『魔法のランプ』

 カルーア川の水は冷たい。
まだ花も眠るこの季節に、ハンスは膝までを水に浸して川底を探っていた。
辺りはぼんやりと薄暗くなってきている。
早く帰らなければ母が心配すると思い、このまま帰ればなおさら心配をかけてしまうとも思う。
 ハンスは靴磨きの少年である。
街と街とをつなぐ大きな橋の真ん中で、朝から晩まで人々の靴を磨く。そこは彼が父親から受け継いだ大切な場所なのだが、取るに足らない子どもが恵まれた場所で働くのを妬む人間は多かった。
「おまえは下で仕事しろ。ずっと自分の靴でも磨いてな」
そんな言葉と共に、ハンスの靴は川に投げ込まれた。
川は浅く緩やかだ。
ハンスはわずかな希望にすがって懸命に靴を探すのだった。
 多くの石や木や長靴なんかを拾い出し、やはり下流に流されてしまったのだと、もう家に帰らなければ、と、思ったとき、指が何か硬いものを探り当てた。
どうせまた違うのだろうと思いつつ、ダメでもともと。引き上げてみる。
 出てきたのは古ぼけたランプだった。
目的のもの以外にもせめてコインや金貨など、金目のものが引っかからないかとは思っていたが、最後の最後で顔を出してくれたのだろうか。
ハンスは目利きではないが、表面にこびりついている泥を丁寧に擦り落としてみた。
 すると、中から山のような巨人がもくもくと立ちのぼったのだ。
ハンスは思わずランプを取り落とした。
「落とすなっ!」
頭の中に声が突き刺さり、反射的にキャッチする。
ハンスは首が痛くなるまで顎を引き上げた。
 巨人は馬鹿にでかいくせに美男子で、自分の美しさを知っているのだろう。華奢な装飾のまとわりついた長髪を、見せつけるようにして払いのける。人を見下して鼻で笑うような顔をしていた。
ハンスはあ然としつつ直感した。
こいつは嫌な奴だ。
 「私はランプの精だ。幸運にも偶然の力を味方につけて私を手にした……主よ、願いを三つ叶えよう」
再び頭の中で声がする。
ハンスはからからの口をかろうじて動かした。
「……えーっと、これって夢? それとも幻? オレ、頭おかしくなっちゃった?」
ランプの精は髪を払いながらため息をつく。
「……なるほど。まずはこの現実を夢にしてから幻に変え、その頭をおかしくすればよいのだな。たやすいことだ」
「うわっ、ストップ! ちょっと待てよ! わかった、これは現実。オレは願いを三つ叶えてもらえるんだなっ? そうなんだなっ?」
「ようやくわかったようだな。まったく、ものわかりの悪い子どもだ」
至極残念そうに舌打ちする口は、最初からまったく動いていない。
ハンスは憮然としていた。
やはりこいつは嫌な奴だ。
自分だけが声を出さねばならないことさえ腹が立ち、ハンスはランプをべちべち叩いてから指を突きつけた。
「で、なーんであんたがそんなことしてくれるんだよ、何か裏があるんじゃないだろうなっ?」
ランプの精は深い深いため息をついた。
「ものわかりが悪いうえ心までひねくれているとは、まったく、救いようがない」
「るっせぇっ!」
ハンスの激怒を顔にかかる髪と同時に払いのける。
「私はランプに封じ込められている。多くの人間の願いを叶えなければ封印が解けないのだ。残り九千八百……忘れた」
「そ、そうなんだ……」
ハンスはほんの少しだけ悪いことを聞いたと思い、それ以外のたくさんで良いことを聞いたと思った。
つまり、こいつがどんなに腹の立つことを口にしようと、分はこちらにあるわけだ。
 「じゃ、早速一つ目の願いを叶えてもらおうかな。『世界征服』! やっぱこれでしょ!」
ランプの精は眉間にしわを寄せた。
「いつの時代も……くだらん人間どもの考えることは同じなのか。……まったく、一つの願いを幾度となく叶えねばならないこちらの気持ちも考えてほしいものだ」
カチンときたが、しょせんは負け犬の遠吠え。ハンスは笑って許してやることにした。
「さっさと叶えろよ」
口の端はひくひくと引きつっていたけれど。
 ランプの精は鬱陶しそうに髪をかき上げ、三回指を弾いた。
途端、辺りの色が変わる、形が変わる、すべてが変わる、世界が渦巻く。やがて渦の向きは右から左へと変わり、元に戻ったかと思ったとき、
 ハンスは玉座にいた。
「王よ、ライアー地方に内乱が起こりそうな気配があります」
厳めしい顔の老人が跪いて告げる。
「王よ、トクリ地方の税が未だ納められておらず、このままでは兵を差し向けねばならないかもしれませぬ」
年若い将軍が感情を押し殺した声で言う。
「王よ、……」
次が述べられる前に、ハンスは腕を横に凪いだ。
「内乱は防げ。手段は任せる。防げぬ場合はトクリもろとも押さえつけよ。その他は午後に聞く。……散れっ!」
その一言に、臣下はことごとくいなくなる。
 命を賭して忠言をくれる者などいない。
かつてはいたが、特別に目をかけたがために謀殺された。
気の重くなる報告を聞きたくないと思っても、すべてを他人に任せてしまえば知らないうちに世界が変わってしまいそうで怖い。
 だがハンスは知っている。
王宮に届けられる報告など雀の涙よりも微々たるもの。目に映る世界を一皮めくればありとあらゆるところで虫がうごめく。
一匹の虫を潰すのに躊躇していたのはいつまでだっただろう。
今ではたったの一言で、何千何万と虫を潰す。
「人間の頂点に立つこのオレが、誰よりも人の道を外している……」
 ハンスは自分の右手を見つめた。
かつて他人の靴を磨いていたこの手に、今は多くの富と名誉が乗っている。指と指との隙間から、絶え間なく血と心を垂れ流して。

