『砂漠の光』

 月明に浮かび上がる都の姿を、ジャハールはにやにやと眺めていた。
 “やんごとなき王のお膝もと”は、彼が頑是無い子どもであった頃からの最も気に入りの遊戯場であり、中でも一角に立ち並ぶ壮麗なお邸たちは特に面白みのある玩具だった。
 ジャハールは暇さえあれば忍び込み、テーブルをひっくり返してその上に椅子のピラミッドを築いたり、ラクダの頭を持ち込んでペルシャ絨毯でくるんでおいたり、ちっとも良さのわからない名画をスラムの悪ガキの絵と取り替えてみたりした。侍女の悲鳴や貴族の怒声を笑うたびに衛兵が増え、仲間たちがみな一様にジャハールをたしなめたが、ジャハールにとっては厳しい警護をぬけて「どうだ、できるか」と胸を張る楽しみがいっそう増しただけだった。
 十七の誕生日。ジャハールの母パバティーが、一族の長として息子を呼んだ。
「ジャハール、心に決めた女子はいるのですか」
 パバティーにはわかりきったことを確かめる嫌な癖がある。
「生憎まだくすぐられる女に出会いません」
 ジャハールは手のひらを母に向け、親指と人差指で宙を摘み、口角を上げた。
 パバティーはジャハールの父にさらわれてきた女である。王族の末端という高貴な身であったが、ジャハールの父の熱誠によって祝福された子どもを生み、夫が先立ってからは自らが族長に選ばれた。一族の掟ならぬ特色として、伴侶は“盗む”ものという慣習があった。
 パバティーは愁眉を寄せた。
「十七にもなってまだ悪戯が一番なのですか。長老たちがなんと言っているか、知らぬあなたではないでしょう」
「もちろん。――次期殿は一族のことを考えず、己の享楽にふけっておられる。警備は年々厳しくなり、手入れも増える一方だというのに、未だに忠告を聞こうとしない。およそ人の上に立てる器ではない。――だが、若者たちの憧憬の的」
「私も長老たちと同じ意見です」
 ジャハールは息を止めたが、そうと気づかれないよう努めた。
「ふむ。確かに、今や二十歳未満で俺に心酔しない者はいませんからな」
「ジャハール、あなたは人の身を考えるということをしない。いつでも自分の楽しみだけが大切で、決して他を顧みない。私は一族の長として、夫の後継として、あなたに後を任せるわけにはいきません」
 ジャハールはなんでも人並み以上にこなせたので、血に頼ったことは一度もない。代わりに放埒を許されるなら立場など捨てても渡してもかまわなかったが、“奪われる”ことは看過できなかった。
「それは勧めませんな。大勢を率いて今の警備を突破できるのは俺だけだ」
 パバティーは嘆息した。
「私は試練を与えることにしました。――風の姫、月の姫、華の姫、金の姫、夜の姫」
 都で評判の五人の姫の別称を挙げると、凛とした声で言った。
「この中からあなたの伴侶を選び、心を盗んでから、奪いなさい」
 かくしてジャハールは上機嫌で頭を回転させた。
 これほど面白い遊びはなかなかない。
 古往今来の盗賊の血が沸き上がってくるようだった。
 盗みは迅速に、手際よく、決して遊び心を忘れてはならない。
 ジャハールは深更にも昼のごとく明るい五つの邸を、飽くことなく眺めていた。
 月がかげったとき、砂を踏む音がした。ジャハールは振り返らずに尻を掻いた。
「戻ったか」
「ええ。たっぷりと働いてきましたとも」
 ジャハールは果断だが、軽挙妄動なことはしない。大がかりな仕事の時には必ず情報を得てから動く。ただそういった下準備は本番に比べれば少々娯楽性に乏しかったため、もっぱら従兄弟のイルサリムに任せていた。
「しかし本当によろしいんですか」
「俺が言えば、おまえが動く。俺の力でない理由があるか?」
 イルサリムは忠実な口吻にわずかな呆れを紛れさせた。
「そのことはもう納得しましたよ。姫君のことです。……本当に五人ともを、その」
「なんだ、女を抱いたことがないわけじゃあるまい」
「お大臣じゃないんです、我らの財産は広く分け与えるためのもの。五人を伴侶にできるわけではないのですよ」
「おまえ、俺が掟を破ると思っているのか」
 ジャハールの一族は代々の義賊である。必要以上の金品を得た場合は貧民に分け与えなければならないという考えが、峻厳な掟として伝わっていた。
「ババアやおまえがなんと言おうと、俺は一族を愛している。女など一人でも面倒なだけだ。――だがな。『五人のうちの一人を盗めば認めてやる』と言われたんだ。五人ともを籠絡しない理由があるか?」
「……パバティー様はそのようなつもりでおっしゃったのではないと思いますが」
 イルサリムのつぶやきは本人が元々諦めていたせいもあってか、ジャハールには届かなかった。
 ジャハールはにやりと口をゆがめた。
「それにな、その方が面白い」
 五人の姫がそれぞれに都をにぎわせている理由は、最も高貴な家々に生まれついた女性が、そろって目をみはる美しさに成長したためである。ジャハールも興味をそそられて一度寝顔を見物にいったことがあるが、確かに五人が五人とも稀な美女だった。
 美女たちはそれぞれ特徴的な性質をもっており、都人の衆口にのぼらない日はなかった。
 風の姫は少年のごとく活発な姫。武芸に優れ、気に入りのラクダでしょっちゅう砂漠を駆けている。
 月の姫は幻想的なリュートの音色のような姫。歌の名手であり、その優しさで乞われれば誰にでも歌を歌う。
 華の姫はまだ幼さを残した愛らしい姫。少々わがままだが、天真爛漫な性格でみなに可愛がられている。
 金の姫は気位の高い姫。その気品は女帝のごとく。女だてらに学問し、自らの切磋に余念がない。
 夜の姫は五つの家で最も高貴な身分だが、生まれつき目が開かず、めったに顔を見せることがない。
 さて、イルサリムの集めた情報はこんなわかりきったものではない。彼が集中的に調査したのは姫君の恋愛遍歴――つまり、どういった男性が好みか、といったことであった。
「華の姫は、黒髪長髪でほっそりした白皙の美男子が好みです。ちなみにこれは姫が最近読んだ物語の主人公で、今非常に夢中になっているようです」
「イルサリム、俺は醜男か」
 イルサリムは嫌そうに目を細めた。
「ご自分でよくおわかりでしょう」
 ジャハールは醜男どころか、百人の女が百人とも振り返る美青年である。しかし長髪ではないし、肌は浅黒かった。
「ならどうでもいいことは言うな」
 ジャハールはあくびをした。
「はいはい。あれは甘えたがりですから、甘やかしてくれる男か、叱ってくれる男が好みでしょう。しかし周囲が随分と甘やかしていますからね、後者ではないかと思います。わがままではありますが、ひねくれてはいませんから、言葉が届けば素直に言うことを聞くでしょうね」
 ジャハールはイルサリムの性格分析に基づいた推論を聞きながら、時折鷹揚にうなずいた。

 最初の相手は風の姫にした。姫の趣味は都合がよい。
 ジャハールは目元だけを露出させた長衣をまとい、風の姫がラクダを駆る砂漠で待ち伏せて、姫を取り巻く護衛たちにかまわず大声を上げた。
「風の姫と名高い女はおまえか。どちらが速いか、俺と勝負しろ」
 『風の姫』の異名は周囲からすればどちらかというとその気性や挙止を表したものであったが、当人にとっては“誰よりも速くラクダを駆る”という意味であった。
「面白い、望むところだ」
 姫は護衛の諫止をはねのけて快諾した。
「もっと砂漠に入ろう。距離が短くてはつまらない。都が見えないところから、先に門についた方が勝ちとしよう。いいか」
「いいとも」ジャハールは笑った。
