任せていたのかと思うと疲れがどっと湧いてくる。今さらといえば、あまりに今さらすぎたが。
ウィリアムは深いため息をついた。
少し離れたところに腰掛け、何をするでもなく静寂を聞く。
シンデレラは何も言わない。
ウィリアムも何も言わない。
柔らかな夜風が頬をなぞる。
そのまま二人で、時の流れを見つめていた。

かすかな音が闇に溶けた。

「……やっぱりお疲れ?」
シンデレラの声に一瞬固まり、ウィリアムはようやく今のが自分のため息だったということに気が付いた。
ため息自体は珍しくないが、無意識のうちにもらすなど初めてのことだ。
途端に重力が増した気がした。
動きたくない。いつまでもこうしているわけにはいかないが、もう少しだけ休んでいたい。
確かに、疲れている。
「んじゃ、もうちょっとだけのんびりしましょっ♪」
まだ何も言っていないのに。
思わず目を見開いた。
そこまでわかりやすい顔をしているのかと眉を寄せる。
疲れているなどと、周囲に気取られるわけにはいかない。本来なら今も会場の真ん中でにこにこと笑っていなければならないのに。
女の群れを思い出すとどうしても体が動かなくなる。母の眼差しを思い浮かべると頭が痛む。
背中に感じる冷気が心地良くて。夜の静けさが温かくて。
こんなにも居心地の良い空間を離れてしまうのがもったいなかった。
もう少しだけ、と、正直な体を止められない。
臆病なのか、勇敢なのか。
思考が歩き始める前にシャットアウトした。
ため息をつき直し、さらに楽な姿勢を求めて座り直して。
それまでと同じ、穏やかな静寂が続くのかと思えば。
「……ねーねー、たくさんの女性に囲まれてましたけどー、好みの人とかいた?」
「馬鹿かおまえは」
ウィリアムは頭が痛くなった。
躊躇いがちな響きではあったが、わざとらしいくらいにそわそわした態度がやたらとやかましい。
唐突な問い。
あんな連中に囲まれてどうやったらそんな思考にたどり着けるというのだろう。
うんざりとした気分が蘇ってくる。
「ただひたすら不快で疲れるだけだ」
それをそのまま吐き出せば、シンデレラは悲しそうにつぶやいた。
「……もうちょっと、言い方とか……。あの中にウィリアム様のこと本気で好きな人もいたかも……」
一体何が言いたいのか、いまいちよくわからない。
一度吐いたうさはなかなかひっこまず、手をつないでするすると飛び出してくる。
「馬鹿馬鹿しい。あの女どもは王家の名に群がっているだけだ。ロイドが年頃ならロイドにも迫っていただろう」
シンデレラが顔を歪めた。
「でもでも……っ!もし私がいなかったら中には告白しちゃう人とかいたかも……っ」
上半身を倒して距離をつめ、真剣な表情で言い募る。
ウィリアムは首を揺らしながら答えた。
「ああ、いただろうな。まったく、よくやるものだ」
『婚約者』がいようがいまいがあのまま会場にいればやがてはそういう目に遭っていただろうが。
そう考えて、また一つ動きたくない理由が増えた。
噴水の水に手を浸し、緩やかな円を大きく描く。
シンデレラはすっくと立ち上がり、ずかずかと歩いてウィリアムの正面に立った。
「……もしかして女の人みーんなみんな王家の名がうんたらかんたらだって思ってたりします?」
腰に手を当てて眉をつり上げる様はいかにも『怒ってます』といった感じだったが、ウィリアムに怒られる覚えはない。
「何が言いたい?」
「ちょーっと疑り深すぎません?人の気持ち勝手に決めつけてるっていうか……頑なすぎ!」
人差し指を突きつけられ、頬の肉を歪めてみせた。
「……疑うも何もない。最初から本心が見えているものを」
吐き出せば、吐いてしまえば、この疲労感も収まるだろうか。
そんな考えがよぎったのは一瞬のこと。勝手に舌が動き出す。
「あの女どもが私の何を知っている?『皇太子』もしくは『優しくて温厚でしっかりもの』といったところか……?それだけで恋情を抱けるというのか。だとしたら随分と単細胞な生物だな。……私は知っている。女は美しさを競う一つの方法として私を用いている。人生を成功に導く一つの買い物として私を選んでいる。……私自身は飾りでしかない。どの女も寵を得ていち早く子を孕むことしか頭にない。あれらを相手に一度寝たら最後、必ず赤子を連れて『あなたの子どもです』とやってくる。それが事実だ。見え透いた『愛』にだまされる男は哀れだな」
ウィリアムは嘲笑した。
「……しかし皇太子が何より優先すべき務めは子作りなのだそうだ。あれらの中から一人、母の自尊心を満足させ、かつ孕みやすい女を選んで行為に励むのが私の役目だ」
価値は飾り。意味は子種。その他は以下省略。
恋は戦略、愛は武器。偽りは呼吸と同じ。
名は足枷で血は呪い。
醜い醜い醜い人の世は、立場が変われば見え方も変わるのだろうか。
今はどこまでも同じに見える。
「……笑えないか。尊い王家のため、汚らわしい雌豚に身を捧げよと!……血に誇りを持つ方ほどそうおっしゃる。一応『非の打ち所のない貴婦人』とやらを選んではくださるが、所詮は雌豚だ」
生まれがどうであれ女は女。その本質に変わりはない。
欲深で、醜悪で、小賢しく、異臭を放ち、触るとべとべとしている。
嘘が得意で、ごまかしのために真実を述べ、計算高い割に感情的で頭が悪い。
嫌になるほど同じだ。どれもこれも。
たいていは。
「……おまえが何の目的で私に近づこうと、私にはどうでもいいことだ。だが、おまえにも誇りがあるのなら……目を覚ましてはどうだ?万が一おまえが皇太子妃についたとしても、おまえにとって私が飾りであるように、私にとっておまえは子を作るための道具でしかない。もっとも、例え万が一にでも手を付けるようなことはないだろうがな」
シンデレラはうつむいて表情を見せなかった。
「……ウィリアム様のことを、本気で想っている人は……?」
消えそうなつぶやきを一笑に付し、ウィリアムは話を終わらせようとした。
「言っただろう、あの女どもが私の何を」
「私は知ってる……っ!」
シンデレラの拳が震える。親指の爪の先が白く染まる。勢いよく上げた顔は赤く、目は潤んで。まっすぐににらんでいる。
「ウィリアム様が本当は優しい?温厚?どこが?っていうような人で、でも本当の本当は優しいんだってこと知ってる……っ!」
こぼれた涙をすぐさま拭い、檻にはめるように、一瞬も、瞳をそらさない。
ウィリアムは目を眇めた。
その顔は自分にはむかう顔だ。責める顔だ。
何も知らないくせに。わかったような気になって。
「……そんなに、そんなに女が嫌なら、どうしてあの人たちに笑いかけたんですか!上辺だけの笑顔でも、……どうして、我慢しながら笑うの……?『王子様』でいるのは、そんなにつらいこと……?」
責めながら、哀れむ顔だ。
「……以前、わかったような気になるなと言わなかったか?おまえが私の何を知っているだと?勝手に私を分析するな……っ!ずけずけと入ってくるな!不愉快だ!私を……私のことを知って、どうするつもりだ?手玉にでも取るか?おまえごときが!」
ウィリアムはシンデレラの胸ぐらをつかんで引き寄せた。
互いの吐息が触れ合う距離で、むき出しの怒りを叩き付けて、それでもこの女が怯むことはないと知っている。
それでも。
「……何それ。ウィリアム様わけわかんない」
シンデレラは呆れたように半眼になった。
「何も知らないくせに?知ってどうするつもりだ?わかったような気になるな?知られたいの知られたくないのどっち!……知らないのは、当然でしょ?ウィリアム様猫被ってるんだから。自分で自分を隠しておいて、なのにあの人たちを責める資格があるっていうんですか?」
「……猫、だと?何がわかる!おまえなどに……っ、私は王子だぞ!王子たるべき王子たるべき王子たるべき……!誰よりもよく知っている!」
ウィリアムが拳をひねって首を絞めても、決して目をそらさない。
「……王家の名に群がるって言いましたよね、ハッキリ言って女を甘く見てる。誰が称号なんかに惚れるんです?王家の名に群がる女しか寄ってこないならそれは本人に魅力がないってこと!猫被ってなきゃ王子としていられないならそれだって自分に問題があるんです!」
むしろ胸を張って言ってのけた。
ウィリアムは怒りのあまり声が出なかった。
このまま絞め殺してやりたい。その気丈な顔をぐしゃぐしゃにして、うめき声しか出せないようにしてやりたい。
何がわかる?
味わってきた苦しみの、抱えこまざるを得なかった痛みの、一体どれだけが他人に理解できると?
視線で殺せたらとうに殺していた。女の首など少し力をこめただけで容易くへし折れるだろう。窒息させるならあとわずかばかり布をねじっただけですむ。
そして浮かぶ言葉はただ一つ。

何がわかる?

