『路上詩人』

 その日私はすごく機嫌が悪かった。
機嫌が悪かったというか、運が悪かったのかもしれない。
なにしろ嫌なことが重なりすぎた。
今まで忘れかけていた嫌なことが一気に襲ってきた一日だった。

 ため息をつきながら会社を出ると、夜の闇が重かった。
私はガムがへばりつき煙草が捨てられているアスファルトばかりを見つめながらいつもの道を通って駅へと向かった。
駅の周辺には夕暮れと共に浮浪者たちがたむろしている。
彼らは特に何をするというわけでもなく、段ボールの上に寝そべってぼーっとしていたりするのだが、私は彼らの横を通るときいつも緊張してしまう。
他の人もそうなのか、駅へ入る人はみんな前だけを見て歩いている。
私は誰とも目を合わせないようにして通り過ぎた。
そのときだった。

「ちょっと待った!そこの美人なおね〜さ〜ん。落とし物ですよぉ〜っ!」

少年らしい声が聞こえた。
私は一瞬驚いたが、振り返りはしなかった。
どうせ他人事だ。

「あなたですってば!そこのこの世の不幸を全部しょいこんだような顔して薄い黄色のスーツを着ている27、8くらいのお姉さんっ!」

「私は25よっ!」
私はツカツカとUターンして少年に平手打ちをくらわせた。
「ひっでぇ〜っ。落とし物を届けようと思っただけなのに…。」
少年は頬をさすりながら抗議したが、知ったことではない。
機嫌の悪い女の神経を逆なでするとこうなるのだ。

「で?私が何を落としたっていうのよっ!」

「幸せ。」

少年はにんまりと笑って言った。
私は顔をしかめた後、呆れからくるため息をいっそう強調して吐いてやった。
「あ〜らら〜。姉さんそりゃダメっすよ。ため息つくと幸せが逃げるって言うでしょ。自分からそんなことしてちゃいつまでたっても明るい顔できないって。」
少年は無邪気な笑顔で言う。
「あ〜っ、もう、姉さん姉さんってうるさいわねっ!私は早く帰りたいのっ!あんたなんかにつきあってるヒマないのよっ!」
「せっかくの美人さんもヒステリー起こしてちゃ見れたもんじゃないよぉ〜?ハイハイ、まずはここに座って座って。」
少年はビールケースをポンポンとたたいた。
見るからにその辺から拾ってきましたという感じの薄汚れたビールケースで、そのまま座るとスーツを一着クリーニングのお世話にしてしまうのは必至だった。
少年がそれに気づいたのか、横で寝ていた浮浪者をむりやり揺さぶり起こした。
「熊田のとっつぁん!ちょっと商売に協力してくれよ。その段ボール一枚貸してくれっ。」
私は内心「ゲゲッ。」と思ったが、熊田のとっつぁんと呼ばれたそのヒゲもじゃの浮浪者は私と少年を見比べると
「おう。今度のねぇちゃんはずいぶん歳くってんじゃねぇか。年上の色香にやられたのか。」
と言って豪快に笑った。
「へっへ〜。年下だろうが年上だろうが女見る目は確かだろ。」
「どうだかなぁ。てめぇの好みってのは乳臭い女が多いからな。オレ様に選ばせるともっとこうムチムチぼい〜んの…。」
「ちょっと!いいかげんにして!私帰るわよ!変なとこに売り飛ばされるなんてごめんだわっ!」
私は精一杯大きな声を出して叫んだ。
今日はつくづくついてない。
こんな日は早く寝るに限る。
駅に戻ろうとしてきびすを返すと、腕を強く引っ張られた。
思わず目を閉じ悲鳴をあげたが、次の瞬間私は段ボールがしかれたビールケースの上に座らされていた。
少年がにこにこと笑っている。
「なんなのよあなた!」
私は叫ばずにはいられなかった。
すると、少年はキッパリとこう言った。

「詩人。」

「はあ?」
「詩人だよ。知らないの?こんなの国語辞典ひかなくたってわかるだろ?」
「言葉の意味くらいわかるわよっ!でも状況としてどう考えてもおかしいでしょーっ!」
「オレは路上詩人なんだ。気に入ったお客を捕まえて詩を作るんだよ。ちなみに女性専門。」
怒り狂う私を無視して少年が話を進めていく。
「やっぱ美人なお姉さんが顔くもらせてるのを見ると放っておけないっしょ。」
「・・・口が上手いわね。」
「そりゃ詩人なんだしこれくらいは♪」
「私お金なんて払わないわよ。」
「ああ、無料無料。お代は幸せな顔!金はいいんだ。いざとなりゃ熊田のとっつぁんのヒゲでも煮て焼いて食うよ。」
私はなんだかおかしくなって、少し吹き出した。
しかし、今の少年の口振りからするとどうも食べ物に困っているようではないか。
「ちょっと待って。あなたもしかしてここで暮らしてるの?どう見たって14、15じゃない。まさか家出じゃないでしょうね。」
「あ〜、まぁまぁ。詩人に謎はつきものってね。とりあえず詩を作ったからご拝聴ご拝聴。」
少年はわざとらしく咳きこんで言った。
「えっ!もうできたの?」
私は驚きながら、その出来ばえにほんの少しだけ期待した。
が。

「あああ〜、薄い黄色のスーツ着たOL〜♪背後霊いっぱいひっつけて〜肩こりひどそう〜♪…な顔して歩いてる〜♪何が〜何が〜何があったのぉ〜♪幸せ〜幸せ〜幸せになってぇ〜♪っていうかなりやがれ〜ってんだぁ〜♪オレの詩を聞いて〜ドイツもコイツも極楽気分〜♪…だったらいいなぁ〜♪」

バッチ〜ン!