 姫は負けることなど考えてもいない。高貴な者は勝負の前に相手の身元を聞くものだ。負けた際の言い訳と、相手によっては勝負を避けることも考えなければならない。頭から被ったマントの中で、しきりに笑いを噛み殺した。
「この辺でいいか、合図はどうする」
 ジャハールは金貨を取り出すと、「こういうときはこれだろう」と高く弾いた。正体を知られるわけにはいかないが、ある程度の想像を許す材料は必要である。金貨は音もなく砂に落ちた。
 と、二人が鞭を鳴らしたのは同時だった。
 砂を蹴散らし、風を追い抜き、風の姫はラクダが潰れるのではないかというほど鞭を使ったが、ジャハールはその半分も鳴らさず、しかし二頭は横に並んでいた。
 砂煙の向こうに宮殿の先端が揺らめきだした。ジャハールは横目で姫の焦燥を見た。ジャハールが鞭を使うと、一気に一頭分の距離が開いた。
「くそっ!」
 姫は舌打ちし、ラクダの尻を強く打ったが、ジャハールが鞭を使ったのはそれが最後だった。
「姫! さすがでございます!」
 帰りを待っていた護衛兵が両手を鳴らして喜び、残りの護衛たちの追いかけてくる砂煙が未だ遠くにあるのを指さした。
 姫は泡をこぼすラクダをしばらくの間なだめていたが、
「おそれいった、『風の姫』。その名は伊達ではなかったようだ」
 と聞くと、憤然とジャハールを見た。
「ふざけるな! これは八百長ではないかっ! 貴様なぜ鞭を使おうとしなかった! 怖じ気づいたか!」
「まさか。俺が鞭を使わなかったのではない。おまえが使いすぎたのだ」
 ジャハールがラクダの頭をなでてやると、姫は膝をついて砂を殴った。
「風姫様、拳が痛みます!」と護衛が慌てて止めるのを振り払い、
「私を『風の姫』と呼ぶな! 男! 私の名はジャスミンだ! おまえは!」
 真っ赤な顔をして叫んだので、ジャハールは思わず声高に笑った。
「くっ、ははは! よせ、『風姫』の方が似合う。にしても、俺は全力でおまえに敗れたのだ。なぜ怒る」
 姫は途端に口を閉ざした。頬肉をこわばらせ、固く目を閉じ、ぎりりと歯を鳴らした。しかしすぐに、晴れ晴れとした顔を上げた。
「男に負けたと思ったのは初めてだ。明日も勝負しろ。明後日もだ。私にとって何よりのものとなろう。……教えてくれ。名はなんという」
「俺は旅の者だ。名乗っても仕方がない」
 ジャハールは手綱を引いてラクダを起こした。
「待て、明日は来るのだろうな!」
 姫の言葉に、片手を挙げた。
 ジャハールが勝利を収めたのは、それから二日後、姫がその結果になんの不思議もおぼえなくなってからだった。
「やはりな。おまえとの勝負は運次第だ」
 姫は屈託のない笑顔を見せて、ラクダの操り方の話に始まり、とりとめのない会話をたくさんした。ひとしきり盛り上がると、二人は静かに見つめ合った。
「――私はおまえの名も、顔も知らない。出会ってまだ三日目だ。しかし私は最高の友を得たと思っているのだ。おまえは私を……信用に足る相手だと思っているか」
 ジャハールは決まりきった返事をした。
「……なら」
 ジャハールが衣をとると、姫はぴたりと息を止めた。唖然と口を開け、だしぬけにうつむいて、長い間そのままでいた。
 四日目、二人は再び競走したが、姫はもう勝敗に頓着しなかった。ジャハールが勝つと拗ねたふりをして、子どものようにもう一度とねだる。前を行くジャハールの背中を、何度も何度も、飽きもせずに追いかけた。
「おまえはまるで風のようだ。その見事な操術も、つかみどころのなさも、旅人という――すぐに通り過ぎてしまうところまで」
 風の姫は強く鞭を鳴らした。
 五日目、砂漠についたジャハールは、姫の護衛が一人もいないことに気が付いた。風の姫はジャハールを見るや否や抜刀し、同じ大きさの剣を投げてよこした。
「今日の勝負はこれだ」その表情は石のようだ。
「物騒な姫君だ」
 ジャハールは悠然と剣を拾い、微笑をたたえて金貨を一枚取り出した。
「では、合図といこう」
 砂が舞った。
 勝負はすぐに決した。姫君の細腕はジャハールの荒々しい剣戟に耐えられなかったのだ。あまりにもあっけなく、高く飛ばされた剣を目で追うこともせず、風の姫は重力に任せて頭を垂れた。
「……叩きのめしてくれたな。これでも負け知らずだったのだぞ」
「上品な連中が多いようだな」ジャハールは首を鳴らした。
「……そう、そうだな。私の剣技はしょせん男の力にはかなわない。おまえは阿諛追従の輩とは違う。こうなるのではないかと思っていた。――こうなればよいと、思ってもいた。……わかるか」
 ジャハールは黙っていた。
「――敗者は勝者のものになるものだ」
「誘いの割には色がない」
 姫は耳まで赤くなった。
「どうしろという! 楽器も裁縫もできぬ! 化粧も舞踊も知らぬ! 花の名など似合わぬとおまえも言ったではないか! どこにも行くなと、ずっとそばにいろと、泣いてすがればいいか! 戦利品としてさえ、私には……っ!」
 ジャハールは震える顎を引き寄せて、抗う唇を黙らせた。風の姫は慌てて手をつっぱらせたが、太い腕で抱きしめられると、陶然と男の胸に身を預けた。
「風の姫が裁縫を始めたともっぱらの噂ですよ」
 イルサリムの座った目に、ジャハールはにやにやと笑みを返した。

 次は月の姫にした。月の姫は民と語らうのをためらわず、毎日広場で歌を歌う。護衛は連れていないという話だったが、ジャハールの見たところ、耳を奪われている聴衆のうち、一番前と一番後ろの二人組が怪しかった。
「イルサリムめ」しかしジャハールは喜んだ。
 都中に響き渡るのではないかと思われた拍手が止むと、ジャハールは一歩踏みだして、気配を鋭くする護衛の前で姫君の手に口づけし、
「あなたは素晴らしい。お声も、お姿も、まるで天上のそれだ。無礼を承知でお願いします。わたしに伴奏をさせてください」
 月の姫は自分を見つめる真摯な表情と背中のリュートを交互に見遣り、月よりも優しげな微笑を見せた。
 ジャハールがリュートを手にするのは久しぶりだったが、弦は変わらず彼を愛していた。一族でも一、二を争う腕であるのにめったに弾かない理由は、ジャハール自身が自分の音よりも、同じく名手であるイルサリムの音を好んだからである。しかし人々の耳を魅了するには、充分すぎるほどであった。
 月の姫は歌うことができなかった。姫の護衛たちは使命を忘れて立ちつくした。
 ジャハールは演奏を終えると、ことさら情けのない声を出した。
「……わたしの腕ではあまりに不遜な願いでしたでしょうか」
「そのようなこと!」
「いえ、いいのです。失礼いたしました」
 姫は慌てて追いすがった。
「違うのです。あなたの演奏が、素晴らしくて。心に響いて……もっと聴いていたくて。無礼を働いたのは私の方です。どうか許してください」
 ジャハールは立ち止まり、「恐悦至極」とだけ告げると、再び音を奏でだした。今までに何人もの楽士が石を投げられていたが、広場はしんと静まりかえったまま、音楽にさらなる深みが加わるのを待っているようだった。月の姫はそうっと息を吸い込んだ。
 その日の拍手は本当に都中に響いたとイルサリムは言った。
 翌日ジャハールが姿を現すと、広場は待ち受けていた観客の拍手でいっぱいになった。
「姫さーん、やっと来たよ! 昨日の兄ちゃんだ!」
「待ちくたびれたよあんた、ほら、ほら、早く姫様のところに行って! 綺麗な音聴かせてちょうだいな」
 その人数は昨日より明らかに多く、ジャハールは内心でしまったと思ったが、おくびにも出さずに一礼した。