目の前の生意気な瞳がふっと翳った。
「私は……まだ、そんなにもあなたのことを知りませんか……?私の知らないウィリアム様ってどんなの……?……誰にならそれを見せていいの?王様王妃様ロイド様、……みんなに完璧な笑顔を向けて、苦しいときや、悲しいときに、……誰になら心を預けるの?」
……いない。そんなものは。
――ずっと。
いらない。
「誰も……心そのままを知ることなんてできない。何を許しても、誰を受け入れても、人は、孤独だけれど。それでもその手を……強く、つないでもいいと感じるのは、……一体誰?」

いらない。

「何が……そんなに、怖いの?」
シンデレラの両手が頬を覆った。
ウィリアムは弾かれたように突き飛ばした。
「何が……怖い、だと……?」
聞いてはいけない。
どこかで警鐘が鳴る。
その音を、認めたくない。
こんな女に揺るがされたりしない。
世界は醜い。この身を襲う偽りのすべてを知っている。
今は、もう。
怖いものなど何もない。
シンデレラはゆっくりと腕を伸ばし、ウィリアムの前にその手を差し出した。
闇の中、白い手が揺れる。
「……怖いんでしょ?怖くて笑うことしかできないんでしょう?……誰にも見せないものを、誰が知ってるっていうの?誰にも許さない心を、誰が受け取るっていうの?何もしなくても受け入れてもらえる無償の愛がほしいの?どれだけ嘘をついても見破って、本当の自分を受け入れてくれる聖母のような女が好み?……赤ちゃんみたい」
小さく、震えている。
蔑むようなことを口にしながら、
声が、
「……愛されたいのなら、愛されようとしないとダメ。どれだけ望んでも……望むだけでは、絶対に。手に入れることは叶わない……」
瞳が、
震えている。
ウィリアムは顔を背けた。
目の前の手を、自分に注がれる視線を、それ以上見たくなかった。
「……私を、わかったような気になるなと言った。愛されたい?はっ!誰がだ?いつそんなことを口にした?第一、おまえが……それを言うのか?」
渾身の力をこめて唇を歪める。
「その容姿は私が魔女の見た目の反対を適当に並べてみただけ。最初の気弱な性格も魔女の反対を言ってやっただけ。今のそのやかましい性格はさらにその反対を言っただけ!……おまえの真実が、どこにある?それが愛されようとした結果だとでも言うつもりか?笑わせるなっ!」
名か、財か、呪いか。どれでなくとも。例え王子としてではないこの心が望みだとしても。
「おまえは私が知っているどの女よりひどい大嘘つきだ……っ!」
おまえが。
おまえこそが。
誰よりも嘘にまみれているだろう?
「嘘……つき、め。……嘘つきめ!……私に嘘をつくな!私を欺こうとするな!……舞踏会は、終わる。どこへなりと消えて失せろっ!」
ウィリアムは叫んだ。
シンデレラは、笑った。
「……あーあ。言ったのに」
いつものような軽い口調。
差し出した手をひっこめて、「あちゃー」といった感じで額に当てる。わざとらしいため息を大きくついて。いかにもあてつけがましい態度は二人でいるときよく見たものだ。
ただその微笑だけがいつもと違う。
「嘘だと望んで嘘だと言えば、嘘になる。……言われてしまえば真実も揺らぐ。言ったのに。……言われたくなかったのに」
泣きそうに、見えた。
「何を……言っている?」
涙はこぼれていない。
それでもひどく悲しそうに、シンデレラが笑う。
「もう、いられない、な。……私は……結局あなたをかき回しただけだった?いつだって幸せを願っていたつもりだったのに。……ああ、でも、私情は入っちゃったから、やっぱりかき回しただけだったかも」
誰に向けての微笑みなのか。自身に対する苦笑のようでも、自分に対する繕いのようでもあり。
どちらにしろ気に入らなかった。
何を普通の女のように哀れを装っているのか。似合わない。
この女はいつも追いつめてやるほどよく笑った。しぶとくずぶとく憎々しく。
どこまでも強く。
「……わけのわからないことを。黙って消えることもできないのか?」
元々醜い顔に嘲ざけるような笑みが広がっていく様もかなり見苦しかったが、今の微笑はもっと見るに耐えない。
いつだってまっすぐ貫いてきた眼差しが途方に暮れた子どものように宙をさまよう。
初めて顔を合わせたときの様子とはまた違う。
うっすらとのぞく曇り空は今にも雨を降らしそうで。
気持ちが悪かった。
「もう少し、あと少しだけ、……待ってください。もう少し」
シンデレラは星を読むように天を仰いだ。
ウィリアムも吸い寄せられるように空を見上げた。
夜は美しく、果てしなく、少し前であれば、きっと快かったはずだった。
今は胸に染みこむように星が瞬く。
どこからか、世界が揺れる音がした。
重く深く震える。
一日の終わりと、始まりを告げる音。

十二時の鐘が鳴った。

十二回、正確に。
鳴り終わった。

波紋が闇に溶けきったとき、ウィリアムの前からシンデレラがいなくなった。
代わりに、
夜の帳を編む黒髪。月よりも輝く白い肌。星々を閉じこめたような……瞳。
「……この時間に、毎日魔法をかけ直した。肌は豚が泥遊びしたような色。目は曇天の色で……見えるか見えないかくらいの細さ。鼻は団子っ鼻。口はたらこ唇。……それが理想だと聞いたからな。……三段腹は地道に叶えていくつもりだったが……間に、合わなかった」

白いドレスに身を包み、ガラスの靴をはいた魔女。

永遠にも似た一瞬の間、二人は互いに見つめ合っていた。
一人は事実を知るために。一人は裁きを待つために。
先に沈黙を破ったのはウィリアムだった。
「……は、はは、ははははは!」
おかしくて、おかしくて、こみあげる笑いを抑えきれない。
「傑作だ!傑作だぞ!」
何もかも嘘だと知っていた。
そろいすぎた容姿も。一晩で変貌した性格も。
挨拶のように『好き』だと言ってのけるその想いも。
見え透いた嘘だとわかっていた。
思った以上に醜い女だったことが、とてもおかしい。
「見ろ!最低だ!最悪の女だっ!……さぞかし楽しかっただろう。非力な人間で遊ぶのはな!」
世界中の神々よ照覧あれ!我ここに絶対の真理を得たり!
これが女という生き物だ!
そう叫んで笑い転げてやりたかった。
魔女が薄く微笑する。
「……ああ、楽しかった。……とても。とてもとても楽しかった」
手にした金のかつらを梳かし、そっと唇を寄せる。
よく見れば黒髪は無様な長さのままだった。
気持ちが、悪い。
女が。
女が笑っている。
悲しそうに。
目鼻立ちも、雰囲気も。何もかも違うのに、先ほどまでの彼女と同じ表情のまま。
シンデレラのドレスを着てシンデレラの靴をはいた、まったく別の女がいる。
ウィリアムは冷ややかに言い放った。
「消え失せろ」
その表情も、見苦しい頭も。身に纏うドレス。手にしたかつら。存在のすべて。
見ているだけで吐き気がする。
世界中の女を死滅に追いこんでやりたい気分だった。
「……そうだな。そうしよう。……目を閉じろ、……ウィリアム。見られていては消えることができない」
魔女がゆっくりと頷く。
「いつからそんなに謙虚な魔法を使うようになった?」
軽く嘲れば、
「……しばらく外見をいじるばかりだったからな。腕が落ちた」
軽くかわされる。
「消えてほしいのだろう?……目を、閉じろ。すぐに消える」
どこも似ていないのに、よく似ている。
ウィリアムは固くまぶたを閉じた。
真っ暗な世界にしわを刻む。
それを打ち砕くかのように、何か固いものがぶつかってきた。
鼻がつぶれ、唇の裏に歯がくいこむ。
「痛っ」
心を代弁するような声が聞こえた。
思わず目を開けば、すぐ前で魔女が鼻を摘んで口元を覆っていた。
「……案外難しいものだな」
至近距離の涙目が言う。
鼻を摘んでいた手が額を押さえるのを見てやっと、顔で顔を殴られたのだと知った。
それはつまり、そういうことで。
呆然としている間に目の前の苦笑がみるみる薄らいでいく。

「……さよならだ」

瞬きした後に残ったものは、顔面の鈍い痛みと、今にも砕けそうなガラスの靴――。
ただそれだけだった。
まるで儚い夢だったかのように、シンデレラの姿はどこにもない。
最後に見た表情はそのまま黒髪の女に重なって。
遅いこだまが十二回、記憶のすべてを冒していく。
すべて嘘だと知っていた。
見え透いた嘘だとわかっていた。
真実はもはや暴かれた。
なのに何かがつながらない。
誰もいない中庭で。ただ一人、闇に紛れて。
か細いワルツが溶けていくのを、ずっと見つめ続けていた。


「シンデレラって結局どこ行ったのかね?」
「どうせウィリアム様に捨てられたんでしょ。そもそもあの器量で皇太子妃って、高貴な方々の冗談だったんじゃないの?」
「それはあるかも。だってあの子って、見た目も悪けりゃ中身も最悪だったし、心を砕かれる王妃様が本当にお気の毒だったもの」


ウィリアムは窓辺に腰掛けて外の景色を眺めていた。
今日も鬱陶しいほど天気がいい。
空は青く、街は明るく、遠くの緑は鮮やかだった。
見慣れた景色だ。何の感慨もない。
正直飽き飽きしていたが、城の中に目を向ける気にはなれなかった。
どの床もシンデレラが磨いていたような気がする。
どの草もシンデレラがむしっていたような気がする。
どの布もシンデレラが洗っていたような気がする。
室内で、回廊で、庭園で、シンデレラと言葉を交わし合った。
どれもこれもろくな会話ではなかったのに、何故か覚えている。
そんな自分が腹立たしい。
女の影を追い払おうと頭を振れば、どこからか密やかな笑い声が聞こえてくる。
本人が姿を消してようやくおおっぴらに牙をむけるようになった一部の下女どもが好き勝手に噂する声だ。
いちいちどれももっともなのに、どうしてか聞いていることができない。
おそらくその名前さえ耳に入れるのが嫌なのだ。
だから手の空いた時間は専ら部屋で外を眺めている。
遠くの森のその向こうを見つめたとしても、思うところは何もないから。

