『専属狩人』

財力権力地位名声を思うがままにした人間が、次に望むものはいつの時代もワンパターン。
ご多分にもれないこの男は今日もまた薄暗い密室で怪しげな本を開きおどろおどろしい呪文を唱えていた。
息つく間もなく舌を噛み、見たことも聞いたこともない文字をとにかく声にしていく。
酷使された第六感は疲労がたまるにつれてなんちゃって般若心経や小中高校の校歌、果てはジンムスイゼイアンネイイトクと、実に多様なものたちをブレンドし、万が一成功すれば一体何が起こってしまうのか、やたらと恐ろしい呪文に成り果てていた。
「呪文は完成した……」
自信に満ちた笑みが唇をつりあがらせる。
男は握り締めた拳を引き寄せると、大仰に腕を振り上げた。

「出でよデヴィル!!!このオレに不死を!不老を!人を超えた力を!」

一秒経過。

二秒経過。三秒、四秒、五秒、……………三分経過。
静寂にさえ小馬鹿にされていることに気づかないのか待ち続ける男。
やがて両腕をあげたままの姿勢に疲れると、男は古めかしい本を床に思いきり叩きつけた。
踏んで踏んで踏んで踏んで踏んで踏んで踏んでぐりぐりぐりぐり…黄色を通り越して茶色い紙が無残によじれ、引き千切られ、ぐしゃぐしゃになってしまったところで壁に向かってシュート。
「誰だぁーーこれの情報をよこしたのはぁーっ!ニ・セ・モ・ノじゃねぇかぁー!オレをなめてんのか?ああ?一族郎党、はとこの恋人やその友達の知り合いまで路頭で迷い死にてぇーのかっ!ホンモノだ!マジモンのモノホンだけありがたく献上しやがれ!ただしオレをさしおいて不老不死になったやつは世間からその存在を抹消だ!」
扉の向こうに控えていた部下たちがわらわらとつめかける。
彼らはみな一様に慌てた様子もなく呆れた様子もなくただただ困り顔だった。

男の名は神波鋼一。
平々凡々の家庭から一代で日本有数の資産家に成り上がった男である。
何坪もの土地を贅沢に使った平べったい木造邸宅に住み、把握しきれないほどの使用人や部下を従えてなお、彼の欲望は尽きることがない。

鋼一は広く長い廊下をまるで蹴り破るかのように音を立てて突き進んだ。
ボディーガードが小走りに付き従うのを一瞥し、ますますイライラが募る。
「鋼一様ァ〜…廊下が鴬張りになってしまったらどうするんですかぁ…。」
か細い声の秘書が少し背中を丸めて立ちふさがったのを見下し、横をすり抜けて歩調を強めた。
「鶯だぁ?ふん、みみっちいな!オレが歩くたびに象の鳴き声が響くよう改造してやるわっ!」
「一歩ごとにぱお〜んぱお〜ん響くとうるさいうえにマヌケですよう〜。鋼一様らしいといえば鋼一様らしいですけど〜。」
ボディーガードと周りにいた使用人たちの顔色が変わったが、当の二人は気がつかない。
「そんなふぬけた鳴き方の象なんぞ願い下げだ!象は象でも目を血走らせて檻を破るような男気あふれる象だ!」
「短気な象さんですね〜。ペットは飼い主に似るっていいますもんね〜。」
ボディーガードと周りにいた使用人たちの顔色が青を通り越して土気色になるが、当の二人は気がつかない。
「象の話なんぞどうでもいい!菜摘!例の妙薬についてはその後どうなった!」
秘書は眼鏡のズレをなおし、気持ちだけ姿勢を正した。
「あ〜、中国のご老人が札束を積んでもなかなか首を縦に振ってくれないんですけど…鋼一様ァ、ナマモノに手を出すのはやめましょうよ〜。絶対に賞味期限切れてますよ〜。」
「腹下しと不老不死を天秤に置くなマヌケ!脅せ!盗め!ぶんどれ!クソじじいに人が本気になれば法や常識なんぞなんの効力もないことを刷り込みしてやれ!」
「そう言うと思ってあらかじめ手は打っておきましたけど〜お年寄りは大事にしないといけないんですよ〜。」
まるで幼稚園の先生のように人差し指を立てる菜摘を無視し、鋼一は次々と確認をとる。
「例の石板は。」
「詐欺師さんのお話でした〜。」
「例の場所は。」
「昨日三人目が旅立ちました〜前の二人は行方不明届け出しときました〜。」
「例の技術は。」
「まだまだ実験中です〜。現時点では逆に寿命縮まっちゃうみたいですね〜。」
元々良いとはいえない鋼一の目つきがどんどん凶悪になっていく。
菜摘は口元に笑みをたたえていつものセリフを口にしようとしたが、残念ながらぬっと現れた影に横取りされてしまった。
「そろそろあきらめたら?」
優しげな微笑み…を通り越して黒目が確認できない糸目をいっそう細くして笑っている彼は、
「鋼次様ァ〜、こんにちは〜昨日ぶりですね〜。」
「オレはおまえにつきあっとる暇なんぞとうの昔に使い果たした。とっとと自分の家に帰れ。」
という反応もちと無理もないくらいに兄の邸宅に入り浸っている弟君である。