「こんなにも望まれたのは初めてです。気恥ずかしいものですね」
「まぁ、そんなはずありませんわ。あなたの演奏はそれはそれはたくさんの人々に求められているはずですもの」
 月の姫は口に手を当てて微笑んだ。ジャハールは首を横に振った。
「いいえ、初めてです。わたしは楽士ではありませんから。楽器を手にしたのも数年ぶりです」
「まさか!」
「……お怒りになられるでしょうか。昨日はわたしにとって一生分の勇気を使い果たした日でした。月の姫君の噂を何年も前に聞いてから、わたしは決して広場には行かないと決心しました。あなたの歌声を聞いてしまえば、一度は捨てたはずの音楽を、再び望んでしまうとわかっていたからです。……けれど、わたしは数日後、この都を離れます。その前にどうしても、あなたと音を合わせてみたかった。そして今日もまた、なけなしの勇気を絞らずにはいられなかった」
「……あなたは何をしておられる方なのですか、それほどの腕を持ちながら、楽士になれない理由があるでしょうか」
 月の姫は青ざめていた。芸術を愛する者として、そんなことは耐えられないとでも言いたげだった。ジャハールは力無い笑みを向けた。
「下賤の身です。姫君が気にかけることはありません」
 そのとき一人の子どもが駆け寄って、「まぁだ?」と首を傾げたので、ジャハールはその頭をなでてやり、
「わたしは幸せです。……どうか姫、歌ってください。わたしとわたしの音を少しでも想ってくださるのなら」
 ゆっくりとリュートを手に取った。
 月の姫は普段のように民の顔を見れなかった。天を仰ぎ、誰にも表情を悟られないようにして、声の震えを抑えるので精一杯だった。
「……私は自分が恥ずかしい。私がこのように音楽を楽しんでいられるのは、恵まれた身の上だからなのですね」
「そのようなつもりでは」
「ですが私には、あなたを捨ておくことはできません。決して。……どうか後で私の邸に。お父様に話を通しておきます」
 月の姫が立ち去ってから、ジャハールはさてどうするかと考えた。が、例の護衛たちが近づいてきたので、やれやれと肩をすくめた。
「てめぇが売名の輩ならのこのこ姫の邸に行くといい。リュートを持てない体でな」
 前置きはなかった。ジャハールが苦笑を作り、
「護衛兵の方にしては素敵な言葉遣いですね」
 と揶揄すると、男は土につばを吐き捨て、いかにも柄の悪い立ち方をした。
「俺が守ってるのは豚商人さ。休憩時間をごまかして毎日通ってるただの聴衆だ。だがな、俺がここにいる間、月の姫は絶対に傷つけさせねぇ。いつも見てるからな、わかるんだよ。おまえの豚みてえな裏面と、姫の曇りない心がな」
「……なるほど。わたしにもわかる。君がリュートひとつ満足に操れない芋虫のような自分の指を、どんなに恨めしく思っているか」
 男は早口でほとんど聞き取れない罵声を浴びせ、拳を振りかざしたが、ついにジャハールを殴ることはなかった。
「指、つぶされたくなかったら……っ、とっとと失せろっ!」
「――よかろう。わたしは明日もここに来る。だが約束しよう。姫の邸にはけして行かない」
 ジャハールは劇を始めるように、パン、パンと手を叩いた。
「昨日は何故来てくださらなかったのですか」
 次の日、歌が終わってから、姫がしびれを切らしたように言った。月の姫はジャハールの弁解を当然あるものとして待っていたのだが、ジャハールは姫の方から尋ねてくるのを狙っていたのだった。
「あなたは罪な方です。衆目の前でわたしを暴こうとする」
 ジャハールが溜息をつくと、姫は何が何だかわからないという顔をした。
「わたしが、あなたの邸に? どうして行くことができます。……望みのなさを形として見るためにですか」
「……何を、言って?」
「あなたを愛しています」
 姫ははっと目をみはり、ほっそりとした両手で顔を隠そうとした。ジャハールは姫の靴に口づけて、振り返らずに立ち去った。
「それでもう手をつくさないおつもりですか? その護衛の男に取って代わられるのでは?」
 イルサリムは腕組みをしたが、ジャハールは「まぁ見てろ」と言うだけだった。
 数日後、月の姫は歌をなくした。
 毎日広場には行くが、所在なげに立ちつくすだけで、誰の声にも応えない。一度、あんまり子どもがねだるので、姫は両手を組み合わせて遠くを見たが、そのままむせび泣いてうずくまってしまった。

 ここまで来たら後はパバティーが口にしたとおりの順でいこうとジャハールは思った。風、月、の次は、確か華だった。
 華の姫は物語の主人公に夢中という話だったが、月の姫と謎の楽士の悲恋が巷を騒がせた今となっては、どうなったかわかったものではない。
 ジャハールは姫を喜ばせるため毎日何十人と招かれている道化や曲芸師たちの中に、楽士として紛れ込んだ。
「あら? 楽士なんて誰が呼んだの? 華姫様は退屈な音楽はお嫌いよ」
 控えの間がざわめく中で、ジャハールは思わず苦笑をもらした。カーテンの向こうから、慌てたような声がした。
「やだっ、嫌いじゃないわよ! 余計なこと言わないでちょうだい!」
「申し訳ございません」叱責を受けた侍女は何かに思い当たると、くすくすと笑いながら下がっていった。つまりそういう姫なのだった。
 ジャハールが演奏をしている間、姫は惚けたように口を開いたまま動かなかった。最後のひと弾きが終わった途端に、待ちきれなかったのか、銅鑼のように手を打ち鳴らした。
「素敵! 素敵! あなたすごいわ!」
「本当に」侍女たちもいっせいに息を吐いた。
「音も見事でしたけれど、弾いているときの真剣な顔。素敵でしたわぁ。姫様も見惚れていらしたのではなくて?」
 華の姫は一瞬固まると、すぐに口を尖らせた。
「違うわよ。髪が短いし、肌も黒いじゃない! 私は純粋に、彼の音楽に感動したんだからっ!」
 言ってからジャハールの反応を気にしたらしく、ちろりと視線をよこしてくるので、ジャハールは穏やかな笑みを返してやった。
「もっ、もっと色々聴きたいわ!」
 その日何もしないまま帰された芸人たちは、両手の指でも足りなかった。
 翌日、明日も必ず来るように、との命令通り、ジャハールが姫の邸の前に姿を現すと、門番たちが「頼むから早く華姫様のところへ行ってくれ」と疲れた口吻で言った。なんでも一時間ごとに姫自らが様子を確かめにきて、門番に確認するたびしょんぼりしていくらしい、と、聞いたそばから当人がやってきた。
 姫は西日の中でまさしく華のように微笑むと、ごほんごほんとわざとらしい咳払いをした。
「どれだけ待ったと思ってるの! 来いと言われたら朝一番に来るものよ!」
「申し訳ございません」
 ジャハールは華の姫の髪を愛でるようになでた。姫は弾かれたように飛び退いて、
「こ、こ、子どもじゃないのよっ! わびるつもりがあるならせ、せ、せ、……接吻、なさい」
 と固く目を閉じたので、ジャハールは右手の甲に口づけた。姫は拍子抜けしたようだが、まんざらでもなさそうだった。
 演奏を終え、甘い溜息が部屋を満たすと、華の姫は仏頂面でジャハールの袖を引いた。
「あら姫様、やっぱり彼が気に入ったんですの?」
 含みのある侍女の微笑をきっとにらんで、姫はずんずん前へ直進した。人気のないテラスまで来ると、勢いよく振り向いて、ジャハールの胸元をわしづかんだ。
「今日は帰っちゃだめよ。あなたはずっとここにいるのよ。私が聴かせてって言ったら曲を弾いて、遊んでって言ったら一緒に遊ぶの。綺麗な服を着て、髪を伸ばして、私の手に口づけして、ずっと私の横にいるのよ」
