『ピノキオ』

 トールは自分の腕を引きちぎった。
そうすれば少しでも痛みを感じるかと思ったのだ。
しかしちぎれたところは何本もの細いこよりが風に揺れているだけで、痛みはおろか、血も流れなければ骨も見えなかった。
トールはちぎれた腕をもう片方の手で握りしめたまま動かなかった。
しばらく考えて、今度は足をちぎろうと思ったけれどやめた。
どこをちぎっても、どれだけちぎっても、痛みなんかきっとみじんも感じやしない。
だけど―――
トールは胸に手を当てた。
だけどここならどうだろうか。
トールは少しずつ手に力を込めていった。
作り物の心を入れられた胸。
この体を動かす精密なからくり。
それを壊せば、少しは痛みを感じるだろうか。
体がきしむ音が小さく、けれどもハッキリと耳に響く。
この音が聞こえなくなる寸前、自分は何を感じるだろう。

「トール!いいかげんにしろっ!」

あと少しだというところで、聞き慣れた声が邪魔をした。
この声に命令されるとトールはそれを聞かずにはいられなかった。
トールの意思とは関係なく、胸のからくりが勝手に動くのだ。
「どうしておまえはそんなに自分を壊したがるんだ。」
声の主キールはこうやっていつも同じことを聞く。
そして、トールの答もいつも決まっている。
「……まただんまりか。せっかくしゃべれるようにしてやったのにおまえは自分からは一言も話そうとしないな。」
もう何度も聞かされたキールの言葉を、トールは遠いところで聞いていた。
天窓から見える空は青い。
青い空を見るのは嫌いではない。
だけどそれだけだ。
どれだけ見つめていても、トールにとってはそれだけなのだ。
ふと気がつくと、キールがちぎれた腕を治していた。
さっきまで先端がいくつものこよりになって乱れていた縄が新品同様に整えられる。
キールはトールの腕をあっというまにもと通りにした。
そして言うのだ。
またいつもの言葉を。
「おまえはオレの最高傑作なんだぞ。もっと自分を大切にしろ。」
トールはもと通りになった腕をつかんだ。
そして、そのまま引きちぎった。
こんなことをしてもどうせまたもと通りになる。
そして今度は「腕をちぎるな」と命令される。
けれど時間がたち、からくりがその声を忘れるとまたちぎる。
何度も何度も繰り返されてきたことを、トールは今日も繰り返す。
キールが困り果てて頭を抱える様子を見ながら、トールはまた胸に手をやった。
作り物の心臓がきしむ。
作り物の心がきしむ。
キールはトールに「何故?」と聞くけれど、その理由はトールにもわからなかった。
どうしてこんなに自分を壊したがる?
確かに自分の意志でやっていることなのだけれど、理由を考えても答は出てこない。
しかし、一つだけ、
これだけは、トールにもわかった。

この心だけは、作り物じゃない。

トールは体の中で、何かが折れる音を聞いた。
それでも力を緩めようとはしなかった。
段々と意識が薄れていくのを感じ、一気に力を込めた。
そして、動かなくなった。

 翌日、トールはすっかりもと通りになっていた。
キールが中身のからくりを全部取りかえたのだ。
だがトールはもう自分を壊そうとはしなかった。
キールは眉間にしわを寄せつつ軽い口調で言った。
「一回自分を壊して気がすんだのか?もう馬鹿なことはするなよ?」
トールは答えた。
とぎれとぎれだったが、初めて命令されずに自分から声を出した。
「いた……く……なかっ………」
キールは目を丸くした。
まさか返事が返ってくるとは思わなかったのだ。
初めての反応が嬉しくて、キールは声を弾ませた。
「当たり前だろう。痛みは感じないようにしてるんだ。」
トールはキールの言葉にうなずいて、おもむろに腕をちぎった。
「い……たく……な…い」
そしてそのまま足をちぎった。
「い……たく……な…い」
そして、胸に手を当てた。
「ここ……こ…わ……し…て……も、い……たく……な…い」
「やめろっ!」
キールは耐えきれずにトールを止めた。
トールは小刻みに震えて、やがて動かなくなった。
「なんでだ!なんでそんなに自分を壊したがる!オレはそんな心は入れてないっ!おまえを作ったのは、そんなことをさせるためじゃないんだっ!!」
キールは片腕と両足を無くしたトールをしっかりと握りしめた。
キールの手の中で、体をきしませながらトールは言った。
「こ…ん…な………こ…ころ……はいっ……て…な………」
「そうだ!オレはそんな心は入れてない!なのにどうして……っ!」
キールが言葉を胸に詰まらせると、トールは何も言わなくなった。
時々小刻みに震えて、体をきしませる。
こんな心は入ってない。
その言葉がからくりに響き渡る。
とうに自覚していたこの事実を、キールの口から聞いたのはこれが初めてだった。
トールはからくりをきしませて考えた。
しゃべりたい言葉がある。
どこともわからないところからわきあがってはとけていくこの気持ちを、どうしても言葉にしたい。
あれほど感じたがった痛みよりも…きっと、きっと、近いはずだから。
そして、トールはそれを見つけた。

「……う…れ……し…い………」

キールは目を見開いた。
自分の耳が信じられなかった。
キールがトールに入れたのは自分から動こうとする心だけで、嬉しいとか悲しいとか、感情に関することはまったく入れていなかったのだ。
「馬鹿な!そんな人間みたいなこと言うはずが……」
キールは手の中のトールに目をやった。
「教えてくれ!おまえは何を考えてるんだ。どこでそんな心を手に入れた?」
トールは答えなかった。
「何か、頼む、何かしゃべってくれ!トールっ!」

「……………」

トールは聞こえるか聞こえないかの声で言った。
しかし、キールにはその言葉がハッキリと聞こえた。

「……に…ん…げ…ん…なり…た………かっ……」

それっきり、トールは一言もしゃべらなかった。
キールもずいぶん長い間ピクリとも動かず、ずっとトールを見つめていた。
天窓から鳥が入りしばらく天井を飛び回っていたが、キールは動こうとする素振りも見せなかった。
やがて鳥が出ていったとき、キールはトールの胸に手をかけた。
からくりが折れる音は鳥の羽音にかき消され、キールの指にしか聞こえなかった。
キールはトールの頭を右手でそっと支え、いたわるようにその顔を見た。
トールは涙を流していた。
それはキールの涙がトールの顔に落ちたのにすぎなかったが、キールにはそう見えた。

「トール、オレはもうおまえを直さない。他のものも作らない。今まで……悪かったな。」

キールはそう言って、トールから取り出した1本のネジを空に向かって投げた。
ネジは一瞬まぶしくきらめいて、あっという間に空に溶けていった。
END.
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