『戦争と平和』

深く考えたことなどなく、またその必要もなかった。
呆れるほど幸せな国で暮らし、
この平和が失われることはないと信じていた。


 小国トルネラ。
永久平和国を名乗る戦争とは無縁の国。超大国マレスディールに保護されており、ここ100年近くトルネラの国土が戦場となったことはなかった。
つい先日までは。

「ヘルムンドの奴らめっ!何を考えておるのじゃっ!」

将軍ワムウはテーブルに拳を打ちつけた。
元来気性の荒い将軍だが、今日ほど怒り狂っている彼を誰も見たことがない。
もっとも、いつもと違うのは彼だけではなかった。
どのようなときでもすぐに自分の考えを述べ、的確な判断を下すことで名高い知将アークセッドは目を閉じて沈思黙考し一言も発さなかった。
諜報員ミール、気弱だが情報収集能力に長けている彼は普段なら強い義務感を持って自分を奮い立たせているのに今は青ざめた顔でぶるぶると震え、小さくなっている。
老獪な将軍カレイドは常時うかべている口元の笑みを消して眉間にしわを寄せ、腕を組んだまま動かない。
部下達の様子を見て、若き国王ルーグインは自国の運命が見えてしまったような気がした。だが国王としてそのようなことは考えてはならないことだ。自分があきらめればこの国は終わりなのだ。ルーグインはトルネラを統べる者として話を切り出さねばならなかった。
「みんなを呼んだのは他でもない、ヘルムンドの我が国への侵攻のことだ。永久平和国の我が国の兵はヘルムンドの兵力とは比べようもない微々たるものだ。このままでは我が国は侵略されてしまう。我々はどうするべきか、みんなの意見を聞きたい。」
会議室は静まりかえった。
誰も有効な手だてを思いつけないというのが正直なところだった。
だが時間は限られている。静寂を尊んでいる暇はない。
誰もがそのことを嫌というほど理解していた。
「我々が選ぶべき手段は大きく考えて三つあります。一つは国民が一丸となってヘルムンドに立ち向かうこと。もう一つは降伏し戦いの犠牲を最小限にとどめること。そして最後の一つはマレスディールに援軍を頼むことです。」
アークセッドが口を開いた。
彼らしくない、どこか力無い語調だ。
「しかしです。交戦すれば我が国は国民の多くを犠牲にし、確実に敗北するでしょう。そして何もせずに降伏した場合はヘルムンドからどのような扱いを受けるかわかりません。どちらにせよ我が国の民が不幸になるのは確かです。この中でおそらく一番有効な手だて…マレスディールに助けを求めることは…今の状況では無理でしょう。ミール、報告を。」
アークセッドに促され、ミールは慌てて立ち上がった。
「あっ、は、はい。報告いたします。我が国はヘルムンドの情報操作によってとんでもない言いがかりをつけられております。ヘルムンドの王の首を狙いに行ったのが我が国の諜報部員であったとか先日ヘルムンドの国境で起こった強盗騒ぎもマレスディールの指示により我が国が行ったことだとかとにかくまるで身に覚えのない罪を次々とかぶせられており、許し難いことに周辺諸国はそれを信じているのです。永久平和国トルネラはその実平和という言葉を隠れ蓑にし、超大国マレスディールの傀儡として動いているのだと。そうすることで結託し、我が国とマレスディールを滅ぼすつもりです。」
「許せん!ヘルムンドめ!奴らの首たたき落としてくれるっ!」
ミールの報告を遮ってワムウが再びテーブルを殴った。
「うるさいぞ。会議の席で逆上してどうする。おまえのような奴が奴らにいいように利用されるのだ。」
カレイドが呆れて言う。
いかにも馬鹿にした様子のカレイドにワムウが噛みつこうとしたが今までに何度もこの二人の諍いを見てきたルーグインがすぐに断ち切った。
「それで、マレスディール側はなんと?」
「はいっ。マレスディールは無論この件を否定しておりますが戦いを避けるつもりはなくむしろこれを利用して徹底抗戦するつもりのようです。元々我が国がマレスディールの保護を受けていたのはマレスディールが我が国をヘルムンドの盾に使うため…で、ですから…」
「我が国がヘルムンドの侵攻を受けている間に着々と準備を整えるつもりでしょう。マレスディールに我が国を守る気はありません。」
声が震えてしまったミールに代わってアークセッドが告げた。
再び静寂が訪れる。
ルーグインはため息をつきたかったが固い意志で自制した。
ワムウが、アークセッドが、ミールが、カレイドが、この場にいない多くの国民が自分を見ている。
ルーグインは自国を愛している。トルネラのために身を捧げることは苦痛ではない。
ただ、頭が痛かった。
「国民は…マレスディールが保護してくれると、なんとかなると信じている。実際にマレスディールが我が国のために兵を動かしたことなどないが…名前だけは貸してくれていたから…。私は彼らを裏切りたくない。誰も死なずにすめばいい。なんとか策を…」