「ええいやめんかいっ!」
私はこんな奴の詩に少しでも期待を抱いたことを激しく後悔した。
「いてて。お姉さんなかなかオーソドックスな音たててたたくね。で、どうだった?オレの詩。」
「……あんたこの道あきらめた方がいいわよ。」
私は冷たく言い放った。
「ちっ。ご満足いただけなかったか……。」
「当たり前でしょっ!だいたいなんで詩人が歌うのよ!しかもひどすぎる音痴!詩自体も最悪!」
言ったあとで少し言い過ぎたかと後悔し、少年が落ちこんだのではないかと思って少年の顔をのぞき込んだが、
「仕方ないなぁ。じゃ、熊田のとっつぁん、オレ今日このお姉さんのとこに泊まるから。みんなにオレは大人になって帰ってくるって言っといて。」
少年は全然応えていないどころか「冗談じゃないっ!」ってな感じのことを言って微笑んだ。
「あんたいいかげんにしなさいよ!」
私の抗議も無視して強引に駅へと入っていく。
しかも少年の腕は私の肩を抱いていた。
真っ赤になってぎゃあぎゃあと騒ぐ私を、ヒゲもじゃの浮浪者が豪快な笑い声で見送っていた。


 一人暮らしの1DKマンション。25歳花の独身の女性の家に、何故かどう見ても10代の少年がいる。
私は部屋の真ん中で青くなったままじっと正座していた。
「ハイ♪恵さん、お食事できましたよ〜♪」
すでに人のことを下の名で呼ぶふざけた少年、彼の名は 麻生 海。おそらくは家出人。
電車に乗っていた10分間で、わかったのはたったそれだけだった。
が、そんなことはどうでもいい。
「食事なんて作らなくていいわよ!頼むからさっさと出ていってよ!そもそもなんで家にまでついてくるのよ〜っ!あんたストーカー?警察呼ぶわよ!だからさっさと出ていって!」
私は少年をクッションでバシバシとたたきながらわめいた。
すると少年は
「あ〜♪この純粋な詩人魂を〜変態呼ばわりされるなんて〜♪海ちゃん大ショック!もう立ち直れない〜♪ひどい女だぜ恵〜♪近所の人に〜『僕、恵お姉ちゃんにキズモノにされちゃったよう。』ってふれ回ってやる〜♪明日の朝には〜悪女恵伝説完成〜♪」
と、高らかに歌い始めた。
「信じられない!あんたって……」
「ちちち。あんたなんてそんなつれない…これから一夜を明かす仲じゃないか。オレのことは海とよんでくれたまえ。」
私は疲れてうなだれた。
今日はなんてついてない日だろう。
早く寝ようにも、この少年がいては…… と、私は少年がじーっと一点を凝視しているのに気がついた。
少年がつぶやいた。
「ベッドが二つ……。」
私は心の中で舌打ちした。
あまり触れられたくないことだった。
しかし少年はそんな私の様子に気がつかなかったようだ。
「ふっ。しかしオレと恵が寝るのは一つで十分。さあ、恵……」
などと、妙に芝居がかったしぐさでほざいている。
「そうね。あんたは床で寝るんだもんね。」
私はベッドに横になり、ふとんを頭からかぶった。
少年の相手をするのはもうこりごりだった。