「何を見ておる」

突然の呼びかけに振り向けば、父の姿がそこにあった。
「シンデレラが姿を消してから毎日毎日、気もそぞろに外を見て、……おまえは何を探しておる」
ウィリアムは不思議そうに眉を上げた。
「気もそぞろとは心外です。執務も一区切りつき、しばしの休息に城下の様子を眺めるのはそれほどにおかしなことでしょうか」
「……数週間前からおまえに回す書類の量を減らしておることに未だに気づいていないのだとすればな」
ため息の音に顔がこわばる。
「……何故です、父上」
ウィリアムはかろうじて声を抑えた。
「その問い自体が理由の一つ。以前のおまえならすぐに気づいた。わしが部屋に入ったこともだ。……もう一つは、生半可な気構えの者を国政に関わらせるつもりはないということ」
「私はそのような……っ」
「おまえには時間を与える必要があると決断を下したのだ」
「父上、私は務めに対して力を抜いたことなど一度たりとて」
反論は静かに押しつぶされる。
「ウィリアム、少し黙れ。己を知らぬ者が己を語れると思うか」
王は厳しく言い放った。
「聞け。……この国に、富み、蔓延するものは……、平和ぞ。数百年前の戦を経て、ようやく手にした平和。これほど厄介なものはない。国は平和ゆえに収まり、平和ゆえに乱れる。……美味なる果実は腐りやすい。だからこそ、王家に甘えは許されん。わしも、おまえも。妃も、ロイドも。この血に連なる者のすべてが、この国の今と未来に尽力する義務を負う。わしは国王として、いついかなるときも、決しておまえを甘やかしはせん」
それはウィリアムにとって何度も聞かされた言葉。
王にとっては言い慣れた言葉。
子に、妻に、語るたびに自らの胸に繰り返し刻みこんできた唯一絶対の正義。
「……だが、シンデレラは違う。皇太子妃たるもの美しいに越したことはない。賢く、気品に満ちあふれ、家柄も良ければなおのこと望ましいだろう。……しかしだ。何より重要なのは、やがては国王となる夫を支えることのできる女性であるかどうか。仲睦まじく、心許し合う夫婦となれる相手であるかどうかだ。わしがおまえを許さずとも、シンデレラがおまえを許し、わしがおまえを突き放そうとも、シンデレラがおまえを包みこむ。……そうなればと、思っておった」
若かりし頃、母によって選び抜かれた婚約者は非常に美しかった。
賢く気高く名家の生まれで、皇太子妃の名に誇りを持ち、散財も放蕩もすることがない。申し分のない女性だった。
妃となった今も不満を感じたことなどない。
安らぎも、甘やかな想いも、何も感じることがないのと同様に。
ただ厳めしい信頼と契約だけがそこにあった。
ウィリアムの婚約者を選ぶ際、自分にできなかったことをさせようと思ったのはほとんど自然な思いつきのようなものだった。
「いつしか……わしは、シンデレラが可愛くて。……まるで娘ができたようだと思った。シンデレラのためにあれをこれをと、初めて父親らしくあれた気がしたのだ。……わしには、息子が二人もおるというのに」
王は眉間のしわを深くした。
息子の顔から目をそらさないことが、何よりもつらく、何よりも成し遂げなければならないことのように思えた。
それはきっと、ただの自己満足でしかないのだけれど。
「……今さら、だ。今さらわしは後悔する。おまえを……王としてではなく、親として育てればよかったと。……親として支えることが、何故できなかったのかと。……わしはおまえに相談を受けたことが一度もない。報告を受けたことはあるがな。おまえがその年になるまで何に悩み、何に苦しんだのか。……何一つ知らん」
それでもいいと思っていた。それは自分の役目ではないのだと。
ならば誰の役目なのかと、考えることもせず。
「おまえは出来た息子だった。おまえが正体を失うほど取り乱したところなど見たことがない。……わしは、おまえを誇りに思っておった。……それがどうだ。おまえは今や抜け殻のような顔をして、毎日毎日呆けたように外を見る。鈍くのろくおかしくなって、自分でそれに気づきもしない。ゆっくりと、着実に壊れておる」
そうしてやっと自らの責任に思い当たるこの愚かしさ。
「……わしは今、おまえが……哀れでならん」
「父上……?」
今さらだ。
本当に、今さらだ。
今さら親を名乗り、親のように振る舞いたいと望む。
子どもが子どもらしくあることを願う。
今さら気づき、今さら悔いる。
今さら……今からでも取り戻せることを、祈る。
「……休暇を与える。今のおまえに任せる執務はない。好きなだけ休むがいい。……誰もおまえに何一つ求めはしない。ここにあること自体がおまえを縛るなら……旅に出るもよかろう。王として、……親として。おまえに時間を与えよう」
「ち、ち……う、え」
王は返事を待たなかった。返事は必要なかった。
容赦なく距離を開いていく後ろ姿に、ウィリアムは何も言うことができなかった。
簡単な音と共に扉が閉まる。
部屋が暗くなった気がする。
世界が暗くなった気がする。
窓から降り注ぐ無神経な日射しが全身の血を沸き立たせた。
「……おっしゃることが……よくわかりません。どういうことですか?……父上。私の何が至らないと?何の役にも立たぬ者だということですか?誰も私に……何一つ……。父上、あなたは……どうせよと……おっしゃる。私に……私にっ!」
問いつめても答える者は誰もいない。
「親としてのあなただと!……そんなあなたに対し、私がどうすることがあなたの望みなのですかっ!……王としての、父上。王妃としての、母上。王子として、皇太子としての……私。ずっと……そうやって……いつも、そうやって……今さら!」
髪を掻き乱し、奥歯を食い縛る。膝が、折れる。立っていられない。
熱い、どろどろとした、重たい何かが。心臓をひきちぎり全身を駆け巡り頭を突き破って……どこにも行くところがない。
人の……上に立つ者は、常に冷静であらねばならない。
正しい判断を下すために。
激しく取り乱す様を見せてはならない。
人々に不安感を与えないために。
物や人にあたってはならない。
王者のすべき行動ではないから。
物心ついた頃にはすでに王子と呼ばれていた。
周囲の視線が言葉が行動がどれも何かを要求した。
父も母も、良き王子たる自分を望んでいた。
泣けば軟弱者よと罵られ、笑えば品がないとたしなめられた。
王子として生きることしか許されなかった。
ずっとそうやって、生きてきたのに。
「……おっしゃってください、父上。必ずやご期待にお応えいたします。何でもお申し付けください。すべて……、すべてその通りにいたします。いたしますから……どうか」
今さら。
王子としてでない己など。
誰に見せられるだろう?
誰に受け入れられるというのだろう。
誰が受け止めてくれるというのか。
「……どうか……私を、見ないでください」
怖い。
怖いのだ。
こんなにも。
否定しないで。失望しないで。
だから、
見ないで。
本当は、優しくなどありません。
誰に感謝を述べられても、どれだけ澄んだ瞳で見られても、この心は限りなく冷めたままで。
本当は、温厚などではありません。
いつだって微笑は暗く歪んで。胸中は毒であふれて。呪詛が喉につまったままで。
知られたくない。
誰にも。
王子の殻がこの身を守り、王子の殻が心を削る。
王子として。
それ以外に、どうやったら生きられるのかわからない。
「……父上……ウィリアムは王子として日々務めを果たしております。それではいけないのですか?父上……父上、……父上っ!ち、ち……う」
誰もいない部屋で、一人。泣き崩れる自分を受け止めてくれる人はいない。
例え、いたとしても。身の内にたまる毒ごと抱きしめてくれる人はいない。
いるわけがない。
どこから見ても完璧な『ウィリアム皇太子』は誰も彼もに愛されているのに。
こんなにもどうしようもない『ウィリアム』には慰めの一つさえかからない。
反吐が出そうな偽りを、それでも失うことが恐ろしくて。
いつだって笑うことしかできなかった。
「……っ」
唇が戦慄く。
呼べる名前はどこにもない。
指先が震える。
つかめる腕はどこにもない。
どれだけ頭をかきむしっても。思い浮かぶ顔は……

一つしかない。

扉を開け放って、回廊をひた走って、髪の毛を振り乱して、
ただ一人を探す。
いない。
ここにもいない。
どこを探してもいない。
いつも磨いていたそこかしこの床。
最初に命じてむしらせた草。
いつのまにか広がっていた勢力範囲の布。
しぶとくずぶとく憎々しい女が。
どこにもいない。
息が切れ、鼓動が騒いで。鈍い痛みが頭を打った。
まるで鐘を叩いたようだった。
……ああ、
そうだ。
そうだった。
「……シンデレラ」
そんな女はいない。
何故か覚えているろくでもない会話。室内で、回廊で、庭園で。どれもこれも、そんなものは、元からなかった。
全部嘘だった。
ふざけたような口調も、不気味な笑い声も、でたらめな性格も、生意気な眼差しも、泣きそうな微笑みも。
「シンデレラ……」
城中の至る所を冒すだけ冒して、記憶さえ汚してから消えて失せた。
もう、どこにもいない。
世界中の神々よ、照覧あれ。
馬鹿な男がいる。
自分でついた嘘に首を絞められ、見破ったつもりの罠にかかった馬鹿がいる。
唇が歪む。
おかしかった。
とても。とてもおかしかった。
ひとしきり笑って目を閉じれば、遠巻きに様子を窺っている女たちがひそひそと囁き合っているのが聞こえてきた。
あの卑しく姦しい口からシンデレラの名前は聞きたくない。
しかし、立ち去ろうとした耳に届いたのは他でもない自分の名前だった。

「……ウィリアム様どうかしちゃったのっ?ご乱心?」
「しーっ、声が大きいってば。ただごとじゃないよ、お耳に届いたら追い出されるだけじゃすまないよ絶対」
「ウィリアム様といえどやっぱり人の子だから、見えないところで色々あるんでしょ。あんなにべそをおかきになって……、やっぱりねぇ、完璧な殿方ってそんなに簡単に見れるようなもんじゃないんだよねぇ。でも幻想だけは壊してもらいたくなかったよねぇ」

何一つ隔てのない自分への評価など所詮こんなものだ。
女の、人の心など、所詮はこんなものだ。
世界は欺瞞と虚飾に満ち満ちて。
弱者が身を守るためには、諦めをつける他にない。
王子としてしか生きられないなら王子として生きていけばいいだけのこと。
周囲もそれを望んでいる。父も、やがてはきっと欺ける。
「……もう、いない。……元から、いなかった」
ウィリアムは床を見つめ、目を閉じてから笑った。
涙を拭い、赤みさえ引けば、それは完璧な微笑だった。