「それは不可能です。」

カレイドが容赦なく言い放った。
「陛下、これは戦争です。今現実に起こっている国と国との戦いなのです。そんな綺麗事が、まるっきりの理想論が通用するとお思いか?奴らに利用されるだけですよ。確かに誰も死ななければ一番いいのでしょうが現実を生きる我々は一番いい方法ではなく一番ましな方法を選ばなければならないのです。それが生きるということです。この国の人間はあまりにもぬるま湯につかりすぎた。それがあっけない幻想だとも気づかずに。」
カレイドは腕を組んだまま動かない。
だがその言葉は果てしなく重かった。
ルーグインは胸を殴られたような思いをしながらも反論せずにはいられなかった。
「しかしっ!命は尊いものだ。平和は何よりも優先すべきものだろう。国民の命が失われなければいい。それにヘルムンドとて…争いを好んでいるわけではないだろう?人は誰も平和を愛すものだ。仮にも我が国は永久平和国を名乗っているのだ。私は…ヘルムンドと会談の場を設けたいと思っている。」
甘い考えだ。
自分でもわかっていた。
しかし今その可能性にかけてみないことは人として誤っているような、そんな気がするのだ。トルネラの民もヘルムンドの民も同じ人間ではないか。同じ人間同士で何故争い合わねばならないのか。話し合いで解決できれば一番ではないか。人は語り合える。わかりあおうと思いさえすればわかりあえるのだ。
そんなルーグインにほとほと呆れ果てたという感じでカレイドが首を振った。
「これは戦争だと何度言えばおわかりになるのです。現にヘルムンドは情報操作をしてトルネラを悪役に仕立て上げている。戦争というのは勝ちさえすればいい、なんでもありなのですよ。国益の前には良心など塵ほどの重さもない。陛下、あなたはマレスディールのもたらした偽りの平和によって愚かなヒューマニズムに囚われてしまわれたようだ。あなたが一般市民ならばそれもいいかもしれません。しかしあなたはこの国の多くの民を背負っているのです。現実を見ない国王の国など滅びるだけですよ。」
ルーグインは口を閉じざるをえなかった。
王としての責任のことを持ち出されると何も言えはしない。
人として正しいことは平和を守ることであるのに。
それだけは確かであるはずなのに。
「戦いましょう陛下!なんとしてもヘルムンドの奴らめに一矢報いねば気がすみません!トルネラの誇りのために!徹底的に戦わねば!」
ワムウはテーブルを叩きながら大声で主張した。
揺れるテーブルにカレイドが顔をしかめたが気づかずに何度もテーブルを叩く。
「我が国の民たちも大人しく占領されるなど許せんはずです!戦うべきです!」
ミールはワムウの迫力に押されてますます小さくなっている。
吠え続けるワムウを止めたのはアークセッドだった。
「だがそれではマレスディールの思うつぼです。マレスディールとしてはヘルムンドが我が国で少しでも足止めを食えばしてやったりといったところでしょう。それに永久平和国の我々が交戦するということは各国に流れている偽りの情報に信憑性を与えてしまう恐れがあります。国際世論を敵に回しては敗戦後どのようなことをされるか…」
「ぬぅ…っ」
ワムゥが静かになったのを見てミールが恐る恐る言った。
「降伏…しちゃいませんか?その、やっぱり国民が死んでしまってはどうしようもないですし生きていさえすればなんとかなると思うんです。」
「何を言う!奴らに降伏だと?そんなことがあってたまるものか!あのような奴らに降伏するくらいなら徹底抗戦じゃ!降伏して奴らに属国扱いされるよりはその方がいいに決まっている!」
またもやガタガタと揺れだしたテーブルからカレイドは少し身を離した。
文句を言う気もしないといったところだ。
ひっきりなしに頭をさげているミールにも呆れながら、カレイドはアークセッドに意見を求めた。
「私は降伏することに賛成です。しかしすぐに降伏してはなりません。偽りの情報を公式の場ですべて否定し、その上で専守防衛を繰り返すのです。そのうちヘルムンドが明らかに戦争犯罪ととれる行動をするでしょう。それを公式の場で非難します。これらをできる限り続けてから降伏するべきだと考えます。国民の犠牲は…ある程度致し方ありません。」
ルーグインに気を遣った最後の一言は紛れもない彼の本心だった。
カレイドは首を縦に振った。
「賛成だ。ようやくまともな意見が出たようだな。もう一つ、専守防衛で時間を稼いでいる間にこちらもできる限りの諜報戦をやらなければならない。国際世論を動かさなければな。」
アークセッドが頷き返す。
この二人の間では話がまとまったようだった。
気の弱いミールも二人がそう言うのならばとほぼ同意した。
「納得できん!国民を犠牲にしておいてなおかつ降伏するというのか!それならばなんとしてでも戦った方がましじゃ!カレイド!アークセッド!貴様らは腰抜けか!国のために戦い抜こうと何故思わん!ヘルムンドの奴らを叩きのめしてやりたいとは思わんのか!」
ワムウだけが強硬に反対し続けた。
しかし側近三人に同じ意見を出されたルーグインがそれを受け止めたため、会議はそこでお開きとなった。