 嫌だ。
こんなのは嫌だ。

「戻せ! ランプの精っ!」

 世界は右に巻き、左に巻き、ぐるりと回ってハンスの足を冷たくした。
 「と、今のは幻だったわけだが」
ランプの精が沈む夕日に透けながら両手を開いて見せる。
「くだらぬ人間にふさわしい願いではないと、ようくわかったろう。三つしかないのだ、よく考えるがいい」
ハンスはにじむ涙を精一杯こらえた。
言いたいことはたくさんあったが、自分が悪いこともわかっていた。
 「じゃあ……、じゃあ……」
 ハンスは今度こそよく考えた。
「幸せに、なりたい」
父を蘇らせてほしいとは言わない。それはさだめに反することだ。
けれど、すっかり落ち込んでしまった母が、もしも病気か何かになって後を追ってしまったら。自分を引き取ってくれるような人は誰もいない。たった一人で何もかもを乗り越えなければならない。どんなに重い悲しみも。
無理だ、とハンスは思った。
神様に愛された人間になりたかった。
「……ほう。『幸せ』の定義は様々だが、私には読心の術はない。世間一般に通じるであろう『幸せ』を用いるが、かまわぬな?」
ハンスはこくりとうなずいた。
ランプの精はにやりとほくそ笑んだ。
 世界が渦を巻く。
 次にハンスが座っていたのは橋の手すりの上だった。
 客の多く集まる大切な場所であるのに、何もせずにただぼーっとしているハンスを責めようとする者はいない。
ハンスはその理由を知っている。
みんなが自分を愛しているからだ。
何故自分を愛しているのか、それもわかっている。
あの日、ランプの精が願いを叶えてくれたから。
 ハンスは世に聞こえた芸術家である。
ある日ハンスの隣で商売をしていた男が似顔絵を描き始め、それをまねて描いてみた絵が高名な芸術家の目にとまり、その後もハンスの落書きは次々と認められていった。著名人からの依頼も適当にこなし、今では働かずとも食べていける自由気ままな暮らしをしている。
何故成功したのか。
あの日、ランプの精が願いを叶えてくれたから。
 ハンスは毎日数え切れないほどのため息をついていた。
……このまま川に飛び込めば少しは楽しくなるだろうか。
そんなことさえ考える。馬鹿なことを、と思いつつ、実行してしまいそうな自分がおかしい。
頬杖をついて息を吐き、行き交う人々に儚い希望を求める。
 ふと、ハンスの思考が停止した。
 美しい。
ただその一つでしか形容できない女性が橋を渡ろうとしている。
拳が顔の温度を伝える。頭には何も浮かばないのに、心臓がうるさいほどさんざめく。
 ハンスは恋に落ちた。
女性がこちらを見たとき、心臓が飛び出るかと思った。
が、真っ赤に染まった顔は、あっという間に白くなる。
ハンスを映した瞳はすでにハンスを恋い慕っていた。
理由はわかっている。
あの日、ランプの精が願いを叶えてくれたから。
 ハンスは自分の右手を見つめた。
かつてこの手は毎日いくつもの靴を磨いていた。
つらいこともあった。苦しいこともあった。嫌なことばかり思い出す。
しかし、ピカピカになった靴を見た客が、「ありがとう」と笑ってくれる喜び。あの嬉しさは、自分がこの手でもぎ取った幸せだった。だからこそ何より嬉しかったはずだ。
あの頃の人生には感動があった。今はすべてが鈍く滞っている。