彼の名は神波鋼次。
バラエティーから役者、歌手までなんでもこなし、あらゆる芸能活動で大成功を収め人気絶頂の時に芸能界を去った男。
彼もまた豪勢な邸宅を持っているのだが、なぜか自宅にいるより兄の家にいる方が多い。

「兄さん、秦の始皇帝だって結局死んだんだよ。不老不死なんてあるわけないんだから。大人しく天寿をまっとうするべきだと思うよ。」
鋼一は自分よりもでかくてかわいげのない弟とその言葉にうんうんとうなずく秘書を鼻で笑って吹き飛ばし、床を強く鳴らした。
「天なんぞに寿命を決められてたまるか。始皇帝なんぞこのオレと比べるな。不老不死がないなら作るまでだ!おまえらはそうやって大人しく死んどけ。」
嘲るように頬の肉を上げる。
まるですべてのものの王であるかのように堂々と、まったくの本気で言っている様子に、菜摘は思わず横隔膜をフル活動させて笑い出した。
鋼次が控えめに視線をよこしたが止まらなかった。
「放っておけ。菜摘は妙な女だからな。それより弟、暇そうにうろちょろするならオレのために不老不死の術を探しに行ってこい。」
鋼一は特に気にした様子もなく両腕を組んでのけぞり気味に言った。
鋼一は鋼次に対するときだけ一本の指でとんと押せば後ろに倒れてしまいそうな姿勢で話す。
理由は容易に想像できる。鋼次の方が背が高いことが気に入らないのだ。
鋼次は苦笑を抑えながら手首を振った。
「嫌だよ。オレは文明機器から離れて生きられないんだから。兄さんと違って先が見えてる寿命を安らかに送らせてよ。」
役立たずだと罵るかと思ったが、廊下に響く足音に鋼一も鋼次も注意を奪われる。
長い廊下を走る音が次第に近づいてくる。
「…何かあったのかな?」
ボディーガード達が身構える中、鋼一は足音に向かって歩き出した。
「…鋼一様ァ〜。」
「何かしらんが面倒だ。さっさと終わらせるぞ。」