 ジャハールはうつむいた。姫はそれを首肯ととって、満足げに胸を張った。が、
「お断りいたします」ジャハールは冷ややかに言った。「失礼いたします」
「ちょっ、待ちなさい! どこ行くつもりっ? 衛兵、捕らえて!」
 ジャハールは前をにらんだまま叫んだ。
「あなたは槍でもってわたしを手中にするおつもりか!」
「……いやっ、待って! 待ってったら! やだっ、何してるの、捕まえちゃだめ! 行かせないようにするのっ!」
 衛兵は槍の先端を右往左往させるだけで、ジャハールの妨げにはならなかった。華の姫は息を切らせて、ふるふると首を振った。
「どうして? わかんないぃーっ」
 数日後、折りを見て邸前に現れたジャハールの両腕を、二人の門番が捕まえて、有無を言わさず姫の前まで連れて行った。
 華の姫はベッドの上でクッションに顔を埋めて泣きじゃくっていた。門番の話を聞くとバネのように飛び起きて、まぶたを擦ってからジャハールを見たが、即座にうつむいて鼻をすすった。
「捕らえてきたの……?」
「いえ、彼の方からやって来ましたので、我らはただ案内したまでです」
 門番はジャハールに耳打ちした。「これ以上姫を泣かせるな。ご機嫌をとってさしあげろ」
 二人っきりになったことを確かめると、華の姫は消え入りそうな声で言った。
「……あのね、なんで、怒ったの?」
「わたしが、簡単に手に入り、好きなときに捨てられるオモチャなどではないと、理解していただきたかったのです」
「捨てたりなんかしないわっ」
「かもしれません。でもそのうち忘れられてしまう。あなたは少しばかり珍しいオモチャに、一時の間だけ心を奪われた。それだけのことです」
「違うわ! 一目見たときから素敵だと思ったわ! 演奏だって本当に大好きだわ! いなくなってから泣いてばかりいたんだからっ!」
「髪が長くて、肌の白い男が現れていたとしてもですか」
 姫は魚のように口を開閉し、ジャハールは眉間に小さなしわを寄せた。
「あなたはまだまだ子どもです」
 ジャハールが退出しようとすると、姫はその背中に体当たりした。
「大人になるわ! あなたにしか夢中にならないと誓うわ! そうよ! あなたってば髪が短いし、肌だって黒いわっ! でも私だけの王子様だったら、それでいいのよ! だってこれは物語じゃないんだものっ!」
 華の姫はジャハールの腰にぶら下がり、いやいやと身をよじった。まったく手のつけられない子どものような有様に、ジャハールは後ろ手に姫の頭をなでてやり、深々と溜息をついた。
「姫、離してください」
「だめっ!」
「離してください、これではあなたに口づけできない」
 華の姫は慌てて両腕を解いた。ジャハールはくすくす笑いながら、難しい顔でまぶたを閉じている姫の額に軽く口づけた。
「ゆっくりでいいんですよ」
 姫は全身を真っ赤に染めて、ジャハールの胸にぐりぐり頭を押しつけた。
「ねぇ、月の姫の噂を知っている……?」
「存じ上げております」
「あなたはいなくならないわよね?」
 ジャハールの腕の中で、上目遣いに姫が言った。
 ジャハールは顔を曇らせた。
「月の姫のお相手が、なぜ姿をくらませたのかおわかりですか?」
「月の姫が自分の気持ちに気づいたのが遅かったからでしょう? 謎の楽士は片思いだと勘違いしちゃったんだわ」
 ジャハールは物憂げに首を振った。
「……楽士と姫が結ばれたお話を読んだことが?」
「そんな! お父様はお許しくださるわ! すっごく優しいもの!」
「ええ、そうでしょう。姫の幸せのために、秘密裏にわたしの首をはねるでしょう。……わたしではあなたの王子になれない」
 ジャハールは中指を口に当てた。その指で姫のふっくらとした口唇をやんわりとなぞり、やがて二度とは振り返らない背中を向けた。
 姫は恐慌を来して短い悲鳴を甲走らせたが、正気に戻るとすぐに口を両手で覆い、もう何も言おうとはしなかった。
 華の姫は寂しげな微笑をするようになり、誰もがいぶかしがらずにはおれなかったが、姫も、姫の周りの者たちも固く口を閉ざしたため、ついに真相が明らかになることはなかった。
「――この極悪人」
 イルサリムが言った。

 さて、金の姫は学問に傾倒している――が、困ったことに、ジャハールの学問は読み書きと基本的な計算で終わっていた。パバティーは様々な教育を施そうと努力してくれたが、やれ宇宙がどうした、やれ存在するとはどういうことか、などと言いだされると、いったい何の役に立つのかと耐えられない馬鹿馬鹿しさを感じてしまうのだ。
 権高な女はその得意分野で叩きのめしてやるのがよい。と、ジャハールは思っていたが、今回その手は使えそうになかった。
 考えた末、ジャハールは汚らしい身形で毎日金の姫の邸に通うことにした。
 誰何する門番にはこう言った。
「俺は学問がしたいんだ、だが金がない。学を極めたいのに女に生まれついちまったここの姫さんならわかってくれるかと思ってよ。いーや、違う。ここを出入りする偉い人の顔を見るだけでもいいのさ。しょせん夢だ、わかってくんな」
 門番は見て見ぬふりをしたが、邸には呼ばれてきた様々な学者が出入りする。そのうちの何人かが事情を聞き、やがて金の姫の耳に届いて、ジャハールが邸内に招かれるまで、何日もはかからなかった。
 金の姫はジャハールの身形を見て顔をしかめた。いかにも卑しい身分の者で、しかも何日も体を洗ってないのが明らかだった。しかし彼女は学問を志す者に身分の差はないと習ったばかりだったので、鼻が曲がりそうなにおいにも、努めて平静を装った。
「――なぜ学問を?」
「このままじゃ虫けらのように死んじまうからですよ」
 姫の眉間が深く沈んだ。
「……生活のため、というわけかしら? あなた、学問はもっと高尚なものですのよ」
「今よりましな生き方をしたいってのは、そんなにくだらねぇことですかね?」
 ジャハールはにやりと笑った。どうやら金の姫にとっての学問は、金持ちの道楽の一つといったところだ。証拠にジャハールの反駁に、一言も返ってはこなかった。
「……いいわ。わたくしがあなたの師となりましょう。学問において師弟というのは絶対ですわ。まず垢を落として、新しい服を着て、香水を被ってからこの部屋においでなさいな。……誰か!」
 金の姫が手を鳴らすと、侍女たちが恭しくお辞儀をして、ジャハールを浴室へと連行した。その一時間後、耳に宝石をぶら下げられ、首に金鎖まで巻かれたジャハールを見て、金の姫は持っていた扇を取り落とした。侍女たちを喜ばせるに充分の美貌が、さらに飾られて出てきたのだ。
「耳飾りは外してもいいですかね? どうも邪魔くさい」
 ジャハールが肩をすくめると、姫ははっとしてうなずいた。
「好きになさい。他のものはすべて与えますわ。ただし明日もその姿で来ること。よろしいですわね」
「かまいませんがね。俺は着替えに来たんじゃあない。あわよくば姫さんに学ばせてもらおうと思ってのこのこ入ってきたんですぜ」
 姫は二、三度目を瞬くと、口元の力を抜き、早速講義を始めだした。
 ジャハールはよくできた生徒だったので、金の姫は一日、また一日と授業をするうち、教えることによって自らもまた学ぶ喜びに熱中した。侍女や衛兵は追い払われ、授業の時間が少しずつ延長されて、金の姫にとってジャハールは一日のうちで最も長くともに過ごす異性となった。
 ある日ジャハールは本を朗読する姫の顔をぐいと引き寄せて口づけした。
「何をするのです!」金の姫がもがきだすと、ジャハールはその体を組み敷いて、