 頼む。
お願いだ。

「戻せ! ランプの精っ!」

 世界は右に巻き、左に巻き、ぐるりと回ってハンスの頬を熱くした。
 「と、今のも幻だったわけだが。幸せのなんたるかが少しはわかっただろう? 私はよく考えよと告げたはず。子どもの考えなど、どれだけ深くしてもこの程度の浅さなのかもしれんがな」
ランプの精は優雅なしぐさで髪をかき上げた。
ハンスは悔しくて、恥ずかしくて、ランプの精をにらみつけることしかできなかった。
「……じゃあ、母さんに、幸せになってほしい……」
やっとひねり出した願いごとも、
「貴様の母は自分がされて嫌なことを他人にするなと教えはしなかったのか。……他人に定められた人生を歩むのがどれほどの屈辱かわからぬか」
あっさりと否定される。
ハンスの堪忍袋もいいかげん限界が近かった。
 「……あんた実は幻見せるしか能がないんだろ! 本当は願いなんか叶えられないんだろ! だから、だからこんな……」
「まったく、考えが浅い割に疑いは深いとは、どうしようもない。私に不可能はないのだよ。心そのものを読むことはできずとも、思考を発話させることはできる。発話の意味を正確に知ろうと思えば細かな問いが必要となる。面倒なのでやらぬだけだ。貴様が述べた第一の願いも、第二の願いも、実現は可能だ。ただしすべてを元に戻すのは少々面倒だ。貴様のためにもなろうと、まずは幻を見せてやった、というわけだが……?」
ハンスは歯がみした。
ランプの精がことあるごとに弄っている髪の毛を丸坊主にしてやりたい。
何よりも悔しいのは、間違ったことは言われていない、ということだ。
腹が立って腹が立って、開き直った。
 「考えが浅くて悪かったなっ! わかったよっ、浅はかな私利私欲に使っちゃいけないんだろっ? じゃあ『世界平和』! これならいいだろ。心おきなく叶えろよ!」
ランプの精はあきれたため息を思う存分吐き散らしながら首を振る。
「無理だな」
ハンスは耳を疑った。
たった今「不可能はない」とのたまったのはどこのどいつか。
ランプの精は何食わぬ顔で髪を払った。
「この街にもこれだけ多くの人間がいるのだ。世界にはおびただしい数の人間がいる。貴様はヒトから誇りや信念、良心や怒り、……愛とかいったものを、奪おうというのか」
「そんなこと言ってないだろ! 悪いことだけなくしてくれたらいいじゃないか!」
「……善と悪とは相対的なものだ。どれを欠いてもヒトはヒトでなくなる。浅はかな願いの最たるものだ」
「だったらどうしろって言うんだよっ!」
 ハンスはとうとうランプを叩きつけた。
小さく水が跳ねて、あっという間に沈んでいく。
「拾え」
「るっせぇ!」
ハンスは水面に映る自分をにらみつけ、ランプの精が映っていないことに気づいて顔を上げた。
嫌味を際立たせるばかりの美貌はかげろうのように揺らめいている。
「私の姿は……主にしか見えない。あまり大きな声は出さぬ方がよいと思うが」
橋の上の人々は誰一人立ち止まらず、普通に川を渡っていた。
もはや名残しか残していない夕日と共に目の前の存在もかき消えてしまう気がして、ハンスはそっとランプを持ち上げた。
ごめん、と、やっぱり言わなかった。
 「……じゃあ、オレのこと強くしてよ。何も悪いことしてないのに、弱いから、……靴、捨てられたんだ。……二度と馬鹿にされないように、負けないように、強くなりたい」
ランプの精はまたもや髪をかき上げた。
「やれやれ、学習能力もない。貴様が馬鹿にされたくない人間に、私が与えた力で勝利を収めて嬉しいのかね。なんとも情けない奴だ」
ハンスはぐっと言葉につまる。
何を言ってもこの展開。どうあがいても嫌味なしぐさ。願っても願ってもお断り、だ。
 「あんた、ひたすらケチばっかつけてるけど、どんな願いだったら納得するんだよ! ふかーい考えってやつを是非とも教えてもらいたいもんだなっ!」
やけっぱちになって投げつけた言葉に、ランプの精は満足げな微笑を浮かべた。

