『望まない人』

まくりあげた制服の袖がしだいに落ちてくるのを鬱陶しく感じながら、あきらはまな板を鳴らし続けた。
絶え間ない音が千切りのキャベツを作り出していく様は余計な思考力を奪ってくれる。
しかしキャベツはあきらの目を覚まさせるかのようにいつもあっという間になくなってしまう。
小さなため息をつく暇もない、ほんの僅かな間をもって次の作業に移ろうとした。

「ごはん…」

腰より下の位置から声が聞こえた。
台所の床に座りこまないようにと何度言っても聞かないのだ。
「怜奈さん、もうすぐ出来ますから。向こうで座ってて下さい。」
「や……。ごはん。」
包丁をまな板の上に横たえて手を洗う。
言葉だけでは言うことを聞かないのは重々承知。
あきらは怜奈の脇の下に手を入れて立ち上がらせようとした。
だが怜奈はだらりと力を抜いて、自分の足で立つ気はまったくなさそうだ。
こんなことはよくあることだったので、あきらはそのままひきずるようにして怜奈を台所から引き離した。
床に座らせないために床をひきずっていくのだから、まったくもって本末転倒であることはわかっている。
しかし自分よりも一回りちょっと年の離れた大人の女性にそれ以上触れることはあきらにはできなかった。
「本当にすぐですから。台所にいるよりリビングにいる方がすぐ食べられますよ。」
怜奈の体をクッションにもたれかからせると、怜奈は拗ねたように丸くなった。
「待つの…嫌い…。」
とりあえずは大人しくなったので、あきらはさっさとしあげようと台所に戻っていく。
女性の扱いも、子供の相手も、両方苦手だった。

ちょうど夕食が出来上がった頃に怜奈の母親が帰ってきた。
真っ白な髪をきっちりとまとめ、背筋をしゃんとのばしているその姿は、もはやおばあちゃんと呼ばれる年齢でありながらそんじょそこらの女性よりも若く見える。
静奈はカーペットの上で丸くなっている娘を見ると、目元のしわを柔らかくし、側に寄ってその頭をなでた。
「ただいま、怜奈。良い子にしてた?」
「………。」
「怜奈、おかえりなさい、は?」
「………。」
「起きているんでしょう?怜奈、『おかえりなさい』。可愛い女の子はお母さんの言うこともちゃんと聞くものよ。」
ことり、と、わざと音を立ててテーブルの上に皿を置く。
「すいません、静奈さん。さっき僕が怜奈さんを拗ねさせてしまったんです。」
静奈は途端に険しい表情をしてあきらを見た。
だが、今にも始まろうとしていた糾弾はその場ではあっさりと遮られた。
「ごはん…食べる。お腹鳴るの。」
「……そうね。いただきましょうか。冷めてしまうものね。」

洗い場で夕食の後片づけをしながら、続きがやってきたことを知る。
あきらは泡だらけの手をさっと流し、タオルで拭きながら振り返った。
そこには予想通り眉間に深いしわを刻んだ老婦人が立っていた。
「今日は怜奈に何をしたのです?毎日毎日、いいかげんにしてくださらないかしら。」
「すいません。僕は元々女の人との接し方を知らないものですから。何気なく言ったことが怜奈さんを怒らせてしまうようです。」
あきらは頭を下げたが、そんなことでは静奈の気はおさまらない。
「聞き飽きました。私は怜奈の心の平穏を守ることを条件にあなたが側にいることを許したはずですよ。」
「わかっています。お忙しい静奈さんに代わって怜奈さんの力になりたいと思っています。」
静奈にすれば、頭は下げるがちっとも表情の変化が見られないあきらが本当に反省しているのか甚だ疑問である。
なにせ、毎日毎日これなのだ。
怜奈はいつも拗ねていて、あきらはいつもお決まりの謝罪だ。
「怜奈を傷つけたあの男の血が…」
もっときつく言っておかねばと、口を開いたところに時計が鳴った。
社長夫人であり、夫が亡くなってからは社長その人である静奈のスケジュールには、愛娘との夕食以外一分一秒の余裕もない。
静奈はあきらを剃刀よりも切れそうな眼差しで一瞥したあとすぐに玄関へ歩いた。

あきらは流しの方をちらりと見た。
皿やコップは洗い終えたが、鍋がまだ残っている。
しかしスポンジを握る暇はおそらくない。
静奈が出て行ったということは、それを見計らって小方がやってくるということだ。
案の定、すぐにチャイムが鳴った。