「ご心配をおかけしました。休暇のおかげで体調も回復いたしましたので、すぐにでも執務の方に復帰したいと思います」
貼り付いたような笑顔で会釈するウィリアムに、王はあからさまに顔をしかめた。
あれから三日。
何があったかは知らないが、良い方向に進んだものは一つとしてないのが見てとれる。
「……復帰は許さん」
重く響かせれば、
「暇疲れというのもなかなかに心力を奪うものですよ」
軽く肩をすくめてみせた。
いつも通りの微笑がだからこそ痛々しい。
眉をひそめて口を開く。
もやもやとした思いが胸を叩くが、いっこうに形にならなかった。
それでも何か言わねばならぬと、懸命に口を動かす。
「おまえに任せる執務はない」
反論は横から返ってきた。
「陛下、何をおっしゃいます。ウィリアムには大切な仕事がございます。……シンデレラが失踪したのですから、新たな婚約者を選ばなければなりませんでしょう?」
王妃が口の端をわずかに上げる。
今まさにその話をしていたところだったのだ。
王妃にとっては渡りに船、カモがネギをしょってやってきたといったところだろう。
「先日の舞踏会は台無しになってしまいましたが、候補を募ればすぐに集まることでしょう」
王はますます顔をしかめた。
「……ウィリアム、真相を知る者はおまえだけだ。おまえが探す必要はないと言うから動かずにいる。おまえが固く口を閉ざすのには何か理由があるのだろうと思うからこそ今はもう問いつめずにいるのだ。おまえが一言『探せ』と言えば国内外すぐにでも人をやる。おまえが『待て』と言うのなら、わしの余命分は待ってやろう」
「陛下っ?」
「……シンデレラは、おりません。そのような者は最初から存在しなかったものとお考えください」
ウィリアムは静かに言い放った。
にっこりと、笑う。
「ですから、父上がこれからの日々を憂えて過ごす必要などどこにもないのです。……母上、先日お引き合わせいただいた女性はどなたも美しく聡明で私にはとても選ぶことができません。母上の、王妃として、女性としての目から見て、皇太子妃にもっともふさわしいと思われる方を迎え入れることにしようと思うのですが……」
王妃が喜々として話を進め、ウィリアムがひたすらに頷く中、王は眉間のしわに拳を当てて心でうめいていた。
何故こんなことになったのか。やはり、遅すぎたのか。それとも方法を間違えてしまったのだろうか?
シンデレラの顔が頭に浮かぶ。
何故か初めの頃のおどおどとした様子で、今にも泣き出しそうに顔を歪めていた。
もしもウィリアムがシンデレラであったなら、断固として発言を撤回させる。
しかしウィリアムはウィリアム以外の何者でもない。
父親としてはどうするべきなのか、見当もつかない。
「……おまえがそれで良しとするならばもはやわしに言うことはない。婚約者選びについてはすべて任せよう」
王としてなら、簡単に思い至るのに。


ロイドは躊躇なく扉を蹴った。
できるだけ大きな音が立てばいいと思った。
怒りを緩めない勇気と、怒りに囚われない覚悟が、しっかりと響き渡るように。
「……何の冗談?」
あとは舌がもつれないことだけを気を付けた。
「新しい婚約者が決まったって聞いたんだけど」
わずかに目を見開いたまま微動だにしない兄をきつくにらみつける。
「……ロイド、扉は手で開けるものだよ?」
「うるさいよ!つまんないこと言わないでくれる?」
ふっと笑われてますます頭に血が上った。
普段と変わらない笑顔。しかし、明らかにおかしい。
いつもの兄なら眉をひそめてたしなめた。
なのに、まだ、笑っている。
「シンデレラが突然いなくなって、どういうことって問いつめてもひたすら黙ったままで、どうしたって納得できないのをそれでも我慢してきたのは全部無駄だったってわけ?」
ロイドは早口でまくし立てた。
腹が立って仕方がない。
こんな結末を迎えるために黙って見ていたわけではない。
二人の間に何があったか知らないが、兄なら必ずシンデレラを探してきてくれると信じていた。兄にとって彼女はとても大切な存在なのだと信じているのに。
「それなら今答えてもらうよ。……シンデレラはどうして消えたのさ。何があってどこに行ったのさ。どうして兄様は探しもせず新しい婚約者なんて選んじゃってるわけ?兄様って色魔?スキモノ?式挙げる前からもう第二夫人選び?答えてよ。シンデレラのこと、どう思ってるのさ」
ウィリアムはかすかに眉を寄せた。
弟はシンデレラとどの程度親密だったのだろうか。
顔を赤くして、全身から怒りをほとばしらせて。
あの女にそれほどの価値があるはずもないのに。
教えてしまったら、傷つくだろうか。憎むだろうか。
諦めるだろうか。
ウィリアムは口の端をそっと上げた。
女が嫌いだった。
『王子様』に群がり、無邪気に、無神経に、簡単に『愛』を告げるその様が。
世界が嫌いだった。
何も知らないくせに、知ろうともせず、わかったようなつもりで偽りを甘受する人々が。
だが、もういい。
知らなくていい。わからなくていい。全部嘘でいい。もはや何も望みはしない。
最後まで駄々をこねていた領域を手放そう。
飾りとなり、血を残そう。愛を騙って名を果たそう。
自分は赤子ではない。
叶わぬなら何もいらない。
臆病なのか、勇敢なのか。どちらにしろ馬鹿馬鹿しいが、少し楽しい。
さぁそれを、どうねじ曲げて伝えよう。
「……大人って黙りこんで居心地悪い気持ちにさせること上手いしよくやるけど、それって単に逃げてるってことだよね」
考えているうちにとげを刺された。
そんなつもりはなかったが、確かに。このまま逃げてしまえたらどれだけ楽なことだろう。
それでもこの弟は、決して許しはしないのだろうが。
「何とか言ってよ兄様」
まっすぐな眼差しがまっすぐすぎて痛い。
嘘を許さない響きが声帯をすくませる。
見せない真実を気づかせないための微笑みは、一体どれが正解だろう。
今自分がどんな表情を浮かべているのか。もう、よくわからない。
とりあえず目を細くした。
「……逃がさないよ。兄様がどれだけつらくたって、僕にとって大切なものは、その先にあるんだから」
ロイドは拳を握りしめた。
子どもだとそしられてもいい。
子どもの立場に守られない自分自身を傷つけられても。
今ここにある心を裏切って、『良い子』のふりはしたくない。
「兄様!」
ウィリアムの唇が、ゆっくりと開いていく。
「……シンデレラは……シンデレラじゃなかったんだよ。あれは……私を裏切った。おまえも、父上も、皆。だからそんなにも怒ってやる必要はないんだ」
「……どういうこと?」
ロイドが顔をしかめると、ウィリアムはまた、そっと笑った。
「シンデレラのすべては偽りでできている。姿も、中身も、名前さえ、本当ではないのかもしれない。私の知っているシンデレラも、おまえの知っているシンデレラも、どれも嘘の固まりだ」
微笑は薄く、読みとれるものは何もなかったが、ロイドはなんとなくわかった気がした。
「……ようするに、兄様はシンデレラを信じてないってこと?」
咎めるように見つめられ、ウィリアムは表情を固くした。
信じるも何もない。嘘だったのだ。すべて。何も残らないくらいに。
心の中の訴えは、簡単に覆された。
「……僕はそうは思わない。シンデレラのすべてが嘘だなんて思わない。……兄様のすべてが、嘘だなんて……思わないよ……」
「ロイド……?」
なぜそこに自分の名前が出てくるのか。
「気づいてないの?周りが見えてなかったんだね、舞踏会でシンデレラと踊ったとき。あんな風に声を荒げる兄様は初めて見たって女どもが大騒ぎさ。父様もぽかんと見てた。母様は記憶から排除してるみたいだけど、あのときは失神寸前だったね」
ウィリアムは頭の中が真っ白になった。
そうだ。何故気づかなかったのだろう。いくら音楽が流れていたとはいえ、他にも踊っている組がいたとはいえ、あれだけ声を大きくして、あれだけ不審な動きをしては、注目が集まらない方がおかしい。しかもあの日の主役の二人だ。
周りが見えていなかった?
この自分が?
シンデレラと踊っていて?