足音の先にいたのは肩で息をした鋼一の部下だった。
着ている背広よりもくたびれた顔をすぐさま下げて、その両手に包んでいるものを差し出す。
「も、持って参りました。不老不死の妙薬…と言われているものでございます。所有していたご老人には…い、言われたとおりの対応をいたしました。」
渡された細い瓶は黒ずんだ茶色をしていた。相当な年代物であることが見て取れたが、栓はしっかりしている。
鋼一は親指と人差し指でつまんで持ち適当に揺らしてみた。なんの音も返らない。液体なのか固体なのかもわからなかった。
「鋼一様ァ〜、やめましょうよ。ナマモノですよ。不老不死になっても一生トイレから出られなかったらどうするんですかぁ〜。」
横から眼鏡をしっかりと押さえて見つめていた菜摘が鋼一を引っ張るが、鋼一は迷わず栓をつかんだ。
「兄さん、ちゃんと胃薬買ってある?」
鋼次も思わず鋼一の肩に手を置いてしまう。
おそらくこの兄は自分や菜摘が何をどれだけ言っても栓を抜いた瞬間天井に向かって口を開け、中身を一気に飲み下すのだろうが、それでも心配を隠せない。
しかし今にも抜かれるだろうと思われた栓は、鋼次が数回瞬きをして首を傾げてもそのままだった。
「兄さん?」
鋼一のこめかみに汗がにじんでいる。
鋼次は苦笑して手のひらを指しだした。
「代わるよ。手に汗かいてるんじゃない?オレでも抜けるかわからないけど…」
「うるせぇーっ!このボケ!こんな栓にこのオレが手こずるかぁーーっ!一瞬あせったが違う!栓が抜けねぇーんじゃなくてオレが動かねぇーんだ!断じて違うっ!金縛りだ金縛り!さすがのオレも初体験だぞ!」
ぽかんとしてしまった鋼次の耳に鈴を鳴らしたような笑い声が聞こえてくる。
菜摘が口と腹に手をあてて笑っていた。
「あはは〜、ナマモノの祟りかもしれませんね〜。」
「まだ飲んでおらんのに祟られてたまるかっ!おい弟、ぼーっとするな。オレにこれを飲ませろ。」
鋼次ははっとして石のように固くなってしまった鋼一の指を瓶から引きはがそうとしたが、ひどく冷たい声が体を刺し貫いた。

「飲んじゃダメですってば〜。」

少しずれた眼鏡の奥で瞳がすっと細められる。口紅が薄い三日月を描いた。
「そんなもので不老不死にならないでくださいよ〜。」
鋼次は菜摘、と、名を呼ぼうとしてやめた。
目の前の女はよく見知った兄の秘書ではない。
肩胛骨の隆起しかなかったはずのその背から巨大な蝙蝠の羽が今にもすべてを闇に包もうとしていた。
まるで、絵本の悪魔のような。
目をいっぱいに開くことしかできない鋼次の横を、飲み込んだはずの呼びかけがすり抜けた。
「菜摘!」
やはり呆然とすることしかできないボディーガードたちの中で、鋼一だけが動かない体にびっしょりと汗をかいて菜摘をにらみつけている。
「わけがわからんぞ!変な羽を生やしている間に説明の一つ二つくらいしろ!三つまでなら聞いてやる。」
菜摘はクスクスと笑ったあと立てた人差し指を頬にあて、見せつけるように首を傾けた。
「ひと〜つ。私は正真正銘の悪魔なのでした〜。ふた〜つ。鋼一様ァ、ごめんなさ〜い。その薬は使わせません〜。み〜っつ。だって鋼一様は私のものだから〜♪」