「姫さん、姫さんはなんでこんなにいいにおいがするんですかい?」
 姫は憤然と顔を背けた。
「香水のせいでしょうっ!」
「へぇ、じゃあ身分の高い女はみんなこんなにおいがしますか。俺は違うと思うがね」
「……馬鹿なことを、離しなさい!」
 金の姫の平手を、ジャハールはあえて受け止めた。
「……ああ、馬鹿だとも。身分違いの恋に落ちるくらいには。しかも片恋だ、やってらんねぇ」
 ジャハールは姫を腕から解放し、椅子にあぐらをかいてテーブルを叩いた。
「さあて師匠、破門ですかい? それとも極刑かな」
 姫は絨毯に座り込んだまま動かなかった。
 翌日もジャハールは何食わぬ顔で姫の講義を聞きに行った。処罰はなかろうが侍女と衛兵の復活は当然あるだろうと予想していたジャハールは、それまでと変わらない様子を見て拍子抜けした。変わったことといえば、姫が終始伏し目がちになったことと、テーブルも椅子も取り払われ、クッションと肘掛けになったことであった。
 ジャハールは次の日もその次の日も大人しく過ごしていた。すると、
「……わ、わたくしは、その、……まだ、いい香りがするかしら?」
 姫は豊かな髪をベールのように払いのけた。座り方から男を意識して、瞳は熱で潤んでいた。
「何をおっしゃってんで?」ジャハールは首を傾げた。
 姫は頬に朱を散らし、「なんでもありませんわ!」と背中を向けた。絨毯に押しつけられた拳が、小刻みに震えていた。
「姫さん、発言はようく考えてからすべきですぜ。身分卑しい男を受け入れて、それから一体どうするんで? 腰が立たなくなったらお払い箱ですかい?」
「わたくしはっ、そのようなっ!」
「そうかい、俺はまた、遊ぶに適した相手を見つけてさかってんのかと……」
 最後まで言う前に、ジャハールの頬が高く鳴った。
「またですかい」そうジャハールがつぶやくと、金の姫は耐えきれなくなったように嗚咽をもらした。
「どうしてわたくしがこのような侮辱を受けなければなりませんの!」
「姫さんと俺じゃ俺にできるのはそんくらいじゃあないですか」
「……っ、わたくしがっ、誰にでもこのようなことをする、女だと思ってっ? おまえは頭の回転が速いですし、物覚えだっていいですわっ! それに……貴族にもおまえほどの者は、なかなか、おりませんのよっ」
 金の姫が乱れた息づかいで懸命に紡ぐ言葉を聞きながら、ジャハールは開いた両手を天に見せ、ゆらゆらと力無く揺らしていた。
「頭のいい御仁なら、やがて大火災になる火遊びに手を出そうとはしませんな」
 口調に含ませた呆れは、姫君の炎を煽るだけだった。
「……学問の及ばない領域が恋なのですわ」
「へぇ、そりゃあ恐れ入った」

 最後の一人、夜の姫は、一番厄介と思われる姫君だった。姫は生まれつき目が開かないので、ジャハールがどれだけ恵まれた容姿を持っていようが関係がない。邸内でもほとんど人を寄せないらしく、趣味も嗜好もわからなかった。
 ――面白い。
 ジャハールは考えた。脚本を練るのも飽きてきたことだし、ここは素のままでいくとしよう。
 夜を待ち、ジャハールは窓から姫の部屋へと侵入した。
 部屋は邸の一番高いところにあり、羽でもなければ届くまい、といった様子だったが、ジャハールにとってはさしたる困難ではなかった。警備の位置も以前とまったく変わっておらず、つまらないほど容易にたどり着けてしまったので、思わず音を立てて息を吐くと、
「……どなた?」
 ジャハールはとっさに後ずさった。
 夜の夜中、室内に明かりは一つもなく、てっきり寝ているものと思ったのだ。どのみち起きてもらうつもりだったとはいえ、明らかに失態だった。
「……あなた、精霊?」
 返事を待たず、声は言った。
「窓から入る人はいないもの。精霊でしょう? どうか、行かないで。私とお話してください。……お願いです」
 か細い懇願は至って真剣な声音で繰り返された。
「ほう、ならばなんの精霊だか言い当てろ。当たったらいてやらないこともない」
 しばしの沈黙が過ぎ、やがて紡がれた言葉は、
「――光」
 という、およそ状況にそぐわないものだったが、ジャハールは間髪入れず、
「ご名答だ。恐れ入った」
 さて何を話したいのか、しかし姫はそれからなかなか口を開こうとはしなかった。何かを言いかけては飲み込むのを幾度か見るうち、ジャハールは次第に視線をずらし、姫の私室というにはあまりに簡素な部屋を観察した。
 ベッドと小さなチェスト以外は絵画や彫刻はおろか絨毯さえない、狭く寒々しい空間。しかも奇妙なことに、チェストは扉の前に置かれていた。
 ジャハールは待っていても埒があかないと見て、夜の姫のほっそりとした顎を強引に引き寄せた。
「あっ、あのっ」
「まぶたが張り付いているようには見えんな」
 姫の顔がさっと曇った。
「なんだ、珍しいものを珍しがって何が悪い」
 奥に眠る球体を暴こうと薄い皮を押し上げてみるが、境目が現れることはなく、ジャハールは無遠慮な探求を深くした。すると、繊細な睫毛の間から、雫がひとつこぼれ落ちた。
「涙は出るか。で? 何を嘆く」
「私は……一体、何ものに見えているのですか」
 ふたつ、みっつ。姫の睫毛が間断なく揺れ動いた。
「そうだな、美人だ」
 ジャハールは改めて姫を注視した。起きている様を間近で見るのは初めてだったが、その瞳が確かに開かないことを確認しても、けして瑕瑾とは映らなかった。
「美女は星の数だが、おまえは雰囲気が独特だな。“夜の姫”とはよく言った。だが――月、の方がしっくりくる。すでにいるがな。むしろおまえの名にふさわしいと俺は思う」
 “夜”が盲目を指しているのは周知の事実である。ジャハールはあえてそう言った。優位な比較を与え、女を内心でほくそ笑ませてやる、との計算も動いた。しかしその言葉は、素直な感懐でもあった。
 姫は身じろいで、おずおずと腕を伸ばし、ジャハールの肩に羽のような両手を置いた。
「他人の美醜など私には意味がありません。……ただ……」
 少しずつ上に進んでいき、ようやくこめかみにまでたどり着くと、頬骨と眉の形をそっとなぞった。
「この目が開けば、あなたと同じものが見れるでしょうか?」
 そして、深くうつむいた。
「私はひとりぼっちです」
 ジャハールはことさら大きな溜息をついてみせた。
「なんとも陰気な。うんざりだな。教えよう。例えその目が見えたとしても、他人と同じものが映ることはない。数多の者たちと同様に」
「――え?」
「それが普通だ」
 眼球が隠されている分、いささか表情に乏しい感のある夜の姫が、それでも懸命に困惑を表すので、ジャハールはさらに続けてやった。
「なるほど確かに、おまえは世界を知りにくい。不具に生まれついた。どうしようもない。だがならば何故、その欠落を他で埋めようとはしないのだ。こんな部屋に閉じこもっていて何ができる。俺に涙を見せて何が変わる。他人に他人の世界が見えるものか」
 段々と語気が荒くなり、ジャハールは自嘲して口の端を上げた。
「あの扉から何が来る?」
 姫の全身が硬直した。
「孤独なおまえが出口を封じる理由は一つ。――外敵から、身を守っている」
 息を飲む、引きつったような音が闇を裂いた。がくがくと身震いし、今にも崩れ落ちそうな姫を、ジャハールはしっかりと抱きすくめた。かすかな抵抗は寸秒で去り、
「……この目さえ、開けば、と……っ」
 姫は今にもかき消えそうな声で、ぽつりぽつりとつぶやきだした。