「…はい。」
誰かわかりきっていてもインターホンごしに交わす会話に、どうにかしてそれをかわそうとする声が答える。
「あきらくん、うちのお袋がぶどうを送ってきてね。お裾分けしようと思って持ってきたんだ。出てきてくれないかな?」
あきらは仕方なしに玄関の扉を開けた。
「小方さん、ご厚意ありがとうございます。ではまた。」
二秒で閉じられようとする扉を足で押さえて、小方はひきつった笑みを浮かべる。
「あ〜〜き〜〜ら〜〜く〜〜ん、そ、それはちょっとつれないんじゃないかなぁ〜?怜奈さんと一緒にぶどう食べさせてくれたって…。」
「ぶどうは明日怜奈さんと静奈さんにお出しします。ではまた。」
あきらは必死に侵入しようとする足に容赦のない蹴りを入れた。
小方は扉の向こうの無表情な顔になんとも情けない顔で懇願するが、いつも通り無視され、鍵と、そしてチェーンをかける音が小さく、はっきりと響いた。
今度こそと練ってきた作戦はあっけなく失敗。
やがて悲しみが声帯に届く頃にはあきらはすでに鍋と向かい合っていた。
「あきらくんのいけず〜〜〜。怜奈さぁ〜〜〜ん。」

一通りの仕事を終えて、あきらはようやく制服の袖を下ろした。
リビングを見れば、怜奈がごろごろとカーペットの上を転がっていた。
長くてふわふわとした髪がもつれるのもまったく気にとめていないようだ。
しゃんと立って格好を整えれば静奈のような迫力ある美人になるだろうに、ワンピースをしわだらけにして毛玉のように丸くなっている。
小方などはそのアンバランスさにひかれているようだが、あきらとしてはそんな理由は認めるわけにはいかなかった。
「怜奈さん、お散歩に行きましょう。」
「…や。お外、嫌い。」
柔らかい髪の毛が左右に揺れる。
「大丈夫です。そんなに人はいません。」
あきらは怜奈の肩を支えてそっと体を起こさせた。
「行きましょう。怜奈さん。」


外はすでに街灯と月明かりの世界。
誰も二人をはっきりとは映さない。限られた光と闇しか見えない夜。
頬をなでる風がひんやりと冷たかった。
繋いだ手だけがただ一つのぬくもりのように、決して離さない。
あきらは長い髪が流れていくのをずっと見ていた。
怜奈は三日月を見ていた。
交わす視線も言葉もない。
それでもあきらにとっては今が一番大切な時間だった。

繋ぐ手に少し力が込められた。
僅かな力であっても、確実に、向こうからのもの。

あきらはまるでカーテンのような髪の毛を払いのけてしまいたかった。
怜奈は空から目を離しはしなかった。


玄関の前で鍵を取り出す。
ほどかれた手は簡単で、あっけなかった。
夜の冷気に負けてぬくもりも消えてしまった。

あきらは怜奈に手際よく寝る支度をさせてベッドに横たわらせると、ゆっくりとお辞儀をした。
「お休みなさい。怜奈さん。」

一日の終わりに明かりが消える。
何もかも見えなくなって、あきらはようやく力をぬいた。


父親が亡くなって数ヶ月。
父の棺の先には少ないけれどいくつかの道があった。
生前の父はほとんど家に寄りつかないくせに要求だけは多い人だったが、今となってはそれが幸いしたといえる。
特に家事だ。
中学生男子には珍しく一通りの家事を人並み以上にこなせることがこの道を選ぶのを可能にしてくれた。
何も、後悔はない。
何も、不満はない。
それでも疲れてしまうのはどうしても期待を捨てきれないからだ。
一つ幸せを得るとそれ以上の幸せを手にしたくなる。

あきらはしばらく手のひらを見ていたが、やがて目を閉じた。
明日も早起きして朝食を作らなければならなかった。


「…何度も言うけれど、本当に進学する気はないの?」
「何度も言いますが、しません。」
放課後の教室で今日もまた同じ会話が繰り返された。
「先生、もう帰っていいですか?」
すでにカバンを小脇に抱えているあきらに恨めしげな視線が向けられる。
「宮田くんなら行きたいところに入れるのに……おばあさんはなんて?」
「孫と認められていませんから。」
あきらは振り向きもせずに教室を出て行った。
今まで学校にいる間に何かがあったことはないが、怜奈が心配だった。

息を整えながら鍵を開ける。
リビングには誰もいなかった。
隅から隅まで見ても怜奈の姿はない。
怜奈は知らない人間に自分の姿を見られるのを嫌う。外へ出るはずはない。
あきらはカバンを放り出して片っ端からドアを開けていった。
トイレも浴室も台所も、誰もいない。
怜奈の寝室、静奈の書斎、ベランダ、納戸…、最後の最後に残ったのはあきらに与えられた部屋だった。