一秒経過。

二秒経過。三秒、四秒、五秒、
……………三分経過、する前に鋼一は覚醒した。

「出でよデヴィル!!!このオレに不死を!不老を!人を超えた力を!」

腕を振り上げられないのが少々残念だったがその分を補うように腹から声を出す。
「もう出てます〜。」
返ってきたのが力の抜ける聞き慣れた声であることが惜しくてならなかった。
「まあいい、菜摘、オレを不老不死にしてそれから金縛りを解いてくれ。」
そう言ったところに、ようやく意識を取り戻したボディーガードの数人が鋼一と菜摘の間に割って入った。
菜摘は片翼をゆっくりと前後させて風を送った。
「どういうつもりですか〜?」
「……菜摘さん、ですか?鋼一様を麻痺させている薬の名とその経路をつきとめるまでは近づけさせるわけには参りません。」
整えた前髪が崩れ眉間のしわにじんわりと汗をかくが、ボディーガードは譲らなかった。
「もしかして、鋼一様の金縛りは私のせいだと疑ってるんですかぁ〜?」
心外だとひそめられた眉とは対照的に楽しそうな声が大地を揺るがせた。
「その通りですよ〜♪お利口なわんちゃん達ですね〜。」
途端、屈強な男達が声もなく、至極あっけなく崩れ落ちる。
「他人になつきすぎてる犬って見てて鬱陶しいんですよね〜。」
その場に立っているのは鋼一と鋼次、そして菜摘だけ。
菜摘は二つの鋭い眼差しに対し、大きな羽を見せつけるように広げてにっこりと微笑んだ。
「そんなににらまないでくださいよ〜、苦しまずに逝ったと思いますよ〜。」
「菜摘、おまえはクビだ。退職金はやらんぞ。」
噛みしめた奥歯の軋みから生まれたような低い唸り。
菜摘が不思議そうに目を大きくすると、鋼一はしかめていた顔をますます険悪にした。
「簡単に殺すな。オレが見下す人数が減るだろうが。」
もしも体が自由に動かせたならいつものように胸を張って王様然とした態度で言っていたのだろう。代わりにその瞳が激しい怒りを直接伝えてくる。
菜摘はとろけるような微笑みを心から浮かべた。
「オレを不老不死にしたらすぐさま消えろ。」
それでも不老不死への欲望を忘れていない鋼一に、笑いが声になる。
そうでなくては。
菜摘は指を顎に置き、あからさまに考えるポーズをとった。
「不老不死を求める人って実現しないことに耐えられない人たちが多いんですよね〜、だから死ぬ間際まであきらめずに探してたりするんですよ〜。」
「オレをそんなふぬけと同じにするな!」
「わかってますよ〜。確認ですよ、か・く・に・ん♪だって……」
たやすく堕とされそうな、天使のような、それでも、悪魔の微笑み。
鋼次は思わず兄に駆け寄った。
目の前の女は秘書ではないのだ。鍛えられた男たちが一瞬で命を奪われた悪魔なのだ。この上なく嫌な予感がした。
そしてその予感は的中するのだった。