「あの子が出ていって以来静かだった私の日常が壊されるのは嫌なの。」

「!」
私はふとんを押しのけ飛び起きた。
少年が一枚のはがきを片手に私を見る。
「今までずっと一緒に頑張ってきたあの子。私達はとてもよく似てて、とても仲が良かった。同じ人を好きになったときも、一緒にお互い頑張ろうね!って言って笑いあった。なのに幸せになったのはあの子一人。私一人をこの部屋に置いて、あの人と結婚してしまった。」
私は頭に血が上るのを感じた。
「そのはがき返して!」
「この『結婚しました』ってはがきが来たからあんな顔してたんだね。丁寧にメッセージまでついてる。『恵、ごめんね。私…』」
「やめてよ!あんたなんかに首突っ込まれたくないわよ!」
私は少年からはがきをむしり取った。
はがきが音を立てて破れた。
縦半分。あの子とあの人を引き裂いて。
「そのはがき、切れ目入れてあったね。」
少年が言った。
「……だって、許せないじゃない。どうして二人とも私を置いていくのよ。私だけを置いて、どうして二人とも行ってしまうのよ……。」
私は必死に涙をこらえた。
声が震えるのを抑えることは出来なかったけれど、人前で泣くのは絶対に嫌だった。
「ふ〜ん。で?この子が憎いの?」
「え?」
少年は破けたはがきの片方を差し出した。
「じゃあこうしちゃえばいい。」
私の目の前に、紙吹雪が広がった。
「何するのよっ!」
私は少年を力一杯たたき、慌てて紙吹雪をかき集めた。
考えてとった行動ではない。自然と、そうしてしまったのだ。
全部集め終わったところで、私はふと我に返った。
そして気がついた。
「憎くなんかないわよ。大好きだったわ二人とも。だから、だから許せないのよ。」
涙があふれた。
かすんだ視界の向こうで少年が微笑んでいるのがわかる。
「見ないでよ。」
私の言葉を無視して、こっちに近づいてくる。
身じろぎした瞬間、優しく頭をなでられた。
「過去形じゃなく、今でも大好きなんだよ二人とも。恵さんはただ寂しかっただけなんだ。大好きだから、二人が違う世界にいってしまって寂しかったんだろう?」
「違うわよ。」
なんて生意気な少年なんだろう。
年上の女をこんな風に扱って、さもなぐさめてやっているという感じで頭をなでて、知った風な口をきく。
「この二人だって恵さんのことが大好きなんだよ。だから結婚式に呼べなかったんだ。みんなみんな優しい人たちなのに、愛情が少し行き違ったんだよ。恵さんはもうとっくに二人を許してる。ただ楽しい思い出ばかりのこの部屋に一人いるには繊細すぎたんだ。」
「違うわよ。」
なんて腹の立つ少年なんだろう。
何もかも見透かしたように余計なことをズバズバ言って、遠慮のえの字も知らなくて。
なのに、なんて、
今一番心にしみいる言葉をくれるんだろう。

頭をなでる手がひどく心地よくて、次から次へと涙が出た。
少年はずっと微笑んでいた。
「あんたって絶対ひどい女たらしになるわ。」
私は泣きながら笑って言った。
すると、少年はさらっと返したのだった。
「恵さんみたいな女性に出会えるんだったらそれもいいね。きっと極上の人生が送れる。」
「…口が上手いわね。」
「そりゃ詩人なんだしこれくらいは♪」

私は笑った。笑うと何故かまた涙があふれてきた。
その夜は10年分くらい一気に泣いて、5年分くらいぐっすり眠った。


 翌日、目を覚ますと部屋の中に少年の姿はなかった―――。
代わりに「お世話になりました。」の書き置きと、セロハンテープでかろうじて元の形を取り戻したはがき一枚。そして、ラップに包まれた昨日の夕飯。
私はまず少年が作ってくれたその夕飯を暖めて食べ、日曜なのにスーツを着込んで電車に乗った。
早朝の駅には、浮浪者たちの姿はすでになかった。
私はやみくもに探しまくり、人目も気にせず名前を叫んだ。
「海ーっ!」
いくら叫んでも少年は出てこなかった。
私はため息をついた。
そのとき、
「ため息つくと幸せが逃げるぞ。」
という声がした。
しかしそれは少年の物ではなかった。
「熊田のとっつぁん……。海は?」
ヒゲもじゃの浮浪者は首を横に振り、一枚の紙切れを差し出した。
「あいつぁあ元々この辺の奴じゃねぇんだ。ここ最近はここで過ごしてたけど、またどっか行っちまったみてぇだな。」
「そんな……。」
「そいつぁああいつの書いた詩だ。読んでみろ。ぶったまげるから。」
私はやおらその紙切れに目をやった。




見失わないで 優しい自分

寂しい心に奪われないで

笑顔くもらせるもの 多いけど

一晩泣いたら 前へ向かおう

一番素敵な君を見せて




「これを……、海が……?」
「ああ。」
私は辺りを見回した。
どれだけ見ても、あの少年はいない。どこにもいない。
そんな私の様子を見て、熊田のとっつぁんはニヤリと笑った。
「その詩の『一番素敵な君』ってやつ、あんたどんなんだと思う?」
私は考えた。
考えたが、よくわからなかった。
「……笑顔?」
適当な答を返した私に、熊田のとっつぁんは呆れたように首を振った。
「あんた自身が誰に対しても恥じることのないあんたってことだろ。あんた自身に対しても恥じることのない、な。あんた、そんな自分を海のやつに見せたかい?」
「見せてないわっ!私当たり散らしてばかりで、泣いちゃったりして……」
みっともないところしか、見せていない。
お礼の一言も言ってない。
こんなので、次の日突然いなくなっててハイお別れですなんてありだろうか?
言いたいことが、とてもたくさんあるのに。
私はうつむいた。
すると、熊田のとっつぁんが肩をたたいた。
「この詩は一番素敵なあんたを見たいと書いてあるぞ。」
熊田のとっつぁんはニヤニヤと笑っている。
私は微笑んだ。
「あの究極の女たらし……」
「ああ、なんたってあいつぁあ……」

「詩人だからな!」

私達はそろってそう言い、声をあげて笑いあった。


 その後私は電車に乗って家に帰り、一通のはがきを出した。



私の大好きな人たちへ。


『お幸せに。』と―――。
END.
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