「…怜奈さん?」
息を呑んで扉を開けると、むき出しの敵意で串刺しにされた気がした。
振り乱した髪の間から激情に染まった瞳が見える。
怜奈は一枚の写真を床にたたきつけ、引き裂き、まだ足りないというように握りつぶした。
何の写真なのかは見なくてもわかっていた。
あきらは後ろ手に扉を閉め、ただ立ちつくしていた。
心臓のうるささと裏腹に首から上の筋肉はピクリとも動かなかった。
怜奈が切れ端の散らばった床に爪を立てる。
やめさせようと近づいて、あきらは床に座りこんだ。

「親父のことは……覚えてるの?」

静奈と交わした約束がぐるぐると頭を回るが、体がいうことをきかない。
ダメだと思うのに止まらない言葉に、どこかで安堵していた。
「か……」

「…忘れられるとでも、思っているの?」

床に立てられていた爪があきらの肩に食い込んだ。
目を見開いたあきらのすぐ前に怜奈の顔がある。
「忘れないわ…忘れないわよ…っ……私をズタズタにしておいて…そのまま逃げるなんて…っ」
あきらは無表情で痛みに耐えた。
「……この私を……っ…あんな、あんな男…家政婦か自分の母親とでも結婚すればよかったのよ!」
今の怜奈を受け止められるのは自分だけだと思った。
他の誰が頼んでもその役目を渡す気はなかった。
悔しいことに、満足な慰め方を知らなかったけれど。

「…何か言ったらどうなの?」
その瞳は怒りと憎しみで染まったままだったが、怜奈は初めてすでに死んだ人間ではなく目の前の人間を映した。
ずっと、自分を見てもらいたいと思ってきたのに。
あきらは逃げるように視線を床に下ろした。
散り散りになってしまった写真をかき集め、ゴミ箱に捨てる。
「この人はもういない。……もう何も届かないよ…。怜奈さんは自由になった方がいい。幸せに…なったら?」
仕事だと言って女のところに行ったまま何日も帰ってこない父親だった。
そのくせ生活や勉強のことにあれこれと口を出し、言われたことができないとひどく殴った。
険しい顔と怒声しか思い出せないような父親だった。
それでもあきらは父が嫌いではなかった。
だが父はもういない。
怜奈が幸せになれるなら、こんなことは容易いことだった。
「くくっ…あはは……そうね、もういないのね、もう……。ふ、ふ……。でもこれではっきりしたわ…。」
怜奈はゴミ箱と向かい合っているあきらの肩に、今度は指の腹を置いた。

「あきら。」

それは自分の名前。
物心ついたときから一体どちらにどうやって名付けられたのだろうと何度も考えた名前だ。

振り返ることが、できなかった。

「かいがいしく世話をするはずだわ。あきらだったのね。」
今怜奈はどんな顔をしているのだろう。
どんな目で自分を見ている?
確かにあるはずの喜びは恐怖にかき消されていた。
「それで…?何が目的なの?中3よね。お金ならたくさん腐ってるからあの女から好きなだけふんだくっていいわよ。それとも………」
軽く触れられているだけの肩がひどく重かった。
たまってもいない唾を飲み込むので精一杯で、何も言うことができなかった。

「……母親が、欲しいの?」

全身の血が即座に答を返す。
力一杯、懸命に、何かをこらえた。

「…何も。」

喉の奥で空気がつぶれた。
「僕は怜奈さんに…何も望んでいません。自己満足ですよ。家族を演じてみたかっただけです。あなたはどうぞ、好きなことを、好きなように。」
ゆっくりと紡いだ言葉は平常の血の流れを取り戻させてくれた。
あきらは怜奈に向き直り、そのはずみで怜奈の手が肩から下りた。
怜奈は驚いたような顔をしていた。
「すいません。買い出しを忘れていました。今から行ってきます。静奈さんのお越しに間に合わないかもしれないのでそのときはぶどうを食べていて下さい。」
あきらは努めてゆっくりと玄関に歩いていった。