「せっかく今まで我慢強く待ってたんですから〜☆」

声と同時に鋼一がまるで支えを失った紙人形のようにパタリと倒れた。
それは先ほどのボディーガード達の動きとまったく同じもので。
鋼次はうっすらと口を開いたまま叫びも嗚咽もなく立ちつくした。
ゆっくりとしゃがんで、いつも尊大なセリフを吐く口元に手を寄せる。
息をしていない。
そんな様を見もせずに、菜摘は羽とまぶたを震わせて自らの体を抱きしめる。
「ん〜〜〜っ!お・い・しぃ〜っ!鋼一様ァ〜、最高ですぅ〜☆やっぱりこんなに素敵な魂はじめてっ!」
目尻から涙があふれ、足はわずかに床から離れている。
さらに離れようとするのを鋼次はしっかりと押さえつけた。
「兄さんを食べたのかっ!」
「ごちそうさまです〜♪」
満面の笑顔に平手を打って、両肩をつかんでがくがくと揺らす。
「吐けっ!」
叩かれた頬は白いまま、痛くも痒くもなかったが、それでも菜摘は口を尖らせた。
「何するんですかぁ〜、やめてくださいよ〜。もうしばらくこの感動に浸っていたいんですから〜。」
鋼次は思う様殴りつけたい衝動に駆られた。だが人間の拳が無力なのは目に見えた。見慣れた容姿についだまされてしまいそうになるが、背中に生えている蝙蝠の翼を忘れてはならない。ちょいと不快になればすぐさまかき消えてしまうことも可能なはずである。
このまま、兄の魂を食われたまま帰すわけにはいかない。
「…オレを食べても良いから、兄さんは吐き出してくれないか。」
憂いも悲壮もない、決意だけの眼差しに、返ってきたのは無邪気な子供のような笑い声。
「あははは〜♪嫌に決まってるじゃないですか〜、鋼一様と鋼次様じゃあ比べものになりませんよ〜。」
菜摘は思わず言葉をなくしてしまった鋼次の鼻先に人差し指を突き当ててピンと弾いた。
「悪魔をなめちゃあダメですよ〜。鋼次様は今のまま、平和に平穏に暮らしていきたいと願ってます〜。それじゃあダメなんですよ〜。そんなコクのない魂を喜ぶのは味覚音痴の天使くらいです〜。鋼一様のように欲深く、それをつかみ取るためならなんでもしてのけるような貪欲な魂〜♪次から次へと尽きない欲望を充足させるために何かを目指し続ける魂〜♪それがたまらなく美味しいんです〜。」
その味を思い返しながら、うっとりとまぶたを閉じる菜摘。
最初は欲望の果てに不老不死を望むありふれた権力者の中の一人だと思っていた。
彼らはもうそれしか望むものがなく、あり得ないということに耐えられない者たちがほとんどだ。
しかし鋼一は違った。不老不死は有り余る欲望の一つにすぎない。そのうえ彼は不老不死の存在を信じているのではない。あろうがなかろうが、絶対に手に入れるのだ。自ら作り出してでも。
好ましい魂の中でも、極上のもの。
より熟成され、至高の味を楽しむために今日まで待った。
鋼一の傍にいるのは愉快だったし、もうしばらく待ってもよかったのだが、本物の不老不死の妙薬が出てきてしまっては致し方ない。展開に少々の不満はあるものの、味わった魂には文句のつけようもあるはずがなく、この余韻を鋼次の魂ごときで失う気にはなれなかった。
が、高い位置にある顔をうつむかせている鋼次から妙な気迫を感じる。
また頬をはたかれても痛くはないが不愉快にはなるので今のうちに飛び立とうと翼をはためかせた。
少し動かしただけでたちまち強風が起こる。
鋼次はひるみもせずに菜摘の肩をわしづかんだ。
「人間なめんなよ。ああ?今のまま、平和に平穏に暮らすことがどれだけ難しいかわかってんのかコラァァーっ!親も子もない兄さんが逝ったあとオレがどんな目にあうと思ってんだボケっ!意地でも吐き出せ!オレはそこはかとなく馬鹿な兄も気に入ってはいるが何より平和な生活を死守するためならなんだってやってやるっ!コクのねぇ魂だとぉーっ!現状維持を守り抜く人間の恐ろしさ思い知れダァホっ!」
菜摘は初めて確認できた鋼次の黒目を見つめながらこの兄弟の血のつながりをようやく確信した。
今のままでいるしかできないのではなく、今のままを守り抜く魂。
言われてみれば、美味しそうかもしれない。
数秒の逡巡のあと、菜摘はにっこりと両手をあわせた。
「じゃあ、いただきます〜♪」
たちまち鋼次の体がかくんと崩れ落ち、鋼一の横に仲良く並ぶ。
菜摘は満足げに頷いた。
「考えなしで信じやすいところ、そっくりですよね〜。鋼次様を食べたからって鋼一様を吐き出すわけないじゃないですか〜。美味しい魂ふたつ、ごちそうさまでした〜♪」
本当に、どちらも思った以上に美味しかった。すぐにそのへんの悪魔仲間をとっつかまえて自慢したいくらいだ。
菜摘はお腹をぽんぽんと叩き、今度こそ飛び立とうと羽を広げて、ふと気がついた。

二人の抜け殻の間に不老不死の妙薬の瓶が転がっている。
少し離れたところに役目を終えた栓。
菜摘は瓶の中身を片目でのぞきこんだ。
ない。
液体も固体も、何もない。
この薬は確かに本物だった。瓶の中に収まっていても魔力を帯びているのがわかった。
しかし何度見ても中身は入っていない。
考えられることは一つだが、鋼次の魂は確かに菜摘の体内にある。鋼一のものも然り。
二人を囲むように倒れているボディーガード達も誰一人として動くものはいない。