「お父様は……優しくしてくださったかもしれない。どうしても、どうしてもそう思う。どうしようもなく……! どうかお願いです。教えてください、本当のことを」
 姫は決して開かない目で、ジャハールをまっすぐに見た。
「……私は美しいですか? 同情ではなく? 優しい嘘、などでは、けしてなく?」
「美人だと言ったろう」
 ジャハールは肩をすくめた。姫は唇だけで微笑した。
「……あなたの言葉は信じられる。私は美しい。……ただそれだけが、私の存在を許してくれる……。……不具を娶る殿方など、いないのです」
 手間がかかるだけで嫁にも出せない娘に、姫の父は価値を見いだすことができなかった。出席させねば不敬にあたる公の場では着飾らせ、それ以外は粗末な部屋に幽閉した。囚人はベッドとチェストだけの部屋で、何をするでもなく日々を過ごしていく。それが、美姫と名高い“夜の姫”の、真の姿であったのだ。
 ジャハールは姫が落ち着きを取り戻すまで、ひたすらに涙の道を見守った。
 夜が白み始めていた。
「……あ、あの」
 姫がジャハールの胸に顔を埋めたまま、もぞと動いた。
「す、すみません。その、私ったら……はしたない。違うの。だから、ひとりじゃないのが……嬉しくて。だから、その、こんなにあなたの服を濡らしてしまって……。ええと、つまり」
 ジャハールは笑いを噛み殺すことができず、姫は茹でられた果実のように赤くなった。
「やっ、やだっ、私、何をしたの? ごめんなさい、私、普通のことがよくわからなくて……っ!」
 ジャハールはくつくつと笑っていたが、姫の眦に涙がたまり出すのを見て口を結んだ。
「気にするな。楽しかっただけだ」
「……たのしい?」
「ああ、楽しかった。さてそろそろ行くとしよう」
 ジャハールが立ち上がると、姫は「あっ」と声をもらした。両手で口を押さえるが、すぐに躊躇いがちにまた一言。
「あの……」
 ジャハールはうんざりと眉をつり上げた。
「なんだ。言いたいことがあるならはっきりと言え」
「その……また、来ていただけたら、……嬉しい、と、言うのは……煩わしいでしょうか?」
 姫は胸元で指を組み合わせ、まるで神の機嫌を窺うかのごとくだった。ジャハールはいっそ呆れてしまった。
「……いいか、煩わしいのはその問いだ。来てほしければ来てと言えばいい。それが愛らしければ男は来る」
 姫は不安げに眉をひそめた。
「でも、私が来てほしいのはあなたですから」
「――その調子だ」
 次もジャハールは、やはり夜に会いに行った。イルサリムの得た情報が極端に少なかった理由は、姫の不遇がもれぬよう、内外のやりとりが厳しく監視されているからだ。しかし深夜、窓からの侵入という状況には備えていないようだった。
 もっとも、それが当てはまるのは盗賊のみであり、あえて盗ませ、あるいは討伐の意気を煽る――というのも、まったくないとは言いきれない。ジャハールはそう思ったが、しかしどうでもいいことだった。
 目的は姫ではなく、姫の心であり、寂しさに震える女をたぶらかすのは、赤子の手をひねるようなものなのだ。
「ああ……っ! 来てくださったのですね!」
 ジャハールは満面の喜色で迎えられ、両手で宙をまさぐりながら、覚束ない足取りで近づいてくる姫を、ぎゅっと腕に閉じこめた。
「きゃっ」
「俺に触れたかったのだろう」
「そ、それはそうですけれど……こういうことではなくて……あの、お願いが」
 姫は真っ赤な顔で口を動かした。
「……これが鼻、これが耳、……これが……目」
 姫の望みは、ジャハールの顔に触れ、形を確かめることだった。正確に把握できたとしても映像が浮かぶことはないが、より確かな感覚を得ることはできる。
「あなたのお顔は……どういった感じなんでしょう」
「俺は醜男だ」
 ジャハールは己に諧謔をきかせた、つもりだった。
「目の見える人は、私よりも多くあなたのことを知っている……それはとても、悔しいことです」
 ジャハールが口を開こうとすると、突然姫が首を横に振った。
「あ、あの、私の名前、リエラといいます。リエラです。……リエラ」
「呼んでほしいのか、リエラ」
「はっ、はい、そう……ですけど、あなたの、お名前は……?」
「好きなように呼べばいい」
 ジャハールが言うと、姫は悄然と肩を落とした。
「……教えていただけないのですか?」
「実は自分の名前は好きじゃない」
 姫は真剣に、
「私は、好きになれると思います」
 ジャハールは笑った。
「なら俺が好きになるまで待ってもらおう」
「……はい。……もう少し親しくなれたら、きっと教えてくださいね」
 姫はジャハールが訪れるたび、少しずつ口数を増やしていった。様々な話をねだり、一つ一つに素直な感情をあらわにする様は、まるで稚い子どものようだった。
 ジャハールは乞われるまま外の世界の話をしたが、唯一自分に関することだけは決してもらしはしなかった。
 姫は不満げに眉を垂らし、「もっと仲良くなれたら」と繰り返した。そうして次第に極上の笑顔を見せるようになっていった。
 幾度めかの夜。穏やかに語らっていた姫の表情に、突如張りつめた衝撃が走った。
「――今日は、これで、お帰りください」
 姫の方から別れを切り出したのは初めてのことだった。
 ジャハールは尋ねた。
「おまえは目が見えない分、常人よりも聴覚が優れているな?」
 姫が答えようとしないので、なおも問うた。
「おまえの恐れているものが近づいてくる。そうだな?」
「……お願いです。今日はもう……」
「ふむ。見つかるとまずいのは確かだが、女にかばわれて逃げ出すのは性に合わん。だがここはおまえの領内だ。おまえの意向を尊重しよう」
 ジャハールは姫を抱きかかえてあぐらをかいた。
「リエラ。いてほしければいてほしいと正直に言え」
 姫は絶句して、眉根をしぼって頭を振った。
「素直な女が俺は好きだ」
「……わた、し、楽しい女に、なりたいんです。目が見えない『くらい』と言える、陽気な女に、なりたいんです。あなたがいてくれれば、できる気がする。だからっ、こんなところ……見られたくない」
 近づく気配がジャハールの耳にも届きだした。一人だ。重さからすると太った男。堅さからして靴にヒールがついている。裕福な人間。ジャハールは冷静に分析を進めながら、姫を腕から離さなかった。
「あ……来てしまう、来てしまいます。見つかってしまうかもしれない。どうか」
 扉をふさぐチェストは小さい。目の見えない姫が一人で運べるだけの大きさだ。
「俺がいれば気丈な女にもなれると言ったのはおまえだろうが」
 ジャハールは肩をすくめた。
 足音は扉の向こうで立ち止まり、鈍いノックが三回鳴った。続いてカチャリ、と、解錠の音がした。
「姫……? お休みですかな?」
 声には舌なめずりする響きがあって、姫の体温がさっと引いた。
「……ふう、前も、その前もお休みでしたなぁ。……衛兵や侍女たちの手前、今までは引き下がってきましたがね。……あなたのような礼儀知らずには力ずくで言うことを聞かせるがいいと、やっと理解できましてね。いやいや、誤解なさらず。ちゃあんとお父上のご許可もいただきました。……さあ、姫? この扉を開けていただきたい。お互いのためにも親睦を深めようではありませんか。……ねぇ? これが最後の呼びかけですよ。姫……?」
 姫は震えのおさまらない自分の体を抱きしめて、歯を食いしばり、息を潜めた。ジャハールは姫を抱く腕に力を込めて、いつ攻勢に出ようかと窺っていた。
「そうですかぁ。いや、あなたのお気持ちはようくわかりました。……乱暴なのがお好き、なのですね。気づくのが遅れまして申し訳ない」