静奈がその扉を開けたとき、中は真っ暗で冷蔵庫の音しか聞こえてこなかった。
「…怜奈?どうしたのっ?」
とにかく電気をつけてみると、そこには包丁を握りしめた怜奈が幽霊のように立っていた。
「怜奈!何をしてるの!」
「うるさいのよっ!あきらを…あきらを殺してやるわ…邪魔をしないでっ!」
刃のような双眸がしっかりと向けられる。
「怜奈…?あなた、正気に戻ったの………?」
「ふふ、残念だったわね。」
怜奈は口の端をつり上げて笑った。
「何を…」
静奈は娘のただごとではない様子に、とにかく包丁を離させなければと慎重に距離をつめようとした。
「……寄らないで。あんたを殺してやってもいいのよ。」
包丁が無造作に空間に切れ目を入れる。
それで静奈の心臓を突き破ったとしても、自然の成り行きだったとでもいうように。
「悪ふざけはやめなさい。」
そう言いながら、これは冗談でもましてや悪い夢なんてものでもないのだとはっきりわかっていた。
「あんたなんか大嫌いよ。教えてあげる。私がなんであんな男と結婚したか…。さっさとあんたから離れたかったのよ!あんたの身代わりをさせられるのはもうたくさんだった!私はあんたじゃないのよ!」
「な、何を言っているの。」
包丁が弧を描いたあとに、数本の白髪が落ちる。
「とぼけないで。私はあんたの若い頃にうり二つなのよねぇ?無理やり結婚させられたからって、私に自分の代わりをさせて…あんたが可愛がっていたのは昔の自分!知ってるのよ私!人がちょっと狂ったふりをしてやったら馬鹿みたいに喜んで!生憎ね、リカちゃんごっこはもうお終い!あんたなんか大嫌い!ずっとずっと大嫌いだったのよ!」
「そんな……怜奈…」
青ざめた静奈を、怜奈が勝ち誇ったように嘲笑する。
しかし笑みを刻んだはずの口はひきつるように歪み、出口を求め彷徨っていた嗚咽がようやくこぼれ落ちた。
「大嫌い……大嫌いよ………のに、なのに……ど…して……どうしてなの!どうしていつも…あんたしか…残らないの………。」
包丁が重さを感じさせない音をたてて落ちた。
怜奈は床にうずくまり、自分で自分の体を抱きしめた。
「……ねぇ、私…結婚する前までは愛されていたと思うわ…。そのへんに私より綺麗な女なんていなかったし…マシなのはみんな頭が空っぽだったもの。当然だと思ってた…。なのに…あの人は私を愛したわけじゃなかったの?どうして…責められなきゃいけなかったの…?あきらを生んでも…側にいてくれなかった……っ…離婚の時だって、こんなになったって……あの人は……っ」
静奈はそっと近づいて、怜奈の頭をなでた。
怜奈はびくりと震えたが、手を払いのけはしなかった。
「…みんな私自身を愛してくれない…。でも、あの子は……あきらは!」
のびた爪を自分の体に突き立てる。
あのとき、肩に食い込ませたまま抜かなければよかったと怜奈は思った。

「私なんかひとかけらもいらないって、そう言ったのよ!」


あきらは手に何も持たずに歩いていた。
買い出しに行くとは言ったものの、サイフはカバンごと忘れてしまった。
下ばかり見ていたが、次第にアスファルトの色が濃くなってくる。
泣いてしまいそうだった。
「…はは、ははは…はは。あはははははははっ!」
道行く人が奇妙な顔で自分を見る。
実際奇妙なのはこっちなのだが、ますます笑えてきた。
下を向いたまま地面に向かって笑い続けた。

「…おか…あ、さ…ん……」

言おうとしたはずはないのに、かすれた声で、一言。
途端、心臓が悲鳴をあげた気がした。

泣きたくはなかった。
泣いてしまったら、馬鹿みたいだ。
このまま満足な気分で笑って今日を終わらせたい。
それなのに根性のない涙腺は持主の願いを叶えてはくれなかった。
後から後から、頬を伝う液体が自分を駄目にしていく。
流れる理由も、必要もないのに流れ落ちる涙。
いっそこのまま消えてしまいたかった。

「あきらくん?どうした?こんな時間に。怜奈さんの夕飯は?」
あきらは耳慣れた声を聞くなり走り出した。
しかしすぐに捕まってしまう。
「……離せ。」
「…何があった?」
人の良さそうな顔に反吐が出た。
「あんたじゃダメだ……傷ついて、少女の殻に閉じこもった美人に惚れたんだろ?そんなんじゃ、余計あの人を傷つける。あんたなんか許さない!」
一瞬唖然とした小方の腕を振り払い、走り出す。
今度こそ捕まらないように、ちらりとも後ろを見なかった。

あきらは怜奈が外に出たがらないわけに気が付いていた。
容姿が整っていることが必ずしもいいことだとは限らない。
それはその人の一部ではあるけれど、決してその人自体ではない。
怜奈はきっと自分自身を見てもらいたかったのだ。
あきらも、自分自身を見てもらいたかった。
殴られても罵られても、大人しく父親の言うことを聞き続けた。父の期待に添えるよう自分から努力した。

愛されたかった。

できれば、何も取り柄のない出来の悪い息子でも、愛してほしかった。
もう永遠に叶わない。

あきらは涙を流し続ける自分の涙腺を叱咤した。
泣く必要など、まったくないのだ。
手に入れることはできなかったけれど、与えることはできたのだから。

「お母さん…僕は何も求めない…たった一つのこと以外は、何も望まないから。だから……」

どうか幸せになってください。

例えあなたが他人から非難されるような母親でも、
自分の息子をまったく愛していなかったとしても、
何を与えられた記憶がなくても、
これから何をされたとしても。

全身を流れるこの血のすべてが、最後の一滴まであなたを愛している。
END.
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