 ルーグインは考えていた。
アークセッドの意見は確かに無難な策ではあった。トルネラにはもうあの方法しか残されていなかったろう。だがそれは、国民のためになるのだろうか。国のために動くことと民のために動くことは果たして同じことなのだろうか。国が民の生活を保障しているからには確かにそういうことなのだが、何か、どこかで納得できなかった。明日になったらルーグインは国民の前で「国のために戦ってほしい。」と言わねばならないのだ。なんて残酷な仕打ちだろう。そしてそれは確かに国民のためでもあるのだ。
「私は今までなんて恵まれてきたのだろう…民のために民に人殺しを命じることなどしなくてよかったのだから…でも何故…私はそうしなければならないのだ…平和を愛する人たちに…自分たちの平和のために殺し合えと…国王の…口か…らっ」
冷たい滴が熱い頬を伝う。
ルーグインは声を押し殺して泣いた。
だがルーグインには静かに泣くことさえ許されなかった。

「失礼いたします陛下!ワムウ将軍が無断で出陣されました!」

「なんだってっ!」
突然の知らせを聞いて思わず叫ぶ。
ルーグインは泣きはらした顔を隠すのも忘れて王の間を飛び出した。
「アークセッドとカレイドとミールを呼べ!」
すぐにカレイドとミールが駆けつける。
「アークセッドはどうした?」
いつも一番に馳せ参じるアークセッドが現れない。
訝しく思って尋ねると、
「アークセッドはワムウを討ちに行きました。」
カレイドが答えた。
「何故!誰がそんなことをしろと言った!」
「誰も。アークセッドが自分で決めたことです。ご安心下さい。アークセッドは本気でワムウを殺したりはしません。ただ、将軍が無断で出陣した。これを野放しにしておいては降伏した後トルネラの不利になります。だから形だけ討伐軍を出しておいただけですよ。」
淡々と答えるカレイドの前でルーグインはまるで駄々をこねる子供のようにわめいた。
「そんな!それでも!そんなことって……っ!」
「あなたはあまりにも現実を知らない。今までただ与えられていただけの平和はもはや崩れたのです。これからはあらゆる手段で戦って勝ち取らなければならない。あなたの主張は理想郷でのみ通用する夢物語です。それを知りなさい。」
ルーグインはカレイドに怒りを覚えた。
それでもルーグインにできる精一杯の意思表示は全身を震わせることだけだった。
ルーグインは現実がどれほど容赦のないものなのか気づいている。
だが夢は美しい。現実が容赦がないからこそ夢を捨ててはいけないのではないか?と、ルーグインはどうしても言うことができず、無言でカレイド達に背中を向けた。

「陛下…泣いておられたのですね。」
ルーグインの姿が見えなくなってからミールがつぶやいた。
「陛下は自分がどれほど恵まれているかを知らない。情報が必ず陛下に届くことを当然だと思っている。そしてアークセッドが何故陛下に報告せずに出陣したのかそこまで考えることもされないようだ。」
カレイドがため息をつく。
ミールは慌てて声を大きくした。
「でも!陛下は心底から民のためを思っているんです。陛下は確かに現実を理解しておられないけど……わ、私も…本当は話し合いで誰も死ななかったらいいなって…思います。」
「そんなことは私もだ。」
カレイドはさらっと言った。
ミールは思わず目を瞬いたが、カレイドは心外だというように眉をひそめる。
「人は誰でも夢を見るものだ。しかし夢は夢だ。現実の前にはひどく儚い。」
「……そうですね…。」
ミールは悲しそうに笑った。