 扉が弾んだ。
 囚人の部屋らしく、金属でできた、レンガほどのの分厚さを持つ板が、一度の轟音によっていびつになった。
 扉と壁の間には鼠ならば容易に抜けられそうな隙間ができ、チェストは引き出しを半分以上飛び出させた。
「馬鹿にしやがって馬鹿にしやがって馬鹿にしやがって! おまえの引き取り手は私しかいないんだよおっ、さっさとあきらめろっ!」
 防御壁はたった二撃で取り払われ、
「一生檻に入れて飼ってやるっ!」
 男の勝ち誇った笑みは、一秒後、見るも無惨に落ちくぼんだ。
「無粋な口説き文句だな。……なんだ、もう気絶したのか。手間のかからない男だ」
 ジャハールは振り上げた拳を、せっかくなので使っておいた。
「これで朝まで目が覚めないだろう。扉に体当たりした衝撃で気絶したとでも思わせておけばいい」
 姫は何も言わなかった。
「また泣くのか」
「……お父様が……半年前のことです。お父様が、婿が見つかったと、私に言いました。商人で、身分はないが、きっと大切にしてくれるだろうって。……でも、最初に会ったとき、私にはわかったんです。この人はきっと、珍しい動物でも見るように私を見ている。……でも、仕方がないって、思ったのに。あなたが来てくれるようになった、少し前からです。夜、この部屋を訪れて……私は……私は……どうしても、耐えられなかった! 怖くて……悲しくて……悔しくて!」
 姫はジャハールの頬を両手で覆い、すべての原因をしかと見せた。
「私は人間です。少しだけ、ほんの少し違うだけだわ。私には欠陥がある。でも、欠陥だけでできているわけではないのに!」
 ジャハールはにやりと笑った。
「もっと怒れ。おまえの父にも、怒ればいい」
 姫はぽかんとして、へなへなと全身の力を抜いた。
「私――怒っても、よかったんですね」
 ジャハールは姫の髪をくしゃりと撫でて立ち上がり、床に転がる肉塊を部屋の外にまで蹴飛ばしてやった。
 姫はその音を黙って聞いていたが、やがて躊躇いがちに腕を伸ばし、
「……あ、あの……愛らしく言えば、聞くだけなら、聞いてくださりますか?」
 ジャハールは溜息とともに腕をとった。
「なんだ、さっさと言え」
「……あなたが好き」
 夜の闇にすとんと落ちたその言葉は、すぐになかったことにされようとした。
「……やっぱり、きかなかったことにしてくださ」
 ジャハールは臆病な唇を閉じこめた。

「それでどうしたんです?」
「適当に甘い言葉をかけておいたさ」
「寝たのかと思いましたよ」
 イルサリムはじと目を閉じて、投げやりな口調で言った。
「俺が抱いてどうなる。あの女はいずれあの男のものになるしかない」
 “夜の姫”ともなれば、その名前だけで貴族の中にも妻にと望む者はいるだろう。なのにわざわざ商人が選ばれた理由は、おそらく姫の父の心情によるものだ。不具の娘をもらってもらう以上、貴族相手では引け目が生じる。商人相手であれば、互いに有益な商談が成立し――、ついでにちょっともったいぶってやれば、さらに価値を上げることができる、というわけだ。すでに様々な権利がやりとりされているであろう。娘として庇護を受けている以上、姫に逃れる術はない。
 豚のような奴らだ。と、ジャハールは思った。
 リエラが奴の手に落ちたとき、すでに他の男のものであっては一体どのような扱いを受けるか。
「……あなたが娶ればよろしいでしょうに」
 イルサリムの言葉は、奇妙なものに響いた。
「――俺が? 馬鹿な。あの女に盗賊頭の伴侶が務まるものか」
 ジャハールは一笑に付し、やおら立ち上がって尻を叩いた。
「どこへ?」
「ババアのところだ。ご所望の品がそろったからな」
 ジャハールがにやりと笑ってみせると、イルサリムは目の色を変えて狼狽した。
「しかしっ、まだお選びでは……っ!」
「最初から選ぶつもりなどない」
 ジャハールは笑いながら手を振った。
「――ジャハール様……!」
 イルサリムの憂いは誰に届くこともなく風に消された。
 報告を受けたパバティーは、固く固く瞳を閉ざし、やがて小さく嘆息した。
「ジャハール、あなたには……一族を出てもらいます」
 そうして開かれた瞳は、決して嘘をついている光ではなかった。
「な……っ! 何故だ! 俺は確かに条件を満たした!」
 パバティーは冷ややかに言った。
「イルサリムからも報告が来ています。あなたは五人の姫を相手に五つの人格を使い分けたとか」
「イルサリムが……」
「あなたのことです、彼を使うだろうとはわかっていました。それは構いません。問題は、ジャハール、私は力を示せと言ったのではありません。心を示せと言ったのです」
「心、だと?」
 ジャハールは顔をしかめた。
 パバティーは表情を動かさず、抑揚のない声で続けた。
「この都で最も有名な五人の姫なら、きっと誰かあなたの理想に叶うだろうと思っていました。最初は私への対抗意識だったとしても、やがては恋に目覚め、その心が成長してくれればと、願っていたのですが。すべては無駄だったようです」
「ふん、つまり、人格を偽らねばよかったわけですな」
 ジャハールは鼻で笑うと、眉間のしわをゆっくりと解いて、いつもの不敵な笑みを浮かべた。
「イルサリムの報告には不備があるようだ。一人、条件を満たす女がいることを忘れている。今から連れてきましょう。お待ちいただきたい」
 パバティーの反応も見ずに飛び出し、ジャハールはまっすぐに夜の姫の邸を目指した。

 ジャハールを出迎えるとき、夜の姫は控えめな挙止でそれでもいっぱいに喜びを露わにした。常にそうだった。唇を重ねた今となっては、身じろぎ一つに万感の思いが込められていた。
「お会いしたかったです」
 ジャハールは眉を寄せた。
「悪いが今は抱擁を交わしている暇がない。おまえをここに置くのに耐えられなくなった。……来い、俺の、妻に迎える」
 姫の表情がとまどいで満ちた。
「えっ……あ、あの」
「なんだ、俺では不満か?」
「いいえ……そんなことは」
「ならば来い」
 ジャハールが華奢な肩を抱き寄せると、姫は慌ててそれを振りほどいた。
「待ってください! ……ええと、その、精霊の、世界では、私は……」
 ジャハールは内心で舌打ちした。精霊という隠れ蓑ほど都合のよいものはなかったが、今となって障害となってくるとは。しかし、今素性を明かして面倒なことになるよりは、有無を言わさずさらってしまった方が早い。
「おまえが不安に思うことなど何もない。常に俺がそばにいる」
 ジャハールは再び姫の肩を抱いた。
「……離して」
「リエラ?」
「……私は」
 姫はジャハールの胸を突き放し、自分自身を抱いて震えた。
「……私は、獲物、ですか? ――盗賊様」
 ひとつ、ふたつ、みっつ、涙が頬を滑り落ちた。
 ジャハールは凝然と、何も言うことができずにいた。
「あなたは前にもただ一度だけ、私に会いに来てくださいました。あなたは気づかなかったけれど、あのとき私は起きていました。……ベッドで横になっている私のすぐそばまでやって来て……あなたはこう、言ってくれた」

 この目が開かないのか。――しかし、美しい女だな。

「そうです。私の目は、開きません。誰が何を言ってくれても、哀れな女へ慰めをかけているのだと思っていました……。どうしても信じることができなかった。けれどあなたの言葉は……疑いようが、ないでしょう? 私の耳は遠くで盗賊を追いかける兵士の声も、それを面白がるあなたの声も、ちゃんと拾うことができた。あなたが残してくれた言葉は支えとなって……私はずっと、待っていたんです。――その窓からもう一度、あなたが来てくれる日を」