そんなところを、他人に見られたのか。見せたのか。
信じられない。
「僕は……嬉しかった」
ウィリアムが呆然とするのを、ロイドは苦笑しながら見つめていた。
自分もその光景を見たときは思わず何度も目を擦った。周囲のざわめきを繰り返し確かめ、母の様子を窺って。父の唇が緩やかな弧を描いたのを見てからやっと、思う存分頬を緩めた。とても嬉しかった。
今までにない兄の一面をかいま見れたことが。
引き出している人間がシンデレラだったことが、さらに嬉しくて、少しだけ悔しくて。
だから、決めていた。
「……僕は」
舌が痺れる。顎が錆び付く。どうしたって心が怯む。
知っている。
多くの人々の自分に対する評価は『小生意気なクソガキ』。
それを助長する態度を取ってきたりもした。誰に対しても、兄に対しても。
憤りながら盾に使ってきた。
「僕は……」
目が、熱い。
「兄様の笑顔が、ちぐはぐだって気づいてた。そぐわない場面で繰り返し笑うから、どこか変だってわかってた。何かを隠すように笑う兄様が……嫌で嫌でたまらなかった。僕は……」
拳が震える。
こんなにも、弱いけど、ちっぽけな自尊心とどちらが重いかなんてわかってる。
うつむきがちになる頭を起こして、熱に潤む瞳を隠さず、まっすぐ。見つめることができたらそれだけで強くなれるような気がする。
見せてほしいと望むなら、見せなきゃ駄目だと思う。きっと。
汗ばむ拳を握り直した。
「母様を、『お母さん』だと思ったことがない。母様は母様だけど、そんなんじゃなくて。父様も……父親だけど、『お父さん』じゃない。……でも、嫌なんだ。僕は……兄様みたいに、笑ってないのに笑うのは嫌だよ。……僕だって、王子だ。わかってる。民衆の前では無理やりでも笑ってみせる。でも、母様や父様や兄様の前で……そんなこと、したくない!大臣に怒られても、母様に疎まれても、兄様に嫌われても。嫌だ!……僕は、僕でいたい。だって、……家族、だから。どんなでも家族だと思うから。嫌われたって、……そのままの僕を見てほしい。見せて、ほしいんだ……」
頭に血が上る。怒りではなくて。羞恥ともいえない。わからない。
心臓がうるさい。馬鹿みたいに足が震える。
初めて自分の意志でむき出しの心をさらけ出した。
傷つくのが怖い。怖いけど、どこまでも逃げてばかりの自分でいたくない。
眼球が熱くて。視界がにじみすぎて。それでも兄の姿が見たかったから、目を擦った。
唾を飲みこもうとしたが、喉仏が動いただけだった。
兄はひどく苦しそうな顔をしていた。
見たこともない苦悶。でもまだ、耐えている。
「正しいとか間違ってるとか、考えないよ。……兄様が痛いかどうかなんて、考えない。もっと痛い目に遭わされてもいいから……、見せてよ」
兄にとっての大切なものが自分のそれより劣っているとは思わない。
だから、傷つけても、傷つけられても、絶対に怯まないと決めていた。
「見せてよ、……兄様」
ロイドの眼差しは、涙に濡れそぼっても、決してそらされることなく。
ウィリアムはずっとまぶたを閉ざしたかった。
だが暗闇に逃げこんでも追ってくる声から逃れることは叶わないのだろう。
幼い声。幼い眼差し。幼い……弟。
昔からそれらに対して勝てたことは一度としてなかった。
顔が歪む。
笑えない。
笑うことが、できない。
「……私はおまえほど、強くない」
離れた年の数を数えても何かを得た年月というよりは失った日々のようで。
稚い姿にかつての自分を思い返してはその本質の明らかな差異を知る。
同じ『王子』としての立場にありながら、弟が己を見失うことは決してない。
長男だとか、世継ぎだとか、儚い言い訳が行き交うたびに思い知った。
強い、強い、強い弟。
諦めることなどないのだろう。
こうして涙に濡れながら、すべてを越えていくのだろう。
羨ましくて妬ましくて愛しかった。
「僕は兄様ほど強くない!笑えるのに笑わないわけじゃないっ、笑えないから笑わないんだから……。……でも、シンデレラが、それでもいいんだって言ったんだ。……終着点は、今じゃないから」
「……ロイド」
いつも、痛みに耐えきれなくなるのはこんな時だった。
弟の口から自分を語る言葉が出るたび、それがどんな内容であっても痛みが走った。
劣等感を感じていると知っていた。羨望を抱いていると知っていた。複雑な思いに苛まれていると知っていて放っておいた。
弟が、どんなに傷ついても。
それくらいは許されると思ったから。
いつか周りも気が付くに決まっている。
それまで、それくらいの傷さえ受けないなんてひどすぎるから。
心に巣くう二律背反な思い。
その苦痛を、一方だけ感じなくなるのは不公平だと思ったから。
「……私は、強いと言われるような人間じゃない!私は……私は……っ」
卑屈で。卑小で。卑怯で。
ここまで心をさらされてなお何一つ返すことができない。
「兄様は、僕のことも信じてないわけ?」
「違う!」
思わずとっさに叫んでいた。
ロイドが笑う。
「兄様は強いよ。強いんだ。自分でわかってよ。兄様は強くて……そればっかりじゃないだけだよ。でも、強すぎたおかげで僕は強くない部分のことをほとんど何も知らないんだ」
違うと、思うのに、言うことができない。
そうであったらいいと思う心は弱者の証だろうか。
思いこみにさえすがりつきたい弱さの発露なのか。
そうでありたいと、願う心は。
「教えてよ。知りたいんだ。僕の知らない兄様のこと。……今までが全部嘘だったなんて思わない。知らないことがまだまだあるんだって思うよ。全部暴こうなんて思わない。……でも、お願いだよ。苦しいときはそう言って。泣きたいときはちゃんと泣いて。……無理して笑わないで。ほっとするけど、痛いんだ。……痛いんだよ」
「……ロイド」
今ここに、偽りは微塵もない。
何故かそう思えた。
何の保証もないのに。
もしも偽りがあったとしても、それでもいい。
応えたいと感じた自分の心は本物だと思えるから。
何の保証もないけれど。
「私……は」
唇を戦慄かせて、何を言うべきか数秒迷った。
言わなければならないことが多すぎる。
言えそうなことはひどく少ない。
「おまえの兄は……どうしようもない男だ」
出てきた言葉は思ったことそのままだった。
情けない。意気地がない。本当に、どうしようもない。
終着点は幻さえ姿を見せず、目の前の道のりは至極険しい。
それでもロイドは片眉をつり上げ、少しだけ微笑んだ。
「兄様のこと悪く言わないでくれる?言っていいのは今のところ僕と……シンデレラだけだ」
おそらく伝わってくれたのだ。受け取って、くれたのだ。
ふっと息がもれたが、すぐに付け足された名前に眉を寄せた。
「シンデレラは……幻だ」
「……兄様がそんなこと言うなら、シンデレラのことを悪く言っていいのは僕だけだ」
ロイドは深いため息をついた。
眉間をもみしだいてから挑発するような笑みを浮かべる。
「賭けてもいいよ。シンデレラは現実で、兄様のことが大好きだよ」
ウィリアムはいっそう眉を引き寄せた。
「……あり得ない話だ」
シンデレラの正体は魔女だ。魔女の目的は仕事にかこつけた暇つぶしだ。自分は単に暇つぶしの遊び道具。ただそれだけ。
「だったら確かめてみたらいい。さっさと探してきてよ。母様好みの高慢女が義姉様だなんて、絶対に御免だからね!」
「ロイド、シンデレラは……」
言いかけて、ふと、額に手を置く。
今は痛くも何ともない頭。鼻。……唇。
あの女が最後によこしてきた弱々しい頭突きの意味は何だったろう。
くちづけというにはあまりに不格好な接触事故。
やることなすこと、所詮戯れだと、深く考えたことなどなかった。
だが。
「あれは……くちづけだ」
断言すれば本当にそうだったように思えてきた。
「泣きそう……だった」
本当にそうだったか、そう思っていたいのか、段々とわからなくなってくる。
「私は……言ってしまったんだ。嘘つき、だと」
それでも、何かがやっとつながった気がした。
嘘だったのか、違うのか。どこまでが嘘でどこからが本当なのか。
何もわからないのに一つだけはっきりしていることがある。