 「私を自由にしろ。封印を解け。さっさとここから解放しろ」

「はぁ?」
とられた呆気が思わず声になってしまう。
ハンスは心底からあきれはてた。
「指定数の願いをこなす以外にも一つ手段がある。……主が解放を願うことだ」
さんざん文句をつけておいて、結局はそれが目的だったというわけだ。
ハンスは深い深いため息をつき、言った。

「あんたが自由になりますように。……一つで三つ分の願いごとだ。ちゃんと叶えろよ?」

 ランプの精は初めて人を見下し鼻で笑うような顔を、これ以上ない純粋な驚きに染めた。
巨大な体がみるみる縮む。
ぼやけた存在は確かな質感を持ち。
ハンスより頭二つ半くらい高い背の、美貌の青年を作り出した。
ランプが風に溶けていく。
ハンスが両手を腿ではたいても、ランプの精は信じられないという顔をしている。
「おい、しっかりしろよ。魂抜けたのか?」
「……言え。何故だ」
ゆっくりと動いた唇に、ハンスは満面の笑みで答えてやった。

「こんだけ嫌な思いさせられたんだから、ちったぁ良い気持ちにさせてもらわないとね」

 靴を川に捨てられて、見つからなくて。ずぶぬれの気持ちで帰って心配をかけるより、「今日は良いことをした」と言いながら家に着いて、母に話して聞かせたい。
今日はたくさん嫌なことがあったけど、最後の最後には良いことがあった。
今、ランプの精を見て笑うことのできるこの心が、考えに考えたたった一つの願いなのだ。
 「ここまでの馬鹿は見たことがない」
ランプの精の嫌味は変わらない。それでもハンスは腹が立たなかった。
 ランプの精は髪を払いのけながら、一つため息をついた。
「さて、困った。まさかこのような馬鹿に巡り会えるとは思わなかったから、社会復帰の手段を何も考えていない。……そこで、だ。やはり、恩は返すべきもの。しばらくは貴様の家に厄介になるとしよう」
「な、何言ってんだよ。それ、『恩を仇で返す』っていうんだぞっ」
慌てるハンスに、悠然と笑う。
「言うではないか。だが、つくづく馬鹿な奴だ。封印が解けたとはいえ、私は優秀な術使いだぞ」
 ランプの精は指を軽く三回鳴らした。
川底から靴が飛び上がる。
それは紛れもなく、捨てられたハンスの靴、だった。
 「うわっ、ありがとう! そっか。そうだよ、これを願えばよかったんだ!」
ハンスは腕に靴を抱きしめて、もう一つのことにも気がついた。
「うわあぁっ! ど、どうしよう。馬鹿だオレ。ランプの精、母さんを元気にしてやってくれよ! 父さんが死んじゃってからすっかり落ち込んでるんだ! 幸せじゃなくて、元気。それでもダメなのかっ? やっぱり願いごとで叶えても意味ないのかっ?」
「当然だ。願いで叶えるようなことでも、願いをかけるほどのことでもない。私の姿を見れば貴様の母も元気を取り戻すだろう」
「何の根拠があってそう言うんだよ!」
「私が美しいからだ」
「関係ないだろ! そんなことっ!」
ハンスは必死にわめきながら、やっぱり今日は悪い日だ、と、げっそりした。
 遙かな昔、平民から一国の王にまで上りつめ、その重責を少しでも軽くするために魔術を学んだ青年がいた。
強大な力を思うがままにした彼は、すべてを満たされすべてに飽きて、悪戯ばかりを繰り返すようになり、とうとう封印されてしまう。
束縛され続けた気の遠くなるほど長い時間、彼はずっと考えていた。
もしも再び自らの足で大地に立ち、自由のもとに命を燃やすことのできる日が来たなら。
決して同じことは繰り返さない。
小さな幸せを大切に、日々の喜びを見逃さず、今あるすべてを慈しみ、熱心に、生きるのだと。
 「あー、もうっ! 言っとくけど、うち貧乏なんだからなっ! あんたちゃんと働いて食いぶち稼げよっ? 贅沢者は叩き出すからな! あと母さんの心臓に負担かけたらただじゃおかねぇっ!」
ハンスが拳を握りしめる。
ランプの精は顔にかかる髪を払いのけながら、楽しそうに、笑った。
END.
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