菜摘は瓶を持ったまま少し考えたが、すぐに放り投げて瓶を砕いた。
すっきりした顔に戻って地面を蹴る。それだけで屋根まで飛び上がった。
鋼一の邸宅に二階はない。高く作るのは貧乏くさいといって鋼一が却下したのだ。
そんなことを思い出して菜摘は口の端をそっと上げた。自然と腹に手をあてる。
妙な違和感がよぎった。
菜摘は腹にあてた手をくいこませた。
気のせいだろうか、何かが蠢いている気がする。
いつもなら気のせいですませて牛乳飲んだっけ?などと思いながらやがて忘れるところだが、菜摘ははっとして口を押さえた。
腹にいれたものは牛乳などではないのだ。
確かに美味だったが、考えてみれば牛乳などとは比べようもないほど性質が悪いものを飲み込んだのだ。
「も、もしかして〜。」
間延びしたつぶやきに緊張が走る。
途端にはっきりとする嘔吐感。
出口が下でなく上なのが救い…いやいや下だったら消化済みなわけで、…なーんて食事の後に考えるのは避けたいことを考えずにはいられない。
菜摘は涙目になりながらせりあがってきたものたちを吐き出した。

ボディーガード達が一人二人と動き出す。
鋼次がうっすらと目を開く。
菜摘は鋼一が喉を鳴らして少し咳き込んだのをしっかりと見た。

「兄さん、ちゃんと飲んだ?」

できれば聞きたくない問いかけもしっかりと聞き、

「おまえこのオレに何を飲ませた。」

その答も確かめてしまった。

そうだ。
平和で平穏な現状維持に全力をかける鋼次が不老不死の妙薬を飲むはずがなかったのだ。

これでもう鋼一の魂を奪うことはできない。

菜摘は吐いた後の気分の悪さを噛みしめながら鋼一の様子を注意深く見つめた。
鋼一はボディーガード達を追い払い、鋼次を一瞥もせずにすぐに菜摘と視線を合わせた。
「今までこんなことなかったのに〜。どうして出てきちゃったんですかぁ〜。」
「兄さんが大人しく食べられてるわけはないと思ったからね。きっとお腹の中で大暴れしてるだろうと思って。イチかバチかで大人数で大暴れしたらなんとかなるんじゃないかと思ったんだよ。ボディーガードのみんながぐったりしててちょっと手間取ったけどね。」
代わりに答えた鋼次を鬱陶しがるように押しのけて、鋼一はいつものように偉そうに胸を張った。
「おい菜摘、オレはオレに見下されるすべてのものが好きだ。それに手を出さないならリストラは勘弁してやってもいいぞ。」
差し出された腕が軽く手招きしている。
表情は憮然としていたが、菜摘にはわかっていた。
きっと自分が地面に降りたって、見上げずにすむ位置に頭があればすぐに機嫌が直るのだ。背中に羽があろうがなかろうがその色が黒かろうが白かろうが鋼一にとって重要なのはそんなものなのだ。
鋼一の傍にいるのは楽しい。こんなに美味しい人間はおそらく他にいない。
菜摘は満面の笑顔で鋼一の前に着地した。

「わかりました〜。もうそのへんの魂食べちゃったりしません〜。」
一度至上の魂を味わってしまったら他へむやみに手を伸ばす気にはなれない。
「鋼一様ァ〜、不老不死おめでとうございます〜♪」
鋼一は不老不死を手にしても欲望が尽きることはないだろう。むしろストッパーをなくしてますますエスカレートするのではないだろうか。さらなる熟成の課程を見つめるのも楽しいに違いない。
「これからも末永くよろしくお願いしますね〜☆」
なら、不老不死がなんだというのだろう。そんなものであきらめきれるほど不味い魂ではない。幸い時間は余るほどある。これからの長い時間、この魂を食すためだけにすべてをかけてすごすのもいい。

鋼一の秘書の名にかけて、絶対にこの欲を実現させてみせる。

菜摘の笑顔に潜む決意を知ってか知らずか、鋼一はにやりと口を歪ませた。

「やがては悪魔を僕にしてやろうと思っていたからな。次は天使をひざまずかせるか。」

二人の頭の中が手に取るようにわかっている鋼次は、ため息を吐きつつ糸目を細くして微笑んだ。
END.
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