嘘で、なければいい。

本当だったら、いい。
できれば……すべて。

心に深く刻まれた部分だけでも。

くすんだ金茶が漆黒に塗りつぶされる。偽りが真実に消えていくのが嫌で、外ばかり眺めていた。
黒髪の女に思い出すことはほとんどない。記憶が手と手を取り合って結びつくのを頑なに拒否した。
不快に顔を歪め、何が不快なのか、考えることから逃げ続けた。
「嘘でなければいい、なんて……」
気づいてしまったら、どうなるのか、恐ろしくて。
願いをはね返されるのが怖くて。
希望を抱く勇気もなくて。
それでも。
「……嘘で、なければ……いい」
こんなにも救いを求めている。
気づかなければ楽だったのに、気づいてしまった。
なおも動こうとしないのならば赤子と言われても否定はできない。
だが、どうすればいい?
いくら信じたいと願っても、滑稽な思いこみで嘘と本当を取り決めても。
この現実には確実に真実が存在するのに。
すべてが虚構でもかまわないと納得できるほどおめでたくもなければ寛容でもない。
何より楽な術は知っているが、目覚めてしまった心を抑えることは難しくて。
前後左右、どこにも足を動かせない。
「あー、もう!見てるしかないってのに見てられないんだけど!」
ロイドは思わず頭をかきむしった。
硬直したままの兄が何を思っているかなんて考えれば考えるほど絶叫したくなる。
引きずってでも捜させてやりたいが、それでは意味がない。
いや、意味は……あるのかもしれない。
少なくとも、こうして手をこまねいているよりはずっと。
「ちょっと待ってて!」
ロイドはすさまじい速さで廊下を疾走してあっという間に戻ってきた。
ウィリアムが見送る暇も迎える暇もない。ただ驚きに目を丸くするしかなかった。
その前に、ずいっと両手を差し出される。
ガラスの靴が、乗っていた。
兄と弟の視線がぶつかる。
「置いてったんなら探せってことだろ」
ロイドが言った。
「……そういう解釈もできるのか」
ウィリアムはうわごとのようにつぶやいた。
この靴をはけるのは一人しかいないから。最初に勘違いした通りの用途で使用しろということかと思っていた。
それくらいの義理はあったのかと。
しかしそういえばあのふざけた『シンデレラ』はこつさえつかめば誰でもはけるようなことを言っていた。
何故置いていったのか。
ロイドの解釈は当たっていない。
探す必要はない。どこにいるかは知っているのだから。
「何故……」
引き寄せられるように腕を伸ばす。
ウィリアムの指が触れたのと、ロイドの手が離れたのが同時だった。
蝶の羽のごとく、重さを感じさせない靴は、宙を漂う間もなく床に縫い付けられた。
盛大な音と共に砕け散る。
無数の破片がはね返る。
ウィリアムはとっさに腕で目元をかばった。
足は間に合わない。服を突き破ることはないと思うが、もしあったとしても深くは届かないだろう。万が一にも眼球に刺さることのないよう動いたつもりで、しかし反射的に下を向いてしまっていた。
ウィリアムは見た。
飛んできた破片は、肉に刺さることもなければ衣装を破ることもなく、衝撃を加える前にすとんと落ちた。
直角に。
すぐそばで砕け散ったというのに、結局ひとかけらも当たりはしなかった。
「……どう、しよう……。ごめんなさい……兄様。僕、どうしよう……」
ロイドが蒼白になって震えている。
ウィリアムはじっと足元を見つめていた。
ガラスのくずは静かに床に伏している。
原形はまったくとどめていない。
「……兄様」
ロイドはもう何を言っていいのかわからなかった。
一瞬の出来事が信じられない。しかし音が耳に残っている。足元には変わり果てた輝きが広がって。
タイミングが悪かったのだ。あ、と思ったときにはすでに指が離れていた。
言い訳のような考えがぐるぐると回る自分に吐き気がする。
再度兄を呼ぼうとしたが、音にならなかった。
しかし心は届いたのか、ウィリアムはゆっくりと顔を上げた。
「……いい。それより、怪我は?」
「ない……けど」
言われて初めて気が付いた。
痛みはない。それどころか破片がぶつかってきた感覚さえなかった。
「そうか……」
「でも……ガラスの靴が……っ」
傷は治るが、割れたものは元には戻らない。
「気にしなくていい」
いいわけがない。
シンデレラが消えた夜身につけていた物の中で、唯一手元に残された品。
兄が割ろうとして自分が止め、父が保管していた大切な靴。
ただ一つの手がかりで、二人にとっては何にも代えがたい思い出の品であるはずなのに。
ロイドは唇を噛みしめて涙をこらえようとしたが、どうしても止めることができなかった。
ウィリアムは言葉を重ねる代わりにロイドの頭をそっとなでた。
「……ガラスは、割れるものだ」
ぶるぶると左右に動く頭をぽんぽんと叩き、小さく息をつく。
最初に手にしたときから予感らしきものは十分あった。そもそもガラスでできた靴など、巷にあふれる勇気の量がいかほどだろうが、砕けることを前提に作られたものだとしか思えない。
ガラスは割れるものだ。
容赦なく、粉々に。砕けてしまえば、いかな方法でつなぎ合わせようと、決して元の姿には戻らない。
笑えるくらい、それはそういうものなのだ。
「……ロイド、私は急用を思い出した」
ウィリアムはロイドの頬を手の甲で拭った。
ロイドは頬の肉を固くした。
「兄様?」
にじんだ視界の中で、兄の口元がかすかに笑っているような気がする。
拳をごしごしと擦りつけ、まぶたを固く瞑ってから恐る恐る開いた。
「どうしても確かめねばならないことができた」
「それって……」
期待に満ちた戸惑いを投げると、穏やかな苦笑が広がっていく。
「私は賭けに負けたのかどうか、勝敗の結果を」
ウィリアムは確かに笑っていた。
ロイドは頬を拭いながらやっと口の端をつり上げた。
「……僕が勝ったら、『義姉様』をもらうよ」
なのにウィリアムの眉が困ったようにのけぞってしまう。
「それは約束できない」
「なんでさ」
「確かめることは……もう一つある」
そのときだった。
上品な音を立てて扉が開いた。
二組の目がそちらを見る。
現れたのは王妃だった。
王妃は非常に機嫌がよろしい様子で、ガラスに輝く不審な床にも明らかに泣いている子どもの顔にも目を留めずににこにこと笑った。声も心なしか弾んでいる。
「ウィリアム、あなたの婚約者に手紙を書きなさい。改めて顔を合わせる前にまずは書面での」
「母上、申し訳ありませんが気が変わりました。婚約は破棄させていただきます。まだ口約束だけだったとはいえ相手の方にはこの上なく手ひどい仕打ちでしょうからできる限りのお詫びはしたいと思いますが、母上に対してはどう言って詫びればよいのかわかりません」
続く言葉を遮り、ウィリアムは遜色ない笑顔を向ける。
「どういうことです?」
すぐには内容を認識しきれなかったのだろう。王妃が怪訝な顔をした。
ウィリアムはにっこりと、さらに微笑を深くする。
「何しろ確かめた結果次第では皇太子の座を退き生涯独身を貫こうと思っておりますので」
「ウィリアムっ?」
「何それ!聞いてないよ兄様!」
王妃に続き、ロイドまでが声を上げる。
ウィリアムはロイドに振り向くと、ふっと頬を緩めた。
「私が勝ったらの話だ」
「二人とも、一体何の話をしているのです!」
苛立ちが戸惑いを押し始めた声に再び笑顔を向け直す。
わずかな間見つめ合ってから、自ずと表情が消えていった。
「母上、私は王子ですが、王子は私ではありません。私の中には王の子らしからぬ部分も確かに存在するのです。……今まではその部分を押し殺そうとしていました。王の子として、そうすべきであると。……ですが、本当は……その部分も受け入れていただきたかった。あなたや、父上に、どんな私でも自慢の息子であると、そう言っていただきたかったのです。私の臆病ゆえに、そんなことは……、とても、言い出せませんでしたが」
本当はいつも笑ってなどいなかった。
本当に言いたかったことは何一つ口にしてこなかった。
それは母だけが原因ではなく、父や周りの者たちの責任でもなく、何のせいでも、それだけでは決してなく。
例え誰が違うと言っても、確かに自分自身の咎でもあるのだ。
「ウィリアム……?」
「といっても、今の私のすべてが偽物というわけではなく、おそらくは努力のたまものでもある……ような気がしてきたりしているのです。ですが、努力は努力ですから、取り残される部分もできてくるものだとは思われませんか?」
「ウィリアム、先ほどから何を」
「以前からずっと、……時々どうしても言いたくなるときがあったのですよ」
ウィリアムはため息をついて、再びにっこりとした笑顔を作った。
できる限り露骨に。
「いいかげんにわけのわからない物言いはおやめなさい!」
様子を窺うばかりだった王妃もとうとう怒りを露わにした。
ウィリアムは極上の作り笑いのまま、

「黙れクソババァ。二度とオレに指図するな」

地獄まで届きそうな響きを解き放った。
「な……っ、なんですって?今何と言いました!そのような……下賤の者のような口を……っ、王子にあるまじき所行ですよ!」
真っ赤になって取り乱す王妃から顔を背けてロイドに苦笑を向ける。
「ほら、どうしようもないだろう?」
こんなものはほんのちっぽけな片鱗でしかない。身の内にたまった毒をすべて吐き出せば母は憤死してしまうだろう。民衆にはとてもじゃないが見せられない。
しかしロイドは吹き出すのをこらえてこらえきれない様子だった。
「そう?ちょっとかなりスカっとしたけど?いいんじゃない、新鮮で」
だからウィリアムも晴れ晴れと笑うことができた。
他には見せない。見せられなくてもいい。ここにわかってくれる人がいる。わかって、受け入れてくれる。
「ウィリアム!王家の誇りをどこへ置いてきたのです!」
受け入れてくれそうにない人が叫ぶ。
それでもその反応がくすぐったい気がして、ウィリアムは歌うように言ってのけた。

「あの世」

ロイドに手を振って部屋を出る。
呆然とする母の肩をつかんで横にどけ、『気品』をかなぐり捨てて走り出した。
捕まったとしても大人しくしているつもりはまったくないのだが、なるべくなら手間をとりたくない。
今のこの、世界が色を変えていくような気持ちのままで会いたかった。
「お待ちなさい!ウィリアムっ!」
王妃ははっと我に返るとすぐさまドレスの裾を翻した。
一人、取り残された兄の部屋で、ロイドは腹を抱えて笑い転げた。
母の誉れであり続けた『完璧』な兄より、今の方がよっぽどいい。
きっとこれからも羨ましかったり妬ましかったりすることはあるのだろうけれど、これまでよりはずっとそばにいてもらえる。
兄を感じる。
羨ましさも、妬ましさも、拗ねたように口に出せる。
おそらく自分も変わったのだ。
こんなふうにして、一歩一歩、確かに近づいていくのだろう。
「……兄様も元気になって、父様もすっきりして、母様も血の巡りが良くなって万々歳ってやつ……?あとは僕のために、未来の義姉様、ちゃんと捕まえて来てよね」
ロイドは唇を引き伸ばして、何度もまぶたを擦り付けた。


世界が塗り替えられていく。
少しずつ、着実に。
けれど何かが足りないまま。
心当たりは一つだけ。

おまえがいなければ始まらない。

どうしてそう思うのか。
この気持ちが何なのか。

わからない。

形になりそうな言葉はある。
それでも形になりはしない。

ただ

いてほしいんだ。

声が聞きたい。
姿が見たい。

どんな声でも、どんな姿をしていても。
偽りと真実にまみれて、嘘と本当を抱きかかえて。

それでも変わらないおまえがあるなら、

どんなことをしてもそれに触れたい。

少しでいい。許された心がほしい。
きっと返すことができるだろう。
叶わなくても、道は途切れはしないだろう。
現れて傷つかない者などいない。
恐れながら、それでも傷ついていくんだろう。

仕方がない。

そう思わせるのがおまえなら、

それはもう、仕方のないことなんだろう。


会いたい。


棺の中は今日も寒気がするほど静かで、重苦しい闇が頑なに空間を閉じている。
魔女はため息をつくことができなかった。自嘲しても、笑う気にはなれなかった。
身の内にたまるものは虚脱感ではなくなったが、もっと厄介なものになったような気がする。
吐き出せば何も残らなくなるような。苦しいのに、手放すのが恐ろしいような。
わけのわからないものに冒されていく。
痛い。苦しい。狂いそうだ。
魔女はすがりつくようにその方向を見た。
水晶球は金のかつらに覆われている。
伸ばそうとした手を、ぐっと握った。
ごまかしようのない心。
もう随分と長い間、それはいつも同じ景色を映している。
「余計なことを……しては、な。これ以上……。なおもかき回すだけだ、私は。それしかできないのだから」
魔女は固く瞳を閉じた。
闇は静かで、空気は冷たく、この心だけが騒がしい。
悶え、喘ぎ、迷惑顔の静寂を引き裂き続けている。
こんなにも騒々しい死者などいないと、大人しく脈を止めろと、暗闇が責め苛んでいる気さえする。
なのにもはや眠ることもできない。
胸が痛い。
何年、何十年、何百年、長い長い時の流れを、鼓動の続くままに生きてきた。
そろそろ壊れたのかもしれない。
それならそれで、完全に壊れきってしまえばいいものを。
だらりと首をのけぞらせた。
音が聞こえる。
睡魔か死か。儚い期待に反して地に足をつく音だ。
だが、幻聴だ。
魔女は足音に聞き入っていた。
いつまでも聞いていたかった。

「いるのでしょう、出てきてください」

うっすらとまぶたを開けば、闇の中に小さな炎がぽっかり浮かぶ。
記憶が巻き戻ったのかと思ったが、初対面のとき声をかけたのは確かこちらからだった。
幻。
しかし声は切り裂くように迫ってくる。
「他に行く場所があるのならばこんなところで千年近くも惰眠を貪ったりしないでしょう?」
足音が響く。
近づいてくる。
夢だと、幻だと、思っていたいのに。
空気が徐々にはりつめていく。
姿を隠すのは簡単だった。魔法を使っても使わなくてもやり過ごすことはできるはずだ。
だが、こんなにうるさくては。
こんなにも心臓が叫んでいては。
聞こえてしまう。聞こえている。
逃げられない。