 姫は口の端を無理に上げた。
「……もう待てないかもしれないと思ったとき、やっと、来てくれて。なんとしても引き留めたくて、とっさに嘘をつきました……。盗賊だなんて、なかなか言えませんものね。……でも、もっと……もっと仲良くなれたら……きっと。あなたの方から教えてくれると、ずっと信じて……いたんです」
 両手で顔を覆い、そっと離して、姫は唇を指で押さえた。
「……先日のあれは、特別な行為ではなかったのですか? 私の気持ちを受け入れてくださったのでは、なかった、と。……どうして私は、未だにあなたのお名前さえ知らないのですかっ? どうして……何も言わないままに、私を奪おうと、するの……?」
 ジャハールは返事を持たなかった。姫の涙を拭ってやることさえ、今となっては。
 夜の姫は淡い微笑を顔に溶かした。
「……あなたを愛しています。だから、もう……来ないで」

 闇の中の道を、蒼い光が皓々と照らし出していた。人々は寝静まり、うごめく影は一つしかない。まるで世界にひとりぼっちであるかのような――そんな感覚をジャハールは好んでいた。
 暗闇の向こうには必ず小さな小さな光があって、そこが自分の帰るべきところであると、ちゃんとわかっていたからだ。
 しかし今、ジャハールの行く手に光はなく、見慣れたはずの街並みが、まるで姿を変えて広がっていた。
 目を閉じれば姫の悲しみが見えた。母の憂いと、自身の憤りも浮き上がった。
「追放か。……この俺が。こんなことで!」
 ジャハールは拳を握ったが、打ち付けるところを持たなかった。罵声を浴びせる場所も見つけることができなかった。
「くそっ!」
 次第に姫の涙が大きくなって、ジャハールの心を埋め尽くした。
 夜の姫は最後まで儚い微笑を浮かべていた。
 全然笑えてなどいないのに、流れる涙に気づかぬふりで、あんなにも気丈な女は、どこを探してもいないだろう。
 ジャハールはゆっくりと目を閉じた。
 あてもなく彷徨い砂漠に出ると、手前に見慣れた姿が見えた。
「……イルサリム」
 月よりも蒼い顔色だ。
「ジャハール様、私は……」
 おそらく自分よりも蒼いのだろうと思い、ジャハールは思わずくっと声をもらした。
「どうせおまえのことだ。俺が気づくのを待っていたんだろう」
 あてもないと思っていた場所も、よく見れば気に入りの砂漠だった。幼い頃は、よく遊んだ。
「おまえが思う以上に、俺はおまえを信じている」
 ジャハールはいつもの、にやりという笑い方をした。
 イルサリムは耐えかねたように堰を切った。
「姫のことは、信じられませんでしたかっ? みんなあなたを愛していたのに!」
「まるで見てきたように言う」
「話を聞いただけでもわかります! パバティー様とてあなたのことを想えばこそ! わからないのは、あなただけです……っ!」
 ジャハールはふうと息をついてこめかみを押さえた。
「もう言うな。確かに、俺は自分を偽った」
「すべてを偽れるものではありません!」
 イルサリムの必死さがどこか滑稽に思えてくるほど、ジャハールはもう、疲れていた。
「愛してなどない、俺は」
 五人の姫は確かに五人とも稀な美女だったが、それはジャハールの享楽に彩りを加えただけのことである。特別な気持ちなど芽生えなかった。散らばる駒が思い通りに動き出すのを、ただ楽しんだ、それだけ……。
 ジャハールは眉を寄せた。
「……豚は俺か」
 泣き顔がいつまでも、頭から離れずにいた。
「イルサリム、正直に言え。……俺がいなくても、一族はやっていけるか?」
 イルサリムはつばを飲み込んだ。
「……苦難は待ち受けているでしょう」
「……そうか。俺が残れば、一族は乱れるか?」
 ジャハールは凪いだ心を瞳に映し、信頼できる答を待った。
「――イルサリム」
 イルサリムは呻吟した。
「……長老たちは、あるいは」
「……そうか」
 ジャハールは砂漠の奥の彼方を見た。どの方向に何日歩けば他の町にたどり着くのか、頭の中には知識がある。しかし闇は底がなく、どこまでも続いているように思われた。
 気弱なことだ、この俺が。
 ジャハールが自嘲すると、イルサリムが心の隙をつくようにして、
「……まずはどこへ行きますか? 私は西に行きたいです」
 してやったりという笑みを浮かべた。
 ジャハールは思わず瞠目した。するとイルサリムはますます面白そうな顔になり、胸を張って言ってのけた。
「――あなたが行けば、私も行く。それがあなたの力です」
「馬鹿な。おまえは残れ。一族をつぶす気か?」
「パバティー様には申し訳ないと思いますが、あなた以外に仕えられる謙虚さも、あなた以上にのし上がる野望や責任感も、私は持ち合わせていませんから」
 ジャハールは呆れて溜息をついた。
「俺のために故郷を捨てる気か」
 イルサリムはおどけてそれをまねてみせた。
「それこそ馬鹿なことを。あなたのためなんかじゃありませんよ。あなたとともにいなければつまらない、自分のためです」
 ジャハールはおかしくて、ついに笑い出した。
「そうか。……そういうことか。ああ、やっとわかった」
 イルサリムはジャハールが何者であっても同じことを言うのだろう。そして自分はこの忠実な従兄弟を失うことを恐れつつ、彼の身を案じるのだ。例え彼が、なんの役にも立たなくても。
「ババアは俺のことを、本当に気にかけていたのか……」
「当たり前ですよ。パバティー様は一族を束ねる者として、少し、ご自身の甘えを許されなかっただけです。ジャハール様が改心すれば、きっと……」
 ジャハールは首を横に振った。
「イルサリム、人はそう簡単に変われるものか? 俺はそうは思わない。今はわかったとしても、次も気づくことはできないだろう。力がいかほどあろうとも、俺の短所が一族を滅びに導くのなら、……俺は一族を去らねばならん。だが、その前に」
 ジャハールは生き生きとした表情で都を振り返った。
「――豚商人からリエラを奪い、一族に連れて行く」
 それだけはどうしても、終えていかねばならなかった。
 あの不幸な女を、あれ以上牢獄に置いておくことはできない。元は王族であった母であれば、盲目の姫といえど誠心誠意守り抜いてくれるだろう。
 自分を光と呼んだ、ならば、最後の顔は笑顔でなければ――。
「しかしそのためには、少なくとも四人の人間に頭を下げる必要がある」
「え……? あ――」
 イルサリムは呆けたように大口を開け、ジャハールは自分の首を軽く叩いた。
「俺の首は、途中で離れると思うか?」
 イルサリムは苦笑して首を傾げた。
「女性の愛情はすさまじく深いですからね……しかしそんなことは、この私が決してさせま」
「いや、駄目だ。もしも俺が戻ってこれなかったとき、おまえは俺の代わりにリエラを盗め。そしてもしも俺が戻ってきたら……」
 ジャハールはリエラの姿を思い浮かべた。
 哀れな女だと思う。ただそれだけであったが。
 あの閉ざされた瞳の奥で、誰も見ることのないものを見ているような。決して見えるはずのない他人の世界を、その瞳だけは、映すことができるのではないか――そんな錯覚にとらわれる、月のような姫だった。
 同じ想いを返すことができないであろう自分には、永遠に、手に入らない。
 ジャハールはひっそりと微笑した。
「おそらく、酒を飲む相手が必要になる。――だからおまえには、待っていてもらわないと困るんだ」
END.
HOME