『去りゆく涙』

男は血にとけていくしずくをぼんやりと見つめていた。
痛みはなかった。
鎧が次第に重くなっていくのを感じたが、不快でもない。
妙に晴れ晴れとした気分だった。
だから耳に聞こえる嗚咽混じりの泣き声に声をかけたのだ。

「歌え。」

はっきりと告げたのに、泣き声は途切れない。
聞こえていないのか、理解していないのか、聞こえていても理解していても止まらないのか。
とにかく泣き声はいただけない。
「歌えと言っている。」
女はやっと頭を上げ、泥にまみれた顔を向けた。
「あ………あぁ…あ……、も、もうしわけ…ご…ざ………声が……」
普段ならば、ここであからさまに顔をしかめ、女を斬っていただろうと思う。
しかし男は微笑んだ。
過去の己も現在の己もおかしがるように、自然と口の端をあげた。
「人の門出を祝えんのか。つまらん女だな。」
ともすれば殺されていたとも知らず、女は懸命に涙をぬぐって頭を下げた。
「私のような者を助けて……いただい………」
己のまとうぼろ布のような衣服を握りしめ、声のふるえを必至に正す。
女は今どういう行動をしていいのかまるでわからなかった。
せめて血を拭うだけでもしてさしあげたいのに。
土にまみれた奴隷の手で触っては、この方によくないに違いない。
もしかしたらこうして言葉を交わすだけでもいけないのかもしれない。
側にいるだけでもまずいのだろうか。
それでも女はこの場から去ることができず、感謝の心を抑えることもできなかった。
ただただ頭をさげて、自分でもまとまりのつかない言葉をうわごとのようにつぶやく。
「何故泣く?」
男は心底不思議そうに尋ねた。
「う…れし…かったので…………ございま…す。」
眉をひそめも首を傾げもしなかったが、男がますます不可解に思ったのが空気で伝わってきた。
女は言葉を尽くして説明すべきかどうか逡巡する。
己が命に価値を与えられたようで嬉しかったのだと、生の許しを受けたようで嬉しかったのだと、色々と頭に巡るが、決してそれだけではなかったのだ。
言葉にしきれない衝動によって、今自分は泣いているのだ。
口を開きかけたとき、男は納得したように少し目を閉じて、また薄く微笑んだ。
「おまえは愚かな女だな。これでまた生き続けなければならないというのに。」
自殺の願望などつまらないものを抱いた覚えはない。
怠惰に日々を過ごし無意味なものばかりを詰め込み続けてきただけだ。
気の向くままに命を奪い、気の向くままに命を救った。
今回は運が悪かった。
それだけだ。
それが、妙に愉快だった。
無意味に生き、無意味に死んでいくことで、学者どもが騒ぎ立てる生の尊さとやらを少しでも汚せたようで。
「あ、あの………高貴なお命を………私のような女の…ために………お捨てに?」
鼻をすすりながら疑問を投げかけられる。。
この女も馬鹿だったか。
そう思ったが、今までのような激しい不快感が焼き付かない。
逆に笑えた。

「命に価値などない。極めて等しく。」

笑う力は残されていなかったが、できるものなら腹を抱えて声高に笑いたかった。

「女、もう一度言う。歌え。」

揶揄か本気か。
問われれば答えられない。
だが、自然とそれを望んだ。

「その涙が俺を見ておまえのために流されるものならば、」

女は涙を拭き、繰り返される男の要求に瞠目する。

「俺の死を、笑え。」

純白の鎧が赤く光る。
マントは逃すまいとでもいうようにずっしりと重く、折れた剣がまるで己のようだった。
見守るのは雑巾のような身なりの女一人。
誰も想像し得なかったであろう死に様に、男はいたく満足していた。
ただ一つ、耳につく泣き声だけが気に入らなかったが。
「わ…笑えません。笑えませんっ。あなた様は立派なお方です。笑いませんっ!」
つくづく馬鹿な女だと嘲笑する。
この女に理解できていることは、自分の命が救われたと、それだけなのだ。
たったそれだけ。
しかし、なかなかどうして奴隷というものは学者よりは阿呆でないと男は判断した。
命の価値などないのだ。
極めて等しく。
何に生まれつこうと、どんな力を持とうと。
それがわからないどころか胡散臭い神話を持ち出した阿呆学者を何人斬ったことか。
何を成そうと、それによって、どれほど崇められようと、己の価値は己が一番よく知っている。
すなわち、無。
価値など見いだす方が間違いなのだ。
命は何の意味も与えられずに生まれ、生を持つということに流されるまま生き、等しく死ぬ。
ここで息絶える己と、先ほど斬った獣どもと、いかほどの違いがあるものか。

だが、女が泣いている。
とめどなく涙を流している。
勝手に男を美化し、価値を作り上げ、感情を吐き出すために、ひたすら。

「くだらない涙だ。」

もっとも、それ以外の涙など見たこともないが。

「しかし、悪くない。」

宮中の女の涙に比べればかけらほどの価値はあるような錯覚を覚える。
そう、錯覚だ。
錯覚は嫌いだった。
なのに、死に逝く今、心から愉快な気持ちで錯覚を味わえる。

まるでこの女の涙がこの命の価値であるかのような、錯覚―――。

早くこの場を離れるといい。
おそらくもうすぐやってくる阿呆な家臣どもはこの光景を見ておまえの首を容易く落とすだろう。
おまえが俺の死と己の命に価値を見て、それを信じるのなら。
早くこの場を離れるといい。

感覚が消えていく。
体の重みがなくなる。

男は静かに死を悟りながら、たどたどしい鎮魂歌を聞いた気がした。
END.
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