「……帰れ」

うめくように声が出てから、長い間息を止めていたのだと気がついた。
呼吸を取り戻すとかえって心臓が痛くなったような気がした。
「歓迎は結構ですが、開口一番それとは……少々ひどいのではありませんか?」
吐息が笑う。
どんな顔で笑っているのかよく見えなかったが、きっと痛いに違いなかった。
「……おまえの願いは、叶える。今すぐ。だから帰れ」
魔女は息が切れないよう、胸元を覆う布を必死にわしづかんだ。
なのに、
「この上私があなたを頼るとでも?そんなことのために訪れたわけではありませんよ。……まずは姿を見せていただけませんか。一方的に見られるのは気持ちの良いものではありませんから」
表情を作れと声が言う。
今の自分には団子のような鼻もなければたらこのような唇もない。例えその場の思いつきでも、理想だと言っていた要素は何一つない。
気安く会話を交わし合った時間さえ、もはや失われたものなのに。
今の姿で、どんな表情を浮かべて、どういった調子で話せばいいのか。
考えれば考えるほど顔の筋肉が強ばっていく。
おそらく信じてはもらえないのだろうが、嘘をつくのは苦手なのだ。
それでも、なんとかして乗り切らなければと、強烈に思った。
魔女は人差し指に拳ほどの火を灯し、二人の間に放り投げた。
なるべく遠くに。顔が見えないように。
悟られないよう、なるべく中間に。
大きく息を吸いこみ、拳を握って頬を歪めた。
「……ならば何をしにきた?話ならば聞く。おまえの気がすむまで。頬を打つなら両方やろう。どうとでもすればいい。……責めを受ける謂れはある」
精一杯の笑顔だった。
とにかく笑わねばならないと思ったから、魔女は状況に対するその奇妙さに気づくことはできなかった。
まるで自分を見ているようだ。
ウィリアムは苦い思いを感じていた。
ちぐはぐで、不格好で、見苦しい笑顔。
今にも泣きそうな顔だ。
嘘か、感傷なのか、今は確かめることを迷わない。
「あいにく私は話しに来たのでも殴りに来たのでもなく……聞きに来たのです。あなたの言い訳と、事実に基づいた……願わくば、納得のいく理由を。今のままではどうにもすっきりしませんので」
「……話せば納得するとは思わない」
「それはそうですが、責めを受ける謂れはあるのでしょう?私が聞きに来たのですから、あなたは話さなければならないはずです。……それとも、無理やり納得させるために美しい嘘を並べ立ててみせますか?……それがあなたの償いだとおっしゃるなら、どうぞご自由に」
慣れたしぐさで冷ややかに微笑む。
魔女は静かにつぶやいた。
「……嘘をつくことが……必ずしも悪いことだとは思わないが……、おまえには、悪いことをしたと、思っている」
炎は遠くにある。闇は濃い。
それでも、うつむいてしまう。
上手く言葉を紡げない。
こう思わせるべきだからこういう言い方をすべきだとか、何も考えずにありのままを言えばいいのだとか、下手な計算が頭をよぎるが、そもそもの事実からして曖昧で、どう説明すればいいのか、まるでわからない。
混乱している。
まとまろうとしないまま……口が、動き出す。
「……暇つぶし、だ。理想に……ぴったりの女がおまえを想っていれば……恋愛に対する態度が軟化するのではと、最初はきっかけを作ってやるだけのつもりだった。その役を私自身がやったのはただの、暇つぶしだ。……そうだった」
毎日毎日、とてつもなく暇だった。
生活に飽きた。生きることに飽きた。飽き飽きしていた。
昔、まだ人々が不思議なものを日常に受け入れていた時代、魔女も人と共にあった。洞窟で暮らすようになったのは何百年かのち、魔女狩りが行われるようになってからだ。多くの仲間たちが火にくべられ、なんとか生き延びた者たちは各地の森や洞窟に散り散りに逃げた。
『魔女』といえども人は人であるからして、『人間』を憎むことはせず、いつか理解してもらえる日を待つため集わず目立たず害なすことなくひっそりと暮らすことを選んだのだった。
誰もいない暗闇で、一人。
誰と話すこともなく、するべきこともない。
ひどく退屈な日々。
人々との接触が取り戻されるまで、何百年待っただろうか。
自分の名が再び外に出て、国王にまで届いた頃。
戦争が始まった。
多くの人間が強い願いを胸にやってきた。
一つ一つを精一杯叶え、平和を願う人々のためにできる限りのこともした。
戦を拡大させようとする国王に度々はむかったりもして。
途端に忙しくなったが、いざ平和が訪れると、途端に暇になった。
代替わりした国王が洞窟のある森を封鎖したという話を聞いた。
彼は戦争が始まったのも長引いたのも『魔女』のせいだと考えたようだった。
真実は知らない。
だが、人々が自分を忘れていくなら、それでもいいと思った。
人は自らの手で望みを叶えようとする姿こそが美しい。
そんなことは、とっくにわかっていたのだから。
ただ毎日何もなくて、死にたくなるほどつまらなかった。
外に出るのは簡単だけれど、そこに居場所があるわけではなくて。
力を隠して人として暮らそうとも、どうにもできない部分は必ず存在する。
命を絶つには臆病で、頑固で、自尊心が高く、希望を捨てきれず、世界が愛しかった。
時が流れ、『魔女』は忘れ去られ、森の封鎖も解かれて、迷いこむ者がぽつぽつ現れるようになると、毎日、……ずっと。

誰かを待ち続けた。

一度きりの、出会い。
自分と関わってくれた、数少ない人々。
暇つぶしに利用したのは本当だけれど、幸せを願っていたのも本当のこと。
ただ……城は、楽しかった。
楽しすぎた。
鼻持ちならない王族どもを引っかき回してやろうかとも思っていたのに、王も王妃も王子もみな気に入ってしまった。
甘やかされること、厳しくされること、慕われること、疎まれること、どれもこれも懐かしく、新鮮で、嬉しくて。
「おまえは……おまえに懸想した女でいることは、とても……楽しかった」
長い半生だったが、恋愛をしたことは一度もない。片想いでさえ。
もしもそういう相手がいたなら客を待つ日々も少しは楽しくなるのではないかとよく考えたものだ。
だから私情が入ってしまった。
恋愛気分を味わう絶好のチャンスであると。
「……おまえの理想に沿うように、できる限りのことをした。……鏡の前で何度も鼻の角度を検討したり、唇の厚さを毎日少しずつ変えてみたり。肌の色が一番難しくて……満足のいく色合いになるまで何度も魔法をかけ直した。……そのたびにおまえの反応を確かめて、気になって。気づいたのは、髪を切ったときだけだったようだが。それでも私は、楽しかった。……毎朝最初に出会うまでの不安と期待のせめぎ合いや、反応を窺うときの胸の高鳴りや、一つ一つのしぐさに神経を尖らせる緊張感。……まるで、本当に恋をすることができたような……、そんな気になった」
シンデレラと呼ばれるたび、本当に『シンデレラ』になっていく。
気弱な素振り、強気な素振りをするたびに、新しい自分を発見する。
恋を、しているように、……振る舞えば。

「……これが、恋ならいいと。そう……思った」

ウィリアムに聞かせるためというよりは、心を整理するために口に出した。
「勘違いを、してしまった……」
唇を歪める。
いつからだろう。
わからなくなったのは。
ずっと、恋をしてみたいと思っていた。
そうすれば救われるような気がしたから。
寂しかったから。
とても、寂しかったから。
だが、違う。
いつまでも『シンデレラ』でいられたらと思ったけれど、実際には、自分は魔女で。
闇の中にしか居場所がない。
恋などしてはいない。
……はずだ。
「私は、混乱している。……おまえの顔を見たくはなかった。戻ってすぐに……おまえの願いを……叶えようと、したのに。誰の願いなのか、わからなくなって……できなかった」
あれから何度も思い返した。
楽しかった初めての舞踏会。初めてのダンス。
あのとき、初めて自然な笑顔を見せてくれて本当に嬉しかった。
きっとロイド王子の方が自分の何倍も支えになれる。
誰よりも近くにいることができたら……という勝手な願いは叶わない。
それでもいいと思った。
純粋に、嬉しかったから。
なのに、他の誰かもあの手を取り、あの笑顔を見て、あんなふうに踊るのかと思えばいてもたってもいられない。
恋ではないのに。
演技だった。
すべては思いこみのなせる技。
けれど、どうしても、苦しくて。
だがそんな衝動で力を使うことは許されない。許さない。

混乱する。

どこまでが嘘でどこからが本当か。
どこまでが願望でどこからが現実なのか。

わからない。

確かなのは、仕事に一定以上の私情を持ちこんだあげくただ引っかき回しただけで終わらせ、依頼人に詫びる方法さえないということだけ。
二度と顔を見せないことくらいしか思い浮かばない。
だがそれさえも、一体誰の望みなのか。
「……帰れ。話すことはすべて話した。もう聞きたいこともないだろう。……帰れ」
帰ってくれ。
懇願しそうになるのを懸命にこらえた。
存在を感じると、夢を見たくなる。
『シンデレラ』のようになりたいと願ってしまう。
死者が棺から出られるはずもないのに。

「……魔女というのは人間か?それとも魔物なのか?」

唐突に問われて思わず眉をひそめる。
「……人間だ。それがどうした」
ウィリアムはため息をつきながら首を鳴らした。
「別に、たいした問題でもないが、気になっていただけだ。……帰るぞ」
どこか満足げなその様子に、魔女は目を細くした。
「……達者で暮らせ」
もう二度と会うこともないのだろう。
この痛々しい勘違いも、じきに忘れる。きっと忘れる。
それでもその姿を目に焼き付けようと、まっすぐに前を向けば。
「馬鹿かおまえは」
呆れ顔で言われた。
そういえば話し方もぞんざいなものに変わっている。
乱暴に、