 翌日。
ルーグインはアークセッドが書いていった演説文を握りしめながら大勢の民衆に手を振っていた。
アークセッドが考えた演説は威厳と力強さを感じさせる素晴らしいものだ。ルーグインはそれをいかにも自分の意志であるというように演じなければならなかった。
予定の時間が近づく。
ルーグインはつばを飲み込んだ。
鐘が、鳴る。
すると、歓声がぴたりとやんだ。
腰の曲がった老人が、仲の睦まじそうな夫婦が、たくましい体つきの青年が、無邪気な顔をした子供が一斉に押し黙ってルーグインを見つめる。
この国の国王を。
みな、同じものを信じる目で。
ルーグインは拳を握った。
「親愛なる民達に国王としてではなく一個人ルーグイン・バル・トルネラとして命じる。自らのその目で、その耳で、その体で、その頭で何が正義なのかを見極めよ。今我が国で何が起こっているのか、そして諸国の情報を、できうる限り提供すると約束する。国は時に嘘をつくだろう。それさえも見極め、自分たちにとって何が大切なのか、何を守るべきなのかを自分の力で知れ。国民は国王の命令を聞いてはならない。高官の命令を、すべての命令を聞いてはならない。命令を聞くことは考えることを投げ出すこと、すなわち怠慢に他ならない。命は自分以外の何者のものでもない。あなたたちは自分の命を、平和を、幸福を守るために自分の方法で戦わねばならない。そしてそれは必ずしも人を殺すことではない。自分以外の者を悪魔だと思ってはならない。例え何をされたとしても、同じ人間である限り同じものを望んでいるのだ。すなわち平和を!幸福を!人は語り合うことができる。わかりあうことができる。可能性を自ら捨ててはならない。憎むべきは人ではなく権力である。敵国で戦争を憂い嘆いている人もいるのだ。人はみな平和を愛するのだと、忘れてはならない。国に、益に、他多くのものに操られてはいけない。あなたたちは自分で考え、自分のために、自分の方法で自分で戦うべきなのである。正義と悪は一面的ではない。あなたたちの多くは間違え、傷つき、命を落とすこともあるだろう。それでも、それぞれの大切なもののために、命をかけて生き抜いてほしい。それが…生きるということだと思うから!私は国王としての私に戻れば、あなたたちに国のために戦ってほしいと言います。国を守ることもまたあなたたちを守るためだと思っているからです。それでもあななたたちは自分で考えてください!どうするべきなのかを。何にも惑わされずに。あなたたちの平和と幸福と自由と…他たくさんの尊ぶべきもののために!」
汗に濡れた手で力一杯握りしめた演説文はちぎれて下に落ち、風にひきずられていった。
ルーグインはその音を聞きながら静かに背中を向けた。
この背中が国民の目から見えなくなったとき、自分は国王に戻るのだ。
そしてもう一個人としてのルーグインには戻らないだろう。
夢は愛すべき民たちに託した。
今日集まった民達の、数人でもいい。一人でもいい。夢を継いでいってくれたなら、現実に押しつぶされようともすり削られようとも悔いは残らない。
「アークセッドの苦労が水の泡だ。」
城の中からカレイドが言う。
ルーグインは苦笑した。
そのとき、背中の後ろから凄まじい音が轟いた。
一瞬、何かわからなかった。
音の洪水が人の声だということに気づいたのはカレイドがルーグインの背後を指さしてからだった。
「ごらんなさい、あなたの夢がこれだけの人の心をとらえた。」
一人一人の人が出せる限りの声を出していた。
言葉にならない、咆哮のような声だ。
耳におさまりきらない、力強い声だ。
「あの…へ…いえ、ルーグイン様、お手を振ってあげてください。きっと嬉しいと思います。」
ミールに押され、ルーグインは再び人々の前に立った。
声に飲み込まれそうだった。
一人や数人なんてものではない、たくさんの、本当にたくさんの人が…
ルーグインは人々に向かって深々と頭を下げた。
自分の感謝が、感激が、どうか伝わってくれますようにと祈りながら。

「アークセッド殿やワムウ殿にも見せてあげたかったですね…」
ミールのつぶやきを聞いてカレイドが言う。
「私たちに夢はいらない。代わりに夢を見てくれる人々がいるからな。」
「そうですね。ちょっと寂しいですが私はこの国が好きですし…ルーグイン様には夢を見ていてほしいと…あの…思ったり…その…」
ミールは横目でカレイドの表情を見た。
「そんなことは私もだ。不本意ながらな。あの方が夢を見続けられるのはいつまでかわからないが、その分私たちが現実を見据えればすむことだ。時々疎ましく感じるのはやむをえないが。」
ミールは嬉しそうに笑った。
「損な役目ですけど…私たちも大切なものを守っていきたいですね。」

歓声は、まだやまない。

未だ見えない未来は多くの人々の胸の中に希望として宿った。
夢を育み花を咲かせる希望として―――。
END.
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