「帰るぞ」

手を、差し出される。
「……何?」
炎の向こうで照らし出された右手に、魔女は呆けたような声しか返せなかった。
「ガラスの靴が割れた。オレの足に当たるはずだった破片が垂直に落ちた。おまえの仕業だろう?なんらかの方法で見ていたんだろうが。不快だ。……そばで見ていろ」
二度と見られないと思った姿が、一歩、また一歩、近づいてくる。
幻聴だ。幻覚だ。これこそ、夢幻だ。
手は炎の直前で立ち止まった。
「帰るぞと、言っている」
横柄な視線とかすかに笑みを刻む口元。
魔女は呆然と立ちつくしていた。
「私は……魔女、だぞ……?」
「だから確かめたろう。人間なのかと。安心したぞ。魔物よりは面倒が少なくてすむ」
そんな大雑把な話があるか。
言おうとした言葉を見透かされたかのように遮られる。
「たまたまおまえが魔女だったんだ。仕方がない」
「……しかし、私は……シンデレラではない。この感情を……恋、だと、言うつもりも……ない。何故だ。何故……私を……」
「自惚れるな」
ウィリアムはふっと顎を上げて前髪をはねのけた。
「オレはおまえに心奪われたつもりはない。なのに何故なのか。それも確かめに来たつもりだったが、さっぱりわからない。……だが、……そばにいろ。オレがおまえに飽きるか、おまえがオレに飽きるまで。……おまえがいないのは……嫌、なんだ。嘘を、ついてもいい。……だが、嘘はつくな。理由や経緯はどうであれ、おまえはオレを選んだ、そのことだけは。『シンデレラ』にしろ、『魔女』にしろ、オレはただ……不快を拭うために迎えに来ただけだ。オレの隣りに並ぶ女は、ガラスの靴をはくことができれば誰でもいいというわけじゃない」
魔女は何か言おうとして、何も言うことができなかった。
差し出された手をとってしまいたい。
だがウィリアムの手は大きくて、まぶしすぎる。
「……私は魔女だ。人間だが、常人ではない。……外の世界には……受け入れられない」
現実はそれほど大雑把には進まないものだ。
この洞窟を離れ、城に入って皇太子の横に並ぶなど、ありえない。
また戦争が起こるのか、それともこの身を炎に焼かれるか。
様々な不幸を呼ぶことになるだろう。
『シンデレラ』にはできることが、『魔女』にはできない。
『人間』の望みはすべて叶えることができるのに、『魔女』の望みはけして叶わない。
『シンデレラ』でなくてもいいと、……言って、もらえたのに。
「……何故泣いている」
ウィリアムの声に肩が揺れた。
「……泣いていない」
「随分嘘が下手になったものだ」
魔女は口元を引き締め、ゆっくりと顔を上げた。
頬に濡れた感触はない。やはり、泣いてなどいなかった。
ウィリアムは何を言っているのだろうと思う。
こんなにも上手に笑おうとしているのに、泣いているわけがない。
ただ少し、困っていた。

右手が消えない。

まっすぐに差し伸べられたまま、静かに待っている。
「……早く、ひっこめてくれ。おまえのしてくれたことはすべて嬉しかった。これ以上はもう……つらい。帰れ。早く……っ」
ため息の音が洞窟中に響き渡る。
ウィリアムは眉間にしわを寄せ、仕方のない奴だとでもいうように笑ってのけた。
「おまえは案外弱い女だな。……もっと、強いのだろうと思っていた。なるほど魔女といえど人間には違いないらしい。……人の心は、やがて変わる。どんな気持ちも、誰の心も。他人の願いを叶えながら、何故自分の願いは叶えない。こんなところにいて何ができる?……受け入れられたいのなら、受け入れられる努力をしてはどうだ」
魔女は目の前の世界が音を立てて破れたような錯覚に陥った。
「私は……」
何年、何十年、何百年、長い長い時の流れを、鼓動の続くまま……ひたすらに、待ち続けた。
「わ、たし……は……」
闇の中でただ一人、虚無にまみれ、怠惰に身を沈めた。退屈に息をもらし。
諦め半分に希望を捨てきれずにいた『いつか理解してもらえる日』。
何故。
何年、何十年、何百年、
どうして。
どうして、『理解してもらうこと』を考えずにいたのだろう。
足元ががらがらと崩れ落ちていくような感じがする。
うっすらと、気づいては、いたのだ。
ウィリアムに投げた言葉はすべて自分に向けたもの。『シンデレラ』でしかいられなかった自分自身への断罪。
それでも。
「怖い。……私は、異質だ。理解は差異を知ることだ。受け入れられるはずもない。……ずっと、外に出たかった。晴れた空、明るい日射しの下で……泣いたり、笑ったりしたかった。だが、外に出て、『おまえの居場所はここにはない』と言われることが……怖いのだ、とても」
「……だがそれでは何も変わらない」
ウィリアムが緩やかに首を振る。
魔女は頷くしかない。
何もしないまま何も変わらずに過ごした日々。
年月の差はあれど、お互いよく知っている。
変えたいのなら、変える努力をしなければならない。

本当にそう願うなら。

右手が軽く手招いた。
「もういいか?腕を上げているのも疲れてきた。いいかげん、しのごの言うのはやめにしろ」
炎を挟んで、一歩と十数歩。
ウィリアムの腕はまっすぐに伸びている。
伸ばせるだけ、伸ばされた、手。

静寂が時を歪めた。

薄闇の中、二人は互いを見つめ続ける。

炎が揺れる。
救済のように。障害のように。

魔女はピクリとも動けなかった。
迷いはしなかった。
戸惑っていた。
この手はきっと、自分に伸ばされる唯一の手だ。
魔女たる自分を知った上で差し出された、ただ一つの手。

許された場所。

抗えない。
抗えるわけがない。
傷つくことの痛みと恐れがどれだけ制止を呼びかけても。

抗いたくない。

足が勝手に走り出す。
一つ蹴るごとに何も考えられなくなっていく。
痛いほど、腕を伸ばして。
互いの指と指を組み合わせて。
踊るように腰を抱かれて、隙間を埋めるようにしがみついた。
炎を飛び越え、影と影が一つになる。

「……ウィリアム、私の居場所は、おまえがいい。わからない、わからないが……おまえが、いい」

回された腕にぐっと力をこめられ、涙が出た。
ウィリアムは抱きしめたぬくもりを感じながらさらに力をこめた。
理由も経緯も、過去も未来も、何がどうなろうと、意味を成さない。
偽りも真実も痛みも恐れも何もかも遠のいていく。
あの夜から、今、やっと。
やっと……

手と、手が、つながった。

「わからなくて、いい。わからなくても……同じ、だ。例え、違ったとしても、変わらない」

名前など、どうでもいい。
正体など知る必要はない。

形は違えど、誰しも救われたいと願うだろう。
誰しも真実を知ることなく、あらゆるものを脚色し、
不鮮明な世界の中で生きるだろう。

これが恋だと、一言言えば恋になる。
だからそうは言わない。

それでもおまえがいいと思った。


「……それに、心配せずともおまえなどを妻に迎えようとする男はオレくらいだ」
わかりやすい照れ隠しに、魔女は泣きながらクスクスと笑った。
「……おまえ、猫を被ってないときのひねくれ具合がロイド王子とそっくりだな」
喜ぶべきか憤るべきか。ウィリアムは無言で押し通した。
魔女がますますおかしそうに笑う。
ウィリアムは憮然として腕をほどいた。
「……帰るぞ」
「……ああ。かえ、る。……『帰る』。……いや、少し待て。持っていきたい物がある」
魔女はくるりと踵を返すと、奥から白いドレスと金のかつらを持ってきた。
「初めての舞踏会のために初めて贈られたドレスとかつらだ。初めての婚約者殿からのな。嬉しかったから、持っていきたい」
からかうようなウィンクを無視し、ウィリアムは疑問に思っていたことを尋ねてみた。
「……そういえば、靴は何故置いていった?」
「……わがままだ。おまえは忘れたいだろうと思ったが、私は忘れられたくなかった。ガラスの靴なら簡単に壊すことができる。だから、つい置いていってしまった……」
ドレスとかつらはどうしても持ち帰りたかったしな、と魔女が付け足す。
「いい迷惑だ」
ウィリアムはふいっと顔を背けた。
そんなものを置いていかずとも城のあちらこちらを見るたび思い出していたなどと、絶対に知られたくはない。
背けた視線の先に何やら小さな光を見つけた。
目を凝らしてみるが、暗くてよくわからない。
魔女がにっこりと笑う。
「……あれはいいんだ。もう……あんなものに映す必要はない。見たいものはこの目で見る」
その言葉になんとなくその正体を知る。
おそらく靴を割ったときに自分たちの様子を映していた道具なのだろう。
そう考えて、ふと気が付いた。
「……待て。どこまで見ていた?」
泣きっ面やら何やらを見られるのは非常に面白くないがまぁよしとしよう。
しかしシンデレラの名を呼び、探し求めていたあたりは……。
「いや、靴のときは偶然だ。それ一度きりしか見ていない。一刻も早く忘れなければと思っていたからな」
思わず安堵の息がもれた。
「いいか、あれは絶対に持ってくるな。のぞきを働かれるのは御免だ」
しかし魔女はにやりとほくそ笑む。
「ふむ、それはいい使い道だ。少々未練を感じるな」
「……おまえを義姉と呼ぶつもりでいるロイドを泣かせる気か」
「案外共犯者になってくれるかもしれん」
「……」
「本気で怒っちゃいやーん!王子サマってば相変わらず冗談通じなさすぎーっ!」
「おまえこそ相変わらずふざけた女だっ!」
「いやいや、私は人生において最も大事なものは娯楽だと宣言する。……まぁいい。あれがなくてものぞきなど容易いことだ。……。冗談だと言っている!そんなことをする必要などない。……そばに、いて、いいんだろう?」
「……いささか不本意だが、な」


二人、言葉を交わしながら、一歩一歩出口へと進んでいく。
辺りに群がる闇たちはざわざわとざわめいて主の門出を祝い、やがてしんと静まりかえった。
闇の奥に潜む小さな光はもはや何も映さず、輝きを取り戻すこともない。
すべてのものの侵入を拒むかのように、冷たい静寂が横たわる。
棺は閉ざされた。
重く、固く。

以後、開かれることは二度とない